9時25分発の電車、11時前に羽田着。駅までの間、傘を差さずにすんだのはラッキーだった。

 12時発ANA63便にて13時半千歳着。・・・(後略)・・・(6/30/2009)

 横須賀市長選は意外な結果になった。小泉元首相がリキを入れて応援し再選をめざした現職が33歳の若造に負けたのだ。敗れた現職は自民・公明のみならず民主までもが推薦していた。負けて悔しい菅義偉自民党選対副委員長は「小泉さんが応援したというより共産党以外の政党がみんな現職を応援していましたから。世代交代の雰囲気がいろんな地方選挙で続いている」などと評論家のような口ぶりだったそうだが、自民党はそれでよくとも小泉の心中は穏やかではあるまい。世襲させる進次郞の前哨戦のつもりで首相就任以来なかった地元街頭演説にも立ち、「よろしく」コールを繰り返していたにも関わらずの惨敗だったのだから。

 昨年来の経済の暗転の中で露わになった「世の中の悪いことすべて」は、なにもかもすべて「コイズミさんのおかげです」というのが、いまやこの国の「ジョーシキ」になりつつある。地元・横須賀でコイズミの神通力が消え、「アキの風」が吹き、かえってその応援が「ジャマ」になってしまったという事実に対する正確な認識を持たず真摯なコメントを出せなくては自民党もおしまいだ。知将・菅にそういう認識はあったのか。

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 やっと一眼レフ型の方のデジカメ充電器が出てきた。着替え、洗面用具、薬、・・・などパッキング終了。旅行前には準備段階から始まって出発までの間にいろいろな山と谷があるが、最後の谷を過ぎてエネルギー準位が励起状態の極に向かいつつある。

 天気予報がさえない、明日から雨フェーズらしい。美瑛の丘を見る予定のあさってが傘マークなのが気になる。前回のときも曇ベースだったが、最悪でも雨だけは勘弁して欲しい、と、これは希望。「・・・そこは苦しい時だけの神頼み、もしももしもできることでしたれば、なんとか良い天気をちょうだいませませ・・・」(6/29/2009)

 しばらく打ち棄ててあったカメラ、充電ユニットが出てこない。とにかく充電器が多すぎる。常時接続している電話子機の他に、携帯、デジカメ、iPod、ポケットラジオ、シェーバー、ワイヤレスマウス、ノートPC。スタイルはいろいろ。コンセントに直接差して、それからコードが伸び出ているもの、普通の器具のようにコードの先のソケットをコンセントに差し込んで使うもの。自己主張が強いというか、とにかく統一がない。小引き出し一段ぐらいはこれで占有される。何用の電源なのか書いてないものが多いから、もう何年かしたらラベルをつけて書いておかなければ分からなくなるだろう。

 けさから旅行に備えてデジカメの充電器を探している。所沢で使ったきり、この家に越してきてからは使っていない。リスニングに積み上げた引越荷物のどこかにもぐり込んでいるはず。心当たりを開梱しているうちに戸籍謄本が出てきた。**(父)さんから**(母)さんへの相続の時にとったもの。きちんとした遺言書がないばかりにえらい苦労をした。改製原戸籍がある。**(祖父)さんが戸主になっているもの。**(祖父)さんの先代・**(曾祖父)さんが戸主になっている除籍簿も。**(曾祖父)さんは***(高祖父)さんの代に下飯坂の家から養子として迎えた人と記載されている。**(父)さんが「下飯坂のおじさんもひどい」と言い、**(祖母)さんが謎の表情をしていた時のことを思い出した。ひどいというのは松川事件の最高裁判決のことだった。被告の有罪を最後まで主張したことで有名な裁判官。その人が遠戚であるらしいことと、あのときの**(祖母)さんの微妙な表情は、いまに至るまで頭の片隅に引っかかってきた。

 「判事の家」という小説を本棚から引っ張り出した。「戦後最大の冤罪事件・松川事件で死刑を主張した判事の家がその後たどった数奇な運命」というコピーに引かれて、ちょっと前に買っておいた本。中に「益雄の父親は仙台の繁華街の医院で雇われ医者をしていた。さして裕福な家庭ではなかった。1894年(明治27年)、益雄はその町医者の家に、虚弱児として生を受けた」とある。除籍簿には**(曾祖父)さんは下飯坂**三男となっていた。**(祖父)さんは1883年生まれ、従兄弟とすれば、**(曾祖父)さんの弟(とは限らないが)は医者だったことになる。もう少しきちんと**(父)さんに聞いておくのだった。

 拾い読みのつもりがそうはならず、肝心のデジカメ充電器捜索はどっかにいってしまった。片付けなければならないことがある時に限って、何かしらワナに落ちるのは散漫な性格の故か。(6/28/2009)

 九段下でSBI証券の無料セミナーを受講。テーマは「景気サイクルから読む、今後の世界経済と相場見通し」。ゆうゆうつくはずが大泉で人身事故とかで池袋線が大幅に遅れ5分の遅刻。最近、西武線は事故が多くなった。以前は沿線火災など他責のものが中心だったが、自責のものが増加している。

 セミナー内容はいくつかの景気先行指標をウォッチして先行きを読むことができるということと、四つの景気循環周期を念頭にそれらの波の合成として中長期の景気変動を見ることができるということの2点。これに演習として、景気動向指数のうちDIを使って対前月比1.5ポイントの差が出た時、自動的に「日経平均株」を売買したらどうなるかというシミュレーションを行う。05年1月からスタートしてきょう現在まで、現物売買のみで6,219円のゲイン、信用売りを併用すると17,227円のゲインが得られる。すごく分かりやすくて、質問も出ない内容だった。

 お昼には終わり、久しぶりに神保町界隈の古書店を覗いてみた。かつての雰囲気はない。こちらが変わってしまったのか。これなら単なる読書好きはAMAZONでかなりのことが足りてしまう。個性的な品揃えに面白さがないようでは店に足を運ぶ意味はあまりないだろう。もちろん稀覯書狙いならばまったく別かもしれないが。

 いつかの日本思想大系のような掘り出し物はなくて新刊屋へ。エマニュエル・トッドの「デモクラシー以後」が出ていた。タイトルも、書き出しも、扉に引かれた言葉もいまの気分にピッタリで、もうしばらくは買わないつもりがまた買ってしまった。トッドはこう書き出している。

 ニコラ・サルコジがフランス共和国大統領になるなどということが、どうして可能になったのか? わさわさとして、喧嘩腰で、自己中心的で、金持ちが大好きでブッシュのアメリカのファンで、経済にも外交にも無能なこの男は、それにしても内務大臣の頃、国家元首の職務を遂行する能力に欠けることを、われわれに見せつけていたのだ。

 パラパラ読みしたところ、この本はもっぱらフランス国内の事情について、しかも感情的とも思えるほどの激しさで書いているようだ。しかしおそらくその事情は形を変えて、いまのこの国にも当てはまることばかりなのではないか。

 「デモクラシーは最悪の政治形態だ、ただしこれまでに試みられたあらゆる政治形態を除けば」という言葉があるが、まさに「ウィンストン、ウィンストン、あんたの時代はよかった」だ。なぜなら、それでも民主主義は自明にピカピカでいられたのだから。(6/27/2009)

 朝からマイケル・ジャクソンの訃報に大騒ぎ。ソロシンガーとして頭角を現したのは80年代初め、ちょうどいちばん仕事に忙殺されていた時期に重なる。すれ違ったコンテンポラリーの一人。

 **さんの送別会があるはずだが、時間、場所の連絡が来ない。なにかの事情があって、出席メンバーを現役メンバーに限定したくなったのかもしれない。そうだとするとあえて問合せをされても困るだろうと遠慮した。なにより、**流にいえば、期待されながら「金の卵を産まなかった(あるいは孵化できなかった)人」の一人。お世話になったとはみじんも思っていないのだから、出ない方がかえって礼を尽くすことになるような気もしないではない。

 ちょっと宙ぶらりんの気持ちでまとまったものは読む気になれず、先日買ってきた中野京子の「怖い絵3」を手に取った。あいかわらずの面白さ。こういう本は困る。面白いからどんどん読み進む、読みながら読み終えるのが惜しくなる、そのくせ、「やめられない、とまらない」の「かっぱえびせん」状態で、あっという間に読み終わってしまう。

 あとがきが衝撃的だ、「シリーズ完結編です」とある。「いやだ~。半年にいっぺんなんてわがままは言いません、せめて二年にいっぺんでもいいですから、続けてください」と、ファンレターを書こうと思った。思いながら、「シリーズ」というところに目がいった。「そうか、これはきっと『変な絵シリーズ』、『デジャヴな絵シリーズ』、・・・などなどのシリーズが続々と企画されているんだろう」。こうなるともう完全な合理化機制だ。こんな気にさせる本なんて、星新一のショート・ショート集、團伊玖磨のパイプの煙シリーズ、・・・以来だ。(6/26/2009)

 おととい、自民党の古賀選挙対策委員長が宮崎県の東国原英夫を訪れて、次の衆議院選挙に自民党から出馬して欲しいと依頼した。劣勢を伝えられる総選挙状勢に目玉を作ろうと思ったのだろうが、東国原の答えはふるっていた。「私が次期総裁候補として、次の選挙を、自民党さんはお闘いになるお覚悟があるかということ(ママ)」。(「知事会でまとめたマニュフェストを一字一句違えずに盛り込んでくれるなら」とも付け加えたようだが)

 まだ国会議員になったことさえない人物の言葉なのだから、これは体のいいお断り以外のなにものでもないはずだが、マスコミは飛びついた。そしてコメントをとりまくった。同格とみなされている大阪府知事・橋下のコメントは「エッ、しゃれでしょ。・・・・まじすか。・・・そりゃ、スゴい、スゴすぎますね」。まあ、これがまともな反応というものだろう。ウィットのある「ノー」ということ。

 ところが面白いことに、自民党関係者の半分以上は初手から「ノー」と受け取らない反応を示した。現在の総裁、麻生にしてからが「知事がおちょくったような気持ちで言っておられるとは思わないが」と枕してから、「コメントのしようがない」と答えた。唐突な質問への第一声こそが率直な気持ちだ。麻生にはもはや心の余裕がないこともこれでわかった。

 数々の自民党関係者のコメントの中でいちばん皮肉の効いたものをひとつ。「自民党に新しい血を入れないといかん。わたしもそういう部分はあると思う。けれど血液型が違ってはいけない。輸血は血液型があわないと頓死しますよ」。伊吹文明の言葉だ。あわせて、もはや自民党は輸血なしには延命できないと自認していることが問わず語りに分かるところもまた秀逸。

 ともかく、自民党内のほとんどの有力者が瞬時に「東国原に意欲あり」と「正確に」受け止めた。それはおそらく東国原に「色気」がないわけではないことを知っていたからだろう。去年の秋、中山成彬が国交相を辞任したついでに「次の選挙にも立候補しない、後継は東国原さんにお願いしたい」と宣言した時、東国原はいったん引き受けるとテレビインタビューに答えた。すると県庁には「辞めないで」という嘆願から「無責任極まる」という激しい批判まで電話・メールが相次ぎ、反響の激しさに怖じ気づいた東国原は早々に発言を撤回した。多くの自民党関係者はそれを思い出したのだ。

 発言から丸二日たって東国原の「本気」はよく分かった。前回の反省もそれなりにはしたようだ。きょうあたりの「宮崎のために、地方自治のために、総裁をめざすのだ」という言い方は、彼を支持している単細胞の方々にはややわかりにくい言い方だが、前の轍を踏まぬように考えた言葉だ。(それでも県庁に寄せられる意見の80%は「反対」の由)

 東国原はドッグ・ブレインだから県知事から代議士を飛び越えて総理までの出世物語をドッグ・イヤー感覚でこなすことが可能であるように思えているのだろう。きのうの朝刊からその言葉を拾っておく。

 「宮崎だけじゃなく全国の地方に軸足をおいた政治をやりたい」、「自分は47人の知事の1人ではない」、「(衆参両院議員の)722分の1の一年生議員になろうとは思わない」、「自民党をどげんかせんといかん」、「初当選、初入閣が確実でない限り、国政には行かない」、・・・。これらの言葉からは「オレは大物になるぞ」という決意はビンビン伝わるが、そこに「国家百年の大計」を心に秘めた空気はうかがえない。

 汚職知事が辞めた真空を瓢箪から駒で埋めた幸運にあずかったのはわずか2年半ほど前。たったそれだけのキャリアを背景に「ビッグ」をめざすタレント感覚で「宰相」の座を意識してしまうことができるようになったのは、安倍、福田、麻生と、能力を欠き、意思を欠き、知性を欠いた宰相が三代続き、総理大臣の椅子が低くて安いものになってしまったからに違いない。

 安っぽい国、日本、わが祖国よ。そして安っぽい人々、選挙民、わが同胞よ。向こう向きのオットセイは密かに自嘲する他ない。(6/25/2009)

 朝、出る時はまだかなりの降りだった。日医検診センターで検査結果の対面説明。手違いで予約時間が30分ずれていた。たぶん大病院の関連施設はこういうことにクレームをつけられたことがないのか、窓口はあっけらかんとしたものだ。所要時間が見切れるはずの検診部門に「オンスケジュールで運営してナンボ」の意識がなくてどうするのだ。なんのための予約時間か。

 画像を見ながらポイントの説明がある。年齢以上にCT映像はきれいとのこと。意味は分からぬながら誉められた気分。痛みについては「逆流性食道炎」の可能性、現状の漢方療法で経過を見てはとのこと。痛みの頻度が上がるとか、別の自覚症状が出るようであれば、センターに連絡を取ってくれればと名刺を渡された。商売はなかなかうまい。

§

 毎日のサイトに、いまや副総理格の与謝野馨と既に自民党を離党した渡辺喜美が後援団体として届け出でしていた政治団体がオリエント貿易とその関連計5社が企業献金をしていたダミー団体であったことが判明したというニュースが載っている。記事によると、このダミー団体は92年から05年の間に与謝野に計5,530万、95年~05年の間に3,540万を「献金」しており、代表はオリエント貿易の社主・加藤幸男、会計責任者は関係会社の社長、事務所はオリエント貿易の東京支社に置かれていたとのこと。この後援団体への寄付をしたのは5社の幹部社員約250人となっているが、彼らは給与から総計4,000万円が天引きされ、会社は寄付控除を受けさせていた。

 西松建設-小沢の関係そのまま(この報道では天引き分を別途補填していたかどうかが分からないが、幹部社員が誰も文句をつけなかったところを見ると、おそらく補填していたのだろう)ではないか。可笑しいのは与謝野と渡辺の釈明も小沢とまったく同じということ。与謝野「どのように資金を集めていたのか全く知らない。知っていれば初めからもらわない。・・・きちんとした扱いの献金であり、返却することはない」。渡辺「個人から集めた資金を用いて政治献金を行っている団体と聞いており、その説明に疑念を差し挟むような事実はこれまでなかった」。あえて違いがあるとすれば、渡辺は「今後の対応は相談のうえ適切に対処する」と、場合によっては返金するニュアンスを含めているかどうかということぐらい。まことに政治資金規正法のザル規定にしたがった模範的かつ完璧な釈明だ。つまり「迂回献金」であることは自明でも、「収賄側」の政治家が「そんな裏事情があったとは知らなかった、すべて浄財だと認識していた」と言い張れば違法と断ずることは限りなく難しい。現行の政治資金規正法には意図的にそういう穴があけられているのだ。

 さて、検察庁さんはこの件、どうするのだろう。西松-二階については「金額が少ないから」と不起訴にしたのだったが、与謝野と渡辺の「収賄金額」は西松-小沢の2,000万を上回る。これをお目こぼししたら、同じ法律に照らして、自民党なら「OK」、民主党なら「NG」、これが日本の検察庁のスタンダードだということが露わになってしまうが・・・。

 検察は先週の公判で「西松献金はダム工事受注の賄賂」だと主張した。「オリエント献金」の「目的」はなんだったか。記事には「与謝野、渡辺両氏はいずれも金融担当相を務め、先物取引の規制問題にかかわった。後援団体指定が違法性の強い献金を支えていたことになり、両氏と団体との密接な関係が問われそうだ」とある。

 与謝野は98年から99年にかけて通産相、05年~06年に金融特命担当相を務めている。オリエント貿易は商品先物取引業者。この業界はトラブルの絶えない業界で、そのため「商品取引所法」はかなり頻繁に改正されている。たとえば与謝野在任中には6度、渡辺在任中には3度の改正がなされている。場合によっては「斡旋収賄」の容疑ぐらいはあってもおかしくない。(オリエント貿易は、現在、エイチ・エス証券―ライブドア事件の際、沖縄で不審死を遂げた野口英昭が副社長を務めていたあの証券会社だ―の完全子会社になり商号をエイチ・エス・フューチャーズに変更しているそうだが、「オリエント貿易」で検索をかけると唖然とするような被害例が出てくる。なかなか「名のある」会社だったようだ)

 さあ、公正なタテマエの検察庁よ、名誉回復の機会は目のまえにある。とりあえず両代議士の秘書あたりからしょっぴいてはどうだ。それとも不公正疑惑の黒い官庁のままでいたいのか?

 もうひとつ。自民党選挙対策副委員長・菅義偉は日曜日に行った講演で小沢の参考人招致を提案していた由。ちょうどいいではないか、菅の提案通り小沢・与謝野・渡辺をまとめて参考にとして呼んで、灰色企業献金について質したらいい。もっともこの手の迂回献金に対して「無罪」を主張できる自民党議員が菅自身も含めて何人いるかとなれば、とたんが腰が引けてしまうことは請け合ってもいいが・・・。(6/24/2009)

 東京高裁が足利事件の再審を決定した。夕刊掲載の決定理由の論旨は以下。

 一審と二審の判決が菅屋を犯人と認定した根拠は、①被害者の半袖肌着に付着していた犯人のものと思われる体液と菅屋の体液のDNA型が一致したこと、②捜査段階と一審における自白供述が信用できる、この二点に要約されていた。

 当裁判所(東京高裁のこと)はDNA型鑑定に関する理論と技術の著しい進展の状況を考慮して、再鑑定を行うことにした。

 弁護側推薦の鑑定結果も検察推薦の鑑定結果も菅屋のDNA型とは一致せず、逆に半袖肌着に付着していた体液の両鑑定のDNA型は一致した。この事実により、有罪の根拠となった自白の信用性には疑問が生ずることとなったので、再審の開始を決定した、というもの。

 これで明らかになったことがある。最高裁の五人の裁判官(亀山継夫・河合伸一・福田博・北川弘治・梶谷玄)と、宇都宮地裁の三人(池本寿美子・中尾佳久・佐藤裕子)の裁判官は、「DNA型鑑定に関する理論と技術の著しい進展」の可能性について弁護側から相当の主張があったにも関わらず、被告(再審においては「申立人」)の「自白」に幻惑され、客観的事実によって確認するという当然の責任を投げ捨てた無責任かつ無能、怠惰きわまる裁判官たちだったということ。

 あらゆる愚かさの中でいちばん度し難い愚かさは「自分が無知かもしれない」ということに対する無知あるいは傲慢さだ。「五人組」と「三馬鹿トリオ」はその「無知」を晒し、人を裁く身としてはじつのところまったく「無能」であったということを満天下に晒した。とくに池本・中尾・佐藤の三人は裁判官として不的確であることが露見したのだから再任されるべきではない。あの橋下流にしたがえば「おかしいと思う人はじゃんじゃん懲戒請求を送ってください」ということになる。

 恥を知るならば彼らは退官すべきだろう。もっとも往々にして自らの「無知」について「無知」な人ほど「無恥」なものだ。池本の陪席として再審請求を機械的に棄却した中尾と佐藤は家裁勤務だが、池本は幸か不幸か地裁も兼務している。どうだろう、宇都宮地裁でやり直される裁判は池本寿美子に担当してもらってはいかがか。

 そして、その機会に自分がどれほど怠慢で無知で無能だったかについてたんと反省してもらうなり、場合によっては「名誉回復」の機会としていただくのだ。もちろん「名誉回復」は、池本が得意とする「手抜き裁判」で機械的に「無罪」言い渡しをするのはだめで、いったいどのようなプロセスを経て「有罪」と誤認されたのか、またどのような判断によって「再審請求棄却」とされたかを微に入り細にうがって明らかにするものでなくてはならない。たまに手抜きの報いが還ってくることもあると分かれば、スピード裁判指揮により出世の効率を上げることに血道をあげる一部の(?)裁判官の皆さんにも薬になるかもしれぬ。(6/23/2009)

 日医検診センターから検査結果のペーパーとCDが届いた。FDG-PET/CT検査では「ガンなどの悪性疾患は見られません」、頭部MRI/MRA検査では「脳実質、脳血管ともに異常が指摘できません」とのことで一安心。ただ総ビリルビンが基準値オーバー、MCHCとアミラーゼが基準値アンダーで総合判定としては「経過観察が必要です、3カ月後に再検してください」とある。

 CDが添付されていて、DICOMフォーマットの画像が収められている。ビューワーソフトがついていて名前が"virtua.exe"。きわどい名前だなと苦笑しつつ起動。"CT"フォルダーの"Lung"とある中のファイルを見ると、最初の4枚ほどの左肺下部前側に黒い部分がある。レポートの「肺の陳旧性炎症性瘢痕」とはこれのことなのかもしれない。「心配はありません」とあるが気にはなる。以前あった夜中の咳きこみ、あれは軽い肺炎だったのかもしれない。

 部位によって画面左下にどの部分の断面であるのかの案内が出る。オートショーにしたり、コマ送りをしてみたり、いじればいじるほど楽しく見飽きない。意味内容がもっと分かるとずっと楽しいだろうなと思いつつ、あちこちのフォルダーを覗いて回るうちに、あっという間に夕方になってしまった。

 「異常なし」と聞けば、チクチクする痛みなどどこかに飛んでゆくかと思ったが、そうでもない。ときおり存在を自己申告するように、左下腹部が小さくチリチリと痛む。なんだろう。あさって、結果の詳細について対面で説明があるから、相談してみよう。(6/22/2009)

 おとといの「臓器移植法改正に関するあれこれ」の続き。

 もうずいぶん昔からいぶかしく思ってきたのは、この国で「保守」の看板をあげている人々が本当に「保守主義者」なのかということだ。

 我々、一般人の多くは「死」というものを「もう二度とこの世に戻ってくることがないこと」と思っているが、その「常識」で「脳死」論議をすると混乱する。「脳死」が「生きた臓器」のニーズに対応するために登場した概念であることはおととい書いたとおりだが、「死」に至る道筋がどのようなもので、どのあたりに不帰のポイントがあるのか、「脳死」がその手前にあるのか、その向こうにあるのか、我々はまだ詳らかにしていないはずだ。そういう領域のことがらについては「語りえぬものについては沈黙せねばならない」という姿勢でのぞむのが誠実というもので、いくら「生きた臓器」が必要だからといって、「死んだも同然」と「死んだ」ということを同一にしてしまう(しかも法律の規定で)というのはいささか強引過ぎるだろう。

 保守思想は「伝統として成立しているものには明確に語りうる利点がなくとも尊重して守ってゆく価値がある」という考え方が核にあり、「個人の理性や理想、技術の進歩が人間の未来を幸せにする」などということには懐疑的であるものだ。人間を超えたものに畏敬の念を抱くのは「個人」なり「人間」の限界を意識する保守思想にあっては自然なことであろう。

 そういう流れからすると、「脳死」という概念を導入してまで「臓器移植」を図るという小賢しい考え方は保守思想、保守主義とは相容れないものではないかと思うのだが、原子力発電同様、この国の「保守主義者」はこういう「新規な技術」がまるで子供のように好きで、「新しいものはいいものだ」と考えるらしい。彼ら、本当に「保守思想」の持ち主なのか?

 臓器移植法改正案の採決にあたって各党は党議拘束を外した。議員一人一人がどのような考えに基づいて投票するのか、それが問われることになった。(個別の法案についても、このようにするのが望ましいと強く思う)

 以下、記名投票で行われた投票の賛否、棄権または欠席の数。

  賛 成 反 対 欠席・棄権
自民党 202 77 24
民主党・無所属クラブ 41 65
公明党 12 18
共産党
社民党・市民連合
国民新党・大地・無所属の会
無所属

 印象的なのは、自民党の賛成比率が際立って高いこと、そして意外に民主党に反対が多いこと。

 もっと興味深いのは、議員個々がどのように票を投じたかということ。これを眺めていると、議員個々の人物の真贋が見えるような気がする。以下、「保守政党」の看板を上げ続けてきた自民党について。

 いわゆる新自由主義者とおぼしき議員(小泉純一郎、中川秀直、小池百合子、・・・そして杉村太蔵、片山さつき、佐藤ゆかりなどのチルドレンのみなさん)が「脳死は人の死」であるというA案に賛成しているのは理解できる。彼らの視野には、「『生きた臓器』に対する規制を緩和することによって、臓器移植産業を振興し、市場の活性化を図る」という市場原理主義的展開が入っているのかもしれない。これにホリエモン哲学(「カネで買えないものはない」)をブレンドすれば、アッパークラスには黄金時代が訪れるだろう。(そういえば、世界最初の心臓移植手術のレシピエントは白人男性、ドナーは黒人女性だった)

 では世間的には保守主義者とみなされている議員はどうだったか。麻生太郎が反対票を投ずるとは思わなかった。この投票行動は保守主義の考え方と一致しているといえる。「おみそれしておりました、脱帽です」と書いておこう。同様に稲田朋美。保守反動ながらそれなりには筋が通っているのかもしれぬ。それらに引き比べると、安倍晋三、中川昭一、平沼赳夫、中山成彬などはだらしない。訊ねればおそらく「D案に賛成するつもりだった」などと言い訳するのだろうが、移植推進の「進歩派」から嫌われるのを避けて「棄権」に逃げ込んだ。稲田のように反対すべきものには背筋をただして反対するのでなければ「保守反動」の名がすたるだろう、意気地無し!

