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歌と思い出 4

 1956〜1960年 20歳〜24歳

2000.07.08. 掲載
2008.05.05. 改訂
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1956 昭和31年 20歳 大学教養2年

この年に世間を驚かせたのは、当時一橋大学の学生だった石原慎太郎が書いた「太陽の季節」の芥川賞受賞だった。若い男の一物が、障子を突き破る描写に旧世代の人間は唖然とし、賛否が渦巻く中で、この小説に見られるような若者たちの生き方が、急速かつ確実に、勢いを得て行った。世間はかれらを「太陽族」と呼び、「慎太郎刈り」というヘア・スタイルも流行した。当時のアルバムを見ると、この私でさえ「シンタロー刈り」をしているのだ。

中野好夫は、文芸春秋2月号に「もはや戦後ではない」という題のエッセイを書き、これが経済白書でも使われたが、確かにわが国は、この頃から経済面でも新しい時代に突入し、「神武景気」を経験した。週刊新潮が創刊され、週刊誌ブームの先駆けとなった年でもある。

それにも増して大きなできごとは、この年にプレスリーが登場し、音楽の世界に革命的な影響をもたらしたことである。

個人的には、成人となった年であり、憧れの女性と映画をはじめて一緒に観た年であった。この頃一番影響を受けた書物は、世界大思想全集 フロイト「精神分析入門」河出書房 昭和31年8月刊である。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.オンリー・ユー Only You

  Only you can make this world seem right  ^FGez GGcz edB^G  ポップス

女性1名男性4名の黒人グループのプラターズが「あなただけが、この世を正しいと思わすことができる...」と唄ってヒットした曲である。単純明解な愛の歌で、何ともオーバーな表現と、ファルセットでの独特な節廻しに、不思議な魅力を感じた。そしてこの年、私にもオンリー・ユーという女性が現れた。昭和30年のところで少し書いたが、彼女は同じ大学の文学部仏文科の学生だった。美しいソプラノの声は、天使のものに聞こえた。

2.恋する女 A Woman In Love

  Your eyses are the eyes of a woman in love   eefedcBADFA   ポップス

映画「野郎どもと女たち」の主題歌で、ギャンブラーのマーロン・ブランドが、救世軍の娘ジーン・シモンズに惚れ込み、「お前の目は恋する女の目だ...」と歌いながら言い寄る歌。厚かましい行動にも関わらず、必死になっている真剣なまなざしが、このならず者にあったと覚えている。

3.ハートブレークホテル Heartbreak Hotel

  Well since my baby left me     ccccG_Bcz GcccG_B      ポップス

これはエルヴィス・プレスリーのデビュー曲で、「お前が私を捨ててから...」と唄って、全世界に衝撃を与え、ポピュラー音楽を大きく変えることになった曲である。私自身は、その前年の1955年に、映画「暴力教室」で聞いた「ロック・アラウンド・ザ・クロック」の衝撃の方が大きかったが、ブルース・フレイバーのあるこの曲も、ぞくぞくしながら聞いていた。

4.アイウォンチュー・アイニードゥユー・アイラブユー
   I Want You ,I Need You, I Love You

  Hold me close hold me tight     GAGEDEDC           ポップス

エルヴィス・プレスリーのデビュー第2弾のこの曲は、アメリカン・ポップスの原点とも言えるもので、ここにきてエルヴィスは、独自のポップス・スタイルを確立させたと言われている。「私をしっかり抱いて、私を強く抱いて...」と、あからさまに求めることばに呆れながらも、その気持が良く分かった。ハートブレークホテルなどと違って、メロディーが流れるように美しいラヴ・バラードである。南 正敏君などもよく唄っていた。

5.冷たくしないで Don't Be Cruel

  You know I can be found, sitting home alone     AEGGGAc   ポップス

私が家で一人寂しく座っているのを、あなたは知っている...」と唄うこの曲は、エルヴィス・プレスリーの代表的ロックン・ロール・ナンバーである。そのビートの効いた、わくわくする軽快な歌いぶりに、私たち若者は魅せられてしまった。それはまさに、若者のための音楽の誕生だった。エルビスの登場は、時を同じくして世界中に広がったマンボ・ブームや太陽族の出現とともに、戦前の価値観の崩壊、戦後派若者たちの台頭を告げる、輝かしいファンファーレだったのである。もちろん、それに対する世間の目は冷たかった。

6.アイル・ビー・ホーム I'll Be Home

  I'll be home my darling     EGcBcGE             ポップス

いとしい人よ、家に戻るから...」と、甘く唄うパット・ブーンのこのロマンチック・バラードは、エルヴィスと対照的な品のある唄い方で、PTAご推薦だった。それに対して私は反発して、余り好きになれなかった。しかし、世間では激しいロックン・ロールよりも、このようなロカバラードの方に人気があった。

7.マック・ザ・ナイフ(モリタート) Mac The Knife (Moritat)

  Oh, the shark has pretty teeth, dear     EGAAz EGAA    ポップス

この歌は元々、1928年にベルリンで上演された「三文オペラ」主題歌である。作曲者のワイルは、33年に米国へ亡命、54年にオフ・ブロードウエイで認められた。この曲はジャズ・ヴォーカルとしてもよく歌われる。「鮫はきれいな歯を持っているが...」で始まるこの歌は、テンポの速い、楽しい曲で、つい身体がスイングしてしまう。ボビー・ダーリンやプラターズのほかに、サッチモも唄っている。

8.トゥルー・ラブ True Love

  I give to you and you give to me     GGGccBA^FAG     映画音楽

映画「上流社会」の主題歌で、ビング・クロスビーと、のちのモナコ王妃グレース・ケリーがデュエットで「私はあなたに、あなたは私に、まことの愛を捧げあおう...」と唄う。この映画には、フランク・シナトラもサッチモも登場した豪華メンバーだった。

9.ハイ・ソサティ・カリプソ「High Society Calipso」

  Just dig that scenery floatin' by     GCDEFEDFB,       映画音楽

これも映画「上流社会」の中に出てくる音楽で、ルイ・アームストロング・オール・スターズの演奏に乗って、サッチモが粋に、「In High, High So..., High Soci..., High Society」唄うところが良かった。

10.恋に落ちた時 When I Fall In Love

  When I fall in love it will be forever     G,CFECG,CFECD   映画音楽

映画「零号作戦」の主題歌。ナット・キング・コールが歌ってヒットした美しいラヴ・バラードで、「私が恋に落ちるときは、その恋は永遠に続くだろう...」と、コールらしくムードたっぷりに唄っている。このころ、私は初めて恋を知った。

11.メモリーズ・オブ・ユー Memories Of You

  Waking skies at sunrise     G,A,A,A,B,B,B,CEGd       映画音楽

映画「ベニー・グッドマン物語」の中で、ベニ―が後に妻となるアリスに向かって、愛を込めてクラリネットで演奏するこの曲が、くり返し演奏された。この曲自体は1930年に発表されたもので、この曲が発表された年にサッチモが録音した、「日の出の空が、そして毎日の日暮れが、貴女の思い出を呼び起こす...」とヴォーカルの入ったCDを持っている。

グレン・ミラー物語」を神戸の新開地の映画館で観て感激した話を、昭和29年のところで書いたが、この「ベニー・グッドマン物語」は、神戸の三宮の映画館で、K.Jさんと観た。この映画の方が「グレン・ミラー物語」よりも洗練されていて、アリスを演じたドナ・リードが、ジューン・アリスンに劣らず可愛かったのを思い出す。ハリー・ジェームス、ライオネル・ハンプトン、ジーン・クルーパなども出演していて豪華メンバーだった。

12.慕情 Love Is A Many-Splendered Thing

  Love is a many splendered thing     cABcABGE       映画音楽

ウイリアム・ホールデンとジェニファー・ジョーンズが主演した映画「慕情」のテーマ曲で、「恋は多くの素晴らしいもの...」と唄われた。アメリカのポピュラーソングの中で、これほど情熱的に愛の素晴らしさを唱った曲は、他には無いのではなかろうか?この曲は、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」の中で歌われるアリア「ある晴れた日の」に似ていると言われる。この映画は香港を舞台にしているので、長崎を舞台にした「蝶々夫人」を意識したところがあるのかもしれない。

この曲はフォー・エイセスのコーラスでヒットしたが、マット・モンローの堂々とした唱い振りの方が遥かに良いと思う。昔、加山雄三が紅白歌合戦でこの曲を唱ったことがあった。それまで余り歌がうまくないと思っていた彼が、この曲を格調高く唱い上げるのを聞いたとき、いささか感動し、彼を見直すきっかけともなったことを思い出す。

