きょうになっても片づかない。問題は本棚の収容力を無視して買い続けた本が和室・寝室・**(上の息子)の部屋のそこここに積まれていること。昼頃、久しぶりに帰宅した**(上の息子)が、「オレの部屋は自分で片付けるけど、その前に親父の本、どうにかしてよ」といってきた。

 どうにもこうにもならなくなって、とりあえず新座の家に仮置きすることにした。ほんとうはさしあたって手に取りそうなものと当分の間読みそうもないものを選別して箱詰めしたいのだが、その時間はない。**(家内)のご機嫌が斜めにならないうちにと、もう分類して積み上げている山のことなどかまわずに段ボール箱に移した。ここひと月の間に何回か舌打ちすることになると思いつつも、仕方がない。

 パソコンのまわりはあっという間にスッキリした。掃除機をかけて、何ヶ月ぶりかで眼にする畳に寝転がると不思議な開放感に満たされた。とりあえずきょうの所はご機嫌。**(下の息子)のブログに「家を建て替えるとき本の収蔵のために百万くらいかけた」と書いてあった。「百万はかけてないよね」と**(家内)に聞くと、本棚の造作の費用に重量対策の補強にかかった分を足すとそれくらいになったということだった。ご機嫌取りのつもりでいったのが間違い。しばらくの間、たっぷりとお説教を喰らった。なにを言われたのかは憶えていない。呑まない、打たない、買わない、世間並みの遊びはなにもしないのだから、これくらいの道楽のなにが悪いと心の中では思っている。(12/31/2006)

 フセインに対する絞首刑が執行された由。

 フセインが拘束された日の滴水録にこう書いた。

 フセインの拘束にはふたつの疑問の解消が期待されている。ひとつめは「大量破壊兵器問題の真相」、ふたつめは「アルカイダとフセインの関係」だ。もし、拘束された人物がまちがいなくフセイン大統領だったとすると、これらを明らかにすることが最優先されるはずだ。なにしろ、それが「イラク戦争」の開戦理由だったのだから。
 逆に、フセインの拘束後も、大量破壊兵器の存在が証明されず、アルカイダ手法によるテロが続くことにより反米ゲリラと無差別的テロが独立事象であることが判明し、アメリカが「フセインの反人道的所業に関する裁判」にのみスポットライトをあてるように画策したとしたら、アメリカの開戦理由はただのでっち上げだったということになるだろう。

(2003年12月14日)

 三年が過ぎて結論は出た。いまでは世界中で誰一人、「アメリカの開戦理由はただのでっち上げだった」ことを知らぬ者はいない。アメリカの受け売りを書いていた読売新聞やサンケイ新聞はあしたの社説にどう書くか。戦争イエロー・ジャーナリズム両紙としては「顧左右而言他」しか、ごまかしの手口はあるまい。

 フセインにとって分かれ道はどこにあったのだろうか。決定的な分かれ道はアメリカの駐イラク大使グラスビーの「アメリカはアラブ諸国間の国境問題には介入しない」という不用意な発言を「誤解」してクウェート併合に突き進んだことだ。もっともフセインにしてみれば「誤解」の背景は十分にあった。

 そもそもクウェート併合という非常手段を強いた遠因はイラン・イラク戦争にある。その戦争は傀儡パーレビ国王を放逐したホメイニ・イランを敵視したアメリカが、フセイン・イラクに対して武器供給(その中には大量破壊兵器製造の資材も含まれていたのだから嗤ってしまう)支援を続けけしかけたものだった。そしてその戦争の戦費負担がクウェート併合の野望を引き出した。フセインの「誤解」を強めるような発言は駐イラク大使だけではなくケリー国務次官もしている。曰く、「アメリカは自由主義諸国に近づきつつあるイラクとの関係拡大を望んでいる」。「アメリカによる陰謀説」がまことしやかに語られるのも故なき話ではない。

 サンケイ文化人に代表される人々ならば、この状況をABCDラインによる日本包囲網という挑発にやむなくアジア解放戦争に突入した大日本帝国をダブらせてみるのではないか。そうだ、大日本帝国が悪くなかったようにフセインも悪くはなかったのかもしれない。歴史相対論者、「大東亜戦争」肯定論者、靖国公式参拝肯定論者、・・・、彼らはフセインを悪者とはいわないに違いない。(12/30/2006)

 **(母)さんの転院先候補として、午前中、救世軍病院、午後、信愛病院でソーシャルワーカーと面談。厚労省の指導で緩和ケアは原則余命6ヵ月が対象とか。言い換えれば死ぬ見通しがたっていることが条件ということ。緩和ケアという特定の分野に制限の網がかけられているわけではない。急性期病院は3ヵ月が限度、慢性期病院も医療型療養病床は6ヵ月、介護型療養病床でも1年が限度らしい。

 弱者、もしくは病人・高齢者などの「役立たず」に冷たくするのが小泉構造改革の基本的ポリシーだ。小泉だけを悪し様にいうのは適切ではないかもしれない。政府・自民党はある時期からいろいろな社会保障制度を「小さい政府」の看板通りにどんどん削減する政策を推し進めてきた。おカネのある人はあるなりの医療サービスを受けられます。おカネのない人の医療サービスを公費で負担するのは「もったいない」でしょう。国にはもっと他にやらなければならないことがあるのですから。これが彼らの理屈だ。

 そのことがあまり見え見えになると自分たちの地位が危なくなると考えて、自民党と厚労省の高級官僚は細工を弄した。まず病院を細かな区分に分け、個々の病院にその区分を選択させ、その「専門」毎に健康保険なり介護保険の適用条件と制約を決め、部外者にはなかなか全容が掴めないようにして「制度がどんどん劣化している」という印象を与えないよう工夫を凝らした。

 個々の病院には「指導基準」を超えた場合は保険給付を削減する。病院は患者とその家族に対して「そのような制度になっているので、もうここを出ていただかないと病院が赤字になってしまうのです」と説明させるわけだ。驚いて役所の窓口に行くと「おおよそのことは**病院さんのご説明の通りです。細かなことはそれぞれの病院さんによって運営の仕方が違うので、あなたのご希望の条件に合う病院をお探しになって下さい」と言い逃れる。

 「小さくて冷たい政府」はかくして「医療費を食いつぶす役立たずの国民」がとっとと死んでくれるのを待っていればいい。・・・とまあ、こういう算段だ。仲間内でさえ刺客を差し向けた小泉のこと、この程度の「改革」は躊躇するほどのことではなかったに違いない。後を受けた安倍は外見的に「美しい国」であれば内実がどれほど醜くても頓着しない。その政府関係者がいかに醜い者どもで占められているか、ここ数週間の「辞職パレード」が示している。(12/29/2006)

 仕事納め。**さんはきょうで退職。隣の調達センターでは担当部長が二人、きょうで退職。一人は同期の**。来月一日付の人事異動リストがイントラに掲載されていた。幹部職の退社が26人。定年退職が34人。任期満了できるのか、考え込んでしまった。

 **さんは面接のある前から退職するつもりでいた。人勤との事業所面接では当初、来年3月ということで話し合いがつき、その前提でいろいろの引き継ぎ準備をしていた。その後、本社人勤からのお達しで面接で決定したメンバーと同様今年いっぱいということになった。心づもりを崩されて、やる気を失ったのだろう、彼は有給休暇と積立休暇のすべてを完全消化することにして10月はほぼ隔日、先月と今月はすべて休暇を行使した。「いくら休暇があまっていてもあそこまではできないよね」という声もあったが、その気持ちは分かる。

 人勤には人勤の算段があり、彼らは予定通りに首尾よく計画を展開し、十分な成果を上げたつもりなのだろう。しかし会社は「得べかりし、見えぬ」財産ないしは利益を回収し損ねたのだ。**さんが心づもりしていたことは即座に「予算」や「計画」の数字に反映するものではない。だがそれはいつの日か予期し得ぬ利益を生むか、あるいは予期し得ぬ出費をさせないためのもので、そういう積み上げこそ歴史と伝統のある会社の「底力」であったのだが、経営上層部が当世風の今期の数字以外は要らないというぽっと出の会社のようなふるまいを理想としているのなら、もはや是非もないことだ。(12/28/2006)

 行政改革担当大臣・佐田玄一郎が架空の事務所家賃名目で90年から十年間で7800万円を支出していた件で辞めた。「職を辞する」というから議員辞職をするのかと思ったが、なんのことはない大臣職を辞するだけ。もともと「安倍晋三さんを支える会」の会長で頑張ったご褒美に大臣にしてもらった経緯があるそうだから、その器でもないものが名誉職を返上しただけのことではないか。記者会見で「国政の停滞を招いてはならない」とのたまったのは押しつけられたセリフ、神妙な顔つきはシナリオに指定された演技だったのだろう。

 夜のニュースではいろんな人が入れ代わり立ち代わり出てきて、小泉は人事にあたってスキャンダルの有無などの「身体検査」をかなりきっちりやっていたが安倍はそのへんが甘いのではないかとコメントしていた。半分は当たっているが半分は外れているだろう。安倍自身も汚染度はけっして低くはない。その自分に引き比べて「身体検査」データを見るから、政治資金を「多目的」に使っている程度のことは問題と思わなかった、と、そういうところだろう。

 先週は本間。今週は佐田。それにしても悪事の露見から辞職までの早かったことよ。(12/27/2006)

 名張毒ブドウ酒事件。昨年4月に名古屋高裁が下した再審決定に対する高検の異議申し立てを認め、再審決定を取り消し。

 判決文はいたって恣意的。殺害に使ったとされる農薬(ニッカリンT)の成分が残されたブドウ酒に含まれていなかったことについては「検出されないこともある」、「ニッカリンTでないとは言えない」と終始こんな調子で書かれている由。毎日のサイトの記事には「まさか、いまどき」と目を疑いたくなる文言があった。「自らが極刑となることが予想される重大犯罪について進んでウソの自白をするとは考えられない」。裁判所がこの理屈を採用するということは"Confessio est regina probationum"(自白は証拠の女王)を再び甦らせるということを意味している。なんとも背筋の寒くなる言葉。

 裁判長は門野博。陪席の裁判官の名前は夜の報道の範囲では不明。(12/26/2006))

 朝刊の社会面に「石原知事の四男『都の仕事はこりごりだ』」という見出しでこんな記事。

 東京都の石原慎太郎知事は24日に放送されたテレビ朝日の番組で、四男の延啓氏(40)が都の文化事業にかかわって公費で出張するなどして批判を浴びている問題について、「こりごりだ。もう都の仕事は一切しない」などと知事にこぼしたことを明らかにした。知事は、「いろいろアイデア出してくれているから」と延啓氏に今後も助言を求める考えを改めて示した。
 知事によると、延啓氏は「おやじのために、都のためにと思って、ただ働きして、こんなにぐちゃぐちゃ。もう都の仕事はしない」などと話したという。知事は延啓氏に「そう言うな」と取りなしたという。

 「太陽の季節」で売り出した頃の石原慎太郎がいまここにいたら、この延啓のような「息子」とそれをひたすら慰めている「父親」をどう書いただろうかと想像して思わず吹き出してしまった。

 時間とは残酷なものだ。老いとは無惨なものだ。

 カネがもらえないと、それは「ただ働き」だと感ずるゲージツカ、なかなかのセンスだ。いずれにしても、大方の都民は「もう都の仕事はしない」と聞いて、胸をなでおろしているに違いない。(12/25/2006)

 月曜日に始まった六ヵ国協議がきのう休会に入った。もともとブッシュ政権が中間選挙での劣勢をなんとかしようと金融制裁に関する二国間協議をえさに「北朝鮮問題もまじめに取り組んでいます」という国内向けのエクスキューズのためにセットしたもの。はたして予想通り二国間協議は進められたものの本会議の方は「踊るだけで進まな」かった。テレビニュースはほとんどそちらの方ばかり報じているが、今回の「アンコ」は本会議などにはない。二国間協議、わけてもアメリカと北朝鮮の財務担当官同士の協議こそが「アンコ」だったはず。したがってこれは当然の成り行きで、成果も、ある意味、想定通りだったのではないか。

 木曜日の朝刊に両国の担当官のプロフィール記事があった。

 グレーザー米財務次官補代理と呉光鉄・朝鮮貿易銀行総裁。6者協議と並行して行われた米朝金融制裁協議の主役2人が、首席代表をしのぐ注目を集めた。・・・(中略)・・・
 韓国の中央日報によると、呉氏は平壌人民経済大学を卒業後、ロシア留学。おじは故金日成主席らと抗日パルチザン闘争に参加した人物とされ、毛並みのよさから若くして海外金融を担当する現職に選ばれたという。金正日総書記の信任が厚いとみられ、「金庫番」との見方も出ている。
 グレーザー氏は米国の名門コロンビア大学ロースクール卒業後、大手弁護士事務所を経て財務省入りした典型的なエリート。同省が紹介する簡単な略歴には「マネーロンダリング(資金洗浄)」という単語が7度も登場する。まさに「ミスター反資金洗浄」だ。
 マカオのバンコ・デルタ・アジアに絡む米政府の金融制裁も「北朝鮮の不法なビジネスを特定、根絶するために必要な措置」と言い切る。
 紙幣偽造や麻薬犯罪にも精通。このどちらも「北の国策事業」(米政府当局者)と指摘されている金正日体制にとっては、手ごわい相手といえる。

 彼らは19日にはアメリカ大使館を、20日には北朝鮮大使館を相互に訪問し、それぞれ8時間から5時間もの時間を費やして協議を行ったことが新聞には報ぜられている。そして来月はニューヨークに舞台を移して協議することも決定された由。たしかに核放棄に関する問題はほとんど話し合われもしなかったのだが、そのための基礎的条件を固めるための作業は行われたわけで、これが今回の「成果」だったと考えるべきだ。

 二国間協議はべつに米朝のみで行われたわけではない。中国はもちろん韓国、ロシアも北朝鮮との二国間協議を行っているし、それ以外の組合せもあったようだ。六ヵ国協議の期間中に二国間協議を行わなかったのは我が国だけだった。佐々江アジア大洋州局長は「時がくればおのずと水は流れていく方に流れていく。我々は自然体」とコメントしたそうだが、ならば局長がわざわざ北京まで行く必要はないということになってしまう。つまらない言い訳はしないことだ。

 拉致問題を抱えている国として、北朝鮮がそれに応じないならば、外堀にあたる中国・韓国・ロシアに理解を求め支援を要請する二国間協議くらいは、北朝鮮に見える形でするべきだったろう。もっとも我が国はこれら三国のすべてと未解決の領土問題を持ち、あまつさえ、そのうちの二国とは靖国・歴史認識問題を原因として首脳会談さえここ数年間なかった。(一年ほど前、前宰相は日米首脳会談の後、「日米関係がよければすべてうまくゆく」と言いASEANプラス3首脳会議の後には「中韓はいずれ後悔するときが来る」と言った。そのときネット右翼のみならず少なからぬ国民がその言葉に拍手していたっけ。彼らはいまその言葉をどのように思い出しているのだろうか。忘れてしまったのかな、呵々)

 拉致を中心とする北朝鮮問題のみのポイントで総理大臣になった安倍晋三。こんなことでいいのか。大枚の税金を使ってキャンペーンした拉致問題を考えるシンポジウムらしきもので、彼は「拉致問題の解決がないうちは私の内閣は北朝鮮とは絶対に国交を回復することはありません」などと言っていた。あの言葉にはふたつの問題がある。ひとつはなぜ「私の内閣は拉致問題の解決に邁進する」と宣言しないのかということ、そして、ほんらい二国間の困難な問題は「基本的な外交関係の正常化というベースがあって解決しやすくなるものではないのか」ということだ。

 頭が悪い人ほど問題をわざわざ複雑にするものだ。どうもこの内閣はその典型例のような気がする。(12/23/2006)

 天皇誕生日の振り替え休日で、きょうから三連休。床屋、パソコンの片付け、年賀状書きと思っていたのだが、ソーシャルワーカーの**さんから申し入れがあり、午後、面談。午前中に介護保険の認定手配のために新座市役所に行く。救世軍病院や信愛病院をまわったため、結局、帰宅は夕方。疲れた。あれやこれやで思っていたことはなにひとつ手が着かず。

 立花隆がソニーの変質について書いている。書き起こしは天外伺朗が文藝春秋の新年号に書いた「成果主義がソニーを破壊した」の要旨。承前は出井体制から後任たる中鉢体制へのトップ交代劇をプレステ3を絡ませて書き、プレステ3の中心部であるCELLとGPUの性能に関する話へ。そして結びをこんな風に書いている。

 こういう話を聞いてくると、プレステ3がどれほどとんでもない可能性を秘めたマシンであるかがわかってくるだろう。
 ソニーは、プレステ3と"セル"の開発によって、スーパーコンピュータをチップにしてしまった。しかも、その大量生産技術を開発することで、それを安価な部品(チップ)に変えてしまった。しかもそういうチップをアッセンブルした民生用機器を開発してそれを商売にしてしまうというとんでもない新しい技術世界のトビラをいま開こうとしているのだ。
 これがうまく展開していくと、ソニーは21世紀の電子産業界で、20世紀にインテルが果たしたような役割を果たすウルトラ級の巨大電子産業になってしまうかもしれない。
 しかし、ソニーの未来に関して、ちょっと心配なのは、中鉢社長にそういう方面の話をぶつけると、「私、スーパーコンピュータのほうはぜんぜんわかりませんので」と、ぜんぜん話に乗ってこないことだ。そういう可能性を知らないのか、知らないふりをしているのか。巨大企業の社長たるもの、あまり最先端の夢のような話に乗って、行け行けドンドンで先頭に立って暴走したりしないほうがよいのだろうか。

 出井が久夛良木を退けて後継を中鉢にしたあたりにソニーの変質が象徴的に現れている。久夛良木の数々の発言から想像するに、彼は技術そのものを面白がり、とことんそれを突き詰めるタイプのように見える。それはまさに創業者・井深大の精神でもあったはずだ。

 直接インタビューした立花でさえ、中鉢がCELLの「可能性を知らないのか、知らないふりをしているのか」判じられなかったのだから、一読者には、これから現在の経営陣が「掌中の珠」を活かし切ることができるかどうかはまったく想像がつかない。だがもし中鉢が成果主義の中から生まれて来たような人物だとしたら、もはやソニーは昔のソニーではなくなったということだけは確実に言えそうだ。(12/22/2006)

 本間正明が「一身上の都合」で辞任した。月曜に書いたことは大外れだった。では本間が一等地の官舎に住んでいることをリークしたのは誰だったのだろう。いちばんありそうな話は政府税調の官邸主導色を嫌った財務省ということになる。たとえば、こんなニュースがある。財務省の担当者は、おとといの衆議院財務金融委員会理事会で、件の公務員宿舎を管理する関東財務局が阪大(本間が教授を務めている)と契約を結び「無償」で貸し出す形式を取っていることを明らかにし、さらには、わざわざ「月に数回しか利用していないのに非常勤の公務員に宿舎を貸すケースは極めて異例」とつけくわえたという。

 森永卓郎によれば、安倍内閣の人選によりスタートした本間税調のポイントはふたつあって、ひとつが経済財政諮問会議のメンバーでもあり小泉内閣のブレーンでもあった本間正明と吉川洋がそのまま税調の会長と委員に横滑りしたこと、もうひとつがその事務局が財務省から内閣府に移されたことだという。森永は後者を取り上げてこう書いている。

これは、実に重い意味を持っている。なぜなら、税制のたたき台を作るのが事務局の仕事であり、その影響力は非常に大きいからだ。実際のところ、政府税調の会議というのは、委員一人当たりに割り当てられた発言時間はひどく短い。たいていは、まず役人が原案を長々と読みあげて、あとは各委員が一人30秒ずつコメントするといった具合である。
そんな調子だから、事務局が用意した資料は、税制論議にストレートに影響を与えることになる。そんな重要な任務を帯びた仕事が、財務省から内閣府に移されたのだ。
これは何を意味しているのか。
言うまでもなく、財務省は税の専門家であり、税制に関係するデータを大量に持っている。複雑怪奇ともいえる現在の税制についても、深く理解しているはずだ。しかし、その専門家をはずして、素人の内閣府が案を作ることになったのである。しかも、政府税調の会長には、新自由主義を信奉する本間氏が就任。その彼が内閣府の方針、言い換えれば官邸の意を受けて先走りしている。

 財務省の危機感は小さくはないかもしれない。それが天下国家に関する危機感か、テリトリーに関する危機感か、いずれによるものかは分からない。分からないのは陋巷の民だけでなく、ひょっとすると彼の司の顕官にも分かっていないのかもしれぬ。(12/21/2006)

