第11章 光焔界から
この通信の発送人たる一個の死者、取りも直さずかくいう私は、二十世紀の初に地上生活と離れてから後も、引き続いて人間界との接触を失うことなく、歩一歩科学の発達を辿り、世界大戦の推移を極め、以って最近の世界的経済戦にまで及んでいる。彼は地上生活を送っている生身の知己、友人の内部意識と連絡を保っているお蔭で、地上の人類の精神上の変化に通暁している。彼は十九世紀人士が物的生活に満足していたに反し、最近の二十世紀人士が、超現象世界の確実なる認識を、心から求めていることを知っている。悲しい哉地上の人間の魂は、極めて稀なる機会に於いてのみ、他界との接触に成功することが出来る。彼等の到達し得る最高の入神状態と言ったところで、多寡が知れている。これを補充するにはやはり、他界の居住者からの指教に待たねばならぬ。私は夢幻の世界を後に、現在漸く色彩の世界に突入したに過ぎないが、しかしそこから覗けば、どうやら人類進化の最後の目標-超越界の真相までも判る。同時に我々は、心掛け次第で、下方は地の世界にまで降り、自分を愛する人達又は精神的に自分と共鳴する人達と、立派に交通を試みることが出来る。
こんな次第で、我々は、現在地上の人達を悩ましつつある不思議な不安の原因と、その不安の背後に秘められたる目的とをよく知っている。かかる不安が地の世界を襲っているのは、決して偶然ではない。そこには厳然たる必要、確乎たる目的があるのである。
私が今こちらの世界からこうして通信を送るのも、結局生前死後に亘りて、人間の踏みて行くべき大道につきて、何等かの暗示を与えたい微衷に外ならぬ。
(評釈)現代の世界人類を悩ます大きな不安-その原因並に目的の発見が、実に現在地上の人類に課せられたる大々的宿題である。我々心霊学徒からいえば、その解決の鍵は、手近に転がっていると思われる。外でもない、それは『人間の視野の拡大』である。マイヤースの通信も、詮ずる所これを説いているに過ぎない。ところが現代人の大多数は、今尚成るべく眼を瞑って物質界以外を見まいとする。これでは永久にこの大々的不安の除かるるよしもない。
見よ洋の東西に於いて、最近しきりに提唱さるる大小の打開策を、曰く平価切り下げ、曰く金輸出禁止、曰く軍縮会議、曰く外交工作、曰く不戦条約、曰く何々・・・。あえて無用というではないが、惜しい哉その視野は、何れも物質的現象世界に限られている。これでは到底根本的なる局面の打開は出来ない。何となれば地上の物質界は、決してそれだけで独立した存在でなく、そこに起こる所の大小無数の出来事は、悉く超現象的内面の世界から操縦されているからである。マイヤースの述べている通り、かかる不安が地の世界を襲っているのは、決して偶然ではなく、そこには厳然たる必要、確乎たる目的があるのである。
かく考える時に、現代の不安を除かうと思えば、先ずイの一番に人間の視野を超現象の世界、換言すれば霊の世界、神の世界にまで広げねばならぬことは、火をみるよりも明らかである。ここに心霊科学の研究の必要が起こる。全ては心霊科学の研究が開始されてからの話で、それ以前の千の工夫、萬の計画も、到底徹底的打開策とはなり得ないであろう。
霊とか神とかいえば現代人の大多数は二の足を踏むが、これは主として既成宗教者流、又霊術者流の罪である。彼等の多くは、学術的素養もなければ、又純真なる心情の所有者でもなく、神とか霊とかいうものを、単にペテン、ゴマカシの材料に使った。その弊害たるや実に大きい。現に日本国内には、今尚そうした弊風が盛んに行なわれて、識者をして愛想を尽かさしめている。神や霊が無いのでもなければ、又神や霊が悪いのでもない。これで飯を喰っている職業的宗教者流、霊術者流が悪いのである。
この多年の弊害を打破し、純学術的基礎の上に立ちて、超現象世界の探究を進めつつあるのが実に近代心霊研究で、今日に於いては既に立派な一の学問となっている。これでこそ、人類は初めて迷信の弊害から完全に脱却し得ると同時に、又健全なる思想、信仰の樹立を期する事も出来るというものである。要するに現代世界の不安は、世界の人類が心霊事実に気が付かず、たとえ気が付いても、目前の小利小害に引きづられて、愚図愚図煮え切れない態度を持している為に外ならぬ。諸外国は兎に角、肝腎な日本国民の自覚は、果たして何の日に来るであろうか?
第12章 死の真相
死につきての感想は、我々のような他界の居住者・・・しばしば或る方法を以って地上に戻りこそすれ、最早すっかり地上からは籍を削られてしまっている、我々別世界の旅人と、今尚地上に生活しつつある人間との間には、そこに当然或る程度の隔たりがあるに相違ない。我々にとりて、死は単なる偶発的一事象・・・いささか懐かしみはあれど、別に辛くも悲しくもない、単なる人生の一挿話でしかない。しかしながら地上の人間には、恐らく死は永遠の世界への道中に於ける、一夜の宿りとも感ぜられるに相違ない。
その一夜の宿りに対する感想は、人によって決して同一ではないであろう。或人には熱に浮かされた輾転反側(てんてんはんそく)の一夜であり、他の人にはひっきりなしに悪夢に襲われる恐怖と不安の一夜であろう。そうかと思えば、又他の人には、すやすやと心地よき熱睡の一夜でもあろう。が、兎に角、この宿りには、本来静止と安息とがいつもつきもので、最後は何人も皆、そうした空気の中に誘い込まれる。但しその状態は決して永続はしない。肉体を離れた魂には、やがて新しい朝が明けるのである。そしてその身辺には、必ず彼と因縁のある他界の住人、つまり彼の宿命の模様の中に織り込まれている、大小、新旧、善悪、美醜、様々の霊魂達が見出されるのである。
さて私としては、進んで死の問題の政究に入るに先立ち、是非ともここで従来思想の混線の種子であった、一つの言葉の意義を明らかにしておきたい。外でもない、それはディスカアネエト・ビーイング(肉体から離脱したる者)という文字である。これは単に肉体からの離脱を意味するものであって、決して一切の形体からの離脱を意味するものでないことを承知してもらいたい。何となれば、彼岸の旅客が第六界に達するまでは、彼は必ず何等かの形体、何等かの自己表現機関を使用するからである。
これ等の形態は、細別すれば非常に多種多様であるが、我々の当面の問題としては、ここにただ四種類だけを挙げれば事足りると思う。即ち-
(一)複体(ダブル)-統一作用を営むところの一の媒体で、普通はこれをアストラル・ボディと呼ぶが、自分としてはこの名称を用いたい。
(二)幽体(エセリックボディ)
(三)光体(シェーブオブライト)又は本体(セレステイアルボディ)
最後の二つは、上層の世界に於ける魂の有するもので、観念次第、意思次第で、その形態は千変万化する。
