idle talk56

三井の、なんのたしにもならないお話 その五十六

(2020.09オリジナル作成)


 
 同時代人、スガ氏の首相就任に思う 
−「集団就職」とは何か


 
 次期首相が、前任者とは対照的に、無名の一庶民から政治家になり、苦労の果てにその地位に就いた、まさに「立志伝の人物」だとされている。前任者のアベ氏や副総理アソウ氏らは代々政治家の一族の出であり、過去に宰相らを輩出、いわば名家で、将来の地位がなかば約されていたともされる。そうした評価は一面的、あくまで個々人の才と努力、人望の問題だと見る方が本来妥当だろうが、客観的にそうした事実のあることも否定できない。また、そのなかでの人生経験や思考行動の結果の及ぼしたものを、無視するわけにもいかないだろう(だからといって、前首相らは庶民の苦労や悩みも知らないボンボンだ、という「批判」が広まるわけでもないのが、この国の笑えるところだが)。
 それに比べ、次期首相のスガ氏は、生まれも育ちもなにもなく、正真正銘の苦労人、たたき上げだと持ち上げられる向きが少なくない。秋田の農家の出、「集団就職」で上京、働きながら大学で学び、その後も普通の勤め人であったが、心するところあって政治家の門を叩き、秘書を務め、長年下働きののち、自ら政治家を志すに至った、という「苦労人」「立志伝」が盛んに書き立てられ、持ち上げられているいまである。実際、『週刊文春』という雑誌に、「このひとはすごい苦労人で、集団就職で上京されたと聞き、かなり好意を抱いてしまった」と、ハヤシマリコという作家が記している。

 しかし同じ雑誌に、かなり異なる「事実」が記されている。要約すれば、「秋田の農村から集団就職で上京し、働きながら夜間大学に通った」というのはなかば嘘であり、彼の生家は早くに苺栽培などで成功、親は地元の名士・町会議員になり、2人の姉も大学を出て、教員になっている。本人は地元高校を出たのち、東京に勤めに出ているが、「集団就職」ではない、その1年後には大学に入っているが、夜間部ではない。法政大学一部法学部政治学科卒業というのが事実のようである。そして、卒業後民間企業勤務ののち、議員秘書になり、横浜市議をへて、1996年国会議員に当選、今日に至る、というわけである。
 
 スガ氏御本人が、こういった誇張された「立志伝」を振りまいていたのか、単に周りが思い込みで話しをふくらませたのか、それは何ともわからない。へたをすれば経歴詐称で、国会議員の地位にもかかわるので、嘘八百ということはないだろうが、ハヤシ氏のごとくに一定の印象操作を招いたことも否定はできない。
 
 そこで、こうした風説の真偽よりも、客観的な状況を確認し、なぜこのような「都市伝説(農村伝説?)」ができたのか、その位相を少し考えてみよう。



 次期首相のスガ氏は、私とも殆ど年齢が違わないので、まさに同時代人である。その10代の頃は、歴史のうえでは戦後日本の「高度成長期」であり、また大きな社会変動の時代でもあった。農村から都市へ、農林漁業から第二次産業、第三次産業へという大きな人口移動と就業構造変化の時代で、スガ氏もその流れの中にあったことがわかる。生地は秋田県の農村で、農家の長男に生まれたが、農家を継ぐことなく高校卒業後に上京、働きながら進学、以来生地に戻ったことはない。
 
 ちなみに、すでにあれこれ書いているが、私の父親は実家の農業を継ぐことなく、東京に出て学校に通い、そして職に就いた(長兄以外、継げる規模でもなかった)。私自身が生まれたのは、疎開先でもあった父の郷里だが、その後一家は東京に戻ったので、東京での暮らししか私の記憶にはない。


 ただ、ここで第一の問題が生じる。ハヤシ氏のごとくに、「集団就職で上京」という誤認である。いかにも、高度成長期の貧しい農村から都市へ、仕事と糧を求めて出て行ったというイメージになるが、さて「集団就職」とは何なんだろう。

 地方の中学や高校卒業生たちが「まとまって」東京などに就職していったなどという曖昧なかたちをさすわけではない。
 『世界大百科事典』によると、「集団就職」とは「地方の中卒者が東京、大阪など大都市の企業に、労働省などのあっせんにより集団で就職すること」とまず記されている。1954年に始まると言われ、1963年には労働省、各都道府県、公共職業安定所なとと日本交通公社がタイアップし、本格化した。最盛時の1964年には35道県から7万8407人を記録、集団就職専用列車がのべ3000本もあったが、その後減少、労働省は77年からの廃止を決めた、とある。つまり、非常に制度化された仕組みであり、スキームなのであった。
 
 その背景にはもちろん、高度成長期での都市部の重化学工業はじめ、成長産業の膨大な労働力需要と新卒者確保の要請がある。これを制度的に担うため、労働省・職安が重要な役割を果たし、都道府県市町村、各学校と連携し、求人と斡旋を図った。今日も中学校、高校卒業生は基本的にそうだが、未成年者であることもあって、生徒個人での就職活動を原則認めていない。大学と違って就職部などというものもない。求人側もそうした制度的仕組みを通すことで、確実に人材を確保し、安定的に採用を図ることが容易になる。しかも、大都市と地方農村という距離があり、就職=都市への移動等という「旅」を伴う以上、これを効率的に担う「集団就職列車」というものが編成されるに至ったわけである.「新規学卒一括採用」という「伝統」が脈々と生きていれば、毎年3月末に学校をおえた新人たちが、4月入社を目指し一斉に旅する光景が全国に広まったのであった。もちろん、中学をおえたばかり、15才の若者たちが故郷の生家から大都会に旅立つには、ひとりぼっちでは不安だっただろう。大都会に足を踏み入れ、未知の暮らしと仕事に従事するには、関係者の付き添い案内とともに、ふるさとの仲間、とりわけ同窓生らとのつながりは何よりの支えだっただろう。



 高校卒業生が「集団就職」に加わっていた可能性はある。しかし、当時も高校生ともなれば大都会に足を踏み入れた経験もあり、進路選択と就職のありよう、ルートもさまざまあったかも知れない。なにより、当時すでに、中卒就職というのは次第に社会の少数派になってきていたことを見落とせない。

 文科省の学校統計によると、1964年の高校等への進学率は69.3%で、翌年には7割を超えている。つまり、中学を終えただけで、家業を含めて職に就く、職業専門学校などに入る、あるいは無職となるといった人は全体の3割を切るようになったのである。これが10年前の1953年にはまだ半数近く、48.3%あったのだから、高度成長下に就業や居住のあり方が激変したにとどまらず、進学率の上昇が明確に進んだのであった。
 ちなみに、私が中学を終えたのは1963年のことだったので、まさにこの年代前後である。私が出たのは、小学校1年の時に移り住んだ東京郊外の新興住宅地の新設中学で、高校に進まないで就職等をするという同期生は少数だった。もちろん、スガ氏の出た秋田県の農村部の学校であれば、高校進学率はもっと低かっただろうし、伝統的には、義務教育を終えれば、家業の農林業に就くというのが通常の選択であっただろう。そこに高度成長とともに、「大都会に集団就職する」という流れが加わってきたはずである(「出稼ぎの時代」はそのあとである)。

 だから、スガ氏の育った環境においては、中学終えて集団就職という道は紛れようもない、明確な一つの選択であったはずである。それゆえ、彼が高校に進んだときに、すでにそういった道を選んだ同期生らと違う道を歩んだことは明らかだろう。農業で成功した親は、彼に地元に残って後継者になってほしかったらしいが、それは当人の本意ではなかったという。高校を出て農家を継いで悪いことはなく、親は「農業大学校という選択肢もある」ともすすめたという噂もあるが、スガ氏は「東京に出たかった」のだろう。おそらくは、高校で求人票を見て決めたのか、縁故で人づてに話を貰ったのかして。
 それで、東京に出て就職、その後大学に入学したが、傍ら働いて生活費などを稼いでいた、この辺はおそらく間違いないのだろう、たとえ夜間部入学でなくても(当時の法政大学の実態では、授業ない、校内には入れない、の毎日であった。別にパンデミックのせいじゃありませんが)。
 
 いずれにしても、中学出て「集団就職」というのとは明確に異なる道を選んだスガ氏に、そういった形容がつきまとうことになったのは、悪意や故意でなければ、ひとが「集団就職」とはどういうものであったのか、明確に認識しない、なんとなく、「地方から東京に出てきて就職した」といったイメージの形容にすり替えられてしまったせいではないだろうか。なぜ、「集団」なのか、それはどういう意味を持ったのか、もはや遠い歴史的過去になってしまった以上、なかば避けられないところでもあるが。
 

「集団就職」のその後を追った、感動のドキュメント・『"社長"になった金の卵たち』(1989)

