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医師会設立奮闘記

こんな筈ではなかった 新米総務は右往左往

2000.09.25. 掲載
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<交野市医師会会報第2号(95年12月)より>

常務理事 野村 望

寳田先生から「医師会設立奮闘記」を書くようにとのFAXをいただいた時、何か時期遅れにも感じたが、編集委員会の皆様が決められたことならお引受けせざるを得まいと思った。そこで題名を上のように変えさせてもらい、この機会に新米総務としての約1年半の間で心に残ったことがらを記録しておこうと考えた。そういう訳で読んでいただくというよりも、自分自身のまとめとして書く文章であることをお許し願いたい。

独立に追い込まれた

できるだけ小判鮫の状態でいたい、という虫の良い話が通らなくなった時から、独立すれば医師会の端役を務める覚悟はできていた。これまで医師会の役員を一度もしたことはないが、この地で開業して20年間を大過無く過ごさせてもらいながら、医師会の役はご免というのでは身勝手過ぎるかもしれないという思いがあったからである。

総務を引受ける

それが総務という仕事をを引き受けることになったのは、ある会席での松木先生の一言がきっかけだった。そこで「あんたは総務やな」と言われ、その理由としてパソコンが使えるし、事務処理が得意だから、と数え上げられると、そうかなと言う気になってしまった。そのくせ総務の仕事がどんなものかは皆目知らなかったのだからいい加減な話である。そして、いよいよ医師会が独立することになり、小菓先生などから総務を命じられると、何の疑問も抱かずOKをしてしまった。「めくら蛇に怖じず」である。

総務の仕事始め

総務を引き受けた途端に与えられた仕事が法人設立の準備をすることだった。いきなりのカウンターパンチだが、今さら「そんな話は聞いていなかった」と言うこともできず、枚方市医師会の岩井総務にお目にかかり、法人設立に関する資料を頂いてきた。平成5年12月16日のことである。そしてそれからは懸命に最初の仕事に向かい、正月休みの間をこれに没頭して、法人設立の申請書類一式を何とか作りあげた。

医療対策課の嬉しいコメント

年が明けた平成6年1月17日にこの書類一式を岩井総務のもとへ持参した。先生はこの書類に目を通され、予想外の進展に驚かれたのか「これでほぼ出来上がっていますね」と言って下さった。いくつになってもお目出度い私は内心得意だったように覚えている。

1月19日に、岩井総務と小菓先生が府の医療対策課の担当主査のところへ、修正を加えたこの書類を持って行かれたところ、1)定款は部分修正でほぼ確定、2)平成5年度事業計画と予算のいずれもOK、3)平成6年度分は定款にしたがい事業計画を行い、予算は税理士と協議し作成すること、という有難いお言葉をいただいたとのことであった。それからも岩井総務の指示に従い何度も修正を加えたが、法人設立業務はこれでほぼ完了したと思い込んでしまった。そして「少しは苦労したが、これくらいで済むのならたいしたことではなかったな」と思った。ここまでが法人用書類作成の第1ステップである。

総務委員会は慰労会ではなかった

2月8日に設立準備総会で正式に総務に選ばれると、小菓先生から定款施行細則作成を指示された。これは枚方市医師会のそれを参考にすることで余り苦労はいらなかったが、続いて臨時理事会の召集、入会金規定、会費規定の作成と矢継ぎ早に仕事を命じられる。そうした3月4日の夜に「明日総務委員会を仙亭で行うので出席するように」とのFAXが届いた。総務委員会とはどういうものかを知らず、仙亭で慰労会でもしてくれるのだろうと気楽に考えて家を出た。

ところがである、メンバーは枚方市医師会の理事会出席を終えたばかりの小菓、尼子、南、福森先生で、慰労会などでは決してなく、設立総会の準備などを協議する本当の会議であった。総務は記録をとるようにと言われても、筆記用具など用意していない。仕方なく南先生に万年筆をお借りし、資料の余白に書込をして冷や汗をかきかき何とか切り抜けたのである。

