第16章 記憶の本体
『記憶の本体』と言おうか、『大記憶』と言おうか、それとも詩的表現法を用いて『記憶の木』とでも稱(たた)えようか、それは何れにしても、世界の発端から現在に至るまでの細大の歴史は、悉くその中に潜在的に保存されていることは確かである。既に潜在的に保存されているのであるから、人間でも霊界の住人でも、潜在意識を以ってこれに臨まなければ、この歴史を読むことは出来ない。人間に潜在意識がある如く、霊界居住者にも勿論潜在意識がある。換言すれば、精神統一状態に於いてのみ交渉を起こし得る所の、『より深い自我』がある。それを極度に奥深く掘り下げると、結局大我-世界意識と合流するが、そこには過去、現在、未来の事柄が悉く記憶されているのである。
かく述べると諸君は反問するであろう。『未来の事件はまだ起こっていないのではないか、それがどうしてエーテルの上に印象付けられているのか?』が、それは既に神の想像の中に生まれているのであるから、人間の所謂未来は、神からいえば過去である。換言すれば、全ては神のプログラムの中に規定されているのである。但し未来の歴史を読むことは、人間にとりて至難の業であることはここに言うを待たない。神がたった一度きり考えて、二度とは考えない事であるから、未来の記憶が、無形無時のエーテル体の上に残されている印象は、決して深くない。それは通例極めて幽玄微妙である。かかるが故に、よほどの優れたる内観的聴力を具えたる人のみが、その余響を捕え得る。これに反して過去の記憶は、人間のお粗末なる主観が、間断なくそのおさらいをやっているから、従ってその印象がエーテルの中に鮮明なる印象を造り、第六感者にとりて、比較的容易にこれを捕えることが出来るのである。
私はここで、この『記憶の本体』が、諸君の所謂死者、つまり永遠の生命を有する、我々霊界居住者に対して、いかなる意義を有するかを説明しておきたい。霊界居住者は一切の過去の記憶から離れて住まうとすれば、それはその人の随意である。つまりすっかり過去を忘れてしまうことが出来るのである。が、彼等は『記憶の本体』から因縁の糸を手繰り寄せて、過去の人格を再現せしむることも、又同時に可能なのである。その場合には、すっかり過去に再生したようになる。但し死者が地上の人間と交通を試みるには、この仕事は中々容易でない。時とすれば、過去の生活のホンの一小断片のみを、記憶の倉庫から抽出して、ちょっとの間、これを皆様にお目にかけ得る位に過ぎない。
この事に関連して、ここで是非諸君の注意を促したい一の大切な事柄がある。外でもない、それは我々幽界居住者も、又地上の諸君も、右の『記憶の本体』の中には、皆同一の項に記載されていることである。で、我々が霊媒を通じて、地上の諸君と交通しようとせば、その準備として、丁度俳優が脚本のおさらいをやるように、先ず自分の過去の役割のおさらいをしておかなければならない。ところが通例幽界居住者はこの準備をしていないので、いざ準備に際して、性急な質問でも受けると、大いにヘドモドすることになる。要するに我々は、消え失せてしまっており、又消え失せてしまわずにいる。この二重性はちょっと説明に困難を感ずる。根本的にいえば、我々は現世に於いて愛する妻、子、親達に訣別(けつべつ)を告げた時と、全然同一人格である。我々は生前嫌いであった事物人物に対しては、依然として不快の感情を有し、又生前愛好せる事物人物に再会した場合には、昔の愛情が油然として湧き出るのを感ずる。が、もしも『人格』という言葉が、我々の現世的記憶、物質的知識の総計を意味するものとせば、その時は、我々は大いに変わっている。何となれば現世の我々は『記憶の本体』の中から、そう言った昔の記憶を復活せしむるに過ぎないからである。しかし我々は、依然として昔の心情、昔の性向を保有している。我々の性格の中の絶対必要でない部分、もしくは付随的な部分のみが、死と共に失われている。これを要するに永久に残る記憶は、情緒的のもので、それは源を創造的生命の中に発し、我々の魂の主要部を構成しているのである。
(評釈)宇宙の内奥には過去、現在、未来を通じての細大の事物が、只一つの遺漏もなしに全部保存されている。換言すれば、一切の記録(レコード)が出来上がっている、という事は仏教思想中にも見出され、決して今に始まった考え方ではないが、我々が現在敏感な霊媒を用いて、超現象世界を探れば探る程、どうもこの考えが正しいように推断したくなる。例えば北村霊媒の背後に控えている、月真と称する古代僧の霊魂によると、彼は数十年前、乃至数百年前に死んだ人達の姓名はもとより、その生死年月日、性格、職業、等を細かく報告してくれる。どうしてそんな仕事が可能かと月真に訊くと、霊界の記録につきて調査するのであると答える。間部子爵の所には、祖先伝来の詳しい過去帳があるので、それと月真の報告とを一々対照して見たが、実によく符合しているのを発見して、我々は感嘆これを久しうした。『小桜姫の通信』なども、確かに数百年前の過去の時代の、正しき絵巻物であると認むべき証拠が、随所に見出される。かく考えた時に、マイヤースの通信は、確かに嘘を言っていないと思う。尚マイヤースが、未来の出来事も、結局神の過去の記憶の中に見出される、と述べているのは確かに至言である。神の想像の記録の中には、大は天下国家の治乱興亡から、小は一草一木の栄枯盛衰に至るまで、悉く確定されているに相違ない。悲しい哉、物質の世界に出頭没頭する鈍眼凡骨者流には、その記録の一端をすら読破する力がないので、一寸先は暗闇、泣いたり、笑ったり、悲しんだり、憎んだりして、覚束なきその日その日を送っている。これは神界が秘密を厳守する訳でも何でもないらしい。神界はいつも明けっ放しなのであるが、ただ明きめくらの人間に、それを捕える霊能がないまでである。この点は心霊学徒としては、よくよく留意すべき事柄であると思う。似非非霊術者流、又は宗教者流は、何ぞ秘密の呪文や、何等かの戒律でも修むれば天地間の秘事が掴み得るようなことを述べるが、これは単なる客引きの好餌に過ぎない。純真無垢の深い深い内観以外に、天地間の神秘は永久に掴めない。
第17章 注意
