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三井の、なんのたしにもならないお話 その四十一

(2015.03オリジナル作成)



 
 
 スマホを買わんの記 −わがモーバイルPC格闘史20年 その2


3.モーバイルPCの夜あけと歴史

 
 
 そこで、モーバイルコンピューティングの歴史的挑戦を支えてくれた、あるいは足を引っ張ってくれた、「記憶に残る」マシンをいくつかあげていってみましょう。


 この「歴史」の一部、初期10年分くらいはすでにweb上で公開をしています。そのまた再編版になりましょうけれど。





 
3-1 夜明け前の格闘



 もちろん、前史時代には「パソコンを持ち歩く」、「持ち歩きながら操作する」などという発想は容易に出てきませんでした。巨大な「コンピュータ」が机の上に乗るようになってさえ、革命的と思われたくらいですから。なんしろ「パーソナル」コンピュータです。しかも日本では、それに先駆けたのが「ワープロ」でした。いまにして思えば、要するにPCの情報処理機能を利用し、「かな漢字変換」での日本語文章の作成と記録、画面上の表示と「編集作業」操作、そして記憶(当時はなんとカセットテープに記憶させていたんでっせ)と「印刷」、これら一連の作業をおこなえる、キーボード、本体、表示画面、プリンタ一体の箱物にしたと言えば、あたっていましょうか。

 歴史においては、「専用化」による発展普及と、その行きづまり、「汎用機」を足場としてのあらたな展開の不連続な過程が繰り返される、まさにそれを象徴してくれたのがワープロだったと実感させられます。「マシン」としてのワープロは前史時代とともに絶滅しましたが、ソフトとしての「かな漢字変換入力」と「編集」の機能は脈々と生きとります。私自身は、80年代半ばにしてキャノンワープロからNECパソコンに乗り換えたのでした。



○エプソンのPC286

 NECのPC98のマネと、一時騒動になったシリーズでしたが、いまでは「え?エプソンがパソコン作ってたんだって?」くらいのものでしょう。もちろん、いまでもBtOのデスクトップ機なんか出しているんですけどね。

 
 あとで見るように、ワープロ生産に力を入れてきたのち、黎明期のパソコン市場にも乗り出したエプソンとしては、特徴を小型軽量可搬機におきました。当時、「ラップトップ」と称した流れで、画面一体型だが折りたためる仕組み、でも重さが6kgだの8kgだのとなれば、膝に乗せていたら疲労骨折しそう、だいたいあくまでAC電源で駆動なので、モーバイル機とはとても呼べません。

 それを80年代末には、私は自宅用に買っていました。当時のでかいPC98を自宅にまで据え付ける気にならず、「ふだんしまっとき、使う時だけ取り出す」方式にしようと考えて。まあ実際には、机を占領するようになりましたが。ちなみに、このころのですから、基本フロッピーディスクドライブで駆動です。

 こんなものでもよく使いました。現実には自宅から「外出した」ことはありませんでしたけれど。



 実際に買ったのは、PC286LとPC286LSでした。名前はよく似ていますが、外観や使い勝手はまるで違います。前者はいまのノートPCの前身みたいに、液晶画面が蓋になっていて、これをおこしてキーボードを出し使います。液晶画面部分が本体部分両端の柱で支えられ、うえに突き出た格好になるのが特徴でした。それだけ、本体に奥行きがあって、キーボードの後ろに半分近くが盛り上がっています。もちろん白黒液晶画面です。重さ6.1kgでした。なお、「内蔵NiCd電池で3時間駆動可能となっていますが、それで思い出しました。これはうまくいかず、すぐに「電源を接続してください」となって腹立たしかったものです。電池駆動でモーバイル化というのは無理があったのでしょう。

 μPD70116相当のCPUは10MHzと称しますが、ともかくのろかったことも記憶に残っています。キー入力し、そのつどマシンが処理をしてくれるのを待つという感じだったですな。値段の高いタイプには「10MBの」HDも入っていたのですが、私のはそうじゃなかったし。

 「98ソフト互換機」をうたったので、NECからクレームがついたのはいまも世の記憶のところです。おそらく、エプソンがなにがしかのゼニを払ったのでしょう。「ガラパゴス上陸許可料金」として。





 PC286Lが出たのは1988年、1989年に出たPC286LSは名前は似ていますが、スタイルは相当に違っていました。キーボードうしろの本体部分に2個のFDDが並んでついています。PC286Lでは側面にFDDがついていました。やはり蓋状になったPS286LSの画面部分は本体と左側のヒンジ部でつながっているので、付属している画面が畳めるデスクトップ機のような感じでした。画面はやはり白黒液晶(のちに出たPC286LSTというのは、8色色つきの液晶でしたが)、CPUは80C286(12MHz)となっていました。

 なにより、HDを背面から取り外し可能なパックとしているのが特徴でした。このHDパックをセットできるハードディスクボックスが某社から出されたので、FDの代わりにHDを持ち歩き、相互利用できるという使い道も実行できました。あまり便利でもなかったですが。まあそうでもしないと、8.6kgもあるPC286LSを持ち歩くというのはほとんど不可能なことでした。要するにハンドルがついているというだけで、電池駆動もありませんし。私が買ったのはある程度値下がりした1990年のこと、以来なぜか未だにこれがあるんですな。どっかの博物館にでも寄付したいものです。


 データを入れた媒体をどう扱うのか、というのはPCの歴史とともに大きな課題でした。特にモーバイル機は、それだけでなにか完了するというものではなく、データを「持ち歩く」、ほかのマシンと共通利用するというのが通常の姿なので、これが悩ましかったわけです。黎明期には基本的にフロッピーディスクしかなかったのですが、のちにはMOディスクや私の一時愛用したZipディスクなど登場、しかしフラッシュメモリにすべて取って代わられ、なかでもUSBメモリが主役の座に座っています。CFやSDもその親戚ですが、CD、DVD、BDのように大容量と保存性重視の媒体を別とすれば、PCについてはほとんどの場合USBメモリになったと言えましょう。

 こうした記録媒体の変遷に、モーバイルPCも対応していくに必死であったこの20年間ですが、PC286LSのように、HDを持ち運び媒体にするという発想は繰り返し出てきたように思います。のちにはCFサイズにHDを組み込んだマイクロドライブとか、PCカード型のモバイルディスクとかがあったわけです。当時はFDとは比較にならない大容量が利点とされたので。しかし、ともかくUSBメモリにどれも勝てなかったのは、USBコネクタさえあればいい、簡単でユニバーサルな対応、余計なドライバなど要らない点に加え、なにより小さくて軽く、消費電力も微少、それでいてGB単位の大容量、きわめてモーバイル向きであったことも明らかでしょう。




 
○エプソンWORDBANK

 こうした恐るべき紀元前の機種から一挙にエプソンが走り出したのは、同じころに出したWORDBANK Note2という不思議なものです。いや、私としては飛びつきましたね。89年に買った時の値段も6万円程度でしたし。これは明らかに、ワープロとPCの中間をねらったもの、流れは以前からのワープロ機です。しかしまたA4サイズ、1.2kg、単三4本で駆動という、可搬性モーバイル性に絞り込んだ先駆けでした。もちろん画面は小さく、見にくい液晶画面でしたが。


 私のように、以来ずっと、「どこでも文章を書ける、編集できる」という使い方を重視してきている人間には、これは見事フィットしていました。エプソンワープロの入力方式とファイル形式に準拠はしていますが、TEXT形式でのデータやりとりができるので、PCのための入力機としてつかえるわけ。