総務の仕事とは何か

この時に恥ずかしい思いをしたので「総務の仕事とは何か」を把握しておく必要を痛感し、小菓先生にお訊ねしたら、大阪府医師会の総務課の業務内容を教えて下さった。それが庶務・秘書室・裁定委員会・会史・法規・優保・麻薬・健康問題・地域医療推進・医政連・文書・会館管理である。しかし、これでは何のことか分からないので、ビジネス関係の書物を調べたり、岩井総務にお訊ねもした。その結果、総務の仕事はよろず雑用係で、特に会議、文書、法規、記録、報告に関することが中心となるようだと一応理解した。

設立総会は無事終了

総務の仕事の最も大きな部分を占める総会の準備、記録、報告は3月26日の交野市医師会設立総会から始まった。これまで、一度も、まともに総会に出席したことがなく、全く関心もなかったので総会の形式に戸惑い、書物や枚方市医師会の前例を参考にして試行錯誤的に総会の準備、記録、報告を行った。ここで正月以来法人設立のための資料を勉強してきたことが非常に役に立ったのは思わぬ幸いであった。医師会用の定型業務のフォーマットを作り、それを後の人に引き継いで行くようにすれば時間と労力の無駄を減らせると思ったのはこの時からである。

支部最後の日の礼状

3月31日、交野支部最後の日に岩井総務にFAXで礼状を送信した。当時の自分の正直な気持の記録として再録することをお許し願いたい。

前略 いよいよ本日が枚方市医師会会員としての最後の日になりました。先生にはこれまでも大変お世話になりましたが、特に今回の交野市医師会独立に際しましては本当に全力投球でご尽力下さり、まことにありがとうございました。先生のお陰で何とか母なる枚方市医師会を巣立つことができそうです。

しかし、交野市医師会会員は小菓先生を除いてほとんど医師会活動を経験していない素人集団なので、失敗の連続による叱責と始末書の連発を覚悟いたしております。枚方市医師会に対してもご迷惑をお掛けすることが多々あるかと存じますが、なにとぞご寛恕のほどお願い申し上げます。

交野市医師会として、これからも先生にご教示ご指導をお願いしなければならないことが何度もあるかと存じます。また私個人としても総務の仕事につきお教え願いたいことが次々出てくることと思っております。その節にはどうか宜しくお願い申し上げます。

医師会活動が一番苦手な私に総務という難しい仕事が回ってくるとは何とも皮肉ですが、しなければならないのならこれから逃げ出さず、2年間だけは力一杯努めようと思っています。これからも公私ともにご交誼ご指導下さいますよう重ねてお願い申し上げます。

まずはお礼とお願いまで。                       早々

これに対する返礼のFAXの中で岩井先生は「総務の仕事はできるだけ医師会に顔を出し、多くの動きを知っていることが最も大切かもしれません」と教えて下さったので、これからは頻繁に医師会事務所へ行かねばなるまいと覚悟を決めた。

あっけなかった医師会発足の日

交野市医師会発足の日に医師会事務所に行き、会長と他の医師会等への挨拶状につき話合った。また飯垣事務長と藤川事務員に「あんまり張り切らず、ぼちぼちやりましょう」と協力を要請した。何かあっけないような医師会発足の初日だった。その日から、当医師会の関係文書を枚方市医師会のそれを参考にしながら、独自のフォームでどんどん作って行った。それは例えば、定例理事会の案内、議事録、会員への報告(理事会だより)の書式であり、電話連絡網再編成、会員FAX番号リスト作成、などであった。これらは書式や言葉を統一し、電子化することで、その修正、追加、削除などの活用を容易にし、将来の省力化に役立てることにした。

最初の定例理事会

医師会発足後最初の定例理事会が4月12日に開かれることになった。当日の司会進行を総務がするようにと会長から命じられたが、記録も総務の仕事だと言われると、司会をしながら記録をとるような能力が自分にあるとは到底考えられず、堪忍してもらった。それまで理事会に出席した経験が皆無な者に、総会に次ぐ重要な議決機関である理事会の司会と記録をさせると言うのはちょっと酷ではなかろうか?

