哀愁のヨーロッパ オーストリア・ドイツ篇

【行動記録・ドイツ篇 その2 】

1996年9月29日(日)

ケルン→ベルリン つづき

12時40分、ベルリン・ツォー駅に到着。昨日できなかった日本への電話を試すが、やっぱりダメ。駅構内はなかなか広く、案内図でBANKを探して400マルクをクレジットカードでキャッシングする。

駅を出てオイロパ・センターをめざす。てっぺんのベンツマークがわかりやすい。この中にはツーリスト・インフォメーションが入っている。手前の広場はお祭りみたいで、よく見たらマラソン大会だった。インフォメーションではホテルを予約しようと思っていたのだが、2つある窓口のうちひとつは「Computer failed.」で、もうひとつの方で行列した。100から120マルクで頼んだら、120が最低ラインということだった。やはり高い。このへんがインフォメーションで手配するときの限界かもしれない。ベルリンは市街区が広く、ホテルも分散していて、歩いて探すには時間と根気がいる。今回は明日の月曜がミュージアム・ホリデイだったので、今日の時間を有効に使いたかった。地下鉄とバスがあるから、多少地の利がなくても大丈夫だろうと踏んだ。とにかく120マルクの部屋で3泊取れ、手数料5マルク、地図1マルク、「ベルリン・プログラム」10月号2.8マルクを払った。ホテルはクーダム沿いなのだが、マラソン大会のため、バスがない。歩け、ということだ。

教会を左手に見てクーダムを南西に向かう。ランナーが続々とゴールインしていく。15分歩いて、まだ道のりの3分の1だった。汗。午後2時5分、ようやくホテル・ガルニ・コメットが見えた。レセプションで、3泊分360マルクの前払いを要求された。せちがらい。国際電話を部屋からかけられるか聞くと、できるけど高いよ、と言われた。しかし、公衆電話で失敗続きなので、横浜にかけてみると、4回目のトライにしてやっとつながった。日本では何事もない。部屋には、電話、ミニバー、トイレ、シャワー、テレビ、ラジオがある。汗をかいたTシャツを取り替え、「ベルリン・プログラム」10月号を開くと、9月の情報は載っていなかった。今日・明日の分は他に情報入手の手段を講じるしかない。お昼代わりにゆで卵を食べた。ダーレム美術館への行き方を研究。地下鉄U7とU1を使って1回乗り換えで行けるが、ちょっと遠そう。

3時14分、行動開始。ホテルから最寄りの地下鉄駅アデナウアープラッツに行って24時間切符を買う。これでバスも地下鉄も乗れて16マルク。7日間有効で40マルク。3日いることを考えると迷うところだが、あまり先のことは決めずにいよう。地下鉄の電車は落書きだらけで、ニューヨークを思い出させる。3時50分、ダーレム・ドルフ駅に着いた。

小雨。さて、どっちか? 郊外の何にもないところ。運良く5分でダーレム美術館を見つけた。しかし、入り口が複数あったようで、私が入ったところは民族美術のウィングだった。広い。偶然、絵画ギャラリーへ。イタリア・ルネサンス、北方ルネサンス、その他逸品が揃って圧巻。しかし、時間がない。バロックは省略し、フェルメールを探す。警備員に尋ねると、上の階だと言うので、駆け上がる。5時5分前にはドラが鳴って追い出された。残念。ポストカードも買えなかった。誘導された出口はさっき入ったところではなく、しかたなく建物の回りを4分の3周して戻り、駅へと向かった。小雨が降りつのる。駅には映画やオペラのスケジュールが張り出してあったので、検討してみたが、めぼしいのはなかった。10月1日にコーミッシュ・オーパーで「ファルスタッフ」がある。映画は「インデペンデンス・デイ」がもう公開されていた。日本では12月予定だから、話の種に面白いかも。