 民主党、なるほど自民党以上の寄せ集め政党ということがよく分かる。小沢一郎、菅直人、岡田克也といったところが賛成する中、鳩山由紀夫、前原誠司が反対していることは記憶しておこうと思う。

 ところで「脳死」について、どのていどの議員が明確な認識をもっているのだけろう。おそらく「世界の常識、医学の進歩」のようなムードと、「日本人の命は日本人が守る」というようなピント外れの意識が、予想しなかった雪崩現象を生んだのだろう。嗚呼、国民病、哀れなパニック症よ。(6/21/2009)

 次回クルージング候補日は8月8日。いまのところは三崎でマグロを食べて、城ヶ島あたりを回ってくるコース。ただそれだけを決めて、あとはいつもの飲み会。飲み始めが遅かったせいもあって、帰宅は10時過ぎだった。

 きのう、西松建設違法献金事件の「贈賄側」西松建設前社長・国沢幹雄と元副社長・藤巻恵次の公判が始まった。そして即日の結審。初日で結審するためには弁護側も最終弁論の準備ができていたことを意味する。つまり検察側と弁護側があうんの呼吸で仕組んだ出来レースであることは誰の目にも明らか。求刑は国沢が禁固1年6カ月、藤巻が懲役6カ月。いかにも「全面的に協力してくれれば、執行猶予がつくていどにしてあげるよ」という匂いのプンプンする求刑で嗤える。

 今週、火曜日、東京第三検察審査会は西松建設のもう一方の「贈賄」先である二階俊博経産相の不起訴は不当、国沢前社長の二階向けの政治資金規正法違反は起訴相当と議決した。冤罪色が濃厚でも起訴してしまう勇ましさが我が検察の特徴なのに不思議な話。何が何でも二階は守りたいらしい事情があるのだろう。白昼堂々これほどの不公正をおこなうとは検察庁も堕ちるところまで堕ちたものだ。

 きのうの公判、冒頭陳述の中で検察は「小沢事務所では、その頃から(2000年)大久保隆規秘書がとりまとめ役として献金をめぐる企業との交渉や談合における『天の声』の発出等の業務を行うようになった。大久保秘書は岩手県発注の二つのダム建設工事について西松建設を本命業者とする『天の声』を発出した。西松建設は95~06年まで小沢氏側に多額の献金をする一方、東北支店長らが東京の小沢事務所に陳情して5つの工事で『天の声』を得た。うち4工事ではこの『天の声』を背景に談合が成立し、西松建設JVが受注し、その落札額は合計122億7千万で、落札率は94.5%から99.2%だった」と、一見、詳細を把握しているかのような指摘をした。

 公共工事の受発注にはいろいろな「人物」や「団体」がちらほらする。公明正大に受注した工事であっても現場事務所を開設すれば、地回りのお兄さんが「安全管理費をよこせ」と言ってくる。「安全」が保証されるかどうかは神社のお神籤やらお祓いのようなものでご利益は確認のしようがない。要するに「たかり」行為。それでも普通は何らかの応対をするものだ。現場事務所が会社名丸出しで処理するのか、別の仕組みで会社名を出さずに処理するのかは、会社のポリシーによって違うが・・・。

 受注前の有象無象となるとまさに百鬼夜行の世界。ピラミッド構造の階層ごとに行われる活動のうち社長が関わるものはまさに「トップセールス」だが、下層からの地道な積み上げに裏付けられていなくてはその効果は「安全管理費」的なものになってしまう。当事者は確度の高い「天の声」にお願いしているつもりでも、実のところは「詐欺そのもの」ということもある。

 めでたく受注するためには、「天の声」が指名するチャンピオン業者がすべての応札業者にいくらで札を入れるか行き渡らせなくてはいけない。(検察が冒頭陳述に述べたように、「天の声」が自ら表立ってとりまとめ役を務めるようなことはない。そんなまめな「天の声」があれば有り難いだろうが)。一社でも嫌だという業者が現れれば、通常、チャンピオンの資格は失われる。チャンピオン業者がダミー参加各社の応札価格を的確に指示するためには、入札予定価格を入手しなければならない。「天の声」はチャンピオン業者のこれらの「業務」を陰から隠然たる力で保証できなくては意味がない。その凄みがあるからこそ「有り難い」のだ。回り持ちの「取り番」制があれば、カネのかかる「天の声」などは要らない。

 冒陳の指摘する通りで一点のウソもマチガイもないというなら、談合入札があり、入札妨害があったということだから、検察庁は総力を挙げてこれを捜査し、立件しなければならないだろう。それとも冒陳は筆の滑りで「西松建設は小沢事務所が天の声を出していると勝手に思い込んでいただけなんです」とでも釈明するのか。確実に談合があったというなら、獅子奮迅の活躍をすぐにも期待したいところだ。
また公正取引委員会はすぐにも検察庁から情報提供を受けて、西松建設は当然のこと、「天の声」が機能した工事案件の入札に参加した業者をリストアップし、課徴金、営業停止などの制裁を下さなくてはならない。


 検察庁も、公正取引委員会もグズグズするべきではない。さあ、ガンバレ、検察、ガンバレ、公取。(6/20/2009)

 きのう臓器移植法の改正案が衆議院で可決された。改正案は4案提出され、唯一「脳死は人の死である」と積極的に規定するA案が263対167で可決された。

 現行法とそれぞれの案の違いをまとめた表が朝刊に載っているので書き写しておく。

  脳死の位置づけ 臓器提供の条件 子どもからの
臓器提供
現行法 本人に臓器提供の意思がある場合のみ
「人の死」
本人が書面であらかじめ意思表示し、家族が同意 15歳以上
A案 「人の死」
判定の拒否権は認める
本人に拒否の意思がなく、家族が同意 0歳から可能
B案 現行法と同じ 現行法と同じ 12歳以上
C案 現行法と同じ
脳死の定義を厳格化
現行法と同じ 現行法と同じ
D案 現行法と同じ
15歳未満は本人の意思を家族が代行
15歳以上は現行法と同じ
15歳未満は家族の同意、第三者機関の確認
0歳から可能

 「脳死」というのは臓器移植用として「健康で生きた臓器」のニーズが高まってきたために登場した概念だ。たとえば心臓という器官が停止すれば、脳への酸素と栄養の供給は絶たれ、脳も死を迎える。つまり、「心臓死」があって、それが原因で「脳死」に至るわけだ。我々の「死」に至るプロセスはこのように脳以外の器官が機能の変調を起こして始まるというパターンが圧倒的に多い。いつか「死刑の執行に関わる産業などはこれから大いに繁盛するかもしれぬ」というブラックジョークを書いたが、それは絞首による死が貴重な脳死例であることを受けて書いたこと。

 「心臓死」に始まる「脳死」に関心をもつ移植医はいない。心臓が死んでいるということは必然的に移植ニーズを満たす「健康で生きた臓器」がないことを意味しているからだ。臓器移植法が単に「死を確認した後、移植用臓器を摘出する」とはせずに、「脳死を確認した後、移植臓器を摘出する」としているのは「生き肝」が必要だからの話。

 たしかに現在のところ世界的には「脳死は人の死」というのが多数派である。しかし、90年代以降、脳死状態にありながら生存する例が続々と報告されるに至っている。いずれ、特定のニーズに応えるために作られた「脳死」という概念の見直しが「学」的には提起されるのではないかという見方がある由。

 とはいえ、「脳死」状態のひとつであるいわゆる「植物人間」の実例を見れば、そういう時は死なせて下さいという希望はあるだろう。いわゆる尊厳死の問題だ。オレも、そういう時には死なせてくれと、そう思い、そう言ってきたし、その考えはいまもおそらくこれからも変わらないと思う。部分的な脳死状態に陥った時、かりに臓器のみが目当てでも、死なせてくれるというのならオレはウェルカムだ。ただし、これは「生ける屍」状態では生きている意味がないと考える場合に限って「いいですよ」という話だ。

 こういう話を法的に決めておき、いつでも誰にでもあまねく適用するルールにするというのはどうだろう。やはり、法律で「脳死=人の死」と決めることには抵抗がある。まるで「アクティブでない人間には生きる価値がない」といわんばかりの「社会的強制」はナチス張りの優性思想と同じではないか。

 世界で初めて心臓移植手術が南アフリカで行われた翌年、アメリカではハーバード大学脳死問題特別委員会がいわゆる「脳死に関するハーバード基準」をまとめた。この委員会は基準の作成にあたって「法はこの問題(死の判定問題)を本質的に、医師によって決定さるべき事実の問題として扱っているのだから、法における制定法上の改正は必要とされるべきではない」との見解を述べて作業に入った。少しわかりにくい訳文だが、これは「医学的な判断について法がくちばしを入れる必要はない」ということであろう。アメリカ医師会も死を制定法で定義することは不必要であり望ましくないと宣言した。

 これらを考え合わせると、現行法の脳死の位置づけ(臓器提供意思が明らかにされていた場合に限って脳死判定ステップに進む)はよくできている。そればかりか、近い将来、「脳死=人の死」論が医学的な根拠を失っても、十分に耐えうる法規定だといえる。臓器移植推論の方たちは「脳死を人の死と認めないのは時代遅れ、世界的な非常識」のようにいうが、こと命に関わることについて「腑に落ちない」話に同意するわけにはゆかない。

 もし小児の臓器移植が排除されていることが現行法の疵(現行法の「15歳以上」というのは、臓器提供意思の表示を遺言と解して民法961条を適用することにしたからで、現行法に「15歳以上とする」と書いているわけではない)だとするならば、「D案」による改正ぐらいに留めておけば足りたのではないかと思う。ただその時も小児の移植希望者が救われる率はさほど改善することはないであろう。いや、もともと成人についても脳死が先に来る頻度はあまり高くはないのだから、参議院が衆議院可決原案通りに可決したとしても、移植手術が劇的に増加するようになることは期待しにくい。もちろん、あの「和田移植」のようなめちゃくちゃなことをすれば別の話だが・・・。

 A案で改正が確定したならば、へそ曲がりのオレは「臓器移植拒否カード」を常に携帯するようになるだろう。誰だって和田寿郎のような野心満々の移植医に助かる命を取られたくはないはずだ。

 続けて書きたいことがあるが、クルージングメンバーの飲み会。夢中になっていると遅刻しそう。きょうはここまで。(6/19/2009)

 PET検診のため見逃した党首討論、毎日のサイトに掲載の「詳細速報」でトレース。

 末尾が今回の党首討論を象徴していたようだ。学習院卒の粗雑な頭脳と東工大卒の緻密な頭脳の違いというのは言い過ぎか。

麻生  アニメの殿堂の話を具体例としてされましたけれども、これはなにも思いつきで、私の段階で出たわけでもなんでもない。これは前々に、安倍内閣の時にこれがスタートし、福田内閣でこれを企画をし、私の時に実行させていただいたというそれまでの経緯がございます。
鳩山  今、安倍総理の時からという話ですが、補正予算ですよ。補正予算で組むのは緊急的に本予算が終わった後、緊急的に必要になるところに組まれる予算でなければいけないのに、なんで安倍総理の時から問題が考えられているものが、補正予算に組まれるのかということが、どう考えたっておかしいでしょ。

 この鳩山の突っ込みに虚を突かれた麻生は狼狽しパニックになってしまったらしい。

 鳩山の「アニメの殿堂を全部悪者にしたいと思っていない。でもアニメの殿堂のお金があれば、なんで生活保護の母子加算に戻してあげないんですか」という「罠」から抜けようと、「事情に応じて支援している」ということをしどろもどろに語り、貧弱な頭脳で考え得る最大の反撃を試みた。その反撃というのがまたまた「第七艦隊の話」だったところが、本人お得意の土俵でもたいした応戦はできないことを暴露していて、哀れを誘った。

 けさの新聞各紙は一様に「財源問題」が踏み込んだ議論になっていないと書いているが、検察庁でさえバランス感覚などはかなぐり捨てるというこのご時世、なにも社説までわざわざ形式的なバランスを意識することはあるまい。

 結論を書けば「財源」議論はされている。麻生は与党の責任意識からであろう「消費税を含めて税の抜本改正を3年後にはする(「3」という数字がどのように導出されたか興味があるが)」といい、鳩山は野党の気楽さで「官僚任せにせずに事業の仕分けをし、支出費目を精査すれば、すぐに消費税アップを考えずともゆける」といった。(アニメの殿堂の話はこの事業仕分けの一例として鳩山があげたもの)

 もとより党首討論というのは些末な費目や無駄遣いの金額を上げてあげつらう場ではない。国民としてみれば、たとえば「なぜ消費税なのか」だけを取り上げて欲しい。おそらくこの議論だけでその政治家なり政党が国民と国家をどのように考えているのかが浮き彫りになるだろう。そういうレベルの「哲学」をぶつけあった後に、そのコンセンサスから出発した討論でなくてはただのウケ狙いの漫才に終わる。もちろん頭の中が、利権と権力と海外漫遊と・・・しかない人物にできることではないのだが。(6/18/2009)

 日医の健診医療センター。スタートは頭部MRI検査。毎度のことながらこの騒音は凄い。ただフェーズごとに発する音はそれぞれ違っているので、楽しむ気になれば我慢できないほどのものではない。20分ぐらいと聞かされていたが長く感ずることはなかった。

 PET検査に関する説明と同意書にサインをしてから、採血とトレーサーの「注入」(注射ではなく点滴のイメージ)。ブドウ糖のどれかの水酸基がフッ素18に置き換わったものだとか。いったん控え室で持参した大澤武男の「青年ヒトラー」を読みながら、トレーサーが体内に行き渡るのを待つ。

 小一時間したところで呼出があってPET検査本番。30分ぐらいだったろうか。「撮影状況を確認し、場合によっては再度行うことがあるから」という説明で小部屋に移る。トレーサーの半減期が110分ということだったから施設内に身柄をホールドする意味もあるのだろう。控え室は個室だったが、最後は大部屋。20分ぐらいしたときにひとり入ってきた。**(家内)のときは誰とも会わなかったという話だったが、かなりの料金にもかかわらず、それなりには盛況のようだ。OKが出て終了。用意されたサンドイッチをいただいてセンターを出たのは1時少し前。

 三井記念美術館で「三井家伝来:茶の湯の名品」展を観る。大名物・中興名物などもちらほらあり、よいものなのだろう。しかし茶道具は飾り物ではない、手に触れてこそのもの。とっつきのところにあった「俊寛」という銘の黒楽などは観ただけで「蠱惑の璧」という感じだったが、実際に手に取らなくて善し悪しが分かるにはそれなりの経験が必要。もっとも善し悪しというのはあくまで自分にとってもので、どれほど名があったところで手になじむ感覚がなければ意味がない。茶道具はやはり「道具」。「道具」とはそういうものだ、香合は例外かなとは思うが。堆朱のものがあった、あれくらいのがひとつ欲しい。

 見終わって外に出てもまだ3時。いくつか電話をしてみたが全部ふられた。リタイア・無職組は少数派だもの当たり前か。そのまま帰る気にもなれず秋葉原の石丸へ。かつての名盤が廉価版シリーズになっている。モーツアルトのディヴェルティメント全集、その他はバッハからフォーレまでなるべくLPと重複しないようなところを選ぶ。さらに、よせばいいのにまたまたリブロに寄って、ソロスの近刊やら井上章一の「伊勢神宮」などを。帰宅は6時半。(6/17/2009)

 足利事件について、驚くほど丹念に調べ、関係者に会い、疑問点と問題点を精緻に調べあげて著された本が小林篤の「幼稚園バス運転手は幼女を殺したか」だ。彼は「事実」に照らした上で、その杜撰さを容赦なく指摘している。その一方で捜査に当たった警察官、DNA型鑑定を行った科警研の技官などについて、彼らのおかれたその時の環境などが十分に書き込まれていて、けっして怒りにまかせて乱暴な書き方はしていない。充実度と公正さにおいて得難い良書だと思う。

 不満があるとすれば、捜査関係者のほとんどを仮名としていることだ。嗤えることに一審の弁護人(彼らは国選ではない、私選弁護人として選任されながら、菅屋の「自白」に振り回されて冤罪の可能性について気づかないという醜態を演ずることになった)も仮名になっている。証言者についてもほとんどは仮名にしてあるが、それと断らない(たぶん実名表記の了解を得たのであろう)人も混在している。一般人は別として捜査関係者と弁護人を仮名にする理由はないであろう。彼らはプライドを持って「きちんとした仕事をした」と胸を張っていたのだろうから、実名を記されて恥じることはないだろう。まさか最初から菅屋を犯人に仕立て上げて「いっしょあがり」にしようと思っていたわけではあるまい。それとも、そうだったとでもいうのか?

 きのう発売された「週刊現代」と「週刊朝日」には足利事件を担当した主要な捜査関係者と検察官、裁判官の実名がかなり出ている。結果的に「見込み捜査」の心理的罠に落ちてしまった警察関係者と「DNA型鑑定」と「自白」という目くらましにたやすく引っかかったお粗末きわまりない法曹関係者の実名を記録しておく。手抜き仕事をすれば大方の時にはのうのうとしていても大丈夫だが、間が悪い時には大恥をかくこともあるものだということを思い知ってもらうのも悪くはない。(最初から実名が記載されている検察官と裁判官についてはその後、ないしは現在状況を記入した)

  実 名 書中の仮名/現在
警察官 県警本部長
県警刑事部長
県警機動捜査隊長
捜査一課長
捜査一課強行班長
巡査部長
山本博一
森下昭雄
芳村武夫
川田正一
橋本文夫
寺崎耕
(実名)
矢吹浩史
松山隆明
山岸俊吉
村上亮司
岩田哲夫
科捜研(県警所属) 福島康敏 野田直之
科警研(警察庁所属) 向山明孝
(不明)
小沢直樹
中川良子
検察官 宇都宮地検 森川大司 公証人
控訴審以後の担当は不明
裁判官 宇都宮地裁 久保真人裁判長
樋口直裁判官(右陪席)
小林宏司裁判官(左陪席)
依願退官(2004年)
依願退官(2003年)
最高裁調査官(2009年~)
東京高裁 高木俊夫裁判長
岡村稔裁判官(右陪席)
長谷川憲一裁判官(左陪席)
定年退官(2001年)
依願退官(2007年)
静岡家裁(2007年~)
最高裁 亀山継夫裁判長
河合伸一裁判官
福田博裁判官
北川弘治裁判官
梶谷玄裁判官
2004年退官
2002年退官
2005年退官
2004年退官
2005年退官
再審請求:宇都宮地裁 池本寿美子裁判長
中尾佳久裁判官
佐藤裕子裁判官
宇都宮地裁・家裁(2009年~)
宇都宮家裁(2007年~)
宇都宮家裁(2005年~)

 足利事件のDNA型鑑定がどれほど「きわどい」ものであったか、それをいちばん雄弁に語っているのは鑑定を行った向山明孝のその後の履歴だ。

 県警科捜研の福島から鑑定について打診された向山は、対象となる精液の付着した半袖下着が半日以上川の水に浸かっていたこと、その後警察のロッカーで室温のまま放置されていたことを聞くや、鑑定は不可能と答え、二度の鑑定要請を断った。しかしDNA型鑑定は警察庁の予算獲得の目玉になり、さまざまの方面からのプッシュのもとに向山は鑑定を引き受けることになった。鑑定作業は苦闘の連続であったらしい。足利事件の鑑定を終えた半年後、向山は定年まであと十年というところで科警研を退職し、中央競馬会の総合研究所へと転職した。小林はこのように書いている。「そこでのDNA鑑定は、血なまぐさい犯罪捜査ではなく、優れた競走馬の育種として活用されるロマンある仕事といえよう」と。

 菅屋の冤罪が明らかとなったいま、知恵遅れの容疑者を見つけ出し、「ジャンボ宝くじに当たった気分」と欣喜雀躍した寺崎耕は出世して警視になっており、「DNA鑑定が証明している」と菅屋を騙し、みごとに菅屋を「落とした」橋本文夫は署長まで勤め上げて既に退職している。足利事件捜査は彼らに出世をもたらした・・・その彼らがいまどのように思っているかは分からない。警察関係者の中で苦い思いを噛みしめているのは向山ひとりではないかと思う。

 控訴審の裁判長・高木俊夫は東電OL殺人事件の控訴審でも裁判長を務めている。その時も、彼は「犯人である確率が高い」ことをから「有罪」と判断した。この人は「確率」の名人、かつ、「出世」の達人でもあったらしい。(これほどの判事さんならいろいろの「余罪」もあるのではと、検索してみたら狭山事件の再審請求の棄却も行っていた、なるほど、みごとな経歴だ)

 小林の本には恐ろしい可能性が書かれている。

 二審判決で、菅家は二度目の有罪判決を宣告された。その数日後、警察幹部の一人は、取材に対して一件落着とばかり、胸を張った。
 「俺たちは、命懸けで捜査して、菅家がホンボシだったことは、あれから事件が再発してないのが何より証明してるだろ!」
 しかし、二審が幕を閉じた二か月後の7月7日のことだ。足利市に隣接する群馬県太田市のパチンコ店から、当時四歳の横山ゆかりちゃんが忽然と消えた。店の防犯ビデオカメラに、その直前まで彼女と会話するニッカーボッカーに帽子とサングラスという異様な扮装の男性が写っていた。出入り口横の長椅子に座ったゆかりちゃんがスカートをひらひらさせ、その隣で男は煙草をふかしながら彼女に話しかけ、店の外を三回ほど指さす。この男が店外へ去った後、ゆかりちゃんはパチンコをする両親を残して外へ出て失踪した。

 足利事件発生の時、先行する二件の幼女殺害事件があった。79年に「マヤちゃん事件」、84年に「ユミちゃん事件」。ともに未解決。ついでに書けば、菅屋はこれらの事件についても「自白調書」を取られている。この二件はともに不起訴となっているが、警察はユミちゃん事件の目撃者を訪れて、「自白にあわないから証言内容をこれにあわせてくれ」、「それができないなら目撃はなかったことにしてくれ」と圧力をかけたことが分かっている。あきれかえるような話だが、我々の警察のレベルはこのていどのものだということ。

 マミちゃんとユミちゃんも、パチンコ店で失踪している。しかも足利市のロッキーからゆかりちゃんがいなくなったパチンコ店とは、車でわずか二〇分ほどの距離だ。過去に遡れば少女ではあるが、そのパチンコ店から10分かからない尾島町で87年に大沢朋子ちゃん事件(八歳)、83年には足利市と隣接する群馬県桐生市で中島喜代美ちゃん事件(十二歳)が、いずれも遺体で発見されたまま未解決となっている。
 足利市の田中橋を中心に円を措けば、20キロ以内にこれら事件がすべて納まる。そして菅家逮捕後も、この圏内でゆかりちゃん事件が再発した。彼女の行方とビデオの男について有力な手掛かりはなく、現在(2000年末)も捜査継続中である。

 たしかにこれらの一連の事件がすべて同一犯かどうかは真犯人以外誰にも分からない。しかし、いまとなっては「菅家がホンボシだったことは、あれから事件が再発してないのが何より証明してるだろ!」という警察幹部の言葉はただのできの悪い冗談になってしまった。

 警察は功をあせって無関係の人を犯人と思い込み、検察も警察の捜査のほころび(自白内容の裏付けのなんと甘いことよ)をそのままに機械的に起訴に持ち込み、裁判所もそれをそのまま信じ込み、鑑定の不備がかなりの人々に指摘されるようになっても、事実に真剣に向き合おうとせず、よってたかって真犯人を放置したことになる。もし「ゆかりちゃん事件」の犯人が同一犯であったとすれば、ここにあげた人々は間違いなく「共犯」だったということができる。犯人の哄笑が聞こえるようだ。

 菅屋の冤罪を晴らした佐藤博弁護士は「週刊現代」のインタビューで「菅家さんのDNA鑑定が間違っているらしいと分かったのは12年前です。その時点で、われわれ弁護人は最高裁にDNAの再鑑定を求めました。事件は90年に発生し、当時の時効は15年。われわれがDNAの再鑑定を求めたのは97年だから、時効までまだ8年残っていました。その時点で再鑑定を行っていたら、真犯人を突き止めることができたかもしれません。ところが検察や裁判所は、犯人は菅家さんだと延々と言い続け、再鑑定は実施されなかった。その結果、真犯人を捕らえる機会が失われてしまったのです」と言っている。

 もとより一、二審の裁判官の責任は重い。だがそれ以上に最高裁の五人組(亀山継夫・河合伸一・福田博・北川弘治・梶谷玄、判決は五人一致、反対意見はなかった)とそれを支えた最高裁の担当調査官、そして再審請求の内容を吟味することもなく却下した宇都宮地裁の三馬鹿トリオ(池本寿美子・中尾佳久・佐藤裕子)、これらの人々の責任は重大だ。彼らはそろいもそろって、いちばん基本的な鑑定結果がぐらついているにもかかわらず、「自白したのだから犯人」という常識の枠から出ることをしなかった。そんな一般大衆なみの「判断」でよいのなら高い給料を払う専門家などはいらない。裁判官の業務が繁忙を極めることは重々承知しているが、「五人組」と「三馬鹿トリオ」の仕事ぶりは裁判官に対して国民が与えている厚遇を裏切る怠慢行為だ。払うべき最低限の注意義務を払おうとしない彼らには、給与へのペナルティと今後の処遇・昇進にハンディキャップを負わせるぐらいのことを行うべきだ。自由心証主義はけっして職務怠慢行為を保護するものではないはずだ。

 ・・・そう考えて、今度の国民審査では絶対×をつけてやろうと思い調べてみたら、なんとも腹立たしいことに、最高裁のおサボり五人組は既に全員そろって定年退官している。「退職金、返せ! この俸給泥棒ども!」。(6/16/2009)

友人にこの本を薦めたところ、「幼稚園バス運転手は幼女を殺したか」は絶版になっているのではないかといわれ、再刊を望む旨、草思社に要望を寄せました。すると、草思社の営業の方から、
冤罪・足利事件という新オビを付けて重版をいたします。来週半ばには店頭・ネット書店等に並ぶと思います。
という回答メールを、この日(6/16)にいただきました。

 障害者団体向け郵便料金割引制度の不正利用事件で厚労省の現職局長がきのう逮捕された。容疑は活動実態のない障害者団体に対して、正規の手続きを経ずに「証明書」を発行するよう担当係長に指示したというもの。同じ容疑で既に逮捕されている上村勉係長が、「村木厚子課長(当時)から指示を受けた」と供述しているのが逮捕理由だという。さらに補足情報として、村木課長の上司の障害保険福祉部長(既に退職)は「白山会」の前身といわれる「凛の会」代表の倉沢邦夫と民主党参議院議員石井一から依頼されていると「伝達」したという話が報ぜられている。

 少し不思議に思うのは「課長補佐」は何をしていたのだろうということだ。本省の「課長」という肩書は民間会社のそれとはまったく違う。本省の「課長」はイメージ的には一部上場会社本社の「部長」、「課長補佐」は「課長」に相当する。農業土木機械化協会を通じてつきあいのあった旧農林省の場合はそうだった。省庁の改編、名ばかりの「改革」はあったとしても中央官庁のピラミッド意識があっさり変わることはない。まず、本省の課長が課長補佐を飛び越えて係長に指示をするということが不思議その一。厄介で迷惑といわれている「議員案件」を課長補佐をつんぼ桟敷においてやろうという課長がいたのかというのが不思議その二。

 問題の「証明書」というのは何を証明するものか。割引制度を利用する主体である「障害者団体」と対象である「刊行物」のそれぞれが、障害者の福祉を図ることを目的に発行されるものであることを「厚労省」または「地方公共団体の福祉事務所」が証明するものだ。中央官庁である厚労省が発送の都度、刊行物の内容が証明内容と適合しているかどうかをチェックするなどということはあり得ない以上、送られる刊行物の内容が第三種郵便に該当するかどうかの判断は日本郵便が行わねばならない。つまり「証明書」の実質的な意味は申請時点で「障害者団体」に該当しているかどうかのみにある。このような「証明書」の発行そのものにどのていどの犯罪性があるのか(この現局長が白山会、不正利用をしたベスト電器やら某外資系保険会社―アリコといわれている―やらとともに謀議を図ったとでもいうのか)、しかもこの「犯罪」は04年2月というから、もう5年も前のことだ。これが不思議その三。

 厚労省がこの事件の中心だというのなら、なぜ、大阪地検特捜部が担当しているのかも不思議といえば不思議な話。(ベスト電器は福岡、ウイルコは石川、白山会は東京)

 最後に。最近の報道では「凛の会」や「白山会」には、必ず「自称・障害者団体」という冠がつく。障害者団体が迷惑をするからと理由なのかもしれないが妙に耳障りだ。それほど「自称」と強調する意味はなんなのか。先週あたりマスコミを賑わしたラブホテルを経営している「宇宙心理学会」などは「自称・宗教法人」ということになるのか。なるほど、あるある、「自称・宗教法人・オウム真理教」に、「自称・宗教法人・統一教会」、・・・、たしかにいいかもしれない。ということは、さしずめ、やたらに政治に興味を持ち、あまり宗教的に見えない幸福の科学などは「自称・宗教法人・幸福の科学」、同様の創価学会なども「自称・宗教法人・創価学会」ということになるのかな、呵々。(6/15/2009)

 お昼のテレビ朝日「スクランブル」にゲストで出演した上杉隆が面白いことを言っていた。「最初、麻生さんは鳩山さんを切るつもりはなかったと思います。ところが(辞任騒ぎの)前日、安倍さんが菅さんを連れて麻生さんのところにゆき『鳩山さんは方々であんたの悪口を言っている』と言ったというんです。自分が切られるとは思っていなかった鳩山さんが辞任後に『麻生さんは人がいいから、いろいろな人からいろいろなことを聞くとすぐ信じちゃう』と言ってますが、このことをさしていると思います」。

 上杉隆はなかないいい仕事をするフリー・ジャーナリストだが、一時期、鳩山邦夫の公設秘書をしていたから、その言葉は場合によって割り引いて聴くべきかもしれない。しかし菅が同行したというところに注目すべきだ。世間的ネームバリューでいえば「安倍さんが菅さんを連れて」だが、VA的にとらえるならば「菅さんが安倍さんを連れて」麻生を説得したのだ。

 西川を捨て鳩山を取ることがどういうことか、菅は諄々と説いたに違いない。「こんどの選挙は厳しいです。場合によってはいったん下野することになるかもしれません。しかし寄り合い所帯の民主党がもつのはせいぜい一年でしょう。復活後の自民党にあなたの居場所があるかどうか、麻生さん、それを考えなくてはいけません」。言葉は丁寧でも菅には凄みがある。バカな麻生にもナガシマ的カンくらいははたらいたろう。そのとき、横から軽輩・安倍晋三がいかにも分かったような口ぶりで言ったかもしれない、「だいたいね、鳩山さんはあなたが思うほどの人じゃありませんよ。吉田茂を倒したのは鳩山一郎じゃありませんか。あちこちでそう言ってますよ、麻生で負けて、次はオレだって」とでも。

 もちろん想像に過ぎない。だが「郵政民営化に賛成ではなかった」麻生が最良の落としどころである喧嘩両成敗、ウルトラCである内閣改造、いずれも選ばず、彼が信奉するポピュリズム政治に照らせば最悪の鳩山更迭を行った「不思議」の説明にはいちばんピッタリくるだろう。(6/14/2009)

注)「VA」とは”Value Analysys”(価値分析)のこと。ここではもちろん安倍さんと菅さんの果たしうる役割を推定すると・・・、という皮肉をこめて使いました。

 春の公開講座も最終回、第五講。タイトルは「不動産価格の決まり方」。まず不動産とはなにか、地代と経済活動に関する常識的説明から入り、「不動産価格」のアウトラインを一覧。

 横軸に土地資産額、縦軸にGDPをとり、各年度をプロットしたグラフを見ると、85年まではほぼ一直線上に並ぶが、86年から90年までは傾きの異なる(あきらかに土地資産額の伸びがGDPの伸びを上回る)直線に沿う。そして90年を端点に今度は96年まで負の傾きの線上に、97年からは水平線(GDPの伸びはゼロないし微減、土地資産額が劇的に下がる)を描くようになっている。「85年までのラインの延長上に戻るかと想像していたのですが、どうもそうはなっていないようです」とのこと。

 これがオーバーシュートなのか、それとも環境の変化によるものなのかというのが続く話。日本の人口は今後緩やかに減少してゆく。既に総人口は2006年をピークに減少に転じており、東京・埼玉・千葉・神奈川のトータル人口も2015年をピークに減少し始める。これらを背景にしたオフィス需要、住宅需要の変化を概観して、大型店舗の売り場面積あたりの販売額、中古マンションの価格に関係するファクターごとの統計データ、・・・など非常に興味深い話が続くのだが、話題は満載・時間は限定で、ほとんど走りながらの話になった。

 続けては家賃及び住宅価格の形成と不動産投資市場について。家賃やら住宅価格については、実際、半年ほど前には売り手だったことがあるので、「そうなんですよね」というていどだった。資料にデットとエクイティそれぞれのオプション性に関する図が載っていたので期待をしていたが、一気に最後の不動産・株式・債券投資の各国におけるパフォーマンス比較になだれ込んでタイムアップ。できれば最低2回、またはこれだけで一コマ五回にしてもいいのにと思われる内容で、おおいに残念だった。

