宗良親王 むねよししんのう(むねなが-) 応長元〜没年未詳(1311-1389以前?) 通称:妙法院宮・信濃宮

後醍醐天皇の皇子(第四・第五・第八皇子など諸説ある)。母は二条為世の娘為子。護良親王(尊雲法親王)・尊良親王の弟。後村上天皇の兄。
嘉暦元年(1326)、十六歳で妙法院門跡を嗣ぎ、同時に親王宣下を受けて尊澄法親王と称された。元徳二年(1330)、二十歳にして兄尊雲の跡を受け天台座主となる(叡山の兵力と結ぶための父帝の策かと言う)。元弘元年(1331)、後醍醐天皇と共に笠置に拠ったが、翌年捕えられて讃岐国に流された。鎌倉幕府滅亡後の同三年(1333)に帰洛し、天台座主に復す。延元元年(1336)六月、一品に叙せられる。足利尊氏らの蜂起によって父帝の新政が瓦解した後、還俗して宗良親王と改名。以後、遠江国井伊谷・越後国寺泊・信濃国大河原などを転々とし、南朝勢力挽回のため奮闘する。この間、延元三年春頃、敗戦により一度は吉野へ落ちのびた。興国五年(1344)までに信州大河原城に落ち着き、以後はここを主たる拠点としたらしい。正平五年(1350)頃から、いわゆる観応の擾乱を機に反撃に出、同十年(1355)には越後から信州諏訪へ移ったが、同年八月、甲斐国桔梗原の決戦で北朝方小笠原氏らの軍に敗れ、南朝方には大きな痛手となった。文中三年(1374)の冬、信濃から吉野行宮に帰り、天授三年(1377)、大和長谷寺で再度落飾。同年冬、再び信濃に下り、同六年頃西上して河内国山田に住む。最晩年の事蹟は不詳であるが、元中二年(1385)遠江井伊城で薨去とも伝え(信濃宮伝・南朝紹運録など)、また信濃大河原で薨去とも言う(醍醐寺「三宝院文書」)。静岡県引佐町の井伊谷宮境内に陵墓があり、同宮に祭神として祀られている。
幼時から母の実家である二条家に出入りして和歌に親しむ。特に従兄の為定との親交は長く続き、正平十五年(1360)為定が亡くなった時には哀傷歌五十首を詠んで為定の子為遠のもとに贈った。北畠親房も生涯を通じての歌友である。漂泊・転戦の生涯にあって歌道に怠ることなく、家集『李花集』に収められる数多くの作を残した。吉野帰山後は南朝歌壇の指導者として活躍、天授元年(1375)の「南朝五百番歌合」の判者を務め、同二年、「南朝内裏千首歌」に評点を加えた。翌年、自らも「宗良親王千首」を詠む。この間、北朝では新千載集(二条為定撰)・新拾遺集(二条為明・頓阿撰)と勅撰集編纂が続いたが、宗良親王を含め南朝関係者の歌は採られなかった。このため天授六年(1380)、南朝方の歌人の作を集成して『新葉和歌集』を撰し、翌年弘和元年長慶天皇より准勅撰の綸旨を賜って、同年十二月三日奏覧した。同集に自作を九十九首採り、他にも少なからぬ作を読人不知として撰入している。勅撰集には、読人不知として新続古今集に三首入集。自撰家集『李花集』は文中三年(1374)以後まもなくの成立か。

井伊谷宮(いいのやぐう)
静岡県引佐郡引佐町 宗良親王を祀る。

「新葉和歌集」岩波文庫、新編国歌大観1
「李花集」群書類従231、岩波文庫、私家集大成5、新編国歌大観7
「宗良親王千首」群書類従162、新編国歌大観10
『吉野朝の悲歌』川田順(第一書房/養徳社)
『吉野朝柱石 宗良親王』川田順(第一書房)
『宗良親王全集』黒河内谷右衛門編(甲陽書房)
『物語 新葉集』山口正(教育出版センター)

以下には『新葉集』『李花集』『宗良親王千首』(「千首」と略称)より五十二首を抄出した。重出している歌については原則として『新葉集』から採ったが、例外もある。

  9首  5首  6首  7首  2首 羇旅 7首 哀傷 4首  12首 計52首

延元四年春頃、遠江国井伊城にすみ侍りしに、浜名の橋かすみわたりて、橋本の松原、湊の波かけてはるばると見渡さるるあした夕のけしき、面白く覚え侍りしかば

はるばると朝満つ潮のみなと舟こぎ出づるかたはなほ霞みつつ(李花集)

【通釈】河口に朝潮が満ち渡り、湊出入りの舟が遥々と漕ぎ出てゆく沖の方は、なお一層霞が深く立ちこめている。

【語釈】◇浜名の橋 浜名湖と遠州灘をつなぐ浜名川に架かっていた長大な橋。

【補記】遠江国の井伊城に住んでいた頃、浜名の橋付近の景色を見ての作。井伊は親王が南朝恢復の戦の最初の拠点とした場所。静岡県引佐(いなさ)郡引佐町井伊谷(いいのや)に城跡がある。同じ時、夕暮を詠んだもう一首は「夕暮は湊もそことしらすげの入海かけてかすむ松原」。