 「集団就職」の語自体は決して死語ではないし、その実情を取り上げたTV番組や書籍は少なからず出てきている。近年は某テレビドラマシリーズの主人公が、まさしく「集団就職を経験し、工場勤めをした」というストーリー展開になっていた。ただ、このヒロインは茨城の農村部で育ち、東京オリンピック後の1965年に、高校を終えてから東京のラジオ工場に就職したという設定らしいので、スガ氏にまつわる誤解の源になった可能性もある。茨城県あたりからも「集団就職」が組織されたかもしれないが、それは単に、「同期生や友たちがまとまって、同じ企業に就職した」という意味に置き換えられてしまっていたかも知れない。

 
 
 これに対し、「集団就職」とその後の現実を如実に捉えたTVドキュメンタリー番組がある。NHKが1989年に放映した『"社長"になった金の卵たち』というもので、放送以来もう30年が過ぎ、この番組自体が歴史的過去になってしまったが、私はいまに至るまで、日本での優れたドキュメンタリー番組の五指に入ると考えている。当然のように、井沢八郎の歌った『あゝ上野駅』が繰り返しバックに流されたので、印象は鮮烈だろう。
 私にとって意味があるのは、これが岩手県の寒村から「集団就職」で東京に出た人たちのその後を追っただけではなく、題名にあるように、そこから起業し、「社長」の肩書きを誇りとしながらも、紆余曲折、倒産などの挫折を味わい、なおまた人生のやりがいを求め、挑戦を続ける姿をありのままに描いたからでもある。つまり、まさに「中小企業研究」「企業家研究」の格好の教材・資料である。高度成長期を挟み、なぜ日本では高い開業率が維持され、企業数が著増したのか、その背景と実態を、見事に示していてくれる。
 
 だから私は20年以上にわたり、この番組を教材として、担当授業の『中小企業論』『中小企業政策論』『起業論』『事業創造論』などのなかで、欠かさず活用してきた。初めのうちは、「そう言えば自分の親がそうだった」「親戚のおじさんがそうした集団就職の経験をしたと聞いた」などの反応が返ってきた。「あの人たちの頑張りはすごい」といった感想もあった。しかしそれも、「そう言えばおじいさんは田舎から出てきて、苦労して起業して」とか、「あまりにスゴくて、とてもいまの自分たちではついて行けない」などというように、世代のギャップが次第に広まり、そしてついには、「同じ日本の出来事とは思えない」「まるで実感がわかない」などの冷めた反応がほとんどになってしまった。上映中の顔色をうかがっても、およそ響くところもない、興味を引かないのがよくわかる。だから、もう「教材活用」はしないことにした。
 にっぽんの学生諸君が無理なら、外国から来られた人たちはどうなのか。これは別の意味で、おもしろかった。たとえば中国出身の諸君は、90年代から2000年代ころまで、「これはいまの中国の姿そのものです」という、熱い反応を返してきた。しかしのちになると、「これは中国でも以前の話ですね」、「いま、さしずめベトナムがこうじゃないでしょうか」などと、「過去形」に転じてきたものである。
 

 『社長になった金の卵たち』は、岩手県の寒村上斗米の中学から「集団就職」で東京に出た人たちのその後を追ったもので、社会事業大学の行った追跡調査結果に基づいているので、決していい加減なものではない。そして、男子の1/3近くはのちに事業をおこしているという結果を踏まえている。そこには、中卒で勤めていても、給料は安い、将来の見通しがない、ひとに使われているのはいやだ、中卒ではいつまでも出世できず高卒に追い越される、覚えた仕事を生かしたい、けがや病気をしたなどあり、大半の人がその後転職を繰り返し、その中で機会をとらえ、「社長」となってきているというわけである。「社長」とは言っても、社員はパートの女性二人のみ、店もない「催事や」さんとか、建設工事会社を起こしたが、不況の波を食らって倒産、いまはトラックの運転したり、工事現場の住み込みで働きながら再起を狙っているとか、悲喜こもごもである。なかには、バブルの波に乗り、住宅リフォーム業で絶好調という例もあったが、バブルの崩壊でどうなってしまったのか。

 
 ともかく、東北本線二戸駅から乗った「集団就職」列車の旅の鮮明な記憶とともに、「手に職つける」「一旗揚げる」「故郷に錦を飾る」「一国一城の主」「使用人ではうだつが上がらない」「しょせん中卒では」などの、絵に描いたようなキーワード=文化表現が飛び出す。もちろんそれを番組制作側が「やらせ」で言わせているようなものではない。この番組がドキュメンタリーとして優れているのは、カメラや取材陣が「そこにいない」かのように、その場の出来事や振る舞いや会話を「もっともらしく客観描写する」ような撮り方をしていないところにある。取材側と、撮られる相手とがやりとりをし、対話が成り立っている。いまでこそ、こういった撮り方はドキュメントもの、ロケものの「当たり前」になったが、以前は、隠し撮りでもしたのかいと言いたくなるほど、「カメラの存在がない」撮り方、編集が横行していた。撮される人たちが自分たちだけで振る舞っている、んなことありえないだろうが、それはすでに一つの「演技」だろうが(その頂点が、「土光のメザシ」という史上最大のやらせプロパガンダであるというのは、以前指摘した)。
 
 ただ、こうした「戦後的」エンタープライズカルチャーの姿に対しては、批判的な意見も貰った。あれでは、経営の知恵や才覚がない、ひたすら頑張るだけでは無理、コンプレックスの裏返しだけではなく、もっと経営の勉強を、何を競争力源にするのか、などである。それももっともだと思う。ただ、言い換えれば、高度成長期の日本に起こった出来事は、まさにそれだったのだ。私にとってはまがうことない、同時代の人々の生き様、苦闘と喜び、悲しみそのものなのだと。
 

 さて、まさしく同時代人のスガ氏が、おのが人生軌道を振り返り、たとえ「集団就職」はしなかったにせよ、地方から東京に出、さまざま仕事を経験し、なおまた向学心を持って、尽力し、困難を乗り越え、人間社会のなかでどのように生きてきたものと記憶をしているのか、その中で培われた心を、政治にどのようなかたちで生かすのか、それはこれからの課題である。地方から都会へ、「集団就職」から転職の繰り返しへ、そして一念発起して起業へ、上げ潮からどん底へ、さまざまな喜怒哀楽を経験してきた人たちに心寄せるのかどうか、見守りたい。「セイサンセイが低い」などとあげつらうにとどまることなく(まず「自助」だ、それから「縁助」だ、国なんか当てにするな、「公助」は最小限、「自己責任」第一ということで、あまり期待もできないが。「下駄屋のHちゃん」の先例もあるし)。




「集団就職」の検証

 『日刊ゲンダイ』紙の2020年9月18日号が、スガ氏の経歴に関し検証をしているのを見ました(FBに上げてくれたひとの記載からです)。当人への過去のインタビューを踏まえたものです。


 記事を要約すれば、スガ氏がいわゆる「集団就職」をしたというのは誤認であり、同氏自身も認めている。これに関する同氏の言い様を記事から転載すれば、「当時、(中学と高校の集団就職の)垣根もなかったでしょう。高校を出て一緒に出ましたよね。高校を出ても、そういう言い方をしていましたし。学校で就職を紹介してもらっていましたから」
 高校を卒業するとき、東京の段ボール工場の働き口を斡旋されたから、「集団就職」と理解しているという脈絡なのである。もちろん、そこでみんなで「就職列車」で上京したといった「感動的な」一生の記憶も出てこないから、同氏が制度的な「集団就職」を経験したとは言えない、「一緒に故郷を出て、東京で就職した」という意味に理解していることがこれでわかる。


 さらに、当時の進学状況や進路選択の意味について、この記事に依れば、同期の中学卒業生120人のうち、60人は東京に出た、残ったうち30人は自分の農家を継いだ、高校に進学したのは30人だった、このように自身語っているという。つまり、進学率は25%に留まり、当時の全国平均に比べても相当低かったことがわかる。裏を返せば、高校に進んだというだけで、かなりの恵まれた環境だったと言うべきだろう。ここですでに、「中学出て、就職列車に揺られて皆で東京へ」という「集団就職」のイメージを外れていることが示される。



 高校を出てから、なぜ東京に職を求めたのか、これもスガ氏は語っている。「だって、私はやっぱり農業を継がなきゃまずいのかなと思って。だから、ある意味、逃げるようにして出てきたの。で、東京に行けば、何かいいことがあるって……」、つまり、スガ氏は高校に送ってくれた親の意思に従い、農家を継ぐことがいやで、東京で就職するという選択をして、親元を離れようと決意したのである。指摘されているように、農業経営で成功を収めた父親にしてみれば、長男のスガヨシヒデ氏になんとか継いでほしいという希望は強かったのだろうが、それにはどうしても従いたくない、あえて親元を離れるという意味での状況・就職だったのだろう。