ところで、諸子は既に他界の居住者達の通信によりて、『死』の秘密は、結局自己の纏える外被の振動する速度の中に見出されることを知っておられると思う。地上の人間は、何によりて自己の環境を知り得るか?他なし彼の肉体が、或る特殊の速度で振動しているからである。試みに汝の肉体の振動速度を変えてみるがよい。その瞬間に大地も、男も、女も、その他一切の物体も、全部汝の視界から消失し、同時に汝自身も又彼等の視界から消失する。かるが故に死とは、単に振動速度の変化である。従ってこの変化を遂げるが為には、一時的の中断又は休止が必要である。何となれば、魂は或る一定の振動数で動いている一つの体から、異なれる振動数で動いている他の一つの体に移るの準備をせねばならぬから・・・。
言うまでもなく、新生活の移動には、何等急激の飛躍、急転直下式の変動を必要としないのであって、従って、是非ともそこには一の中間地帯が設けられて然るべきである。その中間地帯こそ、前にも述べた通り、かの所謂冥府(ヘーズ)の生活なのである。キリストでさえもが、無論この境涯を経ている。
ここで我々は第一の疑問に逢着する。医師が既に臨終を宣告し、そして近親の人達が、変わり果てたる遺骸の傍で、故人のありし日の面影を偲びて、哀悼の涙にむせびつつある時、死者の魂は一体いかなる形態をとりて、自分自身を表現しつつあるか?あれほど親しかった、あれほど懐かしかった魂が、そのまま消滅してしまうとは、どうしても信ぜられない。何人も本能的に、どうしてもこれが万事の終わり、一切の結末とは考えたくないのであるが、実際又それが正しい直覚なのである。
人間は地上の全生活中、既に複体なるものを携帯していたのである。この複体こそは、奥深き内部精神と、物質的脳髄との連絡機関であって、非常に大切な役目を有っている。汝が眠りに落ちる時、汝の意識は最早少しも汝の肉体を支配しなくなる。これは一時的の休止と言わんよりも、寧ろ全部的の断滅と言った方が当たっている位である。何故に然るか?他なし睡眠中汝の魂が肉体を離れて、複体の内部に移っているからである。肉体はこの間に生命の維持に必要なるエネルギー、つまり生命素ともいうべきものの補給を受ける。そうした事実は昔の人達にも天然自然に判っていた。古来睡眠は飲食物以上に大切であるとされているが、それは正にその通りに相違ないのである。
自分は今人間生活のこの境地につきて、詳述を試むべき余白を有たぬが、兎に角諸子としては、この複体なるものが、もしこれを可視状態に導くことが出来れば、外形的に全然肉体と符合するものであることを承知してもらいたい。そして複体と肉体とは沢山の細い紐と、二條の銀色の紐とを以って互いに結び付けられている。右の二條の紐の中一つは下腹部に、他の一つは脳に連係されているが、それは驚くべき弾力性に富んでいるので、睡眠中にいくらでも必要に応じて延長する。これ等大小の紐は、人が静かに死する場合には、極めておもむろに切断され、そしていよいよ重大なる二本の紐が、下腹部と脳との連絡を失う時こそ、とりも直さずそれが死なのである。
魂が肉体から逃れた後にも、時として生命が、体内の一部の細胞内に留まることのあるのは、周知の事実である。この現象はいつも医学者にとりて難問題であるが、しかしこちらからいえば、その説明は頗る簡単である。即ち紐の一部が切断されぬ為に、複体が肉体から完全に離脱し得ないのである。魂はこの途中の引っ掛かりの為に、少しも肉体的には苦しまない。ただその間肉体の周囲の事物が識別されるので、精神的には多少苦悶を免れないかも知れない。何となれば、枕辺に泣き悲しむ親族や、友人の姿をば、虚心で見ることが出来ないであろうから・・・。が、一般的通則としては、一時間乃至二、三時間にして、魂は地上の把握からの完全なる離脱を遂げるのである。
諸子が死者の枕辺に見守る時、諸子は少しも肉体から離脱直後の魂の安否につきて、懸念するには及ばない。何となればその時分に、魂は普通半睡眠状態にあるからである。かの一切の心身の苦悩、かの一切の悪夢幻想等は、魂が複体への移動以前に起こる現象である。死の瞬間に於いては、急激なる変死の場合等は例外として、その意識は通例平静なのである。それは朦朧たる一種の安息である。そして時とすれば、自分に先立ちて帰幽した親しき友人親戚の面影に接するのである。
いうまでもなく、死後の境涯は人によりて驚くべき相違がある。一生の間にただの一度も心から他を愛した経験の無いものは、冷たき自己の残骸から離れると同時に、孤影悄然として、地上のそれとは比較し難き、濃厚にして鈍重なる闇の世界に滑り込むのである。
さりながら、このような絶対的孤独は、極めて少数の人物にのみ適用される。よくよくの利己主義者、又は残忍性の所有者は、この極刑に処せられるであろうが、しかしそれは何れも、比類稀なる人非人にのみ限られる。
普通の男子も女子も、その死に際して、何等の苦痛を味わわぬが通則である。彼等は既にその肉体からすっかり分離しているので、肉体はいかにも苦しみ、悩んでいるらしく見えても、本人の魂そのものは、単に睡気に襲われるのみで、風に漂う鳥と同じく、右に左に、西に東に、ただ当てもなく、うつらうつら漂蕩するような感じである。
今まで病床にありて、散々呻吟を続けた後で、この半醒半夢の状態は、寧ろ一種の慰安、一種の休養でさえもある。かるが故に死者の外面的苦悩に対して悲しむ必要は少しもない。彼は既に完全に苦しみから免れ、見ゆる世界と、見えざる世界との中間に羽ばたきをしながら、言うに言われぬ一種の満足-心の平静と新たなる知覚とに恵まれた、一種の快感に浸っているのである。
かくして魂はやがてすっかり複体の中に収まり、少時の間は物質的遺骸の上に彷徨する。その内人間はきっとこの瞬間の模様を、写真に撮ることが出来るようになるであろう。それは乾板の上に一片の白い雲、蒼白きエッセンスとして記録されるであろう。機械的には、いかにそれが発達しても、到底それ以上に帰幽者の姿を捕える力はないであろうが、勿論我々他界の居住者には、もっとはっきりその姿が判る。そして通例彼の身辺には、出迎えの友人や親戚等が打ち集っている。
(評釈)格別これはと取り立てて言う程、斬新卓抜な材料もないが、しかし簡単な叙述の中に、かくも死の前後の真相を伝えているのは流石と思われる。マイヤースはここでもディスカアネエト・ビーイングの文字を捕えて、心と物との不離の関係を説いているが、これは誠に初学者に対して、親切な心遣いである。霊(スピリット)というような文字に捕えられて、今尚多くの人々が、死後の世界をばひたすら抽象的、又平等的に取り扱わんとする傾向を免れないが、これは心霊問題を取り扱うものにとりて、真っ先に注意すべき事柄である。この幼稚な勘違いの為に、いかに多くの無益の論争が続けられて来たことであろう。
