哀愁のヨーロッパ オーストリア・ドイツ篇 第12話

白い十字架

ベルリン、9月30日、月曜日。

Museum Holidayの今日は、史跡めぐりだ。それは同時に戦争の傷跡と、壁がもたらした不幸、そして復興の過程を見る旅でもある。

深い、深い青

中心に立つカイザーヴィルヘルム教会から始めよう。第二次世界大戦の爆撃を受けた残骸が、そのまま残されている。その隣には新しい教会が建てられていて、中に入ると、八角形の空間に深い青のステンドグラスを透した光が射し込んでいる。黄金のキリスト磔刑像がどこか悲しげだ。

カイザーヴィルヘルム教会の内部

壁がない

ツォー(動物園)駅前まで、少し歩こう。ここから100番のバスに乗ってベルリンを横断するのだ。2階建てバスの2階にあがって一番前に座れば、目の前にパノラマが広がる。やがてバスはジーゲスゾイレ(戦勝記念碑)にさしかかる。右折してティーアガルテンの真ん中を抜けてライヒスターク(国会議事堂)の横を通り、ブランデンブルク門に達する。100番のバスはさらにウンター・デン・リンデン通りを東に向かうが、ここで降りてあとは歩く。門の前は広場になっていて、観光客で賑わっている。手回しオルガンの音。さっきバスでくぐった門を今度は歩いて逆の方向に抜けてみた。壁が存在していた時には自由に通ることのできなかった門を、今は誰もがなんの憂いもなく、通り抜けることが出来る。

歩いていくと、改修工事中のライヒスタークまで戻る途中に白い十字架がいくつも並んでいるのを見つけた。

十字架がつづいている

十字架の列

一番左の十字架の日付は1961年8月13日。もっとも新しいものは1989年11月9日。ベルリンの壁の犠牲者たちだ。無言のまま、墓標の前に立ちすくんだ。自由を求めて、壁を越えようとした人たちが、不幸にも、命を落とした場所だ。ライヒスタークが工事中の今は訪れる人はほとんどいないのだろう。たまに行き過ぎる人が一瞥していくぐらいだ。声にならない声が聞こえる。28年間、人々の自由を奪い、ドイツを分断してきた「壁」がついこのあいだまで、ここに実在したのだ。何人もの人が命をかけてこえようとした、あの「壁」が。十字架は静かに立っているが、私には「忘れないで」という声が聞こえる。人は過ちをおかす。だが、一度おかした過ちは二度とおかさないくらいの知恵はあるはずだ。歴史を学ぶ大切さは、かつての過ちを繰り返さないことにあるのではないだろうか。十字架は語りかけつづける。

復興した大聖堂

再び100番のバスに乗り、ルストガルテンで降りる。すぐ目の前がベルリン大聖堂だ。入場料5マルク(約385円)。ここは戦災からようやく復興したばかりだという。内装は確かに新しい。高さ115メートルの大天蓋を眺めていると、オルガンが鳴り始めた。いまだに戦争の傷が癒えないベルリンが、新しく生まれ変わろうとする息吹だろうか。そういえば、この大聖堂もまた再建途上のようだ。街全体が、修復中であり、工事中であって、やがては美しい姿を現してくれるのだろうか。

壁だけではない

Museum am Checkpoint Charlieは通称では壁博物館と訳されている。入場料7.5マルク(約577円)。かつてチャーリー検問所があったころには、東側から逃げてくる人たちにとって灯台とも救護所ともなった所らしい。実際、壁の一部がレリーフになっていたり、脱走に使われた車やトランク、偽造した制服などが展示されている。他にも潜水して、気球に乗って、トンネルを掘って、多くの人が壁を越えた。しかし、この博物館が伝えようとしているのは、もっと広いこと、非暴力運動の精神である。

かつての壁のレリーフ

世界の各地で、今も

1968年「プラハの春」。戦車の前に素手で立ちふさがった人たち。ポーランドではワレサ率いるソリダルノスチ(連帯)のストライキが。フィリピンではアキノが殺されても民衆は戦いつづけた。たとえ敗れても、運動のともしびは燃えつづけた。いろいろな形で。たとえば、旧東ドイツのイエナでは、毎週、教会の前で輪をつくる人々がいた。みんな白いシャツを着て。それは、無言の抗議行動だった。やがて、少しずつ輪は大きくなっていった。官憲の弾圧をたくみに逃れて、運動は継続した。