とにかく、理事会の準備と記録だけに仕事を限定してもらい、正確な記録をするためテープコーダーを持ち込んだ。理事会の議事録にも総会の議事録とほぼ同じ必須事項が課せられていることは定款を作成する過程で知っていたので、重装備で理事会に臨んだのである。

しかし、理事会の準備や当日の記録よりも大変なのは、その後の「議事録」と「理事会だより」の作成であることをすぐ経験した。理事会での発言を確かめるためにテープコーダーの音量を最大限に上げても聞きとり得ない発言にいらいらしている光景を知らない者が見たら何と思うだろうか?

会員名簿・規約の発行

医師会発足後まず必要なのは会員名簿や総会で決定した規約類を文書化することではないかと考え、とりあえず分かっている分をまとめ、会員にお配りすることにした。これも早く、安く作るために手作りDTP(desk top publishing)で行ったので4月末迄にほぼできあがった。このようにして連休前までは順調にことは進んできたのである。しかし世の中そんなに甘いものではなかった。

全く頭にきた

大阪府医療対策課の担当主査の藤原氏が転出し、新任の伊藤主査から、28日に登庁するようにとの指示があり、枚方市医師会丹波事務長と飯垣事務長と3人で出頭した。そこで、思いもしていなかった厳しい説明と指示を受けて、頭にきたが、私はひたすら拝聴した。しかし飯垣事務長はこらえかねて「お宅らは言うだけで良いから宜しいわな」と捨てぜりふを吐く始末。最後に駄目押しをするかのように「過去は公益法人の許認可が簡単に行われたこともあるようだが、最近公益法人の許認可はシビアになってきている。昭和63年以来公益法人の認可はない」と主査殿は言われた。

帰宅してから伊藤主査との面談の「報告」と「感想」をまとめ、FAXで小菓会長、尼子、南副会長に送信した。ここにその内の「感想」の方を再録する。頭に血の昇っている状態がよくお分かりいただけると思う。

  昨日、府庁で伊藤主査と面談したが、それについて私の感想を述べる。

1.府医療対策課の前担当官藤原主査の指示ということで岩井先生から指示を受けて
  何回も書き直した「平成6年度事業計画」がこれほど見事に×をつけられるとは
  予想もしていなかった。

2.小菓、岩井先生が大森会計事務所に時間をかけて作らせた「平成6年度予算書」
  も同様に×をつけられた。これはどういうことなのか?

3.私が府医療対策課に行ったのは今回が始めてで、これまで岩井、小菓先生を通し
  て断片的に医療対策課の話を聞かされてきた。担当官が変わったためであるとし
  ても、余りにも医療対策課との話が違うことに呆れ、腹立たしく思う。

4.法人設立のための書類作成の実務をさせられてきたが、肝心なところは何も教えて
  もらえていなかったのではないかとの思いがする。医療対策課藤原主査との面談
  に同席させてもらっていたのなら、また大森会計事務所に依頼するところへ同席
  させてもらっていたのなら、今回の伊藤主査の話が伊藤主査個人の問題と納得も
  できるのだが。

5.ここにきて、交野市医師会をなぜ社団法人にしなければならないのか、という理
  由がもう一つよく飲み込めていないことに気がついた。法人にしなければ枚医か
  ら寄付金がもらえないと聞かされてきたが、本当にそうなのか?

  訪問看護ステーションの申請に必要とのことであるが、訪問看護ステーション自
  体行わなければならない義務があるのか?