13.ケ・セラ・セラ Que Sera, Sera

  When I was just a little girl     CDEGEGEG         映画音楽

ヒチコック監督の映画「知りすぎた男」の主題歌で、「私が少女だった頃...」とドリス・デイが歌った。3拍子の軽快なメロディで、私もよく鼻歌で歌う。「ケ・セラ・セラ」とは、モロッコの方言で、なるようになるという意味らしい。私は人生に対処する方法をこの曲から学んだように思う。あるいは、自分の生き方と同じだと共感したのかもしれない。

この歌のほかにも、ダークダックスの「くよくよするな、気にするな、くよくよしたって始まらない。果報は寝て待て、待てば海路の日和もあるものを...」や、ビートルズの「レット・イット・ビー」、カンツォーネの「ケ・サラ」も同じような歌だと思っている。今月に入って(2000年6月)もう一つ、同じ内容の歌を知った。劇団四季によるミュージカル「ライオンキング」の中で唄われる「ハクナ・マタータ」(Hakuna Matata)で、「くよくよするな」という意味だという。

14.夜も昼も Night And Day

  Night and day you are the one     GGGFE^DE        映画音楽

コール・ポーターのこの名曲を、私はビング・クロスビーが歌うSp盤で聞いてよく知っていたが、ここに持ってきたのは、I.Yさんと見た映画「夜も昼も」の主題歌だからだ。

大学に入ってからは、昼休みに大学に出てきてコーラスの練習をするほか、講義にはほとんど出なかった。しかし、一つだけ必ず出るのが「論理学」の講義で、これがある日は、昼休みにコーラスの練習をして、そのあと、この講義を受けてから彼女と一緒に帰るのだった。

彼女の家は高槻、私は神戸なので、阪急宝塚線の石橋から十三まで一緒だが、ある日途中下車をして、庄内の場末の汚い映画館で観たのが、この映画だった。

15.シャル・ウイ・ダンス Shall We Dance

  Shall we dance ?     E^DEG,G,G,              映画音楽

次に彼女と観たのは、ミュージカル映画「王様と私」で、これは梅田の北野劇場だったと思う。とにかく、今度はロード・ショーだった。

90年の3月に、フェスティバル・ホールで公演された「王様と私」を妻と観た。王様役はステイシー・キーチ、アンナ役はメリー・ベス・ペイルで、舞台で見るこのミュージカルはやはり素晴らしかったが、それでも、昔映画で観たときの印象の方が強烈だった。

98年の7月には、飛天で東宝ミュージカル特別公演の「王様と私」を妻と観た。王様役は高嶋政宏、アンナ役は一路真輝で、舞台が華やかで素晴らしかった。日本語でのミュージカルは、本場のものとは違う分りやすさがあるためか、これまで2回もこの「王様と私」を見ているというのに、ストーリーを余り覚えていなくて愕然とした。

16.シックスティーン・トン Sixteen Tons

  Some people say a man is made out of mud    AcAcAEAAAE   C&W

テネシー・アニー・フォードが炭鉱夫をテーマにして、「ある人は、人間は泥でできていると言う...」と低いバリトンで歌ってヒットした。プラターズも歌っていて、むしろこちらの方が日本では有名である。

17.デービー・クロケットの歌 Ballad Of Davy Crockett

  Born on a mountain top of Tennessee     CCDEDCG,A,CG,    C&W

ディズニーTV西部劇「鹿皮服の男」の主題歌で、主演のフェス・パーカーが「生まれはテネシーの山の中...」と唄ってヒットした曲。クロケットというのは、いつも鹿皮服に身を固め、洗い熊の帽子をかぶり、テキサス独立戦争に参加して、アラモ砦で戦死したアメリカの国民的英雄である。

この頃の国際楽譜出版社から出ている楽譜集には、この曲の譜面の横に、鹿皮服姿のジョン・ウェインの写真が載っていて、何時かこんな服を着たいと思っていた。息子が小学5年の頃、ピアノの発表会に出るとき、西部劇スタイルのひだひだのたくさん付いた皮のベストを着せたのは、その願望の表れかもしれない。

18.ジェルソミナ Gelsomina

  Dans une roulotte sur le grand chemin   GGGGEz EEEEC   カンツォーネ

イタリア映画「」の中で、トランペットの奏でる物悲しいメロディーが流れたが、その主題曲に歌詞がついて、カンツォーネとなった。ジェルソミナというのは、野獣のような大道芸人の大男に、乱暴に扱われながら、神のような清らかな心を持った白痴の女である。この曲は当時のヒット・パレードに長く登場していた記憶がある。

19.マンボ・バカーン Mambo Bacan

  la la la la la la la la mammbo mambo   GAcBAGFDCEAG   カンツォーネ

イタリア映画「河の女」の主題歌で、主演のソフィア・ローレンが歌ってヒットした。当時ペレス・プラードがマンボ王として君臨し、世界的にマンボ・ブームだった。この映画で、ソフィア・ローレンはスターとなった。彼女の顔が画面一杯に大写しとなり、その豹のような野性的な大きな目で見つめられると、ドギマギしてしまったことを今も覚えている。「バカーン」はスペイン語で、豚肉や唐辛子、野菜などをバナナの葉で包んだ料理の名前だという。

20.ドライ・ボーンズ Dry Bones

  Ezekiel connected them Dry bones, Ezekiel connecte them
                     G,CCG,CG,Cz EC^CDD^CD^CD  洋楽 雑

デルタ・リズム・ボーイズのコーラスでヒットしたニグロ・スピリチュアル。預言者エゼキエルが見たという「枯れた骨の復活」の奇跡を描いたもので、男性コーラスの面白さ、楽しさを満喫させてくれる歌である。途中2小節ごとに半音づつキーを上げながら、足の骨から頭の骨まで数え上げ、また半音づつ下げていくのが何ともいえぬ趣があり、阪大男声合唱団でも歌ったことがある。


1957 昭和32年 21歳 大学専門1年

この年、大阪梅田1番地に阪神百貨店が開店した。当時大阪にある百貨店は、いずれも戦前からの建物だったが、この新しいデパートは明るくモダンで、私はすっかり気に入ってしまった。特に2階にある丸善画廊喫茶から見下ろす景色は、まるで外国映画に出てくる感じで、大学からの帰り道に、友人たちとここへよく立ち寄ったことを思い出す。

音楽では、ロックンロールの激しいビートに強烈なインパクトを受け、既成の規範に対する反抗のような気持でこれを聞いていたような気がする。しかし、その一方で感覚的にはスローなロカバラードの方を好んでいたようだ。この年の音楽上での新しい波は、ハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」に始まるカリプソ・ブームの到来だろう。

個人的には、医学部の専門課程に進んだ年であり、恋文を交わし始めた年であった。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.喜びも悲しみも幾歳月

  おいらみさきの とうだいもーりーは   AABcAcB^G^G^GABAcBA   歌謡曲

映画「喜びも悲しみも幾歳月」は、監督木下恵介、主演高峰秀子で、灯台守りの質素な生活と夫婦愛の感動的な物語だった。軍歌調のこの主題歌を、若山彰はバリトンで、力強く堂々と歌い、まことに、この映画の内容にふさわしかった。この映画を、今は亡き友人野中清也君と観たのを思い出す。

私はこの年の4月から、中之島にある医学部専門課程に進んだ。これまでの2年間は教養課程で、医学とは直接関係はなかったが、いよいよ医学を学ぶことになり、興味津々であった。I.Yさんは文学部の専門課程で石橋に残り、私の方は中之島と、離れ離れになったが、この時から文通が始まった。週に2〜3回手紙を交わすことが1年以上続いたのである。私の文章がいくらかましだとしたら、また、文字もいくらかましであるとしたら、この時の経験が関係しているのかもしれない。

この年、田宮虎彦が亡き妻と交わした書簡集「愛のかたみ」が刊行され、私も愛読した。今それを手にしてみると、光文社昭和32年4月刊とある。田宮虎彦が高校(神戸一中)の先輩だからというよりも、愛の書簡集だから興味があったのだろう。

2.有楽町で逢いましょう

  あなたをまてば あめがふる         A,CEFECA,DFA^GAE   Jポップス

関西から初めて都心に進出した、そごう百貨店のCMソング。フランク永井が、低いバリトンで、甘くささやくように唄い、ジャズ風フィーリングのただよう曲だった。夜行寝台列車「明星」で上京した時、この歌に誘われて有楽町へ行き、日劇ミュージックホールでヌード・ショーを観劇したのを覚えている。

3.タミー Tammy

  I hear the cottonwoods whisp'rin' above     CEGB,EGcAcG   ポップス

映画「タミーと独身者(本邦未公開)」の中で、主演したデビー・レイノルズが「ハコヤナギがささやいているのが聞こえる...」と唄った主題歌。はじめてダンスに行った時に、覚えたワルツがこの曲だった。一生懸命練習をしたのに、実戦に余り出られず、そのうちダンス・パーティーに行くのを止めてしまった。