さてマイヤースは、超物質的エーテル体をば、複体、幽体、霊体、光体の四種類に大別しているが、内容からいえば、全然私の意見と一致していると言ってよい。ただ私としては、複体が要するに一の中間的存在で、それ自身独立せる機関でないところから、これを肉体又幽体の付属として取り扱い、強いて表面に持ち出すことを避けたまでである。私としてその存在を認めない訳ではないから、くれぐれも左様御承知を願いたい。
マイヤースが、『死』を以って振動速度の変化であると定義を下したのは、簡単にして要領を獲ている。最初この仮説を提唱したのは、クルックス卿であったが、爾来他界からの通信は、皆これを肯定することになっている。今日では恐らく動かぬ定説であろう。
マイヤースか臨終の際に起こる肉体的苦悩状態を以って、何等懸念の要なしと教えているのは蓋(けだ)し正当な、そして有益な忠言である。他の数ある心霊実験から言っても、この事実に萬々間違いはなきものと断言できる。これにつけても、現代の医学者が、到底助かる見込みのなき病人の肉体に、カンフルその他の注射を濫用するのは、甚だ感心出来ないと思う。薬液の注射は一時的に肉体の機能を刺激し、その結果、複体と肉体との分離を困難ならしめる。死者の側からいえば、随分難有迷惑な感がせぬでもあるまいかと痛感せられる。
第1節 冥府(影の世界)
私は冥府に於ける複雑極まる状況の十分の一をも、ここに伝えることは出来ない。私はただ一標本として、地上で月並な生活を送れる、普通人の行動を辿って見るに止めよう。
この影の世界に於ける魂の滞在期間は、めいめい異なっている。血族的又は霊的の親しき人達の姿に接し、中にはそれ等と多少の交渉を開いた後で、彼は一種の平和な休息状態・・・自分の過去の経歴の断片が、何の関与も、又恐怖も誘わずに、殆ど無意味に、チラチラ眼に映ずる半睡半夢の状態に於いて、几帳の蔭にでも横臥しているような生活を経験するのである。それは丁度睡魔を誘う真夏の午後、陽光下に煌く景色をば、うつらうつらと眺め入るのにも似ていよう。彼は全然全てから隔離された、夢幻の境に於いて、自分の行動をも、又自分の経歴に関与した他の人達をも、いとど心静かに見物し、又批判しているのである。
これを一言にして尽くせば、この冥府の生活は一の『蔭芝居』といえるであろう。無論この芝居見物の反応は各人各様である。或者はこれにつきて、殆ど何等の記憶をも有っていない。他の或者は飽くまで平静閑寂な環境に引きづられて、一向ポカンとして、何を見ても嬉しいとも悲しいとも感じない。が、それにも係わらず、浄化作業は着々として進展を続け、そのエーテル体は、粗末な外殻の中から次第次第に脱出する。つまり丁度肩から古外套をかなぐり棄てるような按配に、いつしか魂は地上から持ち越しの殻を、かなぐり棄ててしまうのである。全ては上方から射す霊の光がしてくれる仕業で、自力の仕業ではないのである。
兎に角、向上の旅客が、一旦その外殻-自分を地上に繋ぎ止める絆ともいうべき、その古外套を放棄したとなれば、彼はいつしか第三界(夢幻界)に進入して、完全なる意識を回復する。そしてこの綺麗に掃除された複体こそ、彼が次の世界で運用する機関となるのである。
この影の世界に於ける作業は地上の時間で、通例三、四日で終了するが、尋常でない一部の男女の中には、もっともっと長い期間冥府に滞在し、不気味な恰好をして、ノソノソと顕幽の境界付近を歩き回り、そこで色々の妖怪変化-人間の苦悩の種子を蒔き散らし、人間の理性をくらますのを天分としているところの、不思議千万なる幽的存在物-との交渉を開くのもある。しかし、そんな事は、よくよく心懸の悪かった人達の自業自得で、普通の帰幽者達は、少しもそれ等の怪物に煩わされることなく、何の苦痛も煩悶もなしに、夕闇の迫るが如き夢の世界を、安穏無事に通過するのである。
(評釈)帰幽後何人も通過すべき、一種の中間的準備時代の簡単な記述である。これが果して一般通則と認めて良いか否かは、今の所ではまだ充分の資料が集まっていないが、大体これに類した経験が、死の直後に伴うことは争われないようである。
第2節 記憶と死後の認識
生理学者に従えば、記憶は単なる脳髄の所属であるとされる。実際脳の一部に傷害を与えれば、今まで健全であった人が、精神的には忽ち空虚の廃物となり、過去に起こった何等の経験をも思い出すことが出来なくなる。
が、事実を言えば、この不幸な人は少しも過去を忘れたのでもなければ、又理性を失ったのでもない。脳の機関の一箇所に故障を起こした為に、その智慧も、記憶も、これを外面に表現することが出来なくなったまでである。内的には、彼は依然として理性もあれば記憶もある。換言すれば肉体の模写である。彼の複体の中には、その生涯の間に起こった一切の経験、一切の事実を立派に記帳しているのである。
記せよ、この複体は彼の誕生から死に至るまで、連続的に彼の魂の宿舎を以って任じ、その点肉体よりは遙かに忠実な、そして遙かに大切な用具であることを。
人間の見解からいえば、過去の記憶こそは、その本人に相違なきことの認識の為に、何より大切な要素である。ところがこの認識は、死によりて少しも失われるものでない。何となれば魂はその記憶の中枢をば、死後の機関であるところの複体の内部に置いてあるからである。勿論その外殻は、冥府生活中に放棄されるから、複体の概要部のみが個性の維持、記憶の保存に当たる。
尚複体は冥府滞在中に大改造、大整理の結果、驚くべき新威力を獲得し、為に魂は丁度繭を破った蝶のように、生気溌剌(はつらつ)たる元気と、洋々たる希望とを以って、夢幻界の新生活に入るのである。
実際又夢幻界は、これ等の希望の満足にはあつらえ向きの世界なのである。
(評釈)死後個性の存続と否とは、実に神霊主義の生命のかかる所で、従って近代心霊研究者達は、霊媒を機関として、この実証の確立に全力を挙げた。説明法は幾通りもあるが、しかし何と言っても最も有力なのは、本人の生前の記憶が、果して死後にも残存しているか否かの問題である。所が、東西各地の霊媒達は、この点の証明に関しては既に立派に成功した。八十年間の努力のお蔭で、今日ではその証拠が山積している。パイパー夫人たった一人の実績のみでも、沢山だといえる位である。この事実から帰納すれば、マイヤースがここに述べる通り、我々の記憶は、肉体よりも寧ろ複体の方にその中枢を置いている事が確かである。
第3節 眠る人、眠らぬ人
『全てのものが眠りはせぬが、全てのものが変わる』とは、死後の生活につきて聖書の教える所である。これは自分の所見と一致する。全てのものが眠りはせぬということは、つまり多くのものが眠るという事である。然らばそれ等の所謂『眠る人』は一体いかなる世界、いかなる境涯に置かれるのか?