 そして、上京後のことを、スガ氏自身が総裁選所信表明会見で語っているという。「就職のために東京に出てきました。町工場で働き始めましたが、すぐに厳しい現実に直面し、紆余曲折を経て2年遅れで法政大学に進みました」、こういう自己紹介だった。その辺の人生遍歴や思いの変容など、細かいことは誰も知りようもないし、多くの人間がこうした若い日の曲折を多々経験しているところに変わりもないだろう。ただ、その先に大学進学という選択肢が見えてきたあたり、思いを伺いたいところでもあるが、御本人がこれまで多くを語っていないので、検証はここまでとなる。


 いずれにせよ、秋田県の農村から集団就職して東京に出、町工場で働きながら、苦学して大学を出た苦労人」という、つくられたイメージの物語は、相当に誇張されたものであることが、これでも明らかである。「集団就職」の過去と、人々のいまを語ってきたTVのドキュメンタリー番組は、上記の『金の卵たち』のほかにもいくつもあるが、共通しているのは、中卒で就職したゆえの困難、壁、きつい仕事、苦い経験、屈折した思い、数々の挫折であった。そのまま就職先に長く勤めたひとは希有であった。そういう現実があればこそ、スガ氏は大学進学を願うに至ったのかも知れないが、少なくとも、「中学卒業・親元離れて就職列車で東京へ・15才で集団就職するも挫折を経験・職を転々としながら、『社長の道』に挑戦」といった経験を重ねた人たちとは、相当に違うのである。



「同時代史」としての客観検証と、主観的思い


 世上言われるスガ氏の経歴というものがどの程度事実なのか、という確認から、時代の経緯をひもといた。それからまた、いろいろ示唆され、また思い起こされることも少なくない。1948年12月生まれというスガ氏と私はほぼ同時代人なので、おのれ自身の人生に引きつければ、考えさせられることは数々ある。


 一番大きいのは、中学出ての「集団就職」といった出来事は、決して遠い昔のことではなく、私自身にもまさしく同時進行のことだったという重い事実である。
 うえに引用したように、「集団就職」というかたちは1963年に本格化した。この年は、私自身が中学を終えた年でもある。前記のように、私の通った東京郊外の中学で、進学せずに就職や職業専門校に入るといった選択をした同期生は少なかった。正確には確認できないが、同期卒業生のうち1割程度だったのではないだろうか。学区内に農家もあったが、中学終えて農業従事するという話は聞いたことがなかった。このとき、全国でも中学卒での進学率は5割を超えていたのだから、「中学終えての集団就職」というのは、むしろ少数化してきており、以後もどんどんその割合は減っていったわけである。だからこそ、中卒労働力は「貴重」であり、金の卵と呼ばれる必要性もあったに相違ない。

 スガ氏の通った秋田県の農村の中学では、進学率は3割にも満たなかった。東京はもとより、全国平均と比べてもあまりに差は大きい。しかも、「遠い昔」となれば、何かみんな一緒くたに思えてくるが、1963年前後というのは、相当すごい時代だったのである。言うまでもなく、スガ氏が中学を出た1964年は、先の「東京オリンピック」の年であった。私の住んでいたところの近くには競技会場の一つが建設されたので、数年前からすさまじい勢いで工事が進み、町はたちまち変貌を遂げていた。中学生たちにも胸躍る経験だった。他方で、小学校時代から度々行った駒沢球場でのプロ野球は、なくなってしまったのだが。

 世の中としてはもちろん、高度経済成長まっただ中のことであった。その雰囲気を象徴するかのような、植木等の「スーダラ節」は1961年発表で、映画化されたのが翌年、「無責任男」シリーズもこの年の製作、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」と、時代の先端のサラリーマンをカリカチュア化し、笑いのめしたのはまさにこの頃だったのだ。もちろん当時の中学生もよく見聞きしていたものだった。

 その一方で、ユージロー青春映画などの後を受ける、加山雄三演じる「若大将」シリーズも、1961年から始まる。そのうちの一作の撮影現場に、中学生の私は出くわしたこともある。学生マラソンランナーとして走る若大将の姿を撮っていたが、別に長躯疾走してきたわけでもないのに、エキストラの観客に囲まれ、メイクと霧吹きで、疲労汗だくの姿に化けるのを見て、唖然としたのをいまも覚えている。



 つまり、この1960年代前半というか、昭和30年代後半というか、世の中は繁栄と成長謳歌のただ中であったような印象にあるわけである。けれども同じ時期、東北の農村などからは。義務教育を終えただけで就職し、村を離れていくのが普通の光景だったのだ。その落差はあまりに大きい。もちろんそれはこの時代に始まったことではなく、戦前の昭和初期にも似たような有様だったのだろう。大都会の華やいだ風景と、長年変わらない農山村の姿と暮らし、そのあまりにも大きなギャップのうえに、高度成長と急拡大する若年労働力需要というものが新たに覆い被さり、中学を終えた若者たちが貴重な働き手として、また夢を抱いて、大都会に吸い寄せられていったのだ。私たち戦後ベビーブーム世代が都市にも農村にも溢れ、一方では進学率の上昇を伴っていたが、他方ではそのはけ口が新卒若年労働力として引き寄せられていったのだ。少なくとも、「行き場なき若者世代」といった認識はなかった。



「金の卵たち」の苦闘と、進学競争のなかの高校生活と

 中学を終えただけで、東京などで仕事と暮らしに格闘する同世代の若者たちが大勢いた一方、私にはその姿がほとんど見えなかった。中学を出て私が進んだのは、都立のいわゆる「進学校」だったから、「勉強する」「点数を稼ぐ」ことが最優先の世界だったのは否定できない。当時のことで、その一方リベラルな雰囲気もあり、「自ら考え、行動する」「おのれの思うところを主張し、引かない」「社会の問題に向き合う」のが一つの底流もなしていた。高校の先生方も、ひたすら勉強しろ、点をとれとするのではなく、むしろそういった既定の観念に凝り固まったような精神をぶち壊し、あえて挑発するような姿勢も多々見えた。「自主性」「主体性」尊重といった月並みの表現にも収まらない、ある意味ぶつかり合いだっただろうか。生徒同士もよくぶつかっていた。

 けれども、そうした数々の波風とうねりの向こうには、「大学進学」という大前提が動かしがたく横たわっていたことも否定できないだろう。「なんの為に進学するんだ?」といったマジな議論は多々あったが、だからあえて進学などしない、人生まずいろいろ経験してみる、他にやりたいことが多々ある、そういった声を聞くことは少なかったと思う。そうした選択をされ、芸術などを極めた達人、家業を継いだひともいたはずだが。また、同じ高校に実は定時制課程もあった。昼働きながら夜学ぶ、志高い人たちが通っていたわけだが、交流の機会は乏しかった。そのなかには、中卒集団就職組の人もいたかも知れない。


 ベビーブーム世代まっただ中にあっては、「受験競争」は熾烈なものであったことは否定できない。すでに記したように、「都会の秀才」たちではなかった私には、この競争はかなりしんどかった。しかも、「都会の英才」たちは、試験などどこ吹く風のように、歌舞音曲、競技体力にも優れ、多芸に秀で、まさに「青春を謳歌」している雰囲気だった。そういった「違う人種」の存在を心底記憶に焼き付けられたのも、忘れられない私の個人的な人生経験だっただろう。



 「受験競争」に苦戦し、大いに迷走を続け、あれもこれも逆らってばかり、その後の大学生活はまた別の意味で苦戦し、つまるところいつも回り道、自分自身と世間への言い訳のなかで生きてきたようなこの10年あまりというものは、おのれ自身にはそれなりに重い。「そういう時代だったんだ」などというエクスキュースを口にして納得できるほど、さすがにこちとら無責任でも小賢しくもない。結局はおのれの浅学非才と迷ってばかりの弱い心と、無芸小食と、論争に一人立ち向かうほどかっこよくも度胸もない、またひとに好かれない、評価してもらえないたちを、ひたすら確認するだけの人生だったのだろう。


 そんなこんなで、同時代のひとたちが15歳から世間での苦闘を続け、多くの曲折、挫折、悩みとためらい、喜び苦しみを乗り越え、人生行路が一定固まったのかな、というような30過ぎて、ようやく私はまっとうに職に就き、給料をもらえる身になれたのだ。足かけ「苦節15年」というところだろうか。
 ふざけんじゃないよ、その15年間どうやってメシを食っていたんだ、いや中学卒からならほぼ20年、その間に俺たちはどんなに苦労し、汗水流し、働き、心身をすり減らし、つらい思いをしてきたのかわかるかよ、そんな声がたちまち聞こえてきそうだ。