4.霧のロンドンブリッジ On London Bridge

  I walked on London Bridge last night     cBGAEGCE     ポップス

ジョー・スタッフォードが、勇ましいトランペットボイスで「昨夜ロンドン・ブリッジを歩いた...」と唄った。この曲は江利チエミのカヴァーもあり、かなりヒットした。晩秋から冬にかけてのロンドンの霧は有名なので、日本語題名に「霧の」という修飾がついたのだろう。

5.ビー・バプ・ア・ルーラ Be-Bop-A-Lula

  Well Be-bop-a-lula, she's my baby     cccG_Bccc_Bc     ポップス

降って沸いたようなエルヴィス・プレスリー人気に、キャピトル・レコードが発掘したロックン・ロール・アーチストがジーン・ヴィンセントだった。「ビー・パプ・ア・ルーラ あの娘はおれのもの...」と独特のギクシャクした唱法で唄ってヒットした。

6.監獄ロック Jailhouse Rock

  The warden threw a party in the country jail     ^D^DECA,CDCA,CC^D
                                     ポップス

看守が刑務所の中でパーティーを開いた...」とエルヴィスが歌い、踊る映画「監獄ロック」の主題歌。巷にこのエネルギッシュなロックン・ロールが流れると、ちょっと不良っぽい気分になって、ビートに身体を合わせていたが、今でもこの曲を聴くと自然と身体が動き出す。

7.ロック・アンド・ロール・ミュージック Rock And Roll Music

  Just let me hear some of that Rock and Roll Music
                    _B_B_B_B_B_B_B_BAGEGA   ポップス

ビートルズやローリング・ストーンズなどの、イギリスの若手ロック・グループに最も影響を与えたと言われるチャック・ベリーが、「ロックンロールミュージックを聞こう...」と唄ってヒットした歌。

8.砂に書いたラブレター Love Letters In The Sand

  On a day like today We passed the time away
                       A,_A,G,CEGz ^GAAFDA,   ポップス

映画「砂に書いたラヴ・レター」に主演したパット・ブーンが、「今日のようなある日、私たちはひと時を過ごした...」と唄ったこの曲は、1931年の作品のリバイバル・ヒットである。曲は良いのだが、唄っているブーンがエルヴィスに対抗して登場して来たこと、優等生といった容姿やふるまいであること、甘ったるい唄いかたも気に入らず、今でも、もう一つ好きになれない。

9.やさしく愛して(ラブミーテンダー) Love Me Tender

  Love me tender, love me sweet never let me go
                        G,CB,CDA,DCB,A,B,C   映画音楽

映画「やさしく愛して」の中で、エルヴィスは「やさしく、甘く愛してくれ、決して捨てないで...」と唄った。原曲はジョージ・R・プールトンの「オーラ・リー」と言われている。ハート・ブレイクホテルなどの速いテンポのR&Rが得意だったプレスリーにとって、この単純なスロー・バラードの曲は勝手が違い、歌い辛らかったとの話を聞いて、そうだろうと納得していた。

ところが、最近、彼について書かれた書物を読むと、彼は昔からカルーソーのレコードを愛聴し、オペラも好きだったことを知り、うわさというものがいい加減で、作り話が多いことを改めて感じている。

10.魅惑のワルツ Fascination

  It was fascination I know     B,CEGcBcB            映画音楽

オードリー・ヘップバーン、ゲイリー・クーパー、モーリス・シュヴァリエ主演の映画「昼下がりの情事」の中で、ジプシー楽団の演奏したテーマ曲。1904年に作曲され、シャンソンとしても愛されていたが、映画公開時にジェーン・モーガンが「それは魅惑だった...」唄い、ヒットした。

11.いるかに乗った少年 Boy On A Dolphin

  There's a tale that they tell of a dolphin     ABAABAABAA   映画音楽

アラン・ラッドとソフィア・ローレン主演の映画「島の女」の主題歌。原曲はギリシャの「ティナフト」という歌で、映画の中ではジュリー・ロンドンが、「これは、人びとが、いるかについて語り伝える物語...」とギターの伴奏でしっとり唄った。エキゾチックで、流れるようにきれいなメロディーである。

12.バイ・バイ・ラブ Bye Bye Love

  Bye, bye love, Bye bye happiness     FFEFFEDC         C&W

恋よさらば、幸せよさらば...」という歌で、エヴァリー・ブラザーズの名前を高めた曲である。南 正敏君がギターを弾きながらこの曲を好んで唄っていた。それを聞きながら、南は失恋したようだと思っていた。3年ばかり前から彼との交流が戻り、そのことを尋ねたら、そうであったような、なかったような返事だった。とにかく、私たちは青春真っ只中にいたのである。

13.ヤング・ラブ Young Love

  They say for every boy and girl there's just one love
                          EEEEEEEEEEEEEEEEE   C&W

映画「ヤング・ラブ」の主題歌で、ウエスタン歌手ソニー・ジェームズが「どんな男の子や女の子にも、ただ一度の恋はあるものだ、と皆は言っている...」と唄ってヒットした。これも南君が好んで弾き語りしていた。ソ ミミミミ ミミミミ ミミミミ ミミミミと「」だけの16個の音符が最初の2小節を独占するという、今まで聞いたことのないお経のような出だしに呆れてしまったが、聞いているうちに味の出てくる不思議な曲だった。

14.バナナ・ボート Banana Boat(Day-O)

  Day-o, Day-o    cGz BAGE               ラテン・ハワイアン

この年、ラテン音楽の新しい流れ「カリプソ」が広まった。そのきっけとなったのが、「デーオ、デーオ、日の出だ、家に帰ろう...」と、ハリー・ベラフォンテの唄ったこの歌である。日本では、四条畷出身の浜村美智子がこの曲を唄い、独特のヘア・スタイルからカリプソ娘と呼ばれ、カリプソ・ブームを巻き起こした。

小児科の助手に、このカリプソ・スタイルの女医がいて、西沢教授の講義のときには、いつもその異様な頭で教室の壁の横に立つのだが、あの気難しい教授がそれをとがめないのが不思議だった。この教授のもう一つの不思議は、180センチ近くある大男で、鬼のような恐い顔をしているのに、診察を受ける子どもが泣かないことだった。私たちは、恐くて泣くこともできないのだろうと噂し合ったものだ。


1958 昭和33年 22歳 大学専門2年

この年、五味川純平の「人間の条件」1〜6巻が出版され、夢中になって一気に読み通してしまった。このような経験は、以来久しくなかったが、昨夏(99年)宮城谷昌光の「太公望」3巻を一日一巻のペースで一気に読み終えたとき、今でも小説に対して40年前と同じ興奮状態になれるということが分って無性に嬉しかった。

音楽はというと、日劇で「ウエスタンカーニバル」が開かれ、またポール・アンカが「ダイアナ」を引っさげて、16歳でデビューし、ロカビリー・ブームが爆発した年である。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.星は何でも知っている

  ほしはなんでも しっている     A,CDEEEEDCB,A,G,A,       Jポップス

この曲から日本のポピュラー音楽はスタートした、という人がいる。ロカビリーのアイドルであった平尾昌晃がこの曲を歌った。現在兵庫医大婦人科教授の竹村 正君の家を訪れ、彼のバイオリンと私のギターで合奏したことがあった。その途中で、この曲を弾こうと譜面を取り出したら、クラシック音楽を愛好する真面目な彼が困惑した表情で、このメロディーを弾いてくれたことを思い出す。彼のバイオリンの伴奏者が、私の小学校の同級生で、私が学芸会で独唱する時に何時も伴奏をしてくれたF.Eさんだとその時に知って、世の中の狭さを思った。

2.砂山

  うみはあらうみ むこうはさどよ     A,A,CEFECEz EAAABAFDE   邦楽歌曲

医学部のグリークラブは、阪大男声合唱団と違って音楽的にはあまりレベルは高くなく、学園祭の少し前に駆り集められて、練習をするようなコーラスだった。そのグリークラブに、どういうわけか読売テレビから出演の依頼があり、11月の文化の日をはさんで1週間、毎朝15分ばかり歌ったことがある。当時、ビデオは未だなく、録音テープに合わせて、口をパクパクさせていたような気がするが、あるいは録音テープもなくて、ぶっつけ本番だったのかもしれない。我が家には、その頃まだテレビはなく、家族はお隣でその出演を見ていた。

その時に歌った曲の一つが、この「砂山」で、北原白秋の詩に、中山晋平が童謡風な長調の曲をつけたのに対して、山田耕筰は哀愁をたたえた歌曲調のこの曲を作った。その読売テレビの横の空き地で、フラフープをして遊んでいるこどもたちがいたのをなぜか思い出す。当時一緒に出演した五十嵐暢君も、亡くなってもういない。

