ホームページ作成の記(改造版)

(「うよきょくせつ」と読む)

第八・一段階




 これは、コンピュータもソフトウェアも勉強したことのない、「文科系人間」の、興味半分からの苦闘の記録である。涙なくして読めないことは、作者の勝手な思い入れ、苦笑なくして読めないのが、読者の真実の感想であろうかと、想像を致す次第である。




目次(日誌)

May 25, 1999帰ってきました、ニッポンへ
October 30, 1998この一年、いろんなことがありました
September 15, 1997PCと歩んできた十余年の、汗と涙とサイフの苦闘の記録
August 30, 1997「表」づくりと「ローカルコード」化の問題
July 6, 1997「表」(TABLE)づくりに挑戦、記念写真はダウンロードでどうぞ
June 26, 1997「字のせ」解決、ビジュアルツールの使いにくさ
June 23, 1997ビジュアル化拡大、ftpの奇妙な動作
June 18, 1997「踊り字」と「透過gif」化
June 17, 1997gif素材活用、フィルムスキャナを買う
June 10, 1997はじめの一歩、手作りHTMLの悪戦苦闘








 スタートから一週間あまりで、一日平均10人以上のアクセスを頂き、どシロートにしてはよくやっているという好意的な評価も頂戴してきました。


 ただし、過分なお褒めの行き過ぎと、この地道な努力をもっと見てほしいところと両方ありますので、自分の作業記録を含めて、実態を暴露することにしました。
(それで、ページ更新を稼ぎたいハラもあり)



@自分でホームページを作ってみたいという願望は以前からありました。
 PC通信ネットの利用開始が95年12月、そのときJustNetを使ってインターネット接続も試みようとしたのだけれど、「タダほど高いものはなく」、まるでうまくいかず、HPにはお目にかかれずじまい、JustNet有料化開始を機に脱退。JustNetは今もって評判がはなはだ悪いようです。だいたい、今にして思えばその原因は、当時JustNetのサーバコンピュータがはなはだお粗末のうえ、設定もひどくて − 勝手に自分でトラブったくせに、アクセスに対し「パスワードが違っています」などと返ってくる事態もあった − 、とうてい多数の接続利用に耐えず、また「一太郎」おまけのブラウザとおぼしきものがとんでもなく性能が悪く、HPアクセスには使いものにならなかったのです。ですから、以後ジャストシステム社は、Netscape をおまけに付けるようになりました。


AそんなわけであきらめていたHP利用ですが、いよいよ必要に迫られ、96年8月からAsahi-Netに加入して、インターネット接続を始めました。当初の設定など例のごとくに悩まされた後(当時はWIN3.1で、Trumpet Winsock を利用)、何とかうまく動くようになって、まずは駒大学生諸君らのけなげなHPづくりを目の当たりにし、大いに刺激されましたが、一方では「HPって、ああ、やっぱりこういうものなんだ」という類のものがあふれているのも多々目にしました。誰に見せるつもりなのかわからない、ホコ天・路上の「私の詩集」調のものや、VSOPで面白くもおかしくもない企業や自治体の「公式ホームページ」の数々など。

 その後、ゼミの学生諸君のうちから率先してHPづくりに挑戦し、あっという間にすごいものを作ってしまった「達人」(別名ペルシャ猫)が現れたため(それもパソコンにさわって2,3ヶ月)、もっぱらそちらの努力にお任せし、いつしか私はこのゼミHPのコンテンツの記事や写真の提供係になっていました。でも、その彼も就職活動などで多忙を極めているのに、一所懸命HPの更新作業などをやってくれ、ひとまかせの自分がちょっと恥ずかしくなってきましたし、それに自分でHPの作り方や意味など試しもしないで、エラソーなことなど申すのはもっと恥ずかしいので、そろそろ自分でもやってみようかななどとも考え出したのです。もちろん、「同業者」のうちにもその方面で大いに腕を振るっている人たちが少なからずいるのを、ネット上で発見してきています。


B日商の方で、「インターネット時代」について話しをしてくれと頼まれたのをきっかけに、あわててまずカラープリンタを購入(それも持っていなかった!)、これはプレゼンのOHPシートづくりと考えました。そして、でも中身のページは全部ひとのものだな、じゃあHPも作ってみようかとも考えたのが、まあきっかけらしいところです。
 作るといったところで、手元にある材料は、『インターネット年鑑 ’96』に載っている、HPのなりたちの簡単な説明と実例、そしておおざっぱなHTMLのタグ実例一覧だけでした。「一太郎」おまけのホームページ作成ツールをまず使って見ましたが、たちどころにおおざっぱすぎてだめと判明、それなら、自分でタグをこつこつ書いていけば、いつか何とかなるだろうと、始めてみた次第です。


Cですから、手がかりはそれだけ、素材は、「一太郎」のおまけ − 「WELCOME」ロゴや背景など − だけで始まったのです。初めてのことですから、タグは書いたが、期待通りには写らない、はてどうしたんだろとさんざん迷ったあげく、<" "> の後ろの「"」を落としていたとか、実に初歩的なミスの連続でした。もっと困ったのは、色指定の資料が全くないことで、「見本」の例を写す以外は、ヤマカンで適当にやってみました。

 じゃあ、あのバナーや挿入写真は?それは全部、「パクリ」です。ゼミHPを作ってくれた、ペルシャ猫君の苦心作など頂きました。「パクる」のは実に簡単ですからね。
 輝かしき「アクセスカウンター」は?それは実は、HPを載せることにした、Asahi-Netにはサービスでついているのです。独自のCGIなど受け入れられない代わり、おまけがレディメードで提供されているのです。当方はただ指示通りに、HTMLの記述を追加しただけです。

 まあ、こうしたプリミティヴ(原始的)きわまりないものでも、何とか始めることはできました。でも、できばえを見れば当然、貧弱です。そこでまた、本屋で『ホームページ素材集』(アスキー)と、『HTMLハンドブック』(ナツメ社)を買ってきて、素材など若干補充強化を始めました。ちょっとは見栄えがしてきたことでしょう。


DHPをサーバに載せるところのやり方がどこにも書いてないのには驚きましたが、Asahi-Netの指示には、登録用ftpソフトとして、Netscapeなどは使えません、WS_ftp指定ですなどと恐ろしいことが書いてあるので、あせってWS_ftp 95 LEをダウンロードし、解凍して見たところ、意外に単純、またAsahi-Netの指示には図入りで設定方法が示されているため、実に簡単にftpできました。
 ただ、Asahi-Netでは、「紳士の実名参加」を求めるためか、PC通信で「自己紹介」というのをあらかじめ登録しないと、HPのアップロードができないしくみになっています。昨年12月更新のマイPCには、懐かしの「通信ソフト」を新たには入れていなかったため、やむなくそのためだけに、ASAtermという専用通信ソフトをこれまたダウンロードし、設定するはめにもなりました。
 ws_ftpが特別ハングアップしやすいといったことはないようで、最初だけ、いろいろダウンロード・インストールしたり、あっちこっち起動したりいっぺんにやっていたため、おかしくなることもありました。以後は順調かつ快適にアップロードしてくれます。

 問題はむしろ、登録済みのを自分で読むことがなかなかできなかったことです。登録され、読める状態になるまである程度時間がかかるのかな、まさかなんて思っていましたが、それもおかしい、そのうち気づきました。当たり前なのですが、インターネット上では、大文字と小文字が区別される(UNIXゆえ)!しかし困ったことに、WIN95上での「一太郎」や、Explorer でさえも、ここいら辺がかなりラフで、画面上の表示と実際のファイル名とが一致していないことさえあるようなのです。きちんと正しいURLを確認し、書けるまで、かなり苦労しました。
 ありがちなことですが、思わぬところで壁にぶちあたるものです。それも一度URLを確認登録さえしてしまえば、あとは問題ないのですが。


Eこれからやりたいこと、それに必要なことはいっぱいあります。もちろん、見栄えをよくする改良は多々いると思いますが、やはりHPはビジュアルでないといけません。「ワンパターンなHPが多いなかでは、字のずらり並んだのもかえって新鮮だ」などという「お褒め」も頂きましたが、これもちょっと皮肉に聞こえます。でもそれには、スキャナー等必要です。私は、カラースキャナーもデジカメも何も持っていませんから、そこいら辺の整備からやらねばならないでしょう。ペルシャ猫君は写真を取り込むのに、コダックのフォトCD利用という手を用いてきていますが、これもお金がかかります。だいいち、どのコマを使うか決められないまま、CD-ROMに全部入れて貰うなんていうのは、大変なお金と資源のムダです。

「ホームページ作成ソフト」を今買いたいとも思いません。同じタグをいちいち書いていくのは面倒という気もしますものの、「手作り」の実感はそれなりによいものです。でもやがて限界が来るでしょうね。Javaをどうするなんていうことにもなるのでしょう。そこまで「はまり」たくもないのですが。

 いずれにしても、試行錯誤とともに徐々に向上を図っていきますので、みなさんの気の長いおつきあいを願っています。中身こそが大事ですが、そこは立場上、大いに「学術的」かつ「教育的」であるはずで、ちょっとかたいのはやむを得ません。もちろん、「遊び」もありましょう。ただ、自己満足には陥りたくないもの。おおげさでも、「世に問う」くらいの意味を、自分で自覚できるだけのものでなくては。