信濃国にて百首歌よみ侍りしに、霞を

霞めただいづれ都のさかひとも見ゆべきほどの旅の空かは(李花集)

【通釈】いっそ、ただもう霞むがよい。都との境をなすのはどの辺か、見分けられる程の道のりだろうか。そんな生易しい旅の空ではないのだ。

【補記】「信濃宮」の通称もあるくらい、宗良親王と信州の縁は深い。興国五年(1344)頃越中から信州に移り、大河原(長野県下伊那郡大鹿村)に拠点を築く。以後、壮年期の大半をこの地に過ごしたものと思われる。望郷の断念を自らに促すかのような哀切調。

【本歌】おと「古今集」
山かくす春の霞ぞうらめしきいづれ都のさかひなるらむ

 

諏訪の海や氷のうへは霞めどもなほうちいでぬ春の白波(李花集)

【通釈】諏訪湖はまだ氷が張り、その上に霞が立ちこめているけれども、やはり春だけあって、解け始めた氷の隙間からほとばしり出た白波よ。

【補記】諏訪の海は信濃の歌枕。結氷した湖面に一脈の亀裂が走り、割れた氷が小高く盛り上がる「おみわたり」は古来名高く、平安時代から和歌に詠まれている。「うち出でぬ」は、古今集の名句をこの「おみわたり」に転用した巧みな表現である。

【本歌】源当純「古今集」
谷風にとくる氷のひまごとにうちいづる波や春の初花

【参考歌】源顕仲「堀河百首」
すはの海のこほりのうへの通ひ路は神のわたりてとくるなりけり

越の国にすみ侍りし頃、羈中百首歌よみて都の人の許へつかはし侍りし中に

宿からに霞むとのみや嘆かれむ都の春の月見ざりせば(新葉52)

【通釈】この辺鄙な地の宿のせいで霞むばかりだと嘆くのだろうか。もし都の春の月を見たことがなかったなら……。

【補記】興国三年(1342)から五年頃、越中国での作。実際は、都への懐かしさに流す涙で月が霞むのである。婉曲表現が余情を生む。

帰雁を

かへる雁なにいそぐらむ思ひ出もなき古郷の山と知らずや(新葉59)

【通釈】北へ帰る雁の群は、何を急いでいるのだろう。故郷の山にそれほど楽しい思い出があるのだろうか。私はと言えば、故郷に思い出と呼べるものさえありはしない。そんな私の思いなど知らぬげに……。

【補記】李花集には詞書「百首歌よみて北野宮に法楽し侍りし中に、帰雁を」とある。正平十二年(1357)、京都の北野天満宮に奉納した法楽百首歌。当時親王は信濃に滞留していたと思われる。故郷の都を後にして、二十年余の歳月が経っていた。

【参考歌】大江正言「詞花集」
思ひいでもなきふるさとの山なれどかくれゆくはたあはれなりけり

興国二年越後国寺泊といふ所にしばしばすみ侍りしに、帰雁をききて

ふるさとと聞きし越路の空をだになほ浦とほくかへる雁がね(李花集)

【通釈】越の国は雁の故郷だと聞いたが、ここの空さえ飛び去って、仮の宿とした浦から更に遠く北へと帰って行く雁の群れよ。

【補記】遠江国井伊城が陥落した後、興国二年(1341)春までに、三十一歳の親王は越後国寺泊(新潟県三島郡寺泊町)に移った。渡り鳥の故郷と考えられていた越の国に実際来てみれば、雁どもはそこからさらに北へと飛び立って行く。流転の己が人生に対する感慨を帰雁に重ね合わせている。

朝花

朝日いでてのどけき峰の山ざくら花も久かたの光なりけり(宗良親王千首)

【通釈】朝日が昇って、のどかに照り渡る峰の山桜――花もそれ自体が光であった。自ら光を発してほのぼのと輝いているかのようだ。

【補記】「久かたの」は「光」の枕詞。第四句に枕詞を用いることは極めて稀であることを川田順『吉野朝の悲歌』は指摘している。天授三年(1377)の宗良親王千首。親王六十七歳の作。

延元四年春あづまよりのぼり侍りて、思ひの外に芳野の行宮に日数をへ侍りし時、前大納言為定の許より「帰るさをはやいそがなん名にしおふ山の桜は心とむとも」と申し送りて侍りし返事に

古郷は恋しくとてもみ吉野の花のさかりをいかが見捨てむ(新葉113)

【通釈】いくら故郷の都が恋しいと言っても、吉野の花の盛りをどうして見捨てることができましょう。

【補記】詞書に「延元四年」とあるのは誤りで、三年が正しい。東国での敗戦により一時吉野に逃れていた時、母方の従兄にあたる二条為定から歌で「都への帰り道を急いでほしい。名にし負う吉野の桜に心は止まろうとも」と言ってきたのに対する返事。親王にとって本当に見捨て難かったのは、無論吉野の桜よりも、南朝という運命共同体であったはずである。

花挿頭

君をのみたのむ吉野の宮人の同じかざしは桜なりけり(宗良親王千首)