3.ダイアナ Diana

  I'm so young and you're so old     EEEEEEE          ポップス

僕は非常に若いし、君ははるかに年上だ...」と自作の曲を自分で唄ってデビューしたポール・アンカはわずか16歳だった。シンガー・ソングライターの登場である。軽快なロックンロールのリズムのこの曲はたちまちヒットした。平尾昌章もこのカヴァーで、「君は僕より年上と、まわりの人は言うけれど...」と唄って、これまたヒットした。

4.きみは我が運命 You Are My Destiny

  Destiny, you're my destiny     EEEEFE             ポップス

ポール・アンカの自作自演第2弾で、「さだめ、君はわがさだめ...」と唄うこの曲もまた大ヒットした。この曲を六甲山の下りケーブル・カーの中で聞いている情景が頭に浮ぶ。夏になるとよく六甲山に登ったが、この時は中学時代の友人たちと一緒だったのだろう。ミッキー・カーチスがこのカヴァーを唄った。私もこの歌が気に入っていた。しかし、間もなく聞くのも嫌になってしまった。そのわけは、ポール・アンカが来日し、日本の多数の若い女性ファンとご乱行に及んだことを知ったからである。

5.大いなる西部 The Big Country

  Another day, another sunset     GEGCDCDEC          C&W

グレゴリー・ペック、チャールトン・ヘストン主演、ワイラー監督の映画「大いなる西部」のメイン・テーマで、映画にマッチした素晴らしいこの音楽は、ラジオのヒット・パレードを賑わせた。本来はインストゥルメンタルの曲であるが、歌詞がつけられ、歌となった。この映画も、今は亡き野中清也君と観た。

6.河は呼んでいる L'Eav Vive

  でゅらんすがわの ながれのように     ECECECD          シャンソン

フランス映画「河は呼んでいる」の主題歌で、作曲者ギー・ベアール自身が歌い、ギター演奏も効果的だった。私は主演のパスカル・オードレにぞっこん惚れこんでしまった。さくら銀行のイメージキャラクターが誰かに似ていると思ったら、彼女の娘だったが、母親の方が良い。これまでの人生で一番可愛いと思った女優はこのパスカル・オードレ、一番美しいと思ったのは「シーザーとクレオパトラ」に出たときのヴィヴィアン・リー、一番憧れた女優はイングリッド・バーグマンである。

この曲のカヴァーを、中原美紗緒は可愛く澄んだ清潔な声で唄って、こちらもたいへん素晴らしかった。「デュランス川の流れのように、小鹿のようなその脚で、駆けろよ、駆けろ、可愛オルタンスよ...」映画の情景が目に浮ぶような良い訳詞だった。

そのほかにもフランス映画では、この年公開された「死刑台のエレベーター」の音楽を、モダン・ジャズの名トランペッター、マイルス・デヴィスが担当し、素晴らしかった。ヌーヴェル・ヴァーグ第1作にまことふさわしい曲だったが、これには歌はない。

7.ヴォラーレ Volare

  Volare, oh!oh! cantare oh!oh!oh!     edAed        カンツォーネ

シンガー・ソングライターのドメニコ・モドーニョが唄って、第8回サン・レモ音楽祭で優勝した曲。「ヴォラーレ」とはイタリア語で「飛べ」という意味らしい。青空の中をどこまでも高く飛んでいく夢を見た、と恋を得た喜びを唄っているようだ。いかにもイタリアらしい、明るい恋のうた、新しいカンツォーネの登場であった。

8.美しい五月に Im Wunderschoenen Monat Mai

  Im wunderschoenen Monat Mai     EEDDFA,B,C       洋楽歌曲

これはシューマンの歌曲集「詩人の恋」の最初の曲で、「素晴らしくも美しき五月、すべての花が咲くとき、私は恋をした...」という愛の歌である。私はこの歌を、組織学の実習で顕微鏡を見ながら、ノートに書きつけていた。私の様子がおかしいと思ったのか、近くにいた内藤泰顕君(現在和歌山医大第一外科教授)がノートを覗き込み、たしなめられたことを思い出す。私もまた、その頃はこの歌の状態だった。

この年の秋ごろから、彼女とやりとりする手紙の中で気持のくい違いが出てきて、日増しにエスカレートして行き、最後は喧嘩別れとなってしまった。何が原因だったのかはよく覚えていないが、彼女が実存主義的な発想をするのに対して、私の方は単純な左翼的な考えかた、精神分析などを含めた心理学的な発想をして、それが全く相容れなかったのではないかという気がしている。

彼女との2年余りの交際で得たことは、1)恋の喜び、苦しみを体験できたこと、2)手紙での論争は不毛であることを知ったこと、3)ベアトリーチェは自分が作った偶像であることが分った、つまり女性からの解放という三つに総括できる。思春期のころから、知的で美しい何人かの女性に対して、私は密かにベアトリーチェと名付け、恋焦がれ、尊敬してきたのが間違っていたことを知ったのである。

この年、光文社から、いぬい・たかしの「女からの解放−男性白書−」が出版されたが、まさに、時宜を得たというべき内容で、私は女性に対する幻想からすっかり解放されたのである。今、それを手にしてみると、何回も読んだ手垢に薄汚れている。

その年の秋だったと思う。裏庭で、100通くらいの手紙と、旅行をしたときの写真など、彼女に関係するものを一切焼いて処分した。涙がこぼれたが、未練はなかった。昔から好きだった色の浅黒く、知的な女性を、この時から、逆に嫌いになった気がする。


1959 昭和34年 23歳 大学専門3年

この年の3月に、医学部歯学部以外の学部の友人たちは卒業し、就職していった。彼らの初任給が1万円であるのに対して、その頃売り出されたトヨタのトヨペット・クラウン(ドアが観音開きだった)の値段は100万円だったのが印象的だった。この記憶のため、それから3年たってインターン時代に自動車の運転免許を取った時には、いま暇があるから免許をとっておくが、一生自動車を持てる身分にはなれないだろうと本気で思っていた。

4月には、皇太子が正田美智子さんと結婚され、その実況を見ようとテレビ受像機が一気に普及したのは有名な事実で、我が家もその時に購入したと覚えている。

音楽関係では、トリオ・ロス・パンチョスの来日公演が私にとっては最大のできごとだった。そのほか、キングストン・トリオの「トム・ドゥリー」はフォークの流行を予告し、ミーナ、ドモーニョなどによって、カンツォーネはもう着実に根を下ろしはじめた。その一方で、この年の12月に初めてレコード大賞が制定され、日本のポップスがこの頃から大きく飛躍発展しはじめた。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.南国土佐を後にして

  なんごくー とさーを あとにーして     EEEEFEECB,A,AAFEDFE   歌謡曲

ドミノ」と「火の接吻」でデビューし、ジャズを歌って来たペギー葉山は、この曲を唄うのにためらいがあったという。ところが、民謡調のこの曲をペギーがジャズフィーリングでさらりと唄ったところ、予想外の好評で、彼女のイメージ・チェンジとなった。

2.人生劇場

  やーるとおもえーば どこまでーやるさ   CB,A,A,A,CEEFEAFBAFE   歌謡曲

私は元来演歌が生理的に合わない体質だが、この曲だけは、時々唄うことがある。よりによって、こんなド演歌をなぜ?と自分でも不思議に思うが、相撲が好き、時代劇が好き、西部劇が好きという性癖は、案外根っ子の部分が共通しているのかもしれない。「やると思えば、どこまでやるさ、これが男の命じゃないか」という歌詞が好きだ。

この歌を、田中角栄も好んだらしい。山下元利に「元、人生劇場をやろう」とよく歌わせたという。それを知って角栄に親近感を覚え、「メシも仕事も早い、...一生の間理想を追っても結論を見いだせないような生き方はキライだ。すべてのことにタイムリミットを置いて、可能な限りの努力をするタイプなんだ」という田中語録を読んで、その点ではまったく同じであると思った。

...をしないと、男がすたる」という言葉も、私はよく口にする。この間、息子圭の口から同じ言葉が出たのを聞いて吹き出してしまった。しかし、なぜか嬉しくてじーんと胸に来るものがあった。

3.古城

  まつかぜ さーわーぐ おかのーうーえ   EEEEEFEDFEz CCCEA,CB,   歌謡曲

荒城の月の現代版として作られ、三橋美智也が唄ってヒットした格調高い日本的な歌である。同じ医師会の松木康先生が、カラオケでこの曲をリクエストされたのを覚えている。確かに「荒城の月」に少しムードは似ているが、やはり格調は少し低いと私は思う。