自分はここで、『注意』の定義を下しておきたい。生理学的にいえば、注意とは或る特殊の神経の力をば、或る特殊の脳細胞に向けることである。例えば自分がヴェニスの聖アマクの影像を想起しようとすると、その時自分としては、ヴェニスの記憶に関係ある、特殊の脳細胞に神経力を向けるのである。すると、かつてヴェニス生活中に作られた影像が復活して来て、一時的に一つの『人格』を造る。その間背景には、無論絶えず意志の力が全てを支配している。勿論これはヴェニスに限ったことではないので・・・。さて右の人格の諸要部であるが、自分の観る所によれば、これ等は意想外に複雑した連想、又は記憶の網によりて造られていると思う。つまりそれ等の要部の一つ一つが、魂の柔軟な原料中に深く刻まれた、基本的経験の連続から出発しているものと思う。
我々帰幽者の『心』は、これを一つの網と考えてもらいたい。網には沢山の小中心があり、これ等の小中心から色々の思想、色々の記憶が放射されている。そしてそれ等のどの小中心も、注意を地上の物質界に向けることが出来る。勿論我々は、根本的には一つの纏まった人格である。しかし我々が、或る特殊の事物に精神を集中する時に、我々は分割されて二つのものになる。つまり我々は、本体と分霊との二つになるのである。我々が再び一つに纏まろうと思えば、我々は地上の諸君から離れて、よほどの遠路を戻って来ねばならない。私は今『遠路』と言ったが、勿論これは距離を意味するものでない。それは結局気分の問題であり、同時に又二つであり、又もっと多くでもあり得る。これは独り我々帰幽者に限ったことではない。地上に住む諸君だとて同一である。諸君の体は謂わば小宇宙で、その中には無数の小生命が宿っているが、しかしこれを統轄する心はたった一つである。私とすれば帰幽後に於いて、自分というものの正体が、初めてよく判って来た。つまり私というものは、より大なる魂の一部分でしかないのである。自分は自分にして同時に自分でなく、自我の本体の中の沢山の中心より糸を引いて、地上に於ける自分の経歴を織り出していたのである。
私は先に生理学的見地から『注意』につきての定義を下し、それは或る影像と関係を有する所の、特殊の脳細胞に向けられたる、一の神経力の流れであると言った。ここで諸君は疑うであろう、幽界居住者には、物質的の脳が無い筈ではないかと。が、待ってもらいたい。我々に物質的の脳髄はないが、しかし我々は一種の心霊的の網を有っている。この網の構造は、必ずしも人間の脳とはぴったり一致しない。即ちそれには脳髄のように、小さな神経区画が出来ていない。しかしその中には、やはり沢山の小中心が出来ていて、根源の統一体から、任意に心霊的のエネルギーを引き寄せる装置になっている。我々は非常に努力すれば、同時に注意を二ヶ所にも三ヶ所にも向け得るが、普通は一ヶ所にしか向けられない。特に地上と交通を試みるに当たりては、精神集中に多大のエネルギーを要するので、大体一時に一人との通信しか出来ないものと思わねばならない。その時通信を受け持っている中心、つまり我々の分霊は、専ら通信すべき材料に焦点を合わせているのであって、従ってその他の記憶は少しもその内部に宿っていない。換言すれば、他の問題を通信しようと思えば、我々は別の分霊を出さねばならないのである。
(評釈)この一章も又幽明交通現象に対する人達にとりて、甚だ有益な教訓を与えるものである。一口に幽明交通と言っても、談何ぞ容易ならんやである。霊媒の方では深い統一に入りて、波長を成るべく他界の居住者に近付け、又他界の居住者の方では、成るべく思念を人間界の方に向けて、霊媒との連絡を講ずべく努める。ここで初めて両者の接近が出来るが、元々振動数の異なれる両者の間に交通を開こうとするのだから、そこに多大の無理が出来る。マイヤースは、他界の居住者が一つの体を二つに分け、従って自分の一部分だけが霊媒と交渉を開くのだと言っているが、私の実験から言っても、これは確かにその通りに相違ない。要するに幽明交通では、人格の一部分しか現れないのである。この間の消息を知らないと、幽明交通に対して到底正しい批判は下し兼ねる。
第18章 潜在的自我
私は心の潜在的内容を説明すべき約束をしてあるから、ここでその責を果たそうと思うのである。それには順序として、人間を一つの生きた有機体と考え、そこから話を進めるのがよいと思う。一体有機体などという言葉は、現在の私には何やら奇妙に響くが、出来るだけ諸君の用語を使用して行かねばならないので骨が折れる。先ず第一に注意しておかねばならぬ事柄は、意識即ち魂と、肉体とが別個の存在であることであるが、現代の科学者はこの両者をごっちゃに取り扱いたがる。肉体というものは、これは遠い遠い過去から到来した遺伝物で、それ自身一つの生きた王国である。肉体は人間の想像以上に複雑なものであって、神経なども、上級、中級、下級の三段階から成立している。そしてこれ等の神経こそ、実に我々の意識が操縦する所の鍵なのである。
ところで我々幽界の居住者とても、或る程度肉体の機関に相当したエーテル体を有っている。バイブルには、言葉は神であり、言葉が肉体となって我等の中に宿ったのであるとあるが、その文句には、多大の真理が籠もっている。物質的有機体は、実際ある程度超現象的実在の反映なのである。私は全てに、一の統一原理が存在することを述べた。それから又私は、意識の小中心が沢山存在し、これが焦点となることも述べた。即ち幽界人が地上と交通する場合には、これ等の意識の小中心の一つが霊媒に憑りて、一時その肉体を占領するのである。その際我々は、通例霊媒の統一原理までは占領しない。そんな真似をすれば霊媒は発狂してしまう。何にしろ統一原理の占領は甚だ危険な仕事で、所謂幽界の悪霊でもなければ、滅多に試みない。私はここで地上の一例を引いて、判り易く説明することにしよう。例えばここに英国という国がある。国内にはそれぞれ自治自給の多くの都府があるが、しかし何れも大首都のロンドンに一般的の指揮を仰ぎ、又ロンドンから何等かの重要な刺激を求める。幽界居住者の状態は、正にこれに類似する。彼は薄紗状(ブエール)の雰囲気で包囲されたる一つの独立王国である。但し地上の王国のように、全てが造りつけにはなっていないで、右の微妙なる雰囲気は、任意にその形態を変更し得る。その他にも色々違った点がある。兎に角我々の包囲物は、一つの気象的熱的性質を帯びたもので、従って極めて弾性に富んでいる。それは極度に微細なる原子を含んでおり、平気で人間の体などを突き抜ける。