【通釈】我が君をひたすら頼みとする吉野の宮に仕える人々が、揃って挿頭とするのは、名にし負う桜の花であることよ。

【補記】晩年の千首歌。南朝の廷臣たちの一致団結を謳う。「君」は具体的には長慶天皇のことになる。

【本歌】伊勢「後撰集」
わが宿とたのむ吉野に君しいらばおなじかざしをさしこそはせめ

百首歌読み侍りし中に

春わけし跡にしをりを残しおきて桜はしるき夏木立かな(新葉167)

【通釈】春、道を分けつつ歩いた跡に枝折りを残して置いた――そのおかげで、どれが桜なのかはっきり分かる夏木立だことよ。

【補記】李花集によれば題は「新樹」。

延元二年五月、花山院内裏にて侍りし頃、都のさわぎもなのめならざりしかば、皇居をば東坂本にうつさるべきよしさだめられしに、御かたがたに参りていとまなど申すとて、宣政門院の御前にてこしかた行すゑのことなど申し侍りしに、時鳥しきりになきて五月雨の空もいとどかきくれたる心ちして、まちいでし事つねに思ひ出でられ侍りしに、つひにそれをかぎりにて年もおほくへだたりぬるに、又郭公の鳴けるを聞くにも、そのふるごゑのしのばしく侍りしかば

時鳥いつのさ月のいつの日か都に聞きしかぎりなりけむ(李花集)

【通釈】ほととぎすよ、いつの年の五月のいつの日であったか。あの日が、都でおまえの声を聞いた最後であったのか。

【補記】詞書の「延元二年」は、これも延元元年の誤り。この年五月、九州から攻め上った足利尊氏は兵庫湊川に新田義貞・楠木正成の軍勢を破り、後醍醐天皇は花山院の里内裏から比叡山東坂本へ皇居を移すことを決断した。親王は里内裏に残る人々に暇乞いを申し上げるとて、妹の宣政門院(懽子内親王)の面前で来し方行末の話を交わしたが、折しも五月雨の季節、時鳥がしきりに鳴いた。……それが親王にとって京で過ごした最後の日の追憶であった。以来多くの年月が経ち、今遠国にいて時鳥の声を聞くにつけ、往時の古声を懐かしく思い出す。そうして詠んだのがこの歌であると言う。

【参考歌】亀山院「続拾遺集」
あやめ草いつのさ月にひきそめてながきためしのねをもかくらむ

郭公未遍

今更に我に惜しむなほととぎす六十(むそぢ)あまりの古声ぞかし(宗良親王千首)

【通釈】今さら私に向かって声を惜しむな、ほととぎすよ。私にとっては、六十年余り聞き馴れた古なじみの声なのだぞ。

【補記】題は「郭公の声がいまだ行き渡らない時」程の意。

雲外郭公

天つ空わが思ふ人かほととぎす雲のはたてに声の聞こゆる(宗良親王千首)

【通釈】天空を眺め物思いに耽っていた折しも、時鳥の声が雲の果てから聞こえた。我が胸中に思っていた人が応えてくれたのか。

【補記】一見したところ、本歌取りによって郭公詠に恋の風趣を添えた歌。しかし親王の置かれていた特殊な境涯を考えれば、「わが思ふ人」は単なる恋人とも思えなくなる。「蜀魂」の故事――帝位を追われた蜀の望帝が山中に隠棲し、復位を願いつつ息絶えたが、その霊魂はホトトギスとなって往時を偲びながら「不如帰、不如帰」と昼夜を分かたず啼いた――を背景に、亡父後醍醐帝に思いを馳せた作ではないだろうか。

【本歌】読人しらず「古今集」
夕ぐれは雲のはたてに物ぞ思ふあまつそらなる人をこふとて

信濃国に侍りし頃、都なる人のもとに申しつかはし侍りし

思ひやれ木曾の御坂も雲とづる山のこなたの五月雨の頃(新葉218)

【通釈】思いやってください。木曾の御坂も雲が閉じ込めて梅雨の降り続くこの季節、その山よりもさらにこちらの方へ奥深く入った地に住む我が身の境遇を。

【補記】李花集の詞書は「信濃国いなと申す所に侍りし頃、五月雨はれまなかりしに都へ申しつかはしける」。伊那は信濃国南部、赤石山脈を間近に望む高地。木曾の御坂は今の岐阜・長野県境の神坂(みさか)峠。

霧を

へだてゆくゐな野の原の夕霧に宿ありとても誰かとふべき(李花集)

【通釈】猪名野の原に夕霧が立ちこめて、人里との間をさらに隔ててゆく――そこに我が宿があるとしても、誰が尋ねて来たりするだろう。

【補記】「ゐな野」は和歌の常識からは猪名野(摂津国の歌枕)を指すことになるが、親王の住んだ信州の伊那を暗に指している。

【本歌】作者未詳「万葉集」巻七 摂津作
しなが鳥ゐな野を来れば有間山夕霧立ちぬ宿りは無くて

信濃国大川原と申し侍りける深山の中に、心うつくしう庵一二ばかりしてすみ侍りける。谷あひの空もいくほどならぬに、月をみてよみ侍りし

いづかたも山の端ちかき柴の戸は月見る空やすくなかるらむ(李花集)