4.黄色いさくらんぼ

  わかいむすめが うふん     EGGAAccz EG            Jポップス

スリー・キャッツが唄ったこの歌は、明るくてコケットリーなお色気があり、いままでの歌謡曲にはないタイプだった。第1回レコード大賞では最後まで「黒い花びら」と入賞を争ったが、「ウッフン」という声は品がないという理由で落とされたと聞く。作曲の浜口庫之助は「僕は泣いちっち」のような変な歌を作る人と思っていたが、この曲あたりから少し見直しはじめていた。

この頃テレビで「ライフルマン」という西部劇が放映され、私は好きで良く観ていた。その主題歌もすごく良かったが、浜口庫之助の作曲だった。「どこからやって来たのやら、いかつい顔に優しい目、こどもは誰でもなつくけど、悪人どもには、鬼より恐い。ライフルマン、ライフルマン、無敵のライフルマン」と、今でも時々鼻歌に出る。この歌を、ほんとうに上手なウエスタン・フィーリングで唄っているのが、作曲者自身だと知って驚いた。なんでも、これを唄わせた歌手がうまく唄えないので、自分が唄ってしまったらしい。このエピソードを知ってから、すっかり、ハマクラ好きになってしまった。

5.黒い花びら

  くろいはなびら しずかにちった     EAGAECDEz DDEDECA,   Jポップス

第1回レコード大賞受賞曲である。作詞作曲歌手ともに良かった。「もう恋なんかしたくない...」という意味がよく分って、心に響いた。愛の終りの悲しみとつらさを、バタ臭いメロディーに託して、日本語で表現して絶品だと感じた。妻は、この歌を余り好まず、水原 弘が肝硬変で亡くなる少し前に唄った「君こそわが命」の方が良いという。

6.爪

  ふたり くらした あぱーとを     GGGGAAAz FAcBA      Jポップス

ペギー葉山のための書き下ろし曲で、ペギーに爪を噛むくせがあるのから思いついたと言われている。同棲時代を先取りしたような歌で、「あいつ」とは双子のような曲であるが、こちらは女が唄う歌で、内容はわかりやすい。「あいつ」は男が唄う歌で、内容がもう一つ分かりにくいという違いがある。どちらも平岡精二の作詞作曲になるジャズっぽい大人のムードの歌である。

7.可愛い花(小さな花) Petite Fleur

  ぷてぃふるーる かわいいはな     FFE^GABfec         Jポップス

この曲はザ・ピーナツのデビュー曲であるが、ピーナッツ・ハッコーのカヴァーでオリジナルではない。この双子の姉妹は、その絶妙なハーモニーとフィーリングで、人びとを魅了し、日本のポップスの発展に寄与するところ大であったと思う。

8.荒城の月

  はるこううろうの はなのえん     EEABcBAFFEDE        邦楽歌曲

滝廉太郎が少年時代に腰をおろして尺八を吹いた大分県竹田市の岡城址をイメージして作られたという。土井晩翠の詩にまことにふさわしく、これが若干20歳の作品であることを思うと、廉太郎がシューベルトなどと同じ天才に属することを思わざるを得ない。

昔、誰かがこの曲の「ミミラシドシラ、ファファミレミ」のレを半音上げて唄うのを聞いて以来、私はそれが正調だと思い込み、そのように唄ってきた。このたび、歌のデーターベースを作るにあたり、幾つかの楽譜を調べてみたが、どれにもそのような譜面はなかった。

9.煙が目にしみる Smoke Gets In Your Eyes

  They asked me how I knew my true love was true?
                         EDCB,DCA,FEGFDc   ポップス

これは1933年のジェローム・カーンの作品だが、58年にプラターズが「彼らは私に、本当の恋かどうして分るのか?と尋ねた...」と唄ってヒットした曲。「恋の炎が消えたとき、その煙が目にしみるのだ」と粋なことばで綴った佳曲である。ナット・キング・コールの歌も味がある。

10.トム・ドゥリー Tom Dooley

  Hang down your head Tom Dooley     GGGAcz ee       ポップス

縛り首だよトム・ドゥリー、...」とキングストン・トリオが唄ってヒットした。トム・ドゥリーは19世紀後半に実在した男で、心変りした恋人を殺して絞り首となったという。弟の義が、友人の山本嘉雄君から借りてきたLPではじめてこの歌を聞いた。今までのポピュラー・ソングにない魅力のあるコーラスだと感じたが、これがモダーン・フォーク・ソング・ブームの始まりだった。

その山本君だが、その頃、彼の母親に頼まれて、我が家で数学を教えていた。そんなある夏の日、日清から即席チキンラーメンが売り出された。熱湯を注ぎ3分間待つだけという例の代物である。食い意地が張っている私は、発売と同時にこれを購入してもらっていた。勉強の合間に、私がこの即席チキン・ラーメンを作り、その上に3ミリくらいの細切りにしたハムの束とネギを載せ、たっぷり胡椒をかけて山本君と弟の二人に提供した。彼らが不思議な面持ちで、しかし、美味しそうにそれを食べるのを見て私は得意だった。既成品にちょっと手を加え、自分の好きな食べ物に変えるのは、その頃からの習性かもしれない。

11.スター・ダスト Star Dust

  Sometimes I wonder why I spend the lonely night
                          Bc^cdcAFDFAee   ポップス

ホーギー・カーマイケルが1929年に作曲した、アメリカを代表する名曲である。私は、ナット・キング・コールがペイソスを帯びてしみじみと唄うこの曲に参ってしまった。「時々、何故私は淋しい夜を過ごすのかと思う...」星空を見ながら、大学時代のクラスメートで初恋の人を想い出して作った失恋のバラードだと聞く。このホーギー・カーマイケルは、テレビの「ララミー牧場」という西部劇番組で、ピアノを弾く老人役で出演していた記憶がある。

12.バリハイ Bali Ha'I

  Bali Ha'i may call you     Gg^f^f^fg              映画音楽

ミュージカル映画「南太平洋」の中で、土産物屋のトンキン女が、向かいに見える島を指さし、「バリ・ハイはあなたを呼ぶ...」と唄い、夢幻の島バリ・ハイに誘う。その島に似つかわしい神秘的なメロディーと、巧みな唄いぶりに魅せられたが、彼女が、ジョン・カー扮する若い中尉に「You are sexy」とささやくのに驚いたのを思い出す。「sexy」とは男にも使うこと、それは「カッコイイ」に通じる誉め言葉でもあることを覚えたのだ。それから、私はこの言葉が気に入って、とてもチャーミングな女性への賛美の表現として使うことがある。もちろんその時には、誤解をさけるために、必ずこの場面の注釈を入れるのだが...

13.魅惑の宵 Some Enchanted Evening

  Some enchanted evening     G^FAGGC            映画音楽

映画「南太平洋」の中で、ロッサノ・ブラッツィ扮するフランス人の農園主が、「ある魅惑の宵に...」と唄った。これはメトロポリタン歌劇場の、ジョルジョ・トツィの吹き替えだったが、素晴らしかった。特にフィナーレで、この歌が聞こえてきて、死んだと思われた彼が帰ってくる場面は感動的だった。

この歌をビング・クロスビーも唄っているが、やはりサントラ盤が良い。以前、テレビの「家族そろって歌合戦」のような名前の番組の中で、水ノ江滝子にせがまれて立川澄人がこの歌を唄ったが、素晴らしかった。そして、このあと間もなく、彼はくも膜下出血で帰らぬ人となった。

この「南太平洋」は私が観た回数の一番多い映画、一番好きなミュージカル映画で、いろいろ思い出がある。最初は前から3列目に座って観たが、シネラマを見ているような立体感があり、バリ・ハイへ行くボートの場面では、あたかも、それに乗っているよう臨場感があった。

もう一つ強烈に覚えているのが、ミッチー・ゲーナー扮する従軍看護婦が、恋の喜びを全身で表現して、砂浜で踊り、「ア・ワンダフル・ガイ」を唄う場面で、何と恋は素晴らしいものかと感動した。

妻と婚約中に、この映画がリヴァイヴァル上映されたので、同じ感動をもう一度共に味わおうとしたが、彼女はあまり感動しているように見えなかった。それからかなり時間が過ぎ、結婚してこどもが生まれ、白浜へ泊りがけで出かけたある夏の夜、テレビでこの映画が放送されていた。母子が寝ている側で、これを見ながら私は泣いた。

そしてまた時が流れ、この映画のLDを購入して妻と一緒に観た。私には変わらぬ感動が戻ってきたが、妻は冷たく、「この映画はきらい」と言う。なぜかと尋ねると、中年男の恋など不潔だから、というのが答えだった。

だから、それ以来これを一緒に見ようとは思わない。しかし、「魅惑の宵」を発作的に大声で唄うことはある。妻はそれが「南太平洋」の中のメイン・テーマであることは知らないし、この歌自体には何の反発もなさそうである。

