第17章 スピリチュアリズムの第一線で働く人々への励ましのメッセージ
〔シルバーバーチは機会あるごとに、世界中でスピリチュアリズムの普及のために活動している人々に励ましのメッセージを贈っている。本章ではインド、スウェーデン、アメリカで活躍している四人(インドの場合は夫妻)への励ましの言葉を収録した〕
スウェーデンの活動家C・カールソン氏へのメッセージ
『あなたが今夜ここにお出でになったのは、霊力を充電して遠い祖国の中でも暗黒に閉ざされた地域に持ち帰り、少しでも明るくするためです。
ようこそお出でくださいました。霊の世界からあなたに心からの祝福の言葉を贈り、この地上界へ降誕する際に約束された使命に敬意を表したいと存じます。
かく言う私も大霊の仕事を果たすために遣わされたマウスピースに過ぎません。その私から申し上げられることは、これまでに歩まれた道は尋常一様なものではありませんでしたが、その長い年月の間、あなたはずっと霊の世界から導かれて来ているということです。これから成し遂げねばならない仕事も大きく、かつ重いものです。それがどれほどのものか、あなたご自身には想像の及ばないことですが、その達成に当っては、祖国スウェーデンにとって今なさねばならないことは何であるかを熟知している霊界から、しかるべき霊団が派遣されることになります。
が、本来なら歓迎してくれるはずの宗教界からの反抗に遭うなど、これから遭遇する苦難にあなたは胸を痛められることが少なくないことでしょう。また一方、あなたが届けてあげる新しい真理が大霊の子等の役に立って、あなたの心が晴ればれしい喜びに満たされることも少なくないことでしょう。
いずれの場合にせよ、即ち悲しみの涙に暮れている時も、あるいは嬉し涙に暮れている時も、その背後では霊団の者もあなたと共に悲しみの涙を流し嬉し涙を流していることを知ってほしいのです。
遭遇する困難がいかなるものであろうと、行く手を遮(さえぎ)ろうとする障害がいかなるものであろうと、それによって大霊の計画が阻止されることはありませんし、大霊のために働いている地上界と霊界の援助者の士気を挫くこともあり得ません。
もしも途方に暮れるような事態に立ち至った時は、いったん休止して心の平静を取り戻すことが大切です。そのためには霊界からの指導と援助を求めて祈るのです。背後霊団への信頼と確信が絶対である限り、霊力と霊感とによる援助に限界というものはありません。地上の人間が互いに自分を役立てる生き方をして欲しいと私たちが望んでいるように、私たちもそういう時には、総力を上げてあなた達のために頑張ります』
インドの活動家V・D・リシ夫妻へのメッセージ
『あなた方が今健闘しておられるインドには、ほんの僅かな光明しか届けられていません。その光明こそ大霊の光であることを悟った人たちによって、その小さな光明がかろうじて灯し続けられています。それを消さないようにするのは、お二人のように犠牲的精神に燃えた人々の献身的活動です。それが無知と利己主義を駆逐し、代わって「サービス」という名の光明を呼び入れるのです。それが大霊の最大の顕現です。
これは大いなる事業であり、この完遂を阻止できるものは、この物質界には存在しません。インドという国は長年にわたって誤った教えが説かれてきております。それを正すのは容易なことではありません。お二人は決して孤立無援で闘っておられるのではありません。私たちの世界から大勢の者が援護いたしております。むしろ霊の力の方が物質の力より強大です。これまでお二人が敗北を喫したことは一度もありません。
お二人はある目的があって結婚させられております。大きなプランがあって、その一環として一緒にさせられているということです。その目的とは、今もって物的暗黒の中でもがいているインドの無数の魂に新しい光をもたらすことです。
本日このサークルヘ来られたのも、霊界と物質界とが調和すればいかに素晴らしいことが実現するかを目のあたりにしていただくためです。そのためにここへ連れて来られたということです。そして、ここで体験された霊界との接触は、交霊会が終わったあとも続きます。インドに帰られたあともずっとそのパワーを感じ続けられることでしょう。
そのパワーはあなた方を鼓舞し、あらゆる闘いで味方となってくれます。あらゆる障害の克服に力となってくれます。落胆した時、気落ちした時に、元気づけてくれます。大霊とのつながりを強化し、無欲の奉仕に徹する者には、地上のいかなる困難をも克服するパワーからのインスピレーションを授かることを得心なさることでしょう。
要するにあなた方は二人だけの存在ではないことを知ってください。あなた方の闘争は私たちの闘争でもあります。あなた方の困難は私たちの困難でもあるのです。