U1のアウグスブルガー・シュトラーセで降り、地上に出ると目の前にトルコ料理ハジールがあった。ついている。まだ5時30分。私が口開けらしい。メニューにはドイツ語とトルコ語しかなく、解読に苦労する。ビールはベルリーナー・ヴァイスにしたが、「赤か白か?」と聞かれたのには面食らった。トルコ・コーヒーでしめくくって帰る。6時35分。駅でまたコンサート情報を検討。映画は英語版があるのか? ベルリン響が1日にフィルハーモニーでやるのを見つけた。ベルリン・フィルは今ニューヨークと日本へ演奏旅行に出ていることだし(どちらにしろチケットを確保するのは至難の技だが)。うっかりしてU1の逆方向に乗ったことに気づき、引き返す。ところが、また間違えてU2に乗ってしまった。いかんいかん。何とか持ち直して7時23分にアデナウアープラッツに着。ホテルのゲートはルームキーで開くシステム。

部屋で明日以降の計画を練る。映画は「Film auf English?」と聞けば、英語かどうかわかる。1日はベルリン響にしよう。明日30日は火曜休館のエジプト美術館を手始めに、美術館以外の見所を回ることにして、効率的な順番を組み立てる。ベルリンは広く、移動に手間取りそうだ。100番のバスで2階からの眺めを楽しめるといいが。適当に疲れないようにしよう。シャワーを浴びる。水圧を背中に当てると気持ちいい。足をマッサージ。テレビではテニスのデビスカップでフランスがイタリアを逆転した。

1996年9月30日(月)

ベルリン滞在

8時、朝食。チーズ、ゆで卵、ヨーグルト、フルーツシロップ、シリアルなどもある。例によってゆで卵とヨーグルトは持ち帰る。空腹で食事しているせいか、発汗が激しい。部屋でTシャツを替え、少し休む。

8時50分、出発。バス109番でルイジエンプラッツへ。しかし、目当てのエジプト博物館は7月から月曜休館に変更になっていた。がっくりしつつ、109番で逆戻りしてツォー駅へと向かう。カイザーヴィルヘルム教会は廃墟となって無言のメッセージを送っている。再び、ツォー駅から100番のバスに乗る。何とか2階の前方の席を確保。ジーゲスゾイレを見、ティーアガルテンの真ん中を過ぎてブランデンブルク門で降りた。バスでくぐった門を再び徒歩でくぐって西へと戻っていくと、白い十字架が並んでいた。10時30分過ぎ。

ライヒスターク(国会議事堂)は工事中だった。また100番に乗ってルストガルテンで下車。Dom(ベルリン大聖堂)は珍しく有料だった。博物館の島の地理を確かめて、アレキサンダープラッツへと歩いてみた。橋の上で「スペイン」(チック・コリアの名曲)をサックスで吹いている人がいた。

広場のベンチでぼんやり過ごす。噴水。子ども。赤い市庁舎。テレビ塔。マリエン教会は閉まっていた。森鴎外ゆかりらしいが、詳しいことは知らない。また歩いてニコライ教会へ。12時30分。このへんはちょっとしゃれたカフェやレストランが並んでいるが、食欲がない。バス142番を待つ。20分に1本なので心配したが、ちゃんと時刻通りに運行していた。しかし、降り方がわかっていない。今までは、乗客がたくさんいて、誰かが降りていたのでそれでよかったのだ。注意深く見ていればよかったのだが。真っ赤なボタンに「WAGEN HAELT(英語ならCAR STOP?)」とあるのだが、緊急停止のような気がして触れない。結局、終点のフィルハーモニーで、勇気を出して押してみた。これが正解だった。

目的の場所はここではなかったのだが、せっかくなので建物の外観を見ていく。チケットは情報通り3時30分からの発売なので、出直すことにする。また142番に乗ってシュタットミッテで下車、フリードリヒ・シュトラーセを通って壁博物館(Museum am Checkpoint Charlie)へ。ここは非暴力抵抗運動の記録が充実している。説明をていねいに読んでいると時間が足らない。 2時間以上いた。有名な東西ベルリンの検問所「チェックポイント・チャーリー」跡地には自由の女神像が立っていた。