90年の7月にフェスティバル・ホールで、ロンドンのミュージカルのメッカ、ウエスト・エンドからやってきたロンドン版「南太平洋」を妻と観たが、やはり映画の方が私には良かった。

14.駅馬車(淋しい草原に埋めてくれるな) Oh Bury Me Not On The Lone Prairie

  Oh bury me not on the lone prairie     G,CEGAGEDCE      C&W

ジョン・フォード監督、ジョン・ウエイン主演の映画「駅馬車」の主題歌。日本にウエスタンとして広まった最初の曲ではなかろうか。この曲を聞くと、三つの場面が目に浮かぶ。一つは、インデアンが駅馬車を円陣状に取り囲んで襲撃をかけているシーンで、これは西部劇でおなじみのもの。二つめは、NHKの日曜娯楽版で盛んに使われていたこと、三つ目は、医学部専門の2年の謝恩会で唄ったことだ。

基礎医学の過程が終ったので、その先生方にお礼をしようということになり、ミナミの「清流」という料亭に招待した。二十歳を過ぎたばかりの貧しい学生たちが、ミナミの料亭で謝恩会をやるというのは、当時としては驚くべきことだった。その幹事をしたのが、近頃テレビ・ドクターでお目にかかる垣内義亨君たちだった。

そのとき、私たちの解剖のグループは、私のギター伴奏で、純ウエスタン調にこの歌を唄ったが、教授連は唖然とされていたようだった。野田寛治、野中清也、浜田辰巳、播口之朗君と私の5名のメンバーのうち、今この世にいるのは浜田君と私の二人だけ。野田君は高校からの友人で、アメリカの医大の教授だったが、91年に前立腺癌で死亡。野中君は出席簿が隣で、よく飲みよく議論した親友だったが、71年にうつ病で死亡。播口君は阪大精神科の助教授だったが、94年に肺癌で死亡した。無常である。

15.ライフルと愛馬 My Rifle, My Pony And Me

  The sun is sinking in the West     G,CB,CDCG,G        C&W

西部劇映画「リオ・ブラボー」の主題歌で、「太陽は西に沈もうとしている...」とディーン・マーティンとリッキー・ネルソンによって唄われた佳曲。歌も良かったが、ものすごいガンファイトの、痛快西部劇でもあった。この映画も野中清也君と観たが、彼はディーン・マーチン扮するアル中の保安官助手に、妙に親近感を抱いたようだった。ディーン・マーティンが酒場のはりの上に潜む敵を、ビールのグラスに滴り落ちる血で悟り、振り向きざまにファンニングで打ち落とすシーンは、今も鮮やかに蘇る。

この映画を思うと、もう一つ忘れられないメロディーが浮んでくる。トランペットが不気味に奏でる「皆殺しの歌」である。何と効果的に使われたものかと、ディミトリ・ティオムキンに感服する。

この頃は映画ばかりか、テレビでも西部劇が次々と放送されるようになった。私はその中で、スティーブ・マックィーンが主演した「拳銃無宿 Wanted: Dead or Alive」好きで、欠かさず観ていた。このドラマの冒頭で、いつも頭を垂れ、憂愁を帯びた表情を見せるマックイーンが好きで、その真似をしていた記憶がある。

16.月影のナポリ Tintarella Di Luna

  ちんたれーらでぃるな あおいおつきさま     CCCCCCE      カンツォーネ

ミーナのデビュー曲で、チャチャチャリズムのカンツォーネだった。日本では森山加代子のカヴァーがヒットした。舌足らずで唄う彼女が可愛く、私もよく口ずさんでいた。

17.チャオ・チャオ・バンビーナ Ciao Ciao Bambina

  Ciao Ciao Bambina un bacio ancora     GABAAFEDFF   カンツォーネ

前年に続いて、ドメニコ・モドーニョが第9回サンレモ音楽祭で優勝した曲。バンビーナとは女の子のこと、かって世界中で愛好された「オー・ソレ・ミオ」や「帰れソレントへ」などに代わって、この頃から、現代のカンツォーネが再び世界中に広まり始めたことを示している。

18.ラ・パロマ La Paloma

  Cuando sali de la Habana va'lgame Dios! GGEFGABcABGF ラテン・ハワイアン

「パロマ」とは鳩のこと、島の娘と旅の男の愛を鳩に託した別れを歌である。ハバネラはキューバの民族舞踊のリズムで、スペイン人のイラディエールがこのハバネラにすっかり魅せられ、ハバネラの曲を作った。それが、ビゼーのオペラ「カルメン」の中で使われた「ハバネラ」である。その次の作品がこのラ・パロマで、パンチョスやM・マチュー、N・ムスクーリの歌はどれも素晴らしい。

19.ク・ク・ル・ク・ク・パローマ Cu-Cu-rru-Cu-Cu' Paloma

  Dicen que por las noches noma's se GG^FG^FGG^FG^F ラテン・ハワイアン

メキシコのトマス・メンデスが1954年に作ったこの曲は、メキシコの古い民族舞曲ウァパンゴのリズムで書かれている。「ククルクク」は鳩の鳴き声で、泣き明かした男が死んで鳩に姿を変え、愛する人の帰りを待ってククルククと鳴いているという歌である。ロス・トレス・ディアマンテスやトリオ・ロス・パンチョスなどが唄っている。

20.キサス・キサス・キサス Quizas,Quizas,Quizas

  You won't admit you love me     E^F^GABcA    ラテン・ハワイアン

日本では、ナット・キング・コールのちょっと舌足らずなスペイン語版でヒットし、続いてトリオ・ロス・パンチョスでもヒットしたが、アメリカではそれより早く51年にビング・クロスビーの英語版でヒットしている。「キサス」とは「たぶん」と言う意味で、英語版では「perhaps」と訳されている。いくらプロポーズしても、たぶんね、たぶんねと言う返事でごまかされるという歌。

この歌を聞くと、西日本医科大学対抗競技大会の応援で名古屋に出かけた時の前夜祭を思い出す。なぜか応援団に組み込まれ、前夜祭のステージで私がトランペットを吹き、何人かで応援歌を唄うことになってしまった。ドラムの前奏に続いて、アイーダの凱旋行進曲を高らかに吹き上げるはずだったが、この時本来のリズム音痴が露呈し、すっかり出遅れてしまったのである。幸いドラマーが良かったので、何とかごまかしてくれたが、爆笑は致し方なかった。その名ドラマーとは、近ごろテレビでよく見かける聖徒病院名誉院長垣内義亨先生である。

21.ラ・マラゲーニャ La Malaguena

  Que' bonitos ojos tienes     EEEEEDEC         ラテン・ハワイアン

ラ・マラゲーニャとはマラガ娘のこと、モロ族の血が混じったスペインのマラガの町の娘は、黒い瞳の美人として知られている。そのマラげーニャに捧げる恋歌だが、作曲はメキシコ人である。この歌をトリオ・ロス・パンチョスの日本公演で聞いてしびれてしまった。その後、アイ・ジョージもレパートリーに入れて、よく唄っていたが、良い曲である。トリオ・ロス・パンチョスの公演の前座をつとめたのが、アイ・ジョージと坂本スミ子の二人だった。

22.マラゲーニャ Malaguena

  El amor me lleva hacia ti con impulso arrebatador
                   BcdcB^GAB^GABA^G   ラテン・ハワイアン

冠詞「ラ」のついていないこちらの「マラゲーニャ」は、キューバ人のE・レクオーナが作曲したピアノ組曲「アンダルシア」の中の1編、これもマラガ娘に対する恋心を歌っている。トリオ・ロス・パンチョスの歌のほかナナ・ムスクーリが唄っているのも味があって好きだ。

23.ある恋の物語 Historia De Un Amor

  Ya ma estas mas a mi lado corazon   EEeeedfBBcd   ラテン・ハワイアン

パナマの実業家で、趣味が作曲というアルマランの作ったボレロの傑作。これは、最愛の妻を失った男の悲しみを綴ったものといわれている。この歌もまた、最初に聞いたのは、トリオ・ロス・パンチョスの日本公演で、もう惚れぼれしてしてしまった。彼らが来日して、日本にラテン音楽が一気に広まったのを否定するものはいないだろう。

私の64年の人生で、一番感動した音楽公演は何かと尋ねられれば、ためらうことなく、この時のトリオ・ロス・パンチョスのそれと答える。それほど、私にとって素晴らしく、聞きながら涙があふれた。私と同じ経験をした日本人はたくさんいたと思う。同じ交野市医師会の松吉陸雄Drもまた、この公演を観てひどく感激したと聞き、意気投合したことがあった。

これがきっかけとなり、97年7月12日土曜日の夜、再結成して来日したトリオ・ロス・パンチョスの公演を、大阪シアター・ドラマシティーで松吉Drと一緒に聞いた。かってのメンバーはただ独り、トップヴォーカルのジョニー・アルビーノだけだった。そのあと、私たちは、興奮覚めやらぬまま、いつもの通り飲み、唄い、しゃべり、帰宅したのは午前2時頃だったと思う。