願わくはお二人の旅に、そしてお二人の使命に、大霊の祝福の多からんことを。大霊の光がお二人の心を明るく照らし、大霊の意図の理解がより一層大きくなりますように。お二人を支援し鼓舞してくださるパワーを確信し、大霊についてのより一層の認識を深めることになる道へ導かれんことを。常に大霊の御手とマントがお二人の身近にあることを感じ取り、大霊のプランのために奉仕する仕事には必ずや保護と導きがあることを悟られんことを祈ります』
それから三年後に再び夫妻がサークルを訪れてシルバーバーチからのメッセージを賜った。
『前回お二人が英国へお出でになった時に結ばれた私との間の絆は、その後も途切れることなく続いております。そして、このあとインドヘお帰りになる時は、さらに新たな熱意と確信を携えて行かれることでしょう。
行く手に障害が山積していると意気消沈してしまいがちであることは、私たちにもよく分かります。今お二人の行く手に横たわる障害の全てが私たちには見えております。同時にお二人が、授かった真理の光に忠実であろうとしてこれまで勇猛果敢に生きて来られたことも、よく存じております。その態度は誠実にして美しいものでさえありました。
行く手が無知の霧で曇らされていることを知った時は誰しも絶望的になりがちであることは、私たちもよく理解しております。が、お二人と私たちとをここで集わせたことの背後には、それを必要とする大いなる事業が待ち受けていることを、ここに改めて念を押して申し上げたいと思います。
「東は東、西は西。両者が相見(あいまみ)えること、さらになし」(英国のノーベル賞作家キップリング)と歌った人がいますが、両者は立派に相見えるのです。霊において一つであり、大霊から見れば西も東も南も北もないからです。人間が勝手に境界線をこしらえているのです。大霊は全ての人類を一つの調和の取れた絵柄に編み上げたいと望んでおられるのです。
お二人は本当に豊かな恵みに浴していらっしゃいます。サービス一筋の道を選ばれたからこそです。お二人はまさに一体となっておられます。手を取り合って奉仕の仕事に携わっておられるからです。大霊のマントに包まれていらっしゃいます。それは霊的な愛のマントであり、盾となってお二人を外敵から守っております。
二人きりで頑張っていると思ってはなりません。背後には霊界からの強力な援軍が控えております。お二人の成し遂げた仕事が消滅することは決してありません。ご自分では失敗の連続のように思えていても、価値ある種子を蒔いておられます。誰かが先頭に立ってジャングルを切り開いて行かねばならないのです。落胆してはいけません。お国に帰られたら、これから歩む人達のために、そのあなた方が切り開いた道をさらに歩みやすくしてあげる仕事に取り組んでください』
憑依による精神病患者の治療に生涯を捧げたカール・ウィックランド博士が秘書のネル・ワッツ女史を伴って出席した。
『本日は二人の忠実な真理の探究者をお迎えして、私はことのほか嬉しく思います。長年のご苦労の多い犠牲的なお仕事で、少しばかり背中が曲がってまいりましたね。が、来し方を振り返れば、間違いなく多くの人々を無知と暗闇から真理と理解力と光明へと導いて来られたことが瞭然と分かる人生を送って来られた、立派なお二人です。
お二人の仕事は終わりました。人々に霊的光明を授ける、偉大で気高いお仕事でした。間もなくその松明(たいまつ)は他の誰かの手に引き継がれることでしょう。成し遂げられたお仕事が消滅することはありません。それは決してあり得ないことです。お二人が生きておられる世代にその価値が認められることを期待してはいけません。先駆者の仕事は常にそういうものです。が、成就されたお仕事はいつまでも生き続けます。
奉仕の人生を終えられた今、来し方を振り返り、ご自分がこの世にいたからこそ救われた人が大勢いることを知ることができます。生きていることそれ自体が暗黒と絶望に思えていた人に希望と健康、そして人生そのものを取り戻してあげたのです。束縛状態から解き放し、自分の生命を取り戻させてあげたのです。牢獄から救い出してあげたようなものです。それは取りも直さず自分が人間に与えている苦しみの大きさを知らずにいた無知な霊をも救ってあげたことになります。
地上界の人間は物質界と霊界とのつながりについての理解が出来ておりません。高次元の霊界から最高の啓示を受けることが出来るように、低次元の霊界の無知な霊の虜になることもあり得るのです。どちらも原理は同じなのです。
お二人は本当に大きな仕事を成し遂げられました。無知との闘いにおいて、本来なら真っ先に協力の手を差し伸べてくれるベき宗教界からの爪弾きに遭われました。しかし、(奥さんを入れた三人の)皆さんは、人類史上において、真理のために闘いながら掛け替えのない宝を遺していった先駆者達のリストの中にその名が列せられる活躍をなさいました。
私の使命も実はあなた方とよく似ております。即ち無知と迷信が生み出した害毒を取り除くことです。そして、代わって霊的知識という掛け替えのない宝を地上界に届けることです。その知識を前にして、無知も最後は逃走するしかありません。