午後4時、またまた142番でフィルハーモニーへ行き、何とか明日のベルリン響のチケットを入手。これで今日の予定は終了。実は、昨日買った24時間切符は期限が切れているのだが、見つかったら分からなかったフリをしようとキセル続行。ここから、バスの148番と129番を乗り継いでクーダムにあるはずの映画館をめざす。ポツダム・ブリュッケで乗り換えなのだが、車内の表示と実際の停車が2つもずれていて、いったん戻ってようやく129番をつかまえる。車内から見ていたが、映画館が見つからない。昨日、確かに見たのに。

5時20分、アルゼンチン産牛肉が自慢のステーキ・チェーンのシュラスコで食事。ここにはサラダ・バーがある。アルト・ビールで始めてエスプレッソでしめる。映画館の番地から、クーダムをもっと西に行ったところだと見当をつける。道ばたのポスターで再度確かめると、最寄りの駅がアデナウアープラッツになっている。ということは、今泊まっているホテルの近所ではないか。ふ〜ん。さて、行ってみればあった! それもホテル・ガルニ・コメットの真向かいだった。

6時50分、上映時間まで間があるからか、チケット売場は閉まっていた。近くのベンチでゆっくり待つ。ようやく開いて、「Film auf English?」と聞くと首を振って「この次の角を右に曲がると英語でやっている」と言う。それにしたがって行くと薄暗い通りの向こうに映画館らしき建物があった。さっそくチケットを買うと、指定席だった。入場まで時間があったので、前の公園で涼む。今日はベンチでぼーっとする日だ。

7時40分に開演。「インデペンデンス・デイ」をOV(Original Version)で楽しんだ。10時25分に終わってホテルまで歩いて戻った。明日の予定を詳しく書き出す。バスの番号、乗り換えと下車の停留所名、電車の終点と下車駅名をドイツ語ですべてメモ。ほとんどの移動がバス乗り換えなので、時間が予測しにくい。久しぶりの強行軍に備えて足をマッサージする。

1996年10月1日(火)

ベルリン滞在

忙しい朝に限ってベストのボタンが取れたりする。修繕用具は持ってきていないので、そのまま。朝食から戻ってTシャツを替えていると、髪留めが切れていた。作り直す。8時20分、出発。

まず地下鉄のアデナウアープラッツ駅で24時間切符を買う。自動販売機がダメで、窓口へ。同じ16マルクだが、カードが違う。「From now?」と聞かれたので「Yes, please.」とお願いする。地上へ出て、109番のバスでツォー駅へ、ここで100番に乗り換えてルストガルテンへ。ベルリンの朝が明けていく。

ペルガモン美術館に着いたのは9時25分だった。古代遺跡の偉容。コイン、ローマン・ポートレート、イスラムは省略。博物館の島を後にしてシュターツオーパーで100番のバスを待つ。フンボルト大学前には、古本の屋台が出ていた。またまたツォー駅で乗り換え、145番でルイジエンプラッツへ。昨日振られたエジプト美術館で、《王妃ネフェルティティの胸像》に出会う。

109番と129番を乗り継いでノイエ・ナショナル・ギャラリーにやって来たが、10月1日(つまり今日)から長期休館に入っていた。12時45分。あまりの運の悪さに、寝転がって空を見ていた。気を取り直して、近くのインビスでトルコピザと缶ビールを買って食べる。ポツダムプラッツまで、ビールを飲みながらブラブラ歩く。このあたりは巨大な工事現場。ベルリンは今まさに変貌しつつある。午後1時20分、S1のポツダムプラッツ駅に着いた。ここから終点のオラニエンブルクまで約1時間。

