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三井の、なんのたしにもならないお話 その五十二

(2020.1オリジナル作成)



 
 完全リタイアの中での回想録 


6.「失われた10年」を悔いても詮無いこと


 私の甥、三井昌志が45歳を迎えて、人生の来し方を振り返り、「好きなものを」やる、やりぬく、やっていることが楽しいと実感できることが大切と説いている(ちなみに彼は、25年前の大震災の経験者でもある)。
 もっともなことだと思うし、そこに至るまでに、彼は人生の曲折を体験してきた。「工学部」に入ったが、工学自体が好きではなく、学部での苦戦、卒業後の仕事を含め、「無意味な忍耐こそが努力だと思っていた。得意分野を伸ばすよりも、不得意な分野を消すことの方に多くのエネルギーを使っていた。その結果、自分には何が適しているのかが見えなくなってしまっていた」という。

 
 もちろん、そこから180度転換し、それまでカメラをいじったこともなかったのに、フォトグラファーの道に入り、以来20年、いまはそれで名前が知られるところまで来た、「だからプロの写真家になるためにそれなりの努力はしてきたつもりだけど、それを苦痛だとか苦労だと思ったことは一度もない。自分が没頭できることに全力で取り組んできた、ただそれだけだ」という。もちろん近親者から見てくれば、いろいろ心配なこともあったし、とりわけ親である兄は非常に悩んでもいただろう。
 でも、兄がえらいのは、そうした中で、「親の言い分」を押しつけたり、我が子の生き方をああこう言うことはなかった、そこは間違いないのだ。

 

 これは私の父の場合もそうで、父から自分の選ぶ生き方、仕事といったことに何か言われたりしたことはやはりない。私に対してはむしろ、「匙を投げていた」観もあるのだが、だからといって、あれはダメだとか、こうしろといったことを言われた記憶は、幼時から一切ないのだ。
 父自身も、寒村の農家の十人兄弟の次男で、まったくそうした環境もなかったのに、学に志し、東京に出て大学にまで進んだ。自分だけの力で、文字通りの「苦学」を重ねた。心ならずも戦場に送られ、九死に一生の極限体験から生還した。その父の目からすれば、私など甘っちょろく、いい加減で、努力もせず、苦労を避け、その日暮らしの何の見通しもない青二才、何をしているのか誰にも分からない、それ以外の何物でもなかっただろう。それでも、人間はそれぞれの望むようにしか生きられない、まさしく「選択の自由」のなかの「自己責任」と、割り切ってみていたのだろう。

 
 そうした迷走の果てに、30代にしてようやく定職を得、以来40年近く、まあ学問と大学教育の端くれとして生きてこられた。親不孝の典型であっても、ともかく父母が生きているうちに、「人並みに」仕事を持ち、給料を貰い、自分で暮らしていける身分になれた、それを両親に見てもらうことができた、それだけでも有り難いことと、心底思う。しかもそれは、自分の努力というより、多分に「幸運の産物」でもあるのを、否定できないのだから。
 
 
 ただ、それを言っちゃあおしまいよ、なのだが、わが人生のラストステージを迎えると、「フツーの」生き方を歩んできた多くの方々に比べ、結局およそ10年間のギャップのあることを客観的に認めざるを得ないのだ。私と同年代、それこそ高校や大学の同期の人たちは大部分、いくらかの前後はあっても、20代前半で定職に就き、それから50年近い人生の各ライフステージを歩み、それぞれなりの「充実した人生」を送ってきている(と、少なくとも見える)。そうした方々に比べ、私のスタートは、間違いなく10年遅れていたのだ。

 

 せこい申しようを承知で言えば、結局この10年間のギャップは、その間の「ありうべき」キャリア形成実践と所得、さらにはいまにモロに響いている「年金拠出期間・額」というかたちを通じて、わが人生の「失われた十年」であることを、どのようにも否定できない。
 思い起こせば、その頃「運動」の付き合いのあった諸氏を含め、「いろいろあっても」就職し、真面目にしっかり働きながら、思うところを追求していた人たちがほとんどだった。それに対し、私は大学院に「籍を置きながら」、実のところ全くのフリーター同然だった。バイトもし、また育英会奨学金も貰っていたが、それら全部ひっくるめても、当時の年収は100万円を遙かに下回っていただろう。いや、奨学金はそれなりの額だったので、これは誇張かも知れない(私は幸運にも「免除職」になれたので、奨学金は貰い得になった)。ただ、もちろん貰えるのは修士で2年間、博士で3年間に限られていたから、10年間ならしてみると、こんな程度だったろう。当然、「自主的に」年金拠出するなんて、思いもよらなかった。
 
(ちなみに、私はいまも「運転免許」などというものは持っていない。あらゆる資格免許などないというのが、今更の「売り」である。それにはいろいろの経緯、理由もあるし、なにより東京や横浜に住み、そこで仕事を得てきたので、通勤だの買い物だのに、マイカーが必要なことはなかったのが大きい。「クルマなしには生きられない」「地方都市」で仕事をし、暮らしてこられた方々に比べれば、有り難い幸運・特権である。ただ、この二〇代あたりに、「運転免許取る」なんて想像だにできなかったのも間違いない。そんなゼニどこにあったか、である。)