【通釈】どちらの方角も山の稜線が迫っている庵からは、月を眺めようにも、空が少ししか見えないだろうなあ。

【補記】大川原は大河原に同じ。長野県下伊那郡大鹿村。当時も今も人跡稀な深山である。

正平十七年秋、住吉の行宮より「ことしの八月十五夜こそ月もおもしろかりしか。いかがみつらむ」などおほせられて、「年へぬるひなのすまひの秋はあれど月はみやこと思ひだにやれ」と有りしかば、御返事に申し侍りし

いかがせむ月もみやこと光そふ君すみのえの秋のゆかしさ(李花集)

【通釈】どうしましょう。月もそこが都だといっそうの輝きを添えて照る、我が君が行宮(あんぐう)となさるの住の江の秋――どんなに美しいことか、行って見たくてなりません。

【補記】正平十七年(1362)秋、住吉行宮に滞在中の後村上天皇より、信濃の親王のもとへ消息があり、明月の夜のことを尋ねられたうえ、「何年も過ごした田舎の住居の秋も結構でしょうが、月を眺めるなら都に限ると思い起してほしい」と歌を贈ってきた。それに対する返事。ここでは住吉行宮を「みやこ」(原義は「宮のある場所」)と呼んでいる。なおこの贈答は新葉集巻四秋上の巻末に載る。

 

月に君思ひ出でけり秋ふかく我をばすての山となげくに(李花集)

【通釈】月に私のことを思い出してくれたのですね。もう秋も深まった季節、姨捨山ではないが、私を思い捨ててしまったものとばかり歎いていましたのに。

【補記】これも後村上天皇への返歌。信濃の名所歌枕「をばすて」を「我をば捨て」に言い掛けている。

【参考歌】源俊頼「散木奇歌集」
契りおきしことをばすての山なれどよもさらしなとなほ頼むかな

中務卿宗良親王、信濃の国よりのぼりて河内国山田といふ所に住み侍りし頃、九月十三夜月いとあかかりしに申しおくり侍りし   関白左大臣

面影も見しにはいかに変はるらむ姨捨ならぬ山の端の月

【通釈】月の有様も、昔見たのとはどれほど違っているでしょうか。姨捨(おばすて)山ではない山の端の月は。

【補記】二条教頼が親王に贈った歌。天授五年(1379)または六年頃の作かと言う。河内国山田は今の大阪府河内長野市山田で、かつて後村上天皇の天野行宮があった場所に近い。姨捨山は次の歌の補記参照。

返し

身のゆくへなぐさめかねし心には姨捨山の月も憂かりき(新葉332)

【通釈】我が身の行末はどうなるとも知れず、慰めようもなかった心には、姨捨山の月も辛いだけでした。

【補記】「姨捨(をばすて)山」は信濃国の歌枕で、古今集以来月の名所とされた。照る月の美しさと「をばすて」なる酷薄な山の名との対比から、月の光にも慰められぬ心の葛藤を詠むことが多い。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
我が心なぐさめかねつ更科や姨捨山に照る月を見て

羈中百首歌よみ侍りし中に

都には風のつてにもまれなりし砧の音を枕にぞ聞く(新葉371)

【通釈】都では風が運んで来るつてにさえ聞くこと稀であった砧の音を、越の国の村里に仮寓する今や枕元に聞くことだ。

【補記】「羈中百首歌」は越中での作。「砧の音」は、柔らかくしたり艷を出したりするため、砧(衣を打つための台)の上で、槌などによって衣を叩く音。晩秋の山里で聞かれるものとして歌に詠まれた。遠国の鄙びた里という異質の環境に置かれた都人の哀感を、感傷に陥ることなくかくもリアルに抒情した和歌は稀であろう。

越の国に侍りし頃、羈中百首歌よみて都なる人の許へつかはし侍りし中に、初冬を

都にも時雨やすらむ越路には雪こそ冬のはじめなりけれ(新葉410)

【通釈】都でも今日あたり冷たい時雨が降っているだろうか。ここ越の国では時雨どころではない、雪こそが冬の始まりを告げるものだったのだが。

【補記】彼我の季節感の違いを端的に表現し、都への遥かなノスタルジーが滲み出る。

信濃国にすみ侍りしに「さむさなむ都にはかはりたへがたくや。いかがはする」と人のとぶらひ侍りしかば

片敷のとふのすがごも冴えわびて霜こそむすべ夢はむすばず(李花集)

【通釈】編み目の粗い菅蓆を片敷きして寝るが、あまりに寒くて眠れず、霜が結ぶばかりで夢を見ることは叶わない。

【補記】「とふのすがごも」は古歌に見える語で、粗末な敷物のこと。

【参考歌】よみ人しらず「夫木和歌抄」
みちのくのとふのすがごもななふには君をねさせてわれみふにねむ
  九条良経「千五百番歌合」
嵐ふき空にみだるる雪もよに氷ぞむすぶ夢はむすばず

天授二年内裏百番歌合に

山たかみ我のみふりてさびしきは人もすさめぬ雪の朝あけ(新葉479)

