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三井の、なんのたしにもならないお話 その五十二

(2019.02オリジナル作成)



 
 完全リタイアの中での回想録 


3.私のアオハル時代 −にっぽんの学校教育への反面教材


 大学という、広義には教育機関にあって、四〇年近くメシを食ってきた私であれば、思いつき的にではなく、おのれの体験と教訓を踏まえ、積極的な議論を残していかなければならないのだろうが、なかなかそれだけの学も論理も持ち合わせない。そこで、おのれの恥ずかしい体験をそのまま赤裸々に記し、「一石を投じる」ふりをしよう。

 

 小学校時代、私は「天才」とも呼ばれたらしい。なんでかというに、実は小学校六年間、学校以外、自宅で教科書を開いたことがないのである。つまり、授業中などに読んで、先生のお話を聞いていれば、みんな覚えてしまう、理解してしまうという状況だった。これ盛りでも嘘偽りでもないことで、10年後に同じ小学校に入った妹が、ずっと先生であったひとから、聞かされた「記憶さるべき」お話でもあった。「実に憎たらしい生徒だった」と。授業もろくに聞いていないような顔をして、それで試験になるとできてしまうとな。
 
 その勢いで中学にも行き、中学ともなると悪友らとの遊びほうけも本格化し、依然として勉強しなかった。まあ、自宅で予習復習位するようにはなったはずだが、学校の中でもかなりの「問題児化」していたと思う、いま振り返ると。ただ、それなりに試験では点を取れていたし、反抗的ではあっても「ベビーブーム世代」のうちでは期待もされていたようだったので、成績急降下というわけでもなかった。しかし、実は次第に数学が苦手になってきていた。数学は論理と法則(定理)の積み重ねであり、公式を正しく覚え、適用せねばならず、途中を抜かして答えは出てこない。それに、50年後の今もそうなのだが、「計算」というのが好きになれない。計算すること自体はいやでもないものの、私はどうも数字一つ間違えたり読み違えたりすることなく、「正しい結果」を導くのが得意ではないようなのだ。ケアレスなのだろう(いまはもっとひどいが)。当世はその辺、電卓でやってくれるが、それでさえキーを押し間違えたりするくらいなのだから。そういったことで、いきづまると頭がフリーズしてしまうんだな、いま考えると。
 
 だから中学での「模擬試験」などの機会でも、次第に点数低下をたどっていたのだが、なんとか「第一志望」の高校に入れたのは、当時の公立高校入試では「試験半分・内申書半分」であったおかげが多大である。正直、高校入試の点数は芳しくはなかったはず(当時、塾などで受験勉強するなどというのはメジャーではなく、おかげで私はそういうところに通った経験がない。のちには塾講師や家庭教師のアルバイトはしたのだが)。



 しかし、高校に入るとカルチャーショックを受けた。いまにして思えば、私はしょせん「田舎の秀才」生徒であり、高校には「都会の英才」がごろごろしていた。試験ではできる、凄い点を取れる、その一方で、スポーツ、音楽など多芸に秀でている、見たとこも格好いい、そんな連中が当たり前にいるのだ。中学時代から苦手化していた数学、さらに英語などで点が取れない、かといってなんの「一芸」もない、そんな生徒はもちろん私のほかにも一杯いたのだが、情けなく、劣等感は増していった。その反動というわけでもないが、誘われ、「運動」に次第に熱中していった。ために、当時の先生方にも、親にも、「厄介者」化の一途で、それを何かむしろ自分のアイデンティティにしていたことも、いま考えれば否定できないだろう。

 しかもそうした中にあってさえ、問題児であった。かっこいいこと、世の正義大義を掲げながらも、裏腹のように大学入試に向けて「受験勉強」に打ち込む、そうした器用さに反発も感じたりし、誰にも逆らってばかりの自分になっていた。
 
 まあそれでも大学受験はしたが、もちろん「第一志望」には合格できない、ただ、その先は親に甘え、予備校には行かせてくれるというので、他にはほとんど受験せず、浪人生活に入った。「現役合格」できるのはむしろ少数、みんな「一浪に」(ひとなみに)浪人するのが当たり前のようだったから、そこは違和感なかった。

 でも、この予備校浪人生活は、いま振り返ればメチャクチャだった。「運動」の中では、さまざまなムーブメントに加わる、「予備校の学習環境改善」の運動さえやる、他方で本旨である受験勉強も大いに頑張って、結果を出そうということだったが、しょせんそんなに器用でもない私のことだから、あれもこれもたいしたことなし、生活だけは見事に堕落していき、相当ハチャメチャな日々を送っていた。いまも記憶にあるのは、お茶の水界隈の喫茶店の暗がりと、大学構内の片隅と、まあそういったところか。ろくに勉強したのかも怪しい(それでも予備校の模試で、苦手のはずの数学で二番を取ったりしているのだが)。ちなみに当時の模試のトップ常連は、現役高校生でもあったH氏で、大学卒業ののち政治家秘書、夫人はタレント、そして自身政治家になったが、気の毒に病で早世した。名前は否応なく記憶されている。
 