 帰り、国立の本屋で「あのね―子どものつぶやき―」を買う。小金井からのバスの中、笑いをこらえるのに苦労した。またひとつ。

祖母の家でお留守番。なかなか時間がたたず、「おばあちゃんちの時計は遅いね、うちのははやいよ」

 「そうなんだよ、年寄りは遅い時計が大好きなんだよ」って、教えてあげたいな。(6/13/2009)

 きのう取引時間中に10,000円の大台を超えた東証日経平均、今日は終値でも10,135円82銭だった。我が家のポートフォリオも、世界株インデックス投信の凹みがいまだに3割強もあるからニコニコするにはほど遠いけれど、日本株のセクションだけはボトム近くで買った「伊藤忠」、「パナソニック」、「武田薬品」などが引っ張り上げてくれて久しぶりに損益がプラスになった。

 少しばかり悩んでいるのはTOPIX連動のETFのこと。平均取得単価に届く前に「洗い替え」用として780円で買った分を一部売っておくかどうか。今日の終値で売れば390口くらいがただで入手できた勘定になる。この先、もう一段、二段の「底」がないとすれば、売る必要などない。しかし実態の伴わない株価の回復だとすれば、次に備えるために150万の資金回収の意味は十分にある。ついでにパナソニックあたりを売る時の課税分をチャラにできれば一石二鳥だ。

 届いたばかりの日経ビジネスには「世界は『偽りの夜明け』か」と題する記事が載っている。回復はL字か、W字か、それともV字か。そのいずれとも断じかねて、記事は「その道筋を読み切れる中央銀行総裁は一人もいない。それが世界の冷徹な現実である」と結んでいる。要するに専門家も確信が持てないということ。

 先進国の需給構造(実態経済の構造と呼べばいいか)はプラトーに達しているのだろう。ということは米欧に重心を置いて語るならば、議論はまたまたバブルをめぐってのものになってしまう。米欧には「固い岩盤」による利子・配当、BRIC/VISTAには「成長」によるキャピタルゲイン、そういう期待を制約条件にして投資商品と銘柄、時期を考え合わせることを基本にしよう。そうはいっても元々が少額ではたいした分散投資はできないか、呵々。(6/12/2009)

 きのう梅雨入り宣言があって、けさは朝から雨。向かいの**さんの紫陽花がきれい。

 けさの天声人語。子供のつぶやきを集めた「あのね」という本の紹介。

§

おそろいの服を着た双子を見て、「どっちが本物なの?」。
ヌカミソにナスを漬けるおばあちゃんに、「どうして隠すの?」。
久々にハンドルを握ったお母さんに、「怪獣の目で運転してる」。
化粧中のお母さんに、「まゆ毛の修理?」。
体重計に乗って、「やばーい」。
髪の毛を洗いながら、「妹はいつまでたっても妹」。
風呂上がりにミニアイスをほおばりながら、「オレの一日はこれで終わった」。
ともだちの風船が空へ、お母さんがかわいそうねと言うと、「でも雲はよろこぶね」。
保育園を断られ涙を浮かべるお母さんに、「仲間に入れてほしい時は大きな声で言えば入れてくれるよ」。
大きくふくらんだカーテンにしがみついて、「風、つかまえた」。
サイダーのコップに耳をあてて、「夏の音がするよ」。

§

 読んでいて思い出した、「おとなはこどものたそがれ」。誰かの詩の中の言葉だった、誰だっけ?(6/11/2009)

 朝刊に文藝春秋7月号の広告が載っている。

 今号の目玉は「独占手記:鳩山由紀夫わが政権構想」、その副題が抱腹絶倒、「猛獣小沢をこう使う」。ついに文藝春秋も民主党にも一応チップを積むことにしたのか。常に権力にすり寄る心がけは社是か。さすがに文春だけのことはある。

 それはそれとしてもっと可笑しかったのはメイン企画、「中国を信じられない『100の理由』、建国60年・天安門20年」。その「理由」としてあげられているのがワイドショーそのもので、いまや「とっちらかってしまった『保守派』」の貧しい心象風景を表しているようでじつに面白いので記録しておく。

北の核実験を抑えられるか
8%成長は可能か
中国人の信じがたいメタボ率
大陸棚制覇の野望
胡錦濤はどんな人?
鄧小平と毛沢東どちらがエライ
「世界の胃袋」は世界を食い尽くす
毒ギョーザ事件の真相
楊逸の芥川賞はいかに報じられたか
「13億巨大市場」本当の実力
中国一の金持ちは
「スタバ」は何軒ある?
「五輪棄権」劉翔は何をしている
月面着陸はいつ
いまもっとも有名な日本人は
「日本飛来」黄砂は何トン?
株価はどうなる
人気テレビ番組

 こうして書き写しつつ、これは「中国を信じられない100の理由」ではなく、「日本人の器を疑わせる100の理由」のようだなと思ってしまった。あーあ、これは情けないぞ。

 文藝春秋さん、落ち着きなさいな。まず、政権のこと。民主党など所詮自民党の分派なのだから、世の中がひっくり返るわけはないと安堵しなさい。そして、中国のこと。日本が中国よりも旗色がよかったのは数千年の歴史を通じてもたった百数十年足らずのこと、残念ながら彼の国がまっとうな統治を得るならば、彼我の立ち位置が変わるのは必然、切歯扼腕するほどのことではないと大悟しなさい。むしろ、これからの我が国は小国として「大も畏るに足らず、小も侮るべから」ざる国になればよい、それだけのことだ、と。(6/10/2009)

 届いたばかりの田中宇の「朝鮮戦争再発の可能性」は興味深い内容。

 各国の指導者はそれなりに理性的であると思っているけれど、中にはブッシュ前大統領のような信じられないほどの愚か者が権力の座につくこともあるし、狭い権力闘争の中でのみ有能であるような郷愿の成り上がりがまるで双六の「あがり」意識で昇り詰めることもある。「ビジネスの世界は三つの"I"であふれている」という言葉があったが、興味のままに読み進めた戦史の世界も同様に見ることができる。つまり、"Innovators(革新者)"、"Imitators(模倣者)"、そして"Idiots(愚か者)"、これらがマンジドモエになって、厳粛な喜劇を演ずるのが戦争というものだ。

 冷静に考えれば、北朝鮮が暴発することはあり得ないし、いますぐにアメリカが朝鮮半島に軍事力を行使することもあり得ない。北朝鮮に限らずあらゆる国家の第一目的は「国家の永続」だ。ただ、北朝鮮の意識は「国家」ではなく「国体」にある。つまり金王朝(皇室)の支配の永続化、つまり「国体の護持」ないしは「国体の精華」こそが「七生報国」の対象ということ。我が国の右翼マインドの人々には当然のことで彼らならば瞬時にして北朝鮮という国のマインドも理解できるだろう。

 話が逸れた。「国体護持」を最優先にする北朝鮮ならば、戦端を開けばすぐに「国体喪失」が待っていることは承知なのだから「暴発」はあり得ない。また、崖っぷちのドルの信認を背景にしたアメリカが新たに戦場を作ることもあり得ない。

 しかし理性で世界は動かない。アンノウン・ファクターがある限り、理性的に非理性的な決定を下すことは避けられない。まして田中の指摘するような可能性は否定できない。

 冷戦前と異なり、米国の資本家は韓国や中国に巨額の投資をしているので、もはや米国は朝鮮半島で中国と戦争するなどという馬鹿なことはしないだろうとは言い切れない。米英中心主義は昔から、潰されるよりは世界戦争を起こして逆転した方が良いと思っている(だから2度も大戦が起きた)。投資の儲けは、一度戦争をやって焼け野原にした後、復興していけば回収できる。前の記事に書いたが、米国には、パキスタンの核技術が北朝鮮に流れるようにして北朝鮮を核武装させたのは米国自身だとする分析もある。世界の支配構造全体を賭けた戦いなのだから、米英中枢の両派は必死で、何でもやりうる。金日成・金正日親子やサダム・フセイン、ヒットラー、旧日本軍部などは、このアングロサクソン内部の長期暗闘のチェスの駒にすぎない。

 ドル・ポンドの退潮はもはや否定しがたいからこそ、アメリカがゲッテルデンメルングを狙うことは可能性として頭の片隅においておくべきかもしれない。(6/9/2009)

注)「ゲッテルデンメルング」とは「神々の黄昏」のこと。わたしは「風と共に去りぬ」でこの言葉を知りました。ワーグナーのそれからではないのが残念。

 **(家内)と背広の整理。**(父)さんにはとてもかなわないけれど、それでもサラリーマン生活三十有余年となれば、それなりの数にはなる。傷んでとても着られないというものは一着、虫に食われたものがあっただけ。廃棄はそれだけ。比較的最近の数着を残してあとは「リサイクル」にまわすことに。・・・服に「リサイクル」の言葉を使うのは適当なのかしらん?

 ネクタイもかなりの量になる。残すものを選ぶのはちょっと大変。ネクタイというものは不思議なもので「旬」が過ぎるととたんにものすごく古くさく見えてしまう。「太さ」・「細さ」は循環するのだが、どういうわけか次のサイクルまで待って再びその「時代」が訪れても、前のものはどこか垢抜けない感じがしてたいていは使う気になれない。痛みがきていないものほど捨ててもよく、捨てたくないものは擦り切れていたりする。あたりまえか。

 自分で買ったのは二十代の頃のものばかり。突然、もう忘れていたイメージがまぶたに浮かんだ。伊勢丹のネクタイ売り場にいた優しい感じのお姉さん。いつも同じような人だったような気がするが、そう思うだけのことだろうか。あの人はいまはどうしているのだろう。(6/8/2009)

 足利事件を取り上げた小林篤の「幼稚園バス運転手は幼女を殺したか」だが、なかなか読み進まない。ページを追うごとに腹立たしさがこみ上げてくるからだ。

 前後に同じような未解決事件を抱え、外からの目を意識して強迫症に陥るとき、警察という組織は冤罪事件を起こす。でっち上げでもいいから「解決」の花道を求めるわけだ。そういう場合、警察がとるいちばんポピュラーな手口は「知恵遅れの男」ないしはそれに準ずる「お人好し」を犯人に仕立てることだ。思いつくところでは、島田事件、狭山事件、野田事件などがそうだった。こういうときの警察は凶悪犯罪者など足元にも及ばぬほど悪辣なことを組織をあげて行う。足利事件もこの条件を満たす。

 閑話休題。

 さきおととい以来の事件報道を眺めながら不思議に思ったこと。それは「もし、自分がこのような事件の裁判員になったら・・・」という問いかけはあるのに、「もし、自分がこのような事件で被疑者になったら・・・」という話をまったく見聞きしなかったことだ。

 テレビ番組の制作者も、新聞記者も、そして、ほとんどの人は「裁く側に立つ恐れ」はあっても「犯人として逮捕され、取り調べを受ける恐れ」については想定していないようだ。自分に限って警察に逮捕されることなどあり得ないとでも思っているのだろうか。そういう立場におかれても、やってもいないことを「わたしがやりました」などと言うことはあり得ないと思っているのだろうか。

 釈放の翌日、おとといの朝刊の2面には足利事件の鑑定に関する記事に続けてこんな記事があった。

 「東の足利」が覆った今、「西の飯塚」はどうなるのか-。弁護士らがささやく事件がある。
 92年に福岡県飯塚市の女児2人が殺された事件だ。市内に住む久間三千年元死刑囚(08年に刑執行)が94年に逮捕された決め手の一つは、やはり導入間もないDNA型鑑定だった。
 県警は逮捕前、任意で採った元死刑囚の髪の毛と、女児の体に付いていた真犯人のものとみられる血液を警察庁科学警察研究所(科警研)に持ち込んだ。科警研が使った複数の鑑定法のうち、足利事件と同じ「MCT118」で一致したとされる。元死刑囚は一貫して否認したが、最高裁は06年に鑑定の証拠能力を認め、他の状況証拠とあわせ死刑判決を導き出した。
 だがこの事件では、検察側が逮捕前、帝京大の石山昱夫教授(法医学)=当時=にも別のDNA型鑑定を依頼。こちらは試料から久間元死刑囚と一致するDNA型は検出されなかった。
 この結果も一審の公判途中から証拠採用されはした。弁護側が「科警研の鑑定と矛盾していると主張したが、判決は「科警研の鑑定で試料を使い切っていた可能性もある」と退けた。

 飯塚事件の久間は、足利事件の菅屋が警察の思惑通り簡単に自白したのとは対照的に、終始一貫して否認を貫いた。DNA型鑑定結果は科警研が「クロ」、検察が依頼した第三者鑑定が「シロ」と対立したが、一審の裁判官は勝手な推測を根拠に恣意的に「シロ」の鑑定を無視し死刑を言い渡した。(「可能性もある」とはなんという言い種だ)

 たしかに久間が無実であったかどうかについては分からない。しかし、飯塚事件は教えてくれている。仮に否認を貫いても、また、その他の有力な証拠がなくても、確率的に直接証拠になり得るほどの確実性がない「クロ」鑑定がひとつでもあれば(「クロ」を否定する鑑定が別にあっても)、簡単に死刑になってしまうということを。この国の裁判官の多くは、被告に有利な証言・証拠に対し、信じられないほど独断的な想像でこれを退ける。これでも人々は「犯人として逮捕され、取り調べを受ける恐れ」について思い至らないのだろうか。

 きょうの読売の九州ローカルページには久間の弁護団がこの秋にも福岡地裁に再審請求する方針だという記事が載っている。福岡地裁は再審請求をどのように扱うだろう。ぬけぬけと「科警研の鑑定で試料を使い切っていた可能性もある」などと判じて恥じない裁判官がいた裁判所のことだ、期待はしない方がいい。もしも足利事件同様の事実が明らかになれば大変なことになる。昨年10月28日、既に久間は死刑を執行されているのだから。

 執行順位の低かった久間の死刑執行を命じたのは現在の森英介法相だ。福岡地裁の担当判事はこんなことを考えるのではないか、「・・・警察の担当者、三審の各担当検察官、各裁判官、そして死刑執行を命じた現職の法務大臣・・・みなさんが迷惑することになる」と。福岡地裁は再審請求を却下するに違いない。高裁はどうだろうか。そして最高裁は。(6/7/2009)

 公開講座、第四講。タイトルは「ネット市場での家電品の値動き-金融市場との比較-」。今回の講座の中でいちばん魅力的なテーマ。受講中のメモは配付資料に書けばよいとノートを持たずに出席したら、きょうは配付なし。大いにあわてる。

 講師の水野貴之は理学博士、専門は統計力学・流体力学。彼のアプローチは統計物理の手法で家電品や株・為替などの価格形成・変化を考察しようという発想。つまり個々の分子の振る舞いから圧力という現象を説明するように、ミクロの消費者の消費動向、あるいは投資家の売買動向からマクロ的な市場価格の変化を説明しようということらしい。

 発想は分かるのだが、分子には意図や期待といった「心」はないけれど、消費者なり投資家にはそれがある。また分子はいかなる場合も物理法則に従うけれど、人間は「安く買いたい」、「大きなリターンを得たい」というごく素朴な心だけに従うとは限らず、もっと別の要因にドライブされることもある。そのあたりの事情は「経済物理学」ではどのように取り扱うのか、そういうことが気になってしまう。

 話そのものはおなじみのカカクコムでの話なので分かりやすいし、比較的スタティックな金融工学に比べれば、このダイナミックな考え方の方が理解不足は承知しつつも現実的な気がするが、きょうのところはキョロキョロするばかりでほとんど分からないというのが正直な感想。もう少し予備知識がないと、こういうものの理解は難しい。

 それにしても「経済物理学」で経済学なのか、「物理化学」といえば物理的アプローチによる化学だったぞ。でも、「生物物理学」は生物学だったなぁ。このあたりの命名規則はどうなっているんだろう。

 そろそろ、ウズベキスタン戦のキックオフだ。(6/6/2009)

 きのう、東京高検は千葉刑務所で服役中の菅屋利和の刑の執行を停止する手続きをとり、菅屋は午後3時過ぎに釈放された。

 4月の段階で既にDNA型の再鑑定により弁護側推薦鑑定人のみならず検察側推薦鑑定人も一致して菅屋を有罪とした原鑑定がまったくの誤りであると結論したことが報ぜられていた。朝刊には弁護側推薦の鑑定人である筑波大の本田克也教授の言葉が載っている。

 本田教授は当初、女児の肌着に残る体液のDNA型と菅家さんのDNA型は一致するだろうと思っていた。「これまでの裁判で、そう認められているのですから」
 菅家さんの型は「18-29」というタイプ。しかし何度実験しても、肌着の体液からは、そのDNA型が検出されない。むしろ「18-24」という別の型がはっきりと出た。
 自分が間違えているのではないか。鑑定書を裁判所に提出する前日まで実験を繰り返した。「国が一度出した結論を、簡単に『間違っている』と否定できるわけがありません。でも何百回試しても、一致しませんでした」
 旧鑑定では、肌着の体液と菅家さんのDNA型はともに「16-26」で一致すると結論づけていた。
 有罪の決め手となったこの旧鑑定について、本田教授は「二重の誤り」を指摘する。
 一つは、菅家さんのDNAの型番がそもそも違うこと。もう一つは、肌着の体液と菅家さんのDNA型を同じだとしたことだ。「前者は、技術に限界がある頃の話で、責めるつもりはない。でも後者は、勇み足だったのでは」
 というのも、旧鑑定書にはDNA型を示す帯グラフのような写真が添付されており、これが判断の根拠とされていたが、写真を見た本田教授は「これでよく同じ型と言えたな」と感じたからだ。
 旧鑑定からの約20年間で、DNA型鑑定は精度が高まる一方、適用件数も増えてすそ野が広がった。「DNA型鑑定は革新的な手法で、多くのケースで正しい結論を導くことは間違いない。しかし、残された試料の量が少なかったり、質が悪かったりするケースでは、今でも判定が難しいことに変わりはない。鑑定人の技能などで結論は左右される」と本田教授は話す。

 夜のニュースによると当時のDNA型鑑定の精度では「1000人に1.2人」を識別できるていどであったという。足利市のホームページによれば事件があった1990年当時の同市の人口は168,217人。犯人は絶対に足利の住民であると決めつければ、202人の中にいる。(近隣の町村まで犯人の居住圏を拡大すれば、この人数はさらに増える)

 乳幼児・女性を除いても数十人程度の「潜在的」容疑者は残る。つまり絶対の切り札のようにいわれている「DNA鑑定」が頼りになるのはその程度の限定的なものだった。

 と、ここまで書いてきてある本を思い出した。

 裁判長はわたくしの鑑定書にあげてあるシャツの血と畳の血とが同じである確率が98.5%ということについて説明してほしいということだったので・・・(中略)・・・すると、弁護人はB・M・Q・E型の頻度は1.5%だということであるが、それでは1000人中15人あることになり、人口60000のH市には900人も同じ血液型の人があるはずである。それにもかかわらず証人はシャツの血は被害者の血がついたのだということはどういうわけであるかと詰問せられた。
 それでわたくしは、このシャツの血はおそらく動脈から飛散したものがついたと思われる。血というものは怪我をしないかぎりつかないものである・・・(中略)・・・このシャツを着ていた人の近いところに動脈を切られたB・M・Q・E型の人があれば、その人の血がついたと思われる可能性が生まれるので、怪我をしておらぬB・M・Q・E型の人が、何十万人いようとも、それは問題にならぬのであるとお答えした。
 その他いろいろの問題があったが、結局、仙台高裁では被告は有罪と認められて、原審が破棄され、懲役15年に処せられた。

 古畑種基の「法医学の話」、第Ⅵ章の一節。ここでH市とあるのは弘前市、被告と呼ばれているのは那須隆、のちに真犯人が名乗り出ることによって冤罪であることが判明した。岩波はこの新書を絶版にした。それが「弘前大学教授夫人殺害事件」に関するこの記述のためであったかどうかは分からない。後の再審によって証拠とされたシャツの血は警察が事件後に人為的につけたものということが明らかになった(なんということだ)から、この件に関するかぎり古畑の鑑定に問題があったとは必ずしも言えない。

 小数点以下数桁ていどの「確率」に支えられた鑑定についてはよほど慎重に取り扱い、これが補強証拠として添えられるくらいに留めなくては危ういということがよく分かる。

 足利の事件についてはかなり早くから月刊「現代」に冤罪の可能性を指摘する記事が何度か載っていた記憶があるがライターの名前が思い出せない。引っ越しの際にかなりの雑誌を捨てた。あの中にあったはずと思うだけで悔しい。性にあわないことはやはりしない方がいいのだ。

 気を取り直して、googleで検索すると、何回かの記事をまとめ補筆したものが草思社から出ていることが分かった。さっそく、きのう、AMAZONで発注、先ほど届いた。インターネットはじつに強力。これから読んでみようと思う。(6/5/2009)

 天安門広場はだだっ広い空間で天安門の前を東西に走る長安路の南側にある。イメージ的には天安門広場というよりは人民大会堂前広場という方がピッタリくる。85、86年頃に何回か出張で訪れた時には広場の敷石には番号が振られていた。天安門広場に関する記述はインターネットにごまんと出てくるが、敷石のナンバーリングに関して書いたものを見かけない。あの数字はいまはもうないのだろうか。

 その天安門広場で軍隊が民主化を求める学生・市民を鎮圧してから今年で20年になる。素手の学生・市民に対して警察ではなく軍隊を差し向けることそのものがまっとうな政府のすることではない。もっともかつてこの国にも自衛隊に治安出動を求めた宰相がいた。安倍晋三が敬愛してやまない彼の祖父・岸信介だ。権力の権化のような人物が正常な判断力を失うと軍隊に頼りたくなるものらしい。

 けさからのニュースによれば、きょう、中国政府当局はNHKやCNNのニュースの天安門事件に関する部分をブラックアウトさせたり、広場への外国メディアの立ち入りを禁止している由。

 さきほど見た「クローズアップ現代」には香港で開催された事件に関する討論集会ですれ違う大陸出身学生と香港出身学生のやりとりの映像があった。大陸では事件に関する情報が教科書はもちろんのこと公にされていない。大陸出身学生は事件そのものをほとんど知らないにも関わらず、その無知を棚に上げて香港出身の学生に「国を貶めるようなことを言うな」と詰め寄る始末。

 その光景に南京事件から日中戦争について客観的に語ることを「自虐的」だの「反日的」だのとレッテルを貼りたがる連中の姿がオーバーラップした。より自由な国にいてさえ無知の巣にこもり、歴史を直視することができない連中がいる。テレビカメラに映る大陸出身の若者が少しばかり可哀想になった。

 朝刊に黒田恭一の訃報が出ていた。先月29日に亡くなったとのこと。「ステレオサウンド」に連載されていた「ぼくは聴餓鬼道に落ちたい」を愛読したのはもう30年以上前のこと。黒田は「暮らしの手帖」のレコード欄も担当していて、宇野功芳とは少し違うレコード案内人だった。ああ、徐々に徐々に慣れ親しんだ人たちが舞台から降りてゆく。(6/4/2009)

 朝刊トップは北朝鮮の次期総書記に関する話。世間的には権力の継承者に関すること。

 金正日には三人の息子がいる。長男がいつぞや成田で拘束され国外退去処分になった正男、次男が一時本命視された正哲、そして三男が公に流布する写真すらない正雲。

 記事はこの一月に中国を訪れた朝鮮労働党幹部が中国共産党幹部に「金正日が総書記の後継者を金正雲に指名した」と口頭で語ったというもの。先週には韓国紙が「北朝鮮の在外公館に『次期後継は正雲』とする通知が出された」と報じたとするニュースもあった。

 金正日が誰を後継者に選ぶかについては、ここ数年、さまざまに取り沙汰されてきた。金正日は金日成から後継者指名を受けて、そのまま最高指導者の地位を継承したわけだから、同様に権力委譲がなされるだろうと思うのは自然。ただしそれはあくまで推測に過ぎない。建国のカリスマとそれに比べれば作為の目立つ二代目の言葉に同等の重みがあるかどうかは別の話だし、権力構造などというものは常に変化があるものだ。さらに後継者が誰になるかによって、こちらの対応が変わり、そのための準備も必要というならばともかく、それほどのきめの細かなことを我が政府がしていないことは拉致問題ひとつ取り上げても明らか。とすれば、「誰が金正日の後継者になるか」などはせいぜい芸能誌か女性週刊誌のゴシップネタのようなものだ。

 先週だったろうか、TBSラジオの川柳コーナーを聴いていたら、「彼の国に世襲はだめと教えられ」という応募作があった。ニンマリしたのは詠んだ者、聴いた者が日本国民だったからだが、この句などは逆に北朝鮮にピッタリかもしれない。これは北朝鮮では二重の意味を持つ。まず川柳とすれば「彼の国」とは日本ということになる。ここ三代の世襲宰相のていたらくは既に北朝鮮でも笑いものになっているだろう。だがこれを「警句」と受け取れば「彼の国」とは中国ということになる。中国は「世襲はだめ」という姿勢を崩していないから。朝鮮労働党幹部が中国共産党幹部に語った言葉の主たる意味は「後継は正雲」というよりは「後継は世襲」という方にあったのかもしれない。(6/3/2009)

 **(家内)と西武ドームで対スワローズ戦を観戦。「期待しないこと、きょうは勝てないと思うよ」と**(上の息子)に言われながら・・・。

 先発はライオンズはワズディン、スワローズは石川。はたして1・2回、あっさりと1点ずつとられて2点のビハインド。2回の裏などは先頭の中村がラッキースリーベースをもらって(レフト福地が打球を見失った)、ノーアウト三塁のチャンスをもらっても、サードゴロ、浅いレフトフライ、ライトフライで無得点。何の工夫もない。これは**(上の息子)の予言通りと思った。

 ところが3回の表、スワローズがトップからの打順にゴロを三つ並べてはじめて三者凡退するや、あの銀仁朗がセンター前、送りバント、片岡ツーベース、栗山のツーランで逆転、5回には中村の満塁ホームランが飛び出して快勝。ご機嫌で帰ってきた。

 調べてみるとワズディンは初勝利、対するに石川はセリーグハーラーダービートップタイ6勝のピッチャー。よく勝てたものだ。やはり勝負事は分からないものだ。(6/2/2009)

 下高井戸シネマで「エレジー」を観る。監督はイザベル・コイシェ。一度の結婚に懲りて、その後はひたすら自由恋愛に徹してきた60過ぎの大学教授をベン・キングズレー(スキンヘッド、引き締まった体躯、精力横溢・・・映画「ガンジー」ではガンジーを演じていた由)、30ほども歳の違う教え子をペネロペ・クルス(スタイルもよく、くっきり、はっきりの容姿、・・・たしかにゴヤの「マハ」に似ている)が演じている。

 予告編は女(コンスエラ)からの語りになっていたと思うが、映画は男(デヴィッド)の回想風ナレーションで進む。始まってさほど進まないところにある台詞がいい。「歳をとったといっても、心が変わるわけではない、心は若いときのままなのだ」。

 そうだ、まさにその通りだ。しかし変わらない心のままにできるのは新しく得た人間関係に対する場合に限られる。既成の人間関係は変わらないままでは済まされない。自由恋愛の達人デヴィッドにしたって息子、そしてかなり長いこと続いているらしい愛人(これも教え子だったらしい、どうせ教師をするのなら大学がいいようだ)との関係となると心のまま軽やかにというわけにはゆかない。

 さらに厄介なことに、新しく得た関係における「心」も変わらないわけにはゆかない、この人間世界では。そして「遊ぶ」だけの関係ではなくなったコンスエラとの「心」の変化へとドラマは進む。

 コンスエラの側にどんなコンプレックスがあったのかはあまり描かれない。デヴィッドには「老い」というコンプレックスがある。いわば「非対称の戦い」。コンスエラが設定したハードルをデヴィッドは回避してふたりの関係は終わる。我々の日常ならば、これで「終わり」だ。

 しかし映画は非日常を描くものだ。だから、まずデヴィッドの竹馬の友ジョージ(字幕には現れなかったが、台詞の中には「ホレイショー」といっている部分があったような)を死なせる。デヴィッドの孤独を深めておくという仕掛け。そして2年の時が経つ。再びコンスエラがデヴィッドの前に現れる、乳癌の手術を控えた女として。(このあたりからあとの映像の美しさといったら・・・)

 安易なシナリオといえばそういえなくもないが、身も蓋もない書き方をすれば、コンプレックスのバランスは人間関係の安定のためのひとつの要素ではある。その平衡状態で「晶出」が進むかどうかは素材どうしの問題・・・といったところが見終わっての感想かな。

 映画館を出て玉電の踏切を渡るところで携帯にメール。ちょっと重苦しい気分で開くと熊本の**くんからだった。品質ISOの審査を無事完了したこと、それにそえてBL職に受かったことも。「報告しておきたくて・・・」とあった。「おめでとう、やったね。ラッキーのおすそわけをありがとう」と返信したけれど、「ラッキー」というのは失礼だった、「ハッピー」にしておけばよかったと反省。

 懐かしいエリアをちょっと一巡り。松沢小学校は再々度の建て替え工事中。いまは亡き我が校舎は「祖父の代」になるわけ。そりゃそうだ、卒業して48年になるのだもの。(6/1/2009)

注)あえて「晶出」という言葉を使ったのは、もちろん、有名な「ザルツブルグの小枝」を意識してのことです。

 **(下の息子)が学生時代のメンバーとの飲み会に上京、昨夜、遅くに来た。久しぶりに一家四人がそろったのもつかの間、昼前には帰って行った。

 **(家内)と二人で駅まで送り、きのう開通したアンダーパスを見てきた。きのうの夜も二人で見て来たのだから相当のミーハーだが、別に我々だけではない。明らかにどんな作りかを見に来た風の通行人がそこここにいた。

 去年の秋、引っ越してきたときには2月下旬に完成予定となっていたのが、3月下旬に延期され、さらに再度5月末に延期された。これで水道道路の西武線の踏切にずらりと並ぶ車や、裏道の踏切を狙ってうちの前の小道を通り抜ける車は少なくなるだろうし、智則の墓参りや市役所への届け出もぐんと楽になる・・・、そうか、いま、うちはノーカーだったっけ。

§

 週末のニュースショーはこぞって北朝鮮の核実験を取り上げていた。不思議なのは右翼っぽいことで知られる人々ほど異常に興奮しているということ。

 北朝鮮は自らを偉大な共和国と呼び、慈父の如き将軍様に導かれ、世界に冠たる強勢国家を建設しているとしている。つまり家父長国家であり、軍事優先国家であり、自国の振る舞いのすべては正しく、過ちなどない無謬の国家であるとしている。(したがって、ビルマにおける韓国大統領暗殺未遂事件、大韓航空機爆破事件などはすべて濡れ衣、南韓の謀略であるというわけだ)

 これらは大日本帝国を賛美し、その軍事行動はすべて正しかった、皇軍は常に偉大であり、南京事件などはでっち上げ、侵略国家だなどというのは濡れ衣、我が国こそ世界に類のない万世一系の天皇陛下を戴くまことに有り難き国柄であるのだ・・・云々と主張する人々の精神構造とほとんど重なる。

 大日本帝国をそうみなし、そこに戻るべきだというのが持論ならば、北朝鮮はさして危険な国家にも異常な国家にも見えないのではないか。彼の国はかつての我が国、ないしは現在の右翼諸兄と同じ思考形態をとっている。そして自分たちこそが(「自虐」に囚われない)まともな常識人であるとするならば、金正日をはじめとして彼の国の軍人・高官たちもまた自分たちとまったく変わらない常識人であると容易に想定しうるであろう。(逆に北朝鮮が異常というなら、彼らもまた異常だということ?!)