パネルはまだ続く。ガンジーの独立運動、マーチン・ルーサー・キング牧師の公民権運動、反ベトナム、サハロフ博士。あっというまに3時間がたっていた。

チャーリー・ポイントの跡

博物館を出て右手に歩くと、チャーリー検問所跡に自由の女神像が立っている。「ここから先はソ連管轄地域」との掲示も昔のまま残されている。あまたのスパイ小説の舞台になったところである。ジョン・ル・カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』の悲しく、やるせないラストシーンを思い出して感慨にふける。

強制収容所跡へ

翌日、10月1日、火曜日。美術館回りを早々に終えて、ザクセンハウゼン収容所跡に向かう。地下鉄S1に乗って終点のオラニエンブルクまで約1時間。小雨。タクシーを拾って5分と走らないうちに着いてしまった。午後2時30分。入場は無料。入り口からきれいな並木道がつづく。すでに紅葉し始めている。ここがユダヤ人などを閉じこめた跡とは思えない静かさだ。

過去から学ぶ

パネルを順に読んでいく。反ユダヤの歴史が現代にいたるまで、説明されている。そのなかにナチスの蛮行も位置づけられている。アウシュヴィッツでは、1日に6千人(桁の間違いではない、6,000人/日)が殺されたという。まさに殺人工場だ。記念碑に向かって歩いていく。花が捧げられている。左手は、ガス室の跡で、そこにも花があった。

ガス室の跡に花束が

雨が激しくなってきた。何か、私にできることはあるだろうか。歴史を学ぶこと。記憶に刻み込むこと。語りつづけること。小さな歩みが、やがて大きなうねりになることを信じること。

豪雨の中、道に迷う

収容所跡を出る頃には、土砂降りになっていた。タクシーも電話も見つからない。駅までそう遠くないはずだ、と歩く。車で5分足らずだったのだから。やがてT字路に出た。勘で右に折れた。頭にかぶったバンダナはもうぐちゃぐちゃだ。どうして傘を持ってこなかったんだろう。道を聞こうにも人影がない。ようやく人に会った。30代の女性だろうか。英語で答えてくれた。今来た道を戻って右へいくのがbest wayだという。結局さっきのT字路に戻った。やがて線路にぶつかった。くぐるか、右へ行くか。また勘で右へいく。線路沿いにしばらく歩く。工場みたいなところに出てしまった。車を出そうとしていた50代くらいの夫婦に駅までの道をたずねた。英語で聞いて、ドイツ語で答えてくれる。それによれば、また道を戻って、線路の下をくぐるところが二つある、その二つ目を右にくぐるんだ、ということらしかった。ドイツ語はほとんどわからないが、こういう緊急時には何故か理解できるものだ。やがてさっきの線路にぶつかった所に戻る。よくみると、線路沿いに左手に行く道が細々とついている。心細いが、人の言うことを信じよう。ひたすら歩く。すると、大きな通りに出た。線路の下を右にくぐる。ここは、タクシーから見えた景色だ。駅はもうすぐそこだ。歩き始めてから1時間がたとうとしていた。ホームで電車を待つあいだにバンダナを脱いで絞る。午後5時。早くホテルに帰ってシャワーを浴びよう。

戦争の傷跡を訪ねて、親切の温かさが身にしみた1日になった。

やがて終わる旅だが

旅はいつか、終わってしまう。終点に近づくたびに、私はもっとよい旅のやり方はなかったのか、反省する。おそらく、もっと効率的に見所を回る方法もあるし、もっと安上がりな足や、もっと疲れない道もあるだろう。しかし、結局は一回限りのこの旅がよかったのだと思う。失敗も出会いも含めて、私の旅なのだ。同じところを同じ季節に訪れても、きっとまた違う旅になるだろう。どの旅がよくて、どの旅が悪いということはない。旅がいつか終わるのなら、哀愁を込めて振り返ろう。

この旅が終わり、日常へと帰っていく時、もう新しい旅が始まっている。

哀愁のヨーロッパ オーストリア・ドイツ篇 第12話 【白い十字架】 完

text & photography by Takashi Kaneyama 1997

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