【通釈】山の高いところに庵住いして、独り年老いてゆく私が、ことに寂しい思いをするのは、人も寄りつかない雪の朝明けだ。

【補記】「ふりて」は「古りて」「降りて」の掛詞。天授二年(1376)の内裏歌合出詠歌。李花集編纂後の作。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

暁の雪ふかくつもりて群山にみてる色も面白く侍りしかば、いにしへの園のうちも思ひやられて、ひきかへたるすまひ、我ながらあはれに覚え侍りしかば、思ひつづけ侍りける

忘れめや都のたぎつ白河の名にふりつみし雪の明ぼの(李花集)

【通釈】忘れたりするだろうか。都を奔り流れる白川の我が住まい――その名にふさわしく降り積もった雪の曙を。

【補記】真っ白に覆われた周囲の山々を眺め、京白川にあった自邸の庭園の雪景色を回想して。「かかる世のためしもいまだ白雪にうづもれやせむ園のくれ竹」に続く一首。

夢といひけむ小野の山里も思ひ出でられて

おのづから雪ふみわけて問ひこしも都にちかき山路なりけり(李花集)

【通釈】在五中将が惟喬親王のもとへ雪を踏み分けて訪れたのも、都から程近い山道だったからこそなのだ。我が住まいは比較にならぬほど遥かな遠路、誰一人訪ねてくれる人などいない。

【補記】小野の山里は惟喬親王隠棲の地。比叡山麓の大原近傍とも言い、北山の小野郷かとも言う。自らを惟喬親王に擬える。

【本歌】在原業平「古今集」
忘れては夢かとぞ思ふおもひきや雪ふみわけて君を見むとは

越の国にすみ侍りし頃、都の人のもとへ申しつかはしける

雪つもる越のしら山冬ふかし夢にもたれか思ひおこせむ(李花集)

【通釈】雪の積もった越の白山は冬の趣も深い。夢にも誰が思いを寄せてくれるだろうか。

【本歌】紀貫之「古今集」
思ひやる越の白山しらねどもひと夜も夢にこえぬよぞなき

山家歳暮

山里の年の暮こそあはれなれ人のたてたる門の松かは(宗良親王千首)

【通釈】山里で迎える年の暮こそは哀れ深いものだ。家々の門を飾るのは人の立てた松だろうか。いや、自然に生えた松がその用を足しているのだ。

【補記】天授三年、晩年の千首歌。吉野滞在中の作だが、仮寓の身で迎える年の瀬を詠む。

【本歌】藤原実房「新古今集」
いそがれぬ年の暮こそあはれなれ昔はよそに聞きし春かは

おもふ事侍りける神無月の頃、木の葉の散るを見てよみ侍りける

この暮もとはれむ事はよもぎふの末葉の風の秋のはげしさ(新葉921)

【通釈】今日の夕暮時も、訪れることはよもやあるまい。生い茂る蓬の葉末を吹き靡かせる、秋風の激しさよ。

【補記】「よもぎふ」に「よもあらじ」を、「秋」に「飽き」を響かせる。

天授二年内裏百番歌合に、恨恋の心を

ありそ海のうら吹く風もよわれかし言ひしままなる波の音かは(新葉964)

【通釈】有磯海の浦を吹く風がこんなに激しいとは。どうか弱まってほしい。昔聞いたのと同じ波の音だろうか、すっかり変わってしまったではないか。

【補記】恋人の態度の豹変に対する恨みを、浦風への呼びかけに託した、特異な恋歌。越中に赴いたこともある親王は有磯海を実見したはずで、その強い印象が基にあると思われる。有磯海については歌枕紀行参照。

羇旅

元弘二年三月、遠き方におもむかむ事もただ今日明日ばかりになり侍りしに、雨さへふりくらしていとど心ぼそさもたぐひなく覚え侍りしかば

憂きほどはさのみ涙のあらばこそ我が袖ぬらせよその村雨(新葉513)

【通釈】もう涙も尽きてしまった。今後辛いことがあった時、それほどの涙は残っていまいから、見知らぬ配流の地に降る叢雨よ、涙の代りに我が袖を濡らせよ。

【補記】元弘元年(1331)、父帝の討幕の挙に際し、親王は比叡山の兵を率いて幕府軍と戦うが、敗れて讃岐の国に流されることとなった。

駿河の国より信濃へこえける時、浮島原をすぎて車返といふ所より甲斐国にいりて信濃路へかかり侍るが、さながら富士のふもとをゆきめぐりけるに、山のすがたいづかたよりもたぐひなくみえければ

北になし南になしてけふいくか富士の麓をめぐりきぬらむ(新葉540)

【通釈】富士山をある時は北に仰ぎ、ある時は南に仰ぎして、今日まで幾日その麓を巡り歩いたことであろう。

【補記】遠州井伊谷から信州へ落ち延びる際の作。愛鷹(あしたか)山南麓の沼沢地である浮島が原を通り、沼津東北の車返(くるまがへし)の里を経て甲斐の国に入れば、富士山麓をほぼ一巡りしたことになる。全句凜たる力が漲り、かつ悲壮の情が貫流している。新葉集には読人不知として載せる。李花集の詞書は「裾野の秋の気色まめやかに心ことばも及び難くおぼえ侍りて」云々と、やや詳しい。