 たとえば、調査報告などと、ビジュアルデータと並べて出せれば、一番いいのでしょう。
 それから、私が役員である、学会の公式HPを作ってみようかななんていう気もしています。だいたいそれこそが、アカデミズムの国際化をめざしての「インターネット成立の本来のねらい」であったはずですし、すでに公式HPをスタートさせて、大いに効果をあげている例を多々目にしています。学会大会の報告者の「予稿」をあらかじめWebページにして、広くいち早く提供するなんていうのは、実に有益です。


      (1997年6月10日)

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Fその後、アスキーの『ホームページ素材集』など、素材も追加しました。これでGIF動画も現れたわけです。それから、つい誘惑されて、「きれいなタテのレイアウトなんか組めるんじゃないかな」などと考えて、IBMの「ホームページビルダー」なんていうのも買ってしまいました。でも、予想通りというべきか、おまけの動画素材などを別にすれば、大して使いやすくもなく、ひとのホームページづくりの秘密はわかってきたけれど、手書きではじめると、その味からなかなか離れられません。これは無駄な買い物だったかなとも思っています。「もっと使いこなしてから言え!」と、ベテランから怒られるにきまっていますが。

 これ、見事にうえに書いたことに反していますね。「君子は豹変す」です。なに、誘惑には弱いだけです。


 それから、ついにスキャナーを買いました。いよいよ「ビジュアル化元年」です。「ネットワーク化」元年から1年半もたって、やっとここまで来ました。その第一回試作品を載せています。おわかりのように、私の買ったのは、ボーナス前の懐具合と相談して、大特売のフィルムスキャナーです(メーカー希望価格の半分以下)。「下手のヨコ好き」でも、私の、仕事半分趣味半分の写真のネガストックは膨大にありますから。


      (1997年6月17日)

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G「一太郎」のフォントエフェクトと、イメージエディタを使い、「踊り字」のタイトルを制作、色を付けたうえ、「ホームページビルダー」のおまけで、「透過GIF」ファイルに変換、これをこのページの題字にしたのです。まあ、ひとひねりして、いかにもHPづくりになってきました。「ホームページビルダー」もそのくらいには使えるものとわかりました。


H自作のjpeg画面を探しているうちに、ビジュアルな画面をはめ込むのに、大きさを%で指定すると、リンクで、ひとのHPの「フレーム版」の中にまた読み込まれた場合、その枠組みに対する%比率になって、やたら縦長や横長になってしまうと気づきました。だからフレームはいやなんだ!ともかく、画像などは絶対サイズ(ピクセルの大きさ)で指定してやらないといけないのでしょう。そんなことにはマニュアル本にもはっきり書かれていないぞ!

 まだまだ試行錯誤は続くのでしょう。



      (1997年6月18日)


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Iいよいよ本格的に、写真填め込みのストーリーに改造したり、ビジュアル度向上につとめました。でも、きちんとしたタイトルを作ろうと、適当な字乗せ素材を使って、うえに文字タイトルを乗せようとしてもうまくいきません。このページのヘッドラインのように、文字の背景部分を透過gifにし、ホームページ上の背景に乗せる手はもう習得しましたが、この手が今度はなかなか応用できないのです。透過のはずなのに、文字部分の周りがそのまま真っ白に抜けてしまいます。多くのホームページはこの手で、かっこいい独自のタイトル(そればかり立派な観もあるけれど)を作っているのですから、何とかできるはずと思うのですが、意外にむずかしいものです。

 どうも、やっぱりカラーイメージ関係のソフトの扱いに通じないと、これ以上進歩がありません。タグをこつこつ書いているうちはよかったのですが、ちょっと欲を出すともう泥沼になりそうです。

 フィルムスキャナーを使って、ビジュアル画面づくりを試すうち、「私の詩集」風な、感傷的なページを作ってしまいました。小さな生きものに寄せた思いを、ひとに聞かせても、自己満足で空しいのだけれど、「電脳空間」に永遠に生きていてほしいような気がしたのです。


J新しいページをネットワークサーバにアップロードしているうちに、妙なことに気づきました。ftpが成功したはずなのに、すぐあとで確認のため、URLへアクセスしても、新しいページが出てこないのです。更新した場合には、古いページがまた出てくるし、新しく作ったページの場合には、URL見あたらずの返事が返ってきてしまいます。もちろん、ブラウザ側がキャッシュしていた、以前のページの記録がまず出てくるのを知ったうえで、再度読み込みをやっても同じなのです。ftpに失敗したのかと思い、やり直してみても同じこと、ところがしばらく時間をおくと、ちゃんと新たにアップロードしたページが読み込まれるようになってきます。つまり、どうもサーバ側では、一度アップロードを受けるところと、それを記録し、アクセス可能にするところが別で、時間差があるように思えるのです(サーバ自体がもつキャッシュが、もとの記録を読まずに、同じURLへの繰り返しのアクセスに対応している可能性もあるが、それなら新しく作成・アップロードしたページへのアクセスにこたえないのはおかしい)。

 Asahi-Netのwwwサーバへのホームページのアップロードを始めた当初には、こんな現象には遭遇せず、ftp後引き続いて確認読み込みをやれば、すぐに新しいページが出てきたように記憶します。それに最近は、ws_ftpでのアップロード操作時にも、サーバ側のファイル名一覧が、ftp成功後もきちんと更新されず、何度か確認動作をしていると、新しいファイルに書き変わったとわかるといった事態もあります。

 どうもよくわからん。


      (1997年6月23日)


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Kビジュアル化への改良とともに、イメージペイントソフトなどをいじる必要が増えてきました。うえに書いた、素材に字をのせるという操作、マスクをかけてなどと大変なことを考えましたが、経験者「ペルシャ猫君」の示唆で、ペイントソフトには「文字書き機能」があると判明し、あっけなく解決してしまいました。「マスク」利用など、高級な文字加工をするわけでもないのに、全然要りません。それどころか、マスクなどと言わずとも、塗りつぶしもソフトが一挙にやってくれます。塗りつぶしの色を自由に選べ、ソフトが境界線を自ら判断してくれるので、クリック一つで塗りつぶしができます。
 知らないとは恐ろしいことです。最近のソフトには詳しい説明もないので、helpなど見ない限り、可能な機能などもさっぱりわかりません。「一太郎」おまけの「イメージエディタ」でさえ、文字書きを持っていたのです。扱えるファイル形式の範囲(jpegなど)や、gif形式での「透過化」可能かどうかなど、いろいろ機能の差はあるようですが、ともかく、これからこうしたツールのソフトはもっと勉強し、いじらなくてはならないのでしょう。「古典的文字派」の私などには、まことにやっかいなことです。


 ただし、せっかくながら、ビジュアルツールはどれも、意味の分からないところが多すぎます。ビジュアルなものを、字面で説明する限界でしょうか。それに、この手のソフトをはじめ、この世界が近頃ますます誰にもわかりづらい(特に初心者に)原因は、勝手に「言葉」を作り、その定義解説も曖昧なまま、説明書やhelpファイルを構成しているせいです。せめて、索引でそうした勝手造語の確認ができればまだいいはずなのですが、それもない!この違和感はいつまでもつきまといます。

 世界広しといえども、勝手に造語をし、誰にもわからないような意味で振り回し、「仲間内」だけで分かり合っている、そんな「おたくの世界」を銭をとってひとに売りつけているのは、コンピュータやさん、ソフトやさんだけでしょう。Microsoftにしてからそうです。
 たとえば、昨年度の第一部演習3年生が調べた、ケータイ(移動体通信)の世界では、各事業者を「キャリア」と言うギョーカイ語があると私も知りましたが、そんなの、ケータイを売っているどこの店だって絶対に使いませんよ。「どこのキャリアを指定しますか?」そんな言葉を振り回したら、客がみんな逃げてしまいます。
 世間じゃ「キャリア」と言ったら、「実力経験組」(ただし、コームインの中では、実力無関係、ユーメイ大卒一種試験合格組を言うよう)(career)か、病原体保菌者か、荷物運び台車(carrier)のことでしょう(原語は違うんだが)。
 どうもソフトやさんは違うようです。


 まあともかく、それであっけなく作った「文字のせ」の成果を、ホームページに入れました。その勢いで、かねてから考えていた、私が役員の学会のページの試作版を、独断をもって作ってしまいました。まだ何となくちゃちで、バラック風です。


 これからは、これもペルシャ猫君の示唆で、「表組」(TABLE)を使って、タテヨコきれいにそろえる工夫をやってみましょう。だんだん、予見通り泥沼化ですな。「気をつけて下さい」の、忠告もいただきました。もっともなことです。



          (1997年6月26日)



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Lいよいよ(今頃)、表づくりを利用しはじめました。TABLEタグを使って行くわけで、ホームページ作成ソフトでなら初歩の初歩なんでしょうが、私のように手書きではじめますと、数表でも作らないと、あまり必要性を感じなかったのです。でも、ひとのホームページのできばえを見ているうちに、コンパクトに、タテを揃えて作るのがジョーシキのようで、私のように、ハイパーリンクがだらだらと順次並んでいるのは間延びしたかぎりのようです。そうしたレイアウトにTABLEが活躍するわけです。もっとも、前に作ったのを全部つくりかえるも面倒で、最小限の試みにとどめました。これから作るページでは、もっと活躍させましょう。


