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三井の、なんのたしにもならないお話 その四十一

(2015.03オリジナル作成)



 
 スマホを買わんの記 −わがモーバイルPC格闘史20年
 Japanese word processors, a tragic short life in the history

2021.02.02記述


 新しいデスクトップPCと取り組む中(無線LAN端末を付け替えてから、概ね順調なものの、たまに夜のうちに、異常にアクセス速度が低下し、メイルを受信できない、webページを読み込めないなんていう事態が生じる。でもそのうち回復したりして、原因不明。wifi端末では過去に経験はないのだが)、須磨輔はイラン(スマホは要らん)、モーバイルPCじゃと孤塁を守っている中、たまたまFBで、面白い記事を見つけ、シェアしました。

福田譲氏<togetterの記事>


 PC創世期に、当時まだ店頭を埋めていたWP(日本語ワードプロセッサ)の「今後」を尋ねられた各メーカーの担当者の「予測」だそうで、誰一人、「世の中から消えてなくなる」、「日本語WPの機能はすべてPCに吸収されてしまう」とは言っておりません。
 まあ、自分とこがいまつくってる、売っている商品の未来に、ペシミスティックな展望など口が裂けても言えないでしょうしね。



 しかしまた、幸か不幸か、同時代の経験者である私には、大いに興味ある「ファクト」でもあります。1989年、いまから30年以上前、当時私はまさに、「ワープロからPCへ」という乗り換えに取り組んでいる真っ最中でした。ために、数々の試行錯誤、無駄な買い物、ゼニ失いを経験しました。そうした経緯は、これも30年近く前に記してもおります。

 そのまま、再録しましょう(もとのままでも、いまもweb上でアクセスできるのですが)。
 これを記したのが1997年、その基準でご覧下さい。


 私が「手書き」時代からOA化に手を染めたのは、今をさかのぼること13年も前、「ワープロ」の波が押し寄せた時代のことでした。まずはじめは、幼いころから欲しかった英文タイプライタの代用品、Canon Typestar5 というヤツで、これは全くの無駄な買い物とすぐに気づきました。そして、忘れもしない、1985年2月27日、Canon CM5という、馬鹿でっかくて、表示は液晶文字一列、しかも外部メモリはカセットレコーダという、ほとんど前世紀の遺物のような日本語ワープロを買ったのでした。それでも、20万円以上もしたのです。この買い物はそれでも画期的な出来事でした。遂に、日本語を機械が書き始めたのでしたから。それで、表まで作っていたものです。


 それから、かっこいい英文タイプの文字にあこがれ、欧文電子タイプライタのBrother CE70 という当時の先端的なヤツを、13万5千円で買いました。こいつは持ち運びは到底できなかったので(当時、「持ち運べる」日本語ワープロなんていうのは、想像できなかった)、在外研究に備え、Brother WP600 という、小さな欧文ワープロを8万円足らずで買いました。専用インターフェース経由でCE70を出力機にすることもできるので、小さなWP600が、タイプライタのデイジーホイールを勇ましくけたたましく動かしていく様子には感動したものです。そのWP600は、一年半のロンドン生活でも一番活躍してくれました。



 この辺でやめておけばよかったのですが、Canon がCM5の後継機で、「はじめてFDが使える」CM7というのを出したため、つい誘惑されて、25万円以上もはたいて買ってしまいました。これは全くの失敗、一年半日本を留守にしている間に全くの旧式化し、しかもFDのタイプもフォーマットも記録方式も何ら互換性がないため、以後大いに自分の手を縛ってくれることになってしまったのでした。それでも、これでのみ入れてあったデータを年一回くらい再生プリントするため、図体ばかりでかいのに、十年以上たった今もしまわれています。


 しかも、よせばいいのについしゃしゃり出て、同僚のA氏からの相談に、「CM7を使っている」などと話し、真に受けたA氏もこれを買い込み、以後大いに迷惑をした模様です。A氏購入のCM7は、帰国後私が譲り受けて、以来何年か大学研究室に眠っていました。帰国の際は一年半のタイムラグでOA浦島太郎化した私、全くのボケで、CM7がもう売られていない!互換機もない!ということばかり思い悩み、自宅用のほかに仕事場用の同機がどうしてもいるなどと思い詰め、とっくに投げ捨てていたA氏からそれを譲ってもらったのです。今思えば、せめて迷惑料くらい払ってしかるべきでした。そして、私自身も、すぐに「もうこんな代物の時代じゃない」と気づいたのです。

 それに、ピンぼけに輪をかけたことに、在外研究出発直前の86年2月、CM7と互換性がある小型の、しかし外部メモリは依然カセット使用のCanon CM6 というのが出、やっぱりロンドンでも日本語ワープロ使いたいなと考え、10万円近くはたいて買い込み、ロンドンまで運んだのでした。まあこれはこれなりに、ロンドンで活躍をしてくれました。それを、また日本に持って帰ったのは、うえのCM7をめぐる錯覚がらみの思いこみからだったのです。これは置いてくるべきものでした。このCM6は、今はどっかに消えました。働きの割に、きちんとした晩年を送らせなくて、申し訳ない気がします。


 ロンドンでは、よせばいいのに、妻の冷たい視線を浴びながら、手動の欧文タイプライタを買い込みました。タイプ禁断症状になってきた(特に、手紙の封筒の表書きなどは、欧文ワープロのサーマルプリンタじゃダメだから)のと、古典的な手動機の味わいへのあこがれゆえです。もっとも買ったのは、実は日本製(シルバーリード製)で、英国の文具店チェーンのOEMで出ていたもの、W.H.Smith SR22という名で、値段も1万円あまりでしたから。これは帰国後も、たまに使います。よく手を汚します。



 帰国後の浦島太郎的混乱を経て、ようやく、「これからはパソコンの時代だ!」と気づき、大決心をして、87年の年末にPCを買い込みました。その当時ではほとんど考える余地もなく、PC98でした。世の大勢が98であることは十分見えていましたし、大学の導入機もNECラインでしたから。
 渋谷道玄坂のパソコンショップを訪れ、ちょっと説明を聞いただけで、すぐに購入を決心、このとき相手をしてくれた、ひょろっと背の高い、一見頼りなげな店員K氏とは、以来十年のつきあいが続いてきています。彼は今は一つの店の店長です。*この店はとっくにありません。大手家電量販店との競争に敗れました。K氏はいまはどこでどうしておられるか。

 買ったのは、PC9801UX21という、80286の、3.5FD機、これはそれなりの考えあって買ったのですが、当時で26万円もする相当な買い物でした。大学の研究室に据え、さあと始めると、さっぱりわからない、動いてくれない日々、今にして思うに、きわめて初歩的な、聞くも恥ずかしいようなところがわかっていなかったのです。それだけ、付属説明書が不親切きわまりないことも痛感しました。K氏の手を何度も煩わせ、ようやくなんとか一通り使えるようになるまで、一ヶ月近くを要したでしょうか。そんな私に呆れもせず、ともに一所懸命に、辛抱強くつきあってくれたK氏には、非常に感謝しています。だから以来十年にわたりここで買い物をしてきているのです。


 この9801UXとは、結局五年近く仕事をともにしてきました。よく働いてくれたと思います。FD2枚だけで、いろいろやってくれました。一度FDDがいかれましたが。「一太郎」とのつきあいも、ここから始まりました。NECラインでプリンタも買いました。

 いろいろふらついて、結局かなりムダをしたのは自宅用の機械です。自宅と大学と、両方で仕事ができる体制が欲しくなります。でも、PCは結構高いし、何よりもあんなもので大いに場所を占めてもらいたくはない、そこに出てきた、当時の液晶ディスプレイ「ラップトップ機」です。その先駆け、Epson PC286Lというのに飛びついて、88年4月に買い込みました。何と26万8千円もしました。何より、98互換が魅力でした。