 しかし、やはり早すぎたのは、フラッシュメモリ登場はるか前のでしたから、メモリカードでデータやりとりは不可能、基本はRS232CケーブルでのPC接続でしか利用できないのです。どう見ても面倒ですね。本体内のメモリは18KB(!)、9000字分しかないので、外付けのICカード(32KB)なるものが提供されたのですが、これになんの互換性もないのが壁です。電池も必要であったと思います。それでもいくつか買いました、データ保存用に。

 笑えるのは、「プリンタ搭載から解放されました」というキャッチコピー、そうです、これはまだワープロの名残だったのです。ワープロはプリンタまで入っている、フルセット機であるのが基本形だったので。それでも、さすが一貫してプリンタメーカーのエプソン、外付けのプリンタ(エプソン製以外のまで)に接続可能となっていました。

 
 WORDBANKでは、モデムカードを介してパソコン通信端末機としてもつかえますというのも売りでしたが、さすがにそこまではやりませんでした。いずれにしても、同じエプソンという企業の同じ時期に、ワープロを単機能モーバイル機化するという発想と、パソコンを一体型化可搬化するという発想がともにあって、全然交わっていなかったというところが、時代性を象徴している観です。

 
 考えてみれば、比較的最近にキングジムが売り出したポメラなんていうのも、発想はまったく同じですね。歴史は繰り返すものです。また、もう一つの展開が、あとでも出てくるPDAだったのでしょう。こちらは完全にスマホに吸収されてしまったとせねばならないのでしょうが。



 

 
3-2 ノートPC黎明期



 それでも90年代を迎えると、図体のでかいばかりの「デスクトップ機」ではと言うことで、「ノート型」が相次いで登場するようになりました。これはしかし、多くの場合は「パソコンを持ち歩く」という発想より、日本的なる住宅事情職場事情に考慮し、「狭い空間で使える」、「使わない時はしまっておける」というコンセプトの不可欠性ゆえだろうとは、衆目の一致するところです。ですから、キーボード+本体+画面一体型ということで、なんのことはないワープロへの先祖返りの趣さえあります。

 ただ、そのせいか、ホントの意味でのモーバイル性、つまり可搬性やAC電源不要駆動といったところが軽視されていた感も否めません。ともかく畳めて仕舞えればいいんだろ、というところ。


 
○NEC98Light

 PC98シリーズで世を席捲(ただし、これこそ考えてみればガラパゴスの元祖でしょうが)、巨大本社ビルを建てるほどに儲かったNECですが、あまりモーバイル性を重視していないのも特徴でした。最初に買ったデスクトップ機なんか、カバーを外してみたら、前面のスイッチからの棒が後ろまで延びていて、そこのメカにつながっているなんていう、恐るべき構造になっていたくらいですし。ですから、世に送られた「ノート型」と称するのも、NECのをはじめ、とても持ち運ぶ気にならないようなものばかりでした。

 
 そのNECが1992年に出した「ノートパソコン」、PC9801NL(98Light)というの、いまでも思い出すに悪夢のような代物でしたですね。たしかに軽い(1.3kg)、ジャストA4サイズで薄いという見栄えはしたのですが、スペックは低く、動作が信じがたくのろい(V30HL16MHz)うえに、反射型白黒液晶画面が非常に暗くて見づらい、そしてなによりキーボードがひどいもので、容易に入力反応をしてくれない、キータッチ最悪だったのです。当時はやったRAMディスクという手が、本機ではすでに設定済み(1.25MB)というのもありましたが、ともかく使ってみたら正直言って仕事になりませんでした。MS-DOSがNEC版であるだけじゃなく、この機で動かすためか妙なヒネリのあるバージョンで、ソフトもそれに対応しないといけません。また付属のFDDドライブが外付けというのも不便で、当時はデータのやりとりは基本FDでしたから、そこんとこ犠牲にして小型軽量化されても、ちょっと困るのです。
 外部メモリ媒体として、JEIDAver.4メモリカードスロットありというのもセールスポイントでしたが、このころすでにフラッシュメモリが登場してきていたのは事実であるものの、はてそんなメモリカードは普及したっけというところ。無理でしたですね。


 唯一、考えられていたのは電池駆動で、標準には添付のNiCd電池を使用、さらにオプションのバッテリケースに単三電池6本入れて動かせるという「売り」でした。NiCd電池は不安があり、のちにはリチウムイオン電池に駆逐されてしまいました。乾電池で動かす方は試みたかどうか。これもあとに続くはなかったことから見て、PC用には無理だったのでしょう。懐中電灯とは違い、PCでは電源安定は欠かせませんから。

 
 といったわけで、98Lightは短命に終わりました。私が代わりのモーバイルPCを買ったのを苦にしてか、鞄の中で突如液晶画面が破れて液漏れという致命傷で命を終えてくれた次第です。



 
 

○パナソニックCF11

 NECのひどいノートPCに懲り、かわりとして手に入れたのがパナソニックのCF11DS32というマシンです。買ったのは1995年9月と記録されています。爾来20年、パナソニックとのつきあいが続いていますが、当時はまだLet'sNoteの愛称もなく、「プロノートジェットミニ」と称し、Windowsで動く、B5サイズで画面は7.8型の一応カラーDSTN液晶、しかしまた性能も低いものでした。なにしろInteli486DX2(50MHz)のCPU、RAM8MB ですから。

 これを26.7万円も出して買ってしまったのですから、病の始まりでもありましょう。当然、いまどきの性能と比較にもならないどころか、マーケットポジションから見ても、せいぜい5〜6万円機のレベルでしょう。しかし、パナのポリシーも以来一貫しています。大きさ重さで本当の意味でのモーバイル機(同機は1.29kg)、それで機能性能はデスクトップ機並を確保、シリアルRS232C、パラレル、PS2、PCカードなどのインターフェースを装備、当時は画期的でもあったリチウムイオンのバッテリ駆動で十分使用に耐える(公称4時間)、等々です。
 そうじゃない、単に本体画面キーボードを一体化しただけ、重すぎてとても持ち歩きできない、電池駆動ではあっという間に終わるので、AC電源探しが不可欠なんていうのは、やっぱりダメだと思います。しかし、パナは値段が高いのも一貫していますな。



 
 それでも、CFF11プロノートジェットミニにあまりこだわれなかったのは、スペックの古さもさることながら、キーボード右上のトラックボールと右側面のクリックボタン操作というのがどうしてもいまいちであったうえ、キーボードが怪しかったせいもあります。ボディがヤワな観で、キーボード全体が浮いてくるんですよ、困ったことに。なんかの欠陥商品であったと言うしかないのですが。

 
 パナとのつきあいのその後は、またあとで。



 
 

○ソーテックWinBook Trim

 その後、パナソニックのCF1は98年の二度目の在外研究のときには持って行っていません。Windows3.1がOSという機能上の制約からか、結構トラブっていたせいか、ちょっと確認できないのですが、爾来今日まで続くパナソニックPCのことは後で詳しく触れましょう。

 
 目をつけたのは、当時華々しく登場してきたソーテックのモーバイル機でした。そのころの印象では、携帯性重視のうえに、値段の割にスペックが高いところが特徴だったでしょう。それで、Win95機のP2P133(WinBookTrim)というのを97年に買い、ロンドンに持っていったわけです。Pentium 133MHzのCPUは、当時としてはデスクトップ機並でした。内蔵メモリは16MBでしたけれど。
 それで重さは1.1kg、7.5型のカラー液晶画面は小さめであるものの、インターフェースポート関係は揃っていますし。このころから、FDDは外付けオプションへの地位低下が一般化しつつありました。フロッピーディスクの時代はもう終わり、それに代わるデータメモリとしては、私は別のところにも書いたZipディスクを主利用、ですからP2P133でもPCカードスロットに入れたSCSIインターフェースを介して、Zipドライブを使っていました。大学のPCにも、ロンドンの電気街で買ったZipドライブを内蔵させました。つまり常用の可搬データメモリはZipディスクだったのです。もちろんひとによってはMOディスクだとか、いろいろあったのでしょうが。まだUSBメモリの時代は来ないどころか、USB規格の設定以前のことです。