銭のない奴ぁ、オレんとこへ来い
オレもないけど、心配すんな
見ろよ、青い空、白い雲
そのうち、なんとかなるだろう

 青島幸男が亡くなった。夜のニュースで紹介しているのは「スーダラ節」と「ドント節」だ。「チョイと一杯のつもりで飲んで・・・」も、「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ・・・」も、即座にメロディーつきで浮かぶ。「明日があるさ」はそのまま青春のある時期の情景と結びついてもいる。しかし訃報を聞いて一番先に頭の中で鳴ったのは「見ろよ、青い空、白い雲」だった。

 カネも、カノジョも、シゴトもないなどというのは、いつの時代にも共通する若い男の悩みだ。けれどこの歌は暗くはない。なんの成算もないくせに明るい。明るいと書くだけでは足りない、クソ明るい。青い空も、白い雲も、波の果ての水平線も、あかね雲も、どう考えたって、「そのうち、なんとかなる」という根拠にはなりそうもないのに。

 ではなぜ「そのうち、なんとかなるだろう」とそれに続く「ワハハハ」が、それほどウソっぽくないのか。その時代を知る者には分かるだろう、少なくとも、この歌を聴き、歌った頃、「そのうち、なんとかなるだろう」は実感だった。高度成長期、すべての経済統計は屈託なく右肩上がり。明日は今日よりも、間違いなく、良くなるとほとんどすべての者がそう思い、その期待には外れがなかったからだ。だから「明日がある、明日がある」と連呼することができた。当然、光には陰があったのだが、その陰もそのうちなんとか明るくなる・・・、光の力強さを人々は疑わなかった。

 朝日のサイトには、都知事就任後の都市博の中止公約を果たした頃を頂点のように書いた記事が載っている。

 就任早々、臨海部での博覧会中止という公約を実現し、「損得ではない。青島は約束を守れる男か、守れない男か、信義の問題だ」と語り、都民を喝采させた。
 でも、威勢がよかったのはそこまで。巨大な官僚組織、オール野党の議会、山積する課題を前に、青島色はかすんだ。「官僚の言いなり」「公約違反の無責任男」と厳しい批判を浴び、一時は意欲を見せていた2期目への立候補を断念した。

 「威勢がよかったのはそこまで」とはじつに痛烈な言葉。批評と批判は楽だが、結果を出すことは難しいのだと言えば、それはその通り。しかし都知事・青島がかすんだのはそういうことよりは、彼が歌った時代の条件が既に変わっていたということの方がはるかに大きかったのだと思う。都知事は青島から石原に替わった。いまは「明日がある」という言葉さえ人々は疑っている。(12/20/2006)

 忘年会にしては早めの帰宅。着替えをしながらテレビを見ると我が宰相が映っていた。「・・・ということは国民の理解を得られないもののと判断し・・・」などとしゃべっていた。

 史上最高益などといいながら法人税すら払っていない大手銀行が申し出た政治献金を受け取らないよう指示したというだけのこと。酔っぱらいにすら簡単に分かるごく当然の話で、そんな当たり前の話を天下の総理大臣が得意顔で話すこととも思えない。

 安倍総裁にはこんな分かりやすいことを説明するときではなく、もっと分かりにくいことを決めたときにこそ、お出ましいただいて説明が欲しい。たとえば、先日の復党問題、ああいうものこそ、自民党総裁である安倍晋三自身が自らの肉声で懇切にしてかつ丁寧に説明すべき問題だった。どうもこの人にはことの軽重、優先度など、肝心なことを判断する能力がまるでないようだ。(12/19/2006)

 連絡会終了後、FCSメンバーと懇談会兼忘年会。いい気分になって乗った電車で、「ホンマかいな、そうかいな」という冗談が耳に入った。政府税調会長・本間正明のことをいっているのだろう。

 ラドラムの「囁く声」はフーバー・ファイルがネタだった。FBIに半世紀近くも君臨した伝説の長官、エドガー・フーバー。民主党・共和党の政権交代があろうと、なんの影響も受けることなく長官職に居座ることができたのは、盗聴データをもとにした「フーバー・ファイル」という秘密ファイルがあったからだ。フーバーは自分の地位を脅かしそうな大統領、議員が現れるごとに、このファイルの存在をちらつかせて黙らせた。ただひとこと、「いい加減にしておかないと、このファイルが黙っていないぞ」と囁くだけでよかったというわけ。

 この国にもそういう噂がなかったわけではない。池田勇人は税務署人脈を押さえ、政敵の脱税情報をずいぶん利用したという。それが噂のレベルを超えなかったのは暴露してはおしまいと思っていたからだろう。だがすべてにおいて型破りだった小泉政権はスキャンダルをわずかにリークして相手を牽制するという手を使っていたふしがある。日銀の福井総裁などはその例かもしれぬ。日銀の面子にかけた「ゼロ金利解除」、それをとりあえず「ゼロではない」状態で凍結させたのは、「村上ファンド・スキャンダル」に巻き込んでおいて、「救ってやったのが誰か、しっかり考えてみるんだね」と囁いていたのではないか、と、これは想像。

 件の「本間かいな」会長が都心の一等地に格安の家賃で住んでいるという話が先週あたりから週刊紙を賑わせている。安倍も小泉にならって本間に恩義を売って、官邸主導の政府税調路線をより確固たるものにする作戦か。ただ、まさか本間が件の官舎に愛人を連れ込んでいたというのはいささか計算外だったろう。塩崎官房長官が「本間会長は経済財政諮問会議の民間議員として入居したのでルール上は問題ない」としつつ、「プライバシーはプライバシーでそれ以上は言うつもりはない」としているところが、そのあたりの事情をうかがわせぬでもない。

 なるほど一等地に格安家賃というのは公務員の既得特権として認められているのだから「ルール上は問題ない」に違いない。しかし官舎を含む国有財産の売却を熱心に主張していた張本人が、その官舎に入っていてはしゃれにならない。自分と身内に甘いのは、民間人である息子を公費で出張させたり、その作品を税金で買い上げさせて顰蹙をかっている都知事にも共通する愚劣なエリート感覚なのだろう。「美しい国へ」を呼号する総理には、「見てくれは立派(教授、最近とかく問題の多い阪大ではあるが)」でも、その実「中味はスノブ」という輩が寄って来る。まさに類は友を呼ぶようだ。(12/18/2006)

 きのうの朝刊、土曜版「愛の旅人」は「獄門島」だった。金田一耕助、生涯一度のプロポーズ。相手の鬼頭早苗について「後に作家の横溝正史は、女優・八千草薫さんの若い頃を例えに挙げている」とある。うーん、そういう気もするし、違う気もする。もう三十年以上も前に読んだものだから、作品自体が少し煙っている。読み直してみようか。

 金田一耕助シリーズはほとんどすべて読んだ。来年三十三回忌を迎える**(祖母)さんも存命中は愛読していた。**(祖母)さんの読書スピードにはかなわなかった。あまり速いピッチで借りに来るので、ためしにいくつかのストーリーについて質問してみたことがあった。この歳になって、いまの自分と引き比べてみると、あれは常識的な老人のレベルを凌駕していたのではないかと思う。

 筋立ての的確な説明ができただけではなく、全体を通しての感想も鋭かった。「横溝さんは女性を犯人にすることが多いのね」。

 寡黙な芯の強い典型的な明治の女だった。彼女を中心に半径1メーターの範囲内はしんと静まりかえっている、そういうヒトだった。彼女の若い頃に行き会ったならば、ぼくはきっと恋したに違いない。(12/17/2006)

 久米宏の「ラジオなんですけど」が衆議院議員480人に対して、こんなアンケートをとった。「あなたは安倍総理の『美しい国へ』を読みましたか?」。回答したのは70名。うち、自民党議員は21名が回答をよせ、「読んだ」と答えたのは19名だった由。

 先日の復党組を加えると自民党衆議院議員は307名のはずだから、全体の回答率14.6%に対して、自民党議員の回答率は6.8%と極端に低い。その割に読んだとする回答率が90%を超えているのはいささか奇異な感じがしないでもない。回答をしなかった自民党議員93.2%のうちのほとんどは「美しい国へ」を読んでいなかったのかもしれない。「読んでいない」ことを明確にすることには差し障りがあると感ずる議員が多かったことが、自民党議員の回答率の極端な低さの理由だろう。

 昨年来の自民党議員の行住坐臥を見てきた眼で見れば、いまや自民党議員はかつての共産党議員並みかそれ以上に「党中央」を畏怖し、「異端」と指弾されることに恐怖心を抱いているように見えるが、さすがにまだ「内心の自由」だけはかろうじて確保しているようだ。

 あれは、いくら党首が書いた本だとしても、ひどすぎる。くだらない本をくだらないという自由は既に失ったとしても、読まない、無視する自由くらいはかろうじて維持しているということなのだろう。自民党議員の皆さんに忠告してあげたい、「なに、怖がることはありません」、「おそらく、安倍総理自身、あの本を読んでいないのでしょうから」と。

 これはかなりの確度で断言できる。なぜなら、噂によれば、あの本は、聡明な人ならば、あれを書いたと見なされるだけで穴があれば入りたくなる類の本だということだが、総理は少しも恥ずかしげにしていないのだから。それとも、総理は聡明ではないのかしらん?(12/16/2006)

 与党の決定した税制大綱を表にまとめたものが朝刊に載っている。

企業 減価償却制度の見直し 6000億円
同族会社の留保金課税の一部撤廃 300億円
「エンジェル税制」の延長・拡充 ?億円
事業用資産の買い替え特例延長 180億円
企業の社内託児所設置への特別償却 ?億円
移転価格税制の運用改善
証券 証券税制の優遇措置延長 3000億円
家計 住宅ローン減税の目減り救済 ?億円
住宅取得にかかる3特例の延長 80億円
所得税の寄付金控除を拡大 7億円

 なにを書き足すこともない。臆面もないとはこのこと。ここまで庶民はバカにされたのだ。

 小泉の「民営化」というおまじないに誑かされて自民党に投票した人々のうち、いったい何パーセントが年収一千万に達していることか、いったい何パーセントがこの減税の御利益を享受することか。(12/15/2006)

 タウンミーティングにおける「やらせ工作」の実態に関する報告書が昨日発表された。この手の政府主催の行事を額面通り受け取っている人がいるとしたらよほどの世間知らず。タウンミーティングなどというネーミングからして、いかがわしい催しであることは天下周知の事実。しかし、それにしても・・・だ、内実がここまで腐っているとは思わなかった。

 朝刊には報告書の要旨が載っているが、この報告書自体が細部に入るとなにを調査したのか、どうしてそれ以上のごく当然の疑問についてより深い調査をしなかったのか、姿勢を問われる体のものらしい。それでも、なお・・・だ、よくもまあこれほど「民主主義」をバカにしたものだと寒心させられる。ざっと報ぜられたことのいくつかを書き留めておく。

 調査対象は01年6月以降開催の174回のタウンミーティング。やらせ質問があったのは15回、テーマ対象は教育改革に関するものが5回、司法制度改革に関するものが6回、その他テーマが4回。原稿をもらってその内容で質問することを依頼された人は62人いて、ロボットになった人は53人。内容の指示を受けることはなかったとされるが発言の依頼を受けた人は154人で、発言をした人が83人。とにかく出席してくれと「動員」をかけたのは71回にも及び、謝礼5千円を受け取った人は65人。

 タウンミーティングの開催を請け負ったのは電通と朝日広告社(恥ずかしさに耐えかねたか、朝日新聞は自らの関連会社であると書かざるを得なかった)。初年度01年は随意契約で電通が請負い、一回あたりの費用はダントツの2,200万で、なおかつ、契約書は開催後に出来高を追認する形で捏造された疑いがある由。翌年度以降は入札になり02年度後期と03年度は電通、02年度前期と04年から06年は朝日広告社が落札したが、それらのすべてで予定外経費名目の不明朗な精算処理があった。

 言語道断の話がいくつか、報告書外の話として報ぜられている。

 政府主催のタウンミーティング(TM)の調査報告で、昨年11月に京都市で開かれた「文化力親子TMイン京都」(内閣府主催、京都市教委共催)で特定の応募者を抽選段階で意図的に落選させていたことがわかった。・・・(中略)・・・親子TMには、当時の小坂憲次文科相や河合隼雄文化庁長官らが出席し、小中高校生と保護者ら144人が参加。内閣府と市教委によると、内閣府から計238人の応募者リストを受け取った同市教委の担当者が、過去に市主催の催しで大声をあげるなどした人とその関係者の親子2組の名前があったため、内閣府に連絡。内閣府はこの2組を落選とした。受け付け番号の末尾の数字で抽選する方法だったため、同じ末尾番号の約50人も結果的に落選した。
 同市教委の市田佳之総務課長は「事業の円滑な運営、安全の確保などを整えるため、過去の客観的な事実を知らせた」としている。落選させられた京都市の女性(52)は教育基本法改正などに反対する市民団体のメンバーで、高校生の次女と参加を申し込んだ。女性は朝日新聞の取材に「怒りで言葉がない。人としてやってはいけないことで、彼らに教育を論じる資格はない」と憤る。

 なるほど「いじめ」とはこのようにして行うものか、現今の「いじめ」ブームは我が政府が率先垂範したものかと、その陰険さと陰湿さにうそ寒くなる。

 既に報ぜられたものの中には静岡では手配ができないという理由を作って、わざわざ東京からハイヤーをチャーターし、その代金が57万円という話もあった(不思議なことにこのニュースはほとんどのニュースサイトから削除されている)。これは単なる水増し請求ではない。おそらく新幹線からハイヤーに乗り換えるのを面倒に思った閣僚が横着を決め込んで東京から乗ったのだろう。その程度のセンスの人物が教育の基本を語るにたる識見を持っていることは絶対にあり得ない。

 今夕、その程度の識見の連中がいじりまわした教育基本法改正案が、参院特別委員会で可決された。(12/14/2006)

 ふたつの注目裁判に判決。ひとつはWinnyとひとつは三菱自動車。現在のこの国がいかに愚かで情緒的な社会であるかをふたつの判決は示してくれた。

 まずWinny。京都地裁氷室真裁判長は被告・金子勇・元東大助手に対する著作権法違反幇助を認め罰金150万円の有罪判決を言い渡した。判決理由は「著作権者の利益が侵害されることを認識しながら、ウィニーの提供を続けた」こと。検察求刑の懲役一年に対し、「著作権侵害の状態をことさら生じさせることは企図しておらず、経済的利益も得ていない」として罰金刑にした由。

 なんとまあ情緒的な判決か。包丁を作る職人は殺人幇助の罪を犯しているのか、高いビルディングを作れば自殺幇助の罪を犯しているのか、ネット送金のソフトを製作すれば詐欺幇助の罪を犯すことになるのか。バカバカしい。だいたい「幇助罪」は本丸にあたる罪がすべて明確に立件されてはじめて問うものだろう。今回の場合、検察はいったい何件の著作権侵害を立件したというのだ。立件できたそれぞれの主犯たちと金子との間に、犯罪に対するどのような共同意思があることを立証できたというのだ。

 氷室某なる判事はWinnyが引き起こしたいくつかの著作権侵害や情報漏洩事件の被害状況に足がすくんで真っ当な論理的判断ができなくなったものと見える。

 そして三菱自動車クレーム隠し事件。横浜簡裁小島裕史裁判官は被告・宇佐美隆・元三菱ふそうトラックバス会長、花輪亮男・元三菱自動車常務、越川忠・元三菱自動車執行役員と法人・三菱自動車に対する道路運送車両法違反について無罪判決を言い渡した。判決理由は拍子抜けするものだった。「国交相が道路運送車両法に基づく報告要求をした事実がない」から同法に違反したとは言えないというのだ。じつにみごとなお裁きで恐れ入る。

 一方は被告を有罪にするために可能な限り法網を延ばし、他方は被告を無罪にするために適用要件を型式論まで絞り込んでいる。どうやらこの国では裁判官はまず被告の顔を見て、次に世の中の雰囲気を読んで結論を出した上で、その結論にあわせて法網を自在に伸縮してみせるもののようだ。

 こういう裁判所のことをkangaroo courtという。最初から決まっている着地点に向けて、ピョンピョンと論理を飛び跳ねさせる様がカンガルーに似ているというわけだ。(12/13/2006)

 休暇。**(母)さんの件で**先生、ソーシャルワーカーの**さんとそれぞれに面談。緩和ケア科の方からは「終末期ではない」とのことで拒絶されたとのこと。ガンの進行が停滞し、当分の間安定するという見立てのようだ。療養型病院への転院か老健施設を探さなくてはならない。

 午後、所沢のみずほ銀行へ。住宅ローンの残債を全額一括返済した。84年の4月から数えて22年8ヵ月。約4千万の元金返済に1千8百万の利子負担。この国で生活の水準を表しているものはエンゲル係数ではない。総支出に占める住居費の割合がどの程度か、それが的確に生活水準を反映している。

 それにしても我が家はそれなりにラッキーだった。まずバブルに向かってゆく前に購入したこと、そしてなによりいちばん出費がかさむときのほとんどが低金利であったこと。

 ローンがスタートした頃の金利は年7.98%だった。バブルに向けて少しずつ金利は下がり88年には5.7%まで下がるが、その後、金融引き締めがあって91年には8.898%になった。家の建て替えを行った92年頃から半年ごとに金利は低下し、96年には3%、97年7月には2.1%、99年7月からは2.375%で落ち着いた。これが6%前後で推移していたならば、利子負担は元金と同額程度になっていたはず。

 経済的な変動、給与水準の変動、物価の点、すべてを考え合わせるならば簡単には言い難いが、少なくとも住宅ローンだけに限って言えば、悪いことばかりではなかった。(12/12/2006)

 ピノチェトが死んだ。アジェンデ社会主義政権を憎んだアメリカの後押しを受けて、軍事クーデターにより政権を奪ったピノチェトはその反対者たちを徹底的に弾圧した。アメリカが恐怖したのは第二のカストロと信じたアジェンデが「こともあろうに」民主的な選挙によって政権の座についたことだった。だからアメリカは仮に選挙があってもアジェンデ一派が息を吹き返すことがないような絶対的処置をとることをピノチェトに望んだ。

 ピノチェトの弾圧は凄まじいものだった。アメリカがことあるごとに強調したがる「人権」はこのときは簡単に無視され、軍事政権が「民主的」と見なした人々は司法手続きを経ずに拘束し虐殺された。多くはその事実さえ隠匿された。つまり彼らはまさに抹殺されたのだった。ピノチェト政権がこれほどに凶暴だったのは彼もまたアメリカの抱いた恐怖と同じ恐怖を感じていたからかもしれない。民主主義を形式的なものにしなければ自分が危ない。それは杞憂に過ぎなかったわけだが。

 ピノチェトは天寿を全うし柔らかなベッドの上で死んだ。できるならムッソリーニのように屠殺されることこそピノチェトにはふさわしかったと思う。しかし、どれほど過酷な政治的弾圧が行われても、後を受ける政権が民主的手続きによるものである限り、政治的弾圧の主は彼が命令したのと同等の過酷な処置を受けることはない。理性的な社会と理性的な人々は反理性的な人非人たちに対しても彼らが人間の皮をかぶっている限り寛容で応じなくてはならないのだ。

 そういえば先日死んだミルトン・フリードマンはピノチェト政権の経済顧問だった由。あの世でも二人は力を合わせて貧乏人の生きにくい世を作ろうと尽力するのだろうか。よもや天国に行っていることはあり得まい。とすると煉獄あたりは当分生きにくい世になることだろう。できれば二人揃って最初から地獄に行っていてくれれば安心というものだが。(12/11/2006)

 金曜の夜、帰宅してすぐに寝た。きのうは終日寝ていた。ほんとうによく寝た。昨夜、寅さんを観た時間を除いて、けさ、2時まで。きょうの昼まで口にしたのはリンゴジュースとプリンのみ。腹はグーグー鳴るのだが、胸焼けのような感覚があって食欲がわかない。

 熱にうなされていると面白いことをいろいろ考えるものだ。ほとんどは目が覚めるとともに忘れてしまったが、ひとつだけ憶えている。パジャマの下にシャツとステテコを着ていた。ひとしきり汗をかいた後、脱ぎたくなった。シャツはパジャマを着たままでも脱げそうだ。ステテコはズボンを脱がないと無理だろう。なぜだろう。パジャマとの位置関係でシャツとステテコとは何がどう違うのだろう。熱に浮かされた頭でそういうことを考えようとしている。トポロジーの問題なんだろう。

 ・・・たしか**(先輩)さんの専門はトポロジーだったなぁ・・・。・・・四色定理、トーラス上ならば七色と証明されていたのに、もっとシンプルなはずの平面の場合だけがなかなか証明されなかったなんて・・・。