ご存じでしょうか。奥さんを含め、あなた方三人の力で霊的進化の正道に立ち戻ることが出来た人たちの中で、死後あなた方の仕事を霊界から援助するために霊団に加わっていない人は一人もいないという事実です。自分が恩恵を受けたように、今度は自分が恩恵を施したいと思うものなのです。
奥さんがいなくなったからといって寂しく思ってはいけません。家に奧さんがいなくなったと思ってはいけません。今もあなたのお側にいらっしゃいます。霊的にはむしろ生前より身近になっておられます。その目に映じず、その耳に声は聞こえなくても、奥さんの霊はすぐ近くにいらっしゃいます』
一九三七年にグラスゴ-(スコットランド)で開かれた国際スピリチュアリスト連盟の総会において、特別に催された交霊会で各国の代表に次のようなメッセージを送った。
『この度世界中からの代表を一堂に集結させたのは、他ならぬ霊的真理の価値の重大性です。皆さんは互いに語り合い、新たな力と新たな勇気を見出し、新たな理解と希望を携えて、それぞれの母国へ帰って行かれます。
地上界も最早や霊の声に知らぬふりをしていられなくなりました。人類は今まさに重大な岐路に立たされており、いずれを選ぶかの選択を迫られております。
キリスト教は人類を完全に裏切りました。最早や破産状態にあります。科学者も裏切りました。建設どころか破壊することばかりしております。思想家も裏切りました。ただの空理空論に終始しております。政治家も裏切りました。滅私の精神を通してのみ平和が訪れるものであるとの教えが今もって理解できておりません。そうした絶望的状態の中で、遂に大霊の子は真実を求めて絶叫したのです。
そこで私たちは、ここに集まられた皆さんには大いなる信頼が託されていることを改めて認識していただきたいのです。あなた方に背負わされた責任の大きさです。この宇宙で裏切ることのないものは大霊のみです。大霊の霊力を頼りとし、大霊の叡智に導かれ、大霊の愛に支えられている限り、いかなる難問に遭遇しても必ずや解決策を見出すことが出来ます。真の自我、本来の自我、より大きな自我が、自分一人の栄光を求めずに人のために役立ちたいとの願望に燃えるからです。
地上界は争いごとと敵意と不和に満ちあふれております。それでいて一人一人は「平和を!平和を!」と叫び続けています。そうした中で皆さんにお願いしたいのは、内部に無限の可能性、即ち大霊の力が秘められているという事実を改めて自覚することです。あなた方一人一人が大霊なのです。大霊の無限の霊力が皆さんの内部に秘められているのです。それを呼び覚まし顕現しさえすれば、前途に横たわるいかなる制約も打ち砕いてしまいます。
その秘められた大霊の賜物を思い切って花開かせるのです。皆さんの一人一人が自由に使用できる無限の霊力を秘めた、大霊そのものであることを自覚するのです。そうすれば今ようやく夜明けを迎えんとしている漆黒の地上世界の道具として活躍することができます。
人間を頼りにしてはいけません。いかに地位の高い人であっても頼りにしてはいけません。地上界のその向こうへ目をやってください。人類のためを思って待ちかまえている霊達からのインスピレーションに耳を澄ませてください。
前向きの姿勢を忘れないことです。これからも失敗と落胆は決して少なくはないでしょう。しかし、そうした時に忘れてならないのは、背後には霊団が控えていて、困難に遭遇した時には元気づけ、疲れた時には希望と力を与え、落胆している時には魂を鼓舞してくれるということです。見放されることは絶対にないということです。大霊の使者が応援してくれます。
皆さんの中には遠い他国にまで足を運ばれる方もいらっしゃるようですが、霊力が手薄になることは決してありません。人のためという一念に燃えて活動するかぎり、霊力は常に皆さんと共にあり、必要に応じて顕現してくれます。
皆さんのお一人お一人に大霊の祝福のあらんことを。そして、その大霊の愛が皆さんをあたたかく包んで下さっていることに気づかれんことを祈ります。地上界の苦難と試練と混乱に目を奪われることなく、それを達観して、大霊のシンボルである太陽へ目を向けられんことを。
心に愛を、頭に知識を、そして魂に犠牲的精神を満たしてください。そうすれば大霊の意志があなた方を通して顕現し、心が大霊の心と調和して鼓動し、文字どおり大霊と一体となることでしょう。大霊の祝福のあらんことを』
第18章 霊界側から見た戦争
〔シルバーバーチは若者が祖国のために出征していくことを決して咎めないが、戦争そのものがもたらす害悪については機会あるごとに厳しく言及し、地上的問題が戦争によって解決されたことは一度もないことを強調する〕
私たち霊界の者としては戦争が起きる度に霊界が、わけも分からず送り込まれてくる戦死者の魂でごった返す野戦病院のようになってくれては困るのです。