 でも、図体は小さいけれどもこれはトラブルメイカー、ともかくのろいのです。μPD70116相当のCPUは10MHz、でも9801UXより数段遅い感じでした。当時の専用ワープロに比べたら、「鈍感!」と叫びたくなったものです。電池内蔵で、携帯性をうたっていましたが、重さは6.3kgもありました。さらに、この内蔵電池が欠陥を持ち、Epsonは全品引き取り修理をする事態になりました。それなのに、これもA氏に伝染させる結果になったのです。繰り返し、申し訳ない限りです。



 PC286Lと苦闘をする一方で、このころすでに(本当の)「モーバイル機」を志向したのです。それにふさわしいのが、やはりEpsonから出た、PWP-NT2というので、これは知るひとぞ知る、当時の優れものでした。あくまでワープロですが、PCとの間で、データのトランスポートと互換ができます。小さな液晶画面だけれど、かなりの表示ができます。住所録やスケジューラも持っていたのです。さらに、何とモデムの使用も可能になっていたのです(当時はやりませんでしたが)。それでいて、重さは1.2Kg、単三電池4本で動きます。外部メモリは専用カードでした。なにせ、このころはまだプリンタを分離したワープロさえ、ほとんどなかったのですから。

 つまりこれは、今のモーバイル機やPDAの要素をもう全部持っていたのです。でも不幸にして、当時の各ハード・ソフトの技術や、「市場ニーズ」自体がそこまで至っていなかったため、短命に終わりました。Epsonはワープロの製造から手を引いてしまいました。どうも私は、時代より一歩どころか、三歩ぐらい先に行ってしまい、なかなか自分の必要とするものを備えられない習性と宿命があるようです。それから何年かして、そうした用途と製品がブームになったりするのです。ともかく、これを89年2月に6万円足らずで購入、いろんな場に持ち歩いていました。海外調査の際にもかなり使えました。


 PC286Lに苦心をしていたところに、いわばそれの改良後継機である、PC286LSというシリーズ(80C286)が出てきました。これは「ラップトップ機」というより、折り畳み型卓上機のようなもので、16bit世代の最後になってしまったのですが、何よりHDを備えているのが魅力、それも取り外し自由のパック形という面白いアイディア、サードパーティからこのHDパックを内蔵して、デスクトップにつなげられるボックスが出たのを機に、「HDをFD代わりに持ち運べるじゃないか」と考え、PC9801UXのHD化をかねてアップグレードしようと計画したのです。ただ、それにしてもPC286LSは高すぎたのですが、32bit時代を前に、投げ売りに入ったところで、90年1月に35万円で買いました。
 ちょっと割高な買い物でしたが、このPC286LSはそれなりによく働いてくれたと思います。まる4年間動いていました。MS-DOS時代の最後です。今は棚の中で眠っています。



 またも失敗をしたのが、急にブームになった「ノートパソコン時代」に乗ろうと、当時の最軽量98機、PC9801NLというのを、92年にあわてて買ったことです。これは、PWT-NT2の代わりになるどころか、およそ扱いにくい代物でした。何ともアマチュア的発想で、DOSの設定に独特の妙なひねりがあること、それにあわせて、ソフトも独自の設定をしたFDを用意せねばならないこと、今どきV30という、超のろいCPUであったことだけでなく、何よりも、キーボードの出来が実に悪く、まともに一回のストロークで、キーが動いてくれないのです。入力をやっているとイライラしてきます。反射型の液晶画面(もちろん白黒)も、非常に見にくいものです。おまけに、専用電池のトラブルまで生じました。18万円もの出費、その後のメモリ増強などは、全くのムダでした。


 この欠陥商品(敢えてそう言うべきです)は、不幸な最期を遂げました。あとで出てくる、ノート型モーバイル機の後継機を買い、9801NLには引導を渡して、研究室での「教材用」にしようと、大学に持っていき、あけてみたところが、何と液晶画面が割れているのです。その途中、特別に衝撃や力を加えるようなことをやった覚えはありません。どうみてもこれは、9801NLが前途を悲観して、「自殺」したように思えます。店に修理代を聞いたら、とんでもない、新品が買えそうな値段なので、あきらめました。かわいそうですが、そのまま放置です。



 その次は、PC9801UXの後継、32bit機でした。個人研究費からリースで備品購入ができるようになったので、自費で研究室のツールを買うのはやめて、リースで入れようというわけ、その分ゆとりを持って、一番いいのを入れることにしたのですが、これがとんだ食わせ物、当時最高というはずの486機、PC9801FA/U5を選んでしまったのです。定価57万8千円という、今にして思えば信じがたく高い機械なのですが、CPUは486SX・16MHzで、RAMも2MBのみ、内蔵HDは40MBなんていう、近ごろだれも見向きもしないレベルでした。その当時はそれでも最高だったんだというのなら我慢もできますが、いわゆるIBMコンパチ機ではすでにこんなレベルはとっくに超えていたはずなのです。だから、このころFAを買ってしまった人たちは、みんな怒っています。WINスペックを読めなかったこっちが馬鹿だったのですが。


 92年4月にこれを入れてしまってから、世のWINDOWS化の流れになんとか取り残されないため、また、リースで入れた以上、4年間は使っていなければならないため、悪しき泥沼としての増強で屋上屋を重ねました。300MBHDをディスクベイに増設、また8MBRAMを増設(93年7月)、ディスプレイを交換、それまでの9801UX時代からのディスプレイTVから、ハイレゾマルチIDEXON MF8615へグレードアップ(94年3月)、グラッフィックアクセラレータボードI・O GA1024A、Intel倍速オーバードライブSX2ODP50を増設(94年7月)、さらに外付けCD-ROMドライブ緑電子CXA301を増設(94年8月)と、計30万円も自腹を切って投資して、なんとかWIN3.1が使える状態にし、だましだまし、4年間を持たせたのです。MS-DOSのままでやってりゃいいじゃないかって?アプリケーションソフトの方が進化しますから、それに追いつくにはOSもあげていかざるを得ません。結局、今ならワンセットディスプレイ込みで3台も買えそうなカネを、FAのために投じてしまったわけです。

 ようやくFAのリースが切れたのち、入れ替えをし、リース導入である以上、大学へ「御返納」申し上げた9801FAは、今はどこかの事務室で、WIN用の増設物一切込みで、余生を送っているはずです。



 この苦い経験から、自宅用のPCは、慎重に選びました。94年1月に、WINDOWS時代での熾烈化する競争で、相次ぎお買い得機を出してきた、NECのWIN対応のお値頃機、PC9821Bs/U7Wというのを入れたのです。値段は22万6千6百円、これにディスプレイも買ったので、かなりかかりましたが、まあそんなものでしょう。文字通りのデスクトップ機で、自宅の机は占領されてしまいましたものの、仕方ありません。いじましく、ノート機を置いておくのも、WIN時代にはふさわしくありませんので。


 この9821Bsは、486SX・33MHzと大したことはありませんが、それなりによく働いてくれました。もっとも、内蔵HDは170MBしかなかったので、はじめから外付けHDを増設、さらにRAMを増設したり、CD-ROMドライブをファイルベイに増設したり(当時、まだCD-ROMドライブは標準装備じゃなかった!)、果てはPentiumオーバードライブ(83MHz)や、グラフィックアクセラレータボードI・O GA-DRV2/98 (フルカラー表示)まで入れたりと、これも結構あとからかかっています。今はそれら込みで、サウンドブラスタボードもついて、知人のところで、9821Bsは余生を送っています。