 このように、当時はPCカードスロット全盛なので、そこにモデムカードも入れ、電話回線でインターネット接続する、このスタイルが通常だったのです。それをロンドンでもやっていました。当然、つなぐのはたまに必要あってのことに限られます。P2P133は、まだモデムやLANのコネクタは持っていませんでした。

 
 この機の操作は、キーボード中央につけられた「トラックポイント」と称する小さなボタンを指先で動かし、手前のクリックボタンで操作するという方式ですが、これは使いやすくはなかったですね。他社でも同じような方式がかなりありましたけど、のちにはなくなったようです。私はマウスを主につないでいました。また、リチウムイオン電池内蔵ですが、公称でも駆動1.5時間で、電池で動かすのにはかなり無理もありました。そんなこんなで、P2P133は帰国後も含め、かなり使っていたはずなのですが、いまはどうしちゃったんでしょう。


 そして15年後、ソーテックの(もうその名前もなくなっていましたが)モーバイル機を校費購入し、えらい目にあいました。信じがたい欠陥商品でした。



 
 

 
3-3 ひねりのモーバイル「PC」


 
○JVCのMP-C304B

 いろいろ変なものをまた買いだしたのが、2000年代初めのことです。

 その一つが、JVC日本ビクターが出した「モバイルPC」、InterLinkなるものです。これまた、いまどき多くの方が驚くでしょう、ビクターがパソコン出していた!?

 いや、見かけは結構魅力的だったんですよ。なんと740g、スタイリッシュで機能的なデザイン、メタリックなボディ外装、タッチパネルも可能な7型SVGAポリシリコン画面等々です。一番のメリットはモジュラージャックながらPIAFS/PHSやPDCなどでの通信端末接続機能を持っていたことでした(各接続ケーブルはオプションでしたが)。一般には内蔵のモデムから接続するのですが、「ここまで」もう対応していたのです。MIPS VR4122(180MHz)というCPU、内蔵メモリ32MB、それでPCカードスロットも、CFスロットも、USBコネクタもありました(ただ、対応には問題ありましたが)。

 
 その意味、まさしくモーバイルでのインターネット利用に向いていたのですが、致命的な問題がありました。それはOSがWindows Handheld PC2000であったことです。もちろん、その中にMS-Officeに準じるPocketOfficeも入っていたのではあるものの、私はPC利用の歴史で一貫して「一太郎」を使い続けています。いまでは圧倒的な少数派であり、MS-WORDを日本語ワープロソフトとして使っているひとが大部分であることは知っています。そこはマイクロソフトの戦術の勝利です。

 しかし、一度でも「一太郎」を使ってみれば、MS-WORDなんていうのは子供だましで、話にもならないのはすぐにわかります。それも無理からぬことで、もともと英語のワープロソフトとして開発されたものに日本語を乗せた、そこに多大の矛盾を生じさせたのでした。とりわけ初期のMS-WORDなんて来た日にゃあ、悪いジョーダンというより、怒り心頭となること確実な代物だったのです。その後、このMS-WORDもいろいろ改良も重ねたようですが、そもそも設定からして日本語を書くルールに沿っていません。無理なのです。

 
 まあ、一番使うソフトにはどうしても使い慣れたものをとなるのも自然の成り行きで、ともかく私は自分の使うPC類には原則として「一太郎」をインストールすることにしています。しかし、Windows Handheldではできません。当時のジャストシステム社にも聞いてみましたが、mobile版をわざわざ出す、そういう考えはないようでした。もちろんそのほかにも常用しているアプリソフトの多くがInterLinkではつかえません。だいたい、CDないしDVDドライブを外付けするのにも困難がありましたし、HDを持たない構造では、アプリソフトをいろいろ入れるという発想はなく、基本的にはPDAに近いものだったのでしょう。

 そうなると、このInterLinkの使い道は、そとでのネットサーフィン(これも死語ですね)くらいに限られてしまうので、結局諦めるしかなく、出番もなくなりました。

 もちろんその後とっくのことに、日本ビクターはPC関係から足を洗っています。でも、コンセプトと機能は時代を先取りしていたし、のちにはWinXP機など、なんとか新製品を出し続けたのですが。



 
 

○カシオCASSIOPEIA Fiva

 似たような話が、同じころにカシオの出したカシオペアFiva(MPC-216XL)という機種です。これも、え、カシオが?というところ。カシオは当時いろいろな情報機器を出していたので、PCにも手を広げたのでしょう。このシリーズ、いくつか出したようなのです。

 実際にはどこの企業が作っていたのかはわかりませんが、悪くはないPCでした。なにより、当時では最軽量クラスだったのです。15GBのHDを乗せながら重さ990g、8.4型TFT液晶画面、大きさも実にコンパクト、こういうのこそが時代を先取りしていたと言うべきでしょう。

 
 しかし、PCメーカーとしての知名度のなさ、カシオ自体のやる気の問題はもとより、製品としては問題がありました。JVCのInterlinkとは違い、winXP機であったことで使い道が広かったのですが、妙なことはもうひとつLinuxも入っているという仕様です。当時、「新しい発想のOS」、オープンイノベーション時代の先駆けとして注目の的であったLinuxを入れたのも単なる思いつきではなく、なにか戦略的意図があったのでしょうし、またコストゼロもやりやすかったのでしょうが、さて私のようなものには使いようがありません。Linuxをいじっていたわけじゃない立場では、なにかのアプリをそこで動かそうというのでなければ、どうにもならないのです。それじゃあどっかからLinuxアプリを拾ってきて、インストールしようかなどと考えても、Linux上でいろいろ操作できなければ(ブラウザとしてLinux版Netscapeは入っていましたが)いかんともなりません。外付けDVDやCDドライブもLinuxで動かすわけにいきません。Linuxアプリのことをカシオのサポートにも聞いてみましたが、自分でお試しください、だけでした。

 これはもう、スマホの時代のAndroidやi-Phoneのありようを予言していますね。それらをプラットフォームとして、いろんなアプリやデータをダウンロードし、組み込んで利用できる、そうした発想に10年先駆けていたのです。でも、端末単体にLinuxを入れてみただけだったから、それ止まりでした。

 
 というわけで、CFカードスロットでPHSなどの通信端末が使える、USBコネクタもついている等、モーバイルPCの基本をなしていたのですが、なんにもできないLinuxにHDを食われていたせいか、またCrusoeTM5600(600MHz)というCPUが安物だったうえにメモリ128MBだったせいか、実際に使っているうえでの最大の欠陥はともかくのろいことでした。電池の減りもけっこう早かった観ですね。

 そのため、カシオペアFivaも私としてはそれなりに使った方だと思うのですが(LANもIEE1394シリアルコネクタもあったのです)、やはり動作の鈍さにいらつき、だんだん手元を離れることになってしまいました。この売れ行きで、カシオはさっさとPC市場を諦めたようです。まあ、企業としては正解だったでしょう。



 

 
4.モーバイル時代の展開

 
 
4-1 PDA系

 一時猖獗を極めたPDAというヤツは、PCの専用機化小型モーバイル化とも理解できましょう。図体ばっかしでなんの役に立つのかわからんパソコンより、用途限定、携帯電子機器化する方が利用に供しやすいという当然の帰結でした。