私たちのように地球圏に降りて仕事をしている者は、私たちがお届けしている霊的真理が受け入れられるようになる以外に救いようがないことを痛感いたします。人間の側の努力の問題だということです。私たちが代わってやってあげるわけには行かないのです。摂理に反したことをするとこうなるということを見届けて、地上界で間違ったことをすると霊界でこういう迷惑が生じますよと教えてあげるしかありません。
迷惑とは、霊的に何の準備もできていない魂が霊界へ続々と送り込まれてくることです。そのあまりの酷さに、霊界側としても黙って見過ごすわけには行かなくなったのです。戦死者たちはあたかも熟さないうちにもぎ取られた果実のようなものです。地上界で生活するための道具(肉体)を破壊された魂の傷を、なぜ霊界で癒さねばならないのでしょうか。地上界でやっておくべきことを疎(おろそ)かにしたために生じた面倒な事態に対処するために、なぜ私たちが進化の歩みを止めて地上圏へ戻って来なければならないのでしょうか。
それは、私たちには愛の心、大霊の愛の発露があるからこそです。それが無かったら地上圏でこうして働いてはいないでしょう。その事実を証明するものとしては、スピリチュアリズムの知識しかありません。つまり、それが真実であることを認めてくれない限り、私たちとしては身元を証明するものがないのです。「あなたの言うことはおかしい――これまでの地上の常識に反しているから」と言われては、最早や私たちとしては為す術がありません。
戦争を正当化することは、地上界の問題に限って考えても、できません。ただ破壊するだけだからです。ましてや霊界側へ及ぼす影響を考えた時、絶対に正当化できません。霊は地上界を離れるべき時機が熟した時に肉体から離れるべきであるという摂理に反したことを無差別に行うことになるからです。大霊の子がよくぞあれほど大規模に大霊の摂理を平気で犯すものと、私たちは呆れるばかりです。
実は地上界のそうした愚かな行為が、霊界の無知な低級霊集団を跋扈(ばっこ)させることになることを、皆さんはご存じありません。彼らは進歩と平和と調和を憎み、組織的な態勢で邪魔立てしようと画策しているのです。これを阻止するためには民族的対立をなくし、地上人類は全てが大霊の子であるとの認識をもつことです。対立を生んでいるのは地上的概念であって、大霊は何の差別もしておりません。民族の別なく全ての人類に大霊の分霊が宿っており、それ故に全人類が等しく大霊の子なのです。
地上世界には建設すべきものが幾らでもあるというのに、指導的立場にある人たちはなぜ破壊という手段を選ぶのでしょうか。大霊の摂理に悖(もと)ることをしていては、破壊と混乱を生むだけです。人類はもう充分にそれを見てきたのではないでしょうか。
ここにお出での皆さんには、大霊の計画を地上界に実現するために全力を尽していただきたいのです。大霊が流血を望まれるでしょうか。大霊が、戦争が生み出す悲劇や苦難、失業、飢餓、貧民窟、争いごとを喜ばれるでしょうか。せっかく分け与えてある霊的な恵みが無駄に終わるのを見て大霊が喜ばれるでしょうか。無慈悲にも両親から引き離された若い魂たちが(霊界の救護班の世話になっても)本当の親からは何もしてもらえなくて悲しむのを見て、大霊が何とも思わないものでしょうか。
私たちも大霊の僕として、こうして地上圏へ降りて働いているからこそ言えることですが、私たちがお届けする教えに忠実でありさえすれば、それだけであなた方もこの(地球浄化の)大事業で力になれるのです。
他人の物的生命に終止符を打つ行為は、大霊の摂理に悖ります。殺意を抱いた時、理性が去ります。人間には大霊が宿っておりますが、身体的進化の途上で通過した動物的段階の名残も宿しています。人間の向上進化というのは取りも直さずその動物性を抑え大霊(神性)を発揮できるようになることです。
動物性の跋扈を許しそれに引きずられることになった時は、戦争や紛争、殺人事件などが頻発します。大霊の心が顕現して互いに助け合う風潮になれば、平和と調和が生まれ、生きるための糧も必要な分だけ行き渡ります。
国家とか民族とかで差別してはいけません。いずれの国家も民族も大霊の一部なのです。みな大霊の目から見れば兄弟であり姉妹なのです。こうした私たちの教えは単純で子供騙しのように思えるかもしれませんが、やはり真実です。大霊の摂理を基盤としているからです。摂理を無視して地上界を築こうとしても、混乱と騒動が起きるばかりで、最後は全てが破綻します。
よほどの犠牲的努力が為されない限り地上界はこれからも戦争が絶えないでしょう。人類はそうなるタネを蒔いて来ており、蒔いたタネは人類自らの手で刈り取らねばなりません。原因と結果の法則は絶対にごまかせないのです。物的欲望のタネを蒔いておいて、その結果を免れようとしても、それは許されません。