M特に用途を思い立って、ちょうど一年前の母校の同窓会「城北会」の、卒業30周年で集った同期生の写真とか、さまざまな機会において写っているゼミOB諸君のものとか、手元にはあるのだけれど、写っている本人たちに直接渡す方法が面倒な画像を、ページに載せてしまい、ほしいひとは自由にダウンロードしてくれという便法を編み出した次第です。「インターネット」は自由で誰に対しても開放された空間ですが、それを特定のグループのために使うというのこそミソです。


 写真を取り込んだページをこのように増やすうち、ノウハウとして、「軽く」読み込めるように、ページ上の画像はごく小さい情報サイズのものとし、クリックで原寸の別ファイルのものを呼び出せるというやり方をすぐ取り入れたのです。ところがその小さい方の画像の出来が、あまりによくないのに気づきました。ただ小さいというだけじゃないようです。ややこしいのですが、私のフィルムスキャナーのおまけのTWAIN画像処理ソフトPhoto Enhancer は、小さく軽い画像として*.gif を作る機能を持っていないため、先に*.jpg の原寸画像ファイルを作っておき、それをもとに今度は、IBM Easy Animatorに読み込んで、サイズ縮小の.gif ファイル作成という手順を用いたのですが、これだと画像のクオリティが相当に落ちてしまうのです。


 結局、面倒だけれど、スキャン画像から.gif ファイルを作れる機能を持った、Happy Paint32 for Web(『魅せるホームページ 実践テクニックガイド』インプレス刊、のおまけ)を用い、.gif 画像ファイルを直接作ることにしました。もっともこの場合、Happy Paint は写真レタッチの機能が少ないので、原寸の.jpg 画像も同時に作っても、ほとんど手を入れられません。特に輪郭線のシャープさはほしいところです。ですから、奇妙なやり方ですが、.gif はHappy Paint で、.jpg はPhoto Enhancer でと、同じコマの写真ネガを別々に処理するということに落ち着いてしまいました。手間のかかることです。それぞれのソフトが一長一短あるからです。


 画像処理ソフトは面白いけれど、いじり出すと間違いなく泥沼ですね。


 もうすぐアクセス計500人です。一日10人のペースがほぼ不動です。


          (1997年7月6日現在)



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Nしばらく、この「紆余曲折」を書きませんでした。個人的事情もありましたし、まあ「ホームページづくり」もだいぶ慣れてきて、「試行錯誤」とともに大騒ぎするほどではなくなってきたせいもあります。
 映像はむろんのこと、「表」(TABLE)を駆使し、「きれいに、小さく」揃えるといった手法も大幅に取り入れました。今さらながら、よそのページと比べてみますと、これまで、大げさで間延びしていた観も否めません。でも、あんまり小さな文字だけで、クリックすべきハイパーテキストが並んでいるのも、読者には不親切なんじゃないかな、といった言い訳もあります。

 あとは「動画」でもやるか、でも面倒そうだな、などと思い、もっぱらリンク先の拡大に努めてきました。でも、「IBM Home Page Builder」など見ているうちに、まだ生かしていない機能、ハンドブックに書かれていなかったコードなど多々あるのに気づきました。HTMLもなかなか奥が深い。

 この間、「ペルシャ猫」君は、画像並びに音声つきのBBSを開発、はるかに独走をしております。こうなると私はひたすらマイペースで、「中身」の充実に専念と、カッコつけましょう。中身といったって、相変わらずの「独断と偏見」のつぶやきを、真っ黒な文字の羅列で書きまくっているだけで、芸のないことですが。


 この間に気づいたこと。日本のページは、例によってまたもや、「ローカルルール」ができてしまっていることを認識させられました。たとえば、レイアウトを整えるのに、「全角スペース」を並べて空間を作れ、と書いてあるマニュアルがあって、それを使ってきたのですが、これを日本語機能を持たないブラウザで見ると、妙なものになってしまいます。それ以外にも、変な具合になるところが多々あります。そりゃそうです、「全角文字」なんてないのですから。
 結局、画面のレイアウトは、「表組」や「リスト」を駆使することでやるしかないのでしょう(P ALIGNでは、左、中央、右指定しかできない)。日本語ワープロの感覚でやっちゃいけません。「English version」を称しながら、実は日本以外では読めないページが、私のを含めて、多々ありそうです。これはすべてなおしました。


 アクセスはもうすぐ1000人(ウソ)です。



          (1997年8月30日現在)


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 日本電気株式会社(NEC)の事実上の「98撤退」発表に、万感の思いを込めて書き込みをしたら、「NECバッシング」と勘違いをしたひとがいました。これがどんなに間違いか、この10年以上にわたる、NECと運命をともにしてきた日々を、ここにその投資総額を含めて記します。まさにOA化に翻弄されてきた「歴史」です。

 私が「手書き」時代からOA化に手を染めたのは、今をさかのぼること13年も前、「ワープロ」の波が押し寄せた時代のことでした。まずはじめは、幼いころから欲しかった英文タイプライタの代用品、Canon Typestar5 というヤツで、これは全くの無駄な買い物とすぐに気づきました。そして、忘れもしない、1985年2月27日、Canon CM5という、馬鹿でっかくて、表示は液晶文字一列、しかも外部メモリはカセットレコーダという、ほとんど前世紀の遺物のような日本語ワープロを買ったのでした。それでも、20万円以上もしたのです。この買い物はそれでも画期的な出来事でした。遂に、日本語を機械が書き始めたのでしたから。それで、表まで作っていたものです。

 それから、かっこいい英文タイプの文字にあこがれ、欧文電子タイプライタのBrother CE70 という当時の先端的なヤツを、13万5千円で買いました。こいつは持ち運びは到底できなかったので(当時、「持ち運べる」日本語ワープロなんていうのは、想像できなかった)、在外研究に備え、Brother WP600 という、小さな欧文ワープロを8万円足らずで買いました。専用インターフェース経由でCE70を出力機にすることもできるので、小さなWP600が、タイプライタのデイジーホイールを勇ましくけたたましく動かしていく様子には感動したものです。そのWP600は、一年半のロンドン生活でも一番活躍してくれました。

 この辺でやめておけばよかったのですが、Canon がCM5の後継機で、「はじめてFDが使える」CM7というのを出したため、つい誘惑されて、25万円以上もはたいて買ってしまいました。これは全くの失敗、一年半日本を留守にしている間に全くの旧式化し、しかもFDのタイプもフォーマットも記録方式も何ら互換性がないため、以後大いに自分の手を縛ってくれることになってしまったのでした。それでも、これでのみ入れてあったデータを年一回くらい再生プリントするため、図体ばかりでかいのに、十年以上たった今もしまわれています。

 しかも、よせばいいのについしゃしゃり出て、同僚のA氏からの相談に、「CM7を使っている」などと話し、真に受けたA氏もこれを買い込み、以後大いに迷惑をした模様です。A氏購入のCM7は、帰国後私が譲り受けて、以来何年か大学研究室に眠っていました。帰国の際は一年半のタイムラグでOA浦島太郎化した私、全くのボケで、CM7がもう売られていない!互換機もない!ということばかり思い悩み、自宅用のほかに仕事場用の同機がどうしてもいるなどと思い詰め、とっくに投げ捨てていたA氏からそれを譲ってもらったのです。今思えば、せめて迷惑料くらい払ってしかるべきでした。そして、私自身も、すぐに「もうこんな代物の時代じゃない」と気づいたのです。

 それに、ピンぼけに輪をかけたことに、在外研究出発直前の86年2月、CM7と互換性がある小型の、しかし外部メモリは依然カセット使用のCanon CM6 というのが出、やっぱりロンドンでも日本語ワープロ使いたいなと考え、10万円近くはたいて買い込み、ロンドンまで運んだのでした。まあこれはこれなりに、ロンドンで活躍をしてくれました。それを、また日本に持って帰ったのは、うえのCM7をめぐる錯覚がらみの思いこみからだったのです。これは置いてくるべきものでした。このCM6は、今はどっかに消えました。働きの割に、きちんとした晩年を送らせなくて、申し訳ない気がします。


 ロンドンでは、よせばいいのに、妻の冷たい視線を浴びながら、手動の欧文タイプライタを買い込みました。タイプ禁断症状になってきた(特に、手紙の封筒の表書きなどは、欧文ワープロのサーマルプリンタじゃダメだから)のと、古典的な手動機の味わいへのあこがれゆえです。もっとも買ったのは、実は日本製(シルバーリード製)で、英国の文具店チェーンのOEMで出ていたもの、W.H.Smith SR22という名で、値段も1万円あまりでしたから。これは帰国後も、たまに使います。よく手を汚します。


 帰国後の浦島太郎的混乱を経て、ようやく、「これからはパソコンの時代だ!」と気づき、大決心をして、87年の年末にPCを買い込みました。その当時ではほとんど考える余地もなく、PC98でした。世の大勢が98であることは十分見えていましたし、大学の導入機もNECラインでしたから。
 渋谷道玄坂のパソコンショップを訪れ、ちょっと説明を聞いただけで、すぐに購入を決心、このとき相手をしてくれた、ひょろっと背の高い、一見頼りなげな店員K氏とは、以来十年のつきあいが続いてきています。彼は今は一つの店の店長です。

 買ったのは、PC9801UX21という、80286の、3.5FD機、これはそれなりの考えあって買ったのですが、当時で26万円もする相当な買い物でした。大学の研究室に据え、さあと始めると、さっぱりわからない、動いてくれない日々、今にして思うに、きわめて初歩的な、聞くも恥ずかしいようなところがわかっていなかったのです。それだけ、付属説明書が不親切きわまりないことも痛感しました。K氏の手を何度も煩わせ、ようやくなんとか一通り使えるようになるまで、一ヶ月近くを要したでしょうか。そんな私に呆れもせず、ともに一所懸命に、辛抱強くつきあってくれたK氏には、非常に感謝しています。だから以来十年にわたりここで買い物をしてきているのです。