 というわけで、一年浪人しても実力の方は向上せず、またも第一志望はアウト、まあということで、私大に入ることになった(ただ、このとき受けたK大W大などの「文系学部」入試はメチャやさしいと感じ、その一方で国大向けにたくさんの科目を勉強したのはムダとなった次第)。実は、このとき「国大第二期入試」で横浜国大も受けたのだが、数学の悪戦苦闘、泥沼状態で空振りだった。この大学の卒業生でもある妻は、絶対口外するな、と言うが、私はいまとなっては居直ることにしている。「落ちた大学ですが、その教師になることはできるんですよ」と、私の知人にもそういった経歴のひとがいる。まあ、そんなもんじゃないですか。
 こんなことがいまバレると、「横浜国立大学名誉教授」の号を、「不名誉だ」と取り上げられるかも。

 

 そして大学に入ったものの、「運動」の嵐の中で4年間を送り、授業もろくになく、というか、ろくに出もせず、のちには「こんなために大学に入ったのか」という悔悟の思いから、大学院に進んだというのは、すでに記したところ。繰り返しになるが、そうした日々をムダだったとか、人生棒に振ったなどとは思わない。ただ、いま思えばよく生きてきたなという実感はある。浪人時代に覚えた喫煙や飲酒などの悪癖と(酒を飲んだのは中学時代からだったが)、めちゃめちゃな生活で、あちこちを泊まり歩き、いつも死にそうな顔をしていたようなのだ。ガリガリに痩せ、青白い顔で、しょっちゅう胃痛などに悩まされていた。それでも大病もせず、生きてこられたのは、根は丈夫だったせいか。(ともかく、4年間在学している間に履修授業の成績で取ったA(優)の数より、5年目の4年次1年間で取った数の方が多かったのだから。この一年間で20科目履修し、19科目Aだった。授業に出て、講義を聴くことが楽しいと思った。それまでどういう「学生生活」の状態であったか推して知るべし)

 
 こうした時代が「ムダ」ではないのの理由の一つは、「ものを書く」ことにある。当時私は「ビラづくり」をよくやっていた。私自身は幼時からいまに至るまで、ものを書くのは苦手としない。日ごろ考えたり感じたりしていることは、頭の中でだいたい文章になって渦巻いている。それを文字に直すだけなのである。だから、よくやったのは、「原稿を書かず」いきなりガリを切るということ。50年前はもちろんワープロもPCもなかったから、ビラや冊子はガリ版(謄写版)でつくっていた。その原紙に鉄筆手書きで、文字を書いていき、予定の範囲に収める、そんなのは当たり前のことと自分では思っていたが、いかに当時でもかなりの技であったらしい。
 それだから、どこかの時間の襞に消えた「私の書いたもの」が膨大にあるはずだが、まあ今さら見たくもないが。もっとも近頃はすっかり怠惰になり、ものを書くのも面倒になってきた。ガリ切りじゃなく、原稿用紙に書き込むのでもなく、PCでキーボードを相手にするのであっても。どっかで読んだ、「天才作曲家」ロッシーニは「黙っていても音譜が自分の方にやってきてくれる、それを書き留めていくだけで仕事ができた」が、歳いったら、「自分で音を探さなくてはならなくなった、だからやめた、面倒だから」というお話し。それになぞらえたら、天罰が下るかも。

 それから20年近くのち、駒澤大学勤務で教職員組合の役員をやった際も、夜に徹夜団交、決着して組合事務所に戻り、すぐに報告文を書いて印刷、翌朝には各教員のメイルボックスなどに配布、なんていうこともやったな。もうガリ版の時代ではなかったけれど。

 
 これで入試からはおさらば、というわけでもない。大学院修士課程に入るに入試があり、またその博士課程に進むにも入試(二カ国語)があった。それをなぜかクリアーできた。特に後者のときは絶不調、その前の修士論文面接口試でボロクソにけなされ、まあやっぱり「学問」というものが基本的にわかっていなかったといまは自覚するが(そのお話はまた改めて)、ああこういうことで「落とす」筋書きなんだなと思いつつも、日程だから筆記試験も受けた。精神的にやる気を失っていたのみならず、論文追い込みの中で無理を重ねたせいか、試験が始まっても頭が働かない、手が動かないという惨状。その前の修士論文提出は、コピーを作るのにも手間取り、タイムリミット5分前の駆け込みだったくらい。ともかくおよそ答案の書ける状態ではなかったのだが、経済学研究科合格者10名中の10位で、なんとか滑り込んだのだ。そして、修士論文もお情けで合格にしてもらえた。このとき結構競争も厳しく、博士課程を目指しながら落とされた人も何人もいたんだから、試験につよいんだか、弱いんだか。悪運もあったのか。



 ただね、こんな凡才の苦闘と曲折の時代を今さら振り返っても、なんの意味もないが、「それでも生きてきた」という証しにはなりそうだ。そして、苦闘の時代から三〇年近くのち、今さらのように「大学入試問題」というのを目にして、実感できたこともある。受験生時代には「数学」と並んで苦手と感じていた「英語」、これがあらためて見ると、実にやさしい。「センター試験」の立ち番をしながら、問題を読んでみた。のべ2年半のロンドン生活、前後する多くの「英文読解」と「英作文」の経験から、みんなわかっちゃうんだな。「受験勉強」ってそんなものだったの、と思うところしきりだった。当時は「勉強の積み重ね、反復」と「記憶力」の問題と思っていたものが、「自分の使う言語」となれば、ここにはwithがくるんだよとか、日常感覚の問題に転じている。当たり前のことかも知れないし、あの苦闘の時代はなんだったのか、という悔いかも知れない。もちろん「数学」の問題は避けました。公式もみんな忘れているし。


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