ここで諸君は質問を提出されるであろう。『幽界と物質界とは一体どんな具合に異なるか?』と。その相違点は実に大きい。何となれば幽界の組成原質は、何等定形を有っていないからである。従って、帰幽後に於いて我々が、充分の発達を遂げさえすれば、我々は、全然潜在的自我(自我の本体)の中に埋没してしまうのである。生前私などは、意識に二様の形式があると考えた。即ち甲は潜在的精神、乙は顕在的精神であって、後者は一般的世俗的事務を指揮し、前者は識域以下に潜む所の、一種の微妙なる創造的原動力だと思考した。ところが、帰幽後に於いてよくよく調べてみると精神としては、別に顕在精神などというものはないことを知った。そこに見出されるものは、内面の精神の働きに鋭く感応する所の、一の微妙複雑なる機械-肉体あるのみである。換言すれば精神はただ一種だけで、肉体という機械に感応したものを、人間が勝手に顕在意識などと呼ぶに過ぎないのである。
兎も角私は、この所謂顕在意識、もしくは通常意識と称するものの内容を解剖して見ることにする。第一の要素は、遺伝的の神経記憶、第二の要素は、右の神経記憶の大影響を受ける体的欲望、第三の要素は、内在的自我の反射-以上の三つであるが、勿論最も重要なるは最後のもので、それが人格の基本を成すのである。この内在的意識の反射をば、真っ先に受け取るものは、私の所謂神経記憶と称する液状体で、その液状体が、続いてこれを脳に伝達する。従って液状体の状況次第で、内在的意識が漸く強く脳に響いたり、又弱く響いたりする。兎に角通常意識なるものは三重体である。即ち内在的意識と、これを影像に翻訳する所の神経記憶と、これから右の影像を受け取る所の物質的脳との合作なのである。勿論その際、脳は出来るだけ受身の状態に置かれねばならない。受身の状態に置かれない脳は、内面から送られる思想をば妙に歪ませたり、潤色を施したりするばかりでなく、甚だしきは全然感応力をも失ってしまう。言うまでもなく、そこには右と全然逆の作用も営まれる。即ち脳が物質界の印象を同化吸収して、これを奥へ奥へと伝達する仕事で、人間はその覚醒時に於いて間断なく、これ等二種の働きを繰り返しているのである。
ここで諸君は更に疑問を起こすであろう。『一体あの積極的な、時とすれば感服しかねる存在-自我(エゴ)-とは何か?』と、これは全ての総計である。即ち(一)人間の物質的要求、(二)遺伝的記憶の累計、(三)内在的精神と交通能力、これ等諸要素の総計が、つまりその人の個性を成すのである。時とすれば一部の人間は、途方もなく優れたる独創的天才を発揮するが、これは結局その人の脳が神経記憶の奥に控えている所の、内在的精神の刺激に鋭く感応する、不思議の素質を有っている為である。普通人にありては神経的液状態が、中間に於いて媒介を務めるので、印象が兎角混濁して鮮明を欠くが、特殊の人には、脳と内在的精神との間に、直接の交流が営まれるのである。無論それに加えて、豊富な知識の貯蔵もなければならない。さもなければ、立派な創作物は出来上がらない。創作というのは決して単純なものでなく、多くの要素の持ち寄りで出来上がる。即ち内在的精神が原動力となりて、記憶並びに観念の想念を然るべく取り纏め、更に遊離状態にある所の外来の思想をも取り入れると言う按配である。同一の発明、同一の真理が、時として同時に、地上の二人乃至三人の天才によって唱道せらるるのは、つまりその結果である。
所が通常意識の場合には、右に反して、あの液状体が最も重要なる役割を演じ、それが『自我』の主体を為している。液状体はしばしば他界の居住者から材料を摂取し、幾多の部分的意識を造ることもあるが、しかしその大部分は、統一原理(自我の本体)と連絡を有し、言わばその付属物に過ぎない。その小意識が何かの拍子で、統一原理と関係を失すると、それがとりも直さず人格の分裂である。しかし、これは適当の処置を講ずることによって、大抵回復出来るものである。
ここで私は、諸君が私の所説に基づきて、人間の進化につきて一考察を遂げて欲しい。より大なる精神、即ち自我の本体は宇宙の大初から存在していた。原始的人類の発生並にその発達は皆その受持ちにかかる。要するに自我の本体が、人類の彫刻師なのである。人類が未発達の時には、勿論うまくこれを使いこなすことが出来ず、稀に微弱なる反射作用を与え得る程度に過ぎなかった。が、やがて人類は発達を遂げたので、往古に比べれば、遙かに強力なる交流作用が、両者の間に営まれるようになった。つまり神の言葉が、段々容易に肉体に宿った訳である。
ここで諸君は『何故に心が表現を求むるか?』と訊ねるであろう。他なし心が『個性』を求め、又『形態』を求むるからである。個性といい、又形態といい、大体心と物との間に行われる間断なき接衝の所産である。が、ここで諸君として忘れてならない事は、人類の行動の支配権を握るものが、どこまで行っても物質の精-神経並に神経記憶である事である。故に『自我』とは、結局肉体精神が骨子となり、これに統一原理から派出さる、影像が加味して出来上がったものである。それがとりも直さず言葉が肉体に宿ったのである。
(評釈)この一章は非常に用心深く、盛んに抽象的文字を使用しているので、真意を掴み難いかと思うから念の為に、もっと判り易く私の言葉で解釈してみよう。
第一に標題の『潜在的自我』とは、勿論『自我の本体』、私の所謂『本霊』のことである。『統一原理』というのもつまりそれである。もっと具体的に言えば、これは、各自の魂の親、出発点である所の一つの自然霊である。日本では古来『人は祖に基づき、祖は神に基づく』と言っているが、この『神』がつまり潜在的自我である。
マイヤースが『言葉が肉体となり我等の中に宿る』というバイブルの文句に与えた説明は妥当である。日本ではこれを神の分霊が、我々に宿ると言っている。