 ただ、PDAはインターネット時代の津波に追い越され、飲み込まれ、そしてスマホに完全に吸収されてしまったのだと思います。もちろん、ハードソフトの急な進化高度化と普及、低価格化、インターネット接続できるデジタル回線の津々浦々への普及、高速低価格化は、「自然淘汰としての進化」を必然たらしめたんだろうと言わざるを得ないんでしょうけれど。生き残れなかった過去の個体は、もう博物館で見るしかないのでしょうか。



○オムロンMassif

 時間的には前後しますが、オムロンも妙なものを出しました。Massifという名で、PCではない、当時流行のPDAの流れのものという位置づけでしたが、大きさや使い勝手からはPCに近い印象です。880gありましたけど。正確には、MS-DOSで動くPDAというコンセプトだったのでしょう。これを94年にふらふらっと買ってしまいました。


 モデム内蔵でデータ通信可能、JEIDA規格のInterLinkカードメモリと、RS232Cインターフェースでのデータやりとり可能、パラレルプリンタインターフェース、VJE日本語入力などなど、けっこう意欲的なハードとソフトを備えていたのですが、肝心のCPUは80286相当品、どうにもならないのろさでしたね。画面も反射式の暗い小さいモノクロ、パソコン通信で使ったりもしましたが、そのうちに諦めたというか、WIN時代には無用の短物になったというか。英国に行く時もおいてきました。確かのちに情報系研究室の院生に、ちょっと仕事をしてもらった礼を兼ねてあげてしまいましたですね。





 

 
○シャープZaurus
   
 一時は全盛を極めたPDAも、スマホ時代に完全に飲み込まれ、影も形もなくなってしまいました。私自身は前記のように、あくまでモーバイルPC志向なので、PDAには特に興味も持ちませんでしたが、色気を出したこともあります。はじめ、「携帯型メイル端末機」などという妙なものも手にしました。簡単で小さいけれど、やれることが限られすぎていて、もちろんのちにケータイメイルが普及すれば、あっという間に無用の長物化しました。


 
 それでも買ったPDAは、最後の世代のシャープZaurusSL-C3200というのです(2006年発売)。これはLinux機(!)ではありましたが、もうモーバイルPCではない、あくまでインターネット端末として、メイルのやりとりやwebページ利用に限るんだ、そういう理解をすればねらいのいい機ではありました。なんせ、重さ298gでポケットに収まってしまう大きさです。それでいて6GBのHD内蔵、SDカードスロットを備えているうえ、最大の決め手はPDA定番とされたCFカードスロットです(HandcomというところのMS-WORD、Excel互換ソフトも入っていましたが、それはまあ)。
 私は当時、PHSでの情報通信端末を主用していましたので、これがCF仕様であるうえ、Zaurusはそのドライバ対応をしてくれました。ですから、ZaurusとPHS端末だけの組み合わせで、どこでもメイルを読み書きできる、webページも見れる、これは楽ちんと考えました。実際、シャープらしく液晶画面も小さいながら鮮明で、使い心地はよかったですね。

 
 PDAというのは、本来手帳代わりの個人用のデータ管理装置の意味だったのでしょうが、私は手書きの手帳をウン十年使っていますので、そちらの使い方を考える必要はありません。ですから、これで安住、一件落着となってくれるとよかったのですが、技術の日進月歩が許してくれませんでした。

 困ったのは、webページがどんどん複雑化していく、それにZaurus内蔵のブラウザNetFront ver.3.1というのが追いつけないのです。そのため、アクセスしてもまともに表示されないサイト続出になってきました。もちろんハード的にも無理だったのでしょう(IntelXScale 416MHzというのがCPU)。


 それから、インターフェースをいろいろ備えているといっても、いまやもっとも普遍的なものになってきたUSBが壁となったのです。ZaurusにはけなげにもUSBコネクタもあったのですが、これがよほど古いバージョンなのか、なにか制限付きなのか、一般のUSBメモリなどはまったく読んでくれません。それでは、いまではほとんどのデータの読み書き保存用にしているUSBメモリがまるで使えないわけです。いちいちCFカードメモリに落としてなんてやっていては、意味がありません。

 Zaurusはモーバイルコンピューティングじゃないよ、あくまでインタネまわりの簡易利用限定だよといっても、せっかくWORDやEXCEL互換のソフトも入っているのにつかえない、画像も容易にいじれないなどはいまいましいものです。ですからその線上にこだわるのなら、スマホにぜんぶ吸収されてしまったのでしょう。

 
 それでも、この3.7型の小さい画面でも、SDを使用し、動画など再生できるのはちょっとよかったですね。ただしこの機の動画再生機能にあわせたファイル形式に変換したうえでのことですが。



 
 あと、実は校費でこのZaurus後継のネットウォーカーと称する奇妙なものも買ったのでした。しかしはっきり申して、これはトラブル続きで、まともにつかえないままに終わりました。シャープのつまずきの始まりでしょうか。ま、Zaurusは決して、先史時代の恐竜ではないと思うのですが。



 

 
4-2 「スマホ」としてのPHS


 
 シャープはPDAで頑張っただけに、実は日本でのスマホの先駆者だという評価もできます。その証拠が、W-ZERO3と称するPHSでの一連の製品群です。ある時期、WILLCOMとシャープはこれらに大変な力を入れていました。話題性もありました。しかし、完全に「早すぎた」のです。

 
 本来時代に先駆けていたPHSは、「簡易携帯電話」だの「コードレス電話を外に持ち出した」だのという、見当外れの評価と売り方のおかげで、たちどころのうちに性能の向上と加速度的な料金低下を実現したケータイ網と端末機に追い越され、遥か遠くに取り残されてしまいました(それでも初期には、第二世代ケータイのモゴモゴ切れ切れの音声に比べ、PHSのデジタル音声は神ほどの違いでした)。そして、PHS端末を「タダでばらまく」とか、中高生に投げ売りするとかやって、自滅の道を辿りました。ために、キャリアのうちDDIポケット以外は消滅、DDIポケット社も経営破綻寸前となり、DDIのちのauから見放され、カーライルグループの買収でWILLCOMになったなどは、周知のところです。

 この新生WILLCOMの追求した道は、DDIポケット時代からケータイとの差別化として重視してきたデジタル通信端末事業とともに、これを会話端末と融合させようというかたちで新コンセプト化した、W-ZERO3だったのです。


 
 
○シャープW-ZERO3

 W-ZERO3は、高速で安定しているPHSのデジタル通信機能とPCやPDAとの融合化端末を提供しようというものだったと言えましょう。そしてそれこそが間違いなく、日本版のスマートフォンだったのです(SIMカードも取り外しを前提としたつくりのよう)。いまでこそ、猫も杓子もスマホスマホで、冒頭書いたように、スマホを持たないと店員にさえバカにされる国になりましたが、わずか10年前には、だあれもそんなものの存在も意識しませんでした。言葉を聞いたこともありませんでした。

 ですから、シャープもWILLCOMも「スマホ」と呼ばなかった、これは最大の失敗だったと、いまにして思えます。実はそのころ欧米ではすでに、急速にスマホが普及していました。その先駆けがBlackberryで、欧米の知人たちがよくこれを使っていたものです。そこで「スマートフォン」という呼び方も私は知りました。「日本にはなぜスマホがないんだ?」とも聞かれました。

 欧米言語では概してアルファベット26文字+数字で事足りるので、Blackberryの小さな本体に並べたキーで、操作が可能です。電話のほかにメイル送受信とPDA的なデータ管理機能を中心にBlackberryは普及していったようですが、それにブラウザを載せて、webを見るようにするのも比較的簡単にすすんだようです。