 「モーバイル病」は、時々変なものを買わせます。一時、見かけだけかっこよかったCasio PW1000なんていう、HPもどきの、中身インチキなものを、投げ売りでつられて8千5百円で買ってしまったこともありましたが、まったく使いものになりませんでした。でもまた、94年9月には、Omron PA102-24-2S 愛称Massif などというのを、またふらふらと8万円あまりで買ってしまいました。ともかく小さい、軽い(880g)、ワープロとPDAの機能をすべて持ち、操作はVJEの入力、これもまた知るひとぞ知る優れものだったのです。これもカードメモリを用い(ただし今やJEIDA規格)、データはRS232CでPCへ転送可能です。それに、買った当初は使いませんでしたが、モデムを内蔵していて、そのままPC通信ができるのです。この機能はのちに大いに重宝しました。

 でも、心配したように、こうしたものを売る商売はうまくないOmronが、先の読み過ぎであまりに早く世に問う結果となり、たいして売れないままに消えていった機械でした(改良型も出たのですが)。それに、80286相当品のCPUが古すぎて、ワープロとしてはまたもイライラするほど遅かったのです。PCのワープロソフト初期の時代を思い起こさせました。PWP-NT2の後継機として十分活躍はしてくれないうちに、WIN時代に飲み込まれてしまったのです。



 WIN時代のモーバイル機は、と求めるうちに出てきたのが、当時最軽量のPanasonic CF11DS32「プロノートジェットミニ」です。ノートパソコン全盛の時代となっても、実はみんなお部屋の机の上で使うため、というニッポン的住宅事情の涙ぐましい産物であったものばかりで、いたずらにスペックと機能の多さを競い、ずっしり重くてどこがモーバイル機なんだ?というものが並ぶところへ、1.3kgの、正真正銘の携帯PCの登場です。いいも悪いもありません。PC9801NLの苦い教訓はできるだけ生かし、十分使えること、まともに操作ができることを確認、95年9月に、大枚26万7千円もはたいて買ってしまいました。カラー液晶ははじめて見ると感激です。松下電器という企業のシロート商法ぶりへの不安はありましたし、実際、キーボードの作りなんか実にちゃちでしたが、それでもなんとか使えます。486DX2・50MHzも、340MBのHDも、WIN3.1ではさして問題はありませんでした。これも海外までお供しました。


 ただ、ミニに外付けするため、当時まだ少なかった携帯用CD-ROMドライブのSONY PRD150というのを買ったのですが、これは全くの食わせものでした。当時で倍速というのは仕方ないとして、接続用の専用カードとそのドライバというのが、Sonyが急遽どっかで買ってきた代物、説明書も一切なく、接続してドライバをインストールすると、勝手にシステム設定を変更し、一時はシステム自体が立ち上がらなくなり、冷や汗をかきました。それをいじる説明もないし、さらにドライバを取り除こうとしても、居座り続けるのです。以来残念ながら、CF11ミニのカード関係の動作には、不安がつきまとっています。また、CDプレーヤーとして聞こうとすれば、CDのトラッキングが異常に過敏で、すぐに音が飛んでしまう始末です。一度本体を交換してもらったのですが、ほとんど同じでした。



 WINDOWS95時代の鳴り物入りの幕開けとともに、私の研究室のいまいましいFAのリースが切れました。でも、その96年4月の買い換えには、敢えてWIN95を選ばず、WIN3.1でのNEC PC9821Xa13/K12 を選んだのです。値段はFAの半値で、Pentium133MHz 、RAM16MB、1.2GBHD内蔵、4倍速CD-ROMドライブ付属というスペックは、WIN95向きであるのは明らかですが、なにせ、「一太郎」の現行Ver.6.3は、95への対応に問題があると言われていたので、敢えて避けたのです。私にとっては商売道具ですから、仕事を続けられる方が優先です。でも、そのため、あとでWIN95へのグレードアップに予想通り苦労する結果になりました。

 この機に98以外を選ばなかったのかって?CF11というDOS/V機をすでに使いだしてはいたのですが、やっぱり98時代のソフトやデータをそのまま使えないのには不安があります。サウンドボードはじめ、NEC機がもう時代に追いつけなくなり、結局割高になってきているのは十分実感していたものの、たとえ後ろ向きではあっても、簡単に98を離れるわけにはいかない心境でした。



 私にとって、ネットワーク化元年となった96年は、またも数々の試行錯誤であったもの、PC通信やインターネットが必携のツールになってきました。そうなれば、当然PCにもこうした機能が重視されます。WIN3.1で、「秀TERM」などの通信ソフトを使ったり、苦労してTrumpet Winsock を設定し、プロバイダ接続をしたりといった経験は、かなり時間の浪費でもありましたが、いろいろなことを覚えました。もっとも、Just Netにはひどい目に遭わされました。それというのも、「タダ」につられたさもしい根性の報いと反省しています。タダほど高いものはないのです。

 ネットワーク化には、PC9821Bsも頑張りました。モデム外付けでちゃんと働きました。また、CF11もネットワーク化し、PHSを使って手動接続(ヤマカン接続)なんていう技も覚えました。でも、そろそろ限界かな、というところで、「一太郎7」もようやく出たことだし、自宅の模様替えを機に、PC9821Bsに別れを告げ、一挙にWIN95機に進んだのです。



 おわかりのように、ここで半世紀近く前に記したことは、「モーバイル格闘記」とかなり重なっています。その前史、さらには非モーバイル・デスクトップ機の数々の墓碑銘でもありましょう。 *ここにお名前をあげたかっての同僚A氏というのは、先年病で亡くなられました。重ね重ね申し訳ないことです。


 この歴史に、「部分的に」日本語ワープロというのが重なっているのです。ただ、私はかなり早いうちに見切りを付けました。もちろん、「漢字のコード化」「かな漢字変換」をはじめとする、数々の技術の成果のうえに、現在のPCも須磨輔もあるのであり、それ自体は革命的なことであったとせねばなりません。ただ、「日本語文を書き、記憶記録し、印刷するマシン」に特化した、ワープロという形態は消えてなくなってしまったということです。歴史の中に、その成果自体は永遠に残りましょう。

 何よりも、「日本語で文章を書く」という作業は基本的に「手書き」しかなかった、それをマシンによる作業に全面的に切り替えてしまい、しかもそのおかげで、自由に編集やレイアウト、また記録記憶が出来るようになった、これはまさに革命的なことであったと言うべきでしょう。もちろん文を書くだけではなく、さまざまなフォームをつくる、書き込む、編纂する等の、かっては一部の専門職にしか出来なかった作業が誰でも可能なものになったのです。これに表計算や図形組込などの複合的な操作が加わります。そうなってきたとき、「漢字変換」と「文を書く」機能に特化して「進化」したワードプロセッサは、限界がありすぎたと言うべきなのでしょう。

 日本語ワープロの構造と仕組みから残らなかった、本来認められるべき一つの成果は、「プリンタ一体」のかたちでしょう。うえに見たように、私は当時そのかたちにこだわっていました。便利だなと思っていました。これは多分に欧文タイプライタの発想なのですが、結局それは殆ど必要とされなかったという事実をいまは確認せねばなりません。もちろん、以後PCにつなぐプリンタは革命的に安くなり、小型化し、どこにでも登場し、設置されるようになったせいはありましょう(その前提はインクジェットプリントでしょう)。しかし、趣味的技術論からすれば、なんで「プリンタ一体型」は要らなくなってしまったのか、面白いファクトではあります。


追記
 殆ど誰も知らない、しかし結構いいマシンだった、欧文ワープロBrother WP600の遺影ゲット 


 実は私は若かりし頃(1980年代)、印刷業界のコンサル的なことをしておりました。もちろん、大学教員の「本業」はあって、その傍ら、自分の研究の延長上から、頼まれるままに、業界団体のサポート役を務めたのです。