次にマイヤースが潜在意識と、顕在意識とを同一物とせるは正しき見解である。意識は一と色である。ただ媒体次第で、その働きに色々に等差がつくまでである。彼が通常意識を、一の複合体と見做しているのも甚だよい。人間の通常意識が、玉石混交である所以がよく判ると思う。天才の説明も大体に於いて首肯される。天才とは結局一種の片輪者、変態者であり、優れた霊媒も同一である。彼の所謂『神経的液状物』とは幽界人としての実際的観察に基づいた名称で、現界人からいえば、つまり常識の要素であり、人間味である。天才者にはそれが欠乏しているのである。
最後に彼が述べる所の進化論は、非常に良いと思う。私の流儀にこれを説明すれば、自然霊がその分霊を降ろして、人類の種子を植え付け、幾十百万年に亘る多大の年月の間に、段々これを進化せしめ、以って地上に於ける自分の代表者-肉の宮としたのである。現在の人類はまだお粗末であるが、しかし太古の原始時代の人類に比すれば、どれだけ進化しているか知れない。人間が宇宙の大霊と同化するなどというのは、単なる観念説で、実際問題とすれば、人間が自己の本霊と合流することが出来れば、それは理想の極致と称してよい。
第19章 睡眠
前章の記事は、潜在的自我の一切の働きを尽くすに至らなかった。何卒あれを一の序説位に軽く取り扱って頂きたい。あの問題をいかに論じてよいか、私自身にもよく判らなかったのである。
さてここでは睡眠につきて述べる事にするが、生前地上生活を送っていた時に、私は睡眠とは、結局霊の一時的退却であると考えていた。即ち霊が暫く脳から脱出して他界で休養するか、それとも、寧ろ一種の精気が外部から注入せられるかであってこれが為に翌朝眼を覚ました時に、心気の爽快を覚えるのであろう位に考えていた。私は生時から顕幽両界の生活を確信しており、その点に於いては、私に何等の手落ちもなかった。が、睡眠中にいかなる手続きが起こるのかは、こちらの世界に来てから漸く判りかけて来たに過ぎない。これからその説明を試みる。
実際をいうと、睡眠という状態は、魂と肉体とが分離する現象なので、その結果霊と脳細胞とは連絡を失うことになる。ここが肝要な点である。肉体というものは、主としてこの魂(エーテル体)によって支配され、それが脱出した時に、肉体は殆ど静止状態に陥ってしまう。その間に於いて魂の方では、諸君の所謂エーテルと称するものから、必要なる刺激又は栄養素を受け取るのだが、エーテルというのは非常に広義の言葉で、睡眠中に魂を養うものは、エーテルの中の特殊の要素なのである。仕方がないから私はここで新熟語を製造し、その特殊のものを『エーテル精(イーゼリック エッセンス)』と呼ぼうかと思う。物理学者達は有形無形、一切の元素に命名することを、自己の権能と考えているらしいから、私が今こんな真似をするのは、越権の沙汰であると言はるるかも知れないが、さし当たり致し方がない。ところで魂の不在中、霊(スピリット)の方はどうかというに、それは依然として肉体に接近している。ただ仲介者がいないので、直接脳に何等の作用をも及ぼし得ないまでである。但し高級の神経中枢が、特に敏感になっている場合には、霊は魂(ソール)の残滓を利用して、稀に何等かの影像を脳に印象せんとすることもある。睡眠者が、時として未来の出来事の正しい予覚(よかく)などを掴むのは、そうした場合に起こるのである。
ここで諸君は、夜な夜な睡眠者に起こる、かの混沌たる雑務の起因は、何であるかと訊かれるであろう。が、夢はこれを開くべき鍵さえあれば、決して不可解なものでもない。諸君は日中しばしば強烈なる神経的衝撃、例えば感情の抑圧などをやる。それ等の衝撃が、時として神経網の上に強き印象を作り、夜間支配者である魂の不在に乗じて、反射的に混乱せる模様を織り出すことになるのである。従ってそれ等の夢は、一つの神経性の幻影であって、決して高所から出発した、意義ある影像ではないのである。
私は既に注意とは、神経的エネルギーを、脳の或る特殊の細胞に向けることだと説明した。ところでもしこのエネルギーの流れが、日中に於いて強く且つ連続的であったとしたら、その振動は後まで続き、その余波が、他の何等かの印象と混合して、奇妙な結果を孕むことになる。例えば諸君が日中一つの婦人帽を見て、ふと死んだ祖母の事を想起したとする。日中には格別の事でもなかったが、夜間支配権が緩んで眠りに落ちると、忽然としてその祖母が夢の中に出現する。これは結局脳の内部で、監督者の不在に乗じて、祖母の影像と神経とが、一種の隠れんぼの遊戯に耽る訳である。かの夢遊病なども、結局神経が昂奮しているか、又は脆弱であるかに乗じて、部分的副意識が刺激を与えた結果である。夢遊病患者が慨して何等の危険にも陥らないのは薄弱ながら、右の副意識が働いているからで、まさかの場合には、体外に離脱している魂に警報を与え、大急ぎでこれを体内に呼び戻すようなこともやる。
私の説明は大分粗雑に流れたので、モウ一度繰り返しておく。仲介者の魂は、栄養摂取の必要上、一時肉体を離脱するが、それが取りも直さず睡眠という現象である。霊(スピリット)の方では睡眠中にも、依然肉体に生気を付与するが、仲介者不在の為に、脳の中枢に働きかけることは滅多に無い。疑もなく睡眠中にも、潜在的自我の一部-或る層だけは、脳に滲み込んでいるらしい形跡はある。例えば日中何等かの出来事によって、昔の連想又は昔の情念が喚び覚まされたとする。が、日中は魂が他事に忙殺されている為に、これを抑制して識域に上させずにおく。丁度それは水の流れがせき止められた形である。然るに夜間支配人たる魂が不在なるに乗じ、これ等の記憶は堰を破って、どッと脳の中に奔流して、ここに少時の間昔ながらの影像を活躍させる。
次に催眠と睡眠との相違につきて一言述べておきたい。両者の間には、少なくとも一の肝要な相違点がある。他なし催眠現象にありては、多くの場合に於いて、被術者の魂が、ただ抑え付けられるだけで、滅多に体外に退去することのない事である。従って催眠術者は、神経がある病的状態に陥っている場合の外は、通例被術者をして、その意志を放棄せしむる迄には至らない。つまり催眠術がかかった場合には、潜在的自我と肉体とが、言わば大変に接近したような状態になり、平生埋没されている記憶などが、ヒョロヒョロ表面に現れて来る。無論その間、媒介役の魂が抑え付けられている為に、自我の統体としての活動は不可能で、僅かに自我の断片のみが現れるだけである。