翌朝目を覚ますと、「素晴らしいパンチョス」という題名にして、昨夜の感激を松吉Drにメールを送った。タイムスタンプを見ると、97/07/13 12:13である。二日酔いを忘れて、一気に書き上げたようだ。その時の気持がよく出ているので、少し長いが、全文を以下に載せることにした。


松吉先生
昨夜は素晴らしいトリオ・ロス・パンチョスにご招待下さり、ありがとうございました。30数年前の初めて彼らの公演で、涙が出たのを覚えていますが、今回はからだの中にしみこんでくる感動を覚えました。

先生から頂いたチケットと一緒に入っていたパンフの中のアルビーノは、その顔に、30数年の歳月を確かに刻み込んでいました。演奏会で、この顔に声がどのように対応するのか興味津々でした。よく「懐かしのメロディー」などのTVで唄う昔の歌手のイメージを抱いたのです。

しかし、予感は見事なまでに外れました。確かに、はじめのうちこそ声のはりが少ないと思いましたが、間もなく絶好調に入り、堪能させてくれましたね。

かっての甘く細いテナーの声ではなく、太く力強いハイ・バリトンの声に変わっていましたが、それにはまた違った快さを感じました。そして一直線に声を出す歌いぶりに、マリオ・デル・モナコの姿がダブって見えました。パンチョスの公演の2〜3年前に、宝塚大劇場(未だフェスティバルはできていなかった)でイタリア歌劇の公演があり、「アイーダ」の中で唄ったマリオの姿となぜか似ていたのです。

私は、いわゆるトランペットボイスといわれる歌いかたの歌手が好きです。クラシックならモナコ、シャンソンならピアフ、ミレイユ・マチュー、ポピュラーならジョー・スタッフォード、流行歌なら西田佐知子、思いつくままに。このタイプの歌手を挙げることができます。

もう一つの感動は、司会の女性から、彼が1917年生まれと知らされたことです。満80歳であの声が出るのだと知ると、たまらなく嬉しくなりました。私が40歳の頃、ビング・クロスビーの70歳の誕生パーティーの記念録音をしたLPを聞き、70歳でも声の衰えがほとんどないということを知って嬉しくなったことを覚えています。確かローズマリー・クルーニーと一緒に唄っていたように記憶しています。

しかし、それを10年も上回って、あの歌いぶりです。正直参りました。そして人間の可能性に、これまで以上に希望を持つことができました。

昔の栄光のアルビーノに対して、若い兄弟は若さと進歩の素晴らしさを強烈に教えてくれましたね。特に弟のレキントギターの素晴らしさには、唖然とするばかりでした。スペイン旅行の折りに集めて聞いたCDの中に、あの種類のギターの演奏が入っていて好きになり、今でも時々聞くことがあります。それを目の当たりにして、鑑賞できたのですから、もうたまりません。

メールを書いているうちに、自分勝手に興奮してしまい、長々と感想を書いてしまいました。お許し下さい。このような素晴らしい演奏会にお招き下さいまして、本当にありがとうございます。また、先生とこのような日が持てることを心から願っています。

取り急ぎお礼まで                     7月13日 野村 望


1960 昭和35年 24歳 大学専門4年 

この年の最大のできごとが、安保条約反対闘争であることに誰も異論はないと思う。6月15日に安保条約改定阻止を目指して、全国で大規模なデモが行なわれ、全学連が国会突入をはかり、警官隊と衝突、東大生の樺美智子さん(22歳)が死亡した。

彼女は神戸高校の1年後輩で、ドイツ語研究会に属していて、私たちの学年の卒業アルバムにも写真が載っている。彼女の知的なまなざしが魅力的で、在校中から、どこか惹かれるところがあった。その人が警官隊によって圧死させられたと知ると、猛烈な怒りが込み上げてきて、学年集会で、デモへの参加を呼びかけていた。いつもは、ノン・ポリに近い行動をとってきた私が、珍しくそのような演説をしたのに驚いた友人たちは、「お前、意外に雄弁やな」と言った。

それからは、何回か街頭デモに参加し、フランス式に御堂筋を道幅一杯に進むデモも経験した。「アンポ、ハンタイ! キシヲ、タオセ!」というシュプレッヒ・コールを何度もくり返したこと、デモで歩いている横を、背丈のある頑強な機動隊にピッタリ張り付かれ、威圧されている感じだったこと、いつも、梅田の中央郵便局前で流れ解散っだったこと、などを思い出す。戦後最大のこの安保反対闘争も、その甲斐なく、条約は成立した。

この安保阻止闘争の最中、社会党の浅沼稲次郎党首が街頭演説中に、大衆の面前で17歳の少年に刺殺され、テレビで報道された光景が目に浮ぶ。17歳は、この頃から問題のある年齢だったことを改めて思う。

この年に出版された北杜夫の「どくとるマンボウ航海記」は、内容も文体も面白くて、すっかり気に入ってしまった。40年ぶりで手にしてみると、昭和35年3月20日 中央公論社刊、定価260円とあり、中には、かなりたくさん赤線が引かれている。私が書く文章について、影響を受けたものがあるとしたら、この「どくとるマンボウ航海記」が、一番その可能性がありそうだ。



  歌い出し歌詞           歌い出しメロディーのabc略譜      データベース


1.誰よりも君を愛す

  だれにも いわれず たがいにちかった     EFE^DEB,DC       歌謡曲

異国の丘」を作曲をした吉田 正は、この頃から、これまでの流行歌、歌謡曲よりすこしポップスよりの歌謡曲を、フランク永井や松尾和子などのジャズ歌手に唄わせてヒットを続けていた。この曲はその代表的なもので、第2回レコード大賞受賞曲である。これら都会的ジャズ的な歌謡曲は、「ムード歌謡」と呼ばれるようになって行った。

2.再会

  あえなくなって はじめてしーった     EAcBA^GAAedfeBd    Jポップス

これも吉田 正の作曲で、監獄と囚人をテーマに大人の愛を、松尾和子が夜のムードで唄った。「松尾和子の歌はネクタイを締めて聞く」という人がいたり、反対に浜田辰巳君のように「彼女の歌は不健康だ」と嫌う者がいたり、私や野中清也君などのように、「松尾和子が唄うのを聞くと、ぞくぞくとしびれる」と背伸びをして、大人であることをアピールする者もいた。

3.死んだ男の残したものは

  しんだおとこの のこしたものは     EcccBGDBAFFA^GE     Jポップス

あの世界的な作曲家武満 徹が、このようなポップス系の曲も書いているのを知ったのは、森山良子が唄うのを聞いた時が最初である。谷川俊太郎の詩に曲をつけ、これを「愛染かつら風に歌え」と武満徹は指示したという。それがどういうことを意味するのかは、私にはよく分らないが、妙に心に残る歌で、口ずさんでいることが多い。

4.あいつ

  ゆうべ あいつに きいたけど     G,G,G,G,EEEEB,DCA      Jポップス

」との双子作品で、都会的なムードのあるおしゃれな曲。「」がペギー葉山なら、こちらは旗 照夫が唄った。歌詞がちょっとややこしくて、よく考えないとあいつ、きみ、ぼくがこんがらがってしまう。ジャズ・フィーリングがいっぱいで、唄っていて気持の良い曲である。

5.グッド・タイミング Good Timin'

  Oh,you need timin', a ticka ticka ticka good  GABcGz ededededcG  ポップス

ジミー・ジョーンズでヒットした曲だが、日本では坂本九のカヴァー・ヴァージョン「すてきなタイミング」で大ヒットした。これは坂本九の唄い方が良かっただけでなく、漣健児の訳詞もまた良くて、ピッタリだった。「オー ユー ニーズ タイミング アー ティカ ティカ ティカ グッドタイミング ア タカ タカ タカ タカ この世で一番かんじんなのは ステキなタイミング」。この「この世で一番肝腎なのはステキなタイミング」の部分に無性に共鳴して、自分の人生訓に取り込んでしまったほどである。この訳詞は、漣健児の記念すべき第1作で、そのあと手がけた、450曲あまりの先駆けとなった曲である。

6.今夜は一人かい Are You Lonsome Tonight

  Are you lonesome tonight     EGcBcB            ポップス

エルヴィス・プレスリーの代表的ラヴ・ソング。これはオリジナルの歌ではなく、1926年の作品だが、エルヴィスが唄うと歌に生命が吹き込まれ、エルヴィスの代表的な名唱になった。「今夜は独りかい...」と唄い始め、途中でナレーションの入るのが、最初の間は気になったが、聞きなれると必然性のあるものと思えるから、可笑しなものだ。