 
 これに対して日本では、テンキーでメイルの漢字かな日本語文を打ち込むという、天才的というか、恐るべき操作が普及し、ために端末にキーボードをつけるという発想自体あり得ないものになってしまっていました(これこそが「ガラパゴス化」でしょう)。もうひとつは、デジタルTV放送のワンセグを見るというやつですね。そして、この日本語入力問題は、端末でwebブラウジングをする際の壁にもなっていたはずです。メイルは書けても、web情報をサーチするためのキーワードを入力するに、テンキーだけではどうにもなりませんので。

 
 そこをシャープは、ホントに端末にキーボードをくっつけるという「解決」を図りました。ボディをスライドすると、画面の下からフルキーのミニ版が出てくるという「二重構造」の仕掛けで。その初代機WS-003SHはスマッシュヒットとなったはずです。もちろんキーボード装備だけじゃなく、画面タッチで操作可能、そしてPHSの回線を利用し、いろんなサービスを盛り込みました。本体はWindowsPocketで動くミニPCですから、MS-Officeなどのアプリを利用できます。ただ、外部のデータをやりとりするには、miniSDしか使えませんでした。

 
 私自身は、この先駆けスマホの登場に関心を持ちましたが、なかなか手を出す気にはなれませんでした。1996年来のPHS利用者である私として、その端末もずいぶん改良されたとは思いつつ、あくまでこれは会話用(一時はデジタル情報通信端末としても使っていましたが)、通信用には別途Air-Edgeの専用端末を使い、上記のようにPCを主に持ち歩いていたので、W-ZERO3にする必要性がありません。それに、やっぱりこのキーボードでは操作は無理そう、他方で「電話機として使いにくくて困る」という声も聞いていましたので。大きな図体も抵抗感ありでした(いまどきのスマホもさして違いませんが)。


 
 それなのにWS007SHを買ってしまった(正確には、それまでのPHSの端末を買い換えた)理由は単純でした。なんとこんどは、miniSD のほかに、USBメモリ(ホスト機能)に対応したのです。デザインもテンキー付の電話機風のものに戻り、やはりその下にフルキーボードがある構造、これなら比較的使いやすいだろうし、正真正銘モーバイルコンピューティングができるんじゃないのかという「錯覚」でした(いまにして、やはり錯覚であったと思います)。しかも、日本語入力はATOKです。不愉快なMS-Outlookなどというのにかかわらずに済む、別のメーラーも入っています。ホントに、PCを担いで歩く必要がなくなる、ポケットの中味で用足りるのじゃないかという期待もあったのです。

 ATOK使用でも「一太郎」が使えないのはこの際我慢するとしても、この指先でタッチするだけのキーボードで日本語のまともな仕事をしようというのは無理でした。わかりきっていることを間違えたのは、我ながら恥ずかしいことでしたですね。これもスタイラスペン内蔵なので、それで画面をタッチしていく方がよほど確実でした。それから、私の常用しているブラウザOperaが入っているとか、内蔵アプリの状況は比較的魅力的ではあったのですが、webを見るには、さすがに2.8型ASV液晶画面ではきついことも否定できません。テンキー復活で画面が割を食っていました。CPUはIntelPXA270(416MHz)というの、フラッシュメモリ128MBとなっています。



 

 そんなこんなで、WS007SHをPHS電話端末以上にあまり生かすことなく、物足りなさを覚えながらも、まあPHS通信網の改良が進めば、もっと使い道の広いものにもなるだろう、あるいは再び、PHSを高速情報通信端末にする日が来るかもなどと思っておりましたが、結局WILLCOM自体がまたも経営危機に陥り、その打開策は目先を変えたような端末をやたらいろいろ出す、ついにはやってきたスマホブームに乗っかり、「スマホ付」(どっちがおまけ?)で売るとか、訳のわからない状況になってしまいました。softbankへの身売りで、もうPHS事業自体にやる気がなくなってきているのは目に見えていましたし。


 
 そういうことで、2000年代末にはついにPHSを解約し、WS007SHは「通信回線なしの」ミニPCという姿になり、実際には引き出しの奥にしまわれてしまいました。ところが、私はPHSに再加入をしたのです。すべては2011年3月11日です。未曾有の大災害に日本列島が揺れたまっただ中、実は私は沖縄におりまして、揺れを感じることさえ全然ありませんでした。もちろん、東北の大被害、首都圏の混乱などの状況はTVによって伝わってきます。しかし、ケータイ(softbank)はまったくどこにもつながりません。これは全国どこもそうなってしまったのですが、ともかくホテルの固定電話で家族と話しをすることができました。しかし、このときPHSだけは通話ができたのですな。原因は単純で、要するに利用者が少ないから、輻輳接続抑制になるような事態にはおちいらなかったというだけのことです。

 そうなると、やっぱりPHSも捨てられません。そこで、3年ぶりくらいでWS007SHを引っ張り出し、再加入を致しました。バッテリはもうダメになっていたので、買い換えました。ですから、いまもW-ZERO3は手元にあります。依然、これでPC利用しようとか、webを見ようとかはしません(してもいいんですが、加入契約が最低料金に設定してあり、通信回線利用するとえらく高くなるので)。
 ただ、通話もろくにしないのに基本料金だけはかさむのはいまいましいので、唯一の機能として、メイルの転送受信を設定してあります。すべての来信メイルに関してではないものの、あるアドレス宛のは自動的にWILLCOMアドレスに転送されるようにし、電車内で立っているなどの状態でも、到着メイルを確認することは可能です。まあ、もうWILLCOMの社名すらなくなってしまったのですが。

 緊急時に、このWS007SHからメイルの返信をするなどのこともあります。PCを引っ張り出すわけにも行かない際です。そのときにテンキーを使っていたりして、我ながら苦笑ものですし、これでメイルを送ると、そのwillcomアドレス宛にまた返事をくれる人もいたりするのに困るくらいです。

 
 いまどきのスマホのように、キーを押すという発想をやめてしまい、すべて画面上の操作にするとか、そうした「発想の転換」がなかったのは、シャープW-ZERO3などの致命的な限界でした。見やすさ第一で、本体ぜんぶの大きさの画面にしてしまえばいい、ソフトは指先のタッチで操作すればいい(それ以上の操作がいるような面倒なことはやらない、やらせないで済ませればいい)、そこまで踏み込まないと、スマホの先駆者の称号は得られなかったのでしょうね。なお、WS007SHには当然カメラもついてますが、使ったことはまずありません。



 

 
○PHSへの別れ

 うえにも書いたように、PHSとの長年のつきあいを続けてきた私にして、電話としてもデジタル情報通信端末としても、いったん縁を絶ってしまいました。後者については、当初は最速で低コストの通信端末がPHSのAir-H""だったのが最大の優位性で、その定額料金制度加入をかなりの年数続けていたものの、次第に悩むようになりました。こちらの大幅改良、新世代通信網移行という話しがいろいろ語られても、いっこうに実現せず、フラストレーションたまるばかり、そうしたら第3世代通信網を利用し、HSPA方式による高速通信サービスを提供するイーモバイル社が台頭、定額料金比較するとほとんど差がないので、もう追い越されてしまったPHS端末から乗り換えるしかなくなった次第です。

 以来、このイーモバイルのデータ通信端末もなんどか買い換え、ここのところずっと使っているのがLTEプラン使用ので、月々の定額料金が3千円あまりなので、まあリーズナブルでしょう。しかし、イーモバイル社、のちに吸収したイーアクセス社、そしていまではみんな統合されてのワイモバイル社には誠に邪魔なユーザーらしく、ずっと使っているUSBスティックタイプの端末なんか早くほかのに買い換えろ、ポケットWiFiLTEにしろと、勧誘というか脅かしというかのうるさいこと。私のようなのがいまだにこんな旧式のを使い続けているんで、迷惑なんだよというのがひしひしとわかります。