愛が欲しければ愛のタネを蒔くことです。平和が欲しければ平和のタネを蒔くことです。至るところに奉仕のタネを蒔けば、地上世界は奉仕の精神に溢れることでしょう。大霊の真理はこのように至って単純なのです。あまりに単純過ぎるために却って地上の「お偉い方々」にはその重大性がお分かりにならないのです。
質疑応答
――大戦で戦死した若者の「犠牲」は何の役にも立たなかったのでしょうか。
少なくとも私の目には何の意義も見出せません。休戦後の今の方が「偉大なる戦い」が始まった時より一段と混乱が深まっております。
――あれだけの英雄的行為が無駄に終わることがあって良いものでしょうか。霊的な反響はまったくないのでしょうか。
犠牲となった個人個人には報いがあります。動機が正しかったからです。しかし、忘れてならないのは、地上世界は彼らを裏切っているということです。相も変わらず物質中心の考えにかぶれているために、彼らの犠牲が無意味に終わっていると申し上げているのです。
――休戦記念行事が毎年のように催されていますが、意義があるのでしょうか。
たとえ二分間でも思い出してあげることは、何もしないよりはましでしょう。ですが、ライフルや銃剣、軍隊、花火その他、戦争に結びついたもので軍事力を誇示することによって祝って、一体何になるのかと言いたいわけです。なぜ霊的な行事で祝えないのでしょうか。
――スピリチュアリズム的な催しには賛成ですか。
真実が述べられるところには必ず徳が生まれます。もちろんそれが奉仕的精神を鼓舞するものであればのことです。大見得を切った演説からは何も生まれません。また、それを聴く側も、いかにも自分たちが平和の味方であるかの気分に浸るだけではいけません。
私は「行為」を要求しているのです。人に役立つことをして欲しいのです。弱者を元気づけるようなことをして欲しいのです。病気に苦しむ人々を癒してあげて欲しいのです。喪の悲しみの中にいる人を慰めてあげて欲しいのです。住む家もない人に宿を貸してあげて欲しいのです。地上世界の恥とも言うベき動物への虐待行為を止めさせて欲しいのです。
平和は互助の精神からしか生まれません。全ての人が奉仕の精神を抱くようになるまでは、そしてそれを実行に移すようになるまでは、平和は訪れません。
――不戦主義、即ち参戦を拒否する一派の運動をどう思われますか。
私はいかなる「派」にも与(くみ)しません。私にはラベルというものがないのです。私の眼中には人のために役立つ行為と動機しかありません。お題目に幻惑されてはいけません。何を目的としているか、動機は何かを見極めないといけません。なぜなら、反目し合うどちらの側にも誠意の人と善意の人とがいるものだからです。私が述べる教えは至って簡単なことばかりですが、それを実行に移すには勇気がいります。
霊的真理と霊的摂理を知ることによって断固とした決意を持つに至った時、そして日常生活のあらゆる分野で私利私欲をなくし互助の精神で臨むようになった時、地上に平和と和合が訪れます。
それは一宗一派の主義・主張から生まれるのではありません。大霊の子の全てが霊的真理を理解して、それが日常生活に、政策に、経営に、政治に、そして国際問題に適用していくことから生まれるのです。
私は、これこそ真実であると確信した宇宙の原理・原則を説きます。だからこそ、これを実行に移せばきっとうまく行きますということを、自信をもって申し上げられるのです。皆さんは物質の世界にいらっしゃいます。最終的には皆さんに責任が掛かってきます。私たちはただ誠意をもって指導し、正道から逸れないように協力してあげることしか出来ません。
地上には古いしきたりから抜け出せない人が大勢います。それが宗教的なものである場合もありますし、政治的なものである場合もありますし、自分の想像力で拵(こしら)えた小さな精神的牢獄である場合もあります。
魂は常に自由であらねばなりません。自らを牢獄の中に閉じこめてはいけません。周りに垣根をめぐらし、新しいものを受け入れなくなってしまってはお終いです。真理は絶え間なく探究していくべきものです。その境界は限りなく広がっていきます。魂が進化するにつれて精神がそれに呼応していくからです。
――その魂の自由はどうすれば得られるのでしょうか。
完全な自由というものは得られません。自由の度合は魂の成長度に呼応するものだからです。知識にも真理にも叡智にも成長にも「限界」というものがないと悟れば、それだけ自由の度合が大きくなったことになります。心の中で間違いだと気づいたもの、理性が拒否するもの、知性が反発するものを潔く捨てることが出来れば、それだけ多くの自由を獲得したことになります。新しい光に照らして間違いであることが分かったものを恐れることなく捨てることが出来たら、それだけ自由になったことになります。それがお出来になる方が果たして何人いることでしょう?