鳥類が空に棲むのと同じく、これ等の魂は地球を包囲するエーテル界に生息する。その世界こそ取りも直さず私の所謂夢幻界である。この世界の特質は争闘及び努力の絶無なことで、従ってそこには真の創造がない。多数の人類は、かかる境涯を以って何よりも願わしき理想の生活と考え、地上生活を送りつつある時代から、その境涯を渇望した。つまりそれが彼等の所謂天国、又は極楽なのである。従ってそれ等の人達は、死後夢幻界に達した時に、心からそれに満悦し、世界の最後・・・聖書の所謂『最後のラッパが鳴るまで』そこに淹留するのである。この聖書の言葉は、無論これを譬喩的に解釈せねばならぬ。古代にありて、それは一種特殊の意味を有っているのであるが、近代に入りて、その意義が失われたに過ぎぬ。自分の観る所によれば、第三界に住む者はこれを『眠る人』と称してもちっとも差し支えないと思う。何となれば、何等意識的の争闘も努力もない生活、これが一種の睡眠でなくて何であろう。
無論それは文字通りの睡眠ではない。それは多くの点に於いて、地上の生活と類似した現実性を有っている。異なるところがただ一つある。つまり、奮闘抜き、真剣味抜きの絶対的気楽さがそれで、そこでは一切の欲求が、単に思うだけで達せられてしまう。従って下の地上界、又は上の色彩界で生きるのとは、全然生き方が違う。これを一種の睡眠者と称して差し支えない所以である。
が、聖書の言葉が示す通り、死者の或る者は決して眠らない。換言すれば、彼等は断乎としてこの酔生夢死の夢幻の生活を排斥するのである。彼等の求むるものは争闘であり、創造であり、努力であり、向上である。その結果或る者は地上に再生し、或る者は一層意義ある生活を味わうべく、意気軒昂として色彩の世界に入る。
(評釈)マイヤースの説くところは、大体事実に近いようである。我々がいかに霊媒を用いて幽明交通を試みても、これはと感心する通信には容易に接しない。多くは夢の国、御伽噺の国からの音信かと感ぜられるようなものばかりである。殊に既成宗教のアヘン的観念に捕えられて死んだ善男善女の他愛なさ加減ときては、全くお話にならない位である。これが恐らく現在多数の人類の相場であろう。我々が決して死者を買いかぶってはならない所以である。よほどの傑物にして、初めて観るべき通信、観るべき警告を地上の人類に伝え得る。
第4節 遺像又は殻
遺像又は殻とは死の直後に於いて、一時帰幽者を包む生前の形見で、それはあたかも着古した衣服に比すべきである。やがて彼はそれを脱き棄てるが、殻は依然として幽界に留まるから、彼はこれを拾い上げて再び着用することも出来るのである。
世の中でしばしば耳にする幽霊談-あれは大体これ等の遺像の仕業に外ならぬものと思えば大過ないのである。つまり生前に於いて巻き起こされた意念の名残が動因となりて、これ等の殻を躍らせるのである。例えば急死を遂げた乱暴者、宗教戦に一生を捧げた昔の僧尼、屠殺業者、又は殺人犯などと言ったもの共の霊魂が、何かの機会にふと生前の回顧に耽ると、たとえその観念はほんの一時的の極めて微弱なものであっても、過去世の因縁の絆に繋がれている為に、よくこれ等の遺像に感応して一脈の生気を与え、ノソノソと昔馴染みの建物、又は土地の辺を徘徊させるのである。
但しここでくれぐれも銘記すべきは、自我の全体が、決してこの覚束なき昔の殻の中に舞い戻って来て、無意味な行動をとらせるものでない事である。この種の幽霊は、言わばただ昔の衣装が、ちょっとした幽的思念の刺激によりて、人騒がせの曲舞を演ずるだけのものである。
無論いかなる規則にも多少の例外はあるもので、一切の幽霊現象が、ただ一つの規則の中に包まれはせぬであろう。しかし普通の幽霊現象の大部分は、結局強烈なる記憶の糸に引かれた昔の一念が、一旦放棄した自分の遺像を媒体として、無意味に現れるものに過ぎないことは確かである。
(評釈)幽霊現象は、日本にも西洋にも数々ある。それは決して幻錯覚の産物でも何でもない。が、それ等の幽霊の多くは、ただ無意味に出没行動するだけで、一向面白くも可笑しくもない。これに対して恐怖心を起こして、大騒ぎを演ずるは実に愚の極みである。マイヤースの説明は、この点につきてほぼ遺憾なきに近い。幽霊恐怖患者は大いに安心して可なりである。但し幽霊などに出られては、迷惑だと思うものがあらば、幽界の政庁に頼んで霊的駆除法を講じてもらえばよい。求むるに道を以ってすれば、それしきの事は朝飯前の仕事である。
第5節 急死
時とすれば、帰幽者の中には、自分の死を知らぬものがある。こんな事をいうと、いかにも信じ難く思われるか知れぬが、しかしある特殊の場合には、それが実際の事実なのである。
この不可思議なる認識不足の原因は、実にその人の過去の経歴中に見出される。もしも彼が強烈なる物欲の奴隷であり、金銭に対する執念に燃えつつ帰幽したとすれば、他界の居住者の姿を、ちらと瞥見(べっけん)した位では容易に承服出来ず、自分は未だ断じて死んでいないと、あくまで頑張りながら、盲滅(めくら)法界に自分の家を捜し、財宝金銭を捜して、幽界の闇路を駆け巡るのである。時とすればそれ等の幻影が、自分の直ぐ前面に現れる。しめたと思って追いすがれば、プイと消えて跡形もない。消えては現れ、現れては又消え、後にはただ焦燥と失望とが残る。こういった利己主義者は、暫く顕幽の境界辺に滞留を余儀なくせられ、物欲が消滅するまでは、決して自由が与えられないのである。