 
 でも、ユーザーの立場として、このUSBスティックタイプの端末になんの不満も不便もないのです。通信速度は十分です。カバー範囲でも困ったことなどほとんどありません(もちろん国内でしかつながりませんが)。なによりかより、PC本体に直づけし、操作は簡単確実、データのやりとりは安定、それなのにまた通信端末を昔のPHS本体宜しく切り離し、無線での交信の不安やただ乗り・盗聴の恐れや、なにより端末のバッテリ切れの心配など、なんでしなくちゃならないんでしょうか?従いまして、こうしたおさそいは丁重にお断りしております。もうスティック型USB接続端末はいっさい売られていないんですが。

 
 ワイモバイル社もソフトバンクモバイル社への統合移行を機に、私のようなユーザーに対するサービス提供を一方的に打ち切るかも知れません。ともかくスマホ、スマホなんですよ。まあそうなったら、ケータイからなにから、日本のキャリアすべてと縁切りをするのも、私に残された選択肢になるのでしょうか。



 

 
4-3 富士通モーバイル機に乗せられる


 
 富士通にも意外に義理立てしたのが私です。

 しかしそれは客観的に見て、間違いであったとせざるを得ません。


 
○うーんな、富士通LooxT80

 最初の躓きは、LooxT80Aという典型的ノートPCでした。これは大学関連の仕事用授業用に校費で買ったのですが、はっきり言ってとんだ食わせ物でしたですね。

 
 スペックも使い勝手も標準的、当時としてはまあまあのCrusoeTM5800(800MHz)のCPU、10.6型TFT液晶画面、唯一の特徴がドライブユニットを交換セットできるというところ。それで大容量電池などにも替えられるという、一見魅力的な機能です。ところが驚いたのは、この中に含まれているDVDROMドライブがろくにつかえないのです。当時、DVDドライブも本格普及期であったので、データの保存や読み込みやDVDソフト鑑賞やらで使い道が広かったはずなのに、DVDvideoが読めません。市販のディスクがつかえません。なんかの機械的トラブルなどのせいかと思ってみても、それにしてもです。結局、原因はわかりました。このDVDドライブは規格が古くて、現行のDVDソフトやディスク自体の多くに対応していなかったのです!そんなのありですか?

 この件にかんする富士通の説明は実に姑息なもので、要するにひと世代前のDVD規格であった(たしかにそのことは、カタログなどにもちょこっと書いてないわけではありません、「読み出し可能なDVDディスクは、DVD-ROMとDVD-R(3.95GB)、DVD-VIDEOです。DVDソフトによっては、再生できない場合があります」と)、でもだからと言って、バージョンアップ対応や新規格DVDドライブなど出すつもりもない、買ってしまったあんたの判断の誤りでしかないんですよ、というだけでした。すんごいメーカーですね。それならせめて、このドライブが対応できるDVDディスクの提供販売でもするのか、それもなし、完全に無用の長物となることをこらえてもらいたいだけ。つまり、このPCのDVDドライブはお飾り、というのです。まったくもって、いい仕事していますね。


 
 そういうわけで、このLooxT80A、授業の際のpptファイル投影など、単なるUSBデータの再生用などに限って使うしかなかったのですが、高い買い物でしたですね。


 
 富士通って、こんな危ない商売もするんだと悟れば、二度と近づかないのが正解でしょうが、結局「一見魅力的」なところに何度も乗せられました。以下見るように、富士通はモーバイルPCの開発製造をかなり続けたのです。ソニーなどほかのメーカーもこうしたものを出しており、一時はだいぶ選択肢がありました。もちろん、いまはスマホに食われて絶滅してしまいましたが。



 
 

○Loox U/B50

 その次に買ってしまったのが、Loox U/B50です。このころ、富士通は超小型のPCを相次いで出し、世の関心を買っていました。いまにしてみれば、相当時代遅れのスペックではあるものの、ともかくれっきとしたPCがこの大きさ、軽さ、掌にも乗ってしまう、ほとんどPDA同様の形状で提供されたのです。重さ565g、画面5.6型TFT液晶、まあCPUはネットブックで売ったAtomZ530で、1.6GHzを公称していましたけど。

 
 しかし、2008年に買ったこれにも手こずりました。最大の問題はPC自体ではなくWindowsVistaにあったのです。LooxUはXP機からバージョンアップした新型になってくれたのですが、きわめて評判の悪いWindowsVistaの本領ももろに発揮してくれました。ともかく容易に起動が完了しません。私はモーバイルPCはだいたい休止状態にしておいて、そこから起動をするのですが、必要なファイル等を読み込み、動作の状態になるまでとんでもなく時間がかかるのです。一度、大学行きのバスに乗ってこれを立ち上げたところ、バスを降りるまでついに立ち上げが終わりませんでした。使えません、これでは。ストレス起動機です。

 
 Vistaのせいだけではなく、HD(60GBありましたが)の性能、CPUの処理能力、本体メモリのサイズ(1GBあったはずですけど)等いろいろ問題があったのでしょうが、容易に使用できないPCでは持ち歩く意味がありません。ですから、これもお蔵入りかという成り行きだったのですが、救いの神がありました。Windows7です。実際に7搭載のPCも使いだし、動作が軽快であると実感したうえ、これに切り替えるといろいろいいという評判も耳にし、アップグレード用のWIndows7を入手、インストールしたのです。

 うまくいき、段違いに起動が早く、楽になりました。使い勝手も問題なし、ほとんどのアプリやドライバもそのまま動いてくれます。しかし一つだけ、かなり致命的な問題がありました。U/B50は、画面上のタッチスクリーンでの操作を強調し、そのスタイラスペンさえ本体付属なのですが、あまり私は好きではなく、そのかわりにスティックポイントというやつを右手で用い、左手でマウス同様のクリックボタン、これでポインター矢印の移動とクリックを行うという操作をもっぱら行っていました。ところがWindows7にしたら、このポインターの動作が上下左右逆になってしまうのです。困ったことですね。こういうのは身体の感覚での操作なので、操作と逆に動いてくれる↑を操ろうなどというのは至難の業です。ああ、一難去ってまた一難、なかなか思うようにはならないものと嘆息しました。

 のちにこのバグの解決方法をweb上で見つけました。実に簡単で、要するにスティックポイントのドライバを無効にしてしまえばいい、そうしてもWinのおかげでスティックは動作するので、問題なしだというのです。やってみたらその通り、まっことコロンブスの卵で、かくしてU/B50はちゃんと使える状態にようやくなってくれました。


 
 ですから、Loox U/B50はもっと活用したかったですし、実際ごく最近まで動かしていたのですが、「時代」がどんどん追い越していってくれます。たちどころに旧式化する流れは止めようもありません。Win7で動いているのはよかったですが、しょせんはCPUはじめ時代遅れになる、のろい、そして最大の弱点はUSBコネクタが一つしかないことでした。私は近年のデジタル通信接続にはUSBスティックタイプの端末を使っているので、それがこの唯一のUSBインターフェースを占領してしまいます。他方でデータはもっぱらUSBメモリに入れているので、そこではたと困ってしまうわけです。

 Loox U/B50は「時代遅れ感」で、CFのスロットを備えている、その意味ではCFカードタイプのPHS通信端末を使っていた時代ならよかったのですが、そんな嘆きもいまさらです(CF使用のデジカメの画像データの処理には向いていたわけですけど)。いや、web表示など画面表示も悪くなかったし、もっと活躍をしてもらうべきモーバイルPCでした。本体付属のバッテリーではすぐになくなる恐れ大でしたが、オプションのバッテリーですとかなり持ちました。





(2016.4)