 今となっては、そういうの向いてなかったな、大して役にも立てなかったなという自省の思いばかりですが、その一環で、「ワードプロセッサは何を変えるか」なんていう雑文を業界団体の雑誌に載せたりしていたのです。これ、今読み返すのが正直怖すぎなのですが、やはりこの際おおやけにすべき「歴史的」責任もありましょう。いかに「向いてなかったか」の証左としても。

☆てなことで、この35年も前の雑文を探し出してきて、pdf化し掲載公開しました。
 いかにピンボケであったかという証明になってしまいますが、まあ当たらずとも遠からじという部分もあります(強弁)。ただ、こんなかに誤組みがあり、さすが私、WPの操作編集を誤ったのか(もちろんWPで書いたのです)、印刷屋さんが手違いしたのか、今となっては判明しません。正しい文のつながりも想定できません(忘れた)。これまた、みごとに「来たるべきへまな時代」を予言してしまっております。

  三井逸友稿「ワードプロセッサは何を変えるか」上・下(東京軽印刷工業会『東軽工』第288・289号、1986年 掲載)


【考察】

 このおおむかしの拙稿に対して、ひいては「ワープロという形自体が消える」と予想だにできなかったメーカー関係者らに対して、いま言えることは、「ワープロで日本語の文を書く」という行為自体、そんなに重要なものじゃなかった、それは今も昔も変わらないという、冷厳な事実の存在でしょう。もちろんそうした作業は、様々なかたちで、多くの人々の日常の仕事や暮らしの一部を構成しています。でも、それは逆に言えば「一部でしかなかった」のです。作家、「評論家」、記者やライターなど、文字通り「文を書く」のが仕事そのものである職業があり、またその周辺にこれに近い「アマチュア」も相当な数存在しましょう。私を含めた「研究者」・教員にも、これは欠かせない仕事の一部であり、日常でもあります。お役所や企業、諸団体などでそうした作業にもっぱら従事する人たちもかなりおられましょう。重要な文章を起草するとか、記録を作成するとか。でも、そこまでなのです。

 むしろ近年、web上などに自分のコンテンツを載せる、書き込む、どっかに文を記す、そうした機会は非常に増えているということは言えましょう。ですから、キーボードを用い、文字を書き、文を綴っていく、これは以前に比べれば遙かに広く、多く、日常化した機会になっているということは間違いないでしょう。昔の「日記を書き残す」といった習慣の何千何万倍にも広がったと出来ましょうか。でも、そうしたことをしている人たちのうちで、「日本語の文章を書いている」という意識は殆どないのではないでしょうか。最もわかりやすい例は、いまや電車の中でもどこででも、みんなにらめっこしているスマホです。もうキーボードも用いず、目にもとまらぬ早さの習熟の技で、画面タッチし、自分の言葉を入力し、SNSに書き込んだりメイルやりとりなどしています。でも、それはおそらく「文章書いてる」ほどの意識認識はないでしょう。あくまで言葉を文字に換え、綴り、送信し、やりとりするという範囲のことで。そこに改めて、「何か文書きますか?」なんて突っ込まれたら、殆どのひとは戸惑ってしまうでしょう。いや、単に話し言葉を文字にしてやりとりしてるだけですよと。普段の会話の延長ですよと。


 ところが、知る人ぞ知るように、こうしたスマホやケータイのテンキーだけで、ちゃんとかな漢字の日本語の文が書け、やりとりできる(ローマ字綴りやかな文字ではなく)というのは、まさに日本語ワープロの成果なのです。「かな漢字変換」と先読み「学習機能」を蓄えた多年の成果が、こんなことを容易にしてくれています。数文字入力するだけで、自分の癖どころか書き記したい内容に沿った、かな漢字の熟語や文章の候補が示され、綴られていきます。代表的には、ジャストシステム社が開発したフロントエンドプロセッサ・ATOKですね。これが多くの携帯端末に取り入れられているのです。

 つまり、「日本語WP」というものは、やはり世紀の発明だったのですが、「文を書く機械」としては完全に進化の袋小路に行き当たり、そして絶滅してしまいました。これに汎用的なパソコンが取って代わったというよりも、「かな漢字変換」での日本語文の作成編集記録利用といった一連の機能が極めて小さなセットに凝縮され(そこがデジタル技術革新の加速度的すごさ)、あらゆる情報関連機器の入力系などの一部を構成する要素になってしまったのです。スマホやケータイなどではテンキーどころかキーボードさえ不要になりました。画面タッチだけで入力できちゃうんですから。まあそのおかげで、英語圏をはじめとするアルファベット文字のみに頼ってきた西欧文化圏の情報機器の発達と利用の広まりに、同じようなツールを用いながら日本語圏からも劣らず参加できるようになったとも言えるわけで、大変な恩恵を受けていることは間違いないとできるのでしょう(中国語圏の場合などはどうしているのか、単に数と量の違いだけで、技術進歩と処理情報量の加速度的進化により日本語同様の解決を実現しているのか、残念ながらよく知りません)。

 かくして「日本語文を書く機械」は、博物館展示品になりました。マスプロダクション、「規模の経済性」の極みのような工業製品であっただけに、名筆のごとくに、文筆家御愛顧の使い込まれた道具的「名機」が登場保存愛玩されることもありませんでした(それを求めている「ワープロ愛好家」の方々もごく少数おられるそうですが)。そしてもう一方の、「日本語文をプリントする」機能の方は、その必要性があまりにも限定的なので、どっかにいっちゃいました。そも、うえにあげたような様々な機能や操作等の先には、「印字する」「ハードコピーを作る」ことが必要なわけでもありません(私のような古い人間は、文を書いている途中でも、下書きや部分稿段階でのプリントアウトを結構作り、読み直すのですが、そんなことするのは今どき珍しいよう、確かに紙とインクの無駄でもあります)。画面上の表示がすべてです。
 そして、「ともかく、どっかでプリントできればいいんだろ」、いや、プリントなんかしなくてもいいのが大部分と。なんしろ、「手書き」で記したレポート文をスマホで撮影した画像を、「課題レポート提出」としてメイル添付で送る学生が世の中では多々いるくらいですから。そこまで行かずとも、記した文は自分のblogやSNS上の書き込みにとどまる、そういった人たちもいまや多数でしょう。紙にプリントするなどというのはごく限られた機会と必要あってのことかもしれません。



 だいたい、キーボードや画面などとともにWPマシンに組み込まれた「一体型プリンタ」どころか、「携帯可能なプリンタ」というものもいまの世にわずかしかありません。一時は、インクリボン使用の熱転写型やのちのインクジェット型などで、小型軽量・電池使用で動くプリンタも世にいろいろ出ましたし、いまでもあることはあるのですが、ごくマイナーな存在ですね。持ち歩きには向かない重さ大きさになってきてもいますし(私はいまも、エプソン製電池駆動インクジェット機PX-S05というのを持ってます。以前のキヤノンのBJシリーズ・インクジェット機は小型軽量で結構使えたのですが、キヤノンが同シリーズを製造しなくなり、廃インキタンクの回収メンテのサービスをやめてしまったので、使用不能になりました。私の手元には相当数のインクカートリッジがいまだ残ったままです)。そこまでして、プリンタ持ち歩く必要もないということでしょう。
 いま全盛の須磨輔での利用を当て込んだ、ポータブルな昇華型熱転写式、ZINKインキ入り感熱用紙式などのプリンタも世の中には出ていますし、「カメラ一体型」さえありますが、フォトプリンターを称するなど明らかに画像のプリント用で、wifiでつながります、すぐに写真などプリントできますというねらい。どう見ても文字・文書用ではありません(私もキヤノンの昇華型熱転写式SELPHY CPプリンターを持ってますが、さすがにこれで文書など印刷した経験は皆無です。あくまで写真プリントの作成配布用)。そうした類は死滅しました。「プリンタというのはでんと鎮座ましましているもの」と相場が決まりました。