中には又ほぼこれと同じく、暫時冥府に滞在を余儀なくせらるるものもあるが、幸いにして、それは寧ろ例外に属する。それは元気旺気で、無鉄砲で、そして相当道楽もやった若者の急死の場合に起こる現象である。自分にはとんと死ぬ気持も何もない、血気盛りに、無理矢理にその肉体からもぎ離された、甚だ気の毒な連中のこととて、地上生活と幽界生活の相違が容易に腑に落ちない。従ってそのエーテル体が、あまりにも急激な変動の打撃から回復するまでは、一時人事不省の状態に陥ってしまうのである。
しかしながら、前にもいう通りこれ等は例外で、大部分の男も女も、丁度渡り鳥の如く冥府を通過し、その間に、折りふしここかしこで、自分よりも前に帰幽した親戚朋友と会ったり、又一時的の幻影にぶつかったりして、小休憩を行なうのみである。彼等の入り行く新世界は、言ふまでもなく、例の努力の要らない夢幻境で、主として現世生活の繰り返しの如き、一種の生活模様を編み出すことになる。
第6節 頽齢者の死
頽齢者(たいれいしゃ)=心身の能力が衰えてしまうほどの高齢。老齢。
頽齢者は、地上を去る前に、或る程度記憶が衰え、理解力も弱っているので、傍からこの状況を目撃する者は、死後の世界とは、結局ヨボヨボの耄碌(もうろく)者の集り、生気と興味との稀薄なる生活を送る所と考えたがるが、これは魂と頭脳とを混同した間違った結論である。魂、つまり本人の自我は、決して耄碌などはしない。耄碌したのは独りその肉体である。肉体が非常に老衰すると、エーテル体の頭脳と、物質体の頭脳とを繋ぐ所の太い紐が破損するので、本人がまだ生きている時から、魂は止むことを得ず複体の方に引き移ってしまう。しかしそうした場合にも、エーテル体と肉体との他の部分を繋ぐ第二の紐、その他がまだ立派に存在するので、死ぬ訳にも行かないのである。こんな具合で、一見心抜きの残骸としか見えない老翁も老婆も、その中身は依然として活発な生命の保有者なのである。彼或は彼女は、単に少しばかり奥の方へ退却しているというに過ぎない。これを気の毒がるのは寧ろお門違いである。何となればこの退却こそ、実は第二の生活への躍進の門出なのであるから・・・。
(評釈)自我とその媒体との混同の結果、いかに多くの無用な論争が、従来世間で行なわれていた事であろう。肉体は現世で使用すべき機関であるから、時節が来れば勿論老朽して、次第に役に立たなくなる。が、肉体が役に立たなくなったからとて、彼には尚幽体もあれば、霊体もあり、又本体もある。自我意識を発現せしむるに何の差支えもないどころか、上に行く程媒体が一層精妙自由になるから、死後に於いてこそ、初めて真に高尚な享楽も出来、活動も出来るというものである。マイヤースの筆は非常に簡潔であるが、極めて要領を獲ている。
第7節 因縁
野心の彼方に、ありとあらゆる利己主義の彼方に、もがき争い、又飽くことを知らざる欲求の彼方に、永遠の強き力を以って、因縁の魂と魂とを引き寄せる不可思議の存在-愛がある。愛は死よりも強く、失望をも征服し、その他有限の世界に見出される物という物は、悉くその敵でない。愛こそは正に一つの立派な宇宙的原則である。それは未来永劫、汝の為に織り出されつつある『因縁の図案』の背後の力である。
普通人にとりて、死は恐怖の種子である。死は一見いかにも寂しそうに思われるからであろう。が、死の真相に通ずれば、恐る恐る必要は少しもない。因縁の人達、換言すれば自分の愛する人達との永久の別離は、何等根底のなき一片の杞憂に過ぎない。死後彼が何所へ行こうとも、彼は永久にその所属の活動範囲から脱出する事は出来ない。一時的の行方不明は或は免れぬにしても、自分の生涯の模様の中に織り込まれたる因縁の人達、過去に於いて愛し、愛されたゆかりの魂は、未来に於いて必ず又巡り合うべき運命を有っているのである。
言うまでもなく、未発達の原始的人物の愛は、浅薄にして偏狭であるを免れない。彼等には全身全霊的真愛が、向上の第一義であることを理解するだけの心の深みがない。換言すれば、彼等には真愛の中に永生の種子が宿っていることを会得する力がない。そう言った幼弱な魂は、しばしば強烈なる憎悪と怨恨との捕虜となり、第三界に行ってからも、依然としてそのままの争闘を繰り返している。そしてうっかりすれば、彼等は再び地上に再生して、そこで又もや昔日の怨みを晴らそうとする。仏家の所謂修羅道とはこれを指すのであろう。これを食い止めるのは、勿論精神的の進歩向上、愛の法則の普及浸潤以外に何物もない。で、何人も愛の法則を会得することが先決問題である。それさえ出来れば、そこに死の恐怖の必要は何所にもない。何となれば、よしや彼が一足先へあの世へ旅立ったとしても、彼と同一因縁に結ばれた人、従って彼の真の同属が即座に彼に結び付き、死の彼岸に横たわる大々的冒険の指導者となってくれるからである。
死は寧ろ汝の友人であり、又汝の救済者である。何となれば、地上の愛につきものの闇と汚れとは、死と共に煙散霧消するからである。
(評釈)愛とは結局心と心との共鳴であり、感応である。従ってその人の発揮する愛を以って、人生に於けるその人の相場づけが決まる。
第13章 心霊の進化
私がまだ地上に居った頃は、強固なる『愛(ラブ)』の礼讃者であった。新約聖書の中で、聖ポールは別に『慈悲(チャリティ)』と訳してよい言葉を使っているが、しかし大体それは、『愛』という言葉と同意義に見られるのであった。ところが今日死後の世界に生活してみると、これ等両語の何れもが、しっくりと我々が伝えんとする全意義を表現するに足りないことを感ずる。それは右の両語が多年に亘りて、人間の有限の心によりて狭く解釈せられ、甚だしく歪んでしまっているからである。