 そのうちに・・・、分かった。シャツとステテコの違いが分かった。脱ぎ去る方向がひとつか、ふたつに割れているかの違いだ。

 Eureka !! の気分だった。しかし醒めてみると、どうもトポロジーの問題ではなかったようでいくぶんがっかりした。(12/10/2006)

 昨夜はいつもの4人に**・**を加えたメンバーでいちばん早い忘年会。旭丘のメンバーでは使ったことがない新宿の例の店。6時スタートで10時半過ぎまで。帰宅は久しぶりの午前様。

 夕刊には馘首になったラムズフェルドの後任ロバーツ・ゲーツの国防長官就任を上院が承認したことと、議会が設置したイラク研究グループがアメリカのイラク政策の見直しをまとめた報告書を議会と大統領に提出したことが報ぜられている。

 承認に向けた議会スピーチでゲーツは「当初イラクを侵攻した時点では、明らかに不十分な数の兵力しかなかった」、また前国防次官(ファイスという名前である由)がイラク戦争前に独自の情報分析グループを作って「開戦」のための情報操作をしたことをさして「非正規の情報機関や分析グループには、私は問題を感じる」、なにより現状を「勝利に向かっているとは言えない」などと述べ、民主・共和双方の議員から「あなたの率直さに感銘を受けた。現職の人物にはそれが欠けていた」と評価されているとか。

 一方、イラク・レポート。記者会見でべーカー元国務長官は「イラクの問題を解く魔法の公式はない」と言い、「現政策の維持は不可能だ」とも明言した。ソフトウェア技術者がよく使う言葉に置き換えるならば「銀の弾丸はない」のだ。報告書には79項目もの鉛の弾丸が用意されているらしい。夕刊にはその骨子が4つにまとめられている。「@イラク情勢は深刻で悪化。宗派対立が最大の課題、A米国はイラクに影響力のあるイランとシリアに建設的関与を、B米軍の主要任務をイラク軍の支援に変更し、戦闘の主体はイラク軍に委譲を、C08年の第一四半期までに大半の米軍戦闘部隊の撤退が可能」。

 もし、この朝日のサマリーが妥当なものでこの4項目に尽くされているとすれば、もともとなぜ「現在の状況があるのか」については口を拭って知らぬ顔の半兵衛を決め込み、イラクからの遁走策をイラク創成以前に戻すことに求めていると読める。もともとはイギリスが手前勝手な理由ででっち上げたイラクという国をアメリカが解体するとしたら、まさにアングロサクソンのご都合主義がひとつの国を創って壊し、その過程でもはや数えることも能わぬほどの膨大な死者を創り出したことになる。岡崎久彦が入れ込んでいるアングロサクソンがやれることはこんな程度の迷妄だ。(12/7/2006)

 7月はじめ以来、5ヵ月ぶりに以前の勤務態勢に戻した。先週までは、あさ、武蔵野線は東所沢始発、中央線は武蔵小金井始発のもの、夕方はまだラッシュ時間帯前ということで、だいたいほとんど坐って通勤していた。

 きのうからは元のように混雑するラッシュを味わうことになった。きょう、武蔵野線のドア口にこんなステッカーを見かけた。「すきまに指を入れないで下さい」。かつて「指づめ注意」の警句で一部の乗客をドキッとさせた「ご注意書き」のニューバージョンらしい。軽い違和感は感じたが、きょうび、この程度の日本語に文句をつけていたら生きてはいけない。

 その下に英語が添えてあった。"Please keep fingers away from closing doors." 英語はまるでダメ。しかしこの程度なら分かる。いや、日本語よりもよっぽどこちらの表現の方がよく分かる。以前、講演で聴いたことを思い出した。松下グループでは社内のマニュアルはまず英語で作成し、その後に日本語を含む各国語バージョンに展開するのだと言っていたっけ。

 中国の街頭では「小心玻璃」という注意書きを見かけた。「ガラス注意」。子供の頃はこの手の標語があちこちにあった。透明ガラスに気付かない粗忽者がいたからだろう。北京や上海でそれを見たとき、なるほど中国は日本の二十年前だと納得したりした。少なくとも最近の北京・上海にはもうあの注意書きはなくなったに違いない。

 ところで中国では「指づめ注意」をどのように表記しているのだろう。「小心小指」では・・・ないだろうな。(12/5/2006)

 あさのラジオで永谷脩がこんな話をしていた。松坂と井川のポスティング・システムによる落札額がそれぞれ60億、30億と伝えられた後、あるパーティで大リーグ関係者と話をした。そのメジャー関係者は永谷にこんなことを言ったという。「西武も阪神も落札額のうちから幾分かを野球振興などの目的に拠出すると思っていた、まさかあれだけの金額を一球団だけの収入にするとは考えてもいなかった」と。

 素質を持った選手が野球というスポーツを選び、才能を伸ばす環境とシステムはひとつの球団の力で可能になる話ではない。松坂と井川を売り出したのがライオンズでありタイガースであることは事実だが、それぞれの球団だけが「あがり」を独り占めしてよいのかということもまた事実だ。とすれば、彼らのような選手を輩出する「システム」になにがしかの分配を考えてもよいのではないか。

 メジャーリーグには球団のみならず選手にも「社会貢献」の意識があり、この国にはそれがない。何から何までアメリカ流が行き渡りつつある感のあるこの社会に、「競争社会」と「市場原理」を緩和するほんのわずかな「補償機能」さえもののみごとに忘れ去られているとしたら、現出する社会は彼の国以上に殺伐たるものとなるだろう。(12/4/2006)

 夜のニュースで、「大阪高裁の判事、竹中省吾さんが自宅で首を吊って死んでいるのを妻が見つけ、110番通報」というところまで聞いたときはどうということもなかった。続いて「竹中さんは先月30日住基ネットを拒否している住民への運用は違憲という判決を出したばかり」と聞いて、どういうことなのか、状況に不審な点はないのかと思った。

 64歳というから老人性の鬱病のような気もしないではないが、注目判決の翌日も平常通りに出勤し、あした月曜には担当する裁判があったという。

 さして事件性もなさそうなこんなことに、何か少し居心地の悪い、釈然としないものを感ずるのは、きっと時代がどんどん悪くなって行く中で、論理的にはごく当然の「違憲」判決すら、その意味合いが少しずつ貴重なものに変わりつつあるからだ。(12/3/2006)

 きのう、中国残留孤児に対する賠償を国に命じた神戸地裁判決のニュースで厚労省の役人が「拉致被害者支援と比べられても」と困惑しているという話を聞いたときは「そうだろうな」と思った。中国残留孤児と北朝鮮拉致被害者とは同列に比較できるわけもないのだから、と。

 けさの天声人語はこう書き出している。

 日本の敗戦の混乱の中で、中国に残された子供たちを「中国残留日本人孤児」と呼ぶことが多い。作家の井出孫六さんは、言葉の厳密さを著しく欠くと書いている。「自らの意思で『残り留まった』ひとなどいるわけはなく、さまざまな事情で『置き去』られた人びとであった」(『終わりなき旅』岩波書店)。
 置き去られた事情は個々に違っても、置き去られた状況は日本の敗戦によるものだった以上、置き去った主体は国家といってよいと続く。「『残留』ということばからは、主体の姿も消し去られているといえぬだろうか」

 拉致被害者にとっての加害者は北朝鮮という外国だった。これに対し、残留孤児を作ったのは他ならぬ日本だったわけだ。もちろんコイズミ流に言えば「自己責任で中国に渡ったのだから帰国できたかどうかもすべて自己責任だ」ということになるのだろうが、その論法で行けば「拉致されるような条件を満たす行動をとっていたのも自己責任だ」ということになる。これがコイズミ流詭弁術。

 閑話休題。いずれもお気の毒な立場であるのだから、拉致被害者への支援策の内容をとやかくいうべきではない。しかし片方に「永住帰国後、5年を限度として生活保護より高水準の給付金を与え、きめ細かな就労支援」を行っているとしたら、国の「被害者」への「間接的」加害責任がより大きいケースについてはもう少し暖かみのある施策がとられるべきであったことは間違いのないところだろう。(12/2/2006)

 いま、この国のポピュリズムがどのあたりまで来ているかをかなり的確に表していると思うので、朝刊に載った「諸君!」1月号の広告見出しを書き写しておく。

特集:真珠湾奇襲から硫黄島死闘へ―日米開戦65周年恩讐の彼方に―
  吉田茂と白洲次郎の「抗米」精神に学べ  阿川弘之・北康利・孫崎享
  クリント・イーストウッドを魅了した日本軍兵士の「手紙」  村井真郎
特集:盧武鉉・金正日の「頭痛のタネ」
  「太陽政策」は北朝鮮"隷従への道"  洪榮
  唯一の輸出品「偽ドル札」も見破られて・・・  高世仁
リサイクルにもほどがある!「臓器狩り」改正法案の"罪と罰"  中島みち
持たず・作らず・持ち込ませず+議論せず「非核四原則」を振りかざすな  佐々淳行
2008年までに「占領憲法」を破棄し「核武装」を  兵頭二十八
特集:お役所は「地上の楽園」か
  教育再生の抵抗勢力−文科省&日教組を解体せよ  宇佐美忠信・坂本恵子・三宅久之・八木秀次
  公務員はダイエットがお嫌い  伊藤惇夫vs中野雅至
  関西自治体「同和行政」の歪みを衝く  寺園敦史
  税金の無駄遣い 甦る経産省「産業政策」の亡霊  池田信夫

 このほかに「総力特集:『歴史の嘘』を見破る!」には「もしアメリカにああ言われたら、こう言い返せ」として「全20講座」が設けられているようだ。中には「アメリカの牛肉は安全、もっと食べろ」などというものもあるが、「真珠湾は卑怯な騙し討ちだった」という「定番」が鎮座ましましている。

 タイトルの付け方が秀逸というか紋切型で中味は読まずとも知れる。だから、別に手に取ることもあるまいが、今月号は岸信介の否定が通奏低音になっている感じがする。しかしいかになんでも「吉田茂の精神に学」んだならば、「非核四原則を振りかざ」さないことが常識になるくらいのことはバカでも分かるだろうに、アホやなぁ、呵々。(12/1/2006)

 ニッポン放送株をめぐるインサイダー取引容疑で起訴された村上世彰の初公判。村上が「無罪と確信している」と罪状を否認したということで各局の夜のニュースは持ちきり。

 彼が「あっさりとインサイダー取引容疑を認めてしまった」日、「裁判ではどんな主張をするのか、興味津々」と書いたが、さすがに役者だ。じつに面白い展開を用意してくれた。

 誰もが思うのは「聞いちゃったでしょといわれれば、聞いちゃったんですよね」、「ホラ、あそこに進入禁止の標識があったでしょと言われて振り返るとあった、そういわれて一方通行の道に入ってしまっていたなと分かったようなもの」、「プロ中のプロであるボクの過失」という、あの一連の「自白」はなんだったのかということ。

 これに対して、彼は、こう抗弁したという、「検察官に『堀江さんは否認したので多くの幹部社員が逮捕された』と言われ」、「幹部全員の逮捕となれば、ファンドの管理が大混乱になると思い」、「事実に反して有罪だと認めてわたしだけの逮捕で済ませた」、と。

 すばらしい。自分の行動に関する弁護としてはよくできているし、なにより検察官にはかなり痛い話にもなっている。これが驚異的な有罪率で鳴る日本の裁判所でなかったなら、もう、即無罪なのではないかと思わせる。

 大鹿靖明が「AERA」に書いていた記事を思い出す。検察が不正取引に関する包括規定(郷原信郎が主張していたもの)ではなくインサイダー取引に固執した以上、村上は善戦するのではないか。だが、「逆転無罪」はやはり難しいだろう。それがこの国の裁判制度の現状なのではないか。(11/30/2006)

 泥沼の様相を呈しているイラクの状況について、アメリカ三大ネットワークのひとつであるNBCが、専門家などの協力を得た独自の分析を元に「内戦」という呼称を用いることを決めたというニュース。日経は「ニューヨーク・タイムズ紙は社内文書で『イラクでの戦争が一般的な内戦の定義に該当しないと論じるのは難しい』と指摘。他の表現も除外せず、注意深く『内戦』と表現することもあるとの見解を示し」ていること、「CNN、ABC、CBSは『内戦』との表現が適当か協議している」ことなどを伝えている。

 ホワイトハウスはまだ「内戦」とは呼びたくないらしいし、朝刊にはブッシュ大統領が訪問中のエストニアで「いま起きていることは、一貫しているパターンで、一部の勢力が宗派間抗争を巻き起こそうと企てている。現地の情勢が危険で暴力的なことは疑いなく、イラク政府はこの暴力に対処しなければならない」と語ったという記事も載っていた。

 しかし既に曲がり角はまわったようだ。ブッシュの言葉にバカのひとつ覚えである「テロとの戦い」、「テロリスト」という言葉がなく、「イラク政府の責任」が語られていることがすべてを語っている。アメリカの主要マスコミは近々打ち出されるはずのべーカーとハミルトンによるイラク政策に関する提言の地ならしを始めたのだ。それがアメリカ政府サイドのマスコミ・コントロールによるものかどうかは分からない。だが「イラク内戦」呼称の使用は明らかにアメリカがイラクから遁走するサインだ。(11/29/2006)

 朝刊に、きのう、平沼を除く11人の自民党復党希望議員が提出した「誓約書」の全文が載っている。こんなものだ。

 このたび復党を願い出るにあたり、党則第92条および党規律規約第9条1項の規定により平成17年10月28日付で「離党勧告」処分の対象となった行為については遺憾であり、重大な責任を認識しております。今後は、広く国民の理解が得られるよう真摯な取り組みをして参ります。
 次のことを、自由民主党および有権者に対し誓約いたします。
 一 党則を遵守し、党員としての義務を忠実に履行するとともに、国民の奉仕者として党活動に尽力すること。
 一 安倍晋三総理の所信表明を全面支持するとともに、国民に約束し国会で成立した郵政民営化を含む第44回衆議院総選挙の政権公約2005の実現に遇進し、国民の真の期待に応えるべく努力すること。
 一 前項の誓約に違反した場合は政治家としての良心に基づき議員を辞職いたします。
 本誓約書が公表されても異議ありません。

 去年、10月、再度提出された郵政改革法案に対し、その二カ月前に反対票を投じた自民党員でそのまま反対票を投じたのは平沼赳夫ただ一人だった。その日の日記にはこんなことが書いてある。

 郵政法案、衆議院で可決。賛成338、反対138。前回反対した17人のうち11人が今度は賛成に回った。嗤えるのは前回の法案と今回の法案の違いはただひとつ実施時期を遅らせた点のみということ。続けて反対票を投じたのは自民党ではただ一人、平沼赳夫のみ。平沼の反対理由は「前回法案となんら変わっていないから」というものだった。・・・(中略)・・・注目議員では、野田聖子、保利耕輔、堀内光雄などが、前回の反対から今回賛成に転じた。そのほとんどが変心理由を「民意の尊重」と言っている。・・・

 その日は「変心理由」と書いた。しかし朝刊に載っている「誓約書」を読むと、どうやら彼らは「変心」したのではなく「回心」したものらしい。したのか、させられたのか、それは他人からは分からない。

 いずれにしても彼らは「身も心も党に捧げます。党首が決めたことに反抗的であったり、消極的なときは党員を辞めます」と誓ったわけだ。自民党も共産党並みか、それ以上の「鉄の規律」を強制する政党になっているということ。

 党内に鉄の規律を徹底させる政党はやがて社会もそのようでなくてはならないと主張するものだ。かつてのナチスやソ連共産党のように。「身も心も国に捧げます。国が決めたことに反抗的であったり、消極的なときは国民として生きることを止めます」などと強制するのは必ずしも馬鹿げたことではなくなるのかもしれない。(11/28/2006)

 復党問題。きょう、郵政民営化反対で自民党から爪弾きされた連中が復党願いを提出した由。すべてあの郵政解散選挙で自民党公認候補を相手に再選を果たした現職衆議院議員。落選した議員は問題外。つまり自民党公認がなくても勝つくらいの「選挙に強い」議員。これを来年の参院選で利用できなくては困るというのが巷間伝えられる安倍自民党の「手締め」の「動機」らしい。

 このような「矜恃」も「品格」もないやり方が「美しい国」を標榜する政党の常道だということは、このようなふるまいこそが「美しい国」の道徳原理なのだろう。いままでの日本人が使ってきた「美しい」という形容詞の意味はここに来てずいぶんとイメージの違うものになったようだ。

 夕刊に復党願いを出した議員・選挙区・郵政選挙の際に競合し、比例で復活当選した議員がまとめられているので書き写しておく。いずれなにかの記録になるかもしれない。

議員名 選挙区 競合した自民党議員
堀内光雄 山梨2 長崎幸太郎
保坂 健 山梨3 小野次郎
野田聖子 岐阜1 佐藤ゆかり
古屋圭司 岐阜5 (落選)
平沼赳夫 岡山3 阿部俊子
山口俊一 徳島2 七条明
武田良太 福岡11 山本幸三
今村雅弘 佐賀2 (落選)
保利耕輔 佐賀3 広津素子
江藤 拓 宮崎2 (落選)
古川禎久 宮崎3 (落選)
森山 裕 鹿児島5 (落選)

 なお平沼赳夫だけは中川幹事長が条件とした「誓約書」を提出せず復党願いのみに留めたという。(11/27/2006)

 去年の郵政民営化騒ぎの際、造反・離党した議員の自民党復党の話が話題になっている。はやりの表現を使うなら、自民党も、復党を考えている議員も、「突っこみ所満載」で、このバカどもの恥知らずぶりにはあきれかえるばかりだ。

 まず中川秀直幹事長。彼が突きつけた条件は政党としての理は通っている。しかし郵政の民営化をとってみれば党の側にはほとんど理はない。とすれば、政党助成金の分け前欲しさに「転ぶ」ような人物、理を捨ててもカネのためには媚びて復党する人材など、普通の組織ならいらない人材だ。ここに中川の矛盾がある。

 つぎに中川昭一政調会長。論評以前なのだが、将来、どの程度の男だったかを思い出すために。曰く、「総括しろとか、反省しろとか言うと、天安門事件を思い出す」、曰く、「政治には情というものもあるんだと思う」。天安門事件と「総括」「反省」という語はどうつながるのだろう。50を過ぎた者ならば、「総括」という言葉ですぐに思い出すものは「連合赤軍」であり「リンチ殺人」であろう。おそらく中川としては「総括」を求めている自民党から「総括しなければ殺す」とした連合赤軍への連想を避けたかったのだろう。しかし小泉自民党のとった手法はまさに「奴は敵だ。敵を殺せ」に集約されていたのだから、いまさら連合赤軍の親戚ではないと言っても通る話ではない。

 どうしても嫌いな共産中国と結びつけたいのなら、中川は天安門事件ではなく文化大革命を上げた方がよかっただろう。文革では「総括」という言葉は出なかったが、「自己批判」という「反省」を強いる言葉は使われていたのだから。どうも中川の歴史知識はかなり貧弱なようだ。もう少し勉強した方がいい、いくらバカでも務まる自民党の政調会長だとしても、だ。(11/25/2006)

 朝刊のラ・テ欄のコラム「サブ・ch」。

 NHKの短波ラジオ国際放送の「命令放送」をめぐる議論で思ったことがある。NHKの国際放送史を記した「20世紀放送史」(NHK編)だ。第2部の60年安保当時の場面。
 「ある日、10人ばかりの自民党議員がNHKにやってきて野村(秀雄)会長に面会、『NHKの番組は左偏向している』と糾弾した。黙って聞いていた野村は突如声を大きくして『君らがなっていない』と一喝、『君らは、もっと政治を勉強したまえ。NHKのことはおれに任せたがいい』と言って席をけった。」(上巻451〜2ページ)

 ちょっと都合が悪くなると「左傾偏向報道」と騒ぎたてるのは自民党の宿痾らしい。自民党議員が「右傾偏向報道」と騒ぎ立てたことがないところを見ると、自分の軸が右側にあるから中央にあるものまで左側に見えるだけのことで、野村が左翼だったわけではない。

 先週、政府が77年に米子市内で失踪した松本京子を拉致被害者に認定してから今週のはじめまで、NHKはよる7時のニュースで繰り返しこの件を報じた。普通、ニュースというのは新事実を報ずるものだが、松本京子事件についてのニュースはほとんど同じ映像・同じ内容で、二日目以降はなにが新しく報じられる内容なのか、とんと分からないというじつに不思議な「ニュース」だった。

 あれは短波ラジオ放送に対して出された命令にNHKが過剰反応を起こしているからなのかもしれない。どうやらいまのNHKには野村のような硬骨漢はいないようだ。

 それにしても拉致問題でのし上がった安倍首相、拉致問題に足を向けて寝られない気持ちは分かるが、チマチマと小出しに拉致被害者の認定を繰り返してニュース作りをし、NHKに繰り返し放送を強いるばかりでは能がなさ過ぎる。いくらバカな安倍フリークでも、いずれは「また、おんなじニュースをやってるぜ」となるのが落ち。かえって拉致問題の風化を促進することになることを知るべきだ。