――経済的な事情からそれが叶えられない人もいるのではないでしょうか。
それは違います。経済的事情は物的身体を束縛することはあっても、魂まで束縛することは出来ません。束縛しているのは経済的事情ではなくて、その人自身の精神です。その束縛から解放されるための叡智は、受け入れる用意さえあれば、いつでも得られるようになっております。しかし、それを手に入れるための旅は自分一人で出かけるしかないのです。
果てしない旅となることを覚悟しなければなりません。恐怖や危険にさらされることも覚悟しなければなりません。道なき道を一人分け入ることになることも覚悟しなければなりません。しかも真理の導くところならどこへでもついて行き、間違っていることは、それがいかに古くから大事にされてきているものであっても、潔く拒絶する用意が出来ていなければなりません。
――ヨーロッパの大国がみんな完全武装して大戦に備えている中で、英国だけが参加していないのは間違いではないでしょうか。
ですから、あなた方は一国・一民族の概念で考え、私は大霊とその子の概念で考えているということを何度も申し上げてきたはずです。破壊のための兵器をいくらこしらえても平和は得られないと言っているのです。平和を希求する声が高まり、みんなが愛と奉仕の摂理にのっとって生きるようになれば、平和になります。一国・一民族の概念は、私は取りません。全ての民族を一つと考え、大霊の一部という考えに立っております。全ての人類が大霊の子なのです。大霊の摂理を物質界に適用しない限り、戦争と破壊と混乱と破綻の尽きる時は来ないでしょう。
イタリア軍によるアビシニア(現エチオピア)侵攻に関連して出された質疑応答――
――「制裁」という手段をどう思われますか。
私の意見はもうお分かりでしょう。生命は大霊のものであって、人間のものではありません。勝手に生命を奪うことは許されません。摂理に反します。摂理に反したことをすれば、その代償を支払わねばなりません。
――しかし、この場合は動機が正当化されるのではないでしょうか。戦争を止めさせるためという大義があるのですから。
力による制裁のタネを蒔けば、そのタネはさらなる力による制裁を生むだけです。「戦争を止めさせるための戦争」だと当事者は言っているではありませんか。
――では、獣のような連中が無抵抗の人間を殺すのを手をこまねいて見ていろとおっしゃるのでしょうか。
そういう風に、あなた方はよくその場しのぎの手段について私たちの意見を求められますが、私たちは永遠の原理・原則を説いているのです。最初の段階で永遠の原理に基づいた手段を用いていれば、今日のような難題は生じなかったはずです。困った事態になってから「取り敢えずこういう手段を用いてよいか」とおっしゃっても返答のしようがありません。永遠の平和を得るには永遠の原理に基づいた手段を用いるしかありません。
――国際連盟(現在の「国際連合」の前身)は支持すべきでしょうか。
加盟国の代表は本当に平和を希求しているのでしょうか。心の底から、魂の奥底から平和を望んでいるのでしょうか。永遠の原理に素直に従うだけの覚悟が出来ているでしょうか。もしかして自国への脅威となるものを阻止しようとしているだけではないでしょうか。地球と人類全体のためではなく、我が国家と我が民族の富と安全を第一に考えているのではないでしょうか。
私たちは大霊と摂理、そしてその摂理の作用を永遠の規範として皆さんに説いているところです。それ以外にないからです。その場しのぎの手段でも一時的には効果があるかも知れませんが、邪悪な手段からは邪悪なものしか生まれません。
そのうち地上人類も愛こそが邪悪に勝つことを悟る日がまいります。全ての問題を愛の精神で解決するようになれば地上界は平和になります。愛の摂理にもとる欲望は分裂と混沌と破綻を生み出します。その根を正さないといけません。他のいかなる手段をもってしても永遠の平和は訪れません。
――宇宙には戦争を正当化する理由はないのでしょうか。
ありません。戦争は人類が地上で行っているだけで、霊界にはありません。人間が殺意を抱いた時、瞬時にしてその人間の周りに同じ意念に燃えた地縛霊が引きつけられると思って下さい。
一九三七年十一月十一日の「休戦記念日」におけるシルバーバーチからのメッセージ
毎年この日が巡ってくるごとに、戦死者の犠牲が空しいものであることをますます痛感させられます。たった二分間、あなた方は「栄誉ある戦没者」に無言の敬意(黙祷)を捧げ、それからの一年間は忘れ、この日が訪れると棚から下ろして埃(ほこり)をはたき、二分間だけ拝みます。