 しかも、「プリンタ本体ではなく、インクカートリッジを売って稼ぐ」各メーカーの「ビジネスモデル」のおかげで、据え置き型のフツーのプリンタなどめちゃ安く店頭に並んでいますし(この正月前、毎年年賀状だけ刷るのに使っていたインクジェット機が故障していて、どうにも黒色が出ないので、急遽新品購入。紙を折り曲げることなく、はがきに刷るのに向いた「上から下へ」単純な紙送りのプリンタって、意外に少ないのです。それで買ったキヤノン製のがなんと7千7百円!)。この構造を軽くつくるの自体、えらい手間暇かかって、高くつきそうですしね。だからまた、しっかりと大量のプリントアウトする際には、職場や学校の大型高速プリンタを使えばいい、というのが標準的スタイルになっています。私も前任校などでは、学内ネットワークを通じて印刷室の大きなプリンタを動かしていました。

 ていうわけで、「文を印刷する機能」も特段要らんとなってしまい、「日本語ワードプロセッサ」の存在価値は消えたのです。文字を入力し、操作するキーボード、入力や変換動作を表示し、文の形、ページ構成などを描き出すスクリーン、作成した文などを紙に印刷するプリンタ、そしてこれらの動作を実行する処理装置やデータ記憶装置を内蔵するメカ本体、プラス作成した文データなどを保存する外部記憶装置、これらを一体化したマシンとしての「ワープロ」の姿は一時の幻として終わりました。



続き・そもワープロとはなんぞや


 ここで、日本語ワードプロセッサというものを、上記のように、文字入力→変換処理→文章化→印刷という一連の作業を一体的に行い、日本語の漢字かな交じり文を綴るにとどまらず、それを適宜編集し、構成し、一つのレイアウトされた印刷物の仕様に仕上げ、紙の上に刷り出す、またこうした作業の成果を記憶記録し、とどめておくとともに、必要に応じて呼び出し、再度編集や構成を行うことができる装置と理解しています。「日本語ワードプロセッサ」というものが歴史のうえに出現した、まさに大事件の際に組み立てられたかたちを以後、踏襲し、より小型簡易化・廉価化、そして操作の容易化を目指してきたものとできましょう。

 これが「日本語文化」の歴史上の大事件であったのは間違いなく、多くの語り草のエピソードが後世に残されています。一番大きいのはもちろん、「かな漢字変換」という方式の確立でしょう。膨大な数の漢字を全部探し拾っていったら、大変な手間でどうにもなりません(それを実行していたのがあとで見る、和文タイプや写植の熟練技能能力ですが)。字ごとの読みで同音字の中から探し、選択するというのもありえますものの、これも容易なことではありません。それでも黎明期には「単漢字変換」方式というのがありました。かなを入れ、一字ごとに同音漢字を呼び出し、選択していくのです。やってみればえらい手間ですね。それを変えたのが、「(連)文節変換」方式で、(複数)漢字+かなで基本的に構成される「熟語」を単位とし、そのセットを膨大に用意するわけです。それでも同音異語のものが少なからず出現しますが、その中からの選択は比較的楽です。これが日本語ワープロの基本原理になりました。後々には、いろいろな工夫が凝らされ、システムの学習で、選択表示順位が変化するなどのひねり技も容易にできるようになりました。


 この前提には、漢字・かなを含むすべての文字のデジタル「コード化」・規格化がありました。これをしておかなければ、処理回路内での扱いができません。よく言われる話ですが、このコード化は相当の「えいや」で実行されたのだそうです。字の音読み、形状の類似などで無理矢理に順番にコードを割り振ってしまったのだとか。下手に「国語学者」らの議論に委ねなくてよかった、そんなことをしたら、「この字とこの字が元来類似の起源」だとか、「いや違う、こっちの方」、「あの字から派生したのがこれ」、「このへんの字を偏・つくりで整理し、画数順にならべて」なんていうことになり、喧々諤々、いまもってコード表が確定していなかったかもしれません。いまは有無を言わせずJISですから

 このへんが片付きますと、あとはアルファベットタイプライターを起源とするキーボードからかな読みを入力し、それを熟語単位文節単位でかな漢字文に変換し、正しいものを選択確定するという動作を続けていくことで、日本語の文章を画面上に綴っていくことができます。それが「日本語ワードプロセッサ」の根本原理です。もちろんその際にも、キーボードの割り振り構成の問題、また読みの入力を日本語かな五〇音とするか、ローマ字読みとするかの問題などがありました。まあ、これは結局のところ「多数決」、使用者皆がどれを自分の利用方法に選ぶかで、決まってきたと言えましょう。それにしても、今どきのワープロソフト、すごいですね。黎明期の日本語ワープロの操作のやっかいさ、試行錯誤の多さに比べたらもう月となんとかで、「かな漢字文に選択変換確定しながら」文を少しずつ入力しているなんて、意識もしなくなりました。誤入力しても、勝手に直してくれますし。



 こうして世に出現し、多大の衝撃を与え、まさに文化革命を起こした「日本語ワープロ」でしたが、当初はそのインパクトは限られていました。これが日本語の文化と表現方法を決定的に変えてしまった、それはある意味たまたまの産物であって、そうでなければならない全社会的文化的必然性がどこまであったのか、「後出し」的に追えば、かなり過渡的かつ曖昧なものであったとせねばならないのでしょう。なぜなら、これは多分に「印刷・出版業界」の仕事のあり方に強く規定されて出てきたものと想定することが無理ありません。実際、「日本語ワープロ」は元来、そうした「業界」の世界の仕事のツールとして登場したわけです。非常に大きく、高価でやっかいな「装置」でした。かっての「和文タイプライター」操作の大変さ、のちの写真植字機の熟練作業の経験、それらの延長上に、「コンピュータでの情報処理技術」の応用の一環として、「字だけではなく」「日本語文を書ける装置」が構想されたと想定して差し支えないでしょう。もちろんそこで、「かな漢字文」という日本語の固有の表記方法をどのようにして入力・処理・記憶させるか、上記のようにこれは間違いなく大革命でした(これも厳密には、未だ複数の文字コード体系もあるのですが)。特に印刷業界へのインパクトは空前のものがありました。でも極言すればその日本語ワープロ「大革命」に酔ってしまい、世の中みんな同じようなものを必要としているという錯覚が蔓延した、メーカーもユーザーも、と言ったら、後出しの暴言に過ぎましょうか。


 ともあれ現実には、うえに示したように、「日本語ワープロ」の機能はのちのちPCやスマホの中に取り込まれ、そのごく一部になってしまったのです。「一部に過ぎない」のなら、それ以外のもっと広範多様な機能・処理能力を備えた機器の登場と高性能化多様化に勝てるはずがありません。その中にあっという間に飲み込まれてしまいました。いまは、「日本語書くため」の「一太郎」や「MS-WORD」「EGWORD」等の「アプリ」など、みんな知っていましょうが、「日本語ワープロっていう機械もあったんだよ」なんて、今どきの方々に話せば、何かのジョークか都市伝説かととられて、終わりでしょう。

 いやそれでも、私など「初期ワープロ」で表をつくる、レイアウト工夫する、一定計算をするくらいまで試みたのですよ、ここに記したように。でも、それは基本無理でした。ほとんど軽業の類いでした。



 しかしまた、この「モーバイルPC苦闘20年史 その2」にも記しましたように、日本語ワープロの派生から、モーバイルPCの原型的な機器が80年代末に世に現れ、私はまさに1989年に、これを入手しているのです。EpsonWORDBANK Note2、記したようにこれは基本、日本語の文章入力と編集に特化したマシンで、だから非常に小型軽量化・モーバイル化ができたのです。UM3電池4本で駆動でしたからね。「プリンタ搭載から解放されました」、このキャッチコピーが、現在もプリンタメーカーであるエプソンが掲げたのですから、実に意味深でした。

