市原王の父。『皇胤紹運録』によれば志貴皇子の孫で春日王の子。しかし『新撰姓氏録』『日本後紀』によれば市原王の曾祖父は川島皇子となるので、川島皇子の孫とするのが正しいか。妻としては紀女郎が知られる。
養老二年(718)、元正天皇の美濃国行幸に従駕し、「伊勢国に幸しし時、 安貴王作歌」を作る(万葉集巻三)。養老末年、因幡八上采女(藤原麻呂に娶られ浜成を産んだ采女と同一人であろう)を娶り「不敬之罪」で本郷に退却せらる。この時の歌が万葉集巻四の長歌「安貴王歌一首」であるという。神亀六年(729)三月、従五位下。天平初年頃、子の市原王が宴で父安貴王を祷ぐ歌(万葉集巻六)がある。天平十七年(745)正月、従五位上。以後の消息は不明。万葉集には四首入集。
伊勢国に
伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家づとにせむ(万3-306)
【通釈】伊勢の海の沖にたつ白波が、花だったらなあ。包んで持ち帰り、妻へのお土産にするのに。
【補記】養老二年(718)二月から三月にかけて元正天皇の美濃行幸があり、伊勢国を通過した。「伊勢の海」は伊勢湾および三重県南部の海。
【他出】新勅撰集巻十九(雑四)に現在の定訓と変わりない形で収載。
安貴王の歌一首 并せて短歌
反歌
しきたへの手枕まかず間置きて年そ経にける逢はなく思へば(万4-535)
右は、安貴王、因幡八上釆女を娶り、係念極て甚しく、愛情尤も盛なり。時に勅して不敬の罪に断じ、本郷に
【通釈】[長歌] 遠い都の妻は、ここにはいないので、逢いに行きたいけれども道が遠いので、思う心は平静でなく、嘆く心は苦しいことよ。空を流れゆく雲にでもなりたい。空高く飛ぶ鳥にでもなりたい。明日訪ねて行って、妻と語り合い、私のせいで妻が咎められることなく、妻のために私が咎められることなく、今面影に見るように、ぴったり寄り添っていたいものだ。
[反歌] 妻の腕を枕にして寝ることもなく長い年月が経ってしまった。逢っていないことを思うと。
【補記】養老末年頃、「因幡八上采女」と情を通じて不敬罪に処せられた安貴王が都から本貫の地に退けられた時、悲しんで作った歌。この事件については安貴王の略伝の注を参照。
安貴王の歌一首
秋立ちて
【通釈】秋になってまだ何日も経っていないのに、今日寝て起きた朝明けの風は、袂に寒いなあ。
【語釈】◇幾日もあらねば この接続助詞「ば」は、逆説の条件句を作る。
【他出】安貴王「拾遺集」
秋たちていくかもあらねどこの寝ぬる朝明の風は袂涼しも
志貴皇子「和漢朗詠集」
秋たちていくかもあらねどこの寝ぬる朝明の風は袂さむしも
(ほかに深窓秘抄・定家八代抄・秀歌大体・詠歌大概・夫木和歌抄・歌林良材などに採られている。)
【主な派生歌】
この寝ぬる夜のまに秋は来にけらし朝けの風の昨日にも似ぬ(*藤原季通[新古今])
この寝ぬる夜のまの風やさえぬらん筧の水のけさは氷れる(*近衛天皇[続古今])
この寝ぬる朝けの山の松風は霞をわけて花の香ぞする(藤原定家[新続古今])
この寝ぬる朝けの風のをとめごが袖ふる山に秋や来ぬらん(後鳥羽院[続後撰])
この寝ぬる朝けの風にかをるなり軒端の梅の春のはつ花(*源実朝[新勅撰])
この寝ぬる朝けの風も心あらば花のあたりをよきて吹かなん(九条道家[続後撰])
昨日みし梢の花はこのねぬる朝けの風にふれる白雪(平斉時[続千載])
この寝ぬる朝けの露に袖ぬれて我がためつらき秋は来にけり(藤原知家[新千載])
この寝ぬる朝けの風は身にさむし今やきなかん衣かりがね(飛鳥井雅顕 〃)
この寝ぬる朝けの風のかはるより荻の葉そよぎ秋や来ぬらん(足利尊氏[新後拾遺])
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月05日