 LooxU/B50復活す


 怒濤のwindows10化強制の流れをぶち破り、win7を守り抜くべく、孤独な闘いを続ける2016年の今日この頃ですが、その一環としても、ずっとお蔵入りしていたLooxU/B50を復活使用することに決めた次第です。
 あらためて取り出してみるに(実は、どっかに仕舞ったはず、それが容易に見つからず、ちょっと焦り、苦労をしました。小さいのも仇です)、決して見劣りするようなものでもなく、この小ささ軽さを生かす機会はあるとせねばなりません。

そうは言っても、上記のようにUSBコネクタが一つしかない以上、あまり使い回せるものではないので、携帯して移動中にメイル読む、webサイトから情報仕入れるなど、きわめて限定的に使うことにしました。要するに、完璧スマホ代わりですな。別に皮肉を演じようというわけじゃなく、LooxU/B50の特徴を生かせる場という設定です。私はこの画面が何とか読めますから。


 実はこの60GBというハードディスクのサイズは不安で、MS-officeなどインストールしていなかった、それも一つの制約点でした。この機会に思い切ってやってみたら、office三大ソフト入りました。残りのディスクスペースがかなり乏しいのは否定できませんが、そこをなんとか使いこなすのみです。電池も、小の方でさえ結構持ちますし。



 ただ、やっぱしスマホに引け目を感じる機会はありましたですね。忘れもしない、4月14日夜のことです。夜間の担当授業を終え、帰宅途中の電車内で、「震度7が」とか、「九州、熊本で」とかいった話し声が聞こえてきました。電車自体も遅れ気味だった(このニュースとは全く無関係に、新宿駅ホームでどっかのバカが警報器のスイッチを押したらしい)ので、当然かなり気になったのですが、詳しいことはわかりません。混んだ車内でしばし、焦りばかりを感じていました。そのとき、鞄にLooxU/B50が入っていたのですが、すぐに取り出し、起動することができるような状況でもなかったのです。

 しばらく後に、乗り換えた電車内でこれを立ち上げ、web上のニュースにアクセスし、ようやく熊本の大地震のことを知ることができました。こういうときにはスマホの簡便さ、扱いの速さには完敗です。いくらwin7で以前より起動が早くなったといってもです。もっとも、私の信念からすればこういう緊急時、ケータイ端末でワンセグTV受像をすればよかったのでしょうが、混んだ車内でそれを試みるのもちょっとではありましたし。沖縄にいた5年前の東日本大地震の際には、ケータイなどがつながらない、まったく連絡が取れないので、とりあえずワンセグで緊急ニュースを見たのですから、今度もそのくらいやって当然だったのですが、なにせ何が起こっているのかもわからない、確認できない状態でしたので。


 そういう限界にもいきなりぶつかったLooxU/B50の復活ですが、まあ我慢はしましょう。



 

○LooxU/G90B

 Loox U/B50よりすすんだものと思い、買ってのちにえらい目にあったのが、富士通のLooxU/G90というので、これで同社のモーバイルPC自体も終わりになってしまいました。いまはタブレット機かウルトラブックしか出てきません。所詮は全盛期を迎えるスマホに勝てなかったということです。実際、かく申す私もこれを買ったのは、ひところの実勢価格の半値近くで投げ売りに入っていたからでした。

 2010年発売、見たとこはいいんです。スマホ時代を横目でにらんだか、ずんぐり型から一変した縦長スリムデザイン、ぴかぴかのカラー外装、しかも重さは495gにまで軽くなっていました。USBコネクタは前面の左右に一つずつに増えました。ただ、そこに私のようにUSBの通信スティックを挿入して使うと、かなり不都合になります。そのままでは大いに目の前の邪魔をしてくれるので、90度ねじ曲げ用のアダプタを介し、横に寝かさなければなりません。

 
 困ったのは、この縦型(横長?)の5.6型TFTワイドという画面です。一見かっこいいものの、表示に問題を生じます。Win7はもちろんこの画面表示をカバーしていますが、この大きさですとそのままでは文字や図形・アイコンが非常に小さくなってしまうのです。表示サイズの変更、文字フォントの変更などできるものの、なかなか期待通りにならず、また元に戻ってしまったりです(ズームボタンというのもついてましたが)。私の設定方法に問題あるのかも知れませんが、この細長い画面の中で文字など小さくしか表示されないと、いまだ老眼鏡は要らない、さすがの私にもかなり判読と操作に困難をきたします。うえのU/B50の方が実質的に画面は小さいはずなのですが、そちらは見るに困難と感じたことはありません。


 そして操作自体です。これもタッチパネル操作可能、またポインティングデバイスも使用という仕様なのですが、もうスタイラスペンは付属しておらず、指でタッチパネルを触ってくださいというおすすめです。しかしこれにはどうも不安があり、Win7はそういった操作に積極対応していたつくりじゃないですから、スマホ的な指先操作ができるわけでもなく、あまりいい感じでもなく、スクリーンが壊れそうな危うささえ感じます。結果、ポインティングデバイスを主に使うことになるものの、なぜだか上記の表示の小ささも手伝い、かなりやりにくい、いらつく操作感になります。

 
 一番の失望は、装備されたSSDのキャパが30GBしかなく、実質的な空きは13GB!、これではインストールできるソフトは非常に制限されてしまいます。CPUはAtomZ520(1.33GHZ)、2GBのメインメモリと、その辺はまあ人並みでも、このSSDの小ささはがっかりものです。HDではなくSSDにしたから電池が大幅長持ちなんですよというのなら我慢するけど、それほどのものでもなく、やはり添付の標準電池では大して持ちません。オプションの大容量電池はかなりですが、図体もかなりで、裏蓋全体のようなつくり、それがでんと張り出すので、スマートな外観も興ざめとなります。でもこれでないと、持ち歩くには不安ありです。

 インターフェースは2個のUSBのほか、SDカード、それから「外部ディスプレイ端子」というのがあります。富士通LooxはこうしたものをLAN端子とともにオプションのコネクタにしており、それは以前から持っていたので、転用はできました。出番はほとんどなかったですが。BluetoothやWiMaxは売りなのかも知れませんが、私には関係ないもので。


 
 それでも、なんとか準常用的に使っていたU/D90、とんでもないことが起こってご臨終になってしまいました。あるところに持参し、起動したところ、スクリーン上に輝線が多数走った状態のままに表示され、デスクトップがまったく写りません。起動時に問題でも生じたかと再起動しても同じで、これではまるで使えません。

 店に持っていって、修理依頼をするに、かなり悲観的な反応でした。そして、メーカーの見積もりを頼んだら、なんと買った時の値段より高い、ディスプレイ交換なので、そうなりますという次第(実は、web上の修理見積もりでも同じ値段でした)。買うより高い修理代、それじゃあ諦めるしかないですよ。


 
 どこがいかんのか、なにかメカ的弱点でもあったのか、そうした憶測をしてみても詮無いことです。しかもいまいましいことに、うえの外部ディスプレイのコネクタを接続し、そとに映してみるとちゃんと画面が表示されているのです。本体は無事動いている、ただこの液晶画面だけがいかれた、そういうことなんですよ。ですから、いっそ外部ディスプレイ使用で使ってみようかとも一瞬考えてみましたが、馬鹿馬鹿しいのでやめました。これでジエンドです。相当に短いいのちでした。その意味、実質的に高い買い物でした。MS-Officeなんかインストールしなくてよかった。

 

(2018.12.30)

 などと書いているうちに、ついにPHSをジエンドにする日がやってきました。つまり私には、「元祖須磨輔」を安楽死させるときでもあります。


 2018年11月下旬に海外へ行く私用があり、もちろんそれにPHSを持っていっても何にもなりませんし、その国で公認されていない端末を持ち込むと、××になるなどという噂もあるくらいなので、当然置いていきました、シャープW-ZERO3シリーズのWS007Hは。これまでもそうしていたのですが、今回帰国するとどうもおかしいのです。最近はこれでネットどころか通話することもまずなく、唯一、ある指定メイルアドレス宛で来るメイルの転送・出先受信用にしていたのですが、そこに問題が生じていることに気がつきました。