 いちばん効果的で絶大な支持を獲得できる方法を教えよう。それは拉致被害者を安全に帰還させることだ。拉致という「問題」とじゃれているばかりではダメだ。もっとも解決できる最大のチャンスをつぶしてこの混迷を招いたのは他ならぬ安倍晋三だったのだから「ラチが明かない」のは当然か、呵々。(11/24/2006)

 **(息子)が興奮押さえがたい体で、夕方、来た。*さんとライオンズのファン感謝デーに行き、紅白試合の最後に登板した松坂のウィニングボールをゲットしてきたとか。――松坂のストレートを和田がセカンドゴロ、セカンドがさばきファーストに送球して試合終了。ファーストが松坂にそっと渡した球、松坂は一塁側スタンドに投げ込み、それをダイレクトキャッチした由。

 「絶対誰にも渡したくないからさ、すぐに隠して持ってきた」という。**(父)さんの写真に供えるように置いて**(息子)は帰った。ボールには「松坂投手最後の一球」、「2006.11.23. 西武球場」、「**・*」と書いてある。そうなのだ、**(息子)にとってはインボイスSEIBUドームではなく、西武球場なのだ。所沢・西武ライオンズは**(息子)と同い年。幾度、みんなで西武球場に足を運んだことか。

 ドームになる前の西武球場は美しい球場だった。内外野のフェンスのどこにも広告看板はなかった。それは丘陵の斜面を軽く一掻きして、そのくぼみを野球場にしてみましたというような、じつにほれぼれするような設計だった。いちばん深くほったのがホーム側、バックスクリーンはもともとの斜面のいちばん低いところにあるから、外野に向けて観客席がどんどん低くなりグラウンドに開放感を生み出していた。どこに坐ってもシーズンはじめの新緑からシーズン終盤の紅葉まで季節感あふれる風景が外野の向こうに見えていた。けっしてゲームだけの球場ではなかった。銀色の帽子を被せてドームにしてからの西武球場は凡百の球場と変わらぬ普通の球場になり果てた。

 **(父)さんは逝き、**(母)さんが観戦することも適わない。いまも球場に足を運ぶのは**(息子)くらい。だが、もし孫が生まれて、あまり遠くはないところに住んでくれたなら、・・・また、メガホンと小旗と弁当を持って、一族で見に行く日が来るのかもしれない。

 でも、できることなら、狭山丘陵を遠景に、晴れている日は青空の下で、曇っている日はその雲の下で。野球はそうしてみるものだ、もともと屋外スポーツなのだから。(11/23/2006)

 きのう日記を書き終わってから夕刊に久間防衛庁長官が福田談話見直しの必要はないとしたという記事を見つけた。理由は単純明快。「よその国に向かって発射されているミサイルを日本のMDで撃ち落とすのは実際問題としてできない。後ろから追撃するのは物理的に無理だ。法律論以前の話だ」。結論はだれが考えても同じ。あり得ないこと、不可能なことをいろいろ議論するのは「法律論以前の問題」なのだ。

 久間も人が悪い、閣僚なのだから、宰相と官房長官がそれぞれに自らのバカさ加減を満天下に晒す前に教えてやればよかったのに、と思ったが、我が宰相はワシントン・ポスト紙のインタビューを受けて、ろくろく考えもせずに(考えたところで知識水準・知能程度とも低いのだから是非もないことだが)、「属国日本はアメリカのお役に立ちます」と尻尾をふって見せたのだから、どうしようもなかったに違いない。

 「ああ、バカは死ななきゃ直らない」と溜息をついたのは久間も同じだったのかもしれぬ。(11/22/2006)

 ABCはブッシュ政権が罹った病気だったが、安倍政権はABF(Anything But Fukuda)に罹ったのかもしれない。いずれも知恵遅れの子供に見られる小児病の一種だ。

 朝刊に「福田談話見直し示唆」という見出しの記事があった。「塩崎官房長官は20日の記者会見で、日本のミサイル防衛システム(MD)を他国の防衛には使わず、集団的自衛権の問題は生じないとした03年の福田官房長官談話について・・・(中略)・・・見直す可能性を示唆した」。さらに記事によると「安倍首相は14日の米紙のインタビューで、米国向けの可能性があるミサイルについて『MDで撃ち落とすことが、集団的自衛権にあたってできないのかどうかも研究しなければならない』と発言した」とある。(後段の部分はニュース検索をしてみるとたしかに報ぜられていた。教育基本法改正案の特別委員会可決に目を奪われて見落としていたようだ)

 なるほど形式論的には集団的自衛権に関する論議の中に同盟国に向けて発射されたミサイルの迎撃の可否は含まれるべきかもしれない。しかし少なくともアメリカ本土向けのミサイルを我が国が迎撃することの法的可否を検討するのはまったくムダな話だろう。丑の刻参りをしても未遂を含めて殺人罪には問われることはない。不能犯は刑法上の処罰の対象にはならない。

 気の利いた中学生なら地球上の二点間を最短距離で結ぶルートをメルカトル図法で書かれた地図に描けば直線にならないことくらいは知っている。他国を攻撃するミサイルは可能な限り最短時間・最短距離をとる。それは大圏コースと呼ばれ、北半球の場合、北側に湾曲した曲線となる。北朝鮮がアメリカの主要部を攻撃するために発射したミサイルは日本上空を通過しない。

 安倍がこの程度の知識と思考能力すらも持ち合わせぬノータリンであることは、少しでも知的訓練を受けた者にはもはや常識となっていようが、塩崎までが安倍並みのノータリンだとなると政権全体が知恵遅れの小児政権(だからABF症候群を示すのか、呵々)だということになってしまう。怖いことだ。

 昭和天皇が敗戦の年に疎開していた皇太子(今上)に宛てて書いた手紙の一節に、敗戦の原因のひとつを「我軍人が精神に重きをおきすぎて科学を忘れたこと」としているくだりがあった。安倍も塩崎もいかにも頼りない補佐官たちも「科学を忘れ」ている点では大日本帝国軍人なみ、まことに怖いことだ。(11/21/2006)

 APEC、閉幕。土曜からけさの朝刊までをざっと眺めると、安倍外交なるものがどの程度のものかということがよく分かる。ひとくちでいえば竜頭蛇尾。毅然とした姿勢で強硬な主張をするところから始めて、あの突っ張りはなんだったのかというところに着地する。しかし内向けには「これほどの成果を得られたのは強硬に主張したればこそのことだった」と自画自賛するというパターン。

 北朝鮮のミサイル発射と核実験に対する非難を首脳宣言に盛り込むはずが、「特別声明」に書くのだということになり、とにかく文書化されるものと皆が思いこんだ後に、結局、議長声明(新聞には「口頭」とある)になってしまった。さあ、メダルだ、メダル。どうせのことなら、色は金がいいなどとふれこむから、どんなに強いのかと思っていると、メダルに手が届かないどころか入賞もおぼつかない。そんな期待外れがうち続く最近のスポーツ・イベントにどこか似ている。

 それでもスポーツ選手は謙虚に反省してみせるが、我が政府関係者は四の五の言って、それを他国のせいにする。だいたいは中国と韓国が悪いのだそうだ。こと北朝鮮問題についてなら、それは当たらずとも遠からずかもしれぬが、頼りのアメリカのみならず東南アジア諸国までもがいつも最後の段階になると中国側につくのはなぜか。最初からそれが「想定内」のことならば、なぜその対策をするなり、強硬派ピエロの役回りを回避するくらいのことがなぜできないのだ。強硬姿勢をとりさえすれば拍手を送ってくれるのは世界中でパープリン新聞ぐらいのものだ。国内のバカの機嫌をとってばかりいて、国外では騒ぎ屋のオオカミ少年視され、あげくに軽侮の対象になってはなんにもならぬぐらいいい加減に分かってもよさそうなものだ。

 もっとも、その責任のうちかなりの部分は安倍にあるわけではなく、前任の小泉にあることはたしか。90年代の失われた十年は経済面についてだったが、世紀初頭からここまでの期間はいずれアジアにおける日本の地位の失われた時代になるだろう。それが失われた十年になるのか、六年ですむのかは安倍政権のこれからにかかっている。もっとも政権発足からマスコミをコントロールして拉致問題関係のニュースを前立腺肥大患者の小便の如くに垂れ流し、それを政権の浮揚力としているようなていたらくでは望みは薄いが。(11/20/2006)

 女は男とはまったく別の動物なのではないか。おそらく、男も女も、こういう思いを抱く時がある。高校時代いつも手もとに置いていた「一日一言」にはクララ・ツェトキンのこんな言葉が引かれていた。

 もし私たち母親が、戦争に対する深刻な嫌悪を子供たちに吹きこんだならば、社会主義的博愛の意義を幼ない時分から子供たちの心に植えつけたならば、最大の危機に際して何ものも、彼らの心からこの理想を奪い去ることのできぬ時代が必ずやってくるでしょう。・・・もし私たち妻と母親が、殺戮に抗議して立ち上るならば、女はそのエゴイズムと弱さから、偉大な目的、大きな理想のために身を挺することができないとの偏見をうち破ることができるのです。

 十日ほど前のアメリカの中間選挙の結果は、2008年の大統領選挙にヒラリー・クリントンが立候補する可能性があることを示していた。そしてけさのニュースによれば、フランスでも社会党が次期大統領選挙の候補者としてセゴレーヌ・ロワイヤルを選出した由。彼女たちが選挙戦を勝ち抜いてそれぞれに大統領になるかどうかはまったく分からない。しかし女性がいくつかの大国のトップを占める時代が来れば、男と女がかなり違った動物なのか、権力を握れば、やはり、人間としての行動特性にたいした変わりはないのか、おおよその見当がつくかもしれない。子供を産む性であることに特性があり、そこに期待をかけたい気持ちの一方で、最近の子殺しの例など見ると、クララ・ツェトキンの言葉が「社会主義」同様の「夢」ではないのか・・・と、いまのところはそう思っている。

 きょうは、これから、秋の忘年旅行。**さんを除く例年のメンバーに、山形の山寺で**さんが合流する予定。(11/18/2006)

 ミルトン・フリードマンが死んだ。フリードマンというと必ず語られるエピソードがある。ポンド危機の折、コンチネンタル・イリノイ銀行を訪れポンドの空売りを申し入れたところ、銀行側は「いいえ、われわれは紳士だからそういうことはやらない(No, we don't do that, because we are gentlemen.)」とこれを拒否し、フリードマンは「儲かるときに儲けるのが資本主義社会における紳士だ」と怒鳴り散らしたという話だ。

 話の出元はシカゴ大学で同僚であった宇沢弘文だから、そのような話があったことは事実なのだろう。ただ投機に手を出した経済学者はフリードマンだけではない。古いところではリカードがいるし、ケインズも投機で一財産作った逸話をもつ。したがってケインジアンがこのエピソードを引き合いにフリードマンを批判するとしたらおかしな話だ。

 ところで件の銀行マンはフリードマンの依頼をほんとうに「拒否した」のだろうか。顧客が申し出た取引を銀行が拒否する理由は「信用の欠如」以外にはないだろう。投機である以上、思惑が外れたときの保証は必要になる。つまり「紳士」云々が理由というより、投機目的には融資ができない法規制があった(大恐慌の反省から生まれた規制が当時はあった由)からではないのか。「お言葉ですが、フリードマン先生、空売りのための証拠金をご融資することはできません。わたしどもは法規制を尊重する紳士ですから」ということならありそうな話になる。もちろんその言葉の中に「そういうことは紳士である学者先生が借金をしてまでおやりになることですか」というニュアンスが込められていたのではないかと言われれば、それは否定しがたいけれど。

 リカードもケインズも投機行為を誹られることがないのに対し、フリードマンのみが後ろ指をさされるのは日本風にいえば「不徳の致すところ」で、投機の内容が「いかにも」であることに加えて、フリードマンには市場原理主義の権化として「なんでもあり」のスノブの匂いのするエピソードが数多くあるからに他ならない。そういう点では伊東光晴が「日本経済の変容−倫理の喪失を超えて−」で、このエピソードの紹介に続けて、こんな追記をしているのも頷ける気がする。

 (フリードマンが属するシカゴ学派の祖はマーシャルの流れにあたるのだから)アダム・スミス以来の哲学を受けついでいます。スミスは、その著『道徳感情論』では法の基礎に"利他心"をおき、『国富論』では経済行動の基礎に"利己心"をおいていますが、両者を統一するものが、"同感の論理"であったことは、スミスを学んだ者であれば広く知るところです。つまり、利己心にもとづいて経済行動をとるというとき、その行動は、第三者が見て同感をもたらすようなものでなければならないのです。自由主義を説いたイギリス道徳哲学の伝統はこのようなもので、他人の不幸につけこんで自己の利益をはかる――このフリードマンの場合のように、必死にポンドを防衛しようとするイギリスの不幸につけこむような――行動は、同感をえられない行動なのです。

(11/17/2006)

 シーズンオフの無聊を慰めるために読んだロスワイラーの「赤毛のサウスポー」には主人公である赤毛のミス・ウォーカーがワールド・シリーズを戦うためにボストンを訪れるシーンがある。そのボストンの球場はフェンウェイ・パーク。映画「フィールド・オブ・ドリームズ」でケヴィン・コスナーがサリンジャーとおぼしき世捨て人作家と観戦にゆく球場だ。

 フェンウェイスタジアムは「赤毛のサウスポー―Part2―」には略図つきでこんな注釈がついている。

 フェンウェイ球場は変型スタイルの多い大リーグ球場のなかでも群をぬいた奇型で、右翼116メートル、中堅128メートル、という深さにくらべて、左翼の塀まではわずか96メートルの短さだ。おまけに左中間がほぼ一直線をなしているので、右打者にたいへん有利である。で、本塁打の続出を防ぐため、左翼のフェンスを他球場平均の四倍近い11.3メートルの高さにつくった。フェンスは一面にグリーン色で、いわゆる"緑色の怪物"だ(右翼フェンスは1.6メートルと、こちらはまた異常に低い)。さらにそのフェンスの上に高さ18.3メートルの網を張り、網にあたった打球はホームランとされている。その網のところに得点掲示板があり、敵味方の投球練習場は右中間の塀のおくに隣りあって設けられている。このように、まことに変わった球場なので、他球団、ことにめったに訪れることのないナ・リーグ球団は(少々の気象の変化はものともしない大リーガーたちでも)、すっかり戸惑ってしまうのがつねである。

 ポスティングシステムでメジャー入りをめざしている松坂の交渉権をレッドソックスが5,111万ドル(60億円)のビッドをして獲得した。イチローのそれが1,312.5万ドル、今回はおそらく30億円前後という予想だったから、これはもうほとんど「異常」の領域。レッドソックスはヤンキースの獲得を阻むためだけに札を入れたのではないかという説さえある。

 気になることはふたつ。数年分の球団運営費に目が眩んで自らをメジャーリーガー養成所とする不心得な球団が今後続出するのではないかということと、この金額が松坂に無用なプレッシャーにならないかということ。できるなら、怪物・松坂がグリーン・モンスターとお友達になり、かの球場をこの上ないホームとするようになってもらいたい。(11/16/2006)

 今夕、教育基本法改正案が衆議院の教育基本法特別委員会で可決した由。

 朝刊には、こんなデータが載っていた。民間人有識者謝礼金:30,000円、依頼登壇者謝礼金:20,000円、その他協力者謝礼金:5,000円。最後の「その他協力者」というのはなにか。質問の口火を切った人のことだという。教育基本法改正に賛成という趣旨の発言をすれば、数千円から数万円いただけるのだということ。ずいぶんお金のかかる話。ラジオのニュースによれば、このタウンミーティングの開催費は一回あたりおよそ1,100万円なのだそうだ。

 こんな内容のタウンミーティングで行われる「教育論議」が、どの程度「教育的」であるのか、後の世の人は驚くだろうか、それとも嗤うだろうか。安倍晋三という人物は内閣の要職(内閣官房副長官・内閣官房長官)にあってこのような手続きを指示し、宰相になってこれが露顕した後もこれらのことがらに関し何事もなかったかの如く改正を強行したことを記録しておく。アベシンゾーよ、歴史の前で大いに恥を晒すがいい。(11/15/2006)

 中学から高校のころ、おそらく誰でも一度や二度は自殺についてぼんやりと考えたことはあるはずだ。明確に「自殺」をイメージすることはないとしても、「生きてゆくことにどのような意味があるか」という疑問は持つものだ。ムンクの「思春期」に描かれている「気分」の中に、その年頃独特の厭世観はたゆたっているものだ。それは、いじめを受けている、いないに関わらずある。

 そんな時、現実的に自分をのけ者にし、それを画策し、はやしたてる者がいて、アンソールの「悪だくみ」に描かれた世界のなかで、まわりのすべてが敵になり、自分の居場所のすべてが奪われてしまったように思っているとしたら・・・。

 そして、そういう境遇に見舞われた者が恨みを表した遺書を残して自殺し、まわりの者がそれに右往左往する様を見聞きしたならば、「ぼくも」、「わたしも」と思うであろうことは想像に難くない。

 そうでなくともいじめのリーダーは憎いのだ。耐えきれず打ち明けたときに親身になってくれなかった者も憎いのだ。どうにかして一矢報いたいものだと思っていた「あいつ」に、今度は「いじめ」が反転して押し寄せる、薄情だった先生、君だけはと思っていた友人が自分の遺影に頭を垂れ、涙を流してくれると想像すれば、「快感」とは言わぬまでも、それは言いしれぬ「誘惑」にはなるだろう。

 いじめ自殺。その報道がより事態を悪くしているような気がする。(11/14/2006)

 きのう、葬儀に出た関係できょうは病院を一往復。朝、洗濯物を取りに行き、夕方、届けに行く。なんやかやと気ぜわしく、忙しい休日。

 宇井純が昨日早朝に亡くなった由。胸部大動脈瘤破裂。享年74歳。水俣病を中心とする公害問題を先鋭に取り上げたためだったのだろう東大ではずっと助手のままだった。琉球大に教授として転出したときも、公害企業とその御用学者たちからは「沖縄のへっぽこ大学だから教授になれた」と揶揄された。

 宇井純から清浦雷作を連想しグーグルで検索をかけていて、宇井が01年6月15日に東大で行った講義後のQ&Aに行き当たった。「客観的な事実というものが本当に存在するのか」という質問に対して、彼はこんな答えをしている。

 その気持ちはわかるし、不確定性原理というものもある。不確定性原理は物理の世界におけるミクロなものだと思っていたが、社会科学にもやはりあるということで悩んだことがある。水俣病のケースでいうと、清浦雷作教授は工場排水と水俣病の因果関係を知っていてわざと隠したのですね。それを洗い出してみると、清浦教授は客観的事実として(水俣工場と同様の工場のある)他の地域を挙げて、「こういうところを測ったら水銀が多かった」とした。しかしその地名は隠した。これは確かに作為的にやったことだけれど、その地名を最初から知っていれば苦労しなかった。やはり客観的な部分はあると感じます。そのような部分は明らかにしていく必要があるのではないか。
 アメリカの教科書は、当たり前のことまで丁寧にかいてある。僕がミシガン州立大学という真ん中くらいのレベルの代表的な大学に一年間いた時に、自分の子供を高校と中学に通わせてわかったのだが、中学・高校は進度が日本より一年から二年遅い。そして大学に入ると、図書館と教室とをくるくる歩いているだけで週が暮れてしまう。そうして勉強するうちに、東大と同じくらいのレベルになる。アメリカの大学でいうと、だいたい真ん中くらいが東大の場所になる。東大は日本では一番水準が高いけれど、そこに入ったからといってすぐに一流にはなれない。ただ、教養学部という強みはある。アメリカの大学はそのあたりでは苦労していて、教養を広めようとしている。
 多くの学生は、大学に入って場合によってはかなり高度な内容の専門書を読むことになる。そのため、教科書は高校生でも読めるくらいにやさしいところからきちんと書いてあるのだ。日本では高校までの教育を前提とすると、大学での教育が成り立たないというケースもある。医学部なのに生物をやっていない、とか工学部でも補習をしないとついていけないなど。教科書を作る時にも、それを気にして作らなくては認められない。
 客観的事実としてどこまで皆で認めるかということですが。例えば「ににんが四」みたいなものが環境科学にあるとする。ここから先は自分が方針をもって行動するところです、という感じに。そういう定石集みたいなものができないかと思ってます。

 当日の論理の文脈が見えないので飛躍している印象を受けるが、客観性を云々する前に学問的アプローチに対する"discipline"ができているのかどうか、最近はそのあたりからスタートする必要がありそうな気がする。いや、その前に"moral"か。(11/12/2006)