6.とにかく乗りかかった船だから、降りることはしないつもりでいる。法人設立が
  至上命令であるのなら若い担当官の指示に腹を立てず、ひたすら言いなりに書類
  を作って行こうと思う。しかし、そのためにはかなりの作文をしなければならず
  私に全権を与えてもらわなければ作業がし難いと思う。皆さんのご意見をお聞き
  したい。

この「報告」と「感想」に対して、小菓先生から、私に全権を委ねる。寄付金をもらうためには法人でなければならない。ナースステーションも交野市、大阪府と話ができているので止められないとの電話を頂いた。尼子先生からは、先生のコネで上から圧力をかけてやろうかと言って下さったが、自分自身、上から命令されるのが嫌な性格なので、ご厚情は有難いが自力でやってみると言ってお断りした。

かくして連休はつぶれた

翌日から早速作業を開始した。「平成6年度の事業計画と平成6年度の予算書」「平成7年度の事業計画と予算書」「平成4年度の事業実績と収支計算書」「平成5年度の事業実績と収支計算書」を差し当って修正し、あるいは新規に作らなければならないが、目に物を見せてやるぞ、という心境だった。この時健康増進課の中村課長は快く、敏速に関係資料を石田、門口氏を通して提供して下さった。

そして連休中にまず「平成4年度の事業実績と収支計算書」「平成5年度の事業実績と収支計算書」を完了し、次いで「平成6、7年度の事業計画」に着手した。かくして連休は完全につぶれてしまったのである。連休明けには「平成6、7年度の事業計画」も完了し、会長と大森税理士はこれに基づき「平成6、7年度の予算書」を作成して下さった。

書類のFAX送信が認められ感謝

作成した書類を毎回府庁へ届けるのは、診療時間に食い込む可能性があり難儀だなと思っていたが、伊藤主査はFAXで送信することを認めて下さった。この時から主査に対する自分の印象はかなり良くなった。以来主査との文書のやりとりはほとんどFAXで行った。FAX送信の後で主査から電話があると、家内や職員が驚くくらいの丁重な言葉で応対した。これまでの人生で一度も経験したことがないような言葉使いだった。

ご存じの通り私はかなりの意地っ張りで、ええかっこしいである。へつらうことを潔しとしない人間である。それが、素直に丁重な応対をすることができたのは、今振り返ってみて、自分の利益に関係しないことだったからではないか、と思う。ここまでが法人用書類作成の第2ステップである。

ぬかよろこび

5月13日に伊藤主査より「役員身分証明書の取り寄せを始めるように」との電話を頂いた。本籍地市町村に交付を請求しなければならないので時間がかかること。証明書は3カ月間有効なので、取り寄せておいて無駄にはならない、との説明つきである。その電話の後で思わず快哉を叫んでいた。もうこれで目鼻はついたと思った。そして即座に会長にそのことを伝えた。

ところがである。5月23日に伊藤主査から「明日会長と一緒に来庁するように」との電話があり、翌日会長と二人で府医療対策課黒木係長、伊藤主査を訪問すると、その席で「19日に法制文書課と協議した結果、事業計画事業実績について自主事業がどれであるか分からない。そこで平成6年7年の事業計画と予算書を自主事業と受託事業に分類した以下のような一覧表の形式で作り直すように」との指示を受けた。

   自主事業  事業名  定款事業番号  内容  収入  支出  差額
   受託事業  事業名  定款事業番号  内容  収入  支出  差額

おまけに「証明書を取り寄せてもらったようだが、その有効期限内での法人認可の見通しは暗い」と言われた。まさに暗転である。その府庁からの帰り道「法人認可が遅れそうなので8月の盆休みの頃に海外旅行をしてもいいですね?」と尋ねた途端、会長の顔色がさっと変わり「役所に盆休みはない、今年は辛抱して欲しい」と言われた。その時の状況が今でも妙に生々しく思い出される。指示された形式の事業計画書と予算書の最終版を6月16日に府医療対策課へ届けた。法人用書類作成の第3ステップである。