 それでも生きてこられたのは、親元の実家で暮らし、飯は食べられたせいである。その分を費用換算すれば、相当の援助を受け続けたことになる。もちろん、すでに書いたように、当時の大学院の学費はいまでは信じがたいほど安かったのも大きかった。ともかく、自分の「稼ぎ」だけで生きてこられ、大学院にも在学できたとは言えないのだから、「いまどきの」フリーターで日々をおくられている若い世代のご苦労には、比べるべくもない。
 ちなみに、この間に税務署から「お尋ね」をもらったこともある。主な「稼ぎ」は塾講師や家庭教師で、これは源泉徴収があったのか怪しいが、そのかたわら、調査研究機関での仕事もし、テンポラリなものだけでなく、月々の報酬を貰ったものもあった。そちらから、税務署のデータに引っかかったのだろう。ただ、私はずっと在学はしていたので、「勤労学生控除は受けられるはず」と、在学証明書を添えて返事を送ったら、それっきりなにも言ってこなかった。もっとも、実際には「勤労学生控除」を計算した申告をしたわけではなく、確定申告をするようになったのは、定職について月給を貰えるようになったのちのことである。

 

 ともあれ、33歳にして(正確には34歳になっていた)、ようやく定職に就くことができ、「人並みの」暮らしをできるようになった。それから37年間、常勤者として給料を貰ってきたが、「並みの」サラリーマンの方々が65歳で定年退職されたとしても、だいたい40年以上は給料を貰い続けたはずなので、まずそれよりもかなり短い。これは繰り返し書いてきたように、ひとえに私自身の身の程知らずな願望と、それと裏腹な迷走と怠慢、努力不足の招いた結果なので、誰を責めることでも、なんのせいでもない。そのつけが、後々まで祟っている、それをいま、十分に味あわさせられているということなのだ。ただ、年金受給も含めて、「生涯所得」ではかなりそうした方々を下回るだろう。

 今更の愚痴を百も承知で、いま同年代の方々を横目で見れば、「ベストなシナリオ」は、大学を順当におえ、民間企業なり公務なりにさっさと就職し、その間に「花のあるキャリアを積む」、あるいは研究や開発事業に従事し、成果をあげる、さらには世の中に「役立つ」仕事をして評価される、そののち、大学の職に「転じ」、期待にこたえ、教育研究と実学・社会貢献と「文武両道」の活躍をする、こんなのだとよくわかる。近頃はそれだけではなく、現職のかたわら、社会人大学院などに在籍し、研究成果をあげるとか、自分の研究を学位論文にして学位を貰うとか、そういう手順が一般化し、求められるようになってきたし、私自身もそのお手伝いを少なからずやっているが、以前はそういうものでもなかった。だから、逆に言えば、私のように「秀才」でも「成績優秀」でも何でもなく、誰にも期待もされず、ただ「後悔」と「仕切り直し」の意味で、大学院に籍を置き、そのうえ迷走10年近く、というのは、最悪のシナリオの方だと、今更のように悟らされるのである。自分が何をしたいのか、何ができるのか、それを理解納得するまで、これだけの歳月と、失われた「稼得機会」を要したとなれば、なんともはや、である。ペナルティは死ぬまでついて回る。

 
 甥三井昌志は、「45歳にして立つ」なので、私より遥かに多くの苦労と困難と闘ってきたことになる。でも、それにたじろぐことなく、「自分がやりたいことに没頭し、取り組んできた」「苦労と感じたことなどない」と言い切れるところがえらい。その「やりたいこと」探し、「自分探し」で10年近い日々を過ごしてきた叔父とすれば、誠に「恥ずかしきことのみ」の人生なのである。



 早速に、「大事なことが書かれてないんじゃないの」というご指摘も頂いた。
 「失われた十年」などと居直っているが、その間に「結婚したんじゃないの、あり得ないことに」である。そう、職もないのに結婚して所帯を持ったのだ。

 もちろん、「一家を養う」ことなどできるはずもない、フリーター的居候の身だったのだから、実は結婚した妻の「扶養家族」になった。これが2年ほど続いた。妻は常勤の学校教員だったので、「実家を出た」私は食べていくことができた。大きな声じゃ言えないが、フツーの世間の表現で言えば、「ヒモ」だったのである。

 以来40年以上の歳月が過ぎ、妻は職を離れて専業主婦にもなれた。でも、この結婚後1年くらいののちには、「この人は一生このままなのか」と、暗澹たる気持ちにもなった、眠れない夜もあったと、あとで本音を聞かされている。

 「ヒモを務められるくらいの才覚はあったんだ」などと今さら悪ぶって居直ったって、すぐに実態はばれる。でも、決して「一生喰わせてくれ」などと頼んだわけじゃないですよ。稼ぎの可能性を求めて、悪戦苦闘はしていたのですよ。



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