 小型軽量、持ち運びと出先利用容易、また記録したデータの互換利用も可能、もちろんそのままプリンタにつないで印刷可能など、むしろ「日本語ワープロ」の固定化された観念を打破するものだったわけですが、当時の諸般の技術とパーツの制約が大きすぎました。一番わかりやすいのは、この小さな単色の液晶画面、いまどきのスマホの画面に比べたら、誰しも絶句するレベルでした。内部メモリの小ささ、外部メモリパーツや接続通信の互換性などの制約も言うに及びません。


 だから、徒花で終わっちゃったわけですが、いやこれでも結構使えたのですよ。だからまた、私など「日本語ワープロ」にさっさと見切りをつけられたのかも。別にプリンタついてなくてもいいよ、キーボードで文字入れ、文に組んで編集できればOK、ノート代わり、それがいつでもどこででもできると楽だな、とね。それがつまり、「モーバイルPC」そのものであったわけです。

(似たようなものが近年文具メーカーから「復活」しましたが、やはり売れ行きはいまいちだったようです。「いつでもどこでも、日本語文を入力記録できる」、ノート代わりという、そういうニーズはあるはずだったのですが。ま、モーバイルPC機があふれていますし、スマホでできないこともないですし)



ほい(補遺)


 ところで、「日本語ワープロ絶滅の恐竜史」があれば、「日本語じゃない」「欧文(英文)ワープロ」って、何だろ、という問いは残ります。

 まあ、そういった代物をいじった経験者は日本に多いとは言えなさそうですが、これも「あった」のです。そして上記のように、私はBrotherWP600というのを持っていたのでした。
 これももちろん、文字を並べ、文を作り、編集し、そしてプリントする機械であることは間違いありません。でも、当然ながら、その原型はタイプライターで、実に長年の歴史と多くの利用者がいたわけです。アルファベットの文字数に対応するキーと、それにつながった活字のついたアームが備えられ、キーをたたくとこれが動いて巻き付けられた紙を打ち、紙との間に挟まれたインクのついたリボンのおかげで文字のかたちが紙上に記録される、という仕組みです。打鍵の度、紙が一字分送られていくメカを持っているので、キーをたたいていくことで連続的に文字が綴られていきます。紙の端まで印字していくと、巻き付いた胴を回して紙を送る、こうして紙の上に文章が記されていくわけです。このタイプライターの原理は相当に早くに形成され、19世紀後半には商品化され、広く普及したそうです。

 もちろん英語圏だけではなく、アルファベット文字を使う言語圏ではどこでも広く利用されたそうですし、アルファベット文字だけではなく、ロシア文字やギリシア文字のものもあるようです。文字数が一定限られていれば、こうしたマシンは容易に製品化でき、大量につくられ、比較的廉価で広く普及しました(大文字小文字の区別については、タイプライターでは一般に、シフトキーを操作することで、同じキーを打っても使い分けされる仕掛けになっています。ですからキーの数は、数字や記号など入れても50個程度です)。もちろん「秘書」や「文書係」といった職種ではタイプ打ちが専門技能となったわけですが、一般の家庭に至るまで、タイプライターの一台や二台転がっているのは、当たり前だったようです。いわゆる「ブラインドタッチ」で、キーを見ることなく目にもとまらぬ早さで文字を打っていくというのが熟達した専門技能のシンボルだったものの、まあ、人差し指だけで一字一字打っていってもいけないわけではないので、利用は広かったわけです。それゆえ、概して「欧米社会」の人たちはハンドライティングの機会が少なく、書かせると相当にひどい字を書きます。まず、日本の学校で教わる「筆記体」というのを知りません。


 言うまでもなく、現在のPCのかたちはこの欧文タイプライターを原型にしたので、キーボードの仕組みや文字配列、操作はほぼそれを踏襲しています。まあ、「欧米中心主義」ではありますね。ために、「日本語ワープロ」が登場した際、欧文タイプに合わせることなく、独自の入力装置、とりわけ「日本語キーボード」といったものがあれこれ工夫されました。基本は、日本語の音は「かな五十音」なんだから、それに合わせたキーボードといったものを提供すればいいじゃないか、です。それには「和文タイプライター」の歴史も絡んでいますが、これはまた後で触れます。



 欧文タイプはのちにそれなりの進歩を遂げました。大きいのは電動化であり、打鍵で動くアームではない別の装置で、印字していくメカの登場です。それによって、作業の肉体的負担が小さくなるうえに、印字の仕上がりの飛躍的向上が実現しました。さらにエレキが入れば、キー入力と印字を同時対応させる必要はなく、入力結果をいったん蓄積・記録しておいて、印字は別途一気にやってしまう、そういった仕組みができてきます。一番有名なのは、IBMが開発したタイプボール印字装置、さらにのちのデイジーホイール印字装置です。これらは与えられた信号で高速回転動作し、紙送りとともに印字をすすめていくので、単にキー打ちの負担を減らし、印字結果が向上するだけではなく、非常な高速作業が可能になりました。そのために、入力結果をデータで蓄積し、印字作業と分ける使用方法がごく当たり前のものになったのです。そうなると、これはもうタイプライターというより、電子装置、ワードプロセッサに近づきます。


 私が手にした、ブラザーのCE70というのは、デイジーホイール式の電子タイプライターです。手動機同様にキー入力と印字を同時に電気的に行う設定もできますが、基本はいったんキー入力の結果をデータで記憶させ、スイッチオンで自動でホイールに印字させていくやり方です。しかも、このキー入力をインターフェース経由で外付けのワープロにやらせることもできました。この動作は、見ていると結構楽しいものでした。もちろん、紙送りやレイアウト設定もあらかじめ指定し、自動で行わせられます。



*せっかく欧文タイプライターに言及したので、もう三〇年以上も前にロンドンWHSmithで買った(日本製)のを押し入れの奥から取り出してみました(なかなかよかったブラザー電子タイプCE70は手放したか、ひとにやったか、置いてきたかで、もう手元にはない)。ところが、動かないのです。紙をセットするローラーのついたキャリッジが左右に行きません。どっかストッパーがあるのかとも思いますが、ありません。それじゃあ使い物になりません。ついでに、インクリボンを取り出すカバー部分も開きません。見たとこ異常ないようなのですが、全然だめです。
 単純な構造でありながら、これではねえ、です。

 ま、レトロ趣味で今更タイプ入手しようとも思いませんけれど。



← うえの記述は間違い。web情報など検索して、キャリッジを固定する装置がポータブルタイプライターにはあるはずと気がつきました。ケースに収められるようにです。さて、それはどこにあったかと散々探すも、容易に見つかりません。結局、ローラーの送りを調節する小さなレバーに「・」表示のあるのを発見、これを動かして解除したら、難なくキャリッジは動き、キーを打てるようになりました。また、インクリボンのカバーは、えいやで取り上げるのみでした。

 やれやれ、ウン十年たっても故障はしていなかった、動くんだと安堵し、試し打ちを試みましたが、PCのキーボードに慣れきってしまった身からすると、一字打つのにえらい力を要するし、指先の加減で打字のできがかなり狂うし、ミスタイプしてももちろん消せないしと、がっかりするような使い勝手です。やっぱりただの郷愁だけなのですね。中にはなにかのナットが転がってもいましたから(どっから外れたのか不明)。しょせん、「室内アクセサリー」にとどまります。
 じゃあといって、今更に電子タイプライターCE70なんか探しますか?手元に残しておけばよかったという悔いもないわけではないものの、ともかく図体がでかくて重かったのです。どうにもなりません。