 この9801UXとは、結局五年近く仕事をともにしてきました。よく働いてくれたと思います。FD2枚だけで、いろいろやってくれました。一度FDDがいかれましたが。「一太郎」とのつきあいも、ここから始まりました。NECラインでプリンタも買いました。

 いろいろふらついて、結局かなりムダをしたのは自宅用の機械です。自宅と大学と、両方で仕事ができる体制が欲しくなります。でも、PCは結構高いし、何よりもあんなもので大いに場所を占めてもらいたくはない、そこに出てきた、当時の液晶ディスプレイ「ラップトップ機」です。その先駆け、Epson PC286Lというのに飛びついて、88年4月に買い込みました。何と26万8千円もしました。何より、98互換が魅力でした。
 でも、図体は小さいけれどもこれはトラブルメイカー、ともかくのろいのです。μPD70116相当のCPUは10MHz、でも9801UXより数段遅い感じでした。当時の専用ワープロに比べたら、「鈍感!」と叫びたくなったものです。電池内蔵で、携帯性をうたっていましたが、重さは6.3kgもありました。さらに、この内蔵電池が欠陥を持ち、Epsonは全品引き取り修理をする事態になりました。それなのに、これもA氏に伝染させる結果になったのです。繰り返し、申し訳ない限りです。

 PC286Lと苦闘をする一方で、このころすでに(本当の)「モーバイル機」を志向したのです。それにふさわしいのが、やはりEpsonから出た、PWP-NT2というので、これは知るひとぞ知る、当時の優れものでした。あくまでワープロですが、PCとの間で、データのトランスポートと互換ができます。小さな液晶画面だけれど、かなりの表示ができます。住所録やスケジューラも持っていたのです。さらに、何とモデムの使用も可能になっていたのです(当時はやりませんでしたが)。それでいて、重さは1.2Kg、単三電池4本で動きます。外部メモリは専用カードでした。なにせ、このころはまだプリンタを分離したワープロさえ、ほとんどなかったのですから。
 つまりこれは、今のモーバイル機やPDAの要素をもう全部持っていたのです。でも不幸にして、当時の各ハード・ソフトの技術や、「市場ニーズ」自体がそこまで至っていなかったため、短命に終わりました。Epsonはワープロの製造から手を引いてしまいました。どうも私は、時代より一歩どころか、三歩ぐらい先に行ってしまい、なかなか自分の必要とするものを備えられない習性と宿命があるようです。それから何年かして、そうした用途と製品がブームになったりするのです。ともかく、これを89年2月に6万円足らずで購入、いろんな場に持ち歩いていました。海外調査の際にもかなり使えました。


 PC286Lに苦心をしていたところに、いわばそれの改良後継機である、PC286LSというシリーズ(80C286)が出てきました。これは「ラップトップ機」というより、折り畳み型卓上機のようなもので、16bit世代の最後になってしまったのですが、何よりHDを備えているのが魅力、それも取り外し自由のパック形という面白いアイディア、サードパーティからこのHDパックを内蔵して、デスクトップにつなげられるボックスが出たのを機に、「HDをFD代わりに持ち運べるじゃないか」と考え、PC9801UXのHD化をかねてアップグレードしようと計画したのです。ただ、それにしてもPC286LSは高すぎたのですが、32bit時代を前に、投げ売りに入ったところで、90年1月に35万円で買いました。
 ちょっと割高な買い物でしたが、このPC286LSはそれなりによく働いてくれたと思います。まる4年間動いていました。MS-DOS時代の最後です。今は棚の中で眠っています。


 またも失敗をしたのが、急にブームになった「ノートパソコン時代」に乗ろうと、当時の最軽量98機、PC9801NLというのを、92年にあわてて買ったことです。これは、PWT-NT2の代わりになるどころか、およそ扱いにくい代物でした。何ともアマチュア的発想で、DOSの設定に独特の妙なひねりがあること、それにあわせて、ソフトも独自の設定をしたFDを用意せねばならないこと、今どきV30という、超のろいCPUであったことだけでなく、何よりも、キーボードの出来が実に悪く、まともに一回のストロークで、キーが動いてくれないのです。入力をやっているとイライラしてきます。反射型の液晶画面(もちろん白黒)も、非常に見にくいものです。おまけに、専用電池のトラブルまで生じました。18万円もの出費、その後のメモリ増強などは、全くのムダでした。

 この欠陥商品(敢えてそう言うべきです)は、不幸な最期を遂げました。あとで出てくる、ノート型モーバイル機の後継機を買い、9801NLには引導を渡して、研究室での「教材用」にしようと、大学に持っていき、あけてみたところが、何と液晶画面が割れているのです。その途中、特別に衝撃や力を加えるようなことをやった覚えはありません。どうみてもこれは、9801NLが前途を悲観して、「自殺」したように思えます。店に修理代を聞いたら、とんでもない、新品が買えそうな値段なので、あきらめました。かわいそうですが、そのまま放置です。


 その次は、PC9801UXの後継、32bit機でした。個人研究費からリースで備品購入ができるようになったので、自費で研究室のツールを買うのはやめて、リースで入れようというわけ、その分ゆとりを持って、一番いいのを入れることにしたのですが、これがとんだ食わせ物、当時最高というはずの486機、PC9801FA/U5を選んでしまったのです。定価57万8千円という、今にして思えば信じがたく高い機械なのですが、CPUは486SX・16MHzで、RAMも2MBのみ、内蔵HDは40MBなんていう、近ごろだれも見向きもしないレベルでした。その当時はそれでも最高だったんだというのなら我慢もできますが、いわゆるIBMコンパチ機ではすでにこんなレベルはとっくに超えていたはずなのです。だから、このころFAを買ってしまった人たちは、みんな怒っています。WINスペックを読めなかったこっちが馬鹿だったのですが。

 92年4月にこれを入れてしまってから、世のWINDOWS化の流れになんとか取り残されないため、また、リースで入れた以上、4年間は使っていなければならないため、悪しき泥沼としての増強で屋上屋を重ねました。300MBHDをディスクベイに増設、また8MBRAMを増設(93年7月)、ディスプレイを交換、それまでの9801UX時代からのディスプレイTVから、ハイレゾマルチIDEXON MF8615へグレードアップ(94年3月)、グラッフィックアクセラレータボードI・O GA1024A、Intel倍速オーバードライブSX2ODP50を増設(94年7月)、さらに外付けCD-ROMドライブ緑電子CXA301を増設(94年8月)と、計30万円も自腹を切って投資して、なんとかWIN3.1が使える状態にし、だましだまし、4年間を持たせたのです。MS-DOSのままでやってりゃいいじゃないかって?アプリケーションソフトの方が進化しますから、それに追いつくにはOSもあげていかざるを得ません。結局、今ならワンセットディスプレイ込みで3台も買えそうなカネを、FAのために投じてしまったわけです。

 ようやくFAのリースが切れたのち、入れ替えをし、リース導入である以上、大学へ「御返納」申し上げた9801FAは、今はどこかの事務室で、WIN用の増設物一切込みで、余生を送っているはずです。


 この苦い経験から、自宅用のPCは、慎重に選びました。94年1月に、WINDOWS時代での熾烈化する競争で、相次ぎお買い得機を出してきた、NECのWIN対応のお値頃機、PC9821Bs/U7Wというのを入れたのです。値段は22万6千6百円、これにディスプレイも買ったので、かなりかかりましたが、まあそんなものでしょう。文字通りのデスクトップ機で、自宅の机は占領されてしまいましたものの、仕方ありません。いじましく、ノート機を置いておくのも、WIN時代にはふさわしくありませんので。

 この9821Bsは、486SX・33MHzと大したことはありませんが、それなりによく働いてくれました。もっとも、内蔵HDは170MBしかなかったので、はじめから外付けHDを増設、さらにRAMを増設したり、CD-ROMドライブをファイルベイに増設したり(当時、まだCD-ROMドライブは標準装備じゃなかった!)、果てはPentiumオーバードライブ(83MHz)や、グラフィックアクセラレータボードI・O GA-DRV2/98 (フルカラー表示)まで入れたりと、これも結構あとからかかっています。今はそれら込みで、サウンドブラスタボードもついて、知人のところで、9821Bsは余生を送っています。


 「モーバイル病」は、時々変なものを買わせます。一時、見かけだけかっこよかったCasio PW1000なんていう、HPもどきの、中身インチキなものを、投げ売りでつられて8千5百円で買ってしまったこともありましたが、まったく使いものになりませんでした。でもまた、94年9月には、Omron PA102-24-2S 愛称Massif などというのを、またふらふらと8万円あまりで買ってしまいました。ともかく小さい、軽い(880g)、ワープロとPDAの機能をすべて持ち、操作はVJEの入力、これもまた知るひとぞ知る優れものだったのです。これもカードメモリを用い(ただし今やJEIDA規格)、データはRS232CでPCへ転送可能です。それに、買った当初は使いませんでしたが、モデムを内蔵していて、そのままPC通信ができるのです。この機能はのちに大いに重宝しました。