終着駅に着いた時には小雨が降っていた。タクシーに乗って「ザクセンハウゼン」と言うと頷いてくれる。ザクセンハウゼン強制収容所跡は入場無料だ。ここでは、人は無口になる。帰りは大雨になっていた。出口でタクシーを呼べばいいものを、試しにと歩いて駅へ向かう。しかも傘を持ってきていないので、頭に巻いたバンダナがグショグショ。途中、道を尋ねること2度、50分かかってオラニエンブルク駅にたどり着いた。午後5時。S1からヨーク・シュトラーセでU7に乗り換えてアデナウアープラッツに着いたのは6時22分だった。途中でツナとトマトのピザとコーラを買って ホテルに帰る。部屋ではさっそく着替えて食事にする。

7時にはホテルを出た。バス129番と148番を乗り継いで7時42分にフィルハーモニーに着いた。「カラヤン・サーカス」の異名の通り、特異な建築で、席番号がわかりにくい。ベルリン響でモーツァルトメンデルスゾーンリヒャルト・シュトラウスを楽しむ。とくに木管と金管のパートにはスタンディング・オベーション。帰りはバス148番と地下鉄U7を使ってみた。

明日のフランクフルト行きは10時発にした。もし何らかの見本市(ブックフェアの可能性が高い)があると、ホテル探しは困難が予想される。今晩で14泊目になる。ここまでオペラ3回、コンサート3回、マリオネットシアター1回、サッカー1回、映画1回というのは、なかなかいい調子だった。この寒さが誤算だったのと、移動時間が長いのが反省点。

1996年10月2日(水)

ベルリン→フランクフルト

7時45分、朝食。部屋に戻ってシャワーを浴びて少し休む。背中が少ししびれている感じがしている。パッキングをして8時40分にチェックアウト。国際電話代で15.40マルクも取られた。覚悟していたが、これほど高いとは。通い慣れた109番のバスでツォー駅へ。24時間切符は厳密に言えば期限切れだが拡大解釈。3番ホーム、10時2分発ミュンヘン行きICE595を確認。車中の食料を仕入れようかと思ったが、食欲なく、荷物が増えるのもいやだったので見送る。別に僻地に行くわけではないのだ。

ホームで待っているといろいろな人がいる。ビジネスマン、アコーディオンを弾くおじさん、見送りの家族。9時57分、アナウンスがあって遅れるらしい。ドイツ語だったが、「Verspaetung」と言っていたから、たぶん合っている。結局30分以上遅れて入線。

1等車のシート(日本の新幹線のような座席)は予約席が多く、コンパートメントに座った。途中、赤いジャケットの男がDB(Deutch Bahn、ドイツ鉄道)のアンケートだと言ってインタビューをしてきた。あまり役に立ちそうな質問ではなかったが、とにかく協力した。午後1時28分、ゲッティンゲンで乗り換え。本当なら直行のはずなのだが。同じコンパートメントの中年紳士が「どこへ行くのか?」と聞いたので「フランクフルト」と答えたら、「ここで乗り換えないといけない」と教えてくれた。また30分近く待って乗る。これも混んでいたが、「フランクフルト→ミュンヘン」という予約席を見つけたのでそこに座った。私はフランクフルトまでだから、座っていいのだ。なかなか新しく座り心地がいい。

午後3時40分、フランクフルト中央駅に到着。さあ、ホテル探しだ。東正面に出てから北西に駅を回り込んでクリスタルをめざす。簡単に見つかったが満室。隣のオットー・プリンツでは1泊220マルク+朝食25マルクということだった。今までの2〜3倍じゃないか! やっぱりメッセ価格になっている。しかし、これから回って探すリスクを考えてOKする。衝動的に現金で払う。メッセ期間のフランクフルトでのホテル確保は難しいという観念があったし。しかし、ここは大外れだった。狭い上にミニバーも机もない。テレビはかろうじてあったが、機能するかどうか。