 まあ、あまりお利口とは思えぬ連中のことは放っておこう。北朝鮮には海軍らしい海軍はない。渡洋能力も揚陸能力も持たない。少なくとも日本に対してはミサイル攻撃に続く軍事力行使のバリエーションを彼の国は持ち合わせていない。空からの攻撃が唯一なし得る軍事力行使だ。空からの破壊行為のみで満足する国は世界広しといえども戦争依存症のアメリカぐらいのものだ。冷静に考えれば、北朝鮮のミサイルも「核爆弾」(実戦に使用できるかどうかについては括弧付き)も俗に言う「抑止力」にとどまることは自明だ。そもそも半島内での展開を別にすれば継戦能力がないのだから、それを使ってしまえば彼の国には亡国が待っているだけのこと。

 ところが先日来、自民党のみならず民主党の一部からも「座して自滅を待つわけにはゆかない。敵地攻撃能力を持つべきだ」という声が出て、右翼マインドの人々にはけっこう「ウけて」いるようだ。お昼のテレビ朝日「スクランブル」では安倍晋三やら田母神俊雄やらが「北朝鮮の暴発に対する抑止力を持つべきだ」とコメントする画面が流れていた。高位につきながら自分の体調管理もできない、事実の正確な把握すらできない半端な連中がよくも国家防衛を語れるものだ。げに恥知らずとは素晴らしき哉。

 相手国の「抑止力」に対抗する「抑止力」、彼らはこの論理の矛盾に気づかないほど頭が悪いのか、それとも、このご時世に世界第4位の防衛費を増額したいだけなのか。いったいどちらなのだろう。(5/31/2009)

 企業年金の裁定通知が来た。75歳以降の額は試算通りだったが、それまでの年額が22,100円少ない。月額換算で2,000円弱。ちょっと気分が悪い。有期分の脱退一時金も、75歳以降の年額も、どちらも試算値とぴったりあっているのに75歳までの終身部分だけが試算とあわないというのはおかしな話だ。まあ月にハードカバー一冊分、日経マーケットオンライン会費ぐらいのことだ、許容差と考えよう。それでも気分の悪さは残っているのだが・・・、呵々。

 公開講座、第三講。テーマは「賃金と雇用調整」。賃金も価格のひとつというところからスタート。労働という商品の市場調整は、まず残業時間の制限、そして一時金の調整から手をつけられ、次いで所定内賃金(決まって支給される額から各種の手当を差し引いたもの)の調整に進み、それでも足りない場合に雇用調整が行われる。

 所定内賃金の調整を避ける傾向にあるのは、賃金表が就業規程にあってその改訂が面倒かつ難しい一方、諸手当・一時金部分ならば使用者のフリーハンド内にあるから調整が簡単だからだという。講座は日本の所定内賃金、諸手当、一時金がどのように増減したかに進み、ここで面白い指摘があった。

 賃金調整のバッファが一時金にある以上、好景気を迎えて賃金をあげる場合も不景気を考慮して一時金を上げこれに対応するのが当然と思われる。ところが80年代末から90年代初めのいわゆるバブル景気の時、日本の賃金における所定内賃金の上昇率は一時金上昇率を遙かに上回ったということ。失われた十年とそれに続く構造改革の間、常に「高すぎる賃金」と言われたものだが、それはこんなところにも原因があったようだ。そして2000年以降、それまで対前年比でマイナスになることがなかった所定内賃金、つまり本給への調整が始まる。

 ところでなぜ所定内賃金の削減は忌避されるのか。さらにそれは正社員と非正社員の間で違いがあるのか、またそれは日本に固有のことなのか。講座ではドイツの場合との対比を、実際データをもとに観察した結果が紹介された。両国とも所定内賃金に手をつけることを避ける傾向があるのは同じだが、削減する頻度と範囲については違うという。日本では頻度は少ないがそれを実施する場合は適用範囲が全員に及ぶのに対し、ドイツは据え置き(いわゆるベアゼロということか)と幅の小さい削減が採用され、対象も職種別に分かれるということだった。職種別に適用というのはおそらくドイツには職能組合制度があるからだろう。

 実施に際しての企業アンケートのデータは非常に興味深い。両国とも所定内賃金の削減に抑制的である一番大きな理由は労働者のモラルダウンを恐れているからであるが、その次の理由になるとドイツが法的な制限があるからと答えるのに対し、日本は能力の高い者が辞めてしまうことを恐れていると答えが多い由。「日本の労働法規制は厳しすぎる」という通説を理由にする企業は少ないという。

 講座は不景気というショックに対してどのように対処するかというアンケート結果を見た後、賃金格差について、業種と過去・現在の状況を概観して終わった。結論のみ列記すると、男女間の賃金格差は減少しつつある、学歴による格差は男性では減少しつつあるが、女性では減少していない(これは男の大卒は一般化しているのに対し、女の大卒にはまだプレミアムがつくことによる)、業種間の格差は減少しつつあり、特に金融業、不動産業などの際立った優位はなくなりつつある、・・・ということだった。

 全体的にデータに立脚した話であっという間の二時間。非常に面白かった。(5/30/2009)

 午後、トヨタカローラの**さん、注文関係書類を持ってくる。火曜日に試乗したとはいえ、初代プリウスを買ったときとさして変わらぬ「衝動買い」。ソーラーパネルは**(上の息子)が強く主張するので取り付けることにした。iPod接続のためのケーブルは**(上の息子)負担。(**(家内)は主に乗るのは**(上の息子)なのだから百万くらい負担しろと言うのだがカネの話になるといつのまにかいなくなる)

 既に成約が12万台を超え納車は「10月以降」とのこと。注文書の「希望納期」欄には既に10月31日と印刷してある。**(母)さんの三回忌の際は二代目プリウスを代車提供してくれる由。仕方がない、ひたすら待つことにしよう。・・・と、思いついて**さんをテストしてみることにした。「見積りと同じで、これ、最悪が10月31日ってことなんでしょ?」。彼の答えは「プリウスは全部国内生産なんです、輸出向けをしぼって国内向けに注力する方針が出てはいるんですが、それでもなかなかで、いまのところ、こればっかりは・・・」。いい加減なことを言って客に妙な期待を抱かせない、しっかりした人のようだ。

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 きのう、麻生遁走曲について書いている頃、「安心社会実現会議」の第4回会合が開かれ、「厚労省分割騒ぎ」に関連してちょっとしたエキサイトシーンがあったらしい。日経のサイトの記事は以下。

見出し:厚労省分割めぐり、安心会議が紛糾
 厚生労働省の分割・再編を巡り、28日の安心社会実現会議が紛糾した。薬害肝炎全国原告団代表の山口美智子委員は「一委員の提案した厚労省分割・再編が報道された。衆院選のパフォーマンスを思わせる。党利党略だ」と表明。これに「提唱者」とされる読売新聞グループ本社会長の渡辺恒雄委員が「取り消せ。無礼だ」と反論し、会議は一時、険悪な雰囲気に包まれた。
 このため与謝野馨財務相が「超然たる立場で意見を述べてもらうのが会議の趣旨」と場を収めた。

 毎日のサイトにもこれとほぼ同様のトーンの記事が載っているが、同じ悶着もサンケイになるとずいぶん違った書かれ方をする。

 厚生労働省の分割を提唱した渡辺恒雄読売新聞グループ本社会長は28日夜、政府の「安心社会実現会議」出席後、記者団に分割の本格検討は衆院選後との見方を示した。さらに「自民、民主両党のどちらが政権を取るか分からない。自民党が勝てば、第2次麻生内閣が時間をかけて取り組むべきだ」と述べた。
 会議でも渡辺氏は、与党内からの異論に対して「一部の族議員がある種の権益を守りたくて反対しているように思われる」と批判。「衆院選のためのパフォーマンスとの思惑が広まっていて残念だ」との薬害肝炎全国原告団の山口美智子代表の指摘にも「与党も野党も、党利党略も選挙も関係なく申し上げている」と反論した。

 サンケイ新聞としては志を同じくする「自民党機関誌」の社長様に疵がつかないように筆を鈍らせたのかもしれない。時には事実をお化粧して報ずるのが大政翼賛会型新聞の流儀らしい。(5/29/2009)

 清少納言は「なでふことなき人の、笑がちにて、ものいたう言ひたる」を「にくきもの」のひとつとしてあげている。我が宰相の物言いなどを見聞きするたび、さしずめ、こいつなどはまさにこれだなと独り嗤い。

 今月半ばだったか、官房副長官の鴻池祥肇が不倫旅行にJR無料パスを使用したと咎められ「辞任」した。その折、任命責任を問われた我が宰相は「体調不良で辞めたものまで任命責任があるのか?」とお得意の逆質問で開き直った。ところがその映像が報道されるや翌日には「任命責任はすべてあると申し上げてきた、今度のことも例外ではない」と前言を翻した。この物言い、「オレは一度もブレていない」と言いたかったのだろうが、その子供じみた釈明は世間の笑いものになった。

 そしてきょう、これも先日持ち上がった「厚労省分割・再編」について、我が宰相は「最初から拘っていない」と述べた由。「拘っていない」といってもいろいろあろう。「早急に実現することに拘っていない」というのもあるし、「もともと実現することに拘っていない」というのもある。どれほどひいき目に見ても「最初から」というのはどちらかといえば後者のニュアンスが濃い。

 この話の震源地は15日に開催された「安心社会実現会議」で読売の渡邉恒雄が提案したものらしい。この会議の議事録は通常関係のホームページに掲載される。開催後2週間になろうというのにいまだに公開されていないので詳細は確認できないが、我が宰相はこれに飛びついたらしい。というのは、その4日後、19日に開催された経済財政諮問会議でこのように発言しているからだ。(こちらの議事録はあとに開催された会議にもかかわらず既に諮問会議のホームページに掲載されている可笑しな現象だ)。議事録18ページには議長である我が宰相とそれに続く与謝野財務相の発言が記録されている。

(麻生議長) 先日の安心社会実現会議の時に、厚生労働省の話が出た。あの時に私が言ったのは、単なる「厚生労働省を分割しましょう」という次元の話ではなくて、国民生活関係省と医療関係に分けるという話をしたが、内閣府でやっている少子化部門なども含めて、もう一回、きちんと全体の枠を考えたい。ただ2つに分割すれば良いという次元で話をしない方が良い、という話をした記憶があるが、タイミングとしてはそろそろ時期に来ている。
 こういった100年に一遍の非常に大きな変革の時期でもあるし、民間議員の方々も皆、ほぼ同様の意見を言っておられるので、これは何らかの形で効率よくしないといけない。少なくとも少子化というのが国の将来を考えるときに一番の問題というのであれば、これはきちんと立て直す必要がある。経済財政担当大臣のところできちんと整理してみていただきたい。

(与謝野議員) 総理が言われたように、厚生労働省の機能を分けるという話と「幼保一元化」というのは、国民は要望しているのだが、実現できていないということなので、これに関する提言をつくりたい。総理と御相談をさせていただくが、行政改革全体で、省庁再編などと話を大きくすると時間もかかってしまうので、ピンポイントでこの2つの問題を経済財政諮問会議でお諮りするということにいたしたいと思う。厚生労働省も文部科学省も、また小渕少子化担当大臣も覚悟を決めていただいて、そういう方向で物事を進めたい。
 また、幼児教育の無償化など色々な話が出ているが、これもやはり安定財源の確保という問題と1つのパッケージだと思うので、取り運びは経済財政諮問会議で早急にやることにして、案を官邸と少し御相談をして、諮問会議として議論を進めさせていただきたいと思う。 よろしいか。

(「はい」と声あり)

 「『はい』と声あり」という記述はいかにもの感じがして笑いを誘うが、この議事録からは頭の悪い首相の言葉足らずを与謝野がみごとにまとめ、にらみをきかせているということがよく分かる。こういうやりとりがあったからこそ、与謝野は会議後の記者会見で「総理から厚労省の仕事の切り分け、すなわち組織の分割、幼稚園と保育所の一元化は与謝野大臣が案を出してくれとの指示があった」と話したわけだ。

 そして与謝野が選挙のアピールポイントにと思った「ピンポイント」のふたつの課題は動き出した。主筆である渡邉の提案がもとになっているとあって、おとといの読売のサイトにはこの動きをまとめたこんな記事が載っていた。

 麻生首相が意欲を示している厚生労働省の分割に向けた政府内の調整が25日、スタートした。
 河村官房長官、与謝野財務・金融・経済財政相、甘利行政改革相は同日、首相官邸で協議し、週内に厚労省分割の素案をまとめる考えで一致した。6月にまとめる「経済財政改革の基本方針(骨太の方針)2009」に具体案を盛り込む方針も確認した。
 甘利行革相は協議終了後、記者団に、「政策的な整合性と、閣僚が責任を負えるキャパシティーの観点から(厚労省のあり方を)見直すということだ」と述べた。
 26日には、河村氏ら3閣僚に舛添厚生労働相、小渕少子化相、塩谷文部科学相が加わって協議する。
 首相は、厚労省所管の医療・介護・年金などを「社会保障省」に、雇用、保育行政や内閣府所管の少子化対策などを「国民生活省」に再編する案を示している。文部科学省所管の幼稚園と、厚労省の保育所を統合する「幼保一元化」についても検討を指示している。河村長官ら関係閣僚は「首相の方針に沿って素案をまとめる」(政府筋)予定だ。
 ただ、分割論議は各省庁の利害に複雑に絡んでいるため、官僚の抵抗で一筋縄ではいかない可能性もある。

 末尾の二行は記者のエキスキューズの匂いがする。しかしこの記者もまさか総理が完了の抵抗の前段も前段、自民党内の不満の噴出ていどで、我が宰相が「最初から実現することに拘っていない」などと、尻尾を巻いて遁走するとは予想もしなかったのだろう。

 気の毒なこの記者には言ってやりたい、いまや我が国の宰相の言葉は「綸言」にあらずと。衆愚の言葉に付和雷同する軽輩中の軽輩が宰相の地位にあれば是非もないことよ。(5/28/2009)

 3時、麻生太郎総理と鳩山由紀夫民主党代表との党首討論のテレビ中継を見る。

 党首討論の最後、鳩山は「意味のない答弁を長々とされ、時間だけをつぶされ、党首討論といわれるのはもったいない」と締めくくった。既に予定時間が過ぎていたが麻生はあえて「今後のこともあるので一言だけ」と発言を求めた。何を言うのかと思っていたら、「答弁が長すぎるとというお話でしたけれど、これは討論であって答弁ではありませんので、これからも討論をさせいただくときには、答弁を求めるのではなく、討論を申し込んでいただくようにお願いします」と得意満面の表情でしゃべった。この男、見かけだけかと思いきや、まるごとバカだった。言い争いの「トリ」をとらねば気が済まぬのは小人の証。

 なにゆえの党首討論か、平生の委員会審議とはどのように違うかといえば、区々たる話ではなく政策の背景をなす考え方についてやりとりをするからであろう。ところが、こいつ、何を間違ったか、「国民の最大の関心事は西松の問題だ」と頓珍漢なことを言い、これにじつに多くの時間を割いた。自ら「百年に一度」を言い訳に総理の椅子にしがみついたのは誰か。十年一日の政治資金問題と百年に一度の経済危機を比べれば、よほどの愚か者でも「百年に一度」が最大の関心事と答えるだろう。

 自ら、総理として百年に一度の危機に対処したつもりならば、さまざまに批判されている経済政策、就中、補正予算の思想を語り、各項の過不足を語り、その多寡を語り、予算措置項目相互の関連を語る一番良い機会ではないか。それが総理たる者の現下の主要テーマであろう。そして、それこそ、現在のところ、最も多くの国民にとって最も大きな関心事だ。

 対する鳩山は少なくとも理念については語ったし、補正予算に一貫した考えのないことを指摘した上で何を問題とするのかについての持論も述べた。逆に麻生は現実に立たなくてはだめだというばかりで、いかなる基本構想で現実に立ち向かうつもりかについて述べることはなかった。この世の中では理念のないやり方では最初から最後まで「現実」なるものに振り回されるだけだ。

 「どちらが内閣総理大臣にふさわしいか」、麻生はそう問いかけたが、「ふさわしさ」の論議より先に「らしさ」についての結論はあっさりと出てしまった。総理らしいのは鳩山だった。なぜなら麻生はまるで野党党首のようでいっこうに総理らしくなかったからだ。

 もっとも、鳩山は得をしただけのことで格別に輝いたわけではない。我々が北極星と呼んでいる星は一等星ではないが、こぐま座の他の星に明るい星がないから、そのα星になっている。ちなみにその星、ポラリスは連星であることが知られているから、大いに嗤えるかもしれない。

 ・・・それにしても、ヨダレの垂れ流しの如き麻生のしゃべり方、なんとかならないか。賢そうにしゃべりたいならば、語尾を引っ張るのを止めればよい。そうしたからといって語る内容の貧しさはどうなるものでもないが、少なくともキリリと引き締まった印象だけは与えられるはずだ。歯の噛み合わせが悪いスポーツ選手は大成しない。語尾がだらしないリーダーは失格だ。たしかに唇の「噛み合わせ」が悪い麻生には酷な注文かもしれぬが。(5/27/2009)

 夜、立川で旧SIセンターメンバーによる「退職祝い」の会。・・・というほど明確に「主役」だったわけではない、現役メンバーの飲み会に声をかけてもらったという感じ。最後に、「で、いくら?」と訊いたら「いらない」ということだったから、内容はどうあれ「お招き」だったのだろう。

 集まったのは、**くん、**くん、***くん、**さん、**さん(**ちゃん)、**さん(もう小学三年生のママなのにいまだに旧姓の方がしっくりくる、この子は・・・)。**くんは急に入ったあしたの出張の資料づくりのため、飲み放題が終了する頃に顔だけ出してくれた。無理はしなくていいからと電話しておいたのに。

 かつての「若手」も**くんを除けば30代後半から40代に入り、いろいろの辛い場面に行き会っているはずだが、そういう話は一切無し。そうさ、老人なんかとは違うのだ。みんなそれなりに忙しそうで、なんといったらいいか、安心して帰ってきた。帰宅10時半。

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 小沢の公設第一秘書大久保隆規が保釈された由。3月3日の逮捕だったから、拘置期間は85日に及んだということ。きのう東京地裁が大久保の保釈を決定したにも関わらず、東京地検が準抗告したため、きょうにずれ込んだ。既に西松建設の国沢幹雄前社長は既に今月1日に保釈されているのだから、検察の準抗告そのものが単なる引き延ばしにしかならないことは明らか。たかだか政治資金規正法違反、それも虚偽記載容疑ていどの被疑者を延々と拘置するなど異例中の異例に属するのではないか。地検は恣意的なリークという不正なやり方が完全に封ぜられてしまうことを恐れたのだろう。いまや検察庁の方が犯罪者なみの心理に囚われているのかもしれぬ。(検察は民主党が政権を取りでもして「検察の裏金追求」などと「痛くもない腹」を探るのではないかと恐れている?)

 検察庁にとっては大久保の公判は頭痛のタネになるに違いない。大久保は否認を通したのだろう、検察の苦戦は目に見えている。まず起訴のタイミング、解散と総選挙がどれほど遅くとも4カ月以内にはあるが、それほどモタモタするわけにはゆかない。そして立証、いったん裁判が始まればドタバタするわけにもゆかない。検察の頼みはただひとつ、世界的に見ても異常といわれている我が国の「高い有罪率(じつに99%超)」、これしかない。

 万が一、大久保が無罪になった場合は大逆事件以来の「強い検察」の権威は地に墜ちる。なりふりは構っておれぬ、検察首脳が最高裁事務総局あたりに土下座でもするか。それとももう既に担当する裁判官の人選が始まっているのかしら、「良心などは持ち合わせていない野心満々の出世主義者、政治的圧力のかけやすい奴・・・、誰かいないか」などと。一番手っ取り早いのは検察庁から転出させて担当判事にすることだが、これではいかにも見え見え。とすれば、平賀健太のような奴を東京地裁の所長にでも送り込んでおき、書簡でも書かせるか、呵々。(5/26/2009)

 北朝鮮が核実験を行ったと発表。ロシア軍当局は規模を20キロトンていどと発表、これは長崎原爆相当とのこと。前回06年10月の「核実験」が「?マーク」のつくものだった(意図的だったかどうかは別にして、連鎖反応に至らなかったと推定されている)ことと比べると今回は相応のレベルのものだったと考えた方が良さそうだ。

 もっとも「20キロトン」という表現はTNT換算の話。つまり20キロトンのTNT火薬を爆発させれば核爆弾を用いなくとも、それに匹敵する人工地震を発生させることはできる。だからアメリカをはじめとするいくつかの国は空気中のチリの採取、ガンマ線探知などの傍証の収集にあたっているはずで、それらのデータがそろうまでは、北朝鮮の「自己申告」を額面通り受け取るわけにはゆかない。

 夜の各局のニュースにはおなじみの「識者」が登場し、「アメリカとの直接交渉を焦っている、アメリカを交渉のテーブルに引っ張り出すために行ったことだ」、「金正日の健康不安を背景に朝鮮労働党と軍との間に権力闘争があり強硬策を競い合っている」、・・・などと言っている。

 可笑しいのは「焦っている」とか「政府・軍のコントロールが効かなくなっている」といい、「厄介だ」とか「困ったことだ」と断じていることだ。それほど北朝鮮が冷静でなくなっているというのなら怖がる必要はないのではないかとは思わないのだろうか。「いや、気違いに刃物ということが怖いのだ」というのなら、その気違いの「核実験を行った」という言葉をそのまま鵜呑みにするのはどうかという気もする。一見して気がふれているとおぼしき人物が「このピストルが見えないのか」と叫んだら、まず、モデルガンではないかと疑うくらいのことはするだろう。

 北朝鮮がアメリカと直接交渉したいと考えているというのはおそらくその通りだろう。しかしそのために核実験をやったと断ずるのは本末を転倒している。「事件を起こせば親を困らせ、自分の話を聞いてくれるようになると思った」などというワカモノが国内に増えたせいで、「アメリカと話をしたいから核実験をやってみました」などという話もありそうだと思うようになったのだろうか。

 北朝鮮は核を保有したいと考えているし、核保有国として待遇されることを望んでいるのだと認識することが現実的ではないか。その上で北朝鮮に核を実戦配備する力を持つことの困難さを体感させ、荒唐無稽な野望を抱かせない国際環境をどのように実現するか、そう考えるのが冷静な方策というものだ。

 気違いだとみなしている国が「核実験を行った」と発表するやいなや、核爆弾を持っている、ミサイルも持っている、恐怖を覚える、脅威だ、などと相手国以上の興奮状態に陥ってしまうのは愚の骨頂だろう。だが、おそらく、すぐにでも適地攻撃する力を持つべきだ、核武装すべきだ、・・・などという論議が持ち上がるだろう。最近のこの国には、枯れ尾花におびえて火炎放射器で焼き払い、逆に自分の放った火とその発する煙に巻かれて窒息死しかねない空気が蔓延している。そちらの方がずっと心配だ。(5/25/2009)

 **(家内)と外出。退職祝いのお返し、「なにか、らしいものがいいよ」というので「逝きし世の面影」をまとめ買い。何を詰め合わせるかは**(家内)にお任せ。

 世田谷文学館で松本清張展を見る。生誕100年記念。荒川洋治の話では1909年生まれの小説家には、他に太宰治、中島敦、大岡昇平、埴谷雄高などがいる(小説はないが、吉本隆明の仇敵、花田清輝も)そうだ。大岡、埴谷とならば、「おお、そうか」というていどだが、太宰や中島と同い年というのはいささか虚を突かれる感じがする。太宰・中島が比較的はやく亡くなったからだろう。

 それにしても自宅の「書庫Ⅰ」~「書庫Ⅷ」というのがすごい。展示品の中に蔵書印の押された本が数冊あった。説明書きには「出征することになり、わずかではあるが苦労して購った本が散逸するかと思うといたたまれず、すぐに蔵書印を注文し、なんとか間に合わせた」という言葉が紹介されていた。境遇と時代をそのまま表す、清張でなければという言葉のように思えた。

 芦花公園から東府中にまわり、加藤登紀子のコンサートを聴く。大半がおばさん。そしておばさんに連れられたおじさんがちらりほらり。きょうのメインは「1968年」だった。大学に入った年。その年はまだ19歳だったけれど、「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。一歩踏みはずせば、いっさいが若者をだめにしてしまうのだ。恋愛も思想も家族を失うことも、大人たちの仲間に入ることも。世の中でおのれがどんな役割を果しているのか知るのは辛いことだ」、まさに気分はこれだった。

 帰宅して、本棚から?秀美の「1968年」を取り出してみた。加藤登紀子の語りはこの本にではなく、そう、何年か前立ち読みしたカーランスキーの「1968」に似ていたと思い当たった。書棚にはない。こうなると読みたくて仕方がなくなる。我ながら度し難い性格だ。単純に自分の記憶と感覚の成否を確かめる、ただそれだけのことなのに。

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 見逃した夏場所の結果。14日目を終わってともに1敗の白鵬は朝青龍に、日馬富士は琴欧洲に勝ち、優勝決定戦になった由。夜のニュースで見た対決は13日目の一番と似たような取り口で日馬富士が勝ち、初優勝。初場所が朝青龍、春場所が白鵬、そして夏場所は日馬富士。ますます、「土俵上、日本人は行司だけ」になりつつある。(5/24/2009)

 公開講座、第二講。テーマは「スーパーマーケットの価格付け」。スーパーがどのようなプロセスで価格を決めているか、字面から見るとそんなタイトルだが予想とは違った。

 大規模小売店についてこの国の政策は揺れてきた。73年に作られた「大規模小売店舗法」は「中小小売業の事業活動の機会を適正に確保」するものであったが同時に「消費者の利益に配慮」するとしていた。大店法はその後の規制緩和により逐次規制を弱め、00年には「大規模小売店舗立地法」により廃止された。大規模小売店を作る側の施設計画と運営に適切な配慮を求めることにより「国民生活の向上」を実現してもらうというのがこの法律の考え方だった。しかし中心街のシャッター化がよりいっそう進む状況に06年、政府はまたもや舵を切り直した。さすがに「大規模小売店舗**法」というタイトルで方針転換をすることはメンツの上からもしにくかったのだろう、まちづくり三法(「大店立地法」はこのセットの中のひとつ)のうち「都市計画法」の改正部分に原則禁止の条項を盛り込んだ。

 きょうの話の基本課題は「規制」と「緩和」が消費者利益につながったのかどうかを「購入価格の推移」と「消費者の所得との関連」などから検証するというもの。結論としては、「大規模店舗の出現により消費者の購入価格は下がる」、「既存店舗の数は減少する」。しかし「消費者メリットを無にするほどの地域の所得低下は現在のところ顕著ではない」、また既存店舗の減少によるめだったディメリットは発生していない・・・ただしあくまでもそれは「現在のところ」だが。

 規制するにしろ、緩和するにしろ、「経済政策の検討・決定にあたってはコストとベネフィットを測定するなど十分なデータ的裏付けが必要」という主張はごく当然でうなずけるが、この課題に対してのバックデータとするには調査品目の選定とデータ量について不満の残る内容という印象。

 帰りは小金井まわりにした。駅を降りてすぐ思いついてバス通り沿いの古本屋に向かった。あった。会社帰りにはたまにここに寄った。桃源社版の澁澤龍彦作品集のいく冊かはここで買った。あの頃はちょっと偏りのある面白い本がある店のように思っていたが勘違いだったか。それとも主人が代わったのか。