(評釈)用語の不備の為に、説明がやや難解に陥らんとするは致し方ない事である。マイヤースの所謂霊(スピリット)とは『自我の本体』の分かれで、超個性的のものと思えばよいであろう。又魂(ソール)又は神経魂(ナープ ソール)というのは、要するに本人の個性の中枢で、その用具として特殊の媒体(エーテル体)を使用している。それからモウ一つの肉体-これは勿論本人が地上生活に於いて使用する用具である。要するに人間生活は霊=魂=体、この三つの使い分けであると考えれば考えられる訳である。兎に角右の観念を腹に入れて、マイヤースの解説を読めばよく意味が判ると思う。最後の催眠に関する説明も簡単ながら頗る要領を獲ている。
第20章 思想伝達
私は生者と生者との間に起こる、思想伝達につきて述べようと思う。それは或る点に於いて、生者と死者との間に起きる思想伝達とは相違している。後者にありては、我々の方で余程の工夫調節を要する。が、我々は完全に自分の内在的精神を熟知しているので、仕事が簡単である。地上の人間の方で、もっとよく内在的精神を知ってくれれば受信発信共に、よほど容易になるに相違ない。が、兎も角私は出来るだけ解説を試みる。
私は既に、かの潜在意識と肉体とを連係する所の、幽的液状物につきて諸君に物語った。所で、この液状物は間断なくその形態を変え、肉体には全然見られぬような強い弾力性を帯びており、その感受性たるや実に驚くべきものがある。ただ困るのは、右の液状物と、脳との連絡が不確実なことである。イヤ寧ろ人間の方で、いかに両者を結合せしむべきかを理解していないことである。両者を結合せしむるには幾つも方法がある。
その一つは自分の心を、或る問題から引き離すことによりて、心身の活動を鈍らせることである。一体この液状物中には記憶が印象せられており、捜せばいくらでも見つかる。又この液状物は、以心伝心式に外来の通信を受け取る力がある。そしてそうした通信は、実は平生沢山受け取っているのだが、ただ特殊の人間に限りて、これを脳に伝えることが出来る。通信を空間に発送するのも、又この液状物である。そんな場合に或る一個の独立霊が伝送係を引き受けることは稀である。単に心の繊維ともいうべき多くの遊糸が現れて、通信を自己の液状物内に引き入れ、それから脳に印象すると言った手続きである。
科学者達は、到底生理的にも、又物理的にも、生者と死者との間の思想伝達現象を説得し得ないと信じているらしい。が、魂の生理学からいえば、立派にこれを説明し得ると私は主張する。一見すれば、何やらこの言葉に矛盾があるように聞こえるかも知れぬが、決してそうでない。人間がまだ発見するに至らない極微分子-それがあまりにも微細なので、人間はこれを『物』として取り扱おうとせぬであろうが、しかし我々死者は、遙かに精妙な知覚を有っているので、これ等の微分子を『物』として取り扱うことが出来る。
勿論地上の所謂『物』とは多くの点に於いて類似しているとはいえないが・・・。兎に角これ等の微分子の特質は、それが感情と思想との影響を受け易いことである。即ち意念がこれ等の分子に活力を与え、それが脳に達した時に、脳はこれを適当の形態に翻訳する。
一体魂のエーテル体が、強烈に意識によりて左右せられ、又極めて迅速に、或る刺激の感応を受け易いことは、既に述べた通りである。なので今ここで思想伝達の実験を行なおうとすると、意識は発信者によりて送られた思想を捕えるべく大に緊張する。こんな場合に、ある人々にありては、その魂のエーテル体が妙に硬直状態に陥ってしまい、到底通信を受け取る力がなくなる。要するに脳は受信するなかれという、一の本能的警告を発した訳で、この場合には、つまり本能が意識に打ち勝ったのである。
この本能こそは外来思想の闖入(ちんにゅう)を防止すべく、自然に人間に備わっているもので、本来甚だ正しい本能と言わねばならない。もしも人間が間断なく他人の思想を受け入れることにのみ従事していたとしたら、その人はよほど不健全な頭脳の所有者となるに相違ない。かるが故に自然は、人類にこの防衛物を賦与して、自己の人格の安全を保たしめているのである。故にこの防衛的本能に打ち勝つ人のみが、初めて受信者として成功する。この際受信に重要なる役割を演ずるのは、内在的精神であって、勿論それとエーテル体とは直接の連絡を保っている。
私はここで『液状物』などという言葉を用いたが、勿論これを文字通りに解してもらっては困る。地上生活中ならば、私はこんな言葉の使用を避けたでもあろうが、こちらの世界へ来てみると、魂のエーテル体は、この言葉で表現するのが、最もよく実際に当てはまるし、又簡単でもあるから、思い切ってこれを通俗的に使用した次第である。
『界』という文字も又これを文字通りに解してはならない。私の所謂『界』とは『特殊の境涯』を指すに用いたものである。
(評釈)魂の用具たる幽的液状態の認識-これが全ての鍵である。そんな感受性に富んだ仲介者があるから、思想伝達が可能であり、又学術的にも合理化する訳である。従って近代心霊科学が最も力瘤を入れてこれを捕えんとしたのは、このエーテル体であったが、幸い今日はほぼ遺憾なき迄にこの難事業に成功し、その認識は一の心霊常識となりつつある。マイヤースの説明は、モウさしたる反対には出会わせぬであろう。
マイヤースが、霊媒と非霊媒との相違を、主として防衛的本能の作用に帰したのは卓見である。平たく言ったら、全てを任せ切る人と任せ切らない人-ここに霊媒と否との相違が生ずる。どちらにも長所と同時に短所がある。我々は霊媒の仕事に対して、充分の理解と敬意とを払い、霊媒の人格がややもすれば不統一になり易い点は、出来るだけ雅量を以って大目に見てやるべきであろう。
第21章 幽明交通
可視の世界と不可視の世界との間には、実は間断なき思想の交錯が行なわれ、それが幽明交通をして一層困難ならしむる原因なのである。もしも我々が、生者と死者とから発送さるる無尽蔵の思想をば、一々これを分類し、区別し得るならば、その時は一切の雑音が消え失せて、どんなに通信が容易になるか知れないであろう。が、実際は何という混線状態であろう。我々死者は、しばしば人間の空想から造られた大森林の中に迷い込み、いつしかとんでもない岐路に踏み入りて、茫然自失するような場合に直面することが、実に多いのである。