設立記念式典の司会を命じられた

法人認可の日が遠のいたので医師会設立記念式典の準備に専念できることになったのは幸いであった。医師会設立記念式典が話題にのぼったのは記録によると2月22日の臨時理事会からで、以来南副会長を実行委員長として準備が進められ、私はこれに余り関わらなくても良かった。しかし式典の司会は総務がするようにと決められてからは、他人任せにできず旭屋、紀伊国屋で手に入る式典関係の書物を数多く購入し勉強をした。

そして6月14日の記念式典準備説明会に臨んだのである。その場で式典の次第の試案を披露したところ、記念講演を式典の後にすることに対してクレームが出て困惑した。しかし、この件に関して会長から府医師会事務局に問い合わせてもらったところ、式典と記念講演を別個とするのが正しいとの回答を得たのですっかり安堵し、自信を持って式典のシナリオを作ることできた。

祝儀を期待して招待を追加

当会は任意団体の医師会であるため、分離独立に際して社団法人枚方市医師会から寄附金等を拝受することができず、事務所の維持費捻出のために会員から借入れを行うという貧しい状態であった。それなのに身分不相応な式典をしようというのは「ええかっこしい」が多かったからだと言われても仕方がないとは思う。 そのため会長はいろいろお金の算段をされていたが、見るに見かねて、ご祝儀目当てで薬屋の招待を増やそうと考えた。浅ましい話だが、こんな機会は滅多にないことだから許してくれるだろうと勝手な理由をつけ、製薬メーカーを29社選び、出入りの問屋6社のセールスに招待状を届けてもらった。29社というのは招待状の残りがそれだけしかなかったからで、6月17日のことである。

案内表示にも手を出した

式典の案内表示やネームプレートなども自発的に作った。とにかく、この晴れの式典と祝宴を成功させたいとの一念で必死である。もちろん会長も副会長もそれぞれが懸命、必死であった。大阪の片田舎の小さな医師会でもこれだけスマートで立派な披露ができることをデモンストレーションしたかったのである。そこで結局20種類の案内表示、会場周辺地図、ネームプレートを作ってしまった。

誰もがカッカしていた

式典の日が近付くにつれて、会長、両副会長、私のいらいらはつのり、温厚な南先生までが青筋を立てて怒られるのを何度か拝見した。私もネームプレートの件で会長と衝突し、それを南先生が中に入ってとりなしてくれたり、会長と尼子先生がもめているのを私がなだめたりで前日まで興奮状態だった。しかし、誰もが真剣に式典の成功を願っていたことは間違いなく、そのためにカッカしていたのである。そのほか、苦労性の会長は赤字になることをしきりに心配され、祝儀が全部でいくらになるか積算するようにと言われたり、引き出物が足りなくなるがどうしよう、などいろいろ心配されるので、少し気の毒に思った。

予行演習

他の団体が会場を使用しているために、前日の予行演習の時間が大幅にずれ込み、ためにイライラは極限状態に達し、私は尼子先生と一緒に会場点検に走り回った。式典が終わったある日、山添先生に「今まで見たこともないような恐い顔をしてましたよ」と言われた。その山添先生や宮宗先生など若い先生方が自発的、積極的に会場の設営に奔走されている様子を頼もしく思ったこと、式典に対して中村課長以下石田、門口、井上氏ほか健康増進課の方々が本当によく協力して下さり感激したことを今も覚えている。

本番は予想外の上首尾

記念式典の当日は快晴で、会員は決められた分担を積極的に果たし、式典を手伝って下さるスタッフも懸命に努めて下さったお蔭で、予想をはるかに上回る上首尾の内に式典を終了できた。ご同慶の至りである。むしろつきが過ぎていて、気味が悪いと思った程である。というのは、式典の祝辞が予定時間通り30分で終わり、記念講演も予定通り正午の時報と同時に終わった。祝宴もまた予定時間通りに終わり、その上、祝儀の総額が前日積算した額と全く同額だったのである。もちろん、偶然が重なったのではある が、余りにピッタリと合いすぎて空恐しい感じがした。