 じゃあ、電子タイプとワードプロセッサはどこが違うのか、ひとつには単に文字を印字していくだけじゃない、欧文での「禁則処理」などの条件設定でしょう(日本語でもやはり「禁則処理」が有り、印刷業関係の方々はかなりうるさいのですが、「単語」ではなく文字単位で記されるなどから、あまりきちんとは守られません。書き手の方ではほとんど意識されていません)。たとえば、英語の文章で各行の終わりには、単語の語尾が来ないといけません。wordの語が切れて、woとrdに途中で改行されたりしてはいけないのです(ワードラップという)。手動のタイプだと、当然そうしたことが起こりえます。頃合いを見計らって、次の語を打つ前に改行紙送りするといった操作が要ります。そうしたことを、電子的に判断動作してくれるのです。それどころか、「ジャスティフィケーション」という技も出てきます。各行内に入る語の文字数をあらかじめ計算し、単語間のスペースを自動調整するなどといった「技」が発揮されるのです。書籍や雑誌、新聞などの文字組にはそうした知恵が昔から存分に発揮されています。これを、欧文ワープロは容易に処理してくれます。ただ、電子タイプでも設定により、こうした印字テクニックはかなり実行してくれます。

 ワープロではさらに、ミススペル(ミスタイプと言う)の自動指摘訂正、あるいは米語式と英語式のスペルの指定などといった技も当然こなしてくれた(と思われます)。これはすでに、PCの発想と処理能力を取り入れたのですから。ただ、実際にそうだったのか、ユーザーとしての私の記憶があまりに遠くて、いま定かではありません。


 もちろん決定的な違いは、ホイールなどを用いようがどうであろうが、タイプの文字は物理的に決まってしまっている点です。書体ごとでホイールを交換使用するといった技もありますが(私のCE70用にもいくつかの書体ホイールを備えました)、限りもありますし、印字途中で変えるのも無理です。文字の大きさ、複雑なレイアウト構成等はいじれません。そのへん、大きさだけではなく、太字(ボルド)、斜体(イタリック)、幅広、幅細などいろいろな加工も、ワードプロセッサで専用的プリンタが用意接続されていれば、ほとんど自由に指定操作・変更等ができます。だから、欧文でのワードプロセッサは基本的に、編集・レイアウト、ページ組、文字種・文字組の自由な操作を可能にするものなのです。欧文の世界では、これは画期的なことだったのでしょう。
 私は、明らかに欧文タイプでページが組まれたと思われる書籍を手にした経験もあります。かなり凄かったですね。行末には−(ハイフン)がいっぱい並んだりして(禁則処理をうまくこなせないので、単語が行にまたがる際にはこうしていた)。れっきとした市販書でしたが、ページのレイアウトなども「原稿」感しきりでした。試行的に、文字組みの費用をうんと節約しようとしたのでしょうが、さすがにこういったのはあっという間に姿を消しました。


 その後のPCの天文学的な進歩・高性能化で、欧文ワープロもPCソフトに取り込まれ、マシンとしては早々に姿を消してしまいました。当然ながら、日本語ワープロのような「革命的」なものではなかったせいもありましょう。私自身はPC利用の黎明期、英文ワープロソフトの「Wordstar」というのも買った記憶です。相当高かったことを覚えています。ただ、説明は基本英文など、なかなかやっかいな相手でした。そのうちに日本語ワープロソフトにも当たり前のように欧文機能が充実し、要らなくなってしまいました。て言うか、マイクロソフトの「Word」というのは元来英文ワープロソフトなので、およそ日本語を書いていくのには向いていません。考え方が違うのです。初期のものなどホントにひどい代物でした。その後だいぶ改良改善はされてきたようですが、私は一切使いません。ワープロソフトは「一太郎」というのを守ってきております。



「和文タイプライター」、そして「写植機」というという奇々怪々な過渡期の寵児


 ついでの話しです。

 アルファベットなどの限られた文字数の世界ではタイプライターが当たり前のように普及利用されてきた中、日本語では漢字の膨大な文字数が障害となり、機械化することが容易に出来ませんでした(かな文字タイプというものもあり、これをてこに、日本語の「全かな文字表記化」を主張推進する方々もおられたのですが、何でそういうのが力を得ることがなかったのか −「全ハングル表記化」を実現した韓国朝鮮とは大違い−、これは興味ある課題です。まあ、どっちが便利なのかといえば、私は自明と思いますけれど。第二次大戦後は「全ローマ字表記化」でしたが)。書物や新聞などにも、手書きの原稿をもとに、活字を拾って組んでいくという面倒で熟練技能を要する作業の歴史が長く続いてきました。必要な活字の数も膨大になります。しかし、どんなに多い文字数でも、それを揃えた文字盤を用意すれば出来ないこともないだろうと、和文タイプというのも登場した次第です。これも歴史的には意外にはやく、1910年代に登場したとものの本に書かれています。しっかし、えらいことですね。2000字以上もある文字活字が並んだ文字盤から、一つ一つ字を拾い、ピックアップアームを使って紙面に打ち付けていくのです。この文字盤配列には一定の法則が用いられましたが、「和文タイピスト」はそれを頭の中に入れ、かなりの早さで一字一字打っていくのですね。大変な熟達の技です。もちろんドシロートにはまったく歯が立ちません。やってみれば、一文字探し出して打つのに、何分もかかってしまって仕事になりません。


 ですから和文タイピストというのは専門職として珍重されました。印刷や出版関係はもとより、官公庁、企業等でも文書を起こすのに必要な存在であり、もちろん外注で和文タイプ打ちを請け負う専門業も少なからず存在していました(昔の公文書など、和文タイプで打って、これを謄写版で刷ったものなんて、ザラにありましたですね)。当然タイプ機械の値段も相当したようです。



 このやっかい極まりない和文タイプに取って代わったのが「日本語ワープロ」であったと言いたいところですが、必ずしもそうではありません。その間に、「写植」というのが存在していたのです。これは実は、私の「学界デビュー」の研究対象なので、相当詳しく調べ、論文にもしました(三井逸友「大都市小零細工業簇生の一検討 −写真植字業小零細経営増加の実態と要因」『三田學會雑誌』第74巻3号、1981年、同「巨大都市東京に集中する印刷産業小零細経営と『都心的需要』」『日本中小企業学会論集』第1集、同友館刊、1982年)。


 「写真植字」、これは文字通りに、タイプライターなどでは文字活字を直接紙に打ち付け、印字していくのに対し、文字の原版を写真の原理でフィルムに焼き付けていく、こういうしくみなのです。何か余計な手間をかけているようにも思えますが、多くの利点があったので、一時期非常に広く用いられました。文字原板ももちろん日本語では何千字分も用意しなくてはなりませんが、それはどっかに極小のものを並べた種板を備えておけばいいのですから、和文タイプのような、大きくて重い文字盤は要りません。実際には「メインプレート」と呼ばれる文字盤に3千字近くのネガ字母が記されたものを用い、これを投影する仕組みでした。その中からレンズを通して確認しつつ、拾っていく、つまりその文字をフィルムに適当なサイズで順次焼き付けていくのです。そして写真原理ですから、同じ原盤文字から実に多くの大きさ、形状のものを写すことが容易に出来ます。また文字組を終えた原板フィルムを用いて、さまざまな作業にあてることが出来ます。


 この写植の歴史も意外に古く、昭和初期の発明とされています。それが急速に普及するようになったのは、戦後のオフセット印刷の広まりと軌を一にしています。かなり長いこと、有名作家や大学者は、「活字を組んで」という表現にこだわりを持っていました。出版印刷と文選植字(ちょくじと読む)の根気の要る作業とは不可分の関係だと思われていたのです。「作家指定の文字が活字になくてねえ」、特注で造らせたんですよ、なんていうのが出版業界の名言の一つでした。また編集者泣かせの達筆悪筆の原稿を、いとも容易に読んで文字を拾っていく専門職の名人芸的経験と手腕が話題にもなりました。でも、こういった活字を並べて構成した刷版にインキをつけて紙に押す「活版」(凸版)の印刷(厳密には、新聞印刷などでは活字を並べた原板から刷版を別途作り、これを印刷機にかけていますが)というのは、戦後急速に衰退し、これにオフセット印刷=平板印刷が取って代わるようになったのです。