 店の向かいで菅直人となんとかいう市会議員が街頭演説をしていた。(5/23/2009)

 なんということもなく寄った駅前の本屋で「レコード芸術」を手に取った。最後にレコ芸を買ったのはいつだろう、思い出せない。所沢に移ってからは買ったことがないはずだ。とすると、もう30年近くも前のことになるわけだ。

 最新号の特集は「1970年代の栄華-アナログ・レコード最後の豊穣」と「没後200年ヨゼフ・ハイドン-ラディカルな開拓者」。特集のタイトルにつられて買ってしまった、1,250円。

 表紙には懐かしいレコード・ジャケットが何枚か写っている。名盤ばかりだから、すぐに分かる。マーラー交響曲第4番:クラウディオ・アバド、ベートーベン交響曲第5番:カルロス・クライバー、ベートーベンヴァイオリンソナタ集:イツァーク・パールマンとウラジミール・アシュケナージ(二人とも若い!!)、ラフマニノフ交響曲第2番:アンドレ・プレヴィン、ほかにションパンとおぼしきレコード・ジャケットの一部が2枚みえている、これは誰だろう、アルゲリッチか、それとも・・・。

 中央のターンテーブルにのっているのはマーラーだ。そしてオルトフォンのアームに、カートリッジは懐かしいSPUタイプ。うちのはMC20だったが、一時期、**さんからSPU-GTEを借りていた。あれは昇圧トランスが重くてバランスをとるのに苦労させられたが、加藤登紀子の声には最適のすばらしい逸品だった。

 会社に勤めて自由になるカネができて、しばらくして自分用のステレオを買った。アンプはラックスのSQ-38FDⅡ、プレイヤーはビクターのJL- B77、カートリッジは当時ポピューラーだったシュアーのV15-TypeⅢ、スピーカーは**(弟)が受験を控えていたのであきらめてスタックスのイヤー・スピーカーにしていた。**(上の息子)が処分してしまったロッキングチェアに揺られて数少ないレコードを何度も何度も聴いていた。こんな型式よく憶えているものだ、しかしこれこそが我が青春。

 レコードは絶対に自分のセットでしかかけなかった。ベートーベンのラズモフスキーセットをベルリンSQが演じたエテルナ盤(たぶんジャケットはミケランジェロのダビデ像だった)を買った日、「ちょっと支度をするから、その間、かけてみて」というリクエストに「うちのセット以外では、かけたくないんだ」と断ったことがあったっけ。それが最初の小さなつまずきになったことを知ったのはずっと後のこと。思えばずいぶん嫌な奴だったわけだ。

 特集には70年から79年まで年毎の音楽カレンダーとトピックス、その年の名盤たちが載っている。いくつかはうちのリスニングの棚に入っているはずだ。カビが生えていないといいが・・・、急に心配になってきたけれど、未整理の段ボール箱の山をよけないと確かめられない。ポリーニ、ミケランジェリ、アルゲリッチ、そうそう、ジャクリーヌ・デュ・プレ、・・・、もう、「体全体を耳にして聴く」なんてことはできないだろう、寂しいことに。(5/22/2009)

 **さんに責められて日程と初日の札幌の宿のみを決めたまま放ってあった北海道旅行、ハイシーズンに入る時期だけにいくら何でもそろそろ予約を入れなくてはと、朝から**(家内)と二人で検討開始。**(家内)もPCの前に座らせたのは、後々のためを考えてのこと。

 しかし7月になるや北海道はレンタカーも宿代もすべてが夏期料金になる。この差が結構大きい。6月中よりは7月に入ってからの方がいいことはたしかなのだが、ステップ応答されるとちょっとばかりショック。

 30日に札幌に入り・・・(省略)・・・翌朝は空港へ直行。

 4日の宿。旭川だし、土曜の夜だから、最悪はビジネスホテルにすれば簡単にとれると思ったのは間違い。いまや日本で一番有名な動物園にはかなりの人が押し寄せるらしい。土日のビジネスホテルも一ヶ月半前にはいっぱいになるとみえる。かといってグランドホテルで一泊数万円というのは根が貧乏人の夫婦には最初から論外。ダブルでなんとかパコホテルに予約を取った。**(家内)は「ダブルベッドは嫌」と言うがしようがない。西興部の仕事の際には何回か泊まった懐かしいホテル。

 旅行は行く前の方が楽しいものだ。ふたりがともに健康でこうしてPCの前に並んで座り、笑いながら旅行プランのあれこれについて検討した・・・きょうのような日をあと何回、過ごせるだろう。そして、ふたりのうちどちらがそれを懐かしく思い出すのだろう。"Memento mori"・・・だから、きょうは楽しく、きょうは愉快に。(5/21/2009)

 ライティングデスクから金ピカの腕時計が出てきた。手巻き、竜頭を巻き上げるとテンプの動く音だろう、じつにクラシカルな音で動き始める。カレンダーをあわせようとしたのだが、竜頭をいくら引いてもそのポジションにならない。

 検索してみれば取り扱いぐらい分かるかもしれないと思い、googleであたってみた。「LIGUN」。トップに出てきた記事は「腕時計詐欺事件に注意を!」というもの。

 まず、「即売会の帰りだが、検品漏れのために数量がひとつあわなかった。持って帰ると叱られる。かといって捨てるのももったいないので、もらってくれませんか。売ると30万くらいはするものだ」と持ちかける。これに応ずると「代わりといっては何だが、飲み代としていくらでもいい、お気持ち、いただければ」とつなぐ。けっして横柄でも高圧的でもなく、ひたすら下手に持ちかけるため、人によって数千円から数万円を渡してしまう由。しかし「もの」は千円前後の粗悪品。

 **(父)さん、どういう経緯でこれを机にしまい込んでいたのだろう。いくら払ったのだろう。あの世で再会することがあったら訊いてみたい。(5/20/2009)

 仏間の畳入れ替え。畳を上げると銅製の炉壇が現れた。炉畳はなくすことにした。もともと、茶室のしつらえも中途半端だし、なにより炭手前ができない。せいぜい電熱器を仕込んだ風炉をさわるかどうかというくらいなのだから、いいだろう。

 夕方、新しい畳が届いた。寝転がって、香りを楽しんでみる。天井にぽつんと釘のあるのが眼に入った。蛭釘はいくぶん寂しそうだった。

 「フォーマルな茶室」などというものはないというのが本来の「茶の心」だ。「これが正式の茶室です」などという話を聞いたら利休は嗤うだろう。しかし「それ」を飯のタネにしている輩がいる限り、「ニセモノの心」が「ホンモノの心」を駆逐するというわけだ。

 トヨタの朝霞からニュープリウスのカタログと見積り試算例を持ってきた。いまのプリウスを買ったときもそうだったが、我が家は不思議に不景気のさなかにかなりの買い物をする。成り行きなのか真の愛国者なのか、呵々。

§

 障害者団体向け割引制度をベスト電器など数社のダイレクトメールに不正適用していた件で、日本郵便の新大阪支店長と新東京支店総務主任が逮捕された。夕刊によると、この二人が逮捕されたのは、不正発送が全国20支店で1億4千万通あるなかで新大阪支店はそのうち3割に達すること、一日あたりの発送が50万から70万通と不正発送が一目瞭然であった例が新東京支店にあったためとのこと。

 例によって例のごとくの「一罰百戒」だが、そもそも「より強いものによりよい条件を提供するのは当然」というのが「小泉-竹中コウゾウカイカク」の基本思想だ。つまり日本郵便は「企業の営利原則」を押し通して儲からない「障害者向け割引制度」などは撤廃するか、はやりの「自立支援」を名目にして高い料金を課し、その一方で大量のダイレクトメールを出す「良質顧客」に「規制緩和」ないしは「活性化」を名目に「料金優遇」する制度をすぐに整備すべきだったのだ。きょう逮捕された支店長と主任はその精神を先取りして「営業活動」を推進したコウゾウカイカクの尖兵さんだった。つまり彼らは称揚されて然るべきで逮捕されるいわれなどない。それが小泉(竹中)カイカクの真髄だ。

 竹中はこのニュースを聞いて思ったことだろう、「顧客優先の民営化カイカクが緩慢だから犠牲者を出したのだ。日本郵便には一刻も早く営利目的の民営会社であるという自覚を徹底させ、弱者を踏みつぶしてでも強者に奉仕し、大口顧客を優先する精神を注入することが必要だ」と。だからといって竹中が逮捕された彼らを気の毒に思ったということはなかろう。せいぜいがところ、「バカだね、物事には手順があることぐらい心得なきゃ」、これが世渡り上手な、お利口さんの精神構造だ。(5/19/2009)

 「算法少女」を読む。子供向きに書かれた物語だからさほど時間はかからない。だが大人が読んでも面白く、心温まる本。

 作者である遠藤寛子が、子供の頃、父から聞いた和算の本「算法少女」を題材に書いた作品。原「算法少女」は安永4年(1775年)に刊行されているが、その背景がこの作品に書かれたようなものであったかどうかは分からない。しかし江戸時代という背景を考慮すると、「算法少女」という書名はずいぶん「翔んでいる」。だからこのストーリーにはノンフィクションのようなリアリティがある。

 また小説の主人公千葉あきとその父千葉桃三が、そのまま遠藤寛子とその父の関係に投射しているようにも思える。つまり二組の父娘はちょうどリカーシブな関係にあるように見えて、少し胸が熱くなるような読後感。絶版後も再刊の声が高く、ちくま学芸文庫に復活した理由が十分にうなずける佳品だった。

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 昨夜、セッティングしたNASを光電話ルータ(PR200NE)のそばに置くことにして、スパゲッティになっているケーブルを整頓するべく電源を外したのが運の尽き。インターネットアクセスができなくなってしまった。ネットワーク機器の設定は年に一回あるかどうかという作業だから、どうしてもいろいろなところでつまずく。

 ああでもないこうでもないといじるうちに、ルータからASAHIネットへのアクセス設定に問題があるということまでは分かったのだが、肝心のルータ設定のIDとパスワードが分からない。(**(上の息子)が回線の開設依頼をした、したがって工事記録の保管は絶望的)

 NTTのサポート窓口の指示を受けて、ルータを初期化、ID/パスワードを再設定した。処置を書くとこれだけのことなのだが、光電話ルータを初期化すれば電話そのものが通じなくなるから、途中から携帯電話に切り替えての作業。便利な時代の新たな不便。(5/18/2009)

 「三崎でマグロを食べるクルージング」は強風のため中止。4時45分に起床、5時35分に家を出た。八重洲のバス停に着いたのは6時半過ぎ。誰も来ていない。もしやと携帯を見ると、着信表示にメール。連絡はきのうのうちに携帯に入っていた。そういえば、最近、携帯はあまり使わない。まったく意識になかった。雨はやんだが風が強い。「船長」の判断は正しかった。大島クルージングの経験でいうと、この風ならば東京湾内でもかなりの波高になりそうだ。

 空しく帰宅。べつに時間をもてあますことはない。「江戸の数学教科書」に紹介されている「塵劫記」の遺題にチャレンジ。和算でなくともよいならば第3問まではさほどのことはない。第4問は尺貫法の単位体系が不明ということもあるが、かなりの難物。

 思い出したことがある。たぶん6年生の今ごろだった。土曜日の算数の時間に**先生が「この円錐の表面積、どうしたら出せるか考えてごらん」といった。「宿題にはしないけれど、やれる子はやってみて」、そんな言い方だった。

 教科書には出ていない。参考書でも見れば、答えはそのまま出ていたのだろうが、「絶対に自分だけで答えを見つけるぞ」と決めた。思いつくのにどれくらいの時間がかかったかは記憶にない。記憶にあるのは底面の円周と展開した扇形の弧の長さが同じだと気がついたときのなんともいいようのない快感だ。「ユーリカ!」、もちろんその頃はそんな言葉は知らなかったが、そういう気持ちだった。隠れているものを見つける快感、手持ちの知識を動員して「解く」という快感。

 「江戸の数学教科書」にはこんなくだりがある。

 誰でも小学生の頃は、「算数って面白い」と感じたことがあるはずだ。オモチャと戯れるように、純粋に数と戯れ、それを楽しむことができた。
 ところが中学、高校と進むにしたがって、その気持ちを失ってしまう。今の日本の子供たちにとって、勉強は「受験」と切り離せないものになっているからだ。それが「面白いから学ぶ」のではなく、「受験で成功するために学ぶ」のが今の子供たちである。それを楽しむこと自体が「目的」だった数学が、志望校に入るための「手段」になってしまうのだから、好きになれないのも無理はない。もはやそれは「好き嫌いの対象」でさえなくなっていると言えるだろう。単なる「義務」である。
 最近は中学受験をする子供たちも増えているから、すでに小学生のうちから算数を面白がれなくなっているのかもしれない。このままでは、数学という学問の裾野は狭まる一方なのではないだろうか。

 せっかく生まれてきたのだから、数学を面白がる気持ち、たとえば、うさんくさい「i(虚数単位)」と、これまたうさんくさい「e(自然対数の底)」、そして、おなじみではあるがやはり超越数としての不思議さを持っている「π(円周率)」が登場して、えっと思わせるオイラーの等式(eのiπ乗が-1に等しい)などは面白さの極致だろう。理詰めで導かれた世界が常識に反するという驚き。そういう体験をしないなんて損だという気持ちを伝えられないとしたら、そういう数学教育はいかにも寂しい。(5/17/2009)

注)もし、このオイラーの等式について、学びたいとおっしゃるならば、
吉田武 「オイラーの贈物-人類の至宝eiπ=-1を学ぶ-」 ちくま学芸文庫
 をおすすめします。もっとじっくりとおっしゃるならば
吉田武 「虚数の情緒-中学生からの全方位独学法-」 東海大学出版会
 という「すごい本」もあります。

 きのう、銀座に出る前に買ったシェイクスピアの「ソネット」(岩波文庫:高松雄一訳)で「春にして君を離れ」に使われている原詩を探してみた。

 題名はソネット98番の冒頭からとられたものらしい。作中に出てくる18番も116番も、文語調である分、岩波版の高松雄一の訳よりも格調が高く、朗唱したくなるほどだ。シェイクスピアには坪内逍遙に始まっていろいろの人の訳がありそうだが、誰それの訳と断っていないところを見ると、これは中村妙子自身の訳なのだろう。

 しかし早川ミステリー文庫のつながりだとしても、できればソネットの何番かということくらいの注は欲しかった。クリスティーが「ミステリーを読む同国人」を想定して書いているとすると、そこに書かれていない共通の「常識」があるのではないか、それが分かっているともっと深く読めるのではないか・・・などと思ってしまう読者もいるのだから

 それぞれの原詩をインターネットで見つけたのでコピーしておく。

XVIII.

Shall I compare thee to a summer's day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer's lease hath all too short a date:
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimm'd;
And every fair from fair sometime declines,
By chance or nature's changing course untrimm'd;
But thy eternal summer shall not fade
Nor lose possession of that fair thou owest;
Nor shall Death brag thou wander'st in his shade,
When in eternal lines to time thou growest:
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this and this gives life to thee.


XCVIII.

From you have I been absent in the spring,
When proud-pied April dress'd in all his trim
Hath put a spirit of youth in every thing,
That heavy Saturn laugh'd and leap'd with him.
Yet nor the lays of birds nor the sweet smell
Of different flowers in odour and in hue
Could make me any summer's story tell,
Or from their proud lap pluck them where they grew;
Nor did I wonder at the lily's white,
Nor praise the deep vermilion in the rose;
They were but sweet, but figures of delight,
Drawn after you, you pattern of all those.
Yet seem'd it winter still, and, you away,
As with your shadow I with these did play:


CXVI.

Let me not to the marriage of true minds
Admit impediments. Love is not love
Which alters when it alteration finds,
Or bends with the remover to remove:
O no! it is an ever-fixed mark
That looks on tempests and is never shaken;
It is the star to every wandering bark,
Whose worth's unknown, although his height be taken.
Love's not Time's fool, though rosy lips and cheeks
Within his bending sickle's compass come:
Love alters not with his brief hours and weeks,
But bears it out even to the edge of doom.
If this be error and upon me proved,
I never writ, nor no man ever loved.

 いけない、きょうは春の講座の第一回だった。夢中になっていてきのうのように遅刻するわけにはゆかない。

§

 春の公開講座、テーマは「日本のカカク」。受講登録は五十数名、ほぼ去年と同じ。女性が少し増えた感じがするのは、テーが法律ではなく経済、しかも物価だからか。

 第一講は「日本の物価ダイナミクス」、経済研究所の渡辺努教授。PCとプロジェクタをつなぐケーブルが不良だったらしく開始が15分ほど遅れたが、終わってからも質疑の時間をたっぷりとって丁寧に答えてくれた。もう少し書きたいが、あしたは6時45分八重洲集合。天気が悪いというだけでなく、海も荒れるという予報。いまひとつ気が入らない感じ。(5/16/2009)

 懸案だった北の六畳に借り置きしていたタンス、やっときょう二階の寝室に収めることができた。タンスの解体と再組立だけで約3時間ほどもかかったろうか。多少ゴタゴタはしたが、大川家具のメンバーには感謝しなくてはならない。

 これですべて定位置にセット。あとは部屋ごとに**(父)さんと**(母)さんのものを整理して収納場所を空け、・・・まだまだかかりそう。あの老夫婦、どれほどの「ものの山」を残していったことか。意識をしておかないと同じ恨みを受けることになる。

 リスニングルームが片付いて4343を修理に出し、レーザープレイヤーについて本気で検討できるようになるのはいつになるだろう。できれば、秋、スピーカーの音がぐんぐんよくなる、あの快感をことし味わいたいのだが。

 ***さんの屋根工事がきのう終わったとかで**さんが寄ってくれた。タンスがなくなった部屋を見て、「よく上がりましたね」。吊り上げがダメで解体・再組立をしたというと、「いや、どうやるのかと思って」・・・。来週の畳屋さんの仕事が気になっていたのだろう、こちら以上に安心した顔だった。

 思いの外、おしゃべりをした関係でCDショップを覗く時間がなくなった。そろそろ出なくては。(5/15/2009)

 責め苦のように思っていた通勤がなくなって一月半。けさ、はじめて会社の夢を見た。夢というのは覚め際に見たものしか記憶にないようだから、寝ている間には一度や二度、会社の夢やそのつながりでの人の夢を見ているのだろうが、奇妙に会社のこともそこで知り合った人の夢もなかった。やっと見た会社の夢はDRの場面。論議は設計者の人格を論評するようなやりとりで、なぜか「**さんを呼んでこい」というところで目が覚めた。

 読みかけの小説の主人公の夫はこんな風に娘に意見する。「ぼくははっきりいっておく、エイヴラル、自分の望む仕事につけない男――自分の天職につけない男は、男であって男でないと」。

 痛烈なパンチだ。毎日が日曜日になっても、ほとんど痛痒を感じない毎日、周公を見ないどころか、永年の生活の残滓すら残っていない男、そういう働き方だったということか・・・。

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 クリスティー「春にして君を離れ」、読み終えた。もともとはメアリ・ウェストマコット名義で出版された小説。「推理」小説ではあるが、誰も殺されないし、何も盗まれない。しかしなかなか多くのことを考えさせてくれる作品だ。「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」という本があったが、思えばオレは推理小説、就中、クリスティーにずいぶん多くのことを学んだ。たとえば「善意の人も、むしろ、その善意故に嘘をつくのです」というのは貴重なアドバイスだった。

 一男二女をもうけ、自信満々の家庭生活を送ってきたジョーンが、ふとしたことから自分の自信を支える「よそ目」ではない見方に気づく。片々たる「事実」から「真実」へ・・・。

 人が日々暮らしてゆく間には、いろいろな「観察」と「推理」をしている。その観察があたっているのか、偏見に歪められているのか、あるいはその推理が正しいのか、誤っているのか、ほとんどの場合、それは分からない。未然に災厄を防ぐこともあるし、とうぜん気がついてもよいことがらに盲目であるために、後々そのつけを払わされることだってある。

 露わにならない数多くの真実が身の回りにはたくさんころがっているものだ。それが「人生」の「風景」だ。

 誰もが自分の「観察力」と「推理力」をフル動員するのは色恋の場面だ。そしてあれやこれやと「手練」と「手管」を繰り出したりする。そういうときには、できるなら「事実」ではなく「真実」を知りたいと思うものだが、そういうときでさえ、人は真実ではなく事実、それも表面的な事実で「決断」したりする。だが人生というのは、この物語のように結婚もそうだが、そういうものなのだ。真実と限らぬものに支えられている危うさはあまり問題ではない。真実とは限らぬもので判断した結果を引き受け続けることが問題であって、それこそが人生なのだ。(5/14/2009)

 「お疲れ?」というメールが来た。「のぎへん」は「秋」、「行」は「ぎょうにんべん」というご指摘。まったくその通り、「自称」保守主義者を嗤う一方で「これ」では、「歳はとりたくないものです」ということになってしまいますな。さっそくホームページを修正しておいた。

 ついでに元善光寺の算額について貴重な情報をくれた。検索利用技術だけは腕をあげたようだ、ネットワークやPCの設定はいっこう上達しないくせに。

 長野県に現存する算額のすべてを集め解説した本があり、先日、書写した元善光寺のものも収められているとのこと。さらにその本が電子化されており、ネットですぐに読めるという話。さっそくアクセスしてみた。あった。持つべきは気の利いた「算法少女」。

中村信弥ほか 「絵馬算額への招待-現代数学による解法-長野県現存算額集大成」 教育書館 1999

 第5章「飯田線に沿って」、527-528ページに図入りで原文と「題意」、「答」、「術」に、「現代解法」までつけて収録してある。ここで「術」とは和算での解法のことなのだろうか。術の記載はじつに簡潔なのだが、「共」、「柁」の意味が分からないので"Greek to me"。

 書写については、「経」はやはり「径」であり、問いの4文字目と答えの4文字目は「圓(円)」ではなく「圖(図)」であった。また3行目の4文字目は「罅」ではなく「媾」(しかしこういう字には見えなかった)、答え4行目の5文字目は「?」ではなく「柁」の間違い。意味も分からずただ書き写すだけではこういうことになる。何をするにしてもそのことをきちんとやるにたるだけの最小限の"discipline"は必要ということ。

 午後から**(家内)ときのう休館だった野間記念館に行く。そろそろ支度しなくちゃ。(5/13/2009)

 **(家内)と待ち合わせて、野間記念館でやっている「横山大観と木村武山展」を観にゆく。江戸川橋の駅から椿山荘方向に坂を上る。蒸し暑さを我慢しつつ行き着くと、なんと「本日休館」。同じ方向から女性二人連れが来て、「あらあら、なんでしょ」。向き直って**(家内)に「休館日、確かめなかったの?」というと、ただ一言、「ゼンゼン」。床屋(「とこや」を変換すると「不快用語」だと「記者ハンドブック」が教えてくれる。そうかねぇ、じゃなにかい、「床山」も「不快用語」かい?)同様、美術館・博物館も週休二日で月曜・火曜が休館日になっているらしい。

 池袋まで戻って「お詫び」に「みはし」であんみつをおごってもらう(ここは値段のわりにたっぷりあって、甘さも適度)。男性客一人だったが、ほどなく老夫妻が入ってきた。ご同輩と呼ぶのは失礼なお歳のようだったが、あちらも奥さん主導のようで親しみを覚えた。

 皮工芸教室にゆく**(家内)と別れて、久しぶりにゆっくりと本を見て歩く。

 出たばかりらしい福田和也の「日本国怪物列伝」をパラパラ見ていたら、森恪が10ページほどを割いて取り上げられていた。森恪を怪物と呼ぶならば、政界入りしてからのことを書いてこそと思うが、三井物産を辞めるまでで終わっている。バルチック艦隊の航跡を通報したとか、孫文に革命資金を渡した(小心者らしく、わざわざ、「森は辛亥革命を必ずしも支持したわけではない」と書いてあるところが微笑ましい)とか、そのていどの話に留めておけば、「教科書が教えない**」のようなものに飛びつき、そんなものを歴史として語りたがるライトマインドの読者を満足させられると踏んでのことだろう。こんなもので原稿料を稼ぐのが福田のやり口になってしまったのかと嗤って平積みの山に戻した。

 岩波文庫の棚に「列子(上・下)」と「戦史(上・中・下)」がそろって出ているので買ってしまった。たしかにこれは「統合失調症」気味、というよりは単なる「ビブリオマニア」か。他には渡辺靖「アフター・アメリカ」、金文子「朝鮮王妃殺害と日本人」、フロイト「モーセと一神教」など。AMAZON発注分があるから、来月のカード請求は大変なことになりそうだ。(5/12/2009)

 民主党小沢が代表を辞任。なんということもない麻生の支持率が30%台に回復となれば、さすがの剛腕小沢も目が覚めたというところだろう。もっとも一桁パーセントにめり込むのは目前だったものが、ここまで戻ったから劇的に見えるだけのこと。不支持率はまだ50%台ということは、過半数は「麻生じゃダメだ」と思っていることに変わりはない。その証拠に経済政策は不支持率60%台だ。

 夕方の記者会見で、献金事件との関連を問われた小沢は「一点のやましいところもない」、「政治的な責任で辞めるわけではない」といささか気色ばんで答えていた。西松建設から受け取っていたカネがどのていど「汚い」ものだったかというのは、せいぜい道義上の問題であって、法律上の問題ではない(少なくともザル法である現行の政治資金規制法上は「汚い」ものではない)。つまり東京地検特捜部の恣意的な捜査の方が「汚い」のだというのが小沢の気持ちなのだろう。同じことをやりながら二階俊博に対する捜査はやる気があるのかないのか、動きが見えないし、なにより小沢同様のやり方で政治献金を受け取っている自民党議員はごまんといる。根が自民党体質の小沢が怒り、開き直るのも、十分に理解できる。

 しかし、小沢よ、おまえも自民党出身ならば、所詮、「民主主義は衆愚政治のことだ」と思っているだろう。それは「お役所にしょっぴかれた」というだけで「国民に理解される説明責任を果たせ」などとマスコミが連呼する状況を見れば分かることだ。いったいなにを説明しろというのだ、そもそも「説明」なるものを聞いて理解する能力のないバカが半分いるというのが現実ではないか。これに有効に対処する方法はたったひとつしかない。辞めることだ。

 その意味では辞任の決断がここまで遅れたことは、単に民主党のみならず、この国にとっても、不幸なことであった。無責任きわまりない補正予算の濫発、そして異常なまでの海外漫遊による税金の濫費を繰り返す「死に神タロー」の暴走を誰も止められなくなってしまったのだから。

 遅きに失した小沢の辞任劇。唯一の望みは岡田克也が速やかに代表に就任することを望むばかりだ。まちがっても賞味期限切れの菅直人、どこかピントの合わない鳩山由紀夫、こういう時には必ずウロチョロ醜態を晒す野田佳彦(少し前までは河村たかしだったが、さすがに就任したばかりの市長の職を捨てることはあるまい)、永田メール処理でリスク管理能力が皆無であることを満天下に晒した前原誠司などがしゃしゃり出て、時間を空費することは許されない。(5/11/2009)

 暑い一日だった。ゆっくりと不在中の新聞を拾い読み。夕刊の「検証・昭和報道」、このところのテーマは「統帥権干犯」で、欠かせない。

 大日本帝国を破綻させたのが「統帥権」であることは日本の近現代史を知る者にとっては常識。憲法記念日にオンエアされたNHKの「ジャパン・プロジェクト」第2回「天皇と憲法」は、第2章で政党政治が自壊してゆく象徴として犬養毅(第一回帝国議会選挙に当選以来連続当選、五一五事件により暗殺)を取り上げていた。民権政治の拡大を自分の手で成し遂げたいと思った犬養が、権力を手中にするために「統帥権干犯」を政府攻撃の手段とし、かえって墓穴を掘ってしまった・・・そういう説明だった。出演した御厨貴は「(権力を持つ機会が訪れると)政治家ってうずくんですよ」と言っていた。政治家が陥りがちな誤りを指摘したコメントで教訓的ではあるが、犬養への大命降下はそれほど必然的なものではなかったから、首相の椅子を狙って犬養が「統帥権干犯」を持ち出したとするのは多少無理がある。

 夕刊掲載の「昭和報道」はそのあたりをもう少し詳細に書いている。

 ロンドン軍縮会議当時海軍次官であった山梨勝之進は「海軍省及び軍令部において・・・(憲法論など)興味もなければ研究したこともなかった」、「賢い手合いが、この問題を倒閣のための跳躍台とにらんだ。政友会にはこのようなことにかけては海千山千の名人がそろっていた」(「歴史と名将」。この本は、戦後、彼が海上自衛隊幹部学校で行った講義を集めたものらしい。AMAZONにて発注)と証言している由。

 もともと「統帥権干犯」というおどろおどろしい言葉を案出したのは陸軍参謀部であったらしい。そしてその言葉を海軍に伝えるとともに、倒閣活動につなげるために裏で画策したのが悪名高い森恪だった。森は「目的のためには手段を選ばない人物だった」そうだ。たぶん典型的「低劣右翼」そのものだったに違いない。彼が犬養毅暗殺の手引きをしたという話は、その「人柄」によるものでまったく根も葉もないものではなかろう。こういう管見による近視眼的愛国活動が国を破滅させたのだ。

 最近で言えば、小林よしのりや田母神俊雄・・・違うな、彼らは商売熱心だ。結果的に国がどうなろうと意に介するところでないことは、そのひたすら愚劣な連中にチューニングしている言説でよく分かる。商売繁盛でまことにめでたいことだ、呵々。(5/10/2009)

