市原王 いちはらのおおきみ 生没年未詳 略伝

天智天皇五世の孫。安貴王の子。志貴皇子または川島皇子の曾孫。春日王の孫。光仁天皇の皇女、能登内親王(733〜781)を妻とし、五百井女王・五百枝王の二人の子をもうけた。大伴家持とは私的な宴で二度にわたり同席しており、親しい友人だったと推測される。
初め写経舎人として出仕し、天平十一年(739)頃には写経舎人らの監督官的立場にあったかと思われる。間もなく造金光明寺造仏長官(後の造東大寺司長官)に任ぜられ、大仏造営の最高監督官を務めた。同二十年、造東大寺司が設置されると、知事に就任する。天平感宝に改元後の同年四月十四日、聖武天皇の東大寺行幸に際し従五位上に昇叙される。天平勝宝二年十二月九日、孝謙天皇は藤原仲麻呂を派遣して造東大寺司官人に叙位を行ったが、この時市原王(玄蕃頭兼造東大寺司長官)は正五位下に昇叙された。天平勝宝八年(756)、治部大輔に就任し、正四位下に昇叙される。天平宝字七年(763)年正月、摂津大夫。同年四月、恵美押勝暗殺未遂事件で解任された佐伯今毛人の後任として造東大寺長官に再任される。同年五月、御執経所長官(造東大寺長官に同じか。大日本古文書)。以後は史料に見えず、翌天平宝字八年正月には吉備真備が造東大寺司長官となっていることから、これ以前に引退または死去したかと推測される。しかし年齢はおそらく四十代だったことを考えれば、何らかの科により官界から追放されたのではないかとも疑われる。恵美押勝の乱に連座したかとも考えられる。
万葉集に八首の歌を残す。佳作が多く、万葉後期の代表的歌人の一人に数えられる。以下には八首全てを掲載する。

同じ月の十一日、活道(いくぢ)の岡に登り、一株の松の(もと)に集ひて(うたげ)する歌

一つ松幾代か経ぬる吹く風の音の清きは年深みかも(万6-1042)

【通釈】一本松よ、あなたはどれほどの時代を経たのであろう。梢をわたって吹く風の音がこれほど清らかなのは、あなたが遥か遠い昔から齢を重ねて来たからなのであろう。

【語釈】◇同じ月 天平十六年正月のこと。◇活道の岡 恭仁京付近という以外未詳。家持の長歌(3-479)に「皇子の尊のありがよひ見しし活道の路」とあり、安積皇子が「活道の路」を常に通っていた旨見え、近くに皇子の御所があったらしい。

【補記】紀伊行幸の際有間皇子を偲んだ川島皇子の歌(下記参考歌)を意識したか。第四句は原文「声之清者」で、「声の清きは」と訓むテキストもある。玉葉集では「こゑのすめるは」として収める。

【参考歌】川島皇子「万葉集」巻一
白波の浜松が枝の手向くさ幾代までにか年の経ぬらむ

二月、式部大輔中臣清麻呂朝臣の宅に宴する歌

梅の花香をかぐはしみ遠けども心もしのに君をしぞ思ふ(万20-4500)

【通釈】梅の花の香を貴ぶように、お慕いする心が強い余り、かえって遠ざかって失礼を致しましたが、心はいつも撓うばかり貴方の方に寄せているのです。

【補記】天平宝字二年(758)の作。左注に「右一首、治部大輔市原王」とある。「かぐはし」は、尊敬の念を含んだ讃美を表わす語。「かぐはしみ遠けども」とは、畏敬の念が強い余り近づけないでいたが、の意。清麻呂を誉め讃えると共に、たびたび訪問できないことを弁解する。

市原王の宴に父安貴王()く歌一首

春草は後はうつろふ巌なす常盤にいませ貴き吾君(あきみ)(万6-988)

【通釈】春に萌え出る若草は美しいけれども、後になれば枯れて散ってしまいます。地中に深く根差した大岩のように何時までも変わらずにいて下さい、尊い我が父君よ。

【補記】第二句は原文「後波落易」で、旧訓は「のちは枯れやすし」「のちは枯れども」等。「のちはちりすぐ」と訓む本等もある。

市原王の独り子を悲しむ歌一首

言問はぬ木すら(いも)()ありといふをただ独り子にあるが苦しさ(万6-1007)

【通釈】物を言わない木にすら姉妹や兄弟があると言うのに、全くの独り子なのが辛いことよ。

市原王の歌一首

(いなだき)著統(きす)める玉は二つ無しかにもかくにも君がまにまに(万3-412)

【通釈】髻(もとどり)の中に秘めた宝珠は二つとない、かけがえの無いものです。けれども、とまれかくまれ、あなたの思うがままになさって下さい。

【補記】巻三、譬喩歌に分類された歌。「いなだきにきすめる玉」は『法華経』安楽行品の「髻中明珠」(王が髻の中に秘蔵する宝玉)に由る。大切な娘を宝珠に譬えたもの。娘を嫁がせる親の立場で詠んだ作であろう。

市原王の七夕(しちせき)の歌一首

妹がりと()が行く道の川しあれば付目(つくめ)結ぶと夜ぞ更けにける(万8-1546)

【通釈】恋人のもとへと私が行く道中には川があるものだから、付目を結んでいるうちに夜が更けてしまった。

【語釈】◇つくめ 舟の櫓の腕に櫓綱をかけるための突起物(岩波古語辞典)。

【補記】秋雑歌。牽牛の立場で詠んだ歌。

市原王の歌一首

時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ(あした)か山の黄葉(もみ)たむ(万8-1551)

【通釈】その時節となって降り始めたしぐれの雨が上がった――明くる朝、山の木々は黄葉しているだろうか。

【補記】秋雑歌。原文は「待時而 落鐘禮能 雨零收 開朝香 山之將黄變」で、古来難訓。しぐれは晩秋から初冬にかけてよく降る通り雨。この雨に濡れて木々は美しく紅葉するものとされた。

市原王の歌一首

網児(あご)の山五百重(いほへ)隠せる佐堤(さで)の崎小網(さで)()へし子が(いめ)にし見ゆる(万4-662)

【通釈】網児の山が幾重にも隠している佐堤の崎――その「さで」網を広げて漁をしていた海人の娘が夢に見えるよ。

【補記】相聞歌。「網児の山」「佐堤の崎」いずれも所在未詳であるが、三重県志摩半島の地名かとも言う。「小網はえし子」は、網をのばして漁業をする海女を言う。第三句までは「小網(さで)」を導く序とも言うが、詠み手が実際佐堤の崎を旅し、その時目にした海女の娘を夢に見た、意に取るべきか。


更新日:平成15年12月29日
最終更新日:平成20年09月30日