 でも、心配したように、こうしたものを売る商売はうまくないOmronが、先の読み過ぎであまりに早く世に問う結果となり、たいして売れないままに消えていった機械でした(改良型も出たのですが)。それに、80286相当品のCPUが古すぎて、ワープロとしてはまたもイライラするほど遅かったのです。PCのワープロソフト初期の時代を思い起こさせました。PWP-NT2の後継機として十分活躍はしてくれないうちに、WIN時代に飲み込まれてしまったのです。


 WIN時代のモーバイル機は、と求めるうちに出てきたのが、当時最軽量のPanasonic CF11DS32「プロノートジェットミニ」です。ノートパソコン全盛の時代となっても、実はみんなお部屋の机の上で使うため、というニッポン的住宅事情の涙ぐましい産物であったものばかりで、いたずらにスペックと機能の多さを競い、ずっしり重くてどこがモーバイル機なんだ?というものが並ぶところへ、1.3kgの、正真正銘の携帯PCの登場です。いいも悪いもありません。PC9801NLの苦い教訓はできるだけ生かし、十分使えること、まともに操作ができることを確認、95年9月に、大枚26万7千円もはたいて買ってしまいました。カラー液晶ははじめて見ると感激です。松下電器という企業のシロート商法ぶりへの不安はありましたし、実際、キーボードの作りなんか実にちゃちでしたが、それでもなんとか使えます。486DX2・50MHzも、340MBのHDも、WIN3.1ではさして問題はありませんでした。これも海外までお供しました。
 ただ、ミニに外付けするため、当時まだ少なかった携帯用CD-ROMドライブのSONY PRD150というのを買ったのですが、これは全くの食わせものでした。当時で倍速というのは仕方ないとして、接続用の専用カードとそのドライバというのが、Sonyが急遽どっかで買ってきた代物、説明書も一切なく、接続してドライバをインストールすると、勝手にシステム設定を変更し、一時はシステム自体が立ち上がらなくなり、冷や汗をかきました。それをいじる説明もないし、さらにドライバを取り除こうとしても、居座り続けるのです。以来残念ながら、CF11ミニのカード関係の動作には、不安がつきまとっています。また、CDプレーヤーとして聞こうとすれば、CDのトラッキングが異常に過敏で、すぐに音が飛んでしまう始末です。一度本体を交換してもらったのですが、ほとんど同じでした。


 WINDOWS95時代の鳴り物入りの幕開けとともに、私の研究室のいまいましいFAのリースが切れました。でも、その96年4月の買い換えには、敢えてWIN95を選ばず、WIN3.1でのNEC PC9821Xa13/K12 を選んだのです。値段はFAの半値で、Pentium133MHz 、RAM16MB、1.2GBHD内蔵、4倍速CD-ROMドライブ付属というスペックは、WIN95向きであるのは明らかですが、なにせ、「一太郎」の現行Ver.6.3は、95への対応に問題があると言われていたので、敢えて避けたのです。私にとっては商売道具ですから、仕事を続けられる方が優先です。でも、そのため、あとでWIN95へのグレードアップに予想通り苦労する結果になりました。
 この機に98以外を選ばなかったのかって?CF11というDOS/V機をすでに使いだしてはいたのですが、やっぱり98時代のソフトやデータをそのまま使えないのには不安があります。サウンドボードはじめ、NEC機がもう時代に追いつけなくなり、結局割高になってきているのは十分実感していたものの、たとえ後ろ向きではあっても、簡単に98を離れるわけにはいかない心境でした。


 私にとって、ネットワーク化元年となった96年は、またも数々の試行錯誤であったもの、PC通信やインターネットが必携のツールになってきました。そうなれば、当然PCにもこうした機能が重視されます。WIN3.1で、「秀TERM」などの通信ソフトを使ったり、苦労してTrumpet Winsock を設定し、プロバイダ接続をしたりといった経験は、かなり時間の浪費でもありましたが、いろいろなことを覚えました。もっとも、Just Netにはひどい目に遭わされました。それというのも、「タダ」につられたさもしい根性の報いと反省しています。タダほど高いものはないのです。
 ネットワーク化には、PC9821Bsも頑張りました。モデム外付けでちゃんと働きました。また、CF11もネットワーク化し、PHSを使って手動接続(ヤマカン接続)なんていう技も覚えました。でも、そろそろ限界かな、というところで、「一太郎7」もようやく出たことだし、自宅の模様替えを機に、PC9821Bsに別れを告げ、一挙にWIN95機に進んだのです。

 そこで選んだのが、PC9821V16/M7/C3です。熾烈化する一方の競争で、NECも「安さ、お買い得」を売りにせねばならなくなった、そのvalue star シリーズの、Pentium 166MHz 機で、ミニタワー型、17インチディスプレイ付属です。これは33万円あまりしました。まあ、満足できる機能付きです。HDも2GB、32MBRAM付で、CD-ROMも8倍速、モデムボードも内蔵です。value star シリーズはお安い分、ボードスロットが少ないなどのレベルダウンがあったのですが、タワー型はそうでもありませんでしたので。
 これでWIN95に慣れ、そのダイヤルアップネットワーク設定での簡単接続に感心し(もっともそうでもなく、ISDN回線のTAへの接続設定で、またひと騒ぎもあったのですが)、ようやく「機械の存在」をあまり意識せずに、いろいろできるようになってきたと思っていたら、あちこちの機会に書いているように、このV16はさまざま騒ぎを引き起こしてきてくれています。どうも、NEC用のWIN95自体に、問題が残されているようなのです。

 一番の騒ぎは、大学研究室のPC9821Xa13を、買ってきたバージョンアップセットで、WIN95に切り替えた際のことでした。ダイヤルアップネットワークをいくら設定しても、「プロトコルを実行できない」という返事が返ってきて、ネットワークへのダイヤルアップ接続が拒否されてしまうのです。なぜか、懐かしのTrumpet Winsock ではつながったりして、こっちの邪魔を疑ったりもしました。でもそれは濡れ衣でした。Microsoft のサポートからも「聞いたことのないトラブルだ」などと言われてしまったのに、結局、販売店経由で聞いてもらったNECの技術陣から、実はCOMポートドライバに問題があって、その改良バージョンをインターネットダウンロードで配布している、というのです。実際その通りでした。


 そうしたトラブルを免れているはずの、V16でも似たような事態が突然起こるようになったのですから、まったくあてになりません。信頼できない、不安の残る道具というのは、道具にならないのです。こんなところも、98を見限る潮時かな、という思いを抱かせます。


 このような、数々の試行錯誤と、今から振り返って計算をすれば、信じがたいほどの投資の結果、何が得られたのか、なかなか一口に言うことはできません。でも、決して失ったものばかりではないと思います。むしろ多くのことを、貴重な体験と自分の能力と知識として、得てきたものと確信をしています。少なくとも、パソコンも何も知らず、この十年あまりを歩んできてしまっていたら、非常に悔しい思いをしたことでしょう。

 試行錯誤、誘惑と幻滅、悪戦苦闘と勝利の喜び、そして激減する通帳の残高数字、といった事態は、まだまだ続くのでしょう。こんなカネ、結局誰に貢いじゃったんだなどとぼやきながら、それでもなお、新しいものを追いかけ続けるのでしょう(実は、もうモーバイル機でそうしたことが始まっている)。

 それが私の、今日まで十数年の、そしてこれからの「紆余曲折」です。



         (1997年9月15日現在)


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 この一年、いろんなことがありました



 気がついてみると、前のところを書いてから、もう一年以上が発ってしまっているのです。

 この一年は、いろいろありすぎるくらいあった日々でした。それをここにまとめて書いちゃおうと言うんですから、無茶です。



大学公式サーバでの「孤軍奮闘」

 まず、この「Mitsui's monologues」ならびに、「三井ゼミページ」を含め、ようやく始動した大学公式ネットワークサーバ、KOMAnetへほぼ全面引越をしました(なんとトップを切って)。これには「惜しむ声」、「足を引っ張る声」もあった一方、続々と続くかと思えば、いまもって数えるほどしか新WEBサーバ上で動いていないんですねえ。

 どうもこういった軽佻浮薄なものには乗りたくないという、高邁なる白い目もあるようです。一方また、何のかんのと規則と制約だらけで、全然「インターネット時代」じゃない、「公式」サーバには抵抗感十分ありで、もっと自由な場、特にそれに先駆けること一年以上、すでにはるか大規模で「何でもあり」の場を提供してきた、komazawa.comの方に足がかりをおく学生諸君、ゼミ、サークル団体、果ては教員個人まで少なくないのが実態なんです。

 komazawa.comは「大口寄付」と、同窓会事務局の協力で、「駒澤大学同窓会webサイト」となり、「非公式」にして最強のサーバになってしまいました。これを構築運営しているのが、ほとんど独学でやってきた卒業生や現役学生諸君たちなんですから、びっくりです。その発展ぶりと自由さ、フォローアップの確実さを見れば、かのNetscapeをおこしたミネソタ大学元学生たちの天才的活躍の軌跡を思わせます。逆に見れば、「上意下達」「形式と権威第一」「現状優先、前例がすべて」「そつなし、新味なし」「安全無害」「防備完璧」ばかりをめざすような組織体質は、どれほど時代に合わなくなっているのか、ましてや、自由・開放・対等・柔軟こそを特徴とするインターネットとは一八〇度もずれていることを、見事に証明してしまったかたちになっています。「情報化社会論」のいい教材そのものです。