【参考歌】顕昭「三百六十番歌合」
富士の山いくかすぎぬとかぞふれば同じ麓に有明の月

冬の程は馬のあしなども木曾路のこほりに難儀なるべきよし申すとて

木曾路河あらしにさえて行く浪のとどこほるまをしばし待たなむ(李花集)

【通釈】木曾川は冬の山風に凍って、波も滞っています。その間は、しばらくお待ち頂きたい。

【補記】住吉行宮の後村上天皇より来援の命があったのに対し、冬の信州にあった親王は行旅の困難を訴えた。川田順が非常に高く評価した一首。「木曾の激流が嚴冬の岩間に氷らんとする凄絶の景も想像出來る。外ならぬ山國信濃の軍兵が氷雪に阻まれて動きかねる實状を、木曾の寒流の凍るに譬へられたのも、非凡だ。此の一首、やはり、李花集中御傑作の一と拜する」(『吉野朝の悲歌』)。

厭ひ来て侍る道に出でてよみ侍りし

旅の空うきたつ雲やわれならむ道もやどりもあらしふく頃(李花集)

【通釈】旅の空に定めなく漂う片雲――あれが我が身なのだろうか。道もなく宿りもない、山風の激しく吹く頃。

【補記】制作事情など詳しいことは不詳。「あらし」に「あらじ」を掛ける。新葉集には「題不知、読人不知」として載る。

【本歌】菅原道真「拾遺集」
あまつ星道もやどりもありながら空にうきても思ほゆるかな

いみじうおそろしき山中にまどひて、夜もすがらつかれ侍りけるにや、松風にもさはらずうちまどろみしに、むかしの御面影夢にみえければ、驚きて思ひつづけ侍りし

ひとり行く旅の空にもたらちねの遠きまもりをなほたのむかな(李花集)

【通釈】独り行く旅の空にあっても、父上の遠くからのご加護をやはり頼みにすることよ。

【補記】山中に迷って疲れ果てた挙句の微睡みに、後醍醐天皇の夢を見、目覚めて詠んだという歌。詞書に「むかしの御面影」とあるので、父帝崩御後と見るべきか。

信濃国にてもまた年月をおくり侍りしに、行宮の御仕儀もおぼつかなくおもひ侍りしかば、あからさまに芳野にまゐりてやがてくだり侍らむとせし時、内裏にて人々百番歌合し侍りしに、旅のこころを

老の波また立ち別れいな舟ののぼればくだる旅のくるしさ(新葉525)

【通釈】老齢にして再び旅立ち、内裏を去ってゆく――最上川の稲舟がせわしなく上下すると言うように、都に上ればすぐにまた下らねばならぬ、旅の苦しさよ。

【補記】新葉集離別歌。親王は文中三年(1374)の冬、信濃から吉野の賀名生行宮に帰ったが、天授三年(1377)冬、再び信濃に下る。その間、内裏で催した歌合での作。波・たち・舟・のぼる・くだる、すべて川の縁語。「いな舟の」は「去(い)なむ」と掛ける。

【本歌】作者未詳「古今集」みちのく歌
もがみ河のぼればくだる稲舟のいなにはあらずこの月ばかり

千首歌の中に

忘れずよ一夜ふせやの月の影なほその原の旅心ちして(新葉557)

【通釈】忘れないよ。一夜の宿をとった伏屋で眺めた月影は。今もなおあの時の、園原の地を旅しているような気持がして。

【補記】晩年吉野にあって信濃漂泊の日々を回想しての作。「ふせや」は粗末な家(布施屋の転かとも言う)。「臥せ」を掛けて言う。「その原」も掛詞で、「伏屋のあったその原」の意に信濃国の地名「園原」を掛けている。園原は今の長野県下伊那郡阿智村の辺。下記参考歌により「伏屋」と共に詠まれることが多い。

【参考歌】坂上是則「新古今集」
その原やふせ屋におふるははきぎのありとはみえてあはぬ君かな

【主な派生歌】
ははきぎのよそめばかりは道たえて一夜ふせやの影もしられず(後柏原天皇)

哀傷

後醍醐天皇かくれさせ給ひし頃、よみ侍りし

おくれじと思ひし道もかひなきはこの世のほかのみよし野の山(新葉1324)

【通釈】どこまでも後れずにお供しようと思ったことも、もはや甲斐がなくなってしまった。先帝は吉野山におられると言っても、この世の山ではない。冥界の吉野山におられるのだから。

【補記】後醍醐天皇は延元四年(1339)八月十六日、吉野の行宮にて崩御。陵墓は吉野山如意輪寺の奥である。李花集の詞書はより詳しく、「先帝の崩御の後は、いとも吉野の奥のおなじかざしもゆかしう思ひやられ侍りしかども、いまはそれも又なにのかひあるべきなど、さまざまに歎かれ侍りてよみ侍りし」。

後醍醐天皇かくれさせ給ひし頃、遠江国井伊城にこもりてひまなく侍りしかば、まゐる事もかなはぬよしなど四条贈左大臣もとに申しつかはすとて、彼城の紅葉にそへてつかはしける