 昨夜はエクストラベッドをセットしてもらって、久しぶりに親子三人、ひとつ部屋に寝た。

 車で寮まで行き、おみやげその他の荷物を下ろし、運転を交代して寮と工場間を二往復。免許を取得以来、ずっとペーパー。前向き駐車でも思うようにわくには入らない。近くに教習所があるとのことなのでペーパー教習を受けることを勧める。近くの「天近」という店で食事。

 岐阜羽島まで送ってもらいたいところだが、寮へ帰る運転に自信がないとか。バスで駅まで。14時11分のひかりで帰ってきた。

 きのう書き残したこと。妻籠から馬籠へ。馬籠は妻籠より観光地化されている感じだった。中仙道43番目の宿場。島崎藤村生誕の地。島崎家は馬籠の本陣であった由。藤村記念館には藤村の蔵書の一部が展示してあった。洋書が多数を占める中、漢籍が相当量あった。妻籠の脇本陣、林家の蔵書は「八犬伝」が大部を占め、あとは「武鑑」に、せいぜい「神皇正統記」。本陣と脇本陣、志の違いは存外大きい。

 それにしても蔵書というのはじつに雄弁に「語る」ものだと少しばかり恐ろしくなった。

 そうだ、きょうは**(弟)の誕生日だった。生きていれば55歳。クロスとフローリングは張り替えた。照明も取り替えた。だんだん眼が悪くなるはずだからな。作り付けの本棚と机はそのまま使わせてもらったよ。古びてはいるが昔のまま。この部屋から出すとしたら、壊すか、窓から出すしかないらしい。どうやって入れたんだ、おまえ。もう少し落ち着いたら、修論をインプットしてやるよ、論旨をトレースしながら。(5/9/2009)

 わずかに雨の降る中を10時少し前に出発。峠を越えて妻籠宿へ。

 板橋に始まる中仙道42番目の宿場。本陣、脇本陣と脇本陣敷地内にある歴史資料館を見る。資料館の展示は宿場町として栄えた頃の歴史に限定せず、明治以降現在に至るまでをきちんと伝えるもので見応えがあった。妻籠にはたっぷり2時間以上いた。
続いて馬籠で藤村記念館を見て、中津川のインターに入る頃やっと晴れ間が見えてきた。岐阜羽島インターで降り、大垣着、大垣フォーラムホテルチェックインは4時半頃。

 このホテルはネットがつながる。記憶が蒸発する前にいろいろ確認できるのはいまや必須。

 よく言われる「檜一本首一つ」というのは尾張藩の定めた禁令だったそうだが、その規制が厳格に適用される地域は木曽の山林の一割にも満たず、それ以外の山林には入会権(こんな言葉はなかったろうが)が自然に成立していた。木曽が地勢上の悪条件にもかかわらず相当の経済力を有していたのは、この入会権を基礎とする木工業に支えられていたからだという。

 木曽の住民は明治維新を迎え、魅力的な檜の育つ規制林が地域のものになるという暗黙の期待を抱いていたらしい。ところが事態はそうはならなかった。それどころか尾張藩政時代よりもさらに悪くなった。入会権が認められていた部分までが国有、それも皇室財産として御料林指定されてしまったからだ。

 入会権の喪失は地域住民の多くにとっては死活問題。妻籠宿本陣の当主であった島崎広助(島崎藤村の兄)は政府にたびたび御料林取り消しを求める誓願をするが、「皇室財産化」は立憲君主国を装いながら基本的に絶対君主主義の尻尾を残す明治政府の根幹をなす政策であったから、木曽の山林が民有林になることは実現するはずもなく、その活動は「下賜金」の獲得といういかにもの首尾に終わる。

 尾張藩政の時代よりもかえって生活が苦しくなった木曽地域からは旧満州への移民が多かったらしい。読書村(よみかきむら:与川村・三留野村・柿其村が1874年に合併してできたため、その頭をとった由)からの移植者は「読書分村」を作り「本村」との交流もあった。満州の沃野に作られた「分村」の写真、引き上げ時の混乱による死者数なども展示されていたりして、よくある人をバカにしたような「ディスカバー・ジャパン」的浮ついた展示(もっとも最近のこの国の人々は「浮薄こそ身上」だから、チャラチャラした展示こそ大好き、「入館料を損した」などとはつゆ思うまい)に止まっていない。・・・さすがに教育県、ナガノ。

 そろそろ、**(下の息子)を迎えにゆく頃。馬籠については、あした帰宅後。(5/8/2009)

 雨はあがらなかった。10時過ぎに家を出て、国立のインターに入ったのが11時20分。天気がよければヘブンス園原まで行って軽く高原気分をと思っていたが雨は降り止まない。松川で降りて元善光寺によることにした。境川・駒ヶ岳のパーキングで休憩を取って、インターを降りたのは2時過ぎ。

 算額を見かけたので**(家内)を待たせて問題と解の部分を書写した。「経」とあるのは「径」ではないかと思うのだが、「ぎょうにんべん」ではなく明らかに「いとへん」に見えるし、回答の中にある「共」の字はなんとも奇怪な字で、遠目には「共」に見えなくもないので「共」にした。

今有如圓扇面内容
日圓[一個]其内乙圓[二個]
交外内罅丙圓[三個]及
甲圓[二個]只云外積六
十七歩五分又内外
背和二十八寸五分
問甲圓経幾何

 答甲圓経[一寸八分]
術曰依圓求五個名
共乗又云減只云余
除十個以除只云積
求九個名?以共除
之得甲圓経合問
([ ]内は小さい字で添書風に記載の部分)

 これに図がつけてある。扇の外円と内円に接する円(赤く塗ってある)があり、その直径上に三個の円が互いに外接して並ぶ。この円は白く塗ってあり丙と名付けられている。丙二個を直径とする円が乙で緑に塗ってある。このふたつある乙にそれぞれ外接し、一番外側の赤く塗ってある円に内接する円が甲である。問題の「空気」は分かるのだが、どの部分の寸法あるいは面積が既知なのかが読み取れない。算額の解説書でもみなければ、素人には無理のようだ。

 それにしても、こういうものに取り組んだ人々が江戸時代にいたということは、「逝きし世」が今の人々が想像する以上に豊かなものだったことを示している。昨今の愚かな「自称」保守主義者、口を開けば「反日」だの「親日」だのと愚にもつかぬ二分法を振り回す連中のことだが、彼らにはこうした豊かな伝統を一顧だにせず打ち棄て文明開化から洋学に飛びつき、世界に冠たる一等侵略国にのし上がった浅薄な「明治日本」がナンボのものだったかは金輪際分かるまい。

 昼神温泉着は4時半ごろ。連休明け初日とあって同宿はあと2組。夕食の炉端焼きはうちだけで貸し切り状態。(5/7/2009)

 先日来、外遊先で麻生首相が解散についてあれこれとしゃべっている。曰く、「総選挙と7月の東京都議選の時期が重なることもあり得る」、曰く、「野党が審議を引き延ばすなら『さっさと解散しろ』との声が出てくるかもしれない」・・・などなど。所詮、これらは捻れた口先から出る「たわ言」だ。

 麻生に小沢の動きを読むほどの能力はもちろんのこと、解散を打つ胆力もない。というより、まず、彼はサミットに出たいという気持ちを抑えることができない「コドモ」だ。どれほどの醜態をさらしても任期いっぱい総理の椅子にしがみつこうというのが麻生のホンネだ。

 08年度予算に補正をかけること2回、09年度予算が成立して一月もしないうちに補正をかけるのは、普通のセンスでいえば「バカ」の一語だろう。マスコミも墜ちるところまで墜ちたものだ。半年の間に三回も上程される予算「補正」の不自然さに黙したままとはどういうことだ。奴らは「百年に一度」という枕詞を聴くと、もうそれだけで思考停止に陥るのか。

 この不自然さはどのように説明できるか。それは麻生太郎という稀代のエゴイストが一分一秒でも「オレは総理だ」という自己満足に浸り、「日本国総理大臣として外国を遊び回りたい」という欲望を充たすため、ただそれだけ、彼の欲望のためだけにやっていることだというのが、一番、自然な説明だ。

 もうそろそろ誰かが「王様は裸だ」と言っていい頃だろう。

 きのう午後から降り始めた雨が夕方になっても残っている。気温は低めで梅雨寒のような感じ。まあ、あしたの朝までに上がってくれれば、それでいいのだが。(5/6/2009)

 待ちに待ったHjellegjerdeのデスクチェアが届いた。

 背を倒すとボトム前部とヘッドレストが持ち上がるのでリクライニングにもなる。脚部のキャスターは軽く自在に動くので机を立つときもすごく楽。座り心地は抜群。しっとりと体全体を受け止めてくれるというか、包み込んでくれる感じ。「人間椅子」の感じ(できるなら美女が入っていて欲しいものだ)といってもいいかもしれない。

 パソコンをやるときも、本を読むときも、CDを聴くときも、これですべて足りるだろう。届いたら写真を送ってという話だったので携帯で撮影して**さんに送る。少しばかり自慢。

 ためつすがめつ見るうち、黒井千次の短編を思い出した。「椅子」という作品。

 仕事のことで上司と衝突した男が頭を冷やしに会社近くのデパートに行く。ビジネス家具の売り場に並ぶ椅子。ヒラの椅子、課長の椅子、部長の椅子。机も椅子も職位に応じて微妙に豪華になってゆくのが会社という組織のしきたりだ。自分と上司の違いは椅子の違いに過ぎないと思った男はポケットマネーで上司の椅子を買い会社に届けさせる。その椅子はちょっとした波紋を社内に起こすが・・・。

 この椅子、重役の椅子ぐらいには見える。部長止まりで定年を迎え、はやりの「自分へのご褒美」に、会社ではついに支給されなかった椅子を買ったというわけか。苦いような可笑しさに独り笑い。

 そう、こういう時は「無伴奏チェロ組曲」の第一番(BWV1007)がいい。冒頭のプレリュードなど、男には最上の贈り物だ。(5/5/2009)

 ライオンズ-イーグルズ戦の中継が終わり、風呂掃除をし、リビングに戻りBSに切り替えると、モノクロの映画をやっていた。「昼下がりの情事」だった。

 モーリス・シュヴァリエの演ずる父がオードリー・ヘップバーンの演ずる娘の素行を詮索するシーン。やがてゲーリー・クーパーの演ずるプレイボーイがやってくる。すぐに切るつもりがおしまいまで見てしまった。動き出す汽車に向かって、精一杯の強がりを言い続けるオードリーをクーパーが抱き上げる。物陰からチェロを抱えてシュヴァリエが現れ、狂言回し役の4人の楽団が奏でる「ファシネーション」がかぶる。ビリー・ワイルダーが一番脂ののっていた時期。見終わったときなんとも言えずハッピーになる。ハリウッド映画が一番ハリウッドらしかったころの、やはり、これは傑作。

 番組欄を見るときょうは「おしゃれ泥棒」もオンエア。なんだろうと調べてみて、きょうがオードリーの誕生日と知った。1929年5月4日生まれ。ということは生きていれば傘寿。(Wikipediaによれば、アンネ・フランクも同い年の由)

 バリー・パリスの「オードリー・ヘップバーン物語」にはオードリー自身と彼女と接触を持った人々の言葉がたくさん紹介されている。彼女も人間であったから細部においては相互に矛盾する証言がいくらもあるわけだが、その中で否定しがたく浮かび上がるのは彼女の「貴族性」だ。内気な故に映画スターではなくバレリーナになりたかったオードリー、友人たちの忠告を決然とはねのけてユニセフの活動に全身全霊を捧げたオードリー、二人のオードリーをごく自然に説明できるのはその貴族性に尽きる。

 ワイルダーは「彼女はラテン語でいうところのスイ・ジェネリス――つまり比類のない、独自の存在だったし、これからも彼女のような人間は現れないだろう」と言っている。「オードリーはいまやこの世の中から消滅してしまったものを持っていることで知られていた。すなわち気品と優雅なマナーで、これらは学んで身につくものではない。生まれつきそなわっているかいないかのどちらかである」。その一方でユニセフのホルスト・ツェルニーは、彼女のイメージにそぐわない二つのこととして「まず彼女は煙草を吸った――これはノン・スモーカーとユニセフにとっては――つまりわたしにとっては驚きだった。もうひとつは彼女がウィスキーを好んだことだった」と証言している。

 ツェルニーの言葉は、どこか、太宰治の「斜陽」を連想させる。(5/4/2009)

 **(家内)も**(上の息子)も在宅の休日。**(上の息子)は1時前からテレビの前に座り込み、札幌ドームのファイターズ-ライオンズ戦の観戦。歓声を上げるわ、怒声を浴びせるわ、じつにうるさい。

 いまから思うとオレもこうだった。テレビの前で、監督の采配に怒り、バッテリーの組み立てに怒り、打者の漫然たる打撃に怒り、野手の動きに怒り、審判の判定に怒っていた。思うようにならぬ試合結果にはポケットラジオを投げ、何台か壊した。**(家内)は「きちがいみたい」と言ったが、あれはいったい何だったのか。

 おそらく、あのころ、怒っていた対象は「仕事」だった。上司、同僚、部下、他部門のパートナー、お客、・・・、怒りをぶっつけたい相手には事欠かなかった。くわえ込んだ仕事の前さばきもせずに垂れ流す奴、分かりきったことを時間をかけて話さねばならぬ奴、・・・ほんとうにいろいろ。頼んだり、指示する時間に比べれば自分でやった方がましで、時間はいつも圧倒的に足りなかった。

 いま考えれば、やりようはいくらでもあったのだが、それを考える時間さえなかった。要は常に忙(なんと的確な字だ)殺されていた。とにかく、ほとんどすべてのことが腹立たしいオンタイムを歯を食いしばって過ごしていた身には、オフタイムになった会社帰りに聴くラジオ中継、休みの日のテレビ観戦の折に、代償行為として鬱積した怒りをぶっつけていた・・・と、そういうことだったのかもしれない。

 ライオンズファンクラブ、3万5千円も出してプラチナ会員になったり、レプリカ品を買い込んだり、いろいろにカネをかけ、ドームの試合となれば、無理にでも時間を繰り合わせて見に行く。イベント屋が勤めとしても、いささか異常に見えないでもない。ああ見えて**(上の息子)も仕事の鬱屈をたくさん抱えているのだろうか。(5/3/2009)

 おとといから始まった朝刊の「虚の時代」、きのうは「販促サクラ」、きょうは「イベント映像顛末」だった。商売の宣伝から政治的アピールまで、いまや世の中は付和雷同する大衆の獲得競争、花盛りだ。

 ネットの世界はそれが極端に現れている。いわゆるブログ、特に時事ブログにはアクセスランキングを競うためにクリックを呼びかけるバナーが必ずどこかにある。(経験的にアクセス数が気になる心理は分かるが、それを競おうと思うと本末を転倒するものだ)

 アクセス数の多さはブログの質の高さとは無関係、というよりは不思議なことにそのブログのおバカ度に比例していることの方が多い。自分の無知と無定見を喧伝するようなベースノートに、親衛隊が「ワァワァ、キャーキャー」とそれを増幅するようなコメントをつけ、ポジティブ・フィードバックがかかって「共振」しているさまは、この国の知的現況を表して壮観ですらある。おととい、久しぶりに覗いた本屋で「ウェブはバカと暇人のもの」というタイトルの本を見かけたが、まさにそんな感じ。

 こちらも、客観的には「バカでヒマ人」、主観的には「閑人」。そんなわけで、夕方から、久しぶりのホームページのメンテナンスなど。ブックリストなどはもうあまり役には立たない(書名を検索サイトにコピペすれば、それでいい)し、隔月に行っている「玄関飾り」としての詩のファイルも大きいばかりで冗漫。日録はどちらかというと、最近の風潮への反発心が勝ちすぎて、他人様にしてみれば読みにくいだろう。どんな風にしたものか・・・など考えつつ作業。

 以前に比べれば、ブックリストの作成も、補注のタネ本探しも、はるかに快適。なんといってもこれと思う本がこの部屋だけですぐに取り出せるのは「カ・イ・カ・ン」(薬師丸ひろ子、最近見ないな)。しかし「エントロピーは増大する」。気をぬけば、たちどころにまた旧の木阿弥(「元の木阿弥」と書いて、どこか引っかかりがあり広辞苑を引いてみた。正しくは「旧の木阿弥」とある。なるほど。寄り道ついでにあちこちリンクを飛び回って、「旧の木阿弥」から「筒井康隆」まで来てしまった)になる。いつまでこの状態が維持できるか。(5/2/2009)

 毎日が日曜日になって一月経った。改装工事のために順に各部屋を開けなければならなかったり、懸案事項であった本の整理に着手したり、いろいろ追いまくられたせいもあって、思ったほど本を手に取ることがなかった。初日に懸念したとおり、「強いられた現実」があるからこその「読書への憧れ」だったのかもしれない。

 クライスラーが経営破綻。オバマ大統領は「ヘッジファンドなど一部の債権者が債務削減などの譲歩に応じなかった。私はクライスラーによる破産申請を支持する」とコメントを出した。

 アイアコッカが奇跡の立て直しをする前にもクライスラーは深刻な経営危機を何度か体験していた。創業者ウォルター・クライスラー以来、技術を重視し、販売を軽視する傾向があったクライスラーは、スキャンダル化するほどの経営陣の内紛が業績の足を引っ張った。

 この内紛を収めたタウンゼントにより一時は名門の復活を果たし、いくつかの海外企業を買収(フランスのシムカを乗っ取ってドゴールを激怒させたこともあった)して世界企業の看板を上げたものの、買収した会社はそれぞれの国の三番手・四番手(シムカは当時フランス第4位)で、いわゆる「シナジー効果」は生まれなかった。(シムカはもともとフィアットがフランスに関税対策として創設した会社。そのシムカを飲み込んだクライスラーがいまはフィアットの傘下で再生をめざすとはなんとも皮肉)

 タウンゼントが去った後の危機からクライスラーにとって何回目かの復活を成し遂げたのがアイアコッカだったわけだが、その彼もいささか疑問の残る買収(たとえばランボルギーニ)を繰り返して去り、クライスラーは苦境の打開を図るためにダイムラーとの合併(実質的にはダイムラーによる買収)、サーベラス支配へと流転する。

 一時、「組織のGM」に対して「人のクライスラー」と呼ばれた時期があったようだが、とかく「人の**」という会社には定期的にスランプが訪れがちなものだ。クライスラーという会社にはどこか創業者ウォルターの「弱み」がはやり言葉でいう「衰退のDNA」になっているような気がする。

 破綻を伝えるニュースのバックには最上階にペンタスターを輝かせたクライスラーの本社ビルが映っていた。クライスラービルといえばアールデコの頭頂部で有名なものがニューヨークにあるが、このペンタスターをいただいたビルはデトロイトに近いオーバーンヒルズにある由。ペンタスターは中世には「魔よけ」に使われていたものだ。だが災厄を招くのは「魔」ではない、「人」なのだ。(5/1/2009)

 朝刊、社会面に「虚の時代」という企画が始まった。第一回の見出しは「ガセネタ揺れる言論」。記事はなかなか面白い話から始まる。

 「赤報隊!?」
 1月28日夕、在京民放テレビ局の30代の男性ディレクターは、旧知の週刊新潮記者からかかった電話に驚いた。
 「何週か掲載します。テレビで取り上げるなら関係者を紹介しますよ」
 翌日発売の週刊新潮のコピーを入手すると、「実名告白手記 私は朝日新聞『阪神支局』を襲撃した!」と刺激的な見出し。赤報隊を名乗って犯行声明が出された事件だ。
 「面白いな」。でも、大事な特ダネをなぜ教えてくれたのか。取材内容に不安が残る時、他のメディアが後追いで報じてくれると、少しは気が楽になるものだ。そんな記者心理がかいま見えた気がして、誘いには乗らなかった。

 まさに「赤信号みんなで渡れば・・・」なみの話。おそらく、以後この旧知の新潮記者は恥ずかしくてあわせる顔を失ったにちがいない。だが新潮社内部にも普通の感覚を持った人間はいたらしい。

 2月初めの夜、「実名告白手記」第2回のゲラ刷りを手にした週刊新潮の校閲担当者が、同誌編集部に疑問点を指摘した。朝日新聞襲撃犯だという男は86年、犯行の指示役から受け取った大金で高級国産車「セルシオ」を買った、と記事にある。だが、同車の販売開始は89年だった。
 この矛盾を知った一部の社員は手記の真実性を疑ったが、「セルシオ」の部分は「高級車」と直されて誌面に載った。

 経験的に書くと、いったん滑り出したプロジェクトの盲点を突くような発言や指摘は普通歓迎されない。それでもあえてそれを指摘する人間こそほんとうに仕事のできる奴なのだが、逆にそういう人が会社の流れに逆らう「裏切り者」扱いされてしまうことはよくあることだ。ご多分に洩れず新潮社もそういう会社のようで、記事には「こうした経緯を複数の新潮社員が証言。朝日新聞は確認のため当時の早川清編集長に取材を申し込んだが、拒まれた。現編集長の酒井逸史氏あてに証言内容など11項目の質問状を送ったところ、『重大な事実誤認が多々見受けられます』と文書で回答があった。どこが事実誤認なのか改めて尋ねたが、具体的な答えはなかった」とある。まっとうで、仕事のよく分かる社員が冷遇され、早川や酒井のような卑怯な人間がますますまかり通るようなことになる・・・。眼に見えるようだ。もっとも週刊新潮は一貫してこのような愚直に疑問を語る人間をおちょくる記事で売ってきた週刊誌なのだから、そういう腐敗臭のする社風の会社なのかも知れない

 閑話休題。

 週刊新潮が「小誌は騙された」という無惨な釈明記事を掲載した号を発売した翌日、サンケイ新聞は新潮を批判する社説を書いた。平生、バカバカしいことしか書かぬサンケイの社説にしてはまっとうと思いつつ読み進んだが、最終段に至って「やっぱり、サンケイはサンケイだ」と嗤った。

 誤報は週刊誌だけの問題ではない。朝日新聞の写真記者が沖縄でサンゴに文字を書いて傷つけ、環境破壊のケースとして報じた「サンゴ事件」(平成元年)では、当時の社長が辞任した。最近では、日本テレビの報道番組「真相報道バンキシャ!」が虚偽の証言に基づいて岐阜県に裏金があると誤報し、社長が辞任した。
 読者や視聴者の目はますます厳しくなっている。誤報を防ぐ十分な裏付け取材とチェックの大切さを改めて肝に銘じたい。

 新潮にバランスをとるために朝日のサンゴ事件を配するのはじつに的確だが、「誤報を防ぐ十分な裏付け取材とチェックの大切さを改めて肝に銘じたい」と自戒するのならば、サンケイ自らが演じた「誤報」について口をぬぐっているようでは覚悟のほどが疑われる。

 4年前の今ごろ、フィリピンのミンダナオ島で旧日本軍のみ帰還兵が見つかったというニュースが流されたテレビ各局はかなり早い段階から眉唾ではないかというトーン(サンケイグループのフジテレビでさえ「真偽は藪の中」とした)だった。しかしこの手のお話が病的に大好きなサンケイ新聞は二日間にわたって一面トップ記事に取り上げ、社説には「彼らが異国の山岳生活で思い描いたであろう故国の風景は、あるいは『うさぎ追いしかの山、小ぶな釣りしかの川』のようなものであったかもしれない。・・・人間の魂が帰還することを飢渇するところはその産土だ。故国とは何という大きな引力を持つものであろうと思う」などと、サンケイ読者の涙腺をゆるませ、引っ込みがつかないほどの「自己陶酔」、「自己催眠」状態に入ってしまった。結果は「誤報」ですらない「虚報」だった

 サンケイ新聞によれば、サンゴ事件で朝日の社長は辞任し、バンキシャ事件で日テレの社長も辞任したという。未帰還兵事件でサンケイの社長は辞任したのだったろうか。サンケイの「改めて肝に銘じたい」と言う言葉は他人様へ垂れる訓戒でわが身は安泰・・・で、いいのだろうか。いや、大丈夫だ、サンケイ新聞の「読者の目」は厳しくはない。むしろ節穴だからこそサンケイ新聞などを購読していられるのだから、呵々。

 豚インフルエンザ状況。WHOは日本時間のけさ、警戒レベルを5「人対人の感染が、WHOの定める地域内の2カ国以上で続く」に引き上げた。さきほど、ロサンゼルスからの到着機でインフルエンザ患者が見つかったという臨時ニュースあり。豚インフルエンザ、上陸?(4/30/2009)

 放送倫理・番組向上機構(BPO)が設けた放送倫理検証委員会は、きのう、「NHKの番組改編問題についての意見書」を公表した。

 NHKの番組改編問題というのは、01年に放送された「問われる戦時性暴力」の制作過程に、ある政治家が介入し、NHK国会対策部門の人間がこれに対応し、既にできあがっていた番組が改編されたという事件。ある政治家とは、いまや知らぬ人とてない「ブザマ二人組」、ハライタ晋ちゃんこと安倍晋三、そしてヨッパライ昭ちゃんこと中川昭一のコンビ。とくれば、およそどんな茶番劇があったかは誰にでも想像できる。しかし当時は安倍が相続税脱税の追求を恐れて仮病を使い病院に逃げ込むような卑怯者だとも、中川がアルコール常習で自分のコントロールさえ効かぬ性格破綻者だとも知れてはいなかったから、ことの経緯を朝日新聞が報じた際にはNHKは震え上がって「張り子の虎」を守るべく事態を取り繕った。

 意見書は政治家の「圧力」についてはふれていない。その代わりに徹底的にNHKの姿勢をほとんど指弾といってもいいほど厳しく批判している。朝刊掲載の「要旨」を書き写しておく。

 公共放送NHKにとって、自主・自律は最も重要な理念であり、視聴者からの期待と信頼の源泉でもある。日常的に政治家と接している部門の職員が、政治家が関心を抱いているテーマの番組制作に関与すべきではない。取材や出演依頼のためでもないのに政治家に会いに行き、意見を聞いたりすることはあってはならない。自ら政治介入を招き、そのすきを作るようなものである。(「放送の自主・自律」から)

 司法判断が確定し、司法が法律的観点から判断する分野と、委員会や放送界が独自に放送倫理の観点から検証すべき分野とが、それぞれある程度明らかになった。NHKにとって放送倫理の確立、なかでも自主・自律の堅持は生命線であり、改編過程をどう考えるかという問題はいま現在のNHKの信頼性や評価にもつながっている。8年前の出来事を振り返ってみることには、現在も意味がある。(「法律と倫理」から)

 (「改編の過程」は表にまとめられているが省略)

 シリーズの他の3本に比べて、不自然な編集が目につく。プロであれば、散漫な作りをひと目で見技く。安全を考え、強すぎる印象を恐れるあまり、元兵士らの証言を全面的に削除してしまった。幹部管理職らが番組の質を追求するのではなく、安全を優先し企画趣旨から逸脱した結果だ。放送人の倫理として、当然目指すべき質の追求という番組制作の大前提をないがしろにするものであった。(「散漫な番組」から)

 NHKは公共放送である一方、経営委員の任命や事業計画、収支予算の承認などに内閣と国会が関与する仕組みが定められている。受信料制度と内閣・国会の関与こそがNHK特有のあり方だ。それだけに政治や政治家との距離をどう適切に保つかが重要な課題になる。
 政治家は政治的主張をすることが職業であり、適正な距離に気を配るべきは、放送人の側にある。放送総局長や番組制作局長が何の躊躇も見せず、政治家から意見を聞いていること自体に強い違和感を抱く。
 国会担当局長が何の躊躇や障壁もなく放送・制作部門に出入りし、改編過程に直接関与し、放送・制作側が安易に受け入れている様子にも危うさを感じないわけにはいかない。国会対策部門と放送・制作部門には、明確な任務分担と組織的な分離がなされていなければならない。NHKの回答は、この間題がいまもなお繰り返されうることを示しており、改善は現在の課題だ。(「政治と放送」から)

 これに対して、NHK広報部は「政治的圧力で改変されたり、国会議員の意図を付度したりした事実はありません。放送・制作部門の担当者が国会議員に直接説明することは、誤解を与える可能性が否定できず、一層留意していきたいと考えています。今回の評価は残念。放送倫理の観点から番組の質を論じることに強い違和感を覚えます」との談話を出した由。このような評価を受けたことは「残念」ではなく「反省すべき」というのが妥当なところだろう。そして「倫理の視点から質を論じる」のに違和感を覚えるほどのまっとうな感覚を持っているのなら、最初からハライタ晋ちゃんやヨッパライ昭ちゃんの呼出につきあうような愚かなことをするべきではなかったと強く反省して欲しいものだ。それでもなにかひとこと返したい気持ちは下種の根性そのまま。「ブザマ二人組」などのような連中に忠勤をつくすから、奴らのような根性に成り下がってしまうと知るべきだろう。

 豚インフルエンザ、アメリカでも初の死者とのニュース。いままで死者はメキシコに限られていたが、これでもうひとつ段階が進んだ感じ。もっとも朝刊によれば、WHO委員会では「レベル5」への引き上げが論議される中、主にメキシコがこれに強く抵抗した由。目先の「経済」にとらわれて、その後の「経済」に影響せねばよいが、そういう理性はこういう時には働かないのが人間というものだ。(4/29/2009)

 おととい、豚インフルエンザと経済の関係が気になる旨書いたとき、頭にあったのはスペイン風邪と大恐慌の時間的関係だった。けさの「天声人語」はスペイン風邪の話を書き出しにした。