少し落ち着いて4時30分に外出。ツーリスト・インフォメーションで地図を入手。1マルク。カイザー・シュトラーセという大通りを東へ。公園にぶつかって南へ折れ、マイン川を渡って川沿いの散歩道を西へ少し戻ると、シュテーデル美術館が見つかった。火曜日は入場無料でしかも夜まで開館している。1階はクールベ以降の近代で、奥に20世紀から現代がある。けっこういい。しかし、真打ちは2階のルネサンスから近世の作品だった。ボッティチェリ、ファン・アイク、レンブラントその他7時まで堪能する。屋外は彫刻庭園になっている。

ザクセンハウゼン地区で食事にしようと歩き出す。シュヴァイツァープラッツ近くで1軒当たるが満席と断られる。北東に向かって行って、どうやらザクセンハウゼンらしい街並みになる。要するに一杯飲み屋がたくさん。いろいろなビール(各地のビールを飲み比べることができる店はドイツでは少ない。地元ビールがほとんど)が飲めたり、自家製のアプフェルヴァイン(りんご酒)があったり。しかし、今や現金が56.50マルクしかなく、クレジットカードが効きそうな店にしたい。

7時55分、タンデューレというトルコ(正確にはアナトリア)料理店に入る。アルスター・ビールとラムと野菜のクレイ・ポットローストにした。途中から相席になる。トルコ・コーヒーでしめくくる。9時30分を過ぎていた。少し南にSバーン(DB、鉄道)の駅とU(地下鉄)の駅がある。Uの方が中央駅に近いところに着くようだった。駅ではすれ違いざまに小学生ぐらいの悪ガキに煙草の煙を吹きかけられた。この街は病んでいるのかもしれない。U1南駅からハウプトヴァッヘでS8に乗り換え、中央駅へ。ホテルのフロントでは「Room21, please.」と言うと、居丈高に「What's your name?」と聞き返された。フランクフルトという街が嫌いになりかける。ザルツブルクが恋しい。シャワーを浴びて寝る。テレビは壊れていた。

1996年10月3日(木)/4日(金)

フランクフルト→成田空港→自宅

25マルクもの朝食にはスモークサーモンがあった。しかし、朝からそんなにたくさん食べられるはずもなく、シリアル+ミルク、ハム、チーズ、コーヒー、ヨーグルト、それにサーモンにする。宿泊している人はやはり仕事関係ばかりのようだった。休憩してパッキング、8時30分にチェックアウト。中央駅のコインロッカーに荷物を預ける。危なそうな浮浪女が警察に「Passport?」と聞かれていた(いわゆる不審尋問ですか)。

S5線に乗っていく。Sバーンはドイツ鉄道経営なので、ユーレイルパスが有効だということに気がついた。どのホームなのかまだよくわかっていないが、とにかく目的のコンスタブラーヴァッヘへ。地上に出て南下。回りはこれから市が立つようだ。10分歩いて方向が違うことが判明、まず戻る。方位磁石を見ても間違うことはある。

近代美術館には「Heute Geschlossen(英語ならtoday closed)」という掲示。今日は祝日なのだ。開館が10時から、という可能性もわずかにあるが、期待しないことにする。近くのDomに行く。タワーがあるが、登らない。今回は高いところは全部パスしている気がする。とりあえず、中に入ってみる。かすかにバロック音楽が流れている。創建はけっこう古いらしい。オルガンはすごく立派。どうということもない。9時58分になったので、近代美術館に戻って閉館を確かめてレーマー広場へと向かう。なかなか美しい木組み建築が広場にファサードを見せている。実は、ドイツではこういう木組み建築はよくあるらしいのだが、私の今回の旅行では初めて見た。いかにドイツらしいところへ行っていないか、ということだ。

レーマー(市庁舎)の中には見所もあるそうだが、閉まっている。ニコライ教会を探してマイン川まで来てしまった。実は広場のすぐ南にあった。位置だけ確認して、さらに歩いてパウルス教会を見つけるが、ここも閉まっていた。せっかくなので回りを一周する。民主主義のうんたらかんたら、ということらしいが、いたって不勉強でよくわからない。このフランクフルトという街は、私にとってただ帰りの飛行機が発つ場所に過ぎない。像の前に花とろうそくが献じられている。もっとよく調べてくればよかったと思った。

