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2012.12.15. 掲載
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目次
1.はじめに
2.医院兼居宅新築
3.医院改造
4.居宅の増改築
5.造園
6.まとめ
先日、私の美術歴をまとめようとしたときに、これまで美術歴をまとめようと言う発想が起こらなかったのは、作品を創作するような、能動的に美術に関わることがほとんどなかったからではないかと考えた。
そのとき、家のデザインは、医院兼居宅の新築も、居宅の増改築も、私がデザインした通りに建築してもらったので能動的に関わったと言えるが、これについては、まだまとめていないことに気がついた。
もちろん、素人の私が書いたデザインだけで家が建てられるわけはなく、それは工務店を通して設計事務所の建築士が設計図にするのだが、実際の工事施工に当たっては、私のデザイン通りにしてもらった。
そこで、私の住宅のデザイン(設計図)と、その結果としての住宅の写真をまとめておくことにする。
1972年11月に大阪府交野市に開業予定地を得ることができ、医院兼居宅のデザインを描き、工務店を決め、12月に地鎮祭を行った。
翌年1月から工事に入る予定のところ、工務店の都合で5月からとなり、9月から野村医院を開業した。その間の状況は歌と思い出 7 1972年 歌と思い出 7 1973年に詳しく書いている。
医院兼居宅のデザインは、平面図だけでなく、立面図も自分で書いたが、それを見て、工務店の担当者は、平面図を書く人はいても立面図まで書く人は居ないと言いながら、天井の高さ2.7mは高過ぎる、暖房や冷房効果が悪くなり、不経済だから、2.4mにするようにと強く求めてきた。設計事務所の設計士も同じ意見で、少し嘲笑気味だったように覚えている。
その時の私は36歳、大学を辞めて民間病院に勤めながら、実地で開業の勉強をしていた。親と住んでいた家は県の官舎、結婚してからは府営住宅で、家を建てることなどとは皆目無縁だった。そんなずぶの素人でありながら、工務店や設計事務所という専門家のアドバイスを頑強に拒否したのは、若かったというだけでなく、持って生まれた強情さが、大いに関与しているのだろう。とにかく、昔から専門とか権威ある人が高圧的に言うことに対しては、本能的にまず疑ってかかるのだった。
ところが、2004年に入って、大和ハウスがモデルハウスのPRに使った新聞広告を読んで、天井の高さが、住宅のセールスポイントとして取り上げられるようになったことを知った。それによると、普通の家の天井の高さは2.4m以内だという。それと比べて、この大和ハウスの住宅は天井の高さを2.6mにしたので、同じ広さの部屋でも、天井が高い分だけ空間的に広がりが出て開放感があり、大きく感じられると宣伝している。私がその31年も前に、専門家の反対を押し切って設計した天井の高さ2.7mは、その基準よりもまだ10cmも高いのだ。
平面を広げることは簡単で、土地さえあれば建て替える必要はない。しかし、天井の高さを高くしようとすれば、建て替えるより他に方法はなく、それには、莫大な時間と費用が必要となる。今ごろになって住宅のセールスポイントの一つに使われ始めた「高い天井」は、我が家では31年前から、それ以上の高さで存在してきた。それを知って、頑固も捨てたものではない、と愉快になったことを思い出す。 その間の状況は、頑固な私の総括に詳しく書いている。
この時のデザインは、効率本位で無駄のない設計をした。医院の方はそれで良くて、建ててから私が開業していた32年間と、息子に引き継いで7年間で大きな変更はなく、玄関部分を改造しただけである。
それに対して、居宅の方は医院の付け足しで、生活ができれば良いと思っていたので、味も素っ気もない代物だった。開業が軌道に乗りはじめると、生活を楽しもうと、居宅の増改築に向かうことになった。
こどもの頃、近くで火事を経験し、火事が大切な物を短時間で灰にしてしまうことを知った。それ以来、将来は鉄筋コンクリートの家に住むことと決めていた。だから、最初から鉄筋コンクリートを選び、スタイルは好みの陸屋根式とした。
大学を辞めた時、全財産を使って新車を購入し、その後民間病院で2年足らず働いて得た給与だけが手持ち資金で、残りは借り入れ金という状況だった。それでも、建替えなどを考えず、鉄筋コンクリート造りを選んだのは、若かったこと、それを許す時代だったことによるのだろう。その幸運に感謝している。