説明の前提として、私はここで人間の三種類の精神状態につきて一考察を試みたい。第一が熟睡の状態、第二が主観的状態、第三が通常意識の状態である。
右の中主観的状態というのは、随分広範囲に亘り、多大の階段がある。例えば睡眠状態などもその一つで、人為的にこれを誘導することが出来る。術者によりて充分訓練を受けた被術者は、しばしば驚嘆すべき技量を発揮し、幼少時代の記憶を喚起したり、苦痛に対して無感覚であったり、その他思いもよらぬ知識を示したりする。インドのヨガ僧などは容易にこの状態に入り、遠距離にいる他人の消息などを探知して誤らない。要するに彼は精神的、主観的の旅をするのである。
ところで、我々の境涯-諸君の所謂死者の境涯も、又同じく三様に分かれる。但し肉体を有する人間の意識とは、多少その間に趣を異にする所のあるのは無論である。我々が、地上の敏感者を用いて通信を試みようとする時は、我々は一種の入神、一種の主観的状態に入るが、これに軽重の二種がある。軽く入神した時には、我々は過去の生活の具体的事実と絶縁している。殊に霊媒を通じて直接通信する場合には、自分の人格や話し振り位は保ち得るが、地上生活の正確なる経歴などは中々通信し得ない。時とすれば自分の姓名すら述べられない。
こうした通信に際して、時として我々を助けるものは所謂観念の連合-連想作用である。霊媒の潜在意識の中には、彼の過去の経歴の記憶が沢山浮遊している。ドゥかすると、我々はそれを手懸りとして、自分の地上生活の記憶を回復し、案外すらすらと通信し得る場合がある。
次に深い入神状態-これは非常に気持のよい状態で、人間の睡眠又は夢に似ている。その状態に入った時に、我々は人間の主観的精神に入り得るが、勿論人間の方で、我々を助けてくれなければ困る。即ちその人が愛の絆で我々と結ばれるか、又はその人が、所謂霊媒的天分の所有者かでなければ、感応は不可能である。但しもしもそういった人間が、我々を助けてくれれば、我々は再び地上生活圏に歩み入りて、物質界の実況を目撃し、これをその人の潜在意識に印象させることが出来る。時とすれば極めて些細なる出来事までも、はっきり認識し得ることもある。
殊に非常に深い入神状態に入った時などは、単に一個人の潜在意識と接触するに留まらず、一時に数千人の潜在意識にも接触し得るのである。そんな場合は、我々の前面に、さながら大海が展開したような具合である。その大部分は、何の事やら意味が判らないが、しかし守護霊の援助で、我々はその中から、我々の地上生活中に経験した出来事、姓名、地名等の連想を引っ張り出すことが出来る。それがつまり有力な証拠物件となるのである。
が、第三の主観的状態こそは、我々の最高の境涯で、その状態に於いて我々は、宇宙の大記憶と接触するのであるが、遺憾ながら、これは地上との通信に於いて利用し得ない。それはただ多大の年月に亘りて修行を積み、特異の叡智に恵まれた霊魂のみが、極めて極めて稀に、地上の敏感者を用いて片鱗を漏らすに留まる。蓋(けだ)し最高の叡智は、到底低調なる人間の言葉で言い現し得るものでなく、従って僅かにその余響位が、所謂地上の天才者の筆端に現れるに過ぎない。
無論我々は絵画を用い、又象徴的徽号(きごう)を用いて、霊媒の知らない姓名、又は言葉を通信することが出来ないではない。人間の通常意識というものは、一の障壁を造るが、その奥にはより深き自我、より主観的な心境があり、それには殆ど障壁がないのである。我々は困難なる問題の通信に当たりて、出来るだけそれを利用する。
私は先に帰幽者が、こちらの世界の修行に没頭せねばならぬ結果、一時地上の記憶の大部分を放擲(ほうてき)すると述べたが、諸君はこれを聞いても、余り心を悩ますには及ばない。成る程我々は普通の状態にある時に、地上の記憶を失っているが、しかし第三の深い主観的状態に入りさえすれば、いくらでも地上の記憶を呼び戻し得る。死後の親子、又は夫婦達は、時としてその状態に於いて、生前の活歴史を再演することもある。地上生活中に経験した事柄は、ギリシャ語でも、ラテン語でも、地理でも、歴史でも、格別興味のない茶話会の愚談でも、許婚時代の情話でも、何でもかんでも、皆引っ張り出そうと思えば引っ張り出せるのである。
が、我々の大部分は、一種の冒険的気分に富んでいる。死後の世界で愛する人と逢った当座は、ちょっと昔の情話などに耽ることもあるが、我々は直ぐにそんな過去の生活の遺物などに倦きてしまう。我々が第三の深い入信状態に於いて調べようとするのは、過去よりも寧ろ未来である。我々は『生命の書』の頁をば、先へ先へ先へと繰ろうとする。尚未だ地上に演出されたことのない戯曲(ドラマ)の耽読-これは我々にのみ許されたる特権である。予言者などの漏らしたのは、僅かにその余響に過ぎない。ああ我々の生んだ子孫の放浪、我々同民族の悲しき運命・・・我等は未来の記録を読破した時に、覚えず超然として長太息と共に、『生命の書』を閉じるのである。
最後に一言するが、かく主観的状態に於いて、過去と同時に未来を読破すべく許されるのは、ただ精神的に発達した霊魂に限るのである。死の関門を通過した幾百千の霊魂達は、彼等自身の手で築き上げたる心霊的障壁の内部に閉じ込められて、とりとめのない夢幻的空夢に耽りつつ、或いは面白そうな、或いは又は不愉快そうな、取るにも足らぬその日その日を送るのである。
(注)-幽明交通中の主観的状態とは、一種特別の精神統一状態で、すっかり自己の環境から隔離せねばならぬ。これと同様に人間の方でも、自動書記中は全然周囲の風物から隔離し、筆をとりて書きつつある世界の中に自己を没入せねばならぬ。右の隔離状態は、特に霊媒を通じて働く所の帰幽霊にとりて必要である。彼は通信を開始する以前に於いて、すっかり通信材料を準備しておいて、それから主観的状態に入りて霊媒の体を占領するのである。仕事を始めてからは、準備せる材料以外の通信は不可能である。(マイヤース)