 そうしたおのれ自身の後ろめたさと、若干の自己弁護を掛け持ちしながら(「失った10年」のつけが、年金生活者となったいまにもろに来ていることは、すでに記した)、それをまたおのれへの重い教訓としながら、同時代の人生のありようとして、「集団就職」世代との同時進行というものをいま少し確認してみよう。


 前記のNHK特集『社長になった金の卵たち』は、岩手県上斗米地区という地域から、中学を終えて東京などに就職していった人たちのその後を、1989年という時点でとらえたものなので、必ずしも特定の年代の人たちだけを取り上げたわけではない。なかで詳しく紹介される個々の人たちも、このときすでに50歳近い人まで含まれている。けれども、焦点が当たるのは、1989年正月に42歳の厄払いを兼ねて郷里に集った同期生たちで、このひとたちは1963年に中学を卒業した、つまり完全に私と同い年ということになる。高度成長絶頂期とはいえ、転職やら独立開業やらを経験し、世の浮き沈みをもろに味わい、なおまた旧交を温めるべく郷里に帰り、恩師や同窓生らと酒を酌み交わし、思い出でとともに涙し、「あゝ上野駅」を何度も繰り返し絶唱する。その手を取り、「言葉にならない苦労」に中学の恩師も涙を拭う。



 ちなみに、かって彼らが旅だった二戸にはいま新幹線も止まり、どれほど故郷の姿は変わってしまったのだろうか。いっそうの「ストロー効果」で、ますます村と町は寂しくなっているのだろうか。また、この生徒たちの恩師・荒木田先生は2015年に81歳で亡くなられたと、インターネットのおかげで検索で出てくる。のちに校長も務められたようだ。私自身の小学校から大学までの恩師もすでに、どなたも生きてはおられない。おのが歳を考えれば当たり前なのだが(高校の先生のうちには90歳を超えてご健在の方もおられるが)。
 それから、この番組「社長になった金の卵たち」に、のちにたまたまblogで言及された方もいた。地元で畜産事業を経営されておられ、「集団就職」から社長の道を求めた物語に興味を持ったのだが、番組自体は未見と記されていたので、私から送ってあげた。喜んで頂けただろう。


 1989年、私はこの放映された番組を授業の教材として活用する立場になっていたし、前後四〇代はいろいろなことができた年代だった。その三年前、生まれて初めて日本を離れ、英国ロンドンで一年半を過ごした。二年後の1991年には、おのが単著を出した。それらを含めれば、同い年の人たちの非常なご苦労に比べ、「いい思いをした」方であり、「独立する」気概なくして、雇われる身でも、はるかに気楽であっただろう。そこまでのコストを10年近く払ったと居直るか、親がかりの楽な身の上に甘えっぱなしの輩と嘲笑されるか、まあどっちでもいいのだが。



 いまいちど番組に戻ろう。1963年「集団就職組」の一人、催事やのK氏は、番組進行のなかで、忘れられない「集団就職」の旅立ちの地、二戸駅からとんぼ返りして、年明けの初仕事、名古屋のデパートでの物産展出展を準備中、交通事故に遭って入院してしまう。まさに「台本にない」リアルな進行そのものである。取材陣も驚き、入院先に見舞いに駆けつける。
 幸い命に関わるような重傷ではなかったが、肋骨骨折で動きがとれず、出店の店はひとに任せねばならず、売上低迷、甚大な赤字を被ることになる。けれどもその口から出てくるのは、「こんなもんじゃ負けない」「へこたれない」、「これで尻尾巻いて故郷に逃げ帰ったりすれば、上斗米中学泣いちゃう」といった、まさにがんばりズムそのものの、誇りに満ちた「社長言」だった。カメラの前とはいえ、やらせでも台本・演出でもない、画面を圧倒する不屈の言葉が、病院のベッドの上から、歳の割りには老けている口からあふれ出た。「ガンバリズムだけじゃあ」「もっとしっかりした事業計画を」「まさにBCPの課題」などという客観ぶった今風批評など、とりつく島もないエピローグだった。



「背水の陣」で一国一城の主に・『集団就職列車 15歳の旅立ち』(2009年)
 −「決して帰るまい」と決意したひと、修業の腕で故郷に店を出し成功したひと、40年ののち挫折したひと


 NHKは「集団就職」をめぐる記録をさまざまとりあげ、番組化している。そのうちには、文字通り終わりを告げた『最後の就職列車』(1975年放映)もあり、その中の大部分の若者たちはすぐに転職し、また故郷に舞い戻ってしまったことがのちに確認されている。

 このフォローアップを放送したのは、『集団就職列車 −15歳の旅立ち』(2009年)のなかであった。75年放送のものを含め、過去の取材と記録を元に、21世紀において、かっての集団就職組がいま何をしているのか追っている。このうちで、「一国一城の主」になるという夢をともに実現した三人の登場人物は、ある意味対照的な歩みだった。

  青森県のさいはての町出身のAさんは、1964年に集団就職で上京した。まさに東京オリンピック開催の年、高度成長絶頂期であるが、そのときAさんは、何があっても絶対にもう故郷には戻らないと決意していた。その前に父が亡くなり、母一人の身の上となって、戻りたくても戻りようもない境遇にあったのである。

 Aさんは、最初郵便局の配達の仕事に就いた。しかし、道も地理も不案内な地で、重い鞄を自転車の前にくくりつけ、配達をして回る仕事は15歳の身にはこたえすぎ、数ヶ月で辞めてしまったという。その後、金属加工の工場で旋盤工見習いになったりしたが、川崎の理髪店に見習いで入り、これを終生の仕事にしようと決意するに至った。懸命に技を磨き、理容師資格を得、そしてともに修業していた女性と結婚、神奈川県内で待望の店を夫婦で持つことができたのだ。熱心な働きぶりで商売は安定し、夫婦共働きで店は守られ、三人の子らも成人した。60歳を迎えたAさんは、これまでの人生を振り返るとともに、故郷の母を呼び寄せ、同居をしている。「ここが自分のふるさとだ」と心に決めて。

 いま、八十過ぎの母親は脳梗塞で倒れ、口もきけず、体も動かせない寝たきりの身になってしまっている。でも、母とともにいられることに、Aさんは満足を覚え、介護看病をし、心安らいでいる。三人の子のうち、後を継ぐものがいないことに寂しさもあるが、それはそれぞれの生き方だと割り切っている。


 Aさんの人生といまの暮らしのなか、一つ象徴的だったのは、本人の趣味か、店の中には立派なオーディオ装置がしつらえられ、自作とおぼしき大きなスピーカーが店の棚を飾っていたことだった。それでAさんは、愛聴のビートルズ「抱きしめたい」をかけた。そう、この曲が空前の大ヒットを記録したのは、1963年から翌年にかけてのことだったのだ。新しいサウンドが全世界の若者たちを熱狂させたとき、Aさんたちは雪深い東北から、大都会へ「集団就職列車」で旅立っていたのだ。



 同じ青森県の出身のBさんは、やはり昭和39年集団就職組である。しかし彼は、Aさんとは対照的に、15年後には故郷に戻った。夢破れたのではなく、修業の腕を生かし、生まれた町で店を出す為であった。上京して埼玉の和菓子屋に入り、一生懸命菓子作りを覚え、腕を磨き、同期入社のなかではただ一人勤め続けた。そして、店は新しい菓子作りをめざすために、Bさんを欧州での勉強に送ってくれた。自身「内気で口下手」と称し、ただ真面目に働くしかないと謙遜するBさん、ずっと東北訛りの抜けない彼には、故郷に戻るのも目標であったのだろう。そして、職場で知り合った妻とともに、故郷の町に洋菓子店の看板を出し、これが当たった。30年後には地元で知らぬものがない有力な菓子店チェーンになり、四店舗、25人を擁しているという。いつも菓子作りの先頭に立ち、常に新製品を開発する努力が経営を支えている。

 故郷を離れ一人働くBさんを励まし続けたのは、中学の恩師からの手紙の数々だった。修業先の欧州にもそれは届いた。手紙の束はいまも人生の宝物として保存されており、まさに故郷に錦を飾る支えになってくれたのだ。恩師からもらった「座右の銘」は、「初心忘るるべからず、おごらず、いばらず、正直に」だという。常に努力と研鑽の人は、この番組収録の中でも、地元産品を生かした「イカスミを入れたマカロン」を開発していたのが印象的であった。



 これに対し、もう一人の登場人物Cさんは同じ青森県からの昭和39年集団就職組だが、紆余曲折の人生を歩んできている。大工見習いとなって修業、21才で独立し、神奈川県下で工務店を開いた。経営は順調だったのに、90年代初めには倒産の憂き目を見た。「下請仕事だったから」という後悔の弁が出たように、バブル崩壊後に元請けの倒産不払いのあおりを被ったのだろう。以後、トラック運転手などもしながら糊口をしのぎ、再び建築業界に大工職人として戻った。「下請け仕事はもう絶対にしない」という決意で、顧客の顔の見える仕事に集中したという。けれども仕事は長く順調にはいかず、2007年には一家で生まれ故郷に戻る事態になってしまった。