彼らの犠牲的行為は全て無駄に終わっています。十九年間(一九三七年現在で)十字架に架けられ続けてきたようなものです。それをあなた方は「偉大なる戦争」と呼びます。その偉大さとは殺戮の量、無駄な殺人の多さに過ぎないのではありませんか。全ての戦争を止めさせるための戦争だったとおっしゃいますが、その言葉の何と空しいことでしょう。何という欺瞞に満ちた言葉でしょう。
自分の生命まで犠牲にして祖国のために献身した若者たちが、実際は霊界で辛い幻滅の歳月を送っていることをご存じでしょうか。夢多き青春のまっただ中で肉体を奪われたのです。戦地へ赴いた時は文明を守るのだという理想に燃えておりました。しかし、そうした彼らを、その後の地上世界は裏切り続けております。地球上から戦争はなくなっておりません。栄誉ある戦死者への二分間の黙祷を捧げている最中でも「休戦」はありません。殺戮は二分間の休みもなく続いております。
真の平和は霊的摂理を適用する以外にないということを、地球人類はいつになったら悟るのでしょうか。戦争はもとより、それが生み出す流血、悲劇、混沌、破綻といったものの元凶は「利己主義」なのです。
その利己主義に代わって互いが奉仕的精神を抱き合うことによって初めて平和が訪れること、自国の物的威力を誇示しようとする古い唯物思想を捨て、代わって互いが互いのために生き、強い者が弱い者を助け、持てる者が持たざる者を援助しようとする気風になることによってのみ、平和が訪れることを知らねばなりません。
二分間だけの、それも、心にもない口先だけの敬意だけで、空しく霊界へ送られた者を侮辱してはなりません。和平へ向けていろいろと努力が為されながら、ことごとく失敗しております。が、唯一試みられていないのは、霊的真理の理解による方法です。それが為されないかぎり、戦争と流血が止むことはないでしょうし、ついには人類が誇りに思っている物質文明も破綻をきたすことでしょう。
第19章 再生(生まれ変わり)
〔再生、即ち同じ人間が何度かこの地球へ生まれ出て来るという思想は、スピリチュアリズムでも異論の多いテーマで、通信を送ってくる霊の間でも意見の衝突がある。シルバーバーチはこれを全面的に肯定する一人であるが、輪廻転生説のような機械的な生の繰り返しではなく、進化のための「埋め合わせ」を目的とし、しかも生まれ変わるのは同じ霊の別の意識層の一部であるとする〕
――意識が部分的に分かれて機能することが可能なのでしょうか。
今のあなたという意識とは別に、同じくあなたと言える大きな意識体があります。そのホンの小さな一部が地球という物質界で表現されているのが今のあなたです。そして、あなたの他にも同じ意識体を構成する複数の分霊がそれぞれの意識層で表現されております。
――個々の霊が独立しているのでしょうか。
独立はしていません。あなたも他の分霊も一個の「内奥の霊的実在」の側面です。つまり全体を構成する一部であり、それぞれがさまざまな媒体を通して自我を表現しており、時折その分霊どうしが合体することもあります。(通常意識にはのぼらなくても)霊的意識では気づいています。それは自我を表現し始めて間もない頃(霊的幼児期)にかぎられます。そのうち全分霊が共通の合流点を見出して、最終的には一つに再統一されます。
――その分霊どうしが地上で会っていながらそうと気づかないことがあるでしょうか。
統括霊を一つの大きな円として想像してください。その円を構成する分霊が離ればなれになって中心核の周りを回転しています。時折その分霊どうしが出会って、お互いが共通の円の中にいることを認識し合います。そのうち回転しなくなり、各分霊がそれぞれの場を得て、再び元の円が完成されます。
――二つの分霊が連絡し合うことは出来ますか。
その必要があれば出来ます。
――二つの分霊が同時に地上に誕生することがありますか。
ありません。全体の目的に反することだからです。個々の意識があらゆる界層での体験を得るということが本来の目的です。同じ界層へもう一度戻ることがあるのは、それなりの成就すべき(埋め合わせをすべき)ことが残っている場合に限られます。
――個々の分霊は自らの進化に自らが責任を負い、他の分霊が学んだ教訓による恩恵は受けないというのは本当でしょうか。
その通りです。個々の霊は一つの統括霊の構成分子であり、さまざまな形態で自我を表現しているわけです。進化するにつれて小我が大我を意識して行きます。
――そして、進化のある一点において、それらの小我が一体となるわけですね?