(評釈)私が知れる限りに於いて、かくも幽明交通中の内面装置を、詳細明確に説明したものは未だ見当たらない。普通我々は幽明交通に関して霊媒のみを責め、『あの霊媒はインチキである。自分の姓名さえも名乗らぬようなことでは仕方がない』などと言うが、この批難はマイヤースの説明によりて、必ずしも正当でないことが判る。無準備の霊魂には、通信すべき材料の打ち合わせがないのである。そう言った霊が憑った時に、どんな名霊媒でも、歴然たる証拠資料を通信する訳には行かないに決まっている。
もしそれマイヤースの所謂、優れた霊魂の深い主観状態に於ける未来の洞察-これは正に驚き入ったる大文字である。彼は英国の未来に対して、はっきりした見透しをつけているらしいが、大分言葉を濁している。『覚えず超然として長太息と共に姓名の書を閉じる・・・』この中にはアングロ、サキソン民族の前途に対する、微妙なる哀音が聞こえて来るではないか。
兎も角も、私はこの一章が本書中の圧巻であると思う。読者の精読を希望する。
第22章 幸福 普通一般の男女に対して
幸福を論ずるに当たりては、全てに亘りて均衡の観念を失わず、人類が決して一列平等でないことを忘れてはならない。甲に対して、いつまでも変わらざる、誠の歓喜の種となる一つの生活が、乙にとりては、ただ不満と、不幸との源泉であるかも知れないのである。
由来多くの学者達は、幸福につきて、厳密周到なる法則を規定すべく努力したのであるが、不幸にして彼等は、謬れる前提の上に、無益の労苦を重ねた憾(うら)みがある。人間の性情は千差万別であるから、いかなる階級、いかなる国民、又いかなる男女を問わず、自分の提示せる法則にさえ従えば、皆幸福を見出すことが出来る、とは言い得ない。それ等の法則を、自己の日常生活に適用するには、或る一部の個人又国民は、物質的にも、精神的にも、又心霊的にも、まだ充分発達を遂げていないかも知れない。たとえそれが出来ているにしても、それ等の法則は、これを実際に当てはめてみると、単に退屈の源泉であり、激しい幻滅の種に過ぎないかも知れない。
一例を挙げれば、キリスト教、並びに仏教の神秘的禁欲論者の唱道する幸福への道は、ほぼ一致している。彼等は口を極めて、真の幸福は決して五感を通じて獲られるものでなく、又金銭や権勢では、決して買われるものでないと教える。彼等の推薦するのは完全なる放棄であり、ありとあらゆる種類の富、権力、美の軽蔑である。彼等は何れも口を揃えて、真の幸福はただ静思内観、神との直接の交通あるのみであるという。つまり彼等は神そのものは尊重するが、しかし人間の五感を歓ばせ、人間の欲望を満足させるべく、神から賜る所の一切の事柄は、全部これを軽蔑せよというのである。
私の視る所によれば、彼等の意見には、幾多の重大なる抗議の余地があると思う。神秘家自身には、或いはこの種の内的生活が、唯一の真の幸福の種であるかも知れない。が、百人中の九十人は神秘論者でも何でもない。彼等は月並みの平凡人であって、右の如き勧告を実行に移そうとしても、とても出来ない素質を有っている。もし強いてそんな真似をしてみようものなら、彼等はいたずらに自分の性情を狭め、苦しめ、又歪曲せしむるだけである。で、普通一般人士に対する幸福は節制、克己、及び自由等の言葉の中に見出されると思う。彼は何より先に、自分自身を支配する事を学ばねばならない。一旦その力が修得されると、今度は続いていかに賢明に他人を支配し、又境遇を支配すべきかを学ばねばならない。それで初めて自分の自由が獲得される。第二に彼は自分というものが、広大無辺なる天地間の大機構の中の、極めて微弱なる存在であるかを知らねばならない。第三に必要なのは、天賦的に自分に備わる所の、特殊の創造力を開発することである。
一旦人間が自制の力さえ習得すれば、そこで初めてある程度の心の落ち着きが出来て来て、日常の片々たる不幸災厄の為に、進退度を失うような、下手な事はしなくなって来る。又他人に対する統制力が備われば、物質上の損害又は欠乏等から救われ、又悪意を以って色々画策する者が現れても、何とかこれを切り抜ける道がついて来る。もしそれ自身に対する謙虚なる評価は、自然他人との折り合いを良好にし、それだけで幸福の種子となるであろう。一時的にもせよ、自己を忘れ、必要なる同情を他人に分かつ仕業程、世にも麗しい仕業はないのである。
次にかの創造的本能-これは人間性情の概要部を構成するもので、その賢明なる活用こそ、彼にとりて何よりも重要なる業務の一つとなるのである。この本能は或る程度、性的刺激に起因する。が、往々性と離れた仕事の上にも働き、それが最大の幸福の基となることがある。その人の性的生活が何であろうとも、彼はすべからく何等かの方法で、創造的本能のはけ口を求めるがよい。よし彼が一つの構成的想像力の所有者でないとしても、絵画の翫賞(がんしょう)とか、山水の探訪とか、兎も角も何物かの上に、自己の創造的本能の満足を求め、自己の感官に適当の快楽を与えることが出来る。が、何より幸福なのは、真の創造力と同時に、適当の自制力をも兼ね備えた人達である。表現すべき媒体の高下などは、少しも問題とするには足りない、その楽しみたるや、誠に言うに言われぬものがあろう。
かの禁欲論者は、皆口を揃えて、金銭を軽視すべく諸君に教えるであろうが、実は夫子自ら金銭上に顧慮を要せぬ連中なのである。彼の友人又は崇拝者が必要品の全部を供給するとか、親譲りの立派な資産があるとか、禁欲者とは大概そんな境涯の人達だと思えばよい。
かるが故に、自分としては、幸福を求むる者に向かって、金銭に対する適度の尊重を力強く忠告するものである。金銭がなければ餓死するか、さなくとも、非常なる肉体的欠乏、又は不愉快極まる衰弱を余儀なくせられ、肉の宮に鎮まれる魂の光を、充分に発揚せしむることは覚束ない。彼は最早自由の身ではない。何となれば、彼は時々刻々かまびすしき肉体の要求から苛まれる、哀れむべき身の上であるからである。又彼が薄給で、長時間労役に服せねばならぬとすれば、これが為に時間も体力も共に乏しく、とても自己本来の面目を発揮したり、他人の快楽に向かって寄与したりする余裕はない。
で、適度の金銭欲は寧ろ一の道徳である。それは完全なる人間となるべき希望の現われであり、従って間接には、他人を膰益(ひえき)せんとする希望の現われでもあるのである。