 いま読んでいる船橋洋一の「ザ・ペニンシュラ・クエスチョン」、きょうの読み止しはこんな一節だった。

 そのころ、国務省高官が、もう我慢ならないという風に言ったことがある。
「北朝鮮は彼のことを"human scum(人間のくず)"と呼んだが、パーセプションから言えばその表現はそれほど的はずれではない。ボルトンのオフィスは、若いスタッフがウロウロしているが、電子メールの自分の名前の後ろにPh. Dなどと肩書きをつけてくる。ボルトンの真似をしているのだ。それほど肩書きが欲しいのなら、ボルトンなどいっそのことJohn Bolton Ph. sと書いてきたらどうなの、とみんなで話している。Ph. sのh. sはもちろんhuman scumの略だがね」
 アーミテージも、ボルトンには手を焼いた。
「ボルトンは、何でも首を突っ込んできた。そして、北朝鮮との交渉に反対した。彼が何か陰謀をこらそうとしていてつかまえたときは、お灸を据えた。そういうときには神妙に従った。ただ、いつもつかまえられるわけじゃないし・・・」

 そのボルトン現国連大使の地位が微妙になってきたという話が朝刊に載っている。議会閉会中任命という奇策で国連大使の地位についたボルトンの任期は来年1月3日まで。ホワイトハウスは何とか来月までに上院の承認を得たい考えなのだが、外交委員会で他ならぬ共和党のチェイフィーという議員がボルトンの選任を保留している由。チェイフィーは今回の選挙で落選したのだが、「残り任期中にボルトンの承認について考えを変えることはない」としているとか。仮に外交委員会をパスしたとしても、民主党は今回の選挙結果が反映される来年1月まで本会議で審議を引き延ばしボルトンの承認を葬り去るのではないかと観測されている。(きのう、最後まで残ったモンタナとバージニアの上院議席を民主党がとり51対49で民主党が上院も過半数を獲得した)

 ブッシュ政権がボルトンにこだわるとしたら、次席大使に任じてまたまた「閉会中任命」をするしかないらしい。ボルトンの主張通り「国連などと言うものは存在しない」というバカな認識に立つとしても、超大国の国連大使が「半玉」ではレイムダック政権もろともアメリカ自体がレイムダック国家になってしまいかねない。

 ヤクザものや人間のくず(北朝鮮という国は他国と他人に対する評価はじつに的確だ)に天下を預けた報いをアメリカ国民が思い知るのは存外それほど先のことではないのかもしれない。(11/10/2006)

 起き抜けのニュースは「ラムズフェルド辞任」。詰め腹を切らされたということだろう。いまから考えると国防四紙が共同社説でラムズフェルドの馘首を要求し、「これは中間選挙とは関係ない。どちらの党が勝つにせよ、痛い事実と向き合うべき時が来た。ラムズフェルドは去らなければならない」と結んだ時点で、彼の更迭は決まっていたのかもしれない。(とすると、人気とりのためならば、北朝鮮に譲歩すること−金融制裁に焦点を置いた作業部会の設置する−も厭わなかったブッシュが、なぜ、それを発表しなかったのかが不思議といえば不思議だが)

 朝刊には「総務大臣が拉致問題に関するニュースを重点的に取り上げるようNHKに命令する」ことについて電波監理審議会が「適当」とする答申を出した件が報ぜられている。たしかに対象はNHKの海外向け短波放送であって、かつ、「拉致問題」に限定した話である。しかしきのう午前の定例記者会見で、塩崎官房長官が「放送の自由が問われるならば、この法律自体が問われる。かなり古い法律なので、この際、ご議論いただくのも一つの考えかと思う」と言っていることとあわせて考えるべきだ。

 ここにはいつもアメリカの後を追うばかりの戦後の日本が見える。ブッシュ政権は「テロとの戦い」というキャッチフレーズを利用して、テロリスト容疑者(テロリストとイコールではない)に対する人権の無視からイラク戦争という不正な戦争までを行った。つまり「テロとの戦い」というポケットからありとあらゆる不法で不公正な手続きを引っ張り出して見せた。同様に「拉致問題」というポケットからありとあらゆる強権政治を取り出そうとしているのが安倍政権だ。

 「テロとの戦い」をキャッチフレーズにした共和党が惨敗して、色褪せようとし始めたちょうどその時だけに、同じ手口を用いようとしている安倍政権の発想の貧しさがまるで周回遅れに見えて可笑しい。(11/9/2006)

 この季節になってはじめて手袋が欲しいと思った。朝、家を出ると、雲ひとつない空の天頂より少し低いところに月があった。息をのむように美しい月だった。「限りなく透明に近いブルー」という形容がぴったりの薄い青色のフィルムにそのまま定着させたような月だった。そうか、この寒さは放射冷却のせいだったかと思いながら自転車をこいだ。

 夕方、**(従兄弟)から電話があった。***伯母の容態が悪くなった、今晩を越せるかどうかということで、一度家に帰ってから大宮に向かった。昇ったばかりの月が送ってくれた。iPodからはモーツアルトのクラリネット協奏曲、KV622。「まずい選曲だ」とは思いつつ、他の曲に切り換える気にはなれなかった。

§

 アメリカ中間選挙。共和党惨敗模様。「日本への影響は?」と問われた安倍首相、「米国民の選択についてコメントするのは適当でない」と答えている映像を見た。そのやり取りを嗤いながら見つつ、面白いことに気がついた。こういうことだ。小泉の時は「質問に対する答えをすり替えている」と思ったのに対し、安倍の時には「何を質問されいるのか分かっていないのではないか」と思ってしまう・・・。

 どうも安倍の知能レベルに対する抜きがたい偏見があるようだ。(11/8/2006)

 教育基本法タウンミーティングにおける「やらせ事件」、関係者が多すぎてごまかしができないと判断したのか内閣府は事実関係を認めた。「やらせ」は別に教育基本法、タウンミーティングに固有の話ではない。ナントカ審議会、あるいはカントカ公聴会、この類のほとんどすべてが「やらせ」で運営されていることは、よほどのバカでない限り、知っている話だ。

 政府が進めたい方向にムード的に盲従する、およそ骨というもののないイエスマンで多数派を作り、これにちょっとばかり利いた風なことを言ってみせる大宅映子のようなゴロツキか、知能程度の低いタレント(なんという形容矛盾)を塩・胡椒として加え、仕立て上げるのかナントカ審議会。タウンミーティングなどはサクラをたくさん配置して、ブッシュのコーラス部隊(エイプ・ブッシュがスピーチを区切る毎に歓声を上げながら拍手する人間の皮をかぶったあのサルたち)よろしく盛り上げ、いかにも衆知を集めているかの如く装う茶番であると相場が決まっている。

 ようするに、気骨があって、識見が豊かで、よい眼を持っている者は、バカバカしくて参加する気にならないようにするのが、ナントカ審議会、カントカ公聴会の運営の極意なのだ。(11/7/2006)

 7日の中間選挙投票を前にして、先週の六ヵ国協議再開、そして昨日のフセイン死刑判決。まさになりふり構わずのブッシュ政権だが、朝刊には、そのお膝元の米軍関係紙に「ラムズフェルドを更迭せよ」という社説が掲載されたという記事。

 米軍の陸海空軍、海兵隊という四軍種ごとの関係者を対象にした「アーミー(陸軍)・タイムズ」など、四つの週刊紙でつくる国防専門紙グループが4日、各紙の電子版サイトに、ラムズフェルド国防長官の辞任を求める共同社説を掲載した。
 7日投開票の中間選挙を前に、イラクの失態の責任者として長官を更迭するようブッシュ政権に求める声は、野党民主党だけでなく与党共和党の候補者からも相次いでいる。軍関係者が読者のほとんどを占める専門紙からの辞任要求で、圧力はさらに高まりそうだ。
 社説は、イラクでの作戦立案、遂行に対し、現役の将官たちからも不平が出つつあることに留意した上で、ブッシュ大統領が1日にラムズフェルド長官の続投を明言したことを「これは過ちだ」と批判。長官はすでに「制服組の指導者、兵士たち、議会、そして一般大衆の間で信頼感を失った。彼の戦略は失敗し、指導力に限界が出ている」と指摘した。
=朝刊記事はここまで。以下はインターネット掲載記事=
 その上で「これは中間選挙とは関係ない。どちらの党が勝つにせよ、痛い事実と向き合うべき時が来た。ラムズフェルドは去らなければならない」と結んでいる。
 四紙ともUSAトゥデーを発行しているガネット社の関連会社の経営で、紙面では6日付で掲載される。

 ラムズフェルドに対する辞任要求は耳新しい話ではないが、投票日の三日前の電子版に掲載され、かつ投票日前日にそれがペーパー版として配達されるというのは尋常な話とは思えない。これは、それほどにラムズフェルドの失敗が公然周知の事実となったか、あるいは、それほどに共和党の敗北が確実視されているかのどちらかなのだろう。いや、もしかするとその両方かもしれないが。(11/6/2006)

 フセインに死刑判決が下った。判決を受けるとき、フセインは立ち上がり、裁判の無効性を言葉を尽くして叫んでいた。それは記録映画で見た東京裁判の被告たちの映像とあまりにも違っていた。

 それは占領軍の手先となった同国人による裁きであったことと占領軍そのものの裁きであったこととの違いによるものか、あるいは、宗教性、国民性といったものによるものなのか、・・・それにしても、何らの表情の変化もなくむしろ薄ら笑いを浮かべて判決を聞いた記録映画の主人公たちとの意識の違いについて、ぼんやりと思いを巡らせた。

 そのうち、ふと、東條由布子などはこのフセイン裁判にどのような「意見」をもっているのかななどと思った。それを聞けば、彼女の思想の真贋も、人物としての真贋もたちどころに露わになるに違いない、まずこのあたりからインタビューしてくれる企画があれば、相当に面白い読み物になるのに。(11/5/2006)

 火曜日の夜に六ヵ国協議の再開が臨時ニュースの形で伝えられた。麻生外相が「よかった、よかったと赤飯を炊けるような話ではない」、あるいは中川政調会長が「フーテンの寅さんのように、ふらっと戻ってきただけだ」と言っているのはまことにその通りだ。ただこの「核論議」にご執心のお二人のニュアンスは「北朝鮮が六ヵ国協議に応じた」ことに重心があるようだが、おそらくそれは違う。

 六ヵ国協議再開のニュースを欲しがったのはアメリカだ。そのことはアメリカが「金融制裁に焦点を置いた作業部会の設置する用意がある」と表明したことを見れば明らかだ。ブッシュは来週火曜日に迫った中間選挙に向けて、なんでもいいから政権が機能しているという印象を与えられるニュースを作りたかったのだ。だから素人眼には譲歩と見られないような、そのくせ北朝鮮にはひどく魅力的な譲歩をしたのだ。中間選挙におけるブッシュは、これまで否定しつづけた「ならず者との取引」をしなければならないところまで追い詰められているということ。

 したがって六ヵ国協議の本会議はまたまた「踊るだけで進まない」だろう。そして作業部会がそこそこ機能してくれることを確認したら、北朝鮮はまたまたお膳をひっくり返すことだろう。そのとき北朝鮮が口実にするのはなにか。おそらくそれは「日本」だ。なぜなら、作業部会における相手国アメリカを手ひどく傷つけるわけにはゆかないし、韓国の盧武鉉政権の立場を悪くするわけにもゆかないからだ。

 麻生と中川が「赤飯」だの「フーテンの寅」だのといったパープリンちゃんたちの記憶にも残る言葉を使って語ったのは先見の明を誇りたかったからか、あるいは北朝鮮が日本を口実にしたときに備えてのエクスキューズであるに違いない。

 北朝鮮はその布石を、きょう、打ったようだ。

【北京4日共同】北朝鮮外務省が六ヵ国協議への日本の参加を強くけん制した4日の立場表明の要旨は次の通り。

 三番目の項目などは的確な指摘で「なかなかいい眼をもっているじゃないか」と誉めてやりたいところだ。これくらいの客観的な眼があるならば、なぜ自分の国のことがもっと分からないのか不思議でならない。やはり自分のことは自分には分からないのだろう。悲しいことだ。(11/4/2006)

 三連休。**(家内)と買い物。出遅れたせいもあって、お昼を食べたのは2時過ぎ。ひととおりの買い物が終わってから、別れて本屋をゆっくりと覗く。

 買い物はすべて配送にしたので両手は空いている。少しばかり買い込んだ。

船橋洋一 「ザ・ペニンシュラ・クエスチョン―朝鮮半島第二次核危機―」
アンドレ・コント=スポンヴィル 「資本主義に徳はあるか」
小林由美 「超・格差社会アメリカの真実」
ジェイムズ・L・スワンソン 「マンハント―リンカーン暗殺犯を追った12日間―」
岩川隆  「巨魁−岸信介研究−」
阿部謹也 「北の街にて―ある歴史家の原点―」
白川静  「漢字−生い立ちとその背景−」
白川静  「文字遊心」

 白川の本を買うのは少し恥ずかしかった。きのうのきょう、いかにも見え見えだから。

 こうして書き抜くと、いつものことながら、どれほど自分が精神分裂症気味かがよく分かる。それだけではなく、最近はあきらかにすぐには読まない本を買い込んでいる。「マンハント」などという本は以前ならば買わなかった。面白そうではあるが、読む時間がとれないことははっきりしているからだ。しかしもう少しで楽しみにしている定年退職の日が来る。毎日、日がな一日、本を読むことができるようになる。もうそう思っただけで、プラス一冊の気持ちになってしまうというわけ。

 朝刊一面トップには、きのう報ぜられた、曽我ひとみ拉致実行犯リーダーとして朝鮮籍で通称キム・ミョンスクという女性の逮捕状をとり、ICPOを通じて国際手配したという記事。まるでつい最近判明した事実であるかのように報ずるところが、妙に可笑しくて嗤ってしまう。(11/3/2006)

 白川静が亡くなった。今週、月曜(30日)、享年96歳。

 漢字学者としての白川静から入ったわけではない。マスターネットで本のボードのシスオペをしていた頃、ヨンさんに奨められて読んだ「孔子伝」の著者として知った。濃密な印象の本だった。忘れがたい言葉がある。「しかし事実は必ずしも真実ではない。事実の意味するところのものが真実である」。

 岩波新書「漢字」に対する藤堂明保の「批判」に応戦した「漢字の諸問題」の末尾は彼の生涯とその覚悟をよく表している。

 権威主義と学閥の愚かさをにくむがゆえに、私は今日まで孤独に近い研究生活をつづけてきた。学問の世界はきびしく、研究は孤詣独往を尊ぶ。それぞれの研究者が、それぞれの世界をもつべきである。しかし真摯な探求者が他に一人でもいることは、大きな力であり喜びである。たとえばいま、有坂秀世のような人がいてくれたならば、私も音韻学の上から適切な批判を受け、自己の研究を進める上に、有益であったのではないかと思う。学問の世界は、あくまでも純粋なものでなければならないと考えるのである。

(11/2/2006)

 教育基本法の改正に向けてあちこちで開催されている政府主催の「教育改革」タウンミーティングで内閣府はやらせ質問を仕掛けている由。

 きのうの衆議院教育基本法特別委員会で共産党の高橋千鶴子が、青森県教委が作成したという文書を示して、9月2日に開催された「教育改革タウンミーティング・イン・八戸」で、県教育委員会が内閣府の指示に従って教育基本法改正案に賛成の立場の質問を地元の学校関係者に依頼していたのではないかと質問した。予想外の内容にあわてふためいた政府は「事前に理事会に文書を提出していなかった」ことを根拠に答弁を拒絶したとか。

 高橋氏は質問で二つの文書を読み上げた。いずれも青森県内の中学校校長にあてられた8月30日付と9月1日付のもので、それぞれ地元の教育事務所と教育政策課の作成という。「タウンミーティングの質問のお願い」と題した8月30日付の文書は「当日に(2)の質問をお願いします」などと書かれ、質問案として「時代に対応すべく、教育の根本となる教育基本法は見直すべきだと思います」などが挙げられていたという。
 また、9月1日付の文書では「発言者を選んでいただき、誠にありがとうございます」としたうえで、内閣府から「お願いされてというのは言わないでください」などの注意がある、と書いてあったという。

 質問を捏造してまで改正しようとする教育基本法が果たして真の教育のためになるものかと思うと嗤ってしまうが、それほどに教育基本法を見直す根拠は薄弱なのだろう。

 どうせ政府主催のタウンミーティングなど、進行は株主総会並み、発言者は限定され、およそ「論議」などはなされないのだろう。もしも本来のタウンミーティングとして運営され、「時代に対応すべく、教育の根本となる教育基本法は見直すべきだと思います」という発言に対して、フロアから「あなたは現在の教育基本法のどのような条文が時代に対応していないとおっしゃるのでしょうか」と質問されたら、件のサクラさんはどのように答えただろうか。まさか「内閣府からお願いされたとおりに申し上げたわけで、そのご質問は内閣府の方にしていただけないでしょうか」と答えるわけにもゆかず立ち往生したのではないかと思うと、なんとも情けない国になり果てたものだと嗤いを禁じ得ない。(11/1/2006)

 一週間前スタートした携帯電話の番号持ち運び制度。商戦の最初の土・日、ソフトバンクの受付システムが繰り返しダウン。ソフトバンクの醜態は今に限ったことではないから別に驚かない。

 ただ可笑しかったのはシステムが止まった理由。ソフトバンクの最初の説明では「お申込みのお客様が殺到したため」。この説明はウソではなかった。ただ「殺到したお客様」の「お申込み内容」は他の携帯電話会社からソフトバンクに「転入」しようというものではなかった。ソフトバンクから他の携帯電話会社に「転出」したいというものだった。システムがダウンした理由は「家族割引を中心とする割引制度との関係が複雑」で処理負荷が異常に高くなったためだった由。

 伝えられるところによれば、ソフトバンクトップは制度開始前日に発表した「予想外割引¥0」のキャンペーン効果を狙って直前まで系列店は当然のこと、社内にも情報をクローズしていたとのこと。「予想外コマーシャル」に出てくる「社内スパイ」を警戒したからだろうという笑い話までがまことしやかに語られている。

 朝刊によれば、MNP(Mobile Number Portability)商戦は現在までのところKDDIの一人勝ち。KDDIは10万件の転入・2万件の転出で差し引きプラス8万件、ドコモはマイナス6万件と発表。これに対しソフトバンクはデータをクローズ、オープンな二社のデータから推定するとマイナス2万件ということになるらしい。この程度の転出処理でダウンしたソフトバンク、よほどお粗末なシステムだったということになる。(10/31/2006)

 夕刊に「核と向き合う」という特集が始まった。第一回のきょうは元長崎大学学長、病理学の土山秀夫の談話が載っている。先週、加藤周一の「夕陽妄語」を読んで以来考えていたことが話されている。

 土山は「そもそも核抑止の論理は、『使うと地球が滅びてしまう』という指導者の理性を前提にしており、極めて危険だ。理性を持たない指導者に核抑止は通用しない」と語っている。大筋そのように思うが、厳密に言えば平均的な指導者の理性は「地球が滅びてしまう」という意識ではなく「我が国が滅びてしまう」というところにあるだろう。そして核抑止が通用しないのは必ずしも「理性を持たない指導者」ではなく、理性を持っていても疑心暗鬼が核抑止という安全装置をたやすく外すことが予測できる以上、これも格別特異なキャラクターをもつ指導者に限定されるわけではなくごく平凡な指導者にも核抑止は通用しないと言い換えた方がよいだろう。

 例えば、ここに対立する核保有小国Aと核保有大国Bの二国があるとする。小国Aの国土は狭く、大国Bからの核の一撃で壊滅する可能性がかなり高いと見込まれるならば、A国は常に「B国の一撃」という強迫観念から自由になることはできない。A国の核は通常の意味においてはB国の核に抑止されているかもしれないが、B国の核はA国の核に抑止されているだろうか。B国が自国の一地域を見殺しにする覚悟があれば、A国に対する核攻撃の決断はできる。我々はかつて独り立ちを果たすために沖縄を見殺しにした日本という国を知っている。まあ独立と核攻撃許容は次元の違う問題かもしれぬが。

 しかしA国が「核の一撃」に対する恐怖感のあまりに、B国が「肉を切らせて骨を断つかもしれない」という疑念にとらわれて「敵国に屈従するぐらいならば、我が国の尊厳を守るために、蜂の一刺しで散華しよう」と考えることは十分にありうる。この決断をするA国の指導者は「理性を持たない」わけではないだろう。

 核抑止が成立するのはその独占が大国に限定されているあいだだけのことで、核拡散がイスラエルや、パキスタン、北朝鮮まで進んだ現在の状況の下ではもはや成立していないと考えるべきだ。(10/30/2006)