(理屈では)そうです。無限の時を経てのことですが……
――個々の小我の地上への誕生は一回きり、つまり大我としては再生の概念は当てはまっても、小我には再生はないという考えは正しいでしょうか。
それは成就すべき目的いかんに関わる問題です。同じ小我が二度も三度も再生することがあります。ただし、それは特殊な使命のある場合に限られます。
―― 一つの意識体の個々の部分、というのはどういうものでしょうか。
これは説明の難しい問題です。あなた方には「生きている」ということの本当の意味が理解できないからです。実はあなた方にとっての生命は実質的には最も下等な形態で顕現しているのです。そのあなた方には、生命の実体、あなた方に思いつくことの出来るもの全てを超越した意識をもって生きる、その言語を超越した生命の実相はとても想像できないでしょう。
宗教家が豁然大悟(かつぜんたいご)したといい、芸術家が最高のインスピレーションに接したといい、詩人が恍惚たる喜悦に浸ったといっても、私たち霊界の者から見れば、それは実在のかすかな影を見たに過ぎません。鈍重な物質によってその表現が制限されているあなた方に、その真実の相、生命の実相が理解できない以上、意識とは何か、なぜ自分を意識できるのかといった問いにどうして答えられましょう。
私の苦労を察してください。譬えるものがあればどんなにか楽でしょうが、地上にはそれがない。あなた方には、せいぜい、光と影、日向と日陰の比較くらいしか出来ません。虹の色は確かに美しい。ですが、地上の言語で説明の出来ないほどの美しい霊界の色彩を虹に譬えてみても、美しいものだという観念は伝えられても、その本当の美しさは理解していただけません。
――分霊の一つ一つを統括霊の徳性の表現と見てもよいでしょうか。
それはまったく違います。どうもこうした問いにお答えするのは、まるで生まれつき目の不自由な方に晴天のあの青く澄み切った空の美しさを説明するようなもので、譬えるものがないのですから困ります。
――それはマイヤースのいう「類魂」と同じものですか。
まったく同じものです。ただし、単なる魂の寄せ集めとは違います。大きな意識体を構成する集団で、その全体の進化のために各自が体験を求めて物質界にやってくるのです。
――その意識の本体へ戻ったとき、各霊は個性を失ってしまうのではなかろうかと思うのですが……
川が大海へそそぎ込んだ時、その川の水は存在が消えてしまうのでしょうか。オーケストラが完全なハーモニーで演奏している時、例えばバイオリンの音は消えてしまうのでしょうか。
――なぜ霊界の方から再生の決定的証拠を提供してくれないのでしょうか。
こうした霊言という手段によっても説明のしようのない問題に証拠などあり得るでしょうか。意識に受け入れ態勢が整い、再生が摂理であることが明確になって初めて、事実として認識されるのです。こちらの世界にも再生はないと言う者がいるのはそのためです。まだその事実を悟ることが出来る段階に達していないからそう言うに過ぎません。宗教家がその神秘的体験をビジネスマンに語ってもしょうがないでしょう。芸術家がインスピレーションの体験話をまったく芸術的センスのない人に聴かせてどうなりましょう。意識の段階が違うのです。
――再生する時はそのことが自分で分かるのでしょうか。
魂そのものは本能的に自覚します。しかし、知的に意識するとは限りません。大霊の分霊であるところの魂は、永遠の時の流れの中で一歩一歩、徐々に表現を求めています。が、どの段階でどう表現しても、その分量はわずかであり、表現されない部分が大半を占めています。
――では、無意識のまま再生するのでしょうか。
それも霊的進化の程度次第です。ちゃんと意識している霊もいれば意識しない霊もいます。魂は意識していても知覚的には意識しないまま再生する霊もいます。これは生命の神秘中の神秘にふれた問題でして、とても地上の言語では説明しかねます。
――生命がそのように変化と進歩を伴ったものであり、生まれ変わりが事実だとすると、霊界へ行っても必ずしも会いたい人に会えるとは限らないことになり、地上で約束した天国での再会が果たせないことになりませんか。
愛は必ず成就されます。なぜなら愛こそ宇宙最大のエネルギーだからです。愛は必ず愛する者を引き寄せ、また愛する者を探し出します。愛する者どうしを永久に引き裂くことは出来ません。
――でも、再生を繰り返せば、互いに別れ別れの連続ということになりませんか。これでは天上の幸せの観念と一致しないように思うのですが……
一致しないのは、あなたの天上の幸せの観念と私の天上の幸せの観念の方でしょう。宇宙およびその法則は大霊がこしらえたのであって、その子であるあなた方がこしらえるのではありません。賢明な人間は新しい事実を前にすると自分の考えを改めます。自分の考えに一致させるために事実を曲げようとしてみても、結局は徒労に終わることを知っているからです。
――これまで何回も地上生活を体験していることが事実だとすると、もう少しはましな人間であってもいいはずだと思うのですが……
物質界にあっても聖人は