藤原定方 ふじわらのさだかた 貞観一五〜承平二(873-932) 通称:三条右大臣

藤原北家勧修寺流。内大臣(贈正一位太政大臣)高藤の二男。母は宮道弥益女、従三位引子。宇多天皇女御胤子と同腹。兼輔はいとこで娘婿。子の朝忠も著名な歌人。また娘の仁善子は醍醐天皇の女御となり三条御息所と称された(のち実頼の妻となる)。系図
少将・左衛門督などを経て、延喜九年(909)、参議。同十三年、中納言。延長二年(924)、五十二歳で右大臣にのぼる。最終官位は従二位。追贈従一位。京三条に邸宅を構えたので三条右大臣と称された。兼輔とともに醍醐朝の和歌サロンのパトロン的存在。家集『三条右大臣集』がある。古今集初出。勅撰入集十七首。百人一首に歌を採られている。

朱雀院の女郎花(をみなへし)(あはせ)に詠みてたてまつりける

秋ならで逢ふことかたきをみなへし天の川原におひぬものゆゑ(古今231)

【通釈】秋でなくては逢うことが難しい女郎花よ。織女と牽牛が一年に一度だけ逢う天の川の河原に生えるものでもないのに。

【語釈】◇をみなへし 野原や川原に生息し、初秋、黄色い花をつける。元来は美女を意味した「女(をみな)」の意が響く。◇おひぬものゆゑ 生えないものなのに。「ものゆゑ」は逆接の接続助詞。

【補記】昌泰元年(898)、宇多上皇が朱雀院で催した女郎花合に奉った歌。女郎花合とは、女郎花を持ち寄って、花と歌の優劣を競い合った遊戯。

【他出】新撰和歌、古今和歌六帖、三条右大臣集、定家八代抄、新時代不同歌合、桐火桶、六華集

【主な派生歌】

天の川おふともきかぬものゆゑに年にあふひとなど契りけん(藤原定家)

女につかはしける

名にしおはば逢坂(あふさか)山のさねかづら人にしられでくるよしもがな(後撰700)

【通釈】「逢ふ」「さ寝」を名に持つ「逢坂山のさねかづら」――その名にふさわしいのならば、蔓を手繰り寄せるように、どうにかして人知れずあなたの家に辿り着く手立てがあってほしいよ。

さねかづら 鎌倉海蔵寺にて
さねかづら(真葛)

【語釈】◇名にしおはば 「相坂山のさねかづら」という名を持っているからには。◇逢坂山 近江国の歌枕。東国との境をなす関所があった。「逢ふ」を響かせる。◇さねかづら 真葛、または実葛と書く。蔓性植物。秋に赤い実が生る。「さ寝」と掛詞になる。◇人にしられで 人に知られずに。「さねかづら」は根のありかが知りにくいゆえにこの句を起こすか。◇くる 「繰る」「来る」の掛詞。「繰る」は「さねかづら」の縁語。なお、ここで「来る」と言うのは、相手の女の側に心を置いて言っているのであり、自分が女の家へ「行く」ことを意味する。今でも「私が行くまで待っていて」と「私が来るまで待っていて」とは同じ意味になる。それと同じである。◇よしもがな 手立てがあってほしい。

【補記】後撰集巻十一恋三巻頭。女のもとへ「さねかづら」と一緒に贈った歌であろう。「譬へば、女のもとへさる所のさね葛を贈りたるなどやうの事ならでは、一首さらにことわりをなさず」(香川景樹『百首異見』)。縁語・掛詞を駆使した技巧的な歌であると同時に、「相坂山のさねかづら」を呪物として女に「逢ひ」「寝る」という効験を期待した呪(まじな)い歌でもある。

【他出】古今和歌六帖、三条右大臣集、定家八代抄、百人一首、新時代不同歌合

【参考歌】素性法師「素性集(歌仙家集系)」「万代集」
音にのみならしの岡のさねかづら人しれずこそ繰らまほしけれ

【主な派生歌】
さねかづら今は絶ゆとや逢坂のゆふつけ鳥のくり返し鳴く(藤原家隆)
いかにせむ相坂山のさねかづらはふ木あまたにうつりはてなば(〃)
わくらばにあふ坂山のさねかづらくるをたえずと誰か頼まん(九条道家[新勅撰])
たえぬるか相坂山のさねかづら知られぬ程を何嘆きけん(源兼康[新後撰])
くる人をいかがいとはむさねかづらたえずはすゑも逢坂の関(宇都宮景綱)
相坂の関路におふるさねかづらかれにし後はくる人もなし(宗良親王[続後拾遺])
身にしらぬ逢坂山のさねかづら関をばこえてくる人もなし(源頼言[新後拾遺])
さねかづらかけのたれをの長路しるあふ坂山の関の行末(正徹)
さねかづら末葉にむすぶ露かけてもとくる人のありとしられじ(常縁)
あふさかや夢にもさねんさねかづらくるよを人にせきなとどめそ(後柏原天皇)
霞たつあふ坂山のさねかづらまたくりかへし春は来にけり(木下長嘯子)

延喜の御時、賀茂臨時祭の日、御前にて盃とりて

かくてのみやむべきものか千早ぶる賀茂の社のよろづ世を見む(後撰1131)

【通釈】これだけで終わってしまってよいものでしょうか。今後も勅使の派遣をお続けになり、賀茂の社がいつまでも続くのを見たく存じます。

【補記】賀茂臨時祭は宇多天皇の寛平元年(889)に始まったが、その後勅使の派遣は途絶え、醍醐天皇の昌泰二年(899)十一月に復活した。

先帝おはしまさで、世の中思ひ嘆きてつかはしける

はかなくて世にふるよりは山科の宮の草木とならましものを(後撰1389)

【通釈】たよりなく、むなしい状態でこの世に永らえるよりは、山科の御陵の草木になってしまえばよかったものを。

【補記】「先帝」は醍醐天皇。延長八年(930)九月二十九日崩御。同年十月十日、山科御陵に葬られた。下の一首と共に藤原兼輔に贈った歌。兼輔の返歌は「山科の宮の草木と君ならば我は雫にぬるばかりなり」。

先帝おはしまさで、又の年の正月一日贈り侍りける

いたづらにけふやくれなむあたらしき春の始めは昔ながらに(後撰1396)

【通釈】なすこともなく虚しく今日という日は暮れてゆくのでしょうか。新しい年の春の始めは昔と変わらず巡って来たというのに。

【補記】諒闇のため朝廷の儀式もなく新年の一日が暮れてゆく。醍醐天皇崩御の翌年、延長九年正月、兼輔に贈った歌。


更新日:平成16年05月18日
最終更新日:平成21年09月25日