 週初めに突然報ぜられた必修漏れはあっという間に全国規模の問題になった。不思議に思うのは、受験に焦点を絞った結果の問題とすれば対象が社会科に留まるはずはないのにいっこうに理科や国語に飛び火しないことと、そもそもこれほど「常態化」しているとしたらいままでこのことが指摘されなかったことのはなぜだろうかということ。

 医学部の新入生が生物の履修を疑われるほどだという話はよく聞くし、「春望」(記憶によれば、これは中三の教材だった)を知らない大卒の新入社員に驚いたのは一度や二度のことではない。ミトコンドリア・イブについて講釈してくれとはいわない。だが細胞の構造くらいは知っていて欲しい。同様に白文を読んでくれというのではない。レ点がふってあれば読み下してくれというだけのことだ。高校を卒業しながら生物も漢文も知らない、カルタゴの興亡も知らない、微分・積分の概念も知らない、・・・、それは立派な学歴詐称だということ。

 そして、この話の出方の不自然なことだ。おりしも教育再生会議の論議が始まり、教育基本法の改正案が国会審議にはいるとき、もうずいぶん前から「ズル」が蔓延していたにもかかわらず、ここに来てまるできょうはじめて気がついたことのように報ぜられると、どうも巧んだ話の匂いがしてならない。しかも社会科についてだけ指摘されることもまた不自然。どこぞの右翼集団が「なんで日本史が必修じゃなくて、世界史が必修なんだ」と言いたいのではないかと、そういう気もしてくる。

 いずれにしても、常に次工程においてポールポジションを取るために、現工程を最大限それにあわせてチューニングするという発想法を人生に適用することが貧しいのだ。いまや、その作業のファースト・ステップは豊かな階層では幼児教育から始められている。私立幼稚園の予備校、私立幼稚園、私立小学校に私立中学・高校があって、大学へというわけだ。(安倍晋三のように私立小学校から高校を経て、そのままその私立大学に進むなどというのは「証明書つきの無能」がすることだ。一貫校の高校を出たら東大か、京大に行かなくちゃウソだよ)。

 その大学も三年時になる頃には就職活動。ひたすら「エントリー・シート」づくりをして後半の学生生活を送る。会社の中でも本来の仕事はそこそこに企画職チャレンジと職位試験に備える。仕事は半端なくせにこういうことだけうまい奴はいるものだ。そして出世競争がサチる頃になると天下り先へのアピールに精を出す。

 その先のことはよく知らないが、より良いリタイヤ生活のために準備して、定年ライフに入ったら、こんどは住み心地のよい老人ホームの心配をし、その次には一等地の墓地の確保に奔走し、朱で名前を彫り込んだ墓ができたら、やっと一段落するのだろうか。呵々。(10/29/2006)

 訪米中の自民党政調会長の中川昭一がアーミテージ(前国務副長官)やシュワブ通商代表らと懇談した後の記者会見で「日本の核武装について論議すべきだ」と言ったことが伝えられている。麻生外相も先週、訪れたライス国務長官との会談の前、衆議院外務委員会で「核保有についての論議は必要だ」と言っている。彼らがともに政府・与党要人の肩書きがないのなら、どのような発言も自由だ。しかし閣僚であれば政府になにかのねらいがあるに違いないととられ、党幹部であれば中長期的にはそういう政策日程があるからととられる。中川はわざわざアメリカでそれを宣言し、麻生はアメリカの要人と会談する直前のタイミングであえて議会で発言したのだから、これは単なるアドバルーンなどではない。

 ところで彼らは核兵器保有がどのていどの資源を必要とするかきちんと考えたことがあるのだろうか。前田哲男の「核戦争シミュレーション」はずいぶん昔の本だが、その序章にあたる「核抑止戦略の決算表」は核保有が国家に強いるリソースの蕩尽がいかなるものかを教えてくれている。

 11万4028人。
 何を意味する数字か見当つきますか? 内訳を示すと次のようになります。
米本土 軍人 8万2920人
文官 2304人
契約企業 30人
8万5254人
太平洋地区 軍人 4577人
文官 2人
4579人
ヨーロッパ地区 軍人 2万4140人
文官 25人
契約企業 30人
2万4195人
合計 11万4028人
 (『核兵器データブック』第一巻−アメリカの核戦力と作戦能力−)
 もうおわかりでしょう。米軍の「核兵器取扱い要員」、あるいは「核爆発を引き起こすことが可能なほどに核兵器に物理的に接近できる」任務を有する人間の数です。もっとべつの表現をすれば、ハードウェア(核弾頭)、ソフトウェア(核戦略)に見合う「ヒューマンウェア」といういい方もできるかもしれません。アメリカの保有する核を三万発とすると、おおむね一発当たり三人の要員がいる計算になります。三交替で二四時間警備というわけでしょうか。
 たぶんソ連にもこの程度の核要員はいるはずです。コンピュータの普及度を考えると、ソ連にはもっと多いと考える方が合理的でもあります。少なくとも米ソ両国で二十数万人にのぼる「核の神殿に仕える巫女」を擁しているとみてよいでしょう。ちょっとした中都市なみです。
 コスト計算はあとに回すとして、これほど人間をそろえる、それも対象物品の性質上、忠誠心100%、情緒安定度満点、IQ指数も平均以上でなければならないと条件がつけば、いかに超大国米ソといえども大変なことです。アメリカの場合、核要員は「PRP(要員信頼度計画)」という「核兵器保護基準指令」に基づくコースがあって、この「資格検定制度」の厳重な審査を経ねばならず、志願者ならだれでもとはいきません。
 こう入念周到に核管理要員を選抜・教育してみても人間のことですからお酒も飲めばマリファナも喫います。パトリック・ハイエス空軍少佐は酒に酔ってICBM(大陸間弾道弾)の発射指令席についているところを発見され、軍法会議に告発されました。米下院軍事委員会のアスピン議員の調査によると、毎年5000人もの核兵器要員が「核兵器の近くにいるにはきわめて危険で不適格な人物」として配置転換されているといいます。理由は、@麻薬中毒を含む薬物の濫用、A肉体的、精神的不安定、B軍法会議または民事・刑事上の犯罪、C職務怠慢または過失、D命令に不服従または反抗的態度、Eアルコール中毒。・・・(中略)・・・「PRP」による資格審査をパスした要員にあってさえこの有り様なのです。そして総員数11万4028人、核弾頭数約三万発なのです。これ以上つけ加えることはないでしょう。核抑止戦略という壮大な観念世界は、ヒューマンウェアという内部要員によって維持しがたくなったというべきです。コンピュータで人間の役割を代替させようとしても成功しますまい。人間をコンピュータのようにしようとしても無理だったのと同様、コンピュータに人間の判断力など期待できません。かりに完璧なコンピュータを得たとしても、プログラムに一カ所でも「バグ」(欠陥)があれば、愚直な機械は渡り鳥の群れを敵ミサイルの一斉発射と受け取ってしまい警報を鳴らすのが落ちでしょう。同時に、何十万行にものぼるプログラムからなる核戦争を想定したコンピュータ辞典に、一カ所の「誤植」も出さないなどとは、愚直ならざる人間にもとてもできない相談というべきです。
 二番目にコストの問題を指摘できます。マクロの問題としてはすでに論じ尽くされた観のある領域ですので具体的なことにふれておきます。
 さきほどでてきたPRP(要員信頼度計画)に基づく「核取扱い資格者」養成にかかる費用は、一人一コースで空軍1万1700ドル、陸軍5万2300ドル、海軍5万5200ドルと算定されます。それを11万4028人分。配備維持コストの表だけでこれだけの経費を要します。
 しかしハードのコストとなるとそれどころではありません。・・・(以下、略)・・・

 凄まじい経済的リソースが必要とされるということだ。ソ連という国が傾いたのはひとつにはこの核武装競争が原因であったことは間違いない。むろん、この国が仮に核保有するとしても、アメリカのように地球規模で配備を展開するわけではないし、前田がこの本を書いた20年前といまとでは事情も大きく異なるから、所要経費はずいぶん違う計算になるだろう。しかし前田が書いた次のくだりは、絶対に忘れてはならない最大の問題だろう。

 三番目は、核軍拡へののめり込みの結果、米ソでは国防産業主導型のいびつな経済構造が定着して久しいことはよく指摘される点ですが、それと密接不離な現象として「人的資源の空洞化」ともいえる、マンパワーにおける民需ばなれ軍需はりつき状態も、すっかり構造化しました。日本や西ドイツでなら、ホンダやソニー、BMW、フィリップスをめざす若きエンジニア、有能な人材が、アメリカではMD(マグダネル・ダグラス)やロックウェル・インターナショナルに引き抜かれます。そこでミサイルの弾道計算やより耐熱性のすぐれた新素材開発、新型戦車の設計に自己の能力を注ぎ込みます。一方はVTRやウォークマン、低燃費の乗用車を開発して世界に売りまくる、一方は湯水のごとく金を使いながらも決してユーザーによって試されることのない、実戦という商品テストの審判からほとんど切り離された「抑止兵器」の生産にはげむ。一方は金を稼ぐが、もう一方はブラックホールのように吸い込むばかりだ。こんなレースを40年間も続けて経済を傾けない国など想像もつきません。日米の産業基盤をつぶさに点検し、基礎研究部門、新製品開発部門、さらに大きく軍需部門、民生部門における人員配置、研究環境(昇進・昇給のチャンス)を比較するなら、さらにくっきりとアメリカ軍事力の、ではなくアメリカ産業界の国際競争力を失った原因を浮き彫りにできること疑いありません。
 人的資源の浪費という観点から考えて、核抑止戦略部門に働く軍人・技師・文官ほどもったいない存在もないでしょう。11万4028人という数、彼らの素質と能力、PRPにおける「技術研修」の機会、どれをとっても「産業戦士」として民生品部門に投入されたとしたら、日本や西ドイツにとって恐るべき強敵となったはずです。北の国にいる多くのイワンやセルゲイにしても同じことです。しかし米ソで最低20万人いる「核の引き金を握る男たち」、もっと多くの軍事要員は、そのような国際レースの場には決して現れません。ワイオミング州の地下18メートルの穴ぐらにあるMXミサイル発射指令室の「赤い電話」の前にじっと坐っているか、さもなくばアラスカ湾の海底を潜航するトライデント搭載原潜を動かしているかの、どちらかに違いありません。トライデントC4ミサイル24基を1隻の中に格納する「オハイオ級原子力潜水艦」には154人の乗組員がいます。その多くは航海、ミサイル、原子炉のスペシャリストです。艦長に工学博士も珍しくないエンジニア集団です。・・・(略)・・・

 人口減少が指摘され超高齢化の進む社会で、必要なカネは増税と社会保証費用を限りなく切り詰めて捻出するとしても、人的資源の誤用はこの国から速やかに国力を奪うことになる。核保有に関する議論の中には是非こういう側面も入れなければならないはずだが、アル中の中川やチック症の麻生には思い浮かばないのではないか。安倍?、最初から知能が足りないから期待するだけムダというものだ。(10/28/2006)

 けさは少しばかり余裕ができて、心づもりにしている7時半のフレックス始業までの時間、新聞各紙のニュースサイトといくつかブックマークしているサイトを覗いた。

 目を引かれたのは立花隆の「メディア・ソシオ・ポリティクス」。タイトルは「この国の将来を委ねた安倍総理一族の魑魅魍魎」。記事内容はふたつ。ひとつはタイトルにもなっている安倍晋三と母洋子のオカルト新興宗教好きに関するもの、もうひとつは拉致被害者とその家族の帰国に絡んで、というよりは安倍が拉致問題を利用して一躍総理の座まで登り詰めるために、「媚朝外交」を繰り広げ、その過程で「詐欺師」に引っかかっていたというもの。

 前者は週刊朝日、後者は週刊現代が報じているものだ。両誌はそれぞれに委託ライターの書いた内容について安倍に質問状を送っているが回答はない由。安倍といえば、すぐに担当者を呼びつけたり、名誉棄損で訴えるぞと脅すことで有名だが、この二誌の記事に関してはなにも対抗措置を講じていない。聞けばおそらく「総理大臣の重責を全うするために全力を傾けているので些末な暴露記事には対応しない」などと言うのだろうが、内容は安倍の「外交能力(外交力ではない、能力そのものだ)」、いや、それ以上に「情報分析能力」に関わっている。つまり総理大臣としての能力的適格性の有無が問われているのだ。

 ここで登場する詐欺師の名前は「朴在斗(パクジェドゥ)」、別名を「朴廣(パクグアン)」という。安倍はこの詐欺師に「安倍晋三外交顧問」の名刺を作らせ、北朝鮮側の関係者と秘密交渉する際には通訳までさせていたという。記事の一部を引く。

 蓮池さんら、4人の拉致被害者は帰ってきたが、その後の展開が開けないで困っていたところ、安倍が小泉首相(当時)の親書を持って訪朝すれば、北朝鮮の中枢的指導者と会談できる上、蓮池薫さんの2人の子供、地村保志さんの3人の子供、曽我ひとみさんの夫ジェンキンスさんと2人の子供の計8人を日本に連れて帰ることができるようにしてやるという話が北朝鮮側から伝わってきた。
 これはその後ほとんどその通り実現するのだから、半分以上ほんとの話だった。
 ところが、秘密交渉の過程で安倍が頼りにした男が詐欺師だったため、話はどんどんおかしくなり、安倍は北朝鮮側の信用を失い、8人を連れて帰るという華々しい成功をおさめるチャンスを失ってしまう。それどころか、詐欺師に乗せられて、仲立ちの北朝鮮ロビイストに5000万ドルを渡す寸前のところまでいっていたというのだ。

 安倍が拉致問題を手柄にしようとできもしないのにしゃしゃり出て、家族の帰国がいったん頓挫したとき、いくら安倍がバカだとしても「二の矢」の備えぐらいはあるはずだと書いたが、安倍の「二の矢」はこの詐欺師だったのかもしれない。つくづくバカな奴だ。

 それにしても、安倍晋三という男はよほど詐欺師とウマがあうらしい。おそらく安倍の中には詐欺師の血が幾分か流れているのだろう。では詐欺師としての安倍の被害者は誰か? 決まっているさ、家族会の面々、なかでも横田早紀江だ。(横田滋はさすがに多少世の中のことを知っているのだろう。どこか歯切れの悪い彼のコメントは必ずしも吃音のせいではなく、裏が見えているからのような気がする)。そうそう、いま安倍を支持しているこの国の半分くらいの国民も、いずれ被害者になるのだろう。(10/27/2006)

 新庄の新庄による新庄のための日本シリーズだった。あしたの品質保証責任者会議の資料まとめに手間取って、工場を出たのが6時半。帰宅する途中、ドラゴンズが4回表21イニングぶりに得点した。だがもうシリーズの流れは決まっているような感じだった。ファイターズは5回裏、なんと金子のスクイズで同点にし、続く6回裏にセギノールがツーランを放って3−1とした。たった2点の差なのだが、ドラゴンズには反発力は残っていなかった。

 去年と同じ10月26日にことしのシーズンは終わった。一年は365日。閏年以外は曜日が一日ずれる。同じ日になったのは去年のタイガースが0勝4敗、しかも4試合の合計得点がたったの4点、合計失点は33点という日本シリーズ史上最低にして最悪の不様な大敗をしてくれたからだ。まあ、それに比べればましだが、最低の「05年タイガース」を比較基準にするのはそもそも間違い。

 短期決戦はこういうものだといえばその通りだが、これほど低調な日本シリーズが続くとシーズン終了時の消化不良感ばかりが残る。できるなら第七戦まで、そして土日の開催はデーゲームで、さらに書けば第七戦の最終回は秋の暮色が球場をつつみ、忍び寄る寒さの中、それを忘れるほどの緊張感の中で迎えたい。そしてウィニングボールが選手のグラブあるいはミットにおさまるか、サヨナラ打となって野手が追いかけるのをあきらめるか、そういうシーンで終わってこそ、「ああ、今シーズンも終わった、また、春のファースト・ピッチまで待とう」と思うことができるのだ。(10/26/2006)

 日本シリーズ第四戦もファイターズ。スコアは3−0。ドラゴンズは昨夜の初回入れた1点の後、連続17イニング、得点ゼロ。ベンチに座る落合、なすところなしの印象。

 朝刊経済面から。見出し「銀行献金再開に批判」。三菱UFJは経団連の要請もあり、政治献金を9年ぶりに再開するための検討を始めた由。未だに低金利、未だに法人税の納付なし、そういう状況で政治献金をしようという論理はどこから出てくるのだろう。不特定多数の預金顧客などは端から「お客様」とは思っておらず、税金として収めるならどこに使われるか分からないが、政治献金ならば自分たちの利益に直結するようにコントロールできるということなのだろう。他人のカネを使って私益を図るのは当然と考えているメガバンクのトップの図々しさには絶句するのみ。(10/25/2006)

 日本シリーズ第三戦。6−1でファイターズ。これでファイターズの2勝1敗。

 ここのところのリズム通り7時に出勤なのだが、FCSとの連絡会があり工場を出たのは6時半過ぎ。中継をラジオで聴き始めたときには既に3−1でファイターズがリードしていた。(1回表福留のタイムリーでドラゴンズ先制、その裏すぐに森本のヒット、送りバントをFC、ノーアウト一・二塁、小笠原のタイムリーツーベースで逆転の由)帰宅してからの中継では延々と両者ゼロ行進。2点差の緊迫感は8回裏の稲葉のスリーランで勝負あり。ドラゴンズファンはイライラの試合だったに違いない。

 中継を見終わってから風呂。あがってきて再びスイッチを入れると「報道ステーション」だった。古舘伊知郎がいつもの芝居がかった調子で「深刻な事態」とキャプションをふった。ニュースの内容は富山県立高岡南高校の三年生200人あまりが地歴の履修単位が足りず、このままでは卒業できないというもの。地歴は世界史を必修とし、残り日本史・地理から一科目を選択させるのが学習指導要領の規定の由。もともと入試では世界史は敬遠されがち、かつ、最近はどうやら文系でも一科目受験でよいらしい。となれば、入試に強い「進学校」としては、入試関係科目以外は授業の必要を認めないということなのだろう。

 かつて大学には教養課程というのがあった。しかし、最近の大学の多くは教養部を廃止し専門課程の中に「融合」させると称していわゆる「一環教育」なるものを採用している。「教養」という言葉は昔はそれなりに尊敬される響きを持っていたが、いまでは侮蔑の対象になりつつある。

 サン=テグジュペリは「ほんとうに大切なものは目には見えない」と書いた。おそらく「教養」はそれなのだ。日経の「私の履歴書」などを読んでつくづく知らされるのは一定年齢より上の著名人にとって、「旧制高校」での生活と体験がその智慧と人間的な深みの源泉になっているということだ。目に見える、すぐに役立つものばかりの「教育」が作り出すものは薄っぺらな人間ばかりだ。(10/24/2006)

 月曜の朝は鬼門。先週は財布を小銭入れもろとも忘れて神戸に出張した。新横浜から乗ってきた**さん(同僚)から借りた。きょうは背広のズボンを間違っているのに中央線の電車の中で気付いた。比較的よく似た色目だったから、**(家内)も気付かなかったのだろう。

 工場に着けば上着は脱ぐから、どうということはない。よる、東京駅で、いつものメンバーマイナス**(友人)で飲んだ。**や**はたぶん気付かなかったろう。**がいれば気付いたかもしれないが。(10/23/2006)

 いつものようにラジオを聴きながら**(母)さんの病院へ。「歩く話、先生に訊いてみた?」と尋ねると「お正月の一時外出も難しいって」。「自分で便所に行けたら、なんとかなるんだから・・・」と言うと寂しそうに笑っているだけ。ここ半月ばかり紙おむつや尿取りパッドの使用量が激しくなっている。なにがということはなく、ただただ切ない。

 湿っぽい気分で新座に向かって自転車をこぎ出す。耳からは永六輔の「土曜ワイドラジオ東京」。きょうのゲストは大橋巨泉。テーマは聞きづらい言葉。そうだ、葉書を出してやろうと思っていたのだった。「させていただくという言葉が耳障りだ」と。

 「マジというのが嫌い」という投書に対して、巨泉、「いい女にさ、『巨泉さん、ウソばっかり』なんて言われると、ゾクってしたもんだけど、『巨泉さん、マジ?』なんて言われたら、ゾッとするだけだね」。ホントだ。女性に縁遠い男にとって「ウソばっかり」などという言葉は、おおむね、行きつけの飲み屋で言われるていどだったから、ゾクゾクするための条件が整っていたこともあるに違いない。そういうほのかな艶っぽさはもう死滅したのだろうか。

 ふと、思い出した。「ウッソー」という合いの手。**さんお得意のフレーズだった。ちょっとしゃべるごとに「ウッソー」とやられると、どちらかというと頭の硬い方だったこちらは、何回かに一度は気色ばんで「ホントだよ」と言い返して、ちょっと気まずい沈黙が訪れたりしたのだった。いま、生真面目な男は「マジ?」の連射にどう切り返しているのだろうか?