 まあ、なんせftpさえも、「登録済み教職員」個人にしか許されない(それも「最初の一歩」は、作成済みHTMLファイルの入ったディスクをお持ちして、インストールをお願いする)なんていうところだけで、もう敬遠する向きが多々あっても不思議はないでしょう。実際、更新なんか実にないんです。


 それを押して、大学教員の端くれなんだから、ちっとやそっとの不便も我慢して、ともかくせっかくの公式サーバを活用しよう、活用していくなかで、その拡充改善を期待しようなんて考えたんですが、うえに書いたように、実態は「あとに続くものほとんどなし」でした。かくして、以後一年近く、大規模なサーバスペースはほとんどがら空きでした。



 がら空きじゃあいくら何でももったいない、その一方、「公式ページ」の乏しさは、外から見て深刻な立ち後れ、大問題だ、という声を受け、学部公式ページを作るという件を持ち出したら、やぶ蛇で押しつけられてしまいました。どう見たって、私のごときドシロートじゃなく、プロ級の人材もいるはずなんですが、「ホームページづくり」をしこしこやるなんていう、チンケなことには関心ゼロなんでしょう。

 仕方ないので、自分でこれを一からやっていられるほどヒマでもないので、「天才」ペルシャ猫君に「外注」してしまいました。一方で、「卒論間に合わせろ」と叱咤し、他方で、「ホームページできそうかい」と様子をうかがうという、猫の飼い方でももっとも難しい戦法を何とか操り、当人が「卒業」してしまう前に、完成上程できたのです。

 ただし、「マル投げ」で知らん顔できるほど私も気が強くないので、いろいろ訂正や修正を施し、さらにFTP後も、これをもっと拡充する方法はないかと考え、とりあえず、「リンク集」なんでもあり、を作ってしまおうと、空前の規模のものをくっつけました。実際に「その気になって」活用すればこんな重宝なものはない、と思われるものなのですが、いったい何人「その気に」なるのかどうか。




ニッポンを離れ、いよいよネットワークが頼り

 さて、この「経済学部ホームページ」も、私個人のパスワードでインストールされるという奇妙な状況下、いろいろ厄介なことがおきはじめました。まず第一に、この間大活躍であった「ペルシャ猫」君が、晴れて卒業してしまったことです。結構なことなのですが、後継者がいません。ために、「ゼミページ」は停止状態に陥らざるをえません。

 それ以上に大問題なのは、私自身がニッポンを離れたことです。これは、とっくに決まっていたことですが、(さまざま僥倖と機会もあって)本年度の「在外研究」で国外に行かれることになったのです。

 それはいいんだけれど、これで、これまでおもりをしてきたこの自分のページ、「経済学部ページ」、担当者がいなくなってしまった「ゼミページ」、さらにこの間にはじめてしまった「日本中小企業学会のページ」、みんなこれからどうするの、という問題が生じました。ある程度はおもりをひとにお願いし、自分の責を免れてきたのですが、いざ離れてみると、かえっていろいろな問題がわかってきます。なにより、ひとが作ってしまったWEBページを管理するというのは、きわめて難しいというのが、押しつけられた人たちの実感だというのが、当方にもわかってきました。ページの書き方やファイル構成のしかたにも、個人の「癖」があふれているので、容易なことじゃないのです。おまけに、上記のように、FTPに関するさまざまな制約つきです。

 それだけでなく、今ごろ気づいたこともありました。「日本中小企業学会ページ」を置いたASAHI-netというのは、妙なことにこだわりがあって、そのアクセスポイントに直接ダイヤルアップ接続していないと、FTPができない設定なのです。他のプロバイダやネットワーク経由では、メイルの読み書きは自由にできても、FTPはできないという、不思議なしくみです。このことが、後々このページの管理に響いてくることになりました。


 それは別として、「ネットワーク時代」突入をすでに宣言した身としては、日本を離れても、常に情報ではつながっている体制がほしいし、また必要でもあります。そのために、数々準備をいたしました。前年冬に、欧州へ行く機会があったため、「予行演習」をしてきました。うえにも触れた、そのために買い込んだ新モーバイル機SOTEC Winbook Trim 133 という、当時の最軽量機を持参、国外の電話回線でもモデム接続でインターネット接続ができるか実験してみたのです。

 その結果、少なくとも英国では、周知のようにモジュラープラグの形状が違うものの、変換プラグを介すれば、国内と同じダイヤルアップ設定で、十分プロバイダにつながるとわかりました。その辺でよせばいいのに、ついいい気になって、滞在先ホテルからさまざま情報発信やメイル受信などしていたら、チェックアウトのときの電話代請求にびっくり、宿泊代に匹敵するくらいの額になってきたのです。ホテルのフロントもちょっと動揺したようですが、事実なんですからしかたありません。それだけ日本のプロバイダ宛(大学のサーバ宛も含めて)に国際電話回線でかけちゃったのです。



 この手痛い出費からは、いくつか教訓がありました。当たり前のことですが、世界中どこから、どこへででもつなげられるインターネットに、自分の母国宛の電話回線でつなぐなんていう馬鹿そのもののことを、絶対もうやっちゃあいけません。もちろん、「ホテルの電話」なんて、初めから割高なチャージのかかっているものには触れるべからずです。

 このときはまだ、海外で接続できる日本のプロバイダというのに入っていませんでした。ASAHI-netはこの点でも遅れていて、ようやく北米大陸に海外アクセスポイントを設けはじめただけでした。不便この上なしです。

 そこで、まず、「欧州にアクセスポイントを持つプロバイダ」を探し、信頼できそうなところで、KDDがやっているKCOMに加入しました。ただし、もちろんKCOM経由で国外での接続ができるかどうかは、まだ実験ができません。これはあとで一騒動につながりました。


 それからこのとき、在外研究での滞在先となる、英国キングストン大学中小企業研究センターに寄ってきて、挨拶と顔見せがてら、情報事情を視察してきました。あんまり大したことなさそうというのが印象でしたが、ともかく学内LANが整備されています。ですから、自分の持っていくモーバイル機をLAN接続できるようにしようと、まず考えたのです。大学設備のPCの利用はあまり当てにしない方がいいとも思いました(もちろん、日本語では動いていないんですから)。

 折から、TDKのカタログで、私の目的に最適のような製品を見つけました。モデム・LAN両用で、しかも「世界各国対応」というモデムカード、これはいいと、まず買ってみたのですが、参ったことに、Trim133にはインストール自体ができないのです。インストール中にハングアップするというどうしようもなさで、ついにあきらめました。

 まあ、先の経験にもとづき、別に国内規格でも十分つながるはずと、これと交換してもらったのが、LogitecのLPM-LAN/FM3という、やはりLAN・モデム両用のカードです。両方のケーブルがだらだらっとついたままというのはちょっと気に入りませんでしたが、ともかくインストールはすぐでき、国内でのテストで、モデムでもLANでもちゃんとつながると確認しました。


 かくして、海外からのPC利用とネットワーク接続体制を整え、英国はロンドンへ向け、旅だったわけです。その装備は、

 といった陣容でした。




いよいよ「異国」、相次ぐトラブル


 着いてすぐに、仮住まいのホテルの一室から一騒動です。早速にKCOMのロンドンアクセスポイントへの接続を設定してみたのですが、どうしてもつながりません。やむなく、日本国内のアクセスポイントを試してみると、これがつながるんです。それじゃあ、前回の高い授業料の二の舞です。「切れ」そうになりました。さんざん調べて、これも、実は海外アクセスポイントへの接続方法は国内のものとは違う(接続アカウント名をはじめ)と、KCOMのホームサイトの記述ページからようやく探し出したのです。実は、出かけてしまったのち、KCOMの「ご加入感謝・案内書」が送られてきていて、そこに海外アクセスポイントへの接続方法も詳しく載っていると、あとから判明した次第です。遅いんだよ!

 ともかく、住まいも決まり、電話回線でのインターネット接続もできるようになって、メイルも読め(大学のメイルサーバ宛のメイルをすべて、KCOMのアドレスに転送されるようにしてきたのです)、ほぼ順調に滑り出しました。ただ、滞在先大学へ行って、一つの勘違いがあったことが判明しました。そこのLAN端末のPCはいずれも古いだけじゃなく、もちろん日本語環境にはないだけじゃなく、驚くべきことにみんなWINDOWS Ver.3.1 で動いていたのであり、WINDOWS95は一つも使われておらず、しかもバージョンアップも実際には不可能だったのです。その上で、DOS時代のメイルソフト(Pegusas Mail  -わが「駒」澤大学は、「ペガサス」のイメージを売っているから、まんざら縁もなくもないか)が動いていたりするすさまじさで、相当に勘が狂いました。

 実は、この大学のPCを日本語環境化してしまおうと、ひそかにその準備も整えてきていたのです。WIN3.1というのもある程度すでに知っていたから、日本語版WIN95に変えてしまおうという陰謀を計画していたのですが、使えると割り当てられたPCが古すぎ、だいいちCD-ROMドライブもついていない状態で、なんにもできません。もしOSを書き変えられても、CPUなど古すぎて、とうていWIN95は動いてくれなかったでしょう。

 困りました。この状態で、なにも変更はできないと、結局「英文書きワープロ」と、非日本語圏のWEBページのブラウズ以外、このPCの使い道はなくなってしまいます。もちろん、せっかくLANからインターネットにつながっていても、日本語のメイルのやりとりはできません。そうと覚悟すれば、古いフロッピーを引っぱり出して、せめてもWIN3.1日本語版と、これに対応する「一太郎6」や、「Lotus」や、その他のソフトを担いでくるんでした。