全て幸福は努力の結果であり、賢明にして統制ある五感的快楽の満足の結果であり、肉体の完成の為の体育的活動の結果であり、精神的開発に対する勉学の結果であり、又寛容性、博愛性のもたらす安心の結果である。で、これ等の発達を講ずることは、結局霊性の開拓ともなる。
これを要するに、普通人にとりて、幸福なるものはその人の一切の才能、一切の力量-体力、感受力、霊力等の、賢明にして且つ持続的なる活用の中に見出されるものと思えばよい。
最後に、近代人としては、叡智の中にこそ人生の秘鍵、安心立命の秘鍵が見出されると思う。信念、希望、仁愛-これ等の全ては、この崇高なる叡智の中に包蔵せられ、そして全ては、叡智の光によりて色彩を添えるのである。叡智の伴わざる信念にも、希望にも、又仁愛にも、そこに何等人を惹き付ける光はない。全て闇の中に埋もれているものが、健全なる発達を遂げることは絶無である。
(評釈)例によりて穏健、周到、着実の議論、そこに一点の申し分がない。普通人に向かって、五感の適度なる満足を勧め、その天賦的特徴の発揮を勧め、更に身分相応の蓄財の必要を進める辺りは、甚だ傾聴に値すると思う。かのいたずらに実行不可能の禁欲を勧める口頭説法程キザで、高慢で、且つ不健全なるはない。物欲の奴隷となるのは固より唾棄すべきであるが、さりとて消極的の乞食生活、托鉢生活などを鼓吹するに至っては、正に言語同断である。全て世の中は、霊と肉との七分三分の兼ね合い、賢明なる調節協調以外に健全なる道はない。その点に於いてマイヤースは立派に及第点を取っている。
第23章 神は愛より大なり
私にとりて、神は愛だとか善だとか、もしくは又妬むものとか、悲しむものとかいう言葉程、不思議に感じられるものはない。神は『必至』であり、一切萬有の終結である。が、神は善でもなければ又悪でもない。無慈悲でもなければ又親切でもない。神は一切の目的の背後の目的である。神には愛もなければ憎みもない。神を完全に表現し得る思想はどこにもない。何となれば、神は一切の創造であると同時に、又一切から離れたものであるからである。彼は無量の世界、無限の宇宙の背面の『思想』である。
我々が愛とか憎みとか言う時には、我々は決まり切って人間的の筆法で考える。その際胸に描くのは、恐らく、幼児に対する慈母の愛、妻に対する夫の愛、さては民衆の為に注がれた勇士の血涙等で、それ等が愛の象徴となる。それから憎みの代表としては、自分を騙り、自分を傷付けたものに対する烈しい憎悪、さては何らかの凶行を犯した悪漢に対する嫌忌の念-大体先ずそんな性質のものである。
ところが人間的の愛又は憎みは、よしそれが最高潮に達した時でも、到底神の属性とは思考さるべくもない。人間が知っている限りの愛には、そこに何らかの汚斑(しみ)、何らかの欲望の條脈(すじ)が入っている。そんな不純な愛は、到底神の愛たるべき資格はない。同様の最も高尚な人間の憎みの中にも、又多少の汚れがあり、これを以って神の名を傷つけるべきでない。
これを要するに、この方面に於いて、我々は神に対して適用すべき、ただ一つの言葉の有ち合わせもない。我々は神を無限の或者と呼び得るかも知れぬが、神は決して祈祷者の所謂『我等の愛する父』でも何でもない。神はもっともっと高尚な、もっともっと偉大なる存在である。一人の愛する父は、ただ彼自身の子を愛する父である。さればにや、かの大戦に際して、英人は神の愛を自国のみで独占せんとし、同様にドイツ人も、又神の愛を一手に買占めようとした。人間が『愛』という言葉を用いる時には、常にそこに或る特殊の愛の目的物がある。成る程人間は、機械的に、神はその手に創造せる全てを愛し給う、などと言わぬではない。が、人間は実は自分の使っている言葉の意義を知らないのである。愛は相対の場合にのみ成立する。絶対の場合には、そこに愛も不愛もない。で、私としては、造物主を『愛』の神などと呼んで、その神格を汚したくない。もしそんな真似をすれば、それは必然的に神の観念を局限することになる。換言すれば、神を人間並に取り扱うことになる。
敢えて言う、神は決して愛しない。愛は人間の徳性であって、それは火焔の如く上下に浮動する。それは或る時期には光であるが、その光は必ずしも永続しない。その結果、いかに優れた男女間にありても、愛はしばしば焦燥、癇癪、もしくは或る利己的の憂鬱によりて汚される。
これに反して神は決して変わらない。宇宙の父であり、又宇宙の母である神性には、そこに浮沈もなければ上下もない。もしも神が愛であったとしたら、この驚くべき萬有の生命が、かくも完全に続いている筈がない。それは必然的に、愛と称するものの変化し易い性質の影響に服したに相違ない。時とすれば物の発生が全然休止し、草木の枯死となり、土地の荒廃となり、海水は溢れ、山岳は崩壊し、幾百千万の生霊が一朝にして無惨の横死を遂げると言った悲劇が、あちこちに発生したに相違ない。然り、もしも神にして、人間の思考するが如き愛の所有者であったりしたら、世界の歴史は根本的に趣を変え、現在よりも遙かに悲惨なもの、悪性のものであったに相違ない。神は断じて愛ではない、愛以上のものである。
昔キリストはユダヤ人に向かって、『神は愛なり』と言った。キリストとしては、或はそれでもよかったであろう。何となれば彼の所謂愛は、地上の人類が慣用の愛とは、全然選を異にしていたと信ずべき理由があるからである。有限の心の所有者にとりては寧ろ『神は愛よりも大なり』という言葉の方が、一層適切に神性神格に対する理解を高めると自分は信ずる。
(評釈)神の絶対性につきて、昔から教えられて来た東洋民族にとりて、この章に述べてあることは、初めから判り切った事であるが、『神は愛なり』の慣用語に浸潤し切って、何の批判も考慮も働かぬように習慣付けられて来た西洋人の意見としては、正に破天荒の卓見と称してよい。かくいう私も、先年日本人までが無自覚的に、『愛』という言葉を濫用するのを遺憾に思い、『愛の検討』と題する一文を発表したことがある。それは昭和八年十月号の『心霊と人生』に掲載されているから、何卒参照されたい。本章と対照すれば、一層の真意義がはっきりすると思う。