 日本シリーズ、第一戦は、4−2でドラゴンズ。ダルビッシュ、自滅気味。(10/21/2006)

 きのう、一連の耐震強度偽装事件で起訴された中で最初の判決があった。イーホームズの藤田東吾社長を被告とするもの。東京地裁は架空増資に関する電磁的公正証書原本不実記録とその供用について有罪としたものの、耐震偽装の見逃しは利益を優先させた被告の姿勢から出たものという検察側の主張については立証が不十分なので量刑の勘案には加えないとした由。

 検察側の狙いは審査機関として耐震偽装を見逃したのは藤田東吾という特異な経営者が犯した極めて異常な行為だったと印象づけることだった。

 藤田は判決後の記者会見で、自分の逮捕・起訴は、ホテル・マンションを手がけるアパグループが建設した埼玉・鶴ケ島市の「アップルガーデン若葉駅前」、千葉・成田市の「アパガーデンパレス成田」、これとは異なる会社が建設した「エグゼプリュート大師駅前」の三件について耐震偽装を指摘したためになされたものだと主張した。なぜこんなことが逮捕に繋がったか。アパグループのトップが安倍晋三の後援会の中でも特に胡散臭いと定評のある「安晋会」の有力支援者であったからというのが彼の説明。

 アパグループのホームページには「一部の報道についての見解」なる文書が掲載され、「同氏(引用時の注:藤田東吾のこと)を名誉棄損で告訴することを検討しています」とある。これに対し藤田は次のように応じた。(「きっこの日記」から)

アパグループ 元谷外志雄代表殿、元谷芙美子殿

貴殿らは、私に対して、名誉毀損での訴えを検討中と貴社のHPにて掲げております。
もし、あなた達に真実があると確信しているのなら、どうぞ訴えて下さい。
私は、あなた達を通じて、今の日本が抱える闇を暴くために既に覚悟を決めております。
戦う気があるなら、今すぐにでも訴えなさい。
現実に、事業規模200億円に到るアパガーデン若葉駅前の物件が半年を越えて工事が停止している現状を前にして、あなた達がどういう理由で私を訴えるのか楽しみに待っています。

 アパのあの成金ヅラの女社長が藤田を訴えるかどうか、藤田でなくとも楽しみなことだ。

 それにしても、父親から「相続した」支援者たちとは別に、安倍晋三が自分で新規開拓した支援者たちのツラの下品、かつ、「美しくない」ことは驚嘆に値する。「B級タニマチ」との陰口、さもありなん。(10/19/2006)

比較的整理された記事がここにあります。

 教育再生会議がキックオフ。メンバーは17名。次のとおり。浅利慶太(劇団四季代表)、池田守男(資生堂相談役)、海老名香葉子(エッセイスト)、小野元之(日本学術振興会理事長)、陰山英男(立命館小副校長)、葛西敬之(JR東海会長)、門川大作(京都市教委教育長)、川勝平太(国際日本文化研究センター教授)、小谷実可子(スポーツコメンテーター)、小宮山宏(東大総長)、品川裕香(教育ジャーナリスト)、白石真澄(東洋大教授)、張富士夫(トヨタ自動車会長)、中嶋嶺雄(国際教養大学長)、野依良治(理化学研究所理事長)、義家弘介(横浜市教委教育委員)、渡辺美樹(ワタミ社長)。

 知っている人もいれば、知らない人もいる。なにより、知ってはいても、教育現場で発生している現下の問題についてこの人にどんな「専門性」があるのか、とんと分からない人ばかりというのも不思議な感じがする。最初から「専門性」など期待しないというのなら、これから導入しようという裁判員制度同様の考え方に立って巷の有名・無名人を抽選で選んでもいいはずだ。その方が万人のための教育制度の広範な議論としてはかえって望ましいという考え方だって成り立つ。

 ところで安倍ブレーンないしシンパたちもこのメンバーの人選に相当不満があるようだ。再生会議メンバーを調べようとして検索をかけていたら、「ちゃんとした美人の妻をもつ」八木秀次(最近のライトマインドの人々は「美しいこと」が最大の価値らしい、とにかく、外見が美しければ中味は多少醜かろうがなんだろうがいいらしい、「世の中見てくれがすべて」時代にふさわしい感覚だ)が代表を務める「日本教育再生機構」という怪しげな団体のホームページを見つけた。「こんなメンバーで安倍総理の掲げる教育再生ができるか」とかなりお怒りの様子。

 「こんなメンバー」と罵倒する根拠は次のとおり。池田守男は社是に「ジェンダーフリー」を掲げる資生堂の相談役だからけしからん、白石真澄はフェミニスト的子育て論者だからけしからん、海老名香葉子はエッセーが「赤旗」に掲載されることがあるからけしからん、陰山英男は元日教組だからけしからん、小野元之はかつて学生運動をしていたからけしからん、義家弘介は「赤旗」と「世界」に掲載される文章を書いたからけしからん、とある。ここまでつまらない「けしからん」が並ぶと、お怒りの原因は「自分ないしは自分の仲間をメンバーに選任しなかったこと」が「けしからん」というあたりにあるのではないかという気がしてきて可哀想になった。可哀想だねぇ、八木さん。早くお家に帰って「ちゃんとした美人」の奥様に「秀ちゃん、可哀想」と慰めてもらうがよかろう。

 しかし論拠はどうあれ、この17名で「教育再生論議」ができるかどうか不安という結論には同感。後はそれぞれのメンバーに「節を守る気概」をもっていただくことを祈るのみだ。例えば、渡辺美樹は小泉内閣時の「規制改革・民間開放推進会議」付属の教育研究WGの委員に内定しながら、学校経営への株式会社参入に反対する持論を変えなかったために政商・宮内義彦に嫌われて外されたことがあった由。せめてそれくらいの見識と気概は持って臨んでもらいたい。それでもフワフワした小谷、現場を離れた義家などはたやすく転びそうな気がするのは偏見というものか。(10/18/2006)

 最高裁が外国登録特許の使用料についても従業員の対価請求を認める判決を下した。原告は日立に勤めていた元主幹研究員。被告は日立。訴えの内容はアメリカ他6ヵ国に特許登録されていたものの特許使用料とクロスライセンス評価額についても対価算出の対象に含めることを求めたもの。

 一貫して個人の側よりは組織の側に立った判断を下すのが最高裁だと思っていた(日立もその目算があったから他の案件の如く高裁レベルの和解をしなかったのだろう)から、多少、意外。

 最近、ついに先発明主義という「アメリカ・ローカル・スタンダード」を捨て、先願主義という「グローバル・スタンダード」にあわせ、逆に外国特許使用料の獲得に腰を据えて臨もうとファイトを燃やしているアメリカの意向を察知しての対応かもしれぬ。(10/17/2006)

 神戸工場、品質保証部との懇談。日帰り。行き帰りの新幹線で内橋克人の「悪夢のサイクル−ネオリベラリズム循環−」を読了。幹部職はもう何年も前から日帰り出張に日当は出ない。交通費以外はすべて自弁。出張の余禄は往復の時間だけ。それでもまとまって本を読める時間は貴重。

 格差社会をもたらした元凶、「規制緩和」に踊ったここ二十年の状況を、同様の政策によりアメリカ国内がどのようになったか、その「改革」により国家破綻の瀬戸際まで行きかろうじて踏みとどまったチリと、破綻にダイビングしていったアルゼンチンを概観しながら、一握りの人たちにのみ利益を独占させ、社会の安定を損なう「新自由主義(ネオリベラリズム)政策」の危うさについて書いた本。

 新自由主義はまず「金融規制の緩和」と「資本移動の自由化」を要求する。それが実現すると外国資本の流入が始まる。資金量の拡大は経済の膨張感を生み、「借金をしたって、すぐに返せるさ」という風潮が蔓延し、すべての場面で「財政規律」が緩む。バブルが発生する。投機筋は実力以上の通貨価値の上昇が確認できた頃に、その価値ギャップを狙って通貨の売り浴びせを行い、バブルは崩壊する。壊滅的な被害を受けた実体経済を回復するため、不良債権処理から雇用調整(リストラ)に至る引き締めが随所で行われ、深刻な不況に対する打開策として前にも増した「規制緩和」と「資本自由化」が行われるようになる。そしてまた外国資本の流入が始まり、振り出しに戻って、やがてまたバブル的好景気が訪れる。新自由主義政策が必然的に呼び込むこうした景気循環を「新自由主義サイクル」と呼ぶ。以下、第4章「悪夢のサイクル」の末尾。

 その過程で何が起こるでしょうか。アルゼンチンで起こったのは、アルゼンチンの企業や国営事業が外資によって支配されていったことです。その過程のなかで、貧富の差は拡大し、国土は疲弊し、人心は荒廃します。
 ここまで書けばみなさんはもう気がついたでしょう。
 1986年から始まったバブルと、国、自治体、企業をあげての借金競争、そしてバブルの破綻による、自治体、企業、金融機関の不良債権の山、それを整理すると称しての「規制緩和」「自由化」という「改革」。そのすえの弱小企業の淘汰、雇用の喪失、貧富の差の拡大、外資の進出・・・。
 日本は、ネオリベラリズム・サイクルがちょうど一巡しようとしているところなのです。
ライブドア事件の直前、2005年ぐらいから起こり始めた東京の地価と株価の上昇は、いったんこわされた日本が割安だとして、再び資金が流入してきたことを意味していたのです。
・・・(中略)・・・
 日本にチリやアルゼンチンの教訓を当てはめた場合、これから日本はどうなるのか。
 この「ネオリベラリズム政策によって生じる循環」という視点で見た場合には、かつての日本のバブルとその崩壊、そして「失われた十年」がなぜ起きたかという謎、そして今また日本がもう一度、バブルと「失われた十年」を繰り返そうとしているということが明らかになってきます。
 新自由主義者たちに言われるまま市場経済に任せている限り、今、資本の流入で一時的に景気が上がっていたとしても、その流出とともに必ず景気も落ちてゆく。バブルと同じで、規制が少ないほど上がり方が大きくなり、上がり方が大きいほど落ち方も大きくなる。そして落ちてゆくときには、それが実体経済と人々の生活に大きな被害を与えてしまいます。
 日本も放置すればそうなるだろうと予測されるわけです。

 小泉と竹中がアメリカに日本を売る新自由主義者だったことは明らかだが、さかんに「美しい日本」を叫ぶ安倍はどうなのだろうか。岸信介には「アメリカからの自立を考える」姿勢がちらほら見えたが、安倍にその意識はあるだろうか。もっとも意識があっても知能がそれに達していなければどうにもならないが。(10/16/2006)

 柔らかな秋の日射しを受けて、よちよち歩く子供の姿、バドミントンに興ずる若者の一団、可笑しいほどに等間隔に座るカップル、・・・、眺めつつ、ほとんど独り言のように、「二、三日前の夕刊に、黒井千次がね、書いてた。遠くを見なくなったって。それが、遠いものを見なくなったのか、遠くの方を見なくなったのか、どっちだかはっきりしないけど、昔は、もっと遠くを眺めていたような気がするって。そして、雲の話・・・」、思い出したように仰向けに転がると、空いっぱいにいわし雲。ふーっと、息を吐いて、また、沈黙。ゆったりした日曜の午後。季節も秋ならば、人生も秋。(10/15/2006)

 未だに北朝鮮の核実験を「確認」する国がない。一方、安保理決議は制裁内容を非軍事的な範囲に限定して成立する見込みとのこと。焦点は「船舶検査」の実施についての枠組み合意らしい。

 核の確認はできなくとも、「核実験をすると宣言し、安保理が議長声明により中止を求めたにもかかわらず、核実験を行ったと発表した」のだから制裁決議をするのだという理屈は理解できるけれど、それはあくまでも成否を問わず実体のある核実験を行った場合のこと。

 もしも核実験とはほど遠い代物だったとすると、制裁決議はよいとしても、船舶検査などの実行動にはどんな意味があるのだろう。政治戦略に溺れて、かえって自分の首を絞める北朝鮮は自業自得として、核開発の陰を追い求めて右往左往するアメリカ軍は相当の喜劇を演ずることになる。もっとも「幻の大量破壊兵器」探査に踊るのはもはやアメリカ軍の当たり芸、よっ、大統領。呵々。(10/13/2006)

 安保理の対北朝鮮制裁決議案が大詰めを迎えている。わずか一週間前には核実験宣言に対する安保理声明について喧喧諤諤の議論をしていた。

 我がマスコミは手綱を締める中国・ロシアをことさら強調するような報道ぶりだったが、ちょっと面白い舞台裏も紹介されていた。

 4日、安保理声明をまとめるために常任理事国と当番議長国の日本が集まった非公開協議の席上でのこと。中国から北京での駐在北朝鮮大使と中国当局の協議状況の報告があった後、ロシアのチェルキン大使が中国の動きを評価した上で「影響力のある国がもう一つある。米国はなぜ直接協議に応じないのか」と言った。これに対しアメリカのボルトン大使が凄まじい剣幕で噛みついた。チェルキンが「冗談だった」といなしてもボルトンの怒りはおさまらず、我が大島大使が「いまは安保理の結束が大事、きょうはこのへんで」引き取った。協議終了後、怒りを引きずって記者会見に臨んだボルトンは「北朝鮮が米国と対話したいのなら、(六者協議開催場所の)北京行きの航空券を買えばいい」と言い、ロシアと中国を念頭に「安保理は分裂している」と吐き捨てた。それを引き取ったフランス代表は「ここ数日で声明を出さなければならないという点では一致している。ボルトン氏の方が孤立気味だ。彼の言うとおり安保理は分裂しているが、14対1だ」と皮肉った由。

 ボルトン大使の「錯乱」の背景は他ならぬアメリカ国内に「詰まるところはブッシュ政権が北朝鮮との二国間協議に応じるかどうかにかかっている」、「敵と交渉することは譲歩ではないのだが、ブッシュはそんなことも分からないようだ」などの手厳しい批判が巻き起こっており、「六ヵ国協議」一点張りで北朝鮮の核武装を許してしまった不手際がクローズアップされつつあるからだろう。痛いところを突かれると感情的になるものだ。制裁決議をどれほど厳しいものにしたところで、いったん保有した核を北朝鮮が手放すはずもないのだから、結果において、ブッシュはクリントン以上に「無策」だったということ。

 ことここに至っては、ブッシュとしては北朝鮮の核実験が「ブラフ」であることをひたすら神に祈るのがよいだろう。望みなきにあらずだ。

 日ハム、プレーオフを制し、25年ぶりのリーグ優勝。(10/12/2006)

 きのう、「疑心暗鬼を生ず」と書いてから、なぜ「暗鬼」を生ずるほどの不安に駆られているのかについて考えてみた。インドやパキスタンが核実験を行ったとき、この国のマスコミはどのように報じたか。世界はどのように反応したか。安保理は制裁を含む決議まで考えたか。なぜ北朝鮮が核保有国になった(かもしれない)ということに大きな衝撃を受けているのか。

 まず日本に近いということがある。そして日本人は虐げた意識を隠し持っているが故に、いつかその仇討ちをされるのではないかというねじれた「被害者意識」を潜在的に抱いているということがある。(それはちょうど関東大震災直後、多くの人々がいともたやすく、「不逞鮮人が暴動を起した」というデマに囚われた心理に通ずるところがありそうだ)。

 しかし、それはこの国の「騒ぎ」の説明にはなっても、安保理の「騒ぎ」の説明にはならない。残された「疑心」は核兵器使用の可能性をめぐってのものだ。これまでの核保有国は核兵器を抑止力として位置づけることが暗黙の原理になっていた。つまり「抜かずの宝刀」だ。

 だが常識を持ち合わせない「ならず者国家」、北朝鮮には「核による抑止力」という「常識」などないかもしれない。「神学」はその道の専門家のあいだでは強固な理論として流通するが、神の存在などどうでもいい人々にとっては「ただの屁理屈」にしかすぎない。「核抑止論」も「神学」と同じ。

 こんなアネクドートがある。ある日、金日成が金正日に問うた。「息子よ、アメリカが共和国に攻撃を仕掛けてきたらどうする」。息子はこう答えた。「徹底的に戦います」。「アメリカは強いぞ、ミサイルもあれば、核もある」。「敵に屈するくらいならこの世界をなくしてしまいましょう」。

 これがジョークでなかったら「核抑止論」という「詭弁」は一気に正体を現してしまう・・・。その「疑心」が北朝鮮の核とインド・パキスタンの核との違いなのだ。そうと思ってみると、大騒ぎをしている国は核保有国と、仮想的な「核の傘」に守られていると思いこんで核保有国に金魚の糞の如く連なっている国ばかり。(10/11/2006)

 核実験を行ったと発表してから一日半以上経つにもかかわらず、どのくらいの規模のものであったかに関する各国政府と研究機関の見解はバラバラで、報ぜられるのは判断には時間がかかるものだということばかり。一部には実験は失敗だったという見方から、はなはだしいのに至ってはそもそも核実験のフリをしただけではないのかという見方まである。

 核実験をしたと偽っているケースを除けば論理的にはふたつ。実験が失敗だったか、あるいはもともと意図して小規模のものを行ったか。失敗だったなら安心ということにはならないが、一息はつけるかもしれない。だが、もしそれがもともとの意図だったとするとふたつの点で怖い。ひとつはミサイル搭載可能ということにつながること。もうひとつは限定された量の保有プルトニウムでもかなりの核弾頭が製造、配備できるということを意味している。

 一部の報道によればTNT換算で1キロトン以下の「核」の製造はかなり高度な技術を要する由。現在の北朝鮮がそういう技術レベルにあるとは信じがたいとしても、根拠を持って否定する話はまだ聞こえてこない。

 疑心暗鬼を生ずというが、まさにその気分。「花火を打ち上げた」と言うから目をこらしてみるが、かすかに音が聞こえたのみで花は咲かない。とすると、仕掛け花火の類か、あるいは線香花火なのか、と、勝手な想像ばかりが膨らんでしまう。いろいろの想像を生ませるのが狙いなのかもしれぬ。

 どこか「参拝したか、参拝しないか、明らかにしない」と言って、参拝して欲しくない者には参拝していないのだと思わせ、参拝して欲しい者には参拝しているのだ思わせて、曖昧の霧の中に逃げ込もうとしているどこぞの宰相の戦術に似ている。姑息な戦術こそ小人にとっては最上策。(10/10/2006)

 朝のラジオで渡部恒雄が面白いことを言っていた。「ニクソンだから、中国と国交回復ができたという言葉があるんですよ。民主党の親中派だったら国内の反共勢力が黙っていなかった。同じように、安倍さんだから、靖国参拝を曖昧にしても国内の保守派は黙っているというところがあるかもしれない」。なるほどそういう期待はできるかもしれない。

 ニクソンの例にもうひとつ加えるとすれば、「ドゴールだから、アルジェリアの独立を認めることができた」というあたりかな。そうそう「獅子王」は「大統領という地位が人間を変える」と言われたこともあったっけ。安倍にもそれを期待したいところだが、ジョージ・エイプ・ブッシュのような例もある。

 北朝鮮が核実験を行ったと発表。10時半頃に行われたとのことなのだが、現在に至るまで、核爆発があったのかどうかについて確定していない。

 推定マグニチュードの発表値も、韓国の3.58〜3.70、アメリカ地質研究所の4.2、気象庁の4.9とかなり大きくばらついている。そんな関係からか、TNT換算値も韓国の500〜800トンというのからロシア政府高官がのべた5〜15キロトンまで、相当に差がある。なによりγ線による電磁波の確認報告がないところが不思議。電磁波については空気中のチリの採取などと違い、ほとんど時間がかからないはず。アメリカがこのあたりについて判断を下していないのが気になる。

 武貞秀士の予測は半分あたり、半分外れた。あたったのは「必ず核実験をやるだろう」と言ったこと。外れたのは「今すぐに実験を行う可能性は低い」と言ったところと、韓国政府の反応。特に後者については太陽政策を含めて見直す可能性にまで言及している。

 それにしても、口を開けば「毅然として、必要な制裁を」と言っている連中が、ではどういう制裁かというとほとんど何も考えていない可笑しさ。北朝鮮対応を看板にして作った内閣ならば、具体策を聞かれて「いまは言えない」としか言わないのはどういうわけだろう。「言えない」ということは分かるが、せめて「火曜日の核実験声明の直後から、制裁を含む対策を種々検討し、規模内容別に*のレベルを設定し、その各々について*のプロセスを策定している。そのうち、どのレベルの何を行うかについて検討中である」くらいのことは言ってもらいたいところだ。二十面相は予告してきたのだ。明智探偵のように盗まれてから行動するなどというやり方は小説の中だけのことにして欲しい。(10/9/2006)