広告は屋上に設置した広告塔のみとした。これは息子に医院を引き継ぐまでの32年間、取り替えず維持することができた。背景の交野の山々の緑や青空の中で、この赤い文字はアクセントとなり、遠くからもよく目立った。写真31〜36で、そのことがご理解いただけると思う。
医院のデザインで気をつけたことは、
1)院長の私が、診療の場で中心の場所にいて、診察をしながら、ほかの業務が見渡せ、把握できる。
2)私、職員、患者の動線が最短となる。
3)患者さんに分かりやすい。
4)患者さんの待ち時間のいらいらを少なくする。
5)明るい雰囲気。
の5点であった。それを、以下のデザイン3を使って説明する。
1)院長の私が、診療の場で中心の場所にいて、診察をしながら、ほかの業務が見渡せ、把握できる
まず、入室する患者さんの様子、処置室で採血や注射を受けている様子、自動現像機(自現)から
出てくるX線フィルム、受付との間のドアを開けているので、受付の様子が分かる
2)私、職員、患者の動線が最短となる
私や職員の動線が最短になるのは容易に理解いただけると思うが、診察机と受付の机との間に
カルテ転送窓を設けてあり、運ぶ人を省き、迅速に処理できる
患者さんは、玄関から入るとすぐ受付カウンター、診察室に入ると目の前に処置室、左横に診察机
左斜めにX線心電図検査室がある
3)患者さんに分かりやすい
構造が単純で考える余地がない
4)患者さんの待ち時間のいらいらを少なくする
待合室の電光掲示板に診察中の番号を表示する
決まった注射や検査の場合は順番待ちが不要
マガジンラックや掲示板に読み物を置いたり掲示する
5)明るい雰囲気
待合室の北面は全面を天井まで届く窓
診察室と待合室の境にも天井まで届く窓
受付はオープンカウンター
医院の家具備品で市販品に好ましいものが見つからない場合は、自分で設計し、自作した。待合室の下足箱、マガジンラック、診察机上のパソコン書籍棚がそれで、下足箱と診察机上のパソコン書籍棚は息子に医院を引き継いだあとも使っているようなので、下足箱は38年、パソコン書籍棚は26年間使用していることになる。
処置室の西隣に資料室がある。ここはカルテの三次保管(1年以上来院なし)とX線フィルムの一次保管、紹介状写しなどの資料を保管している。
医院のデザインで、築12年後に改造した個所が1個所ある。それは玄関部分で、冬期ドアの開閉と同時に冷たい空気が入り込み、診察室にまで及ぶのに困惑した。応急策をいくつか試みたが、結局は2重ドアにして解決した。
もう一つは、玄関の土間が狭く、受付が混雑することで、これも土間の幅と奥行きを拡げ、土足のママで受け付け近くまでいけるようにした。院内も土足可能にしてあれば不要な改造であったが、衛生上と習慣で土足禁止としてきた。
開業して8年目の1980年、私は44歳だったが、開業が軌道に乗り、時間的にも経済的にも余裕ができ始めたところで、居宅の増改築をしたくなり、隣接した土地を購入し、そこへ増築することにして、喜んで設計をしていた。
ところが、医院の設計の際には口を挟むことをしなかった妻が、「居宅はプロに設計してもらった方が良い。パパは素人、プロに敵うわけがない」と頑強に言い張るのだ。
そこで「設計事務所が立てた設計と、私が立てた設計を比較して決めよう」と提案した。もちろん、妻はOKで、工務店に依頼して設計事務所に増改築の設計をしてもらった。妻は、プロなら事務所的な居宅ではなく、居宅らしい居宅を設計してくれるに違いないと、信じて疑わないようだった。
間もなく対決の時がきた。私はプロなにするものぞ!と自信満々だった。そして、設計事務所の作成した設計図が広げられた途端、勝負はついたのである。「これ何!こんなのおかしいわ、パパの方がずっと良い!」。設計事務所の方には申し訳なかったが、これにて一件落着、私は設計について妻の信頼を得ることができた。そして、これ以後マイペースで、大きな顔をして設計を進めて行った。
設計事務所には、私の設計図に基づき、強度計算など建築確認申請に必要な図面を書いてもらい、実際の施工図は私が100分の1の平面図、立面図だけでなく、20分の1の平面図、立面図も書き、パースもつけ、増改築をしてもらった。
材料も全て私が指定して書き込んだ。工事の途中で思いついた変更も、自分で図面を書き換えて渡すので、思うようにことは運び、大満足だった。この際、コピー機が非常に重宝だったことを思い出す。
この年の歳末までかかった居宅増改築工事は、私にはもちろん、私たち家族にとっても忘れることのできないできごととなった。若かったからできたことで、今なら、とうてい行う気ににはならないと思う。そこに住みながら、鉄筋コンクリートの建物を壊し、増改築するという工事は、想像を絶する犠牲を伴うもので、もう二度としたくはないと家族の誰もが思っている。