 Cさんにはやがて故郷に帰りたい、両親に立派な家を建ててやりたいという夢があった。しかしこの帰郷は、「故郷に錦を飾る」ものではなかった。再婚(つまり前妻とは離婚)、三人の子を抱えながらなお減り続ける大工仕事、自身の心臓の病など、苦しい境遇から逃れる帰郷だったが、実家は兄が継ぎ、ふるさとの町には満足な大工仕事も少ない。借家住まい、土地を借りて、少しでも日々の足しになるような野菜作り、野山での山菜採りと、何か胸塞がるようなCさんの暮らしぶりだった。それでも、まだ小学生の三人の子と妻とともに、ここで一家の暮らしを守っていくという60才過ぎての決意の姿には悲壮感も漂い、言葉を失わさせるものがあった。


 Cさんのような、集団就職からの奮闘修業、その後の挫折曲折といった人生の波乱は、もちろん決して珍しいものではないだろう。AさんBさんのような順調な歩みはむしろ例外かも知れない。けれども、こうした無数の、無名の人たちが、1970年代80年代の日本を支えていたのだ。それが、日本の「起業家」たちの等身大の姿でもあったのだ。

 Bさんの人生を考えてみれば、高度成長以降の所得水準向上、消費生活の近代化都市化洋風化の流れのなかで、期せずしてこれをとらえ、洋菓子という時代のシンボルの商品と製法を都会で身につけ、これを地方に伝搬し、新たな商品を提供する役割を担ったことになる。そこに事業成功の条件があった。そして真面目で働き者、純朴で常に謙虚なBさんの性格が、これを支えてくれた。
 逆にCさんは、高度成長とバブル期の都市人口集中・建築ブームに乗り、順調な業績だったのだが、バブル崩壊と低成長、人口減時代の到来、加えて在来工法の衰退と大手ハウジングメーカーなどの進出で、建築業界の姿が大きく再編される中、荒波を越えて生き残る道にたどり着けなかった。そして、都会で生きていくすべを失ってしまった。

 Aさんのような理容美容業などのサービス業家族経営は、修業と資格制度、また職住一致の店舗仕事場形態に支えられ、長く安定した姿を守れたが、近年はここでも業界再編の波風は厳しい。少子高齢化で市場自体が縮小を避けられない。長年鍛えた熟練の腕と近隣のなじみの顧客に支えられてきた「町の床屋さん」の将来が決して明るくはないことを、Aさんはよく知っているからこそ、自分たちの代で終わりで結構、子に継がせたいとは思わないと割り切っていたのだろう。時代とともにあった、おのが生き方と。

 そんな背景も想像させられるドキュメンタリーであった。




『ルポルタージュにっぽん 集団就職前夜』(1974)・『約束の夏』(1979)
  −「集団就職」最後の世代の人生模様


 既にあげたように、NHKは集団就職とその後を扱った番組をいくつか残している。なかでも、比較の意味も持てるものの一つが、1979年に放映された『ルポルタージュにっぽん 約束の夏』である。その5年前、秋田県の雪深い農村・仙北郡千畑村の中学校を出た少年少女たちが、最後の集団就職組として村を旅立っていった。その旅を控えた彼らを描いた番組『集団就職前夜』(1974年3月放送)の「続編」という形であった。歌手の上條恒彦がどちらでもリポーターとなり、ふたたび現地を訪れ、旧知となった若者たちに再会するという構成になっていた。毎年8月に、この村では成人式がもたれる、その機会に集う、かっての集団就職組に5年ぶりに再会するのである。


 一方で、先の『金の卵たち』に登場した人物たちは、それからさらに10年あまり前、1960年代に旅立っているので、番組自体の製作放映は前後するが、2つの番組中のエピソードの対比が、60年代から70年代へ、この10年の日本の社会と農村の変化を明確に示すものであると言える。さらに、番組放送から40年近くのちの2017年に、この再放送を交え、「NHKアーカイブス」(司会森田美由紀)が放映された。すっかり老けてしまった上條恒彦が再登場し、さまざまな記憶と思いを語り、あわせて登場人物たちの「卒業43年後」を追っていたので、二重の意味で貴重な記録の放送となった。



 一番わかりやすい事実は、この70年代後半、秋田の農村からは多くの「出稼ぎ者」がいたという点である。番組冒頭、74年の中学卒業を前に、登場人物たちがカメラの前で順番に自己紹介をする、そこで「父は出稼ぎ中です」という言及が大部分だった。農業だけでは食べられない、しかし東京や大都市には膨大な労働力需要がある、だから農閑期には一家の大黒柱も働きに出る、というのがごく自然の成り行きだった。

 『金の卵たち』の方の登場人物の一人は、トラックを買って自営の運送業を始めたが事故を起こして入院、トラックも失い、裸一貫になった身で、1989年現在再起を期して建設現場で働いている。その父も母も、大黒柱の兄さえも、同じ現場で住み込みで働いているというエピソードが紹介された。時はバブルの最後の絶頂期だったから、「一家根こそぎ動員」の状況だったと言えよう。

 そうした状況は70年代なかばから一挙に広まっていたことがここで示されるのである。息子娘たちが15歳で親元を離れ、都会へ働きに行く、でもすでに家の中はどんどん人がいなくなっていたのだ。


 第二に確認できることは、この集団就職者の多くがその後職を変え、転々とする一方で、5年のうちには郷里に戻ったという例の多いことだろう。この番組では、1974年春に中学を終え、「集団就職列車に乗る」9人を対象とした。その大部分は5年後には故郷の村にいた。東京での夢を追いきれなかった、仕事が想像と違いすぎていた、慣れない都会の暮らしに疲れた、十代の身には心細すぎたなどなどいろいろな事情があっただろう。けれども、「五年持たずに舞い戻る」のではこらえ性が足りないんじゃないのか、などというお説教以前に、「戻れる故郷があった」事実の方に注目すべきだろう。

 『金の卵たち』の登場人物たちはほとんどが、「決して故郷には帰らない」「尻尾巻いて戻るようになっちゃおしまい」と、背水の陣で日々を生きているという悲壮感があった。現実に、戻ってつける仕事などなく、田を耕しても食っていけない、だからあえて村を出たんだ、そういう背景があっただろう。しかし10年あまりのちには、「帰っても何か仕事はある」、そういう感覚が不自然ではなくなってきていたのだ。


 大都市圏から農村部に広がった「農村工業化」の波、そのもとで労働力と土地を求め、繊維、食品、機械金属などの製造拠点が地方に移転し、その下請工場等が急拡大した。これに相俟った形で、道路などの土木建設やインフラ整備の公共事業が膨れ上がっていった。雇用労働が拡大し、所得機会が増えれば、建設、運輸、流通サービス、飲食などの需要が高まり、好循環が地方に広がった。そうなれば、戻るべき故郷は手を広げて迎えてくれるのだ。万一、いい職が見つからなくても、親兄弟らとともにまた「出稼ぎ」に出るという手もある。

 この頃にはまた、秋田や岩手の山間の地であっても、東京などとの距離感は相当縮まっていただろう。TVなどのメディアの発達普及で、大都市との心理的感覚的距離は非常に小さくなっていたことは。容易に想像できる。『金の卵たち』の登場人物は、「東京なんて未知のところだから」という表現を繰り返していた、それが1960年代の日本だったのだ。しかし70年代末には、秋田の農村といえども、「一度ふるさとを離れたら」、容易に戻れないところではなくなっていた。そしてそこには、家族だけでなく、高校進学組や地元就職組・家業後継を含め、多くの友がいた。


 第三に、秋田県千畑村の集団就職組のなかでは、東京など首都圏への就職内定者だけではなく、愛知県など中京圏に行く者の方が多かったという特徴が見られた。これは伝統的にそちらの方との関係がつよく、既就職者が大勢いて、太いパイプができていたのかも知れない。また、当時女子中卒者が多く採用された繊維関連では、中京圏が生産拠点であったせいもあるだろう。首都圏に向かう男子でも、就職先は自動車関係など、時代の特徴が現れていた。けれども、上記のように彼らの大部分は5年をまたずに転職し、故郷に戻ってしまったのである。



 79年夏、成人式出席を期して、上條恒彦と再会するというのは、番組題名のように5年前の「約束」でもあった。成人式会場で旧交を温めることができ、とりわけ女子などすっかり変貌してしまい、垢抜けた化粧と髪型服装で、彼を大いに驚かせた。もう婚約中の女子もいた。
 ただ、その晩に設けられた上條との再会の飲み会に来たのは、ふたりの男子だけだった。このふたりの「その後」は、再放送時の38年後にも明かされるので、数は少ないが興味尽きない「事例」となっていた。