 このPHSでの私の使えるメイルサーバの容量はかなり小さいので、従来もかなり大きなファイル添付のメイルなどがそちらに転送されると、「受信限度デス」になり、そのことがPHSに通知されるとともに、本来の送信サーバの方から私のメイルアドレスに「不達」通知されることになっておりました。これをある程度解消するために、PHS端末の方からサーバの受信メイルの消去などもやってきたものです。PHSのメイルサーバに届くメイルは自動受信・ダウンロードされるので。


 ところが、今回の帰国後、「不達」の事態が頻発されるようになり、それではとPHSのメイルサーバクリアアップもしたのですが、変わりません。試しに私の方で、PHSのメイルアドレスに別途送信を試みても、はね返されてしまいます。サーバ満杯だかで送れないのです。そのうち、サーバクリアアップのためのPHS端末からのメイルサーバアクセスもできなくなってしまいました。完全にお手上げ状態となりました。

 想像するに、この留守期間中にPHS端末の電池が切れた(これも電池交換して7年もたつんで、かなり電池が弱ってきていたのも事実)、それによって、WS007Hのなにかの設定がリセットされるかして、メイルサーバへのアクセス不能に陥ったのではないかと想像されます。もちろん、パスワード再入力とか試みはしましたけどね。



 さあそうなると、メイルの転送受信もできない、まるで使い道がなくなってしまいました。今さらこれで通話する気もない(元祖須磨輔だけあって、形状や使い勝手がおよそ携帯電話的でないし、そうした料金設定にもしなかったから)、もちろんこれでインターネット接続をしようという気はまったくありませんから。


 どだい、現在のPHS運営企業Y!モバイルはすでに2020年7月でのPHSサービスの終了を宣言通知してきています。どんなにあがいても、もうわずかの命であり、それだけにまた、メイル受信設定エトセトラを相談・回復させる気にもなりません。そんな相談に行ったところで、代理店じゃあ「なんだこれ?」といぶかしがって眺めるくらいが関の山でしょう。

 ことは決まりました。これ以上、月々1500円足らずでも払う意味はなくなりました。ただでさえ、老後の緊縮生活を迫られております。PHSとはおさらばと心に決め、まずは加入プロバイダのメイル転送設定を解除、それからさて、どこでPHS解約手続きするかと、店を探すに一苦労し、まあなんとかY!モバイルの代理店を見つけて、「PHSの契約解除したいんだけど」と申し出た次第です。
 ことはあっさりすすみました。店頭の端末画面で私の登録情報を確認し、書類に電子サインして、おしまい。もちろん私の身元証明は示しましたが。店のスタッフも、PHS?って首をかしげたり、取り出したWS007Hにドン引きしたりもしませんで、まあルーティン化です。代わりにスマホ入りませんか?という勧誘もなし、唯一、この端末どうしますか?と聞かれたので、記念に取っときますとこたえたわけでした。



 それにしても、もう近頃は多くの方がPHSという言葉の意味さえ知らないでしょう。いや私だって、PHSってなんの意味だったっけと、記憶をたどっても思い出せないくらいです。「Personal Handy-phone Systemのこと」なんて、物の本に記されていますが、それじゃあいわゆる携帯電話とどこが違うのか、となりましょう。


 時は元禄の時代とほぼ同じ、バブル崩壊の時代に日本に登場した、携帯通話端末のシステムであります。いまだ「第二世代」(2G)移動体通話通信の時代、そっちは料金が高い、音がよくない、等々の中、もっと安くできるとして登場したものでした。当時の図解では、「簡易型」を称し、要するに家庭の電話のワイヤレス子機のようなものを、持ち歩き可能にしたんだみたいな説明で、甚だ心許ないものでしたが、1.66GHzの電波を割り当てられ、実際には結構使える、音もいい、料金はずっと安い等で、私など、このPHSから移動携帯電話端末利用・DDIポケットに入ったのです。デジタル化の先駆けであったわけです。先に書いたように、1996年のことでした。

 でも、黎明期ですからともかく街中の基地局が限られており、4本柱のアンテナの立つ基地局を探すのが先決みたいな状況でした。はじめは自宅内でもつながりませんでした(のちに、丘の上のマンション屋上にアンテナが立ち、安定接続になりました)。もちろん地方に行くとほとんど使えません。車中でもとうてい無理です、という有様。それもあって、私はのちにNTTDoCoMoの携帯電話にも加入した次第。

 その後、1998-99年の在外研究時にはDoCoMoもDDIポケットPHSもいったん解約しました。第二世代では日本と欧米とは通信方式が異なっていて互換性はなかったので。もちろんPHSはまったくドメスな存在でしたし。帰国後、どちらにも再加入しましたから、特にPHSの加入期間は相当になります。のちには加えて、PHSの特徴であるデジタル通信能力を生かした、通信専用端末Air Edgeにも入りました(「スマホを買わんの記 −わがモーバイルPC格闘史20年 その7」に詳細)。


 2010年にPHSはいったん解約したのですが、2011年3月11日を機に再加入、以来今日に至った訳なので、合計すれば、20年以上加入していたことになります。この間にキャリアはDDIポケットからwillcom、そしてワイモバイルと変遷、ライバルのNTTドコモやアステルは早くに撤退、PHSの消滅は時間の問題になっていました。私的には、通話端末ではケータイ4Gにあらゆる点で勝てない、勝てるだけのインフラ等への投資のゆとりもないという危機には、せめて通信端末で生き残って欲しかったのですが、そっちも4Gの定額常時接続サービスに負けてしまった以上、もうずいぶん前に入ってる意味を失ってしまっていたのです。

 PHSは完全に売り方を間違えたんだ、そうでなければもっと加入者をキープし、それなりの新投資・技術向上もできただろうになどと考えても、私ひとりの考えなど、屁の役にも立ちません。
 それゆえ、WS007Hとともに、私の「スマートフォン」への関わりも終わりを迎えました。


PHS端末の「遺影」

 デジタルメディアじゃない、ペーパーメディアですと、半永久的に残るので、悲喜こもごも、痛し痒しです。

 私の手元に、『PHSと携帯電話』(オーエス出版社、1995年)という本があります。著者は「百舌鳥伶人」(もずれいと、なんちゅうペンネームや)となっております。この書に、「もともとPHSはコードレス電話だった!?」という説明もあるのですが、ギョーカイの拡販ツールであるだけに、PHSの未来には、まさしくバラ色、百花繚乱が約束されております。

 PHSとPDAの結合という絵は、なかば実現したと言えましょうが、その後の須磨輔の出現と急拡大に蹴落とされてしまいました。というか、須磨輔こそが究極のPDAと見れば、はずれではないと言えるかも知れません。でも、巻末に掲げられた、「郵政省調べにもとづくPHS普及台数予測」というのでは、2020年にはなんと7000万台と記されています。現実には、2020年にはPHSはゼロになるので、この誤差は大きすぎますな。もっとも郵政省のデータは2010年で3800万台までで、あとは百舌鳥氏の勝手な想像だし、だいたい元データは「携帯端末の総台数」ではないかとも思われるので、さすれば大外れではないのかも知れません。2018年現在で1億7千万台と集計されていますから。

 それとともに、この書の巻末には、JRや地下鉄駅で、PHSがつながるかどうかの「検証データ」も載っています。当時の実感が思い起こされますね、生々しいですね。


 
 



その三へ