一部の人士にとりて、『愛』は単に男女間に発生する所の情熱を意味するに過ぎない。他の一部の人士にとりて、それは意気投合せる二つの魂、親友の間に発生する交情を意味する。最後に愛は広く同胞間の親善関係、人類愛を意味するのである。
が、これ等の観念は、何れも尚理想を距(へだ)てることが遠いかと思われる。いかに優れたる男も女も、未だかつて神の認める所の、かの崇高深遠なる愛の全貌を把握することは出来ないかと考えられる。私がこちらの世界から、地の世界の状況を通覧し、幾千年かに跨る世界の歴史を回顧する時に、私はドウあっても、この際一つ適当な新語、一段又一段と意識の階段を上昇すべく、我等の心霊(サイケ)を刺激する所の、魂の根本的欲求を過不及なく言い現す所の、そして入手によりて汚されないところの、新用語の必要を感ぜずにはいられない。
そもそも進歩とは、取りも直さず叡智が加わることである。そして叡智とは結局、『真理に対する正しき判断』を意味する。
何れの界にありても真理の観念は、その界特有の生活状態、魂が帯びる所の形態によりて、必然的に制限されるを免れない。魂が更に一段の飛躍を遂げて、秋の木葉の散る如く、一切の形態を棄つるに及べば、その時には真理の把握が更に一層拡大する。
人間の住む鈍重な物質世界に於いて、今日尚最も神聖であり、又最も神聖視されている用語は、蓋し『真理(ツルース)』という文字であろう。で、キリストが福音書の中で使用せる、所謂『愛』の内容を一番よく表現する言葉は、この真理という文字ではあるまいかと思考される。但しその中に『正しき判断』の意味も加わらなければ、無論完全とは言われない。
この際我々がよく考えてみなければならないのは『叡智』という言葉である。何となれば、この崇高なる言葉の中にこそ、明らかに、男女間の高尚なる愛も、智的友愛も、人類愛も、又かの透徹せる洞察力も、悉く包含されるからである。全てこれ等の性質は、真理を悟り得る男女の特質で、彼等が何れの界に置かるるにしても、常に鈍重なる物質界に下降するよりも、一層精妙高潔なる上層界に前進、向上すべき魂の欲求に駆られる。他なし叡智がその原動力となっているからである。
『汝の敵を愛し、汝を苦しむる者を祝福せよ』という含蓄に富める言葉は、これを実生活に適用せんとする純真なキリスト教徒にとりて、確かに難題中の難題に相違ないが、ただ叡智の力があれば、これを行為の上に実現し得ると思う。何となれば、右の思想は確かに叡智の内に含まれ、真理に対する正しき判断さえ出来れば、これを実生活の上に表現することも、決して困難でないのであるから・・・。
あの素朴なる農夫でも、又あの卑賤(ひせん)なる労働者でも、もしもこの精神的、霊的の悟りの力さえ有っていれば、彼等は正しく賢者と言ってよい。キリストの所謂『愛』というのは、確かにこの鋭い悟りの力、叡智のことである。
叡智こそは、正に愛に向かって形と生命とを与える光であり、正に隠れたる愛の源泉であり、又正に向上前進の最高の刺激物であり、これを要するに『心霊の進化』は、専らこの叡智によりて遂げられる。
(評釈)キリストの山上の教訓中に、たまたま『愛』という文字が使用された結果、無批判的に『愛』という言葉を濫用するものが続出し、欧米人士は、正に愛の熱病に罹っていると言ってよい。日本にも、これにかぶれたものが中々少なくない。仔細に彼等の使用する愛の内容を検討するに、めいめい勝手放題を極め、正にマイヤースの分類した通りである。『愛』の宣伝の為に、多少社会人生に裨益(ひえき)をもたらした点もあるには相違ないと思うが、しかしその弊害たるや実に大きく、甚だしきは、低級なる動物的本能の無茶苦茶な行動奨励の種子にさえなる傾向がある。マイヤースの意見も、まだ充分具体的に代用の新語を提示するまでに至らないが、確かに『愛』の濫用者にとりて、一の有益なる苦言に相違ないと思われる。
第14章 自由意志
『自由意志』という言葉は、使用者が異なれば、その意味が異なって来るように見える。一部の人士にとりて、それは出来るだけ自己の特殊の欲望、又は出来心を遂行することであるらしい。又他の一部の人士にとりては、何等かの岐路に立った時に、自己の見地から考えて、最も正当と思われる方向を自由に選ぶことであるらしい。
言うまでもなく、各人はそれぞれ特殊の人生の行路を辿りつつある。が、一体何者がその選択に当たるのか?これを一言にして尽くせば、肉体と霊魂との総和がそうさせるのである、というより外ないであろう。肉体といい、霊魂といい、その現れは種々雑多であるが、その根元はただ一つである。彼等は長年月の間に徐々として進化を遂げ、以って現在の定形を為すに至ったもので、その中には、一切の遺伝的要素も含まれていれば、又多くの心霊的、精神的の影響も加わっており、有限な人間の心を以ってこれを観れば、殆ど無尽蔵に近い。境遇、友人、仇敵、親族等、一として彼の一生の行路を決める為の、内的要素でないものはない。かるが故に、もしも諸君にして、自己存在の性質を考えたなら、いたずらに自由意志の行使を叫んだところで、結局出来ない相談を持ちかけているに過ぎないことを悟り得るではないか?
人間とは単に多くの男女、生きている人達と、死んでいる人達とが、多勢寄ってたかって造り上げた、一の創造物に過ぎないではないか?