これからどうしよう? 市を冷やかすか? 川沿いを散歩するか? ここパウルスプラッツには、タクシー乗り場があり、市電が通り、鳩が群れ、4匹もの犬を連れたおじいさんが散歩している。11時。ゲーテ・ハウスの場所を確かめて、レーマー広場に戻った。12時5分に鳴るニコライ教会の鐘を聞こうと思ったのだが、まだ早い。レーマーは開く気配がなく、ニコライ教会に入って殉教図などを見る。広場には韓国人の団体がやってきた。

しばらくぼーっとしていたら、広場の隅でブラスカルテットが演奏を始めた。太陽が熱を送りこんでくれる。祝祭の気分。なんだか、泣けてきた。12時5分、鐘が鳴った。大きなオルゴールのように、力強く旋律を響かせる。

することもないので出かけたゲーテ・ハウスはわずか20分で見終わってしまった。有名な天文時計は修復中だった。ゲーテに心酔しているとかでなければ、ただの近世ドイツの名士の家、だ。ここも大戦で徹底的に破壊されたが、見事に修復されている。現代風にではなく、何から何まで当時を再現して。このへんの執念は凄い。

トイレを求めてゲーテ広場のマクドナルドへ。こういう場合は実に便利です、世界のマクドナルド。隣のBierborseは閉店のもよう。祝日だからなあ。公園でひなたぼっこしていたら、空に気球が浮かんでいた。

ハウプトヴァッヘの市ではビールやソーセージの屋台が出ていた。いい匂い。ヴァイオリンのソロがいる。バリトンがアコーディオンをバックに歌っている。

パウルスプラッツにはオープンカフェが出ていた。他にもいろいろ探してみたが、ここが気分がよさそうなので、イタリアンにしてみる。午後1時45分。リストランテ・ラファエロ。トマトとモッツァレラと生ハムのピッツァにアプフェルヴァイン(りんご酒)。ヴァイオリンとギターがチューニングしている。フルートが加わって「アヴェ・マリア」を奏ではじめた。太陽があって、音楽があって、幸せな午後。エスプレッソでしめ、回ってきたミュージシャンに 細かいコインで1.5マルクを渡す。これでも、まだ3時前だ。え、なんの祝日だって? それは、「ドイツ統一記念日」なんです。あの1990年10月3日以来の。

せっかくなので、の中をストリート・ミュージシャンめぐり。途中、どくろの旗を掲げへヴィメタを鳴らしビールびんを抱えた危ないパンク連中に会う。 ギターソロ 、バグパイプ 、木琴と電子オルガン、南米ビッグバンド。この曲で帰ろう、と思いつつ、予定の4時を10分超過して、ようやく空港へ向かう。

Sバーンで中央駅に戻る。案内図によればトイレは9番線と10番線のあいだの地下らしいのだが、幸い発見し、0.5マルクを挿入して入る。 コインロッカーから荷物を出す。空港へはわずか10分。4時39分発は出発表示になく、46分発、21番線からに乗車。時刻通りで57分に空港着。

全日空カウンターで7時40分発のNH210便のチェックイン。プリンタートラブルで待たされる。初めての空港は早めに行くに限る。35A窓側の席をゲット。ここから、チケット・コントロール、パスポート・コントロール、スカイライン何とかシャトル、ハイジャック検査をくぐり抜けてゲートE2にたどりつく。この間、30分。行列とか並ぶわけではないが、とにかくやたら広い。同じシャトルに乗った髭のドイツ人ビジネスマンは、ゲートがわからずに迷っていた。「You have fixed?」と聞かれたので、「Yeah.」と答えると、「Ooop!」と呪いの言葉を吐きながら走っていった。思うに、シャトルを乗り間違えた可能性が高いのではないだろうか。