 D君は横浜の木工会社に就職、かなり一生懸命働いていたものの、5年後には故郷に戻っていた。仕事はいやではなかった、がんばった、お金も稼げた、でも蓄えた貯金で車買ってから「いろいろあって」、辞めて戻ることになってしまったという。そのわけは?と尋ねられても、「言いだくね」、ともかく「会社がいやだった」とうつむいてしまう。そらしがちな目線に、なにかの屈折と後ろめたさと、複雑なものが見え隠れしていて、5年前の純朴な少年らしさとの差に、気がかりを覚えさせるものだった。

 けれども、その晩には上條恒彦の元を訪れ、ともにしたたかに酒を飲み、酔い潰れていた。それなりの給料は貰っていたが、車買ってからどんどんお金が出ていき、ォ暮らしなのに毎週末はカップ麺の生活などと、笑いもとっていたが、ほんとうは語りたい胸の内と、迷い道のこの半年と、そして自分自身の気持ちの整理のきっかけほしさがあったのだろうか。


 でもいちばん驚くのは、「その後」で、38年ののちの彼が画面に登場したことだった。20歳当時、地元に帰って農業のかたわら大工の見習いをしていた、ああここでもまた道に迷い、仕事を離れ、曲折を重ねることになったのだろうかというこちらの想像は、見事に裏切られるのである。
 Dさんはずっと大工の修業を続け、一人前の職人となり、地元建築会社に勤続38年、顧客に信頼される棟梁になっている。すっかり板についた職人姿だった。中卒で木工所に就職したのも無駄ではなかった、いろんな仲間たちとの付き合いは楽しかった、またものづくりの面白さを経験できたと言う。いま、顧客に喜ばれる仕事にやりがいがあるという。もちろんいまでは立派に世帯を構え、妻子に囲まれ、充実した人生を過ごしている。50代末の、すっかりいい親父になっているが、まさに「いい歳のとり方」であった。「ほんとうは洋服店の店員やりたかった」という述懐には笑ってしまうが。




 成人式の夜、上條恒彦との飲み会に来たもう一人、E君は志あって東京のそば屋に修業に入った。就職前夜にははっきりそれを宣言していた。そして以来、小さくても自分の店を持つ夢を叶えるべく、奮闘していた。けれども5年後の成人式帰郷の時には転職し、自衛官になっており、口調もすっかり「軍隊式」に変わっていた。その人生の迷いを、いちばん上條恒彦に聞いて貰いたかったのが彼だったろう。
 新宿のそばやで修業のかたわら定時制高校に通い、さらに4年間で三百万円以上の貯金をしたというE君、その尋常ではない志と意思の強さ、何ごとにもくじけず、またひと前ではひょうきんを貫く彼が、なんでその夢を捨てたのか。


 重い口を開くなかで、いろいろの事情が見えてくる。彼がそば屋の修業を辞めたのちのことであったが、79年3月に最愛の母が亡くなった。まだ51歳のことだった。一方で「なぜ自衛隊に?」という問いには、「出前先が自衛隊の本部あたりで、演習中の隊員たちがかっこよく見えたから」という言い方しかしない。そして上條恒彦との再会の宴で、繰り返し語ったことは、「ともかく3年間頑張った、すごかった」、「金も貯めた」、「でも、なにかしないできてしまったことがある」、「遊びが大切だといま思う」という述懐だった。さらに、「無理してたと思います」、「無理しすぎだった」という悔恨の言葉が漏れた。店を持ちたいという夢を諦めたわけじゃない、またそれを追いかけたい、そうした思いを吐露し、翌朝大曲駅から制服姿で旅立つE君、上條からの励ましの言葉を背負いながら。夢がいつしか精神的な重荷になってしまったのだろうか。


 38年後の彼らとして、E君については番組収録後に消息がわかったとアナウンスされた。関西の方で運送会社に勤め、元気でいるという。でも、「店を持つ」という夢は叶わなかったことになる。自衛隊に長年勤めたわけでもないし、故郷に戻ったわけでもない。青春の多くを犠牲にして貯めたお金はなんになったのだろうか。なにかとても心残りのする番組の終わり方だった。



 この番組のなかで継続して取り上げられた、中卒集団就職組の9人、それがその年の同じ中学卒業者全体のうちで占めた比率はわからない。そこは「研究」のうえでは残念な情報不足である。ただ9人という人数からして、かなりの少数派になっていただろうとは想像できる。先の文部統計で言えば、1974年(昭和49年)の中学からの全国平均進学率は90.8%になっていた。この10年でのその伸びは著しい。だからこそ、先にも指摘したように、中卒就職者は貴重な「金の卵」扱いをされたわけだし、当人たちにはかなりの引け目も拭えなかったかも知れない。

 ただ、この同期9人のうちの一人、中部の自動車関連の工場に勤めたF君は、驚くべきことに、2017年でも同じ企業で働いていたという事実である。つまり、勤続40年を超えるのだ。それだけ居心地のよい職場、不満のない処遇であったのだろう。また、この間日本の自動車産業は、波風あれども一貫して基幹産業であったことも示している。
 けれども、「集団就職組」の中卒者たちが長く同じ職場、同じ仕事についてはいないというのは、一般的な事実・評価として否定できないだろう。自分たちが社会でも、職場でも少数になってしまえばそれだけ、居心地は悪くなるだろう(東京にあって、集団就職組の仲間たちを集め、自分たちのコミュニティを作ろうと手弁当で奮闘している人の姿も、別の番組で取り上げられていた)。以前に比べれば、賃金や職場環境はよくなっていても。むしろ、「中卒では出世など到底かなわない」と実感したかも知れない。しかも、肉親だけでなく、高校などに進んだ友たちが郷里に多数いれば、先にも指摘したように、里心はつきやすくなる。D君やE君は、そうしたふるさとの雰囲気を、「暖かさ」と表現していた。職場でどんなによくしてもらっても、そことは違う何かがあると。


 このようにして、戦後日本の「集団就職」は、終わりを告げたのである。
 私は同時代人として共感するものがあり、時代感覚があり、また違った環境と人生を歩んできたゆえの思いとまなざし、とまどいと引け目がある。「集団就職」組ではなかったにせよ、やはり同時代人であり、東北農村から大都会に出た菅義偉氏の胸中には、いま何がよぎるのであろうか。




(2020.10.17)

スガ氏は「たたき上げの苦労人」なのだろうか?

 首相の座について一ヶ月、陰湿な「学術会議いじめ」やら、またこれをすすめる為の、嘘八百のプロパガンダやらやっても、立派に「実績」となる楽な政治だが、いくらマスコミの翼賛総動員体制を構築しようと、「ホントかいな」という疑問は湧き上がってくる。これは「苦労人」人物像に関しても、例外ではない。


 スガ氏は確かに、「政治家一家」だの、「ハイソな家系」だのに生まれついたわけではなく、秋田県の農村から上京し、いろいろ「苦労」を重ねたことは間違いないのだろう。しかし、当時にあって大卒と言うだけで、それなりの「価値があったはず」という批判の声も聞こえる。そこまで私は考えないものの、就任以来の政策路線と行動を見ているうちに、いわば消去法で思い当たることが出てきた。

 それは、彼の「ブレーン」にのし上がった、某英国人の議論への同調ぶりである。この議論自体、中身は半世紀前の「中小企業近代化政策」とその前提となったいわゆる「二重構造論」の蒸し返しなので、正直まっとうに取り上げる気さえ起こらず、ましてやいまの世界の趨勢に逆行どころか、まさにピント外れの暴論でしかないのだが、いまここでは、それは置いておいておこう。最低限、多くの中小企業・自営業が淘汰されれば、そこで働いてきたウン千万の人たちはどうするんでしょうか、これを失業手当や生活保護で支えようとすれば、莫大な予算が要りますね、まさに「後金損」ですね、と言っておく。そして、「国が政策的に」企業の統合再編や淘汰をすすめる、それが、この30年間全世界が絶賛してきた「市場経済」なんでしょうか、それとも「統制経済」の復活?とも付け加えておく。


 問題は、こういった暴論珍論にたやすく乗ろうという、スガ氏の心情風景である。いや、「泣いて馬謖を斬る」覚悟で、こういった荒療治をしないと、にっぽんの生産性は向上せず、経済はよくならないんだ、と国民や「経済人」に呼びかけるほどでもない(そのうち、そういったパフォーマンスもやるかも知れないが)。他方では、「自助」第一で、「市場経済」への信頼が不可欠だともする。けれどもスガ氏の頭にあるのは、「日本を代表する」ビッグビジネス・グローバル企業やIT企業ばかりのようで、「ウン百万の」チューショーキギョーの大群ではないらしい。