松吉先生に感激

式典が終わり、記録の整理をしているところへ松吉先生が来訪された。先生は設立式典での役割が記録係だっだので自ら写真撮影を選ばれ、フィルム11本分もの撮影をされた。その全フィルムと整理された全写真とともに、個人別に封筒に入れられた写真をお届け下さったのである。全くの感謝、感激であった。

宴の後には苦難が待っていた

式典の司会が終わると祝宴では専ら医療対策課の伊藤主査の接待に回ったが、法人認可の件は一言も話されなかった。しかし式典と祝宴が成功裏に終わり、一息つく間もなく来庁を指示され、7月15日に伊藤主査を訪問した。そこで、前回訪問時に指示された形式で作成し、6月16日にその最終版を届けた「事業計画書と予算書」は駄目だと言われ、新たに別の形式で作り直すようにとの指示を受けた。まる1ケ月間何のコメントもなく、あれで良かったのかもしれない、との淡い希望を抱かせてくれた結果がこれである。少々頭にきたが、救いもあった。それは最近社団法人に認可された某歯科医師会の設立関連書類のコピーと既設の医師会立老人訪問看護ステーションの概要を頂いたことである。

我が生涯で一番勤勉だった期間

この翌日より、毎朝5時からパソコンに向かい、診療の合間も、夕食後も午前1時過ぎまでこれに没頭した。その間、伊藤主査や会長とFAXで何回も交信して校閲を受け、電話でも相談し、ほとんど毎晩1時過ぎに会長にFAXを送ったのである。それに対して会長からは必ずFAXで返信があった。大学受験の時にもこんなに頑張った経験はなく、この7月16日から25日までの10日間は我が生涯で一番勤勉だった期間であった。これが法人用書類作成の第4ステップである。

これで駄目ならケツをまくるぞ!

7月26日に府庁へ書類を届けるために家を出る時、これで駄目ならケツをまくってやろうという心境だった。伊藤主査は書類を受け取るや「平成5年度事業報告は平成5年度・6年度の事業報告とし、6年度は4月1日から6月30日までとするように」と言われた。そこで、本当に6月30日でよいのかと質問すると、自分も分からないから、法制文書課に問い合わせて返事をするとのこと。行く度に大幅に指示が変わり、しかも指示をする本人がよくご存じない。今度は小さな修正で済むと思ったからよいが、もしも、いつものような大幅な変更だったなら、きっと喧嘩別れをしていたに違いない。

攻守ところを変えたと思ったが?

今回は指示された書類だけでなく、法人認可申請に必要とされている書類は指示されていないものも含めて全て作成の上持参したので、これらの書類の審査もお願いした。また、いろいろな質問事項を印刷してお渡しし、回答を求めた。これに対して伊藤主査は「今度はこちらが追い込まれました、早急に仕事を進めます」と話され、ここに来て攻守ところを変えたなと感じた。

プッツン切れてしまった

翌27日、伊藤主査から電話で、昨日の質問に対する回答があったが、その後で、任意団体交野市医師会として枚方市医師会から寄付金をもらうようにとの指示を受けた。何たることか! 公益法人にしなければ寄付金をもらえないと言うから今日まで我慢に我慢を重ねて指示通りに書類を作ってきたのだ。その大前提が間違いなら、公益法人にしなければならない理由は何一つない。すぐさま会長に問いただす、と声を荒げ電話を切った。もう完全にプッツンである。

会長に電話が通じないので、ポケベルで会長に連絡をとってもらおうと医師会事務所に行った。その時の私の形相は物凄かったらしい。後で藤川事務員や木戸口事務長から聞いて恥じ入ったが、その時はカンカンだった。大阪で会議に出席中の会長を呼び出し「寄付金のことや、枚方市医師会交野支部を交野市医師会とみなす件につき、明日必ず黒木係長を訪問し、確かめて欲しい。先生からのまた聞きではなく、今回は私も同行して一緒に話を聞く」と頭に血が昇った状態で一気にまくしたてた。