7.イッツ・ナウ・オア・ネヴァー It's Now Or Never

  Woo woo woo woo woo     EDCGEDCC            ポップス

これは古典的なカンツォーネ「オー・ソレ・ミオ」が原曲。エルヴィスはこどもの頃カルーソーのレコードを聞き、オペラも好きだったことを最近知った。激しいリズムのロックン・ロールだけでなく、このようなバラードをうまく唄える秘密が分かり、嬉しくなった。彼自身、この曲を、自分の一番好きなヒットだと話したらしい。私も、母が唄うこの原曲をこどもの頃から聞いてきた。小学4年の昼休みには、担任の庄野千鶴子先生に指示されて、教室でよくこの歌を唄ったことを思い出す。

8.谷間に三つの鐘がなる The Three Bells

  There's a village hidden deep in the valley    EEEEEEEEEEE   ポップス

原曲はシャンソン「Les Trois Cloches」で、エディット・ピアフでヒットした。祝福の鐘、喜びの鐘、哀しみの鐘(誕生、結婚、永眠)を歌ったもので、ある男の生涯を、ザ・ブラウンズが「谷間の奥深くに一つの村がある...」と、美しいヴォーカル・ハーモニーで綴り、リバイバルヒットさせた。

9.ダニー・ボーイ(ロンドンデリーの歌) Danny Boy (Londonderry Air)

  Oh, Danny boy.the pipes, the pipes are calling B,CDEz DEAGEDCA, ポップス

アイルランドの北部の、ロンドンデリー州で唄われていた民謡、「ロンドンデリーの歌」が原曲で、あなたの胸を飾る、リンゴの花になりたいという愛の歌だった。それに、新しい歌詞がつき「ダニー・ボーイ」となり、出征する我が子を送る親の愛の歌と変わった。これをビング・クロスビーやハリー・ベラフォンテが「おお、ダニー・ボーイよ、笛の音が呼んでいる...」と唄って有名になった。日本ではハリー・ベラフォンテの来日記念盤でヒットした。

10.グリーン・フィールズ Green Fields

  Once there were green fields kissed by the sun ABA edz cAcB  ポップス

ワシントン大学の学生だった、ブラザース・フォーのデビュー曲で、「日の光の降りそそぐ緑の草原があった...」と、哀愁ただようバラードを美しいハーモニーで唄ってヒットした。緑の草原は冬枯れとなり、ともに歩いた貴女はもういない、と去って行った恋人との日々を想い、愛する人の帰ってくる日まで待ち続けるという歌である。

11.アイ・ラブ・パリス I Love Paris

  I love Paris in the springtime     AAAcBAcA         映画音楽

フランク・シナトラ、シャリー・マクレーン、モーリス・シュヴァリエ主演の映画「カンカン」の主題歌。「私は春のパリが好きだ...」で始まるコール・ポーター作詞作曲のこの曲を私は好む。

12.GIブルース G.I.Blues

  They give us a room with a view of the beautiful Rhine
                       G,CEG,CEG,CEG,CEG,C   映画音楽

エルヴィス・プレスリーが除隊後最初に出演した映画、「G.Iブルース」の主題曲で、ブルースっぽいマーチになっている。この頃から、それまで持っていた不良っぽさが消え、健康的なアメリカ青年に変わっていったように思う。この曲もまた、日本では、坂本九のカヴァー・ヴァージョンの方がヒットした。マーチなので、歩きながら口ずさんだり、口笛を吹くと、気分が乗って楽しくなる歌だった。

13.ワルツィング・マチルダ Waltzing Matilda

  Once a jolly swagman camp'd by a billabong EEEEDEDCDECA,B,C 映画音楽

核戦争の結果、地球上の生物が全滅していくという映画「渚にて」の主題歌で、オーストラリアの民謡である。この「ワルツィング・マチルダ」はワルツを踊るマティルダでなく、旅行者が荷物を入れ、丸く巻いて背中に負う毛布のことだといわれている。映画の中で「昔一人の陽気な流れ者が泉のそばでキャンプをした...」と唄われていた。心に残るいい歌だった。

この映画を観た頃から、私は生きることについて、これまで考えてきたことに結論を出したように思う。自分の生きている間に、人類が滅亡する可能性があることを知った時、「生きる意味」について自分の納得できる考えをまとめておきたかった。そして、その結論に満足し、以来40年の間「生きる意味」について悩むことがなかったのは、性格によるところが大きいのだろう。

14.遥かなるアラモ The Green Leaves Of Summer

  A time to be reapin, a time to be sowing     EABA^GE      C&W

ジョン・ウエインが制作、監督し、デービー・クロケットに扮して主演した映画、「アラモ」の主題歌。メキシコのおびただしい大軍に包囲されながら、200名近い守備隊全員が、アラモ砦を守って壮烈な戦死を遂げたという西部開拓史上最大の激戦を描いた西部劇だった。砦の周囲を取り囲んだ、赤い軍服のメキシコ軍の華麗だったこと、ここでも使われた、「皆殺しの歌」の哀愁を帯びたメロディーが、今も蘇ってくる。良い映画、良い音楽だった。

ブラザース・フォーは映画の中で、「収穫の時期となる、種まきの時となる...」と唄っている。このブラフォーの公演を95年11月に、大阪ブルー・ノートで松吉陸雄Drと観た。舞台から2列目あたりの席で、懐かしい曲が次々と唄われるので、すっかり嬉しくなって手拍子をとり、大声を出していた。

15.太陽がいっぱい Plein Soleil

  あなただけがわたしの こいびと     Ee^decA^GABcdefe     シャンソン

アラン・ドロンのデビュー作であるフランス映画、「太陽がいっぱい」のテーマ曲。仏でヒットせず、日本ではヒット・パレードに長く登場した。フィルム・シンフォニック・オーケストラの演奏によるものだった。この映画の中で、アラン・ドロン扮する主人公が、他人のサインを自分のものにするために、くり返しくり返し練習する場面が、なぜか印象に残っている。

この年に公開されたフランス映画では、「勝手にしやがれ」の方が、私は好きだった。また、フランス映画のテーマ曲では、「墓に唾をかけろ」の「褐色のブルース」が好きで、梅田の地下街とかエコーの効くところで口笛を吹くと、そのメランコリーで何ともいえない良いメロディーに酔い、自己陶酔に陥ることができる。

16.死ぬほど愛して Sinno Me Moro

  Amore, amore, amore,amore mio EAAABBBccABcBcBA    カンツォーネ

イタリア映画「刑事」の主題歌で、作曲者ルスティケリの娘アリダ・ケッリが歌った。「アモーレ、アモーレ、アモーレ、アモレミオ」と良く唄っていた野中清也君は、当時ある女性に夢中になっていた。天王寺駅の構内で、今から彼女の実家に行ってくるんだと興奮していた光景を思い出す。私たちは24歳、若かった。

17.オルフェの唄 La Chanson D'Orphe'e

  ゆめ さめて あおぐ     EcBAA^GBE           ラテン・ハワイアン

ブラジル、フランス合作映画「黒いオルフェ」の主題歌。この映画もまた、今まで観たことのない魅惑的な不思議さを持っていた。オルフェとユリディスの神話を現代の黒人社会に置きかえた作品だが、鮮やかなカラーと、強烈なサンバのリズム溢れる、リオのカーニヴァルに圧倒された。それと同じくらい音楽が良かった。

18.カチート Cachito

  Cachito,Cachito,Cachito mio     EGECG,CEGAF    ラテン・ハワイアン

ナット・キング・コールのトロピカルものの一つ、リズムはメキシコのバイヨン、「カチート」は「可愛い」という意味で、自分の自分の子供(かけら)に対する愛情の表現である。コールの味のある唄い方は、この歌でも素晴らしく、聴いていて何とも心地よい。自分で鼻歌を唄うのにもピッタリの歌だ。

19.アマポーラ Amapola

  Amapola, L'oiseau l'eger qui passe  EGcdz ccBcdBc   ラテン・ハワイアン

トリオ・ロス・パンチョスで初めて聞いたが、ナナ・ムスクーリとか、いろいろの人が唄っている。アマポーラ(ひなげし)という名の女性へ捧げる歌で、ラテン系の甘い美しいメロディーである。

95年夏に妻とスペイン旅行をした時、グラナダ市内のレストランで、グラナダ大学の学生バンドが自分たちのCD買ってもらうために、ラテン系の歌を唄ってくれた。そのとき、私は飛び入りで、この「アマポーラ」を唄った。レストランは地下にあったので、音響効果がよかった。ほかのツアーの旅行客はスペイン語が分らないので、私が原語で唄ったと思って感心していたが、何のことはない「アマポーラ、アマポーラ」以外は「ドレミ」だったのである。


<2000.7.8.>
<2008.5.5.>改訂


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