 大正の中期、スペイン風邪が世界で猛威をふるった。・・・(中略)・・・年をまたいで暴れた新型インフルエンザは、国内だけで48万人ともいう命を奪った▼当時の内務省の記録には「パンデミック(世界的大流行)」の言葉がすでにある。・・・(中略)・・・去年の「リーマン・ショック」を思い出す。グローバル時代、対岸の火事にも見えた炎は、たちまち同時不況となって世界を包んだ。スペイン風邪の昔に比べて地球はぐっと狭くなっている▼世界保健機関(WHO)は引き続き警戒レベルを検討しているそうだ。上げれば往来や物流に支障が出て、経済などを損ないかねない。・・・(中略)・・・今回逃れても、いずれ来る未知との闘いである。試されるのは、個々の対応を含めた国の総合力だと胸に留めたい。

 スペイン風邪と大恐慌は10年を隔ててのことだったらしい。「百年に一度」の経済危機のさなかに訪れた「メキシコ風邪」、タイミングとしては前回よりはるかに悪い。あまり強力なウイルスでないことを祈りたいが、WHOは警戒レベルをレベル3(動物間、動物と人との間の一時的感染)からレベル4(人対人の感染が地域レベルで続く)に引き上げた。

 既にきょう昼の段階で、メキシコ、アメリカ、カナダ、イギリス、スペインで感染者が確認されている。報ぜられている範囲ではメキシコ以外の国の感染者はメキシコから帰国した旅行者とのことなので、「複数の地域で人対人の感染」というレベル5ではないのだろうが、限りなくレベル5に近い状況のようだ。(4/28/2009)

 二階の改装がすべて終了。3室+DK+廊下の床張り替え、たっぷり3週間。二世帯住宅の尻尾を残していて中途半端だった台所セットは天戸棚を残してすべて撤去、ちょっとした小部屋になった。机でも持ち込めば、**さんのところのようなパソコン部屋になりそうな感じ。洗面台は残したもののガス湯沸かし器を撤去したせいもあって、以前の洗濯機置き場のスペースは完全にフリー。部屋を含めて二階はすごく明るくなった。

 午後になって書棚が届いた。デッドスペースを作らないように、プリンタと百科事典の置き場を入れ替え、なんとか新しい書棚の置き場所を確保。文庫本専用棚にするために移動棚とダボを追加注文、これで当分買い込む本の収納に困ることはないだろう。

 ラジンスキーの本やら岩波の「日本史史料」が届き、本の並べ替えも終了。セットされた状態の本棚を眺めていて面白いことに気がついた。思いの外、経済関係の本が占めるスペースが多い。高校の進学指導の時、**先生も**(父)さんも「経済なんかの方が向いている」と言っていた。学研かなにかの職業適性検査の結果も「公認会計士」だった。でも「男は理科系」、最初から「数Ⅲ」を選択しないような奴はアホというのが当時の雰囲気だった。もう一度あのときに戻れるとしても、選択は変わらないし、志望も変わらないことは間違いないから、後悔はないけれど、案外、父親というのは・・・いや、**(父)さんはよく見ていたのだなと思ったりする。(「父親はよく見ている」と書こうとして思い出した。**(上の息子)に「仮に文化系に進むとしても微積分は高等教育を受ける者の常識だ」と言って、数Ⅲをとらせた時のことを思い出したから・・・)(4/27/2009)

 豚インフルエンザが人に感染し、メキシコでは既に数十人が死亡しているとのこと。

 ウイルスは地球上で最も長い歴史(30億年)を持った生命体だ。「生命体」とはいいながら、細胞構造をもたず、自分自身での増殖能力はない。増殖は宿主便りとなる。既に宿主側にそのウイルスに対する抗体があれば宿主は安泰だが、異なる種(今回の場合はブタ)からの感染であれば、潜在的な備えが十分でないために致命的な影響を受ける。

 エマージング・ウイルスはそのようなウイルスの総称。最近の現象のような語られることが多いが、歴史上でみれば、何回かそれではないかと思われるものがある。「黒死病」は「腺ペスト」の別名とされているが、出血熱ウイルスによるものとする研究もある由。つまり、通常は人間以外の動物を自然宿主としているウイルスが間歇的になにかの要因で人間に感染する、その時、たまたまその感染者が劣悪な生活環境にあるなどして感染範囲が広がるというわけだ。そして有利な条件がそろえばウイルスはどんどん強力なものとなって、貧富の差を乗り越えて深刻な事態へ進むことも十分にあり得る。

 豚インフルエンザがどのていどの感染力と毒性をもっているのかはまだ分からないが、「百年に一度」の世界的不況の中で経済の足をすくうようなことにでもなりはしないかということが懸念される。(4/26/2009)

 夕刊の「昭和史再訪」、きょうは帝銀事件。そういえば、平沢貞通が亡くなったのは何年か前のこの季節だった。死刑囚でありながら天寿を全うした。(1987年5月10日とのこと)

 平沢が冤罪であったことはほぼ間違いがない。「凶器」である「毒薬」を取り上げるだけで彼の冤罪は自明である。事件で使われた毒薬は、最初は青酸カリと報ぜられ、後に青酸化合物とぼやかした表現に変わった。即効性のある青酸カリでは生き残りの人たちの証言と矛盾したからだ。

 「アセトンシアンヒドリン」という名前が帝銀事件本には必ず出てくるが、毒薬の解明についてもっとも肉薄したのは吉永春子ではないかと思う。「謎の毒薬-推究帝銀事件-」で彼女は真犯人が用いた「毒薬」は「シアン配糖体」+「酵素:β-グルシコシダーゼ」という組合せではないかとしている。この組合せを使用したマウス実験のデータが、生き残り証言とも死亡した被害者の解剖所見とも一致すると書いている。

 夕刊記事は「刑未執行のまま獄中で39年を生きた特異性」を枕にやんわりと冤罪ではなかったかとしている。そして当時の紙面と現在の現場界隈の写真。あのあたりは西武線の電車からもちらりと見える場所。そうそう、一度興味に駆られて、現場から池袋まで歩いたことがあったっけ。その所要時間が平沢のアリバイ証明に関わることだったはずだが・・・。もうみごとに忘れてしまった。(4/25/2009)

 にわかに国会議員の世襲が問題になっている。自民党内でよってたかってつぶされようとしている世襲立候補制限案を民主党が次の総選挙のマニュフェストに取り入れる方針を党内の政治改革推進本部の総会で決定したためだ。

 ブランドだけで勝負している多くの自民党国会議員にしてみれば、まことに都合の悪い話。あれやこれやの理屈をつけて反対をする。「憲法で保障された自由を制限するのは憲法違反」などという奴もいる。それはその通り。しかし・・・もともと現行憲法が嫌いで、ことあるごとにその憲法をないがしろにしてきた自民党の議員がよくもまあ「憲法違反」などと言うものだ。

 いま出ている案は先代の地盤・看板・鞄をそのままに利用することを制限しようというだけで、政治家をめざして立候補することそのものを禁止しようというのではない。もっとも彼らのホンネは安倍晋三がやったような相続税を逃れて資産を守りきりたいというところにもあるらしい。薄汚い連中だ。(4/24/2009)

 フィックスしたはずの本の並びを見直したり、段の位置を変えたり、同じ著者のものを集めたり、ひととおり本棚に収めて眺めるといろいろのことを思いつく。そこでまた並べ直し。

 上下二巻に分かれているものはなるべく揃いで買っているのだが、一定の期間をかけて刊行されたものには欠巻があったり、手もと不如意で買い損ねたままになっているものもある。思い出してAMAZONでラジンスキーを検索してみた。あのとき買っておけばよかったとの思いしきり。抑えきれず、「赤いツァーリ(上)(下)」、「皇帝ニコライ処刑(上)(下)」、「ラスプーチン(上)(下)」を発注。どちらかというとこういう買い物は冬ごもりの準備のためにするものだが・・・と、独り笑い。

 先週土曜日のTBSラジオ「土曜ワイド」、永六輔がゲストの北山修にこんなエピソードを話していた。「あるヒットメーカーが言ってたの、『これ、どこかで聴いたなって曲を作れば、必ず売れるんですよ』ってさ」。応ずる北山は「へぇー、少し違うね。なんとかして自分のオリジナリティを出そうって、苦労するのが普通だもの」。それに応える永、「誰だと思う、そのヒットメーカー。小室哲哉」。

 きょう、小室哲哉の公判が大阪地裁であり、検察側は懲役5年を求刑した由。小室は更生を誓っているが、かつてのような作曲、演奏活動に戻るのは少し難しいかもしれない。(4/23/2009)

 ようやく文庫と新書の整理を終えた。あるはずで出てこない本がまだいく冊かある(「史記:本紀」、「史記:書・表」、読みさしのままになっている「イブの七人の娘たち」など)が文庫用の書棚はいっぱいになってしまった。エアコン下のスペースにもうひとつ棚を置くことにして発注。来週、月曜になる予定。

 和歌山カレー事件、最高裁は林真須美被告の上告を棄却。この国の司法制度というのはこのていどのものなのかという思い。林真須美の容疑が濃いことは事実で、これを冤罪だと断ずることはできない。しかしさりとて、林が犯人であるという立証が「合理的疑いを差し挟めない」ほど十分なものとは思えない。

 朝刊掲載の判決理由の要旨によると、「被告が犯人であることは

  1. カレーに混入された亜ヒ酸と組成の特徴を同じくするものが被告宅で発見された
  2. 被告の頭髪から亜ヒ酸が検出され、被告が亜ヒ酸を取り扱っていたと推認できる
  3. 夏祭り当日、被告だけがカレー鍋に亜ヒ酸を密かに混入する機会があり、かつ、被告が調理済みのカレー鍋のふたを開けるという不審な挙動を目撃されている

この三点で「合理的な疑いを差し挟む余地のないていどに証明されている」としている。

 判決は「犯行動機が解明されていないことは被告が犯人であるとの認定を左右するものではない」とも書いている由。どうやら今後のすべての刑事裁判は「なぜ、そんなことをやったのか?」ということは、不問に付されることとなったらしい。死刑を適用するほどの重大犯罪で動機の解明が不要ということは、それより軽微な犯罪においてわざわざ動機に関する立証が不要であることは論を待たない。すごいことになったものだ。

 ①~③の中でそれなりの証拠能力がありそうなのは亜ヒ酸不純物組成の一致だ。ただしこれもあくまで確率の問題。たまたま、きのうは足利の女児殺害の決め手とされたDNA型鑑定結果が、分析技術の向上により、逆に既に服役している人物が真犯人ではない可能性の証明になりそうだという報道があった。つまり今回の亜ヒ酸の不純物組成もあくまで分析技術の中で確率制限がついた状況証拠のひとつでしかないことには留意する必要がある。

 残りの②と③が被告に確信を持って死刑を言い渡す根拠になり得るかどうか素人には分からない。既に保険金詐欺目的で亜ヒ酸を夫と知人にもった経歴をもっている被告(彼女もその犯行は認めている)なのだから、カレー事件の犯人であることとは無関係に②の状況は成立してしまう。

 ③に至っては被告が着ていた上着の色、汗ふき用タオルをクビにまいていたかどうか、そんなことについてすら証言がバラバラであるにも関わらず、「不審な挙動」の目撃証言だけが信用できるというのはいかにも恣意的な判断だと思う。いつからこの国はカンガルー・コートになったのだ。

 「犯人がいない」などと書いているわけではないし、「林真須美が犯人ではない」と書いているのでもない。「一点の曇りもなく、林真須美が犯人だ」と断定できなくてはダメだと書いているだけだ。なぜなら、事件の内容に照らせば、回復が不能な刑である死刑の適用が相当という事案なのだから。

 警察も検察もそれを立証するための証拠と証人を集め、犯人を追い詰めるために強権を発動することができる。その強権を発動してもなお万人を納得させる証拠と証人を集められず、犯人を「落とす」ことができないならば、どれほど忌々しくても被疑者を有罪にすることはできない。

 最高裁の判決理由の中で、成立する確率が高いのは①のみと思っている。その前提で妄想をたくましくしてみる。妄想のヒントはエラリー・クイーンの「Yの悲劇」だ。この仮説によれば、なぜおつりが来るほど大量の亜ヒ酸がカレーに入れられたのか、なぜ林真須美は捜査段階から一審の結審まで完全黙秘したのか、などかなりのことが説明できてしまう。もちろんただの妄想に過ぎないけれど。(4/22/2009)

 文庫と新書の片付け、きょうの昼ころには終わると思っていたが、まだまだ。よせばいいのに買い損ねた下巻だとか揃い本の欠巻を見つけるごとに、アマゾンで検索して注文しているのだから時間がかかるのは当たり前。いまはなき教養文庫の「戦略爆撃の思想(下)」と「アメリカン・ニューシネマ名作全史3」、正価で買うほどの本ではない文春文庫の「この国のかたち」の欠巻、大佛次郎ノンフィクション文庫の「ブゥランジェ将軍の悲劇」・・・。一昔前なら手帳に書き抜き、神田や高田馬場の古本屋を片っ端からあたらねばならなかったものが、いとも簡単に見つけられる。

 片付けのあいまに、ちょっと眼を通すのも時間がかかるもとかもしれない。夕方、笑いながら読んでしまったのは「『文藝春秋』にみる昭和史(四)」の「異常人気の『おしん』考」。杉森久英、フランソワーズ・モレシャン、佐伯彰一、堤清二、西舘好子が書いている。

 西舘は「おしん」のシナリオを書いた橋田に辛いのは井上ひさしとの離婚に近い時期でこの職業に偏見を持っていたせいかしらなどと思うが、じつにまっとうな意見でちょっと意外の感。もっとも彼女はこの後、自分の不倫が原因の離婚に井上のDVを持ち出して、「自分に正直に生きたい」というちょっとばかり有名になった言葉で飾った女性だけに、その場その場で気の利いたことが書ける才があったのだろう。

 ・・・ところが、現在の大方の日本人の生活水準からするなら、「おしん」の環境は、別世界の夢物語というに近い。いや、それほど遠くない過去の現実の女の苦労話にはちがいないのだけれど、自分たちはもうそこに落ち込むことはあり得まいという安心感がある。こちらが安全に守られながら、コワイもの見たさというような気持ちで、貧しさの過去をふり返るのだ。
 縁遠い別世界をのぞきこむことには、どうやら二重の楽しみがある。きびしい現実の中へ、かりにわが身を投げこんでみるという未知の感覚に加えて、現在のわが身、わが周りの環境が、そうなりっこないという満足感、安心感が、かくれた支えとなってくれる。そこで、かつての貧しくきびしい時代環境すら、一種の甘味をふくんだノスタルジーの対象ともなり得るだろう。どうやら、こうしたひそやかな二重性の楽しみこそ、「おしん」ブームを支える最強の地盤ではあるまいか。

佐伯彰一「二重性の楽しみ」

 佐伯がこれだけの字数を要して書いたことを堤はじつに簡単にこんな文章で済ませている。

 皮肉っぽく言えば、貧しさへの憧れは、貧しくない限りにおいて楽しいという法則を、作者は十分に心得ていたということもできる。

堤清二「弛緩した精神への清涼剤」

 堤は、佐伯のように同じことをくどくど書かずに、その紙幅を使って「おしん」をブームにしている社会状況を分析している。同様の癖をもつ身としては、佐伯は非常によい反面教師だ。

 再び「貧乏物語」がじわじわ復活しつつある現在、佐伯の「弛緩した精神」はどのように「いま」を見ているのか、読みながら笑ったのはそんなことを思ったから。(4/21/2009)

 息苦しくて目が覚めた。頭が重く、喉がヒリヒリと痛い。続きを見たいような夢だったが、眠れそうにない。時計を見ると4時間ていどの睡眠。起きることにした。

 書斎の床には分類中の文庫本が散乱している。この爆発状態を経ないと片付けはできないのだから仕方がないのだが、ちょっとゲンナリする。

 分類し、並べ替え、挟まっている目録やしおりのたぐいを捨て、小口に掃除機をかけ、表カバーをから拭きして本棚に収める。けっこう手間暇がかかる。

 チェスタートンの「木曜の男」から折りたたんだ京大式カードが出てきた。こんなことが書いてある。

 またこの季節にここにやってきた。
 あれはたぶん68年冬のことだったから、8年も前のことになる。
 あの頃、今スパゲッティを食っているこの店はなくて、まわりもこれから分譲地として売り出すべく整地をおえたばかりで、区画毎に広さと価格を示した立て札が出ていた。
 君とぼくは、駅の反対側にある大学へ行った後、このあたりをぶらぶら歩きしながら、その立て札の価格を読み上げ、肩をすくめてみたり、目顔で笑いあったりしたのだった。
  すでに君に小さな疵を見つけて、その後を予測していたぼくだったけれど、なによりその頃は寂しかった。一年になる話しかける相手もいない予備校暮らしに、久しぶりに会う君は少なくともその春までは失いたくない女性だった。それはぼくの心に沁みる痛みだった。
 そして、今思うのには、それは君にとっても、ぼく以上の痛みであったに違いない。
 内海に沿って走る道路を女学生が帰って行く。この春にはぼくも27になる。

 なんだかずいぶん中途半端なところで文章は途切れているが、それは食後のコーヒーを飲み終わって店を出なければならなかったからだろう。たぶん日記に転記するつもりでそのままになってしまったに違いない。当時、こんなゆったりした休暇を取った翌日は、その十分な報いとして目の回るような忙しさが待っていたものだが、どうだったのだろう。

 それにしても・・・、文章もそうだが、それを書こうとする心もほとんど変わっていない。半熟のままにこの歳を迎え、そして腐り始めたわけだ。(4/20/2009)

 IOC評価委員会委員による視察が終了した由。記者会見でムータワキル委員長は「非常にコンパクトな計画で、選手・観客・関係者すべてにメリットがある」と評価した。これを受けて石原都知事は「東京五輪開催というビッグなプレゼントにまた一歩近づいた」と得意満面の表情だった。

 開催候補地の国内選考で東京が福岡を蹴落としたときから「東京招致には絶対反対」という気持ちになった。候補4都市の中で二度目の開催都市は東京のみ、複数回の開催国になるのはアメリカ(シカゴ)、スペイン(マドリード)、日本(東京)、となれば、フェアなところはリオデジャネイロというのが自然。

 石原はご機嫌の体で、マスコミも決定までのスケジュールなどを紹介して抑えめながら、風向きは東京という報じ方だが、次の開催地ロンドンが決まったときのことを思い出す人はいないのだろうか。評価委員会の報告ナンバーワンはパリだった。さらにあまり指摘されていないことを書けば、オリンピック・スポンサーと中継放送の視聴人口が多いのはアメリカ。録画よりは生という気持ちは当然のことで、時差の点で東京はシカゴ・リオに比べると不利なはず。

 もうひとつ懸念されることも書いておく。開催地東京の知事が繰り返した数々の差別発言のうち、「三国人が暴動を起こす」、「フランス語は国際語として失格」など外国人ないしは外国を誹謗した言葉が、10月2日の決定投票までに投票するIOC各国委員に伝わるかもしれない。なにをしても招致したくなれば、敵の弱みを突くのはあり得ることだ。

 「極右」というものを日本人の多くは誤解している。外国人を排斥する、誹謗する傾向がある人ないしは団体を欧米では「極右」と呼んでいる。少なくともその地域のIOC委員はベルリン大会の愚は二度と犯さないと固く念じていることに慎太郎は気がついているのだろうか。(4/19/2009)

 きのうから本の整理を開始。まずハードカバーから。

 本を捨てることができない性分。「はじめてのDelphi」、「Delphi応用プログラミング」などは可能性があるが、「はじめてのC++」、「Prolog-KABA入門」などはもう絶対にながめることさえないだろう。だが捨てられない。

 きっと貧乏性なのだ。読みたいだけの本を買うことは長いことできなかった。書棚の中の古びた本には読んだ形跡がないものがある。それは買い求める頃にはあらかた立ち読みしてしまっていたからだ。

 最近買い求めた本にも読んだ形跡がないものがかなりある。どうかすると買ったことさえ忘れている本さえある。おカネが必ずしも人の心を豊かにするわけではない証左だ。(4/18/2009)

 2016年オリンピック開催地を決める手順のひとつとして14日からIOC評価委員会のメンバーが来日している。きのうは既に提出されている立候補ファイルを中心に東京都と政府からプレゼンがあった。石原都知事はその終了後に記者会見を行った。記者会見といっても日本人記者限定のものではなかったようで、イギリス人記者がこんな質問をしたという。「知事は日本の朝鮮半島への行為を矮小化しているため開催地に選ばれるべきではないという、韓国での報道を知っているか」。

 いつもの記者クラブ所属のお手盛り会見ならば、「だからなんだ。くだらない質問をするな」で恫喝するところだが、さすがに外国メディアが相手とあってはそんな常套手段を使うこともできず、慎太郎、神妙に「ヨーロッパの国によるアジアの植民地統治に比べ、日本の統治は優しく公平だったと朴大統領から聞いた」と答えた由。たしかに極貧家庭に生まれた高木正雄(朴正煕の日本名)が祖国を併合した大日本帝国の学制の中で出世の階段を上り、陸軍士官学校を卒業したある種のエリートであったことは間違いのない事実だから、彼がそのような「公平感」を抱いていたとしても不思議はない。

 大日本帝国が崩壊すると高木正雄は朴正煕として各国陸軍に入隊、ここでも陸軍士官学校を卒業したが、密かに入党していた朝鮮労働党の細胞であることが露見し死刑宣告を受けるや、アメリカに党内情報を提供することで身分の保全を図り、アメリカ陸軍砲兵学校に留学する。つまり彼は常にその時一番強いものに尻尾を振って地位を得た人物だったわけだ。その朴が「公平だった」と評価したところで、当の祖国で踏みつけにされた人々が等しく「公平だった」と評価していることを意味しないだろう。

 慎太郎は朴正煕の「漢奸のような生き方」を評価した上で、その言葉を重要な歴史的証言になり得ると思っているのだろうか。それともオリンピックを招致するためならば、ウルトラナショナリストも日ごろ目の敵にしている「媚びへつらう外交」が必要と割り切って、いともたやすく宗旨替えをするのか。そんなものか、慎太郎の「ココロザシ」とは。(4/17/2009)

 さっそく朝から本を搬入しようとしたら、廣枝が「一日くらい風乾きさせないとダメよ」という。それもそうかと思い、きょうは我慢。

 朝刊8面下段に「週刊新潮」4月23日号の広告が載っている。問題の「朝日新聞阪神支局襲撃事件」に関する記事の見出しはこうなっている。

「週刊新潮」はこうして「ニセ実行犯」に騙された

 先週土曜日の天声人語は「次号で手記掲載のてんまつを説明するそうだが、最近の筆の甘さを鋭くえぐる力作を期待したい。やられました、というだけの『告白手記』なら紙のムダである」と結んでいたが、あることないことを書かせたら天下一品のイエローペーパーも己がこととなると、「だって、島村くんに騙されたんだもん」などと他人のせいにするらしい。まるで親に叱られた子供。

 小見出しも嗤わせる。「本誌はいかなる『間違い』を犯したのか/「実名告白手記」掲載までの437日」。週刊新潮よ、おまえは「間違い」など犯していない。いかがわしい人物のいかがわしいお話をいかがわしい書き方で記事にするのがいかがわしい新潮の真骨頂だったではないか。いまさら、おぼこのような口ぶりで「あたし、あやまちを犯したの」などとつぶやいたところで、場末のバーの厚化粧ホステスという素顔は隠せない。魂胆は見え見え。捏造記事を鳴り物入りで発表し、にっちもさっちも行かなくなったところで騙されたといって被害者に化け、おぼこの「転落物語」でまた売ろうというわけだ。徹頭徹尾、愚かな新潮読者の貧しい懐から「お足」をかすめ取ろうという下劣な根性。あきれてものも言えぬ。

 もしそれなりの反省をしているというのなら、早川清編集長を懲戒解雇したらどうだ。発表前に朝日新聞に問い合わせてそれなりの回答をもらっていたではないか。それを無視したのは早川に新潮社の体面を意図的に傷つけた悪意が十分にあったと認定してもよかろう。早川のような獅子身中の虫をそのままにしておくのか。早川の処分すらせずに筋の通らない言い訳記事を載せてことたれりとするのは、またまたこのネタでお足を稼ごうといういかがわしい心根が新潮社そのものにあるからではないのか。(4/16/2009)

 書斎の改装完了。照明も取り替えることにして、北口のデンキチに行くも、ぴったりのものは品切れで店頭品のみ。ヤクルト跡のコジマに行くと改装中でお休み。よるになって、ようやく東所沢のノジマで購入。いずれ訪れる眼の衰えを考慮して12畳用の明るいものを選ぶ。当座は調光機能を使って減光すればよい。懐中電灯の明かりで取付作業。

 3年ほど前のいまごろ、痴漢容疑で逮捕、不起訴処分となった男性が、被害者と主張した女性と逮捕・拘留した国・東京都に慰謝料を請求した民事裁判の判決があった。東京地裁八王子支部は「痴漢行為そのものはあった」として請求を棄却した。

 その日の日記に、「痴漢が卑劣な犯罪であることに異論はないが、他の犯罪に比べると被害事実の認定は難しい。目撃者がいればよいが、通常、それは期しがたいとすれば被害事実と犯人特定は被害者に依存するわけで場合によっては冤罪を生みやすい。それだけに取り扱いには相当の注意がはらわれなければならないだろう」と書いた。

 きのう最高裁は小田急線車内での痴漢事件に対し、一・二審の有罪判決を破棄し逆転無罪の判決を下した。「破棄差し戻し」ではなく「無罪」を直接言い渡したのは検察官による立証が尽くされているからだという。つまり、もうどのようにしても、「被告が真犯人であること」についても、いや、そもそも「痴漢犯罪が存在していたのかどうか」についてさえも、これ以上、新たな証拠も証言も出てこないと判断されたわけだ。

 判決は「被害者の思い込みその他により犯人と特定された場合、有効な防御を行うことが容易ではないという特質が認められる」と指摘、「特に慎重な判断が求められる」としている由。珍しく最高裁が理性的な判断を下したことを喜びたいが、3対2のきわどいものであったことも記録しておく。無罪判定は那須弘平・近藤崇晴・藤田宙靖、有罪判定は堀籠幸男・田原睦夫。

 新聞記事の要約的言説をもとに素人が批判するのは「メクラ蛇」かもしれないが、それにしても少数意見の言葉には引っかかりがある。

 「無罪とした多数意見が被害者の供述の信用性を否定する理由は薄弱。それだけ(被害者が一度電車から降りながらまた同じ車両に乗ったこと、痴漢行為を回避しなかったことを指していると思われる)では信用性は否定できない」(堀籠)、「被害者は裁判でも証言しその内容は首尾一貫している。供述の信用性を肯定した下級審判決に重大な疑義があるとは認められない」(田原)という言葉からは「推定無罪」の原則は影も形も見られない。堀籠の意見は痴漢犯罪の存在を認めることと犯人が被告であることとを同一視しているように聞こえるし、田原の意見に至っては下級審の判決に致命的な疵がない限りはそれを追認するのが最高裁だと言わんばかり。もう少しまともな反論が彼らにはなかったのだろうか。まず犯罪ありき、そして裁判所の体面ありきなのだとしたら、最高裁など要らない。憲法裁判所で十分だ。(4/15/2009)

 国連安保理事会は日本時間のけさ未明、北朝鮮のミサイル発射を非難する議長声明を全会一致で採択した。先日来、我が政府が「新決議だ、新決議」と大騒ぎしていた対北朝鮮非難決議は、結局、頓挫してしまった。またしても我が国は同盟国と頼むアメリカにはしごを外されてしまった。

 先週半ばからの報道でアメリカがトーンダウンしてきたのは素人にも分かった。新聞もテレビも「報道向け声明」を主張する中国・ロシアに対して、「新決議」を求める日本・アメリカ・イギリス・フランスという構図で説明していたが、イギリス・フランスあたりがそろって「新決議」を主張しているというのは眉唾物だった。とすれば常任理事国内で「孤立」しているアメリカがトーンダウンするのはさほど不思議なことではない。いつぞやの「常任理事国騒ぎ」を思い出すならば、我が外務省は常任理事国一本槍の工作ではなく、むしろ「非常任理事国を味方につけるという変則的な(?)やり方」を検討してもよかったのではないかと思うが、所詮、総理大臣と外務大臣が世襲のボンクラ(そのくせ自分は外交通だと思い上がっているのだから度し難い)では適わぬ話だった。

 そもそも北朝鮮から打ち上げの事前通告を受けたアメリカが韓国にはその事実を伝えながら我が国には伝えなかったという事実は、騒ぎ回るだけでなにもできない麻生内閣の能力を見限っているからと考えた方がよかろう。(実際、大騒ぎの果てに「誤報騒ぎ」まで引き起こしたのだから、残念ながらこの判断はじつに的確だったと言える)

 河村官房長官は「大きな成果。実質的には新たな安保理決議と同等の効力を有するメッセージとなった」といい、中曽根外相は「議長声明としては異例に強い内容」と自画自賛した。それは「違反」と通常の議長声明には使われない「demand」という言葉があるからだとマスコミは報じている。たしかに中国・アメリカで合意した声明原案の「not in conformity(従っていない)」を「contravention」という表現に変えた点はそうなのかもしれない。しかし我が政府の決議原案は「violation」だった。

 この変更を提案したのはイギリスだったらしい。イギリスは我が政府のこだわりが自国の国内向けのメンツにあると判断したのではないか。手もとの辞書には「contravention」も「violation」も「違反」となっているが「contravention」の方には「抵触」という訳語も載っている。いかにも老練にして英語を母語とする国ならではの・・・、客観的には「叡智」、主観的には「姑息なテクニック」。