 もし、スガ氏が高校を出て勤めたという東京の段ボール工場や、大学を終えたのち入った企業などでの経験、そこでの思いなど語る機会があれば、それが彼の人生とマインド形成にどうつながり、いまにどう生きているのかわかる。しかし彼はなぜかその辺の詳しいことを口にしない。ネガティブな印象の断片のみで、だから「大学に進んだ」、「政治家の道を志した」という人生選択の、裏側にとどまる。それだから、「その頃からの付き合い」、当時の社長や同僚・友人といった人たちのことに言及することもない。いろいろ「思っていたことと違っていて」、やっていられないなと感じ、新たな人生を求めるようになった、人間関係が重かった、それはここに引用した多くの集団就職組の人たちと同様、十分あり得ることだ。でも、そうした生々しい体験や悩みなど口にするどころか、人間関係自体が断ち切られている。考えてみると、これはかなり奇妙なことである。


 「政治家」スガ氏のキャリアは、もっぱら人間関係、人づきあいそのものであり、そうした中での「面倒見の良さ」(公助でも共助でもなく、縁助?)が売りで、そこから「のし上がる」ことができたのだ。その素地は、某大物政治家の秘書となったことに始まると、当人も認めるところである。そのスガ氏にして、「つとめていた」ころの人間関係や知人らの人物像が見えてこないのは、不思議である(大学学生時代もそうだが)。



 「仕事はきついばかりだった」、「給料は安くてひどかった」、「社長は威張るだけ、新入社員のことなんか気にもしてくれなかった」などなどのネガティブな体験を重ねたのかも知れない。あまり思い出したくもない、そんな苦しいだけ、つらいだけの体験だったのかも知れない。その原体験ゆえにこそ、いまさら「チューショーキギョーのことを考える」などというマインドなど出てくる余地もなく、「あんなひどい企業はなくなって、みんなに高い給料払えるようなところだけになるべきだ」と、考えるに至っているのだと決めつけたら、偏見に過ぎようか。そうではなくても、せめて「固有名詞」で出てくるような、たたき上げの町工場の社長、まちなかの小さな店の主などは、いまのスガ氏のまわりからは見えてこないのだ。「集団就職で上京、苦労を重ねてのちに社長になった」ような人物像は。

 前官房長官、首相としての彼のまわりには、それこそ「美術工芸品売買でいい商売している」某英国人社長、ITビジネスで成功した新興企業家、そして巨大企業を代表する大物経済人らしか取り巻いてはいない。そして、首相の「ブレーン」や「広報役」を務める諸々の方々には、「世界でチューショーキギョーがどうしたなんて言ってるのは日本だけ、こうした既得権益を守ろうとしてきたから、世界に後れをとるようになったんだ」、「日本には中小企業が多すぎる」、「保護などなくして淘汰を図れ」などと、無知蒙昧ぶりをさらけ出すような方たちが大部分なので、勢いはどんどんついてくる(せめて、国連総会2017年決議(URL変更済み)くらい読んでおいてもらいたいのだが)。「まちの企業家」が市場経済を担うという、世界の共通理解は、この国では見えなくなってきている。


 その先には、相当に厳しい事態が待っているだろう。これに対し、さまざまな意見、立場を持ちながらも、「中小企業存在とは」、「中小企業の担う可能性と課題とは」、「国の中小企業政策の目指すべきものとは」といった点に関し、マジな議論を行い、その前提としての多くの「事実」の確認検証−たとえば、「日本には中小企業が多すぎる」のかどうか、英国にはどれだけの数の企業があるのか、などをはじめ−、歴史的経験と今日の実態・問題把握をすすめ、望ましい経済社会と経済主体のあり方、働き方などをともに考えていく機運は欠かせないだろう(こうした前提理解を、私は「FBPM(Fact Based Policy Making)と呼びたい)。

 どの政党も、政治家も、「中小企業は大事です」、「中小企業の為の政策を推進強化します」と唱える時代は終わってしまったらしい。私も関与した、2010年「中小企業憲章」閣議決定からちょうど10年目、中小企業政策をめぐっては大きなターニングポイントが否応なく迫られてきている。
 こうした時代、私のようなロートルはもう完全引退か、とは行かないらしい。私自身は、体調の問題もあって、もう消えゆくのみと思っていたが、そうでないとなると、討ち死に覚悟で行くしかないのだろうか。「中小企業に関する一研究者として」、同時代人スガ氏と、正面対決するには体力気力(+財力)不足は自明のことなのだが。




 この件に関し、新たな言説が出てきた。
 スガ氏は、「教師」、ひいてはその背景にある国立大学等へのつよいコンプレックスを抱いている、と言うのだ。


 これは森功氏の著書、そしてそれを引用した『週刊ポスト』の記事で指摘されているという。再引用で申し訳ないが、間違いではないだろう。


〈母や姉だけではなく、叔父や叔母など親戚が教師だらけだったので、教師にだけはなりたくなかった。かといって、農業を継ぐのも嫌でした。それで、ある意味、逃げるように(東京へ)出てきたのです〉

 段ボール工場で働いた後、菅氏は大学進学を目指すが、国立大学の受験に失敗する。父の和三郎氏(2010年死去)が生前、大鹿靖明・朝日新聞記者のインタビューにこう語っている。
〈アレは全然勉強しなかったの。『バカか』と言ったの。北海道大を受けて弁護士か政治家になりたがっていたけれど、全然勉強しないから入れるわけないの〉


 女性には“狭き門”だった大学を出た2人の姉への対抗心、自分には農家を継ぐように勧めた父への反発から、「北大を出て弁護士か政治家」になることで見返そうとしたが、受験に失敗する。そして法政大学法学部政治学科(一部)に入学した。森氏が指摘する。
「本人の言葉とは逆に、菅氏は本当は教師になりたかったのではないかと感じた。当時の 教師は子供にとって権威的存在。なりたくてもなれなかったとすれば学歴コンプレックス はあるだろうし、アカデミックな権威への反発、学者ぎらいの根っこにそんなコンプレックスがあるのかもしれない」
(NEWSポストセブン2020.10.17からコピー)



 もちろん私にこれらの「証言」や推測の「裏をとる」ことはできないが、ありえないことでもないだろう。
 そして、そういった「コンプレックスの裏返し」心理があったとしても、それは人さまざまなので、いいとか悪いとか他人が申すべきものでもない。当然、そこから導き出される政治理念や路線、政策などが問われるのである。

 ただ、ここではおのれの苦労の先に、恨みやコンプレックスだけではなく、いまに生かされるべき人生経験や学び、交友、私淑すべきリーダー、先輩などの存在、現在にも続く友情などの、積極的肯定的な人間像と教訓と、価値観と、こだわるべきおのが原点があるのかどうかが大切である。もちろんスガ氏にはそれは、秘書などで仕えてきた大物政治家、閣僚らの存在と、「ドブ板踏んでの政治活動」かも知れない。けれども世間で想像されているような、「集団就職で上京した」、苦学や勤労の中で培われてきたものではないことは間違いない。「チューショーキギョーで働くやりがいと悩み、困難」をおのが糧にしたわけでもない。「苦労人」の意味が違うのである。

*蛇足そのものながら、「国立大学受験に失敗し」、私学を経ていろいろ「波風を経験し」(「苦労」などとは申せない)、あげくに大学教員、ひいては「かって受験して落ちた」国立大学の教員になった私めも、なにか「コンプレックスの裏返し」深層心理がなかったのか、おのれに問うている今日この頃である。



2020.10.19追記

 ここで引用した、スガ氏の経歴に関する検証記事には、よく考えると、若干の疑問が生じる。

 スガ氏の父親の語った、「北海道大を受け」たが、勉強していなかったので合格しなかったというエピソードが事実なら、母親や姉たち同様に教師になりたいという希望があったというのとは矛盾する。北大、東大京大などの「旧七帝大」には「教員養成課程」がいまもないのである。その代わりに、同じ地域には他県と同様の旧師範学校が置かれ、これが戦後学制改革で「教育大学」になった。だから北海道には北海道教育大学が現在もある。旧帝大以外の戦後の新制大学は、主にはこの旧師範と工専、商専などを統合する形で生まれ、秋田県の秋田大学の前身は秋田師範と秋田鉱専である(鉱山学部という、全国唯一の学部を擁した)。
 北大には現在も教育学部があるが、これは戦後設置されたものであり、一貫して「教育学の研究教育」の場で、教員養成を目的としたものではない(戦後、旧師範が新制大学に統合再編された際は「学芸大学」「学芸学部」と称され、昭和41年に教育学部に改称された。これに対し、北大教育学部は一貫して「教育学部」なのである)。他方で、旧北海道第一師範、第二師範、第三師範、青年師範の各校を戦後統合し、生まれたのが新制の北海道教育(学芸)大学(学芸学部)なのである。