従って我々は、主としてそれ等の人達の感化影響の犠牲者であり、宿命的に我々の内部に樹植されたる傾向に、大人しく服従すべく余儀なくされているのである。換言すれば、一切の人類は、或る意味に於いては単数であり、他の意味に於いては複数なのである。世界開闢以来の人類の歴史、又人間の性格は、間断なしに増大しつつある、一つの大きな網と思考してよい。そしてこれ等の仕事に対して、一切の責任を有するものは、取りも直さず宇宙の萬有の根源を為している所の神であり、造物主である。
既に神が唯一の創造者であり、造物主である以上、一個人の性格がいかなる形式をとりて進展するかは、その人間の出生以前から、神には判っている筈である。何となれば一切の建築図案は、赤子が母胎に宿る以前から、神の想像の中に描かれているからである。
が、自分の魂をどんな所に造り上げるか?換言すれば汝の魂が人生の苦楽に対して、いかなる反射作用を起こすかは、それは汝の自由意志の範囲に属する。艱難に遭遇してまだまだ奮発するか、それとも意気消沈して淪落(りんらく)の一路を辿るか、それは全然汝の思うがままで、それがとりも直さず、汝の地上生活の重要素となるのである。やがて汝は肉体を既に帰幽し、私の所謂類魂の一員となるのである。が、その時汝の造った魂の鋳型は、汝に続いて地上に生まれんとする類魂中の、若き魂の未来に対して、深刻な影響を与えることになる。
神は勿論類魂の宇宙生活を監視している。そして彼等の発達に応じて、神は人類生活の将来を計画する。が、大体の輪郭は、最初神の想像の中に描かれたる図案に従うのであって、変更を加える所は、よくよく枝葉の点に過ぎない。
(評釈)私の所謂宇宙間の連動装置、個人、守護霊、自我の本体等の切っても切れぬ関係が、多くは別の言葉で表現されている。言い回しに多少迂遠な箇所も見えるが、その大体の趣旨には、何人も恐らく首肯しなければなるまいと思う。
第15章 記憶
第1節 肉体の内と外
自分はここで、記憶の種々相につきての所見を略述して、諸君の参照に資したい。
先ず第一に、諸君はまだ肉体に包まれている人間に起こる所の記憶の真相を知りたいであろう。自分はこれから、自分の心霊眼を以って目撃する所を述べることにするが、真っ先に働くのが意志である。即ち諸君は、トム・ジョーンズならトム・ジョーンズという姓名を記憶しようと決心し、右の影像に意念を集中する。するとその影像から肉眼には見えない所の、極めて精妙な幽的物体が、自分の所に引き寄せられる。科学者に言わせたら、右の幽的物体は電気よりも微妙な、しかし電気と同性質のものであるという定義を下すであろう。
ところで、もしも意志の力が充分強烈であれば、今度は右の幽的物体が働いて、何やら一種流動性の液体らしいものに、必要な印象を与えることになる。この流動性の幽的液体は、容易に物質を貫通することが出来るので、前記の幽的物体の援助の下に、脳の細胞と接触を開き、以ってこれに感応を与える。
即ち人間の意志は、これ等二種類の要素の援助によりて、トム・ジョーンズの影像をば、脳細胞に連結せしむることになるのである。従って幾百万とも知れぬ小影像が、同時に幾百万とも知れぬ脳細胞の中に印象されている訳であるが、物質に包まれた人間の空間的観念は、甚だ歪曲されているから、そうとは少しも気付かずにいるのは、是非もなき次第である。手っ取り早くいえば、諸君は自分の周囲に、一の巨大なる蜘蛛網を想像してもらいたい。その全ての糸が、丁度電線が電信を運ぶような具合に、記憶又は思想の影像を脳へ運び込む仕掛けなのである。
要するに全ての仕事は、皆それぞれの材料を使用することによりて遂行されるのであるが、困ったことに、人間界には右の材料、例えば印象を受け取る所の幽的流動体に附すべき用語が、まだ出来上がっていない。致し方がないから、暫くこれを幽泥(クレエ)とでも呼んでおこう。この幽泥こそ、実に思想が構成される所の原料なのである。無論それは、人間界で考えるであろうような材料でも何でもないのだが・・・・。
兎も角もこう言った一種の幽泥が、耳目その他の感官によりて伝達される所の、一切の印象を受け取る材料であり、そしてその材料と脳との連絡は、諸君の意志の作用がこれを営む、という次第なのであるが、ここで諸君は当然、然らば意志とは何ぞや、という疑問を起こすであろう。そもそも意志とは、諸君の体外に在る所の自我の本体から、諸君の体内に向かって注ぎ込まるる所の、エネルギーが主体であるのだが、勿論それには、物質的脳細胞の働きも加わっている。
意志と物質的肉体とは、決して没交渉ではない。が、今も述べる通り、意志の源泉は自我の本体であって、これが実に無限の微妙なる幽的原子の実像であり、そしてその原子は、お粗末な地上の機械-肉体の死によりて、少しも影響を受けないのである。ここで原子というのは、こちらの世界に居住する自分の言う言葉で、地上の諸君から言ったら、それは恐らく一種の流動体らしく見えるであろう。兎も角も諸君を構成する中枢体は、諸君が地上生活を送っている限りは、一の複合物たるを免れないものと思ってもらいたい。それは物質的なものと、非物質的なものとの連合体である。物質的の肉体は、勿論物質としての素質上、或る物的欲望を有っている。物的欲望は汝自身ではない。が、欲望は汝を支配する。
何となれば物質的なものは、或る程度非物質的なものを圧倒し、脳細胞の内部に起こる所の指揮判断に、強力なる干渉を加えるからである。元来脳細胞は非常に鋭敏で、いくらでも外来の刺激に感じ得る。又汝の意志なるものは、元来一の物体と言わんよりは、寧ろ一の運動であるから、それが間断なく働いて、一切の影像を合同し、整理し、そしてそれ等の影像に付着せる幽紐を、脳に接触せしめようとする。が、あくまで忘れてならないのは、全てが相持ちの働きであることである。これが肉体に包まれている、人間に起こる所の記憶の実相で地上の人間には容易に会得されぬかも知れぬ。
次に肉体を離れてからの記憶となると、それは全然別問題である。死後の人間は、地上の影像から非常にかけ離れて来る。何となれば、脳細胞と称する物質的媒体に依りての連絡が、失われてしまうからである。言わば連絡の紐が切れてしまうのである。かくいえばとて、無論一旦印象された影像が、破壊されるという意味ではない。彼等は依然として存在する。が、手続きがすっかり違って来る。我々は一種の統一状態の下に、是非モウ一度逢いたいという意志の力で、所期の影像を造り出すのである。地上に居った時は、非常な努力と困難とに打ち勝ちながら、影像を自分の手許に引き寄せたのであるが、今度は引き寄せるのでも何でもない。我々はそれに必要な方法を講じさえすればそれでよい。そうすると、自分の望む影像が、比較的容易に目撃し得るのである。
但し我々が霊媒によりて通信する時は、又全然趣が違う。それは至難中の至難事である。我々はそれ等の影像から、全然絶縁してしまっている。故に霊媒にして我々の記憶が要求する事柄を吸収するだけの、心霊的能力を具有するにあらずんば、我々は、到底諸君が求むる所の、証拠物件を提供する事が出来ないのである。普通人にはこの特殊の能力がない。元来この能力なるものは、人間の肉体そっくりの形態を有し、そして人間を取り巻いている所の、一つの無形の流動体の過剰物ともいうべきものなのである。