 オフセット印刷の版は活字を組んで並べたものである必要はもちろんなく、むしろ写真フィルムを通常用います。これを「版下」に貼り込み、印刷の元原稿に仕上げます。そしてアルミ板などの印刷原板に焼き付け、印刷インキの乗るべきところ・乗らないところを化学的に加工作成、それからこの「刷版」を印刷機の版胴にかけ、水で濡らしてインキの乗る部分・はじかれる部分を実際に作り、そのうえでインキを塗り、それを別の版ローラー(ブランケット)にいったん転写し、そして紙面に対し刷っていくのです。とても面倒そうに聞こえますが、これはいまや確立した技術で、いまどきある印刷物の大部分はこのオフセットで刷られています。非常に高い精度・鮮明性と、相当の速度が実現されていて、ごくありふれた存在です。特に画像を刷るのには向いています。刷版が直接用紙面に触れないので、長持ちするという利点もあります。こうしたオフセット印刷と写植は親和性が高いので、いずれも広く用いられるようになり、ために、当然ながら「活字」は世の中から基本消えました。



 オフセット印刷機自体はかなり大がかりなもので、高速だが高価な「オフ輪」(輪転機)もある一方、簡便化した「軽オフセット」というのが70年代以降登場しました。刷版を紙にしたところが特徴で、品質は落ちますし大量印刷には向きませんが、低コストで作業も容易、印刷機も小型化します。これを主に用い、和文タイプ、さらには日本語ワープロで前工程の組み版をし、印刷物を低価格で製造供給するという「軽印刷業」という業態が定着したのです。「軽」と「一般印刷」の境目というのはあまり厳密ではありませんが、軽印刷業者の多くは、もとは「謄写印刷」を主としていたとされていました。それが、高度成長以来の「都市型印刷需要」の急拡大で、このように軽オフセット機などを用い、低投資低費用と小回りの良さを武器に、事務用や広告宣伝用、さらにはさまざまな文書作成などの情報関連需要などを取り込んで、拡大をしていったのです(詳しくは、三井、前掲「巨大都市東京に集中する印刷産業小零細経営と『都心的需要』」)。


 しかし、90年代以降、情報技術の急革新と普及、激しい「デファクトスタンダード」争いのもとで、印刷業や写植、写真製版などの印刷関連業の存在基盤は根本から揺るがされました。たとえば写植業の場合、手作業での写植文字入力に代わり、コンピュータデータとして入力編集する「電算写植」というかたちが80年代から登場し(原型は70年代からだったとか)、高速処理を誇りました。さらには文字入力作業自体がPCで、誰でもどこでも出来るものとなり(ワープロのおかげで各文字はすべて標準コードでの記号化されましたから)、それで原稿も来るので、写植「業」と呼べる存在の意義がどんどん薄れてしまいました(当初の「電算写植機」は千万円の単位の価格だったそうですが、そんなものあっという間に要らなくなりました)。もちろん、PCで入力された文章などのデータに、さまざまな文字指定や図表などを入れた頁組み、レイアウト、「割り付け」などを行う中間作業がこんどは重要になりますが、そうしたものもすべてPC上での処理になります。いわゆる「DTPデスクトップパブリッシング」の一般化です。最後に、印刷にかけるための刷版を作る作業というものは依然欠かせないし、重要であるものの、それのみが「写植業」や「写真製版業」の担う仕事に限定されてきます。一時は、多くの中間工程を省略した「ダイレクト製版」というのも注目されましたが、気がつけばみんなダイレクトになってしまいました。とりわけ、印刷物を発注する側、「作家」やライター、デザイナー、広告クリエーター、企業や団体、官公庁や学校などの「文書担当」、みんな自分たちの原稿をPCで入力作成し、そのデータを渡してくるのですから、版の文字組などだけを担当する「写植業」など要らなくなってしまったのです。言い換えれば、「細分化された分業関係」が消えてしまったのです。
 和文タイプ同様の文字配置や機械の操作方法、頁構成編集・レイアウトの知識など備えた「写植オペレータ」という熟練職種は、かくて絶滅危惧種になりました(ちなみに、一世を風靡した日本語写植機のメーカー、写研やモリサワはかっては機械の販促や普及にしのぎを削り、オペレータの養成などしたものですが、いまは開発してきた「書体」フォントを売ることで生き残りを図っているようです。しかもかってのライバル同士がいまでは協力し合う仲とか)。

 ま、私の上記稿を読み返してみたら、最後に「執筆者自身がワードプロセッサで原稿を入れるならば、文字組作業そのものが不要になることも考えられるが、その可能性は小さいだろう」なんて記していました。不明を恥じるばかりです。まさにそうなってしまいました。いまどき、手書きの原稿を出版社や印刷業に送って、「これを文字組んで、印刷発行してくれ」なんて言ったら、悪い冗談だと思われますよ。実際さすがの私も、80年代末頃、ワープロやPCの急普及で、「そのうち手書きの原稿など持ち込んだら、文字入力の手間どころか判読料を取られますよ」と申したところ、居並ぶ「手で原稿書く」世代の大先生方から失笑を買いました。でも、そのとおりになったのです。まあ先にも触れたように、かなり後まで、大先生や作家などは「活字が」なんて言ってましたしね。写植化で、活字というもの自体がとっくに消えてなくなってしまっていたのに。



 なお、業界に詳しい方々の説明では、ワープロ化、PC化の直接の大きな誘因は、「校正修正の容易さ」なのだそうです。大作家の小説だろうが、雑誌の記事だろうが、広告チラシだろうが、はてはお役所の記録文書だろうが、一度書かれた原稿、それをもとにした版組、こうしたものをそのまんま印刷にかけて完成させることは通常あり得ません。何度か試し刷りをつくり、書いたご本人や編集担当者などが読み直し、誤字脱字や文の間違いなどを直す、あるいはそこで加筆修正などを行う、こうしたやりとりがいまに至るまで通常の慣行です。いわゆる校正作業を伴うのです。その段階で、ページのレイアウト、図表や写真などの入れ方並べ方などを工夫する、直すというようなこともよくあります。そのために、相当の時間と労力を要するのは避けられません。写植であっても、一度文字などを組んで打ってしまったものを直すとなると、これは手間です。しかし、こうした一連の作業とやりとりがあくまでデジタルデータの世界であれば、修正作業なども非常に容易になります。極端には、データを画面上に呼び出し、これを見ながら修正変更していってもいいわけですよね。バーチャルの世界で事が済むわけです。それで全体の工程の所要時間が大幅に短縮されます。


 現実の書籍や雑誌の出版などでは、昔ながらに「ゲラ刷り」を筆者や編集者に送り、そこで朱を入れてもらって、これを見ながらあとで元データをいじるというような慣行はいまも続いていますし、私もそのおかげをいただいております。でも、それでさえも、実際にいじるのはデジタルデータの世界の作業となるので、遙かに容易で手間をかけず、短時間で処理できるようになったのは間違いないでしょう。また、そうした稿=版下の保存はもとより、pdfファイル化などして、web上からも提供公開する、さらにはインタネ「出版」だけになる、こうしたこともいまやごくありふれた姿になっています。さすがに、紙に記された「印刷物」というかたち自体が基本なくなるという予想はほとんど当たっていませんが。





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 この項、長くなりすぎたんで、「スマホを買わんの記 −わがモーバイルPC格闘史20年」のはじめ、「1」