 それでも逃げ道は、持ってきたモーバイル機Trim133です。これはもちろん日本語WIN95で動いていて、うえに書いたように、LAN兼用モデムカードを持ってきているのですから、大学のLANにもつながるはずです。そう考え、ともかく学内ネットワークのアカウントをもらい、LAN接続を試みました。でもIPアドレスやDNSナンバーなどの設定条件をまったくもらっていないし、このWIN3.1でのネットワーク接続の設定はとんと分からないので(もともとWIN3.1のネットワーク設定というのはうまくできていないのはご存じの通りです -ネットワーク時代以前のものだから- 。おまけに、この大学のネットワークサーバは、Novell Netware という、奇怪なやつで動いており、端末もこれがインストールされていて、その接続設定にいたっては、当方全然知識がありません)、詳しそうな研究生に来てもらって、設定条件を探り出してもらい、そいつをぶち込んだところが、ちゃんとつながりました。

 それでまあ一件落着じゃないかと言いたいところですが、そうもいきませんでした。まず、このLAN接続設定とモデムでのダイヤルアップ接続設定の「共存」はしばしばトラブルを招き、どっちかがつながらず、さんざん苦労をして、初めから設定をやり直すといったことがしばしばおきました。その「原因」は実際にはほかにもあったようなのですが(ケーブル・ジャックの問題や、カードの初期化の問題など)、なにか基本的な無理があるようにも感じさせました。そして、これをいじっているうちに、設定ドライバの一つを誤って消してしまい、設定の条件がわからなくなってお手上げになるといった事態もおこり、学内サーバのアドミニステレータ側のサポートを仰がなければならなくなりました。

 そういうやりとりの中で、だんだんわかってきたことは、どうも、管理者側は私が自分のPCでLANにつなぐのを好ましく見ていないという事実です。当方の「聞き取り」能力不足もあって、はじめよくわからなかったのは、私が経験してきたように、各接続端末にそれぞれIPアドレスを与え、これと自分のアカウント名によってつなぐという「Hard wired」な接続を認めていないという事実だったのです。

 この辺の詳しい事情と、対応策は、あとで書く、新鋭デスクトップ機を入れてもらい、それに日本語WINDOWS95をインストールしたのちの話になります。



 ともかく、自分のモーバイル機を毎日もって歩くのも「うざったい」し、そのつど線などつなぐ手間もばからしいし、机の上のPCがなんの役にも立たないまま鎮座しているのもいまいましいので、いろいろ考えました。思いついたアイディアは、この一年間、もうちょっと快適に過ごすために、自分用のデスクトップPCを買ってしまおう、そいつに日本語WIN95と日本語ソフトをインストールし、自在に利用しようという考えです。円安ポンド高下の英国での出費は痛いですが、ジャンクショップや安売り店の広告を調べてみると、WIN95対応、CD-ROMドライブつき、ディスプレイつきのが、型落ち品なら£500くらいで買えます。それなら、一年で捨てていっても惜しくはないと考えました。

 でもこのアイディアを、滞在先のキングストン大学中小企業研究センター所長のロバートに話したら、彼は反対しました。そんなに困っているのなら、新品を買う、というのです。当センターにおカネがありあまっているとはとうてい思えないので、それじゃあなお申し訳ない、ただでさえ迷惑をかけているのに、と申しましたが、いいから買う、気にするな、と言い張るのです。少なくとも、彼は「日本語環境」の必要性を理解してくれたようでした。

 この厚意に甘え、新品PCを買ってもらうことにしました。これもあとになってわかってきたことでしたが、ロバート自身、新品のPCがほしかったようです。そして、他のセンタースタッフも、日本人が勝手なことを求め、よけいな出費をかけているという受けとめ方ではなく、この機会に新しいPCが入るんならありがたいじゃないの、と考えてくれたようでした。

 ともかく、ロバートの英断をもって、4台の新型PCがすぐ発注されました。もっとも実際に現物が届いたのは、それから2ヶ月近くすぎてからのことでしたが。




異国のPCの「日本語化」

 さて、ようやく届いたのは、Research Machines という名前のついた、ミニタワー型のPentiumU機です。誰も聞いたことない?実はニッポンとは大違いで、パソコンなんて、適当にガレージで組み立てて売るもの、というのがこの国の「常識」なのです。もちろん、Compaqだ、IBMだ、Dellだ、Packard Bellだといった「有名メーカ品」も出ていますが、こういうのは一般に割高で、なかなか手が出ません。そのかわり、一般の「量販店」をはじめ、さまざまな店や「メーカ」、通販業者などが、いろいろな名前をくっつけて、実にさまざまな製品を売り出しているのです。中身は、要するにあっちこっちの部品の寄せ集め、「自作パソコン」に近いようなものです。パソコンって、そこまで来ているんです。

 当大学は、このRM社という、大学や学校向けに情報機器を卸しているところの得意先のようで、新旧いろいろ転がっています。この私が使えるようになったミニタワー機は、PentiumU266を用い、ディスプレイはATI製、CD-ROMドライブは日立製、サウンドカードはSound Crystal Semicondactor製、ネットワークカードは3COM 製Fast Ether Link と、なかなかにぎやかです。ディスプレイには、ステレオスピーカもついています。でも、肝心の本体をなんと呼ぶのか、未だにわかりません。RM T-series ということぐらいなのです。


 このマシンにとり組む前に、実はすでに、PCの日本語環境化の「実習」をやりました。知人が、もっているPC(近くのパソコンショップの組立品)でどうしても日本語を使いたい、日本語のメイルのやりとりをしたい、というので、じゃあそれをお助けしましょう、となったわけです。ここから先は、あまり大きな声じゃ言えないのですが、前記のように、自分なりの日本語環境の整備を考え、日本語版WIN95と、日本語ソフトをいくつか、Netscapeを含めて、持ってきていたのです。

 懐かしの98時代とは違い、現在の日本語環境は基本的に、OSが備えています。ですから、ハードはどこ製だろうが同じなのでして、それはプリンタにいたるまで同じ、昔のように「日本語プリンタ」は日本語文字のキャラクタを自前のROMで持っているわけじゃあありません。いまじゃ何語の文字だろうと、キャラクタじゃなくてページイメージで印刷されています。どこのプリンタもこれまた同じように使えるのです。

 そのくらいですから、本来PCの日本語化などというのは造作もないことです。要するに、いま動いているOSを、日本語版のOSで上書きしてしまえばいい、これだけのはずなんですな。

 ところが、敵もさるもの、そんなことをやたらやられちゃ困ると考えているのか、WINDOWS95を日本語版WINDOWS95で上書きしようとしても、なにかトラブるようになっているらしいのです。もちろん、それがダメなら、次の手があります。手間と時間はかかるけれど、いったんハードディスクを全部消去し、初めからインストールをやり直していく(エイゴでfrom the scratch と言う)のです。知人宅のものはこの手で対処しました。

 RM社製の新品も、知人宅のものと同様に、WINDOWSの書き換えはうまくいかず、ついては異常動作になって、そのドライブからは立ち上がらなくなる、という、一瞬青くなる事態となりました。しかし、あくまで「借り物」のPCであり、この上のファイルをOS毎消去してしまうのはちょっとまずいとも思えるため、「再インストール」の手はとらず、幸い同サイズ確保されていた空きドライブに、日本語WINDOWSからすべてのシステムを再構築することにしました。これはなんとかうまくいきました。

 すべて消去・再インストールだろうが、別ドライブに新たにインストールだろうが、この手を使うには、近ごろのようにやたらおまけのソフトがインストール済みでついてくるのはかえって迷惑です。そのバックアップディスクがついてなけりゃあ、もうあきらめるしかありません。

 それよりも大事なのは、周辺機器などのドライバソフトのバックアップです。ご存じのように、WINには「基本矛盾」がありまして、WINの再インストールなどをする場合、そのバックアップ用ディスクを動かせる、CD-ROMドライブ用のドライバがないと、どうにもお手上げになります。それはこれからWINでインストールするところ、というんじゃ、そこで、はなしの「落ち」になってしまいます。これを防ぐため、通常WINを初めて起動する際、必ずバックアップ用起動ディスクをフロッピーで作っておくよう、書かれています(フロッピードライブはOSのみで動きますから)。そこにOSの基本的なファイルとともに、CD-ROMドライブのドライバが保存されるようになっているのです。

 ただし、これはCD-ROMドライブの種類によって、ドライバソフトが違っている場合もあるので、さあこれから再インストールで行くぞ、という際には、まず事前に、バックアップ起動ディスクのドライバでCD-ROMドライブがちゃんと動くかどうか、確認が必要です。それから、起動ディスクではAUTOEXECが設定されていないことが多いので、放っておいても動き出してくれず、これはダメかと焦る場合もあります。簡単なことで、懐かしのMS−DOS時代同様、コマンドプロンプト状態で、必要なファイル名をキーイン・実行すればいいのです。



 さて、その再インストールにかかってしまう前に必要なことは、周辺機器のドライバソフトのバックアップディスクが全部あるかどうかの確認、そしてそれぞれの設定状況の確認です。ただインストールし直せばいい、ていうもんじゃないので、コントロールパネル中の「システム」ですべて、その所在やドライバファイル名、それぞれのプロパティをよく見て、必要なところはメモしておくことが肝心です。そうでないと、あとで周辺機器が動かないなんていう、悲惨なことになります。