しかし、毎晩息子を連れて、工事の進捗状況を確認するのは楽しみであった。「圭、野村城を探検に行こう!」が合言葉で、夜の食事が終わると、決まって二人で、工事の終った個所を懐中電灯を持って見て回るのだった。1980年12月28日に、漸く工事は完了し、新しい居宅で新春を迎えることができた。
開業して良かったことの一つが、この居宅増改築工事だったことは間違いない。この時期は、まったくこれに全エネルギーを集中し、自分の思うがままに工事を進めることができた。今振り返ってみても、全てについて80点の点数をつけることができる。80点は私の満足点である。
この増改築工事を済ませると、私の関心はそれからまったく離れ、それから20年間居宅に手を入れることをしなかった。しかし、20年の歳月で壁紙とカーペットが傷み、はじめてこれらを張り替えた。
この間の状況は歌と思い出 8 1980年に詳しく書いている。
最初の医院兼居宅のデザインは、効率本位で無駄のない設計を行った。医院はそれで良かったが、居宅はまるで事務所の感じで、味もそっけもなく、心やすまるものでなかった。そこで、その後、増築をしたときには、こちらを改装し、無駄と遊びを充分に取り入れた設計にした。その遊びの部分があることで、居宅が非常に住みやすく、憩いの場となっていることを実感して来た。このことは、心に生きることば 第4章:行動にも書いている。
2005年に引退してからは、その居宅とも離れ、大阪市内でマンション生活を楽しんでいる。
医院と違って家具は自作はしなかったが、作り付け家具の設計は私が行った。食堂の食器棚とテレビ台、リビングのサイドボードがそれで、これら3つは、居宅を息子に譲ったあとも、現在まで引き続き使われている。
建物の完成予想図パースペクティブ(perspective)を業界ではパースと略称するらしい。デザイン10で描いたパースは、写真31〜33のように、ほぼ予想通りに完成した。
私は、この角度から見る、直線の入り組む外観が好きだった。隣の土地を譲ってもらえず、奧へ敷地を延ばさざるを得なかった結果だったが、その方が良かったと思っている。
最初の医院兼居宅 写真3 と比較すると、その違いがお分かりいただけると思う。増改築した外観には、たくさん遊びが入っている。
増改築では、すべての部屋の平面図、立面図だけでなく、内装材料やドアも私が選んで書き込んだ。その一覧表が以下のデザイン40と41である。
庭の設計は、増改築を終えた翌年の1982年春からはじめ、4月4日に庭の最終設計図を書き上げ、4月10〜11日に庭木を搬入、4月23〜24日で芝張りを完了した。この間の状況は歌と思い出 9 1982年に詳しく書いている。
庭の設計にあたって気をつけたのは、シンプルでゆったりした、洋風庭園だった。シンボルトゥリーはケヤキを選び、ハナミズキとヒメシャラを中心とし、芝生に多行松を散らばせ、幾何学的に敷石を配置することを考えた。これに妻の希望を取り入れ、モチノキの老木をケヤキの対面に置いた。
息子が2歳になる前から噴水が大好きで、万博公園の噴水の傍をなかなか離れなかったことを思って、庭の南西角に噴水用池を作った。
居宅の場合と同じで、一旦庭を造ってしまうと、私の関心は薄れ、雑草狩りと落ち葉拾いに追われるだけとなってしまった。
この「私の住宅デザイン」にまとめた事柄は、間違いなく開業して良かったことの一つである。野村医院二十年史の中で、開業して良かった理由を10個挙げているが、その内の「5.作ることが好き」と「6.デザインが好き」と「10.好運」がこれに当てはまる。
その中でも、1980年の居宅増改築では、そこに住みながらの大がかりな工事であったから、それは大変だった。しかし、それだけ工事の実際が良く分かり楽しかった。
医院のデザインは、新築の時から満足し、私が診療をした32年間、ほとんど問題はなかった。居宅の方は増改築した時から、転居するまでの26年間、これもあまり不満なく過ごした。
庭は理想的な洋風庭園を作ったが、こちらは手入れが面倒で、結局は雑草と落ち葉対策に追われる始末だった。それでも、モチノキやケヤキ、ヤマモモ、カリンの成長は驚くばかりで、それらを楽しんだ。
残っていた住宅のデザイン(設計図)の多くを、このような形でまとめられたことが嬉しい。その中では、デザインしたパースの通りに建てられた全体像が一番心に残っている。1996年に野村医院のホームページを開設したが、以来この写真をホームページの上部に載せてきた。
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