 それゆえ、北大を受験したのならば、教師になるという志望がつよかったとは言えないことになる(教員養成課程を出なくても、教職課程を履修して教員免許を取得すれば、どの学部からでも学校教員になれるのは、日本の制度の特徴だが)。教師になることを強く希望していたのなら、秋田大学教育学部か北海道教育大学を受けていたのではないか。だから、高校を終えた時点で、むしろ「弁護士か政治家」を志していたとみる方が、妥当な推測になるのではないか。「教師への反発」や「コンプレックス」のあり得ることは、スガ氏の家庭環境や経歴から推測可能なことだが、「ほんとうは教師になりたかった」と想像してみるのは無理があろう。




(2021.02.21)

「たたき上げ」伝説の終焉

 えーさて、スガ氏も在任半年近くになり、パンデミックまっただ中での政府行政運営はホントに大変なことと想像される。「演説がヘタ」「なんで原稿読まずに語れないのか」などとくさされるし。「えらいときにえらいこと引き受けちゃったよ」とどっかでこぼしているかも知れない。自身の体調問題を理由に投げ出したアベ氏など涼しい顔をしているしね。なにより、首相以下政府与党一丸となって、「この苦境を皆の努力で抜けだそう」とせねばならないのに、政府のなんとか宣言などどこ吹く風と、「夜のおつきあい」に精出す与党議員続出では、よくまあぶち切れないものと、感嘆申し上げる。ま、そいったゴシップネタよりも、なんでニッポンはこんなワクチン導入投与が遅いんだ、そちらが個人的には非常に気になるのだが。先進国のお仲間、不動の日米同盟などと胸張っても、これじゃあ何なんだと言わざるを得ない。


 それはまあ置いといて、「たたき上げ政治家」スガ氏の個人的な経歴や諸事に関しては、すでにあげたような懐疑論とは別に、いまや別のスキャンダルが真っ盛りである。最大のものは「長男の仕事と行政許認可との関係」である。スガ氏のご長男は現在某テレビ局の幹部社員であるそうだが、それが放送免許許認可権を持つ総務省の幹部と会食懇談していたという事実が明るみに出て、「まさに汚職寸前」「公務員法違反だろう」という追及を国会内外で受けている。「たまたま私的に会っただけです」としていたのが、動かぬ証拠も出てきて、会話で明らかに仕事の件をやりとりしていると判明、これで総務省幹部の方々はアウトである。


 まあ、トカゲの尻尾切りにあうお役人も気の毒だが、当のスガ氏ご長男というのもどういった経歴・かかわりの人間なのかということがいっしょに明るみに出てきた。スガ氏は国会で長男の件に言及され、「私とは別人格」、「近年話したこともない」などと色をなして反論したが、それが事実とはかけ離れていることがブンシュン砲などでバクロされている。

 そのブンシュンの記事によると、長男氏は地元横浜で生まれ、明治学院大に進学後、音楽サークルに所属。バンドを組んで活躍。卒業後、同級生が社会人となる中、一向に定職に就かない長男の行く末を父親は非常に心配していたという。そして、06年に総務大臣として初入閣を果たすと、社会人経験のない25歳の長男を大臣秘書官に抜擢。後にこれを雑誌の取材に「バンドを辞めてプラプラしていたから」と語っているそうである。

 どんな大学でどんなことをし、また出たのちどのような人生を選ぼうとも、それはまったく個人の自由である。かく申す私も大学卒業してシューショクはしなかった。もちろんシューショクしない息子娘を親が気にかけ、「就職斡旋」することも世間では珍しくはない。そして、自分のしている仕事の補佐役にするのもよくあることだ。ただ、それが閣僚の秘書官という公職で、公務員としての給料をもらうとあれば、いいのかなあという疑問は残る。それでも、閣僚自身が自分のいちばん信頼置ける人間を手元に置いておきたい、補佐してもらいたいとなれば、これは裁量権任命権のうちかも知れず、ギリギリセーフだろう。ほかにも多々あるだろうし。



 でもそのあとはいかがなものか、である。記事では秘書官やめてからブラブラしていて、父親にどやされたとか、それでも2年後にはタワーマンションを購入、どっからそんなカネが出てきたのかとかも言及されている。しかし重要なのは2年後にTV局に入社したという事実である。まあ、バンドやっていた経歴や経験、芸や創造力など評価されたというより、明らかに父親の縁故だろう。その社長はスガ氏の熱心な支持者だそうだし、TV局や広告業などはみんなコネだらけというのはよく知られたことである。毎年4月になると、「○○さんの息子娘が◇◇に入社!」などという記事が相次いで芸能紙を飾る。このギョーカイ、実際に番組作ったり企画を立てたりするのはプロ(多くは外注や請負・契約)の仕事であり、「社員」の方々のお仕事というのは諸方面への人脈・コネづくり、そのための「夜のつきあい」や「接待工作」が中心なのだから、コネ入社は欠かせない仕事の一部なのである。「ゲーノー界」への人脈維持ももちろんだいじである。

 それで、数年にして長男氏はこの局の部長職になり、子会社の取締役にも出世した。今回の「事案」のように、その果たすべき職責を最大限に実行しているのだから覚えめでたいのは当たり前、自身の「前職」の場でもあれば、許認可権にかかるお役所の幹部が喜んで付き合ってくれるわけである。
 ただ、このブンシュンの記事も当然問うているのは、こういったスガ氏と長男氏の「関係」のどこに、「たたき上げ」だの、「自助」だのがあるのか、だろう。「総務相・官房長官・総理の息子」がひたすらその力で、コネと人脈の世界を泳いでいる、これは我々「一般大衆」にはどうあがいてもまねできないので、自助には限界ありすぎである。「親助」がだいじだが、そんな肉親もいなければ、「有力政治家」の「縁助」が欠かせない、となる訳である。


 かくして「たたき上げ」伝説には完全に幕が下りた。



(2021.10.04)

すべて終了

 早いものというか、スガ氏の首相就任から384日、一年あまりで辞任・交代となった。

 まあ、このパンデミック最悪の状況下で国政の責任者を務めたのは、若干気の毒でもある。はっきり言えば、前任者のアベ氏は投げだし、その後始末をしたという構図でしかない(健康悪化のはずのアベ氏は堂々復活し、次期首相選びに暗躍したくらい)。そして、残念ながら「国政のリーダー」「日本の代表」は無理だったと、大多数の国民も認めざるを得ないだろう。いろいろ問われ、追求され、あるいは大事な場で、ふさわしい役柄を十分果たしたとは言えない。それぞれの主義主張や政治的立場を別としても、これは客観的に下される評価だろう。
 それ故、時間がたてば、「スガ首相」という存在自体が大方の記憶から薄れていく可能性は大である。「裏方」「裏工作」とドブ板政治の熟達者が、表の看板を務めるのはどうにも限界ありすぎだった。そして、その決定打になったのは、なんと言っても横浜市長選挙だったろう。「裏技」ウルトラシーで、自分の仕えてきたいわば「主君の息子」を担ぎ出し、さらにあろうことか「カジノ誘致反対」とまで言わしめた、それでも「地元」での選挙結果は無残だった。この一年あまりの政治の混乱と場当たり施策、かってない社会不安、先の見えない状況への市民の怒りの矛先をそらすことには到底ならなかった。これでは「家老」スガ氏の立つ瀬はなかった。
 だから、マスコミもあっという間にスガ氏など蚊帳の外に置き去りにし、「次の首相は?」という政治ショーを大々的に演じさせたのである。まだ幕が下りないうちに、本来の「主役」は、出番がなくなり、「お帰りはあちら」にされてしまった。

 そして、いまにして個人的に思う、スガ氏がもし、「政治家」=すていつまんとしての本領発揮ができていたら、もうちょっとなにかあり得たんじゃないのか、と。それは端的に、「オリパラやるんだから、ワクチンよこせ」と、米英などに真っ向掛け合い、率先ぶんどってきて、一気に大多数の国民に接種を広めることができたら、世の評価もスガ氏の立場もかなり違っていたんじゃないのかな、とね。ところが現実は真逆だった。そんな「政治力」「外交力」などかけらもないことが見え見えになってしまった。
 スガ氏唯一の「晴れ舞台」であった、英国コーンウォールでのG7サミット、その場での「彼のみ」の場違い感、孤立感、これがすべてを物語ってしまったのだ。同じ地を23年前に訪れた経験もある私個人として、同氏の背中の寂寥の思いがひしひしと迫っていた。まさに「苦労人」「たたき上げ」神話の限界であった。




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