 知人のところのPCは、幸いすべてのドライババックアップディスクがそろっており、時間はかかりましたが、全部インストールし直せました(ジョイスティックドライバは忘れたかも)。RM社のやつはどういうわけかサウンドカードドライバがついておらず、案の定サウンド機能が動きません。これはRM社に問い合わせ、Webサイトからのダウンロードでドライバを入手しましたが、初めなぜかこのダウンロードページがアクセスできない状態が続いていたうえ、このドライバをインストールしても、いまもって、なぜかサウンドから突如ハングアップするという事態がおこります。ですから、サウンド機能を基本的に止めてあります(そのくらいは我慢すべきでしょうか)。

 また、RM社のでは、イーサーネットワークカードが動かず、焦りました。これは、WINDOWS95をカードなしの状態でインストールし、その後にカードドライバをインストールしなければならないと判明しました。考えてみるとよくあるトラブルですが、WIN95のPnP機能による「自動検出・自動セットアップ」は危ないので、マニュアルインストールをしていかなければならなかったのです。WIN95のインストール時にネットワークカードがすでに入っていると、勝手に検出し、勝手にインストールをはじめ、それが間違いであるとなるわけです。



 ここまでやれれば、時間はかなりかかっても、日本語機能はOKとなります。残った問題は、キーボードです。いくらうまくやったつもりでも、キーボードには日本語かな文字はもちろん書いてないし、同じ106キーボードでも、JISの日本語仕様と、外国製とはいくらか違うようです。後者は本来「101キーボード」と呼ばれていますから。

 この問題は、キーボードの設定を変更してもうまくいきません。一番違うのは、@と”とが入れ替わってしまうこと、¥、#などがずれることです。

 不便なのは、日本語入力可能状態の切り替えが、ソフトで指定されているように、キー操作で簡単にはできないことで、基本的にはタスクバー上の表示を、マウスでクリックして切り替えるしかありません。一般のソフトでは、立ち上がっても自動的に日本語入力可能状態にはなりません。そういったところは、本来日本語用にできていないのを、無理に使っているんだからと堪え忍んでいます。

 近ごろは、日本語仕様じゃないWINで動いているPC上で、日本語を使っちゃう離れ業ができるソフトというのもあるらしいのですが、まあ若干邪道じゃないでしょうか。




これがイントラネット

 ともかく、知人宅のPCで実習経験済みなので、うえのように、システムドライブから立ち上がらなくなるなんていうこともおこったものの、比較的落ち着いて新しいPCの日本語化をすすめられました。やはり日本語環境で、デスクトップでの作業をできるのは快適なものです。

 ところが次の問題が、懸案のLAN接続でした。いままで使ってきた、モーバイル機の接続設定を入力して、ひとまずつながるようになったのですが、以前同様にトラブルの不安が残ります。特に、ネットワークにはつなげられても、その外へ出られない、つまりインターネットには接続できない事態がおこるのです。

 そのさい、「The system has detected a conflict for IP address * with the system having hardware address *. The interface has been disabled.」という警告がいきなり表示されます。この原因をスタッフに聞くうちに、上記のように、「hard wired ログインは許されていない」という事実が判明したわけです。

 困りました。要するに「非合法」のLAN接続なんですから、それ以上のフォローは期待できません。私のセットアップは、Novell NetWare のネットワーククライアントとIPX/SPX互換プロトコルを用い、ネットワーク接続をしているわけですが、インターネットに対しては、TCP/IPプロトコルで、IPアドレスなどを指定してつなぐほか知りませんし、実際ほかのやり方はそのままではサポートされていません。商用プロバイダへのダイヤルアップ接続の際も、たしかにIPアドレスなどは自動的に割り振られるわけですが、これとは全然状況が違います。

 結局解決方法は、管理スタッフの手で、Novell LAN Workplace Pro. for WINDOWS というネットワーク接続ソフトをインストールし、設定してもらうことでした。これでないと(MS-DOS機やMacを含め)、本来LANにはつなげないというネットワーク設計なのです。その際、「うまくいくかどうかわからん、最悪当方でWINDOWSを再インストールすることになる」などと脅されたので、それじゃあ日本語環境を使いたいという私の希望はまったく無になってしまう、このPCの存在価値がなくなってしまうと抵抗したのですが、なに、ある朝来てみたら、彼らが私のを含め、新品PCを盛んにいじっていて、そして簡単にNovell LAN Workplace のインストールと設定は終わってしまっていたのです。そして、今度はちゃんと、「soft and flexible」につながるようになりました。日本語WINDOWS95や他のソフトにも何ら異常ありませんでした。


 解決してみると、実にあっけないようなことで、これまでの大騒ぎ、トラブル対策の繰り返しはなんだったんだという気もしてきます。まあ、これも経験のうちと考えるしかありません。そして、このNovell LAN Workplace は、Novell IntranetWare Client を設定・使用するようになっており、またTCP/IPとともにIPX32-bit プロトコルが用いられています。これらの細部の設定は実に複雑怪奇で、やはり素人が自分で簡単にいじれる代物じゃありません。第一、このNovell LAN Workplace というソフトがいくらぐらいするのか、雑誌のカタログを見て驚きました。500ポンド以上(10万円以上)するのです。要するに、ネットワーク全体で用いるセットで売られており、個々の端末用なんていうのはないのです。



 このように、「正しい設定」では、イントラネットに接続するようになっています。その構造などは素人の私にはよくわかりませんが、このキングストン大学のビジネススクールを単位として、一つのサーバが管理しており(その名を「GALILEO」と言う)、これらのサーバ間のネットワークで、大学全体が構成されているようです。このGALILEOにつながる端末も相当数あるようですから、たしかにプロのスタッフのお手を煩わせず、勝手なことをするわけにもいかないでしょう。

 イントラネットである以上、自分のところのネットワークサーバと、そのメイルサーバと、あとはインターネットへの接続だけというんじゃ、本来もったいないのでしょう。他学部のサーバ、さらには図書館の情報等にもアクセスしてフル利用するべきなのでしょうが、そんな機会もなかなかありません。

   



         (1998年10月30日現在)


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 帰ってきました、ニッポンへ



 うえの話しを書いてから、もう半年も経ってしまいました。


 ともかく、「本業」に戻らなくちゃいけませんので、新年度を期して帰任、当然のごとく、浦島太郎気味です。

 インターネットのおかげで、情報にほとんどズレはないものの、やはり、帰れば「カルチャーショック」です。また一変する生活環境と生活そのもの、それ以上に、今回は、米英・NATO軍のセルビア侵略開始という、深刻な出来事を背景にしながら、それに追われるように、英国を離れたのですから。インターネットは、いまじゃあ殺人と環境破壊・文明破壊の「リアルタイム情報」を伝える場でもあります。これは、あらゆる「西欧幻想」をうち砕いてくれただけでなく、こういった残忍卑劣な「西欧」の経済社会というものを自分の研究対象にしてきた、とりわけそこに暮らしたこの一年間は、いったい何だったんだろうという、いささかの虚脱感も、否応なく感じさせてくれました。

 だからといって、この全世界に対する最悪のテロ攻撃には、結局、クリントンやブレアらへのテロ反撃=天誅しかないのではないか、という「感情論」ばかりに走るわけにもいきません。それでは、この輩どもと同じになってしまいます。私たちは、「理性」をもって「現実」を生きていくと、心に誓ってきたはずです。
 でもまた、こういった人類の敵の「世界テロ支配」の野望に対しては、その実態と弱点、矛盾をありのままに研究し、「科学」の目をもって、その足元を掘り崩していくという、「冷静なる」判断が、本当に役に立つのか、疑問にもなります。だいいち、その前にこっちの生命が危ないのじゃないかという、焦りも感じずにはいられないでしょう。

 こんな風にして、かなり気が重い毎日なのです。



 それはさておき、日本へ帰ってみてびっくりなのは、まず、LCDディスプレイの全盛なこと。大学の事務でさえも、どこもこのスマートなやつが並んでいます。場所をとらないのはいいな、とも思えてきます。まったくもって、贅沢な国です。

 デジカメもいよいよ大流行、これを使って撮った画像を、PCでも処理せず、直接プリントアウトするという、いかにも日本的なインベンションのプリンタが、あちこち出てきています。これじゃあいよいよ、写真屋さんは大弱りでしょうに。実際、200万画素なんていう、信じがたいようなのが、もういくらでも買える値段なのですから(ちなみに、こうした日本製品独壇場のものは、英国では日本の倍くらいの値で売られていました。この「ポンド高」なのに、です)。

 その一方、やはり予想通りに、あまりに激しい価格競争で、もうデスクトップPCは商売にならなくなりつつあり、そこを、ガレージ組立品のような、ノーブランドやストアブランド製品が埋めつつあります。やっと欧米並の状況が出てきたわけで、SOTECはじめ、大手メーカも含めて、PCの通信販売も定着してきたようです。

 安くなった分、ユーザには有り難いけれど、そのうちほんとに、PCの完成品は入手できなくなり、欲しい場合には、部品指定でオーダーするか、部品を集めてきて、自分で組み立てるしかないようになるかも。

 モーバイルもようやく本格化してきたようです。WINDOWS CE 搭載機がこの勢いを強めているようです。でも、まだ何か中途半端に高かったり、余計なものを盛り込みすぎだったりしますね。ホントのモーバイルとはどういったものが必要なのか、よくわかっていないのです。

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