思ふにはなほ色あさき紅葉かなそなたの山はいかがしぐるる(新葉1357)

【通釈】亡き帝のことを思うにつけ、我が悲しみの深さに比べれば色浅い紅葉ですことよ。そちら吉野山はどれほど時雨が降って葉を紅く染めていることでしょう。

【補記】後醍醐天皇崩御の頃、井伊城にあった親王が南朝の重臣、四条隆資(李花集には誤って「資次」とある)に紅葉に添えて贈った歌。紅葉に紅涙を暗示し、吉野の臣下たちの悲哀を思いやる。隆資の返しは「この秋の涙をそへてしぐれにし山はいかなる紅葉とかしる」。

正平十五年三月十四日、御子左大納言入道身まかりけるよしきこえしかば、あはれともなかなかことの葉もなき心ちし侍りて、月日をのみなげきくらし侍りし程に、宮こへ便宜ありしかば、哀傷五十首歌よみて為遠朝臣もとへつかはし侍りし

あかで散る花のまぎれに別れにし人をばいつの春かまた見む(李花集)

【通釈】見飽きることなく散ってしまった桜の舞い乱れる中、あわただしく別れてしまった人と、いつの春再び逢うことができよう。

【補記】「御子左(みこひだり)大納言」は二条為定。宗良親王の母為子の兄弟為道の子であり、幼少期から親交があった。南北朝分立の時、為定は後醍醐天皇の後を追うことなく、京に留まった。争乱のさなか、心ならずも別れた若き日の友。その後も二人の友誼が失われることはなかったが、ついに再会の時は訪れないまま、正平十五年(1360)、為定は六十八歳で世を去った。

【本歌】遍昭「古今集」
山風に桜吹きまきみだれなむ花のまぎれに立ちとまるべく

長月の末つかた病おもくなりて、いまは限に成りぬるよし申しおこせ侍りしついでに   読人不知

いかになほ涙をそへて分け侘びむ親にさきだつ道芝の露

【通釈】ただでさえ露がしとどに置いた道の雑草を、どれほど一層の涙を添えて分け行くのでしょうか。親に先立つ死出の道で。

【補記】「読人不知」とされた作者は宗良親王の王子。おそらく信濃大河原で亡くなる直前、吉野にいた親王のもとに贈った歌。

返し

我こそはあらき風をもふせぎしに独りや苔の露はらはまし(新葉1388)

【通釈】これまでは父親の私が荒い風を防いでやったのだが、冥界では、おまえ一人きりで苔の露を払うことになるのだろう。

【補記】王子がまだ年若いことを窺わせる。王子はまもなく死去し、親王は大和長谷寺で再び落飾した。新葉集には、親としての悲しみを関白(二条教頼)に訴えた歌も載せる。「時雨より猶さだめなくふる物はおくるる親の涙なりけり」。

千首歌よみ侍りしに、伊勢を

五十鈴川その人なみにかけずともただよふ水のあはれとは見よ(新葉582)

【通釈】五十鈴川よ、私は皇祖の子孫の人並には入らないとしても、水のように漂うこの人生をせめて憐れみ給え。

【補記】天授三年(1377)の千首歌。「五十鈴(いすず)川」は伊勢神宮内を流れる川。表面上、川に呼びかける形をとるが、実は大御神に対する訴えである。歌枕紀行参照。波・かけ・ただよふ・水・あは(泡)、と川の縁語を列ねる。

越の国にすみ侍りける頃、帰雁のなくをききてよめる

おなじくは散るまでを見てかへる雁花の都のことかたらなむ(新葉1025)

【通釈】どうせなら、散るまでを見て帰って来る雁に、花の都のことを語ってほしいものだ。

【補記】春、京から越に向けて帰って来た雁の声を聞いての作。

名所海

いづて舟はや来寄すらしあなし吹く駿河の海の三保の興津に(宗良親王千首)

【通釈】沖にあったと見えた伊豆手舟が、早くも岸へ漕ぎ寄せて来るらしい。強い西北風が吹く駿河の海の三保の興津に。

【補記】天授三年の千首歌。「いづて舟」は伊豆国で造られた船。「あなし」は西北の季節風。「興津」は静岡市清水区興津あたり。三保の松原を望む景勝地。

【参考歌】大伴家持「万葉集」
防人の堀江こぎいづる伊豆手舟楫とる間なく恋はしげけむ
  順徳院「御百首」「夫木抄」
いづて舟おひ風はやく成りぬらしみほの浦わによする白波

千首歌たてまつりし時、山眺望を

信濃路や見つつわがこし浅間山雲は煙のよそめなりけり(新葉1176)

【通釈】信濃路にずっと眺めて来た浅間山――頂の雲と思ったのは、噴煙を見間違えていたのだった。

【補記】天授三年の千首歌。題詠ながら、簡潔な描写から実体験の生鮮さが汲み取れる。「よそめ」は外見。はたから見えたもの。

【参考歌】紀貫之「古今集」
山高み見つつ我が来し桜花風に心はまかすべらなり

海眺望

いほざきや松原しづむ波間より山はふじのね雲もかからず(新葉1177)