会長は何が何だか分からないが、私が無茶苦茶に腹を立てているようなので、逆らわないのが賢明と思われたのだろう「分かった。黒木係長に電話する」と話された。後から考えると会長には本当に失礼なことを申し上げたわけで、穴を見つけて入りたかった。

ルンルン気分

翌28日、会長と一緒に黒木係長、伊藤主査を府庁に訪ねた。寄附金の件は伊藤主査の誤りで、「公益法人が任意団体に寄付をすることを認めるなら監督官庁としての責任を問われる」と係長は陳謝された。大前提はやはり正しかったのである。その後の懇談は非常に友好的で黒木係長はいろいろ教えて下さった。

その中で「公益法人として認可されれば、それから後は、事業計画や予算のようなものであっても、不都合であれば総会を開いて変えれば良い」との言に、「そういうことなのか」と胸のつかえが一気に消滅した。私の嫌いな言葉で言えば「目から鱗が落ちた」のである。そう考えれば、作文をすることに罪の意識を感じないで済む。好きなように創作するぞ、と思った。何十年も医師会の役職を経験して来られた会長も帰りのJRの中で「そう言うことなんやな」と何回も繰り返された。二人はルンルン気分、電車の窓から見える景色は真夏色に輝いていた。昨日はプッツン今日はルンルン、我ながら単細胞であると思う。

伊藤主査の来訪に感激

8月8日月曜日の午後7時頃だった。診療の最中に伊藤主査から電話があった。法制文書課で審査を受けた結果がたった今戻ってきたので、今から説明に訪問したいがどうかとのことである。もちろん有難くお受けした。主査は診療の終わった7時30分頃に来院され、直ちに42枚の書類の説明に入り、修正すべき箇所を教示して下さった。気位の高い本庁のお役人が、呼びつけることをせず、逆に自ら説明に訪ねてやろうと言われるのである。これに感激、恐縮し、感謝しない者がいるだろうか?

すっかり戦友気分

説明は2時間近くに及び、その後は待合室で雑談をした。この時、「4月に医療対策課へ来られるまで何処に居られたのか?」とお聞きすると、人権擁護課であると言われる。その前は公園課、その前は用度課とのこと。いずれも今の業務に全く関係のない部署であることに驚いたが、同時にこれまで主査に対して抱いていた不満や疑問が氷解し、同情の気持が一気にこみ上げてきた。

私が素人なら主査も素人、その素人同士がこんな面倒なことに懸命に関わってきたのだと思うと、主査は私の大切な戦友に思えてきて嬉しくなった。そして前の担当のベテラン主査ではなく、伊藤氏のような新任の主査と試行錯誤を繰り返しながら、目標達成に向けて努力を重ねることができたことのしあわせを思ったのである。

確かに役所に盆休みはなかった

8月12日(金)午後府伊藤主査のもとへ全書類のコピーを提出したが、16日(火)の朝には主査よりFAX30数枚の送信があり、修正を指示された。6月に会長が「役所に盆休みはない」といわれた言葉は真実だったのである。その日から毎日、修正・送信・校閲という作業を繰り返し、19日(金)の午後に主査の許へ全書類を提出した。そういう訳で盆休みもまた医療対策課との対応に終始した。これが法人用書類作成の第5ステップで、同時に最終ステップとなった。

若者と飲んだビールは最高にうまかった

法人認可の仕事をしている間に何回となく若い人と無性に飲みたい気持に襲われた。そこで、以前から自分と気が合うMR9名を誘い、25日(木)の夕方からアサヒパノラマビアレストランでスーパードライを飲んだ。眼下に見える大阪城公園が夕刻から夜に移り変わり行く様はまことに素晴らしく、平均年齢が30歳を越えないと思われる若者達と談笑しながら飲み交わすビールは最高にうまかった。それはまさしく至福の時であった。その中には私の息子より若い人も何人かいた。彼らはいわば呉越同舟の仲で、ライバル意識は強いがお互いのことをほとんど知らない。そこで、私が知っているそれぞれの人となりを紹介し、それから自己紹介をしてもらった。彼らにはいい迷惑だったかも知れないが、私には命の洗濯だった。ありがとう、若者たち。