5時33分、ここで、おみやげショッピング開始。D、Eゲートのショッピング街を一通り見て回る。しかし、全荷物をかついでいるので、簡単ではない。まあ、肩にかけられる程度だし、ここは比較的安全なのでやっているわけだけれども。母、祖母へはスカーフ。職場にはモーツァルト・チョコレート。それにフランケン・ワイン2本。機内用にレモン味のミネラルを1本。すでにマルクのキャッシュは使いきっているので、クレジット・カードで払う。

6時25分。もはや待つだけだ。日本への直行便だけあって、日本語が幅を効かせている。広島弁や東北弁が飛び交う。団体旅行のみなさんは、マルクを消費するのに必死。日本人ビジネスマンは「私はもう何回も乗ってるもんね」「ビジネスクラスだもんね」「仕事なんだからね」という光線を発しつつ、一線を画している。

待っている人の中には車椅子の人とその付き添いの人もいる。さすがに係員が世話している。エコノミークラスでは一番最初に搭乗してもらうようだ。やがて私の番になり、35Aの席に行ってみれば、35AとBに、何とその車椅子の人たちが座っていた。一応、搭乗券を見せて席を確かめる。そして、おふたりの搭乗券がBとCならば、私はCに座るつもりだった。 別に私は通路側でも、全然かまわない。しかし、付き添いの方は生真面目で、搭乗券通りの席にさっさと移ってしまった。なんだか申し訳ない。聞けばスチュワーデスが案内して全部セッティングしてくれたそうで、そりゃあその通りに座るわなあ。私はといえば、足が不自由な方にわざわざ立ってもらってトイレに行くのはけっこう心理的に負担で、水分摂取を自粛しようという作戦に出ることにした。

7時40分にはタキシング開始、57分に離陸。10月3日の朝日新聞がうれしい。NHKニュースも見られる。藤子不二雄、遠藤周作両氏が死去。巨人は優勝目前。Jリーグでは浦和レッズが首位、私の京都パープルサンガは川崎、浦和、鹿島を破ってすっかり大物キラーになっていた。

機内映画「エディー勝利の天使」「好きと言えなくて」をつづけて観る。あまりというかほとんどアルコールを飲んでいないので、なかなか眠れない。時差7時間を調整。10月4日2時50分から9時50分に時計を進める。

今度の旅を振り返ってみる。

上手な旅なんてあるんだろうか? 失敗しないことより、恥ずかしい思いを重ねる方がいいのかもしれない。そこにあるものを確認するより、何があるかわからないドアを叩いてみることで出会うものが大切かもしれない。誰かにほめてもらうために旅しているわけではない。

機内が明るくなってきた。シベリアをすでに横断。

12時53分。最初にして最後のトイレに行かせていただく。成田から自宅へ、そして週末のあいだにやっておくことをリストアップしておく。せんたく、現像、CD探し、エトセトラ。

もっと具体的な反省をしておく。気候について情報不足で、寒さにやられた。もっと狭い地域にしぼって滞在型に近いプランにし、より郊外や田舎でゆっくり楽しむ旅程にしていこう。オランダとか、南イタリアとか、プラハとか。

午後1時35分、着陸。52分、機外へ。58分、入国審査。2時、税関。またまた京成の特急で上野まで。2時17分発。財布からマルクを取り出し、円に入れ替え。暑い。レザージャケットを脱ぐ。ベストも脱ぐ。JRに乗り換え。新宿が騒がしい。南口にタイムズスクウェア高島屋と紀伊国屋書店がオープンした日だった。バスを乗り継いで4時45分に、自宅に着いた。

心配だったベンジャミンに水をやる。大量の郵便物、留守番電話に対応。せんたく、そしてゆっくり湯船につかりたい。フィルムも現像に出そう。CDも買わなきゃ。しかし、何よりひたすら寝たかった。こうしてまた、いつもの日常へと帰る。

哀愁のヨーロッパ オーストリア・ドイツ篇 【行動記録 計画・準備篇/オーストリア篇/ドイツ篇 その1/ドイツ篇 その2】完

text by Takashi Kaneyama 1998

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