 この議長声明を受けて安保理内に設けられる制裁委員会は既決議(1718号)による制裁の細目リストを作成する由。我が官房長官が語るように「決議と同等の効力を有する」ものならば、屋上屋を重ねるがごとき「新決議」などにこだわらなかったならば、もっと早く前の制裁決議の実効性を上げる取り組みに着手できたような気がしないでもない。どうやら麻生内閣にとっては、本当の意味での北朝鮮への圧力をかけることより、「毅然とした」姿勢をとっているというポーズを同胞(ただのライトマインドのパープリンちゃんたちのこと)に見てもらうことが重要だったということかもしれない。(4/14/2009)

 疲労困憊で寝たせいで睡眠が深かったのだろう5時過ぎに目が覚めた。マスターズの最終日だったと思い出して起き出す。TBSのBSは地上波よりも時間枠をたっぷり取ってあるからかリアルタイムとの差が大きい。しかしオーガスタの美しさをしっかり見るにはハイビジョン映像が断然いい。リアルタイムの感動はあきらめてBSで見ることにした。

 見応えのあるファイナルラウンドだった。トップを走るケニー・ペリーが16番でバーディをとり2ストロール差としたときは最年長優勝が決まったと思った。ところが終わり2ホールで立て続けにボギー。なんとともにラウンドしていたアンヘル(angelと綴る、つまり天使?)・カブレラのみならず、ホールアウトして控え室でテレビを見ていたチャド・キャンベルにまで出番が回った。

 三つ巴のプレイオフ。1ホール目の第一打、カブレラが木立の中に打ち込んだとき、最初の脱落者はカブレラになると誰もが思ったに違いない。ところが彼はみごとにリカバーし、至難と思われたロングパットを沈めてパーセーブした。ファーストショットが一番よかったキャンベルはさしたることもないパーパットを外してしまった。このホールでの脱落者は皮肉にも彼になった。長年勝負事を見てきた経験からして「神様はカブレラを選んだんだな」と思った。2ホール目、その予想は当たった。

 アナウンサーがしきりに「ロベルト・デビセンソの悲劇」という。1968年、アルゼンチンのロベルト・デビセンソは首位に並んでホールアウトしながらスコアパートナーの誤記により1ストローク多く申告してプレイオフ進出の機会を失ったのだそうだ。カブレラはそのデビセンソから「君がグリーンジャケットを持ち帰ることを願っているよ」と言われて来たとのこと。

 ことしのマスターズのメモリーはこれに止まらない。片山晋呉が首位三人から2ストローク差の10アンダーで単独4位になった。今田竜二は20位につけたし、予選落ちしたものの17歳6カ月史上二位の年少記録で石川遼は出場を果たした。徐々に「予感」がしてきたのだ。

 宇多田ヒカルが出てきたころの日記にこんなことを書いた。

 宇多田ヒカル。軽々と日本を超えてしまった個性。いや、日本から世界にではなく、バイカルチャーかマルチカルチャーという場から、我々のいる場所に届いた声。そういう声。そういう歌。
 根性物語といういかにも日本的なあか抜けない場所からではなく、我々が想像もつかないおよそニッポン的でない場所から、ポコッと、グリーンジャケットを着るゴルファーや、センターコートで微笑むテニスプレーヤーが出てくるのだろう。尾崎将司や松岡修造が絶望的に跳ね返された壁を、まるでそんな壁など最初からなかったかのような顔をして・・・。そういう彼らは日本人の両親から生まれたという点のみにおいて日本人であり、個性的であったり自己主張できるコアを持っているという点において平均的な日本人と大きく異なっているだろう。(7/11/1999)

 はじめてグリーンジャケットを着る日本人は誰か。たしかにおととしの優勝から短期間にプロ転向、マスターズ招待とコマを進めてきた石川遼には持って生まれたなにかがあるような気がする。去年の予選落ちから一転、来年のシード権を獲得するに至った片山についての評価はその筋でも高いらしい。ずっとアメリカでプレイしている今田も着実にステップアップしているという印象がある。このうちの誰かが、遠くない将来にグリーンジャケットを着る可能性は高い。しかし「軽々と日本を超えてしまう」というには彼らには少し重たいものがついている。まず、石川はコマーシャルに出過ぎだ。片山は日の丸を帽子だけにした方がいいだろう。今田にはそういうものがないように見えるが、単にマスコミ露出が少ないだけのことかもしれぬ。(4/13/2009)

 あしたからは書斎の改装に入る。**(家内)は予約をしていた整体、**(上の息子)はラグビー。一人で書斎の本をすべて寝室に移動しなければならない。自分の関わるものがないと冷たいものだ。

 また腰に来るといけないので寝室側に段ボールの箱を置き、布バックに本を詰めて運ぶ。いったい何回往復を繰り返したことか。ハードカバー、新書、文庫を入れた段ボール箱は26箱。造り付けの書棚はそのままとして、文庫用の小さい書棚3基と突っ張り書棚2基も寝室に運ぶ。さらにビデオとCDのムーブラックが3つ。百科事典31巻、百科年鑑11年分と専用棚。すべての移動を終了したのは10時過ぎ。それから風呂に入って、小型テレビとビデオデッキ、パソコンシステムの移動を終了したのが、ついさっき。疲労困憊の一日。(4/12/2009)

 寝室の改装は完了。すごく明るくなった感じ。火曜スタートだから五日間要したことになる。**さんの仕事は丁寧で気になることがあると得心が行くまで調べて手を打つ。このペースで進むと書斎の改装完了は来週水曜、どうかすると木曜になるかもしれない。

 「天声人語」、けさの書き出しは、「『新潮ジャーナリズム』という言葉がある。怖いものなし、容赦なし、興味にまかせて何にでも切り込む姿勢は、権力者や権威にとっては煙たい・・・」となっている。

 週刊新潮が「私は朝日新聞『阪神支局』を襲撃した」と題する記事を掲載したのは1月末のことだった。発行部数が落ち目になると鬼面人を威すような見出しをつけてなんとか売ろうとするのは別に新潮に限ったわけではないが、この週刊誌はもともと左前になろうがなるまいが見出しと擽りの記事だけで勝負しているようなところがあるから「また、やってるよ」と笑殺していた。その翌週ぐらいには、朝日を飯の種にしているという点では同じ穴の狢である週刊文春が「朝日が相手にしなかった『週刊新潮』実名告白者」という見出しを掲げて同業を皮肉っていた。その時点で新潮の「ケツ割れ」はあきらか、数回継続した「衝撃」の告白記事はあっという間に「笑劇」の与太記事になった。

 だが、当の朝日はさすがに無視できなかったのだろう、初回掲載時に件の「実名告白者」が朝日を訪れた際に「相手にしなかった」事実を報じて、新潮に質問状を出すなどし、以降も忘れた頃にポツポツと新潮の取材のでたらめさについて報じてきた。おととい、朝日は隅とはいえ一面に「新潮が告白手記に計90万支払った」こと、本人が「新潮掲載の記事はウソだが、手下を使って襲撃させた、真犯人も知っている」などと抗弁したこと、しかしその新たな主張も真実性がないことなどの記事を載せた。

 記事には新潮編集部のコメントも出ている。「・・・島村氏は小誌の取材に対し、これまで一貫して、自分が実行犯であると話してきました。この証言内容は、島村氏のインタビューを録音したテープによって証明することができます・・・」。いくら平生眉唾記事を掲載して恥じない出版社だとしても、唖然とする釈明という他はない。島村某なる人物が新潮に語ったか否かが問題になっているわけではない、島村某が語った「お話し」を新潮がどんな裏付け取材によって「掲載に値する真実性がある」と判断したかが問題になっているくらいは小学生でも分かろうに。

 「天声人語」は「週刊新潮は08年以降、名誉毀損で少なくとも10回負け、計3千万近い損害賠償を命じられた。次号で手記掲載のてんまつを説明するそうだが、最近の筆の甘さを鋭くえぐる力作を期待したい。やられました、というだけの『告白手記』なら、紙のムダである」と結んでいる。しかし、おそらく、期待は空振りに終わるだろう。

 追い込まれた週刊新潮よ、もしイエロージャーナリズムとして起死回生の逆転打を打つとしたら、こんなアイデアはどうだろう。釈明記事の掲載に代え、こんな募集広告を載せるのだ。「緊急募集!!『帝銀事件の実行犯はわたしだ』、『三億円事件の実行犯はわたしだ』、『カレー毒殺事件の真犯人はわたしだ』など、著名事件の『実名告白者』を求む」。「真偽は問わず」。「面白く一貫せる話なれば、謝礼、最低百万を保証」。「食い詰め者よ、来たれ!! 当方、矢来町のダンナ」とまあこんなぐあいに、呵々。

 きょうはこれから西国立の無門庵で、**(家内)・**(上の息子)に定年祝い(?)をやってもらう予定。あしたは大仕事が待っている。(4/11/2009)

 今上陛下ご夫妻が金婚式を迎えたというニュース。きのう行われたそろっての会見では、互いに感謝状をという言葉の中で「・・・皇后はこのたびも努力賞がいいとしきりに言うのですが・・・」というくだりで照れ笑いをしたり、「たくさんの悲しいこと、辛いことによく耐えてくれたと思います」という箇所では少しばかり涙声になりそうになったりで、こちらの心にそのまま響くものがあった。

 皇太后が亡くなった時、こんな風に書いた、「マスコミは『良い人』の大合唱だ。食うことが自動的に保証されている境遇にいたら、人は争う場面が格段に少なくなることだろう。争わなければ、憎まれることはない。したがって、必然的に『良い人』になれるのだ」と。

 ご夫妻にはそういう単なる「良い人」を超えたものがある。今上はじつによく「象徴」としての責務を果たされてきたと思う。先帝がけっして行こうとしなかった沖縄にも、先帝が宣した戦争の遂行のために祖国を遠く離れて命を落とした人々の眠る地にも足を運んだ。サイパンでは予定になかった韓国人慰安平和塔にもお参りをした。そういうことがらの積み上げが心をぬくめ、知らず知らずに頭が下がる思いを抱くようになっている。(もっとも、右翼屋さんたちの間では、即位における「憲法遵守」の言葉、そしてこの「朝鮮人に頭を下げたこと」などは至極評判が悪い。狭量な彼らの精神の範疇を大きく超えるものだからに違いない)

 五十年前のきょうをよく憶えている。**叔父夫婦が我が家を訪れた。我が家のあるアパートが「屋上に各戸のテレビアンテナが林立している」ということで有名になる(東京も世田谷あたりでの話だったのだから驚く)、そんな時代でまだテレビの普及率はまだまだ低い頃だった。

 大陸浪人の風格を漂わせる**叔父は熱烈な皇室崇拝者であった。モノクロのテレビに映るパレードを見つめながら、「民間人をお迎えになる、そういう世の中になったんだ、なぁ、**(父の名前)」と言った。**(父)さんがどう答えたのかは憶えていないが、「なに、言ってんだ」、そう思った。誰も「皇太子妃・美智子さま」などとは呼ばなかった。事情通の大人はどうあれ、子供にとっては「深窓の令嬢」などという意識さえまるでなく、どうかすればご近所のきれいですごく上品なお姉さんという意識だった(それは大きな誤解だったわけだが)から、みんなが「美智子さん」、いや「ミッチー」と呼んでいたし、過剰な敬語を使うこともなかった。だから「なに、言ってんだ」と思ったわけだ。(最近の報道の敬語は過剰なあまり滑稽なことがあり、かえって「バカにしてるのか?」と思わせたりする)

 耳に残る美智子さんの言葉、「とてもご清潔で、ご誠実で・・・」、そう、もうああいう美しい日本語を話すことができる人はどれだけ残っているだろうか・・・などと書くのは歳をとりすぎた証拠なのかもしれない。

 あれから五十年経った。あの日、テレビの前には、**・**(父の叔父夫妻)夫婦、**(祖母)さん、**(父)・**(母)夫婦、**(弟)とオレがいた。生きているのはオレだけだ。「Join the majority」・・・なるほど。(4/10/2009)

 散髪しようと思ってちょっと迷った。わざわざ所沢まで行くかどうか。近いのは「****」。阿佐ヶ谷からここに越してきて所沢に移るまで通った店。ヘラブナ釣りが趣味だったオヤジさんはとっくに亡くなって、いまは息子がやっている。働き者だった奥さんの姿は店先には見えない。もう息子に任せきりなのかもしれない。

 しかし「***」の技術には得難いものがある。よくある「散髪したて」、つまり自分の頭が「床屋の作品」になってしまうようなところがない。仕上がりが自然なのだ。ちょっとだけ迷ったが「***」にした、バスに乗るのは少しもったいないから自転車。

 都営住宅の道沿い、カソリック教会の庭、・・・、街のそこここのサクラがみごと。春はいま盛り。先週の金曜日、都心のサクラは既に満開だったが小金井公園は一歩手前だった。今年は開花が早かったのに、その後の寒さでスロースタートになったから、ずいぶん長く楽しめる。

 いつもの床屋談義。ロスにいっている息子さん、やっとグリーンカードが取れ、結婚することになった由。相手は日本人で実家が横浜とか。ただ一人娘で婿養子を希望されているらしい。「まあ、自分で居場所を見つけて、向こうに所帯をかまえるってんだから、それでいいよ」というが、口と心が一致しているかどうかは分からない。

 帰りは東京病院を回るルートにした。いつもの「想い出の樹の下で」を聴きながら自転車をこぐ。暑くも寒くもない、本当にいい季節だ。**(母)さんの病室のすぐ前には大きなサクラの木があった。ホスピス棟に向かいかけてやめた。花粉のせいでウルウルしていたから。

 格別にサクラが好きと思ったことはなかったけれど、最近は「願はくは花の下にて春死なん その如月の望月のころ」を念ずるようになった。**(父)さんも**(母)さんも亡くなったのは夏だった。暑い頃の法事はあまり歓迎されない。残される者としてはいまぐらいの季節がありがたい。できることなら意識して逝きたいものだ、西行のように。(4/9/2009)

 **(友人)の細君から手紙が来た。卒業後も**さんの茶道教室が三鷹にあるうちは、彼が沖縄で研修中の時を除いて、週に一度くらいは顔を合わせていた。(男弟子というのは先生にとっては自慢のようで、お茶会の時などは実力以上の扱いをしてもらったものだった)。

 数年ほどして管制官の仕事に限界を感じたといって郡山の工業高校の先生に転じて以降、それぞれの仕事の忙しさから年賀状のやりとりだけになり互いの結婚式に呼び合うこともなかった。だから細君に直接に会ったことはない。いつ頃だろうか年賀状に家族写真を使ってきたことがあった。娘さんと区別がつかないくらい可愛い感じの人だった。

 「・・・平成十九年の十二月十日に膵臓癌とわかりすぐに治療に入りましたが、平成二十年二月十七日に他界いたしました」とある。愛妻家で子煩悩、「一生懸命に仕事をする人でした」とある。文面から想像する家庭人としての**(友人)は彼のお父さんの姿に重なる。卒論に着手したばかりの頃、研究室を訪れて「倅をよろしくお願い致します」と頭を下げた、あの見るからに「教育者」、しかも個人に戻っても表裏のない実直そうなお父さんのような・・・。

 臨時休講の時間をもてあまして**の下宿でだべっていた時だった、「・・・男に生まれたからにはやっぱりちょっとは知られたものになりたくないか、親父のようにはなりたくないだろ?。・・・オレの親父?、・・・田舎の中学で校長してる」。

 **(友人)が管制官に見切りをつけた時と親父さんが亡くなった時のどちらが先だったのだろう。リアリストだった彼は、いつ、どのように人生の舵を切ったのだろう。(4/8/2009)

 二階の改装工事、きょうからスタート。まず寝室の床補強から。ミシミシと鳴っていたのはたまたま梁とかち合った箇所の根太と梁の間に入れた補助木がやせてしまったせいだった。梁の上になって上下寸法が小さい根太もそれ以外の根太もしっかりしているし、壁材も一般家庭用に使われる9ミリの石膏ボードではなく12ミリの頑丈なものが使われているとのこと。前のリフォームの時も言われたのだが、設計会社による設計と施工管理が行き届いていることが分かるような造作ということで、至極気分がいい。**(父)さん、感謝します。

 よる7時のNHKニュースで「打ち上げ風景」の映像がオンエアされた。三段式で先端が丸くなっている。「北朝鮮には十分な耐熱材の技術はない」という話が本当だとすれば、「弾道弾」としての実験ではなかったことになる。自民党の一部には「北朝鮮が核を保有するなら、日本も保有をめざすべきだ」とか、おそらく安保理決議が思うように進まないからであろう、「この際、国連を脱退してもいい」などという支離滅裂な意見まで出ている由。発言の主は読売の記事によると坂本剛二。郵政選挙の時の比例代表。北朝鮮が国連を脱退するというのなら分からないでもないが、なにゆえ我が国が脱退を言い出さねばならないのか、普通の知能ていどの人間には理解できないだろう。

 ことほど左様に北朝鮮の「飛翔体」騒ぎはこの国の「平衡感覚」を失わせている。たとえば、オバマがこの日曜日にプラハで行ったスピーチは、ブッシュが放擲したCTBT(包括的核実験禁止条約)の批准をあげ、「核を使用した唯一の保有国として、核兵器のない世界に向け具体的な方策をとる道義的責任がある」と言明した画期的なものだったが、テレビ各局のニュースはそのスピーチの「北朝鮮が長距離ミサイルに利用できるロケットの実験を行い、再び明確にルール違反を犯した」という部分だけを繰り返し繰り返し流し、新聞各紙の月曜朝刊のトップ記事はすべて「北朝鮮ミサイル発射」でそろった。

 この国がミサイルの射程に入っているというだけのことならば、その事実は06年以後は既定の事実になっているのだから何をいまさらということなのだが、そういう冷静さはかけらも見られない。まさに「北朝鮮ヒステリー」の再来だ。ただただ「怖い、怖い」と騒ぎ回るだけで、そのリスクをどのように軽減するかに関する基礎からの検討を一顧だにしない。まるで幼稚園児なみの話。

 それにしても、「唯一の核使用国」が核のない世界へ歩み出そうという宣言をした時に、「唯一の核被害国」のマスコミがそろって、時の政権のさして意味のあるとも思えぬこだわりに関わる部分のみに焦点を当てた「翼賛報道」に終始し、時代を画するかもしれぬ本質的部分を無視したということには驚きを禁じ得ない。これほど愚かな国になったわけだ、我が祖国は。(4/7/2009)

 我が国が開催を求めた安保理緊急会合だったが、予想通り「継続審議」になった。常任理事国の色分けは記録するまでもない。むしろ、非常任理事国がそれぞれどのような意見を表明したのかが興味のあるところだ。しかし、最近の報道機関はすべてヨミウリ・サンケイ化していて、考えるために欠くべからざる材料となるはずのことについては「意地でも伝えない」ように固い決心をしているらしい。

 NHK・BS1の海外の報道機関ニュースの中で、ようやく、ベトナム、リビア、ウガンダあたりの国が「宇宙の平和利用はすべての国に共通の権利」という見解から我が国の新決議を求める提案に反対の意思表示をしているということがわかった。

 根が粗雑にしてがさつな麻生内閣は「人工衛星かどうかは無関係」という姿勢で臨んだが、我が国内でマスコミを総動員して流布した「主観的見解」がそのまま国際社会で通用する「客観的見解」になりうるというのはさすがにいささか無理があったようだ。

 「弾道弾の打ち上げ実験」か?、「人工衛星の打ち上げ実験」か?、今回、我が国にとっては「幸いなことに」北朝鮮は「衛星」を周回軌道にのせることに失敗したわけだが、仮に衛星ではないとしても最終段が周回軌道にのっていれば、我が国の「新決議」要求はずいぶん難しいものになったろう。

 もし周到に事を運ぶつもりがあったとすれば、北朝鮮が今回の「実験」のために整えた手続き上の瑕疵を突くぐらいの準備はして欲しかったところだ。北朝鮮は今回の準備として「宇宙条約」と「宇宙物体登録条約」を批准し、これに基づいて「国際海事機関」と「国際民間航空機関」に衛星打ち上げ通告を行ったわけだ。しかし「宇宙条約」には打ち上げ国が何らかの損害を発生させた場合には無限無過失責任を負うことを定めた「宇宙損害責任条約」がある。Wikipediaの記述に従う限り、北朝鮮はこの条約を批准していない。これなどはいかにも手前勝手な北朝鮮という国の体質をよくあらわしている。「宇宙の平和利用はすべての国に共通の権利」という主張は理解するとして、それに伴う義務に頬被りをしては困るという話を、世界第三位の衛星打ち上げ大国として、ベトナム、リビア、ウガンダなど他の非常任理事国に伝える努力ぐらいは事前にしておくべきだったのではないか。ヒステリックに「衛星であろうがなかろうが無関係」などと叫ぶだけでは味方を増やすことはできない。

 それにしても、と思うが、北朝鮮が「ミサイル打ち上げ」、「核実験」を強行するたびに、北朝鮮専門家筋からは「アメリカを直接対話に引きずり込むことが狙い」だという意見が語られる。かつて北朝鮮がミサイルを数発発射した日、記者会見で当時の小泉首相は「どういう意図があるにせよ、北朝鮮にとってプラスはないんですがね」と言った。常識的に考えれば、国際的非難の中、わざわざ大枚の国費を投入してミサイル打ち上げなり核実験をするよりは、するぞするぞとお得意の瀬戸際外交をやってなにがしかの援助なり譲歩を勝ちとる方が「北朝鮮にとってプラス」であることはたしかなはずだ。それでも打ち上げをやり、核実験をやるというのは、大陸間弾道弾も核爆弾も絶対に保有するのだという固い決意の現れのような気がする。我が国の「北朝鮮専門家」や「解説員」の皆さんももう少し「事実」をしっかりと見て欲しい。「イヤ、やはりアメリカとの直接対話の実現のためにやっているのだ」というならそう判断する根拠、その直接対話に両国はどのように臨もうとしているのかくらいは「事実」付で説明して欲しいものだ。(4/6/2009)

 もはや政府もマスコミもホンネでは打ち上げを渇望するに至った北朝鮮の「飛翔体」。一日遅れでやっと打ち上げてくれたようで、まずはメデタシ、メデタシ。

 オオカミ少年というのはすぐに信用されなくなるようで、けさからのマスコミは相当クールダウンした印象。したがって「飛翔体、発射」も何となく予行演習で疲れてしまった小学生といったところ。

 結論から書けば、どうやら人工衛星の打ち上げは失敗だったようだ。アメリカの航空宇宙防衛司令部の発表では「第一段は通告どおりの日本海海域に、第二段以降は太平洋に落下し、衛星軌道に乗ったものはない」とのこと。

 アメリカの発表を額面どおり信じるならば、どうやら第二段の切り離しがうまくゆかなかったということ、それなりには人工衛星をめざしていたのではないかということになる。

 核実験もそうだったが、人工衛星についても、北朝鮮の実力については大いに疑問符がつく。そのていどの「成果」であれだけの「外交」を展開してみせるのだから、「ソフト・パワー」というのはじつに貴重なものということができる。相当の技術力を有しながら粗雑な外交しかできない我が国は大いに北朝鮮を見習わなくてはならないだろう。

 政府はさっそく安保理の開会を要求したそうだ。日本を除く9カ国(クロアチア、コスタリカ、ブルキナファソ、ベトナム、リビア、ウガンダ、オーストリア、トルコ、メキシコ)のうち、どれくらいが日本の主張を理解してくれるか、頼みとするアメリカの姿勢がどのていどのものか、興味津々。開会は日本時間の未明になる由。(4/5/2009)

 昼食にリビングに降りてテレビをつけると、「北朝鮮が飛翔体を発射した」というニュース。「官邸連絡室を官邸対策室に格上げし、首相が安全確認や情報収集を指示した」とアナウンス。ところが数分もしないうちに「先ほどの飛翔体発射は誤探知」と訂正。NHKは連絡システムを説明、「先ほどのニュースは政府から伝えられたものです」と自らの「誤報」ではないことを強調する。思わず嗤ってしまった。

 ここ半月ほど、煽りに煽ったあげくに、興奮の体で「発射、発射」と連呼し、またまた興奮の体で「誤検知、誤検知」の連呼。つくづくアホな政府・アホなマスコミと嗤っていたら、あげくに「冷静に、今後の情報にご注意下さい」などとのたまう。

 こちとらは、はなっから、ずっと冷静だよ。あんたたちこそ、頭を冷やしたら如何か、呵々。

§

 「誤検知」という言葉を聞いた時、思い出したのは先日放送された「エイブル・アーチャー事件」に関する番組のことだった。エイブル・アーチャー事件というのはNATOの軍事演習をソ連が実際の軍事行動と誤認したというものだが、それに先立つ事件として1983年9月26日に起きたことはまさにミサイルの「誤探知」であった。

 その日、人工衛星による核攻撃早期警戒システムがアメリカからの5発の核ミサイルを検知しアラームを発した。勤務についていたスタニスラフ・ペトロフはこれをシステムのエラーだとしてアラームを解除した。番組で彼はその判断の根拠を「もしアメリカが先制攻撃をかけるとしたら、たった5発のミサイルのみを発射することはあり得ないと考えたからだ」と言っていた。彼の判断は正しかった。アメリカが発射した5発の核ミサイルというのは、探知衛星が雲に反射した太陽光を「誤検知」したものだったからだ。間違いなくペトロフは偶発的な核戦争の勃発を防いだのだが、後に彼はこの件で除隊処分されることになった。

 ただ、きょうこの国で起きたことは「誤検知」ではなかった。自衛隊のレーダーに映じた不審物をミサイルと疑い、本来判定条件とすべき米軍からのAND情報がないのにあったとして「発射」と連絡してしまったという、お粗末きわまりない話だったのだから。航空自衛隊、なるほど田母神のようなバカが幕僚長に昇進できた組織だけのことはある。

 夜になってもマスコミは「誤検知」という言葉を繰り返している。「誤検知」というのはセンサが誤った作動した場合をさすのだよ。つくづく愚かな国に成り下がったものだ、我が祖国は。

 結局、きょうの「飛翔体発射」はなし。日誌には「西部戦線異状なし」とでも記載しておいたら如何か、呵々。(4/4/2009)

 都内の桜紀行。メンバーは**さん、**さん、**さんの計4人。9時半に竹橋の近代美術館前に集合して、千鳥ヶ淵、靖国神社、飯田橋から市ヶ谷までの外濠公園、千駄ヶ谷まで移動して新宿御苑、さらに原宿まで移動して代々木公園、小田急から井の頭線に乗り換えて井の頭公園、東小金井から小金井公園。歩いた歩いた、総行程2万8千歩、約7時間。

 ウィークデーとはいえ、開花から既に二週間。待ちかねた中高年がどっと繰り出したようで、井の頭公園などはまるで夏の江ノ島なみの混雑。しかし天気は上々、暑くも寒くもなく、サクラはほぼ満開、気分は最高という満足の一日だった。・・・かなり疲れたけれど。(4/3/2009)

 少し遅れて支払われる会社分年金の第二・第三脱退一時金を除けば、もう一切まとまった収入はない。そう思うとにわかに不安になり、総務と社会保険事務所でもらった年金試算値で必要補填分を再計算したり、ペイオフを考慮して新たな口座やMRF狙いの証券口座を調べたり・・・。退職すればしたなりにいろいろ雑務はあるものだ。

 それにしても、みずほから来る年金相談案内の可笑しさよ。今どきメガバンクのお為ごかしに騙されるバカはそうそういるものか。みずほなんぞに決裁以外の機能は期待していない。屁みたいな金利と見え見えのATM手数料稼ぎ、一般利用者のほとんどは「バカにするにもほどがある」と思っていることにいまだ気がつかないとしたら、もう終わりだよ。

 もっともネット銀行もいまひとつ工夫が足りない。当座のカネはネット銀行におき、随時、必要額を決済銀行に振り込みというのが普通なのだから、他行振り込み手数料がかかるようでは無意味。住信SBIと新生は(回数制限はあるにしても)無料だがソニー銀行などは210円とろうとする。それくらいなら多少のリスクを冒してもさらに利率のよい証券口座の方がはるかにましというものだ。(4/2/2009)

 いつものように6時半に目覚ましが鳴り、45分に起床。いまごろ新秋津の駅、いまごろ西国分寺、いまごろ通用門、いまごろシステムに火を入れて・・・などと思う。苦笑い。でも、そんなことは9時くらいまでのこと。ウォーキングを兼ねて、**(家内)と北口の「でんきち」へ。二階の三部屋の改修後にとりつけるエアコンを物色し、歩数計のボタン電池、ブランク・ディスクを買ってきた。

 昼過ぎ、猛烈な睡魔。もう誰はばかることもない、**(家内)に「(花巻東と利府の)試合が始まったら、起こして」と言って横になる。**(家内)は起こしに来たらしいが起きた時には試合は終わっていた。

 株価の推移を銘柄別に眺め、あれこれと検討したり、まだつながるVPNでイントラにアクセスして、遅れて着いた挨拶メールへのレスメールや新職制表を見たりするうちに、あっという間に夜になった。それにしても、在職中は必要な時しか確かめなかった職制表をいまになって隅から隅までしっかり見るなどというのは単なるへそ曲がりというよりは「アホなんだなぁ」と独り笑い。

 あれだけ昼寝をしたにも関わらず、もう眠くなってきた。結局、定年後の第一日は、ただの一ページも本を読むことなくこの時間になってしまった。ふと、高校・大学と試験の直前になると猛然と本が読みたくなり、そのくせ試験が終わってしまうと、本など手に取らなかったことを思い出した。ほんと、つくづく思う、オレは「アホ」だ。(4/1/2009)

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