社団法人認可される

8月30日(火)の夕刻、伊藤主査よりFAXと電話で法人認可申請が許可されたとの知らせを受けた。いよいよ、9月1日より社団法人交野市医師会である。感慨ひとしおであった。お蔭で枚方市医師会から3300万円の寄附金を頂戴することができた。医師会立の訪問看護ステーションを作ることもこれで可能になった。任意団体の医師会を作ることはそれほど困難ではないが、公益法人の医師会を作ることはそれとは比べようもなく難しいことを身を持って体験することができた。思えば、本当に良い勉強をさせてもらったものだと思う。お金を払ってもできない生涯学習を思いっきりさせてもらったのだから。

学術面でもPRしておこう

6月末に日本プライマリ・ケア学会から一般口演演題募集の案内が当会に届いたので会員に配布したが、それを見ると医師会単位の発表のようである。そこで、この際これに応募して、学術面でも当会のPRをしてやろうと思った。宴だけでなく診療も真面目にやっているところを示しておきたかったのである。とは言っても式典を目前にした忙しい時期に他の先生にお願いすることもできず自分が応募したが、幸い採択され、10月2日に尼崎で発表をした。

8月には大阪府医師会医学会総会の一般演題募集の案内が届いた。これも医師会単位の発表なので応募し、11月13日に府医会館で発表をした。この時の座長からの推薦があったので発表演題を原著として大阪府医師会医学雑誌「大阪医学」に投稿するように、との依頼文が今年の2月に届いた。今度も「めくら蛇に怖じず」すぐに応じたが、何しろ20年以上も原著など書いたことがなく、参考文献と英文抄録には泣かされた。

こんな筈ではなかった

本年3月25日の予算総会で役員改選が行われた。役員をするのは2年間だけと思っていたが、法人定款の付則により3月末で一旦辞め、更に2年間、合せて3年間しなければならなくなったのである。こんな筈ではなかった。それに、法人認可がこれほど難しいとも、こんなにきっちりやらなければならないとも思っていなかった。総務を引き受けた時には、小さな医師会だから手を抜けるところは手を抜き、府医や府に叱られたら始末書を連発するくらいの気持で気楽に行きたいと考えていたのである。それが4月末に医療対策課へ呼び出されてより目茶苦茶になってしまった。こんな筈ではなかった。

お蔭で定款、事業計画、事業報告、予算、決算のすべてにおいて監督官庁お墨付きのものを持つことができたが、果たしてそれ程までにする必要があったのだろうか、簡単で小さな医師会こそあらまほしきと当初思ったのではなかったのか、と言うのが現在の心境である。しかし、私個人としては面白い経験を存分にさせてもらった。たとえ望んでもできない経験を、縁あってさせていただくことができて本当に有り難かったと思っている。しかし、もうこれ以上はこりごりである。

お詫びとお願い

寳田先生から投稿の指示を受けた時には、冒頭でも書いたように今さらとも、しんどいとも思ったのであるが、一旦書き始めると止めるすべを知らないスキーのようにここまで来てしまった。仕方なく読み続けて下さった奇特な方に対しては心からのお詫びを申し上げる。

また、文中にも書いたが、後2年足らずの期間を総務として医師会業務の省力化に全力投球をしていきたいと思っている。そしてできるだけ雑務の少ない医師会に近づけたいと願っている。しかし、その後は医師会の役職から解放していただこうと思う。その理由の最大のものは会報創刊号の自己紹介のところに記した通りである。衷心よりお願い申し上げる。


<2000.9.25.>

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