 きのうの続き。もし金正日が「狂った独裁者」ではないとしたら、経済・食料・エネルギーすべての点でプラスが見えていても、「合理的な」あるいは「意識的な」選択としてミサイルと核兵器開発をとるなどということがあるのか。それを考えているとき、配信されたまま放置していた日経BPネットメールの案内記事からその可能性のひとつにたどり着いた。記事はNBonlineの「核実験宣言、金正日が『今だ』と考えた理由」(2006.10.5)「北朝鮮、核実験へのシナリオ〜ワーストケースに備えよ」(2006.9.8)

 この記事で防衛研究所主任研究官の武貞秀士が言っていることは、ひとことで言うと、金正日が考えているのは「朝鮮半島有事のとき、米国を核で脅しながら傍観者にして、北朝鮮主導で韓国との統一を図る」ということ。「統一を目指す戦略に基づい」た「核兵器開発」であり、その線上で「大陸間弾道弾を作り、性能確認のためにミサイルの発射ボタンを押した」ということ。つまり、「戦略あってのミサイルテストであって、狂気でも、軍の暴走でもない」というのだ。これに続く武貞のシナリオで唯一「苦しい」のは南北の「連邦制統一」の部分だが、彼が指摘する次のような「雰囲気」があるとすれば可能性がないわけではない。

 韓国は金大中・盧武鉉政権を通して北への「抱擁政策」を取ってきたことがまずひとつ。そして、経済成長やワールドカップでの活躍、最近では国連事務総長を自国から出せることになったことなどで、民族的な自信を強めていることが重要な点です。企業で言えば「サムスンはソニーともう遜色がない。ヒュンダイのクルマも、トヨタはともかく日産あたりなら互角なんじゃないか」、そんな気分が横溢している。それが事実か否か、ではなく。
 日本は経済力が弱まり、存在感が小さくなった、と彼らには見える。実際には日本への依存度は変わらないのですが。米国はRMA(軍事革命)の導入で、大量の兵力を前線に張り付ける形を改め、結果、やはり存在感が薄くなる。一方でロシアが資源を手に誘いをかけ、中国が市場として爆発的に成長した。
 「同じ民族同士で北と融和し、日米に頭を下げるのをやめて、中国、ロシアとつき合えば、今まで以上にうまくやっていける」。これが韓国のいまの民情です。つまり、国の政策、民族としての自信に、国際環境の変化が加わって、韓国の国情は北との親和性を強めている。

 六ヵ国協議の場、安保理決議の場、それぞれにおいて中・韓・露、三国はずいぶん北朝鮮に甘いように見えた。朝鮮戦争以来の同盟国である中国、同一民族でありいつの日か分裂を解消して統一を実現しようと思っている韓国、その二ヵ国については分かるとしても、ロシアまでもが甘い理由はよく分からなかった。もし武貞が描いたシナリオが北朝鮮を囲む三つの国の暗黙の着地点だとすると、疑問は解消してしまう。

 思えば明治政府が成長のためのシナリオとして構想した舞台は朝鮮半島から始まっていた。日清戦争も日露戦争も朝鮮の植民地化を争って行った戦争であった。とすれば、北朝鮮に甘いロシア、北朝鮮の異常なほどの対米直接交渉(つまり中国がいない場での協議ということ)への希求、従来さんざん「解説」されてきた見方とは違う見方が成り立つことを意味していそうだ。

§

 安倍首相、訪中。よる11時からの首相の記者会見を見た。最初の記者会見は「しっかりと」が濫発されていたが、今晩は「一致した」がマイブームだったようだ。あんな風に特定の言葉を単調に繰り返すことに照れはないのだろうか。

 そして記者との質疑。最初が共同通信、次が中国のなんとかいう通信社、そしてTBS、続いてウォールストリートジャーナル。答えは分かっているから、もっぱら表情と視線に注目してみた。安倍が原稿に目を落とすことなく答えたのは中国の通信社のみだった。逆にベタベタに原稿を読み上げたのはウォールストリートジャーナルへ答えたときだった。宗主国のメディアへの答えに誤りがあってはならないということか。件の女性記者は日本語ができないようだったのに。

 しかしこういうのを記者会見、そして質疑と呼ぶのだろうか。どうだろう、「首相は一問一答ができないので、あらかじめ質問書を提出していただき、それにご返事を差し上げます」ということにしたら。(10/8/2006)

 北朝鮮の核実験声明が出てから考えていることがある。金正日のねらいはいったいどこにあるのかということだ。マスコミが流布しているのは金正日は「狂った独裁者」というイメージだ。なぜ「狂った」という形容詞がつくか。北朝鮮から7発のミサイルが発射された日、前首相は評論家のような口ぶりでこうコメントした、「どういう意図があるにせよ、北朝鮮にとってプラスはないんですがね」。首相の発言としては失格だったが、評論家の発言としてならば、平凡ながら、妥当なものだった。(それにしてもこの言葉、言ったのがコイズミだけに、ひどく嗤える。北朝鮮の外から見ればその通り。視点を変えて、日本の外から見れば、「どういう意図があるにせよ、日本にとってプラスはないんですがね、靖国参拝は」ということになるのだから

 「妥当」と書いたのは、ミサイルをやめ、核兵器開発をやめると宣言するならば、経済制裁は解かれ、経済援助も、食料援助も、エネルギー援助も得られる、つまり、北朝鮮にはプラスどころではなく、トリプルプラスな道が開かれることは間違いのないことと予想されるのだから、コメントとしては頷けるものだという意味だ。

 だが「平凡ながら」と条件をつけたのは、そんな素人でも予想できることをそのまま言うとしたらプロの評論家としては少し単純すぎないかとも思うからだ。プロならば、そんな当たり前の道をなぜ北朝鮮はとらないのかということに、あるていどの理由が見つけられなければ、恥ずかしいだろう。この国のマスコミの表層に浮かぶ泡沫評論家はその理由を「当たり前のことが分からないのは金正日が狂っているからだ」と説明する。

 しかし、どうだろう、「当たり前のことが分からないのは小泉純一郎が狂っているからだ」と言うことができるか。そう考えてみるとこれはあまりにご都合主義的な理由説明だと分かる。金正日が「狂った独裁者」ではなく「理詰めのナショナリスト」であると仮定すると、いま腑に落ちていない現象はもっとうまく説明できるのではないか。これが核実験声明が伝えられた日から考え続けていること。(10/7/2006)

 台風並みの風雨。行きもびっしょりなら、帰りもぐっしょり。往復どちらも土砂降りというのはめったにない。この時間もまだやまない。予報通りとすれば、300ミリ。この時期の一か月の総降水量をはるかに超える量とか。

 夕刊によると、あした10月7日はミステリー記念日の由。「1849年のこの日、エドガー・アラン・ポーが亡くなった。それがミステリーの記念日となったのは、彼の『モルグ街の殺人』を嚆矢とする説が有力だかららしい」とある。

 小学校の3年か、4年のことだった。**君(友人)の家から講談社の子供向け世界文学全集でポーの「黄金虫」を借りてきた。海賊の財宝のありかを示す暗号小説。一読して虜になったが残念ながら英語を知らない。だから「英語で一番多く使われる字はeだ」と書いてあっても、いまひとつピンとこない。本棚には亡くなった叔父の使っていた英和辞典があるから、時間さえかければなんとか解けるかもしれない。そう思うとなんとしても欲しくなった。単行本を買ってもらえるのは誕生日とクリスマスくらいのものだったが、その本はただの本ではないように思えて、ダメ元だと思いながら、恐る恐る**(母)さんに言った、「買って欲しい本があるんだけど」、「なんの本?」という反応。勇んで「ポーの『黄金虫』って本」、「図鑑?」、「そうじゃないんだけど」、「だから、どんな本?」、「探偵小説なんだけど」、「タンテイ?」、「うん」、「ダメ、そんな不良の本なんか」。それで終わりだった。

 いまでも、あの当時に「ミステリー」とか「推理小説」という洒落た言葉が使われていたら、買ってもらえたのではないかと思っている。(10/6/2006)

 休暇。**(家内)退院。9時過ぎに家を出る。**(母)さんにタヒボ茶を届け、新座に寄って洗濯物をセットし、10時過ぎに出発。雨は降っているし、五・十日だし、お昼過ぎになると思っていたが存外早く、11時半前に着いてしまった。**(家内)の病室でゆっくりお昼をとってから帰ってきた。さほど混んでいるところはなく2時半過ぎに帰着。一服してから、食材の買い出しなどをして、テレビのスイッチを入れると衆議院予算委員会質疑の中継をやっていた。生中継はなかなか面白いものだ。

 質問者は菅直人。イラ菅も相手が安倍晋三となると余裕、ネコがネズミをいたぶる調子で虐めていた。東工大対成蹊大、敵する能わずは当然の成り行きか。

 思い出す順に一部を書いておく。

 いわゆる「村山談話」について。「内閣として新たな談話を作るつもりはない」、「個人としても村山談話のとおりに考えているのか」、「(四の五のと原語明瞭・論理不明の言葉を並べたあげくに)国として示したとおりであると、わたしは考えている」と答弁した。おそらく、後日、「村山談話によって国が考えを示したとことがあったという経過的事実を認めただけで、内容まで踏み込んでそう考えていると答えたわけではない」とでも強弁するつもりなのだろう。サンケイ文化人がよく用いるいいわけだ。

 「従軍慰安婦」について。「狭義として強制だったかどうかについて疑問があるが、直接の強制ではなくても広義にはそのようなことがあったのではないかという話もあった」という答弁。ウロウロしゃべるものだから、途中で、「狭義」だの「広義」だのといい分けた理由がごっちゃになって、安倍自身、幾分混乱していると思ったに違いない。これなどは速記録を確認してみたくなる。たぶん、日本語の体をなしていなかったろう。

 もっとも苦しげに答弁したのは岸信介の戦争責任についてだった。身内のことと同情はするが、あの戦争に対する評価が絡んでいるのだから、苦しかったのも道理。菅に引きずりまわされたあげく、結局、「政治は結果責任だから、開戦詔書に副署したのは間違っていたことになる」と答えざるを得なかった。これも、後日、「結果が悪かったと言っただけのこと。志を間違っていたと言ったわけではない」と陳弁する予定の言葉と思われる。

 菅による一連の質疑の中で、安倍が、唯一、元気になった場面があった。中国との「政権分離」について菅がうっかり「経済はどうでもいいということか」と言った時だ。約一時間の質疑の中でほとんどこのときだけ安倍に笑いが戻った。勢い込んで立つや「どこに書いてありますか、そんなことはどこにも書いていない」と応じた。その口吻は子供の喧嘩の科白、「いつ、言った、何月、何日、何時、何分、何秒?」とたたみかけるあの調子に似ていて、出来の悪い坊ちゃんの面目が躍如していた。

 いいかい、晋ちゃん、菅のおじちゃんが言ったのはね、「経済を切り離して政治が語れるのですか、経済は政治にとってどうでもいいということですか」ということだよ。晋ちゃんには、もう少し丁寧に言わないと、分からなかったんだよね、菅のおじちゃんが悪かったみたいだ。注意してあげなくちゃね、晋ちゃんは、いい子だけれど、頭が不自由なんだから。

 イラ菅、あらため、イジ菅が、投げつけた言葉でいちばん痛烈だった言葉を最後に記録しておく。正確ではないが、こんな言葉だった。「安倍さん、あなたは『戦う政治家』でありたいと書いていらっしゃるが、どうもご自分の考えをはっきり言うことから逃げている、『逃げる政治家』ですね」。うまい、座布団、一枚、いや、三枚だ。(10/5/2006)

 きのうの夕方、北朝鮮が核実験を行うというステートメントを発表した。マスコミはほとんどがアメリカによる経済制裁が効いて音を上げた北朝鮮がアメリカとの差しの交渉を求めて切った、ほぼ、「最後のカード」と解説している。

 それはその通りなのかもしれない。領土・領海の外で実験をするというのならともかく、自国内それも地下で行うに際してわざわざ「核実験を行う」などと宣言する国も珍しい。予告なしに行い、然る後に「我が国は、本日、核実験を行い、実験は成功、我が国は核保有国となったことを宣言する」といえばそれですむのだから。「核実験を予告する声明」、どこか自殺を引き留めてくれるのを待っている自殺志願者のような匂いがすることは事実だ。

 しかし、そういう「カードゲーム」の戦局解説以上に知りたいことがある。それは北朝鮮の核開発がどのフェーズまで進んでいるのか、アラマゴルドの段階からミサイル搭載可能な段階までのどのあたりまで達しているのか、そのあたりについての専門家の見方が知りたい。つまり「カード」に印刷されしてあるのが「スペード」なのか、そして「エース」なのか、ということ。

 しかし、しかしだ、それにしても・・・と、あらためて思うこと。それは金正日はずいぶん安倍をアシストするものだなぁということ。7月のミサイル発射は福田の総裁選立候補を断ち切るように作用した。今回の核実験予告声明は週末の日中首脳・日韓首脳会談テーマから靖国・歴史認識問題を片隅に追いやるように作用するだろう。金正日は安倍晋三の子分なのか、それとも安倍晋三が金正日の子分なのか。(10/4/2006)

 きのうの代表質問。やはり安倍は「自民党専門家」であり、伝統的な「物言わぬトップ」タイプなのだと思った。

 前首相がなぜ「変わった」、「新しい」と思わせたか、その最大の理由は「自らの方針を積極的に自分の言葉で語った」ところにあった。それが「トップが説明責任を果たす」という最近のスタイルに実質はともかく形式的には符合していたからだ。会社に入った30年ほど前、トップといわずおよそ「偉い人」は明確に語らないのがこの国の基本的なスタイルだった。右に行きたいようにもとれるし、左に行きたいようにもとれるようなしゃべり方をするのが「偉い人」の語り口で、取り巻きの中で次を狙っている人が「こちらに行きたいとおっしゃっている」と方向を出すのがその頃のスタイルだった。

 ネクスト候補が複数いると面白い現象が起きる。「社長は右に行きたいのだ」、「違う、社長は左に行きたいのだ」、それぞれに主張し、それをテーマに権力闘争が行われ、時に矛盾した施策が実行され、やがて帰趨が明らかになった頃、社長がおもむろに「かねてからわたしが言っていたように右に行った結果、予想を超える成果を上げることができた。これも(わたしの指導のもと:さすがに普通の社長はこうは言わなかったが)社員一丸となって目標に向かったから達成できた」と宣もうて日々が過ぎていったものだ。

 安倍は「消費税」、「年金」、「格差」、「教育」、なにひとつとして自分の言葉では答えず、ひたすら文書を読み上げることに終始していたそうだ。前首相は、靖国参拝を除けば、短い言葉ながら自分の言葉で対応した。そのことが「物を言うトップ」であり、なるほど「自民党をぶっ壊す」のだなという実感を与えた。安倍にはそれができない。側近は「気が短いんだから、キレるな」といったそうだが、正確には「バカなんだから、答えるな」というのが正しいだろう。ちゃんと頭が回転していればキレることなどないものだ。頭が回転しないからキレるのだ。

 逆に「質問」の形式をとりながら雄弁に「政策を語った」のは新幹事長・中川だった。旗幟を鮮明にしない古いタイプのトップとその忠臣という感じにも見えたが、答弁書にすがるさまはバカ殿様そのものであり、中川はそれを支える老臣のようにも見えた。ニュースで見た嗤えた場面を記録しておく。忠臣・中川の「歳出削減というならばその見通しはいつ立てて、消費税率はいつまでは据え置くのか」というお手盛り質問に対し、バカ殿・安倍が「消費税に関する論議は来年の秋頃になるだろう」と答えた場面。歳出の削減は出たとこ勝負ではなかろう。その意味では消費税率を上げるのか(廃止することはないのだろうから)据え置くのかは決まっている。靖国参拝のように黒白を明らかにするのは「政策としては適当ではない」などという「詭弁的釈明」ですませられるものではない。「来年の秋」などと答弁書に書いてあるのは7月の参院選が終ったら「さあ、何%上げるか議論しよう」とあたかも「上げることはとっくの昔に決まっていた」ような顔をする予定だということだが、もたもたと精彩のないしゃべり方をするから、そのあたりのシナリオのカラクリがあからさまに見えてしまうのだ。「物言わぬトップ」なのか、それとも「バカ殿様」なのか、わが宰相は。(10/3/2006)

 夕刊の「思潮21」。きょうは寺島実郎。タイトルは「『時代の空気』について」、ごく平凡だが誤ってはならないナショナルな気持ちについての話。こんな書き出しだ。

 私にとって、故郷札幌の藻岩山は最高の山である。その麓に卒業した高校があり、青春の思い出と重なるからである。人間は自らの生まれ育ちに由来する思い入れを引きずる。

 藻岩は中学2年から高校卒業までの5年間、窓外の風景だった。家の自分の部屋からも、中学の教室からも見えた。旭丘はその裾野に建っていたから、まさに抱かれていた。札幌にいるあいだはさほど愛着を覚える山ではなかった。しかし、離れてみると心にしっかりと焼き付いており、訪れる毎、札幌に近づくにつれて無意識にまだ見えぬかと探す気持ちになる山だ。

 5月にいつものメンバーで飲んだとき、寺島実郎が旭丘の一期上だったと教えられた。あの下駄のような四角い顔つきが記憶にないのは不思議な気がしたけれど、時代と世界を見るにあたって同意できる言葉を語る寺島と自律的で自由だった旭丘の空気を共有していたという気持ちはほんのり暖かい。

 ここと思う部分を書き写しておく。

 戦後を生きた日本人は、少なからず寺山修司が「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」と詠んだ問いかけを自問自答しながら生きてきた。それは、決して祖国を愛さない「非国民」的な心象風景ではなく、むしろ「身捨つるほどの祖国」への希求を潜在させた熱い想いを象徴しているとさえいえる。戦後六〇年、封印されてきたナショナリズムが外部環境の変化にも触発されて解き放たれ、行き場を求めて彷徨っている。一人の大人として、若者に「国を愛すべきだ」と語るのではなく、愛するに値する国を創ることに責任を共有せねばならないと想う。

(10/2/2006)

 ほぼきのうと同じスケジュール。ただ割合たっぷり寝たせいか、さほど疲れは感じない。

 元プロレスラー高田延彦とタレント向井亜紀が渡米しアメリカ人女性に代理出産を依頼して生まれた子供の出生届を品川区が不受理としたことについて、東京高裁はおととい代理出産を認め品川区に対して出生不受理処分の取り消しを命ずる決定をした由。

 南敏文裁判官の決定理由。「民法は自然懐胎のみの時代に制定された。現在は人為的な操作による懐胎や出産が実現されるようになった」、「法制定時に想定されていなかったことで秩序の中に受け入れられない理由にはならない」とし、「夫妻が双子を実子として養育することを望み、代理母側はそれを望んでいない」以上、「夫妻を法律的な親と認めることを優先すべきで、子の福祉にもかなう」というもの。現実を見据えた上で最大限、法益を得られるように配慮した決定で評価したい。

 そうは思うものの、やはり大いに問題があると思う。まず、基本的には代理母に伴うはずの問題がひとつ。つまり高裁決定が前提として認めた「人為的操作による懐胎や出産」は疑いなく人間社会に受け入れられるものかということだ。

 そして、我が国の法体制下で認められていない行為をそれが許容される第三国で行い、その結果を我が国において「現実」として追認させることに対する違和感。夫妻がアメリカではなく中国ないしは開発途上国で代理母出産を行ったときも我々は同じように考えられるだろうか。

 少しドラスティックな思考実験をしてみよう。男系天皇に固執する場合、皇位の継承は常にかなりのリスクに晒されることになる。これに対する解決法は現在のところふたつの方法しかない。ひとつはかなり広範に宮家を認める方法、もうひとつは側室制度を設ける方法だ。前者は公的負担の点に、後者は特権的に一夫多妻制を認めるという点にともに難点がある。側室の現代的な解決方法として、東京高裁がいうところの「現在の進んだ技術」を利用してはどうか。つまり皇太子の精子を複数の代理母にばらまき、数人の男子を得るまで続けるのだ。さあ、このやり方、許容できるか。

 夫妻が納得すればよいこととそれだけではすまない皇統は別だという反論はあろう。しかし高田・向井夫妻が求めているのは代理母が産んだ子供を社会的に夫妻の実子と認めて欲しいということだ。二人が納得すればよいだけのことならば、養子にとればそれですむではないか。

 さあ、凱旋門賞。ディープインパクトの出走だ。(10/1/2006)

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