兎に角、そうした場合に、影像は全然頭脳の外部・・・・肉体の外部にあるのだが、ただ無形の紐で、こちらの体と連絡を取っている。我等は多少触覚には感じないではないが、よほど意念を集中するにあらずんば、滅多にその形態を認めるまでにならない。よし多少は成功しても、通常意識には到底上って来ない所の、沢山の影像があることを忘れてはならない。イヤ、ドウも説明が困難で、果たして自分の意味が通じたか否かが危ぶまれる。
さて記憶の解釈に移るが、それは丁度海に譬えられると思う。記憶は汝を包囲しており、そしてそれは海の水の如く逃げ易い。地上生活をしている時の我々は、丁度手に小さいバケツを提げて、海水を汲まんとする子供にも似ている。その中に掬い上げる砂の数は幾何もない。そして何の雑作もなく、我々は再びそれを地面に撒き散らしてしまう。が、我々の背後には、一望渺茫(びょうぼう)たる海面が、依然としてうなりを立てて海岸を打っているのである。
兎に角諸君は、記憶をばこの大海の如きものと考えてもらいたい。記憶は年がら年中それ自身を地球に投げ出している。従って記憶が諸君を包囲している状態は、正に水蒸気が包囲しているのに似ている。地上生活をしている間にも、諸君は不知不識の間に、この目に見えない記憶を、どれだけ吸い取っているか知れない。
そして、或る一国が他の一国よりも湿気に富み、雨量が多いように、或る一人は他の一人よりも、多量の記憶を吸収する。無論記憶は人間の頭脳によりて濾過されるので、必然的にその人の色彩を帯び、個性を具え、最後に恰も一の独創物であるが如き形態をとりて、その人の意識に上って来る。が、しばしばそれは何とひどい非独創物、取るにも足らぬ焼き直しに過ぎぬものであろう。
蓋(けだ)し普通の凡人は、生者の頭脳から放射された、手近に転がっている記憶の残滓のみを収集するに過ぎない。大思想家と言われる者にして、初めて人間性の深部に潜める、真の強力なる記憶を吸収する資格を有っている。迅速に放擲(ほうてき)されるような記憶には、決して永続性はない。永遠の生命ある記憶は、常に精妙なる努力、情熱性のものに限る。
見様によりては、人間は一の発電所のようなもので、間断なく新規の記憶を発生せしめ、そして間断なくこれを発送している。人間が個性に固着しようとするのは、そこに無理ならぬ点もある。が、間断なき崩壊に堪えて後まで存続するものは、実はよくよく根本的なる自分-つまり自己の核心のみであることを忘れてはならない。
記せよ、人生の行路に於いて、我々は精神的に絶えず死しつつあるのである。換言すれば、秋毎に草木がその葉を振り棄てるが如く、我々は年々歳々、絶えず我々の記憶を振り棄てるのである。従って、我々は著しく変わって行くのである。試みに生まれて漸く十歳のトム・ジョーンズと、春風秋雨六十年の星霜を重ねたトム・ジョーンズとを、鼻突き合わして座らせて見るがよい。彼等はどんなにはにかみ、どんなに意思の疎通を欠くことであろう。が、心胸の奥深い箇所には、何やら一種不可思議の共鳴、何やら一種名状することの出来ない、感応と言ったようなものがむらむらと発生し、外面的相違の甚だしきに係わらず、十歳の少年と六十歳の老人との間には、丁度磁石と鉄との間に起こるような、妙な親しみが感ぜられるに相違ない。何故そうなるかは、恐らく本人達にも判らないであろう。彼等の間には、記憶の共通点などは殆ど存在しない。彼等は言わば赤の他人に過ぎない。が、両者を結びつくる、深い深い人格の核心が両者をして、どうあっても会心の親友たらしめずんば止まないのである。
これと同様の事柄が、数十年の間隔を置いて、幽界で再会する親子、兄弟、夫婦、朋友等の間にも起こる。外面的事実の記憶からいえば、彼等の間には殆ど何等の共通点もない。が、彼等の間には、そんな記憶よりも遙かに遙かに深い共通の或る物があるので、一瞬にして相互の認識が可能である。愛と憎、沈着と性急・・・そう言ったような、人間性の根底に横たわる所の一切の本質は、歳月の経過位で容易に変わるものでない。この基本的知識さえ残っていれば、相互の認識はおろか、場合によりては、古い古い関係の復活も出来る。但し後者は、双方の魂が、本質的に不可分的関係に在る時に限ることは言うまでもない。
兎に角私自身につきていえば、私は死後決して一ヶ所に足踏みしていなかった。私は外部的に大いに変化し、進化し、新しい葉も付ければ、又新しい花も付けた。が、内部的には依然として少しも変わらない。かるが故に、私の記憶の一部分が埋もれた位のことで、私の妻や子供達が、私を認識し得ないという心配は毛頭ないのである。
私は今私の地上の記憶が埋もれてしまったと述べたが、それは決して永久に放棄されてしまったという意味では少しもない。ただ現在の自分にとりて、地上の記憶が何の用途もないままである。自分は今第四界に於いて、新規な形態の経験を積むことによりて、新規な印象を造り出そうと精進努力中である。しかし、第四界と第五界との中間境に達した暁には、私は再び地上の記憶のおさらいをせねばならなくなる。
(評釈)少々難解かも知れぬが、記憶に関する内面的説明として、これ程力瘤の入った、又これ程懇切丁寧なものは滅多に見当たらない。従来の心理学的説明などは、この説明の前には、全く影が薄いと謂わねばならぬ。
マイヤースは肉体のある人間の記憶と、肉体のない幽界人の記憶と、それぞれ区別して説いているが、これは私の霊的実験から考えても、正にその通りに相違ないと思う。人間の記憶力は、いかに優れていても、多寡が知れている。これはその手続きが非常に面倒な為である。そこへ行くと他界の居住者は、その運用する媒体が自由である為、実に素晴らしい威力を発揮する。これは心霊実験の実証する所であるから、議論の余地がない。
それからマイヤースが、意志に下した定義は甚だ卓見である。自我の本体から人間の体内に注ぎ込まれるエネルギーが、その主体であるというのは、私もこれを承認するものである。我々が深い精神統一に入る時に、合流合体するのは、実に自我の本体(守護霊、本霊)である。抽象的概念論者は、直ぐそこで宇宙の大霊、神、絶対等を持ち出したがるが、それは事実に反し、又理論にも反している。内面の世界は一段又一段と、奥深く階段を為しており、そうお易く最後の窮極に達し得るものでない。実をいうと、自我の本体との合体さえも至難中の至難事で、うっかりすると、幽界の入り口辺に彷徨する低級劣悪な人霊、自然霊、又は動物霊に共鳴する。
それから、マイヤースが、地上生活の記憶の価値に対して下した見解も甚だ痛切である。欧米の心霊家の一部は、外面的の証拠材料(エヴィデンシャルマター)の収集を以って、殆ど心霊研究の全部と考えようとするが、あれは余りに偏狭な考えである。証拠材料も結構だが、しかし人間性の内面には、それ以上に有力な宝玉的存在が潜んでいることを忘れてはならない。