【通釈】廬崎を上って行くと、眼下の松原は波間に沈んだように見えなくなるが、やがてその波の上に現れる山は富士の嶺。一片の雲もかからず聳え立つ。

【補記】これも天授三年の千首歌。「いほざき」は静岡市清水区横砂に廬崎神社があり、この辺か。多く「廬崎の松原が沈む」と解釈するが、道が廬崎にかかって登り坂になり、浜の松原が眼下に沈んで行く、とここでは解した。

【本歌】「伊勢物語」、在原業平「新古今集」
時しらぬ山は富士のねいつとてかかのこまだらに雪のふるらむ

歌よみ侍りし次に、暁鐘といへる心をよみ侍りける

をはつ瀬の鐘のひびきぞ聞こゆなる伏見の夢のさむる枕に(李花集)

【通釈】暁を告げる初瀬の鐘の響きが聞こえるよ。伏見の夢の覚めた我が枕元に。

【補記】「をはつ瀬」は大和国初瀬で、この鐘は長谷寺の鐘。「果つ」をかすかに響かせ、迷妄の夜の終りを暗示する。「伏見」は京都のでなく、奈良菅原の伏見の里。「菅原や伏見の暮に見渡せばかすみにまがふを初瀬の山」(『後撰集』読人不知)を始め、伏見と初瀬を合わせて詠む例は多い。伏見に「臥し見」を掛ける。

 

夢の世にかさねて夢を見せじとや尾上の鐘のおどろかすらむ(李花集)

【通釈】夢の世に重ねて夢を見せまいと、山の上の鐘が目を覚ましてくれたのだろうか。

【補記】仏教的見地から、悟ることなく迷妄に留まっている現世を「夢の世」と言う。

信濃国伊那と申す山里に年へて住み侍りしかば、今はいづかたの音信もたえはてて、同じ世にありとも聞かればやなどおぼえし頃よみ侍りける

われを世にありやととはば信濃なるいなとこたへよ嶺の松風(李花集)

【通釈】もし誰かが私のことをまだ生きているのかと尋ねたら、信濃の伊那という所で……否々、もはやこの世を去ったと答えてくれ、峰の松風よ。

【補記】長年伊那の山里に住み、吉野や京からの音信も絶え果てて、寂寥に耐えきれなくなった頃の作。伊那に否を掛けたのは単なる技巧を超え、伊那という場所に住んでいることを伝えたいとの望みと、この世から消え去ってしまいたいとの願いの間で引き裂かれる切実な心情をあらわしている。

あづまのかたに久しく侍りて、ひたすらもののふの道にのみたづさはりつつ、征夷将軍の宣旨など下されしも思ひの外なるやうに覚えてよみ侍りし

思ひきや手もふれざりし梓弓おきふし我が身なれむものとは(新葉1234)

【通釈】思いもしなかった。昔は手さえ触れなかった弓矢や武具を、起きても寝てもそばに置き、これほど我が身に馴らそうものとは。

【補記】「親王御一生の事蹟が此の一首に述べられてある心持さへする」(川田順)。李花集の詞書は「遠国に久しく住み侍りて、今は都のてぶりもわすれはてぬるのみならず、ひたすら弓馬の道にのみたづさはり侍りて、征夷将軍の宣旨など給はりしも我ながらふしぎに覚え侍りければ、歌よみ侍りし次に」と、より心情に立ち入って記している。なお宗良親王が征夷大将軍に補せられたのは正平七年(1352)閏二月六日。

【本歌】紀貫之「古今集」
手もふれで月日へにけるしらま弓おきふしよるはいこそねられね

おなじ比、武蔵国へ打ちこえて、小手指原(こてさしがはら)といふ所におりゐて、手分(てわけ)などし侍りしに、いさみあるべきよし、つはものどもめし仰せ侍りし(ついで)に思ひつづけ侍りし

君がため世のため何か惜しからむ捨ててかひある命なりせば(新葉1235)

【通釈】君の御為、世の人々の為、何を惜しむことがあろう。捨てて甲斐のある命であったなら。

【補記】「思ひきや手もふれざりし…」の歌に続いて新葉集に載せる。正平七年(1352)閏二月頃、武蔵国小手指原に陣を布き、軍団の配置などを指揮した際、武士達の気を奮い立たせるよう励ました。その後、思いに耽って詠んだ歌。李花集の詞書はより簡潔に、「戦場に出で侍りし道すがら、いさみあるべき事などつはものどもに仰せふくめ侍りし次に、思ひつづけ侍りし」。

【参考歌】紀貫之「貫之集」
惜しからぬ命なりせば世の中の人の偽になりもしなまし

懐旧非一

あはれてふことにつけつつ口の端に我がたらちねのかからぬはなし(宗良親王千首)

【通釈】深く感慨を催す事があるにつけ、亡き父帝のことを口の端にのぼせぬことはない。

【補記】天授三年の千首歌。

懐旧の歌の中に

歎かじなしのぶばかりの思ひ出は身の昔にもありしものなり(李花集)

【通釈】今さら嘆くまいよ。ただ耐えるしかないような辛い思い出は、我が身の昔にもあったものなのだ。


更新日:平成15年05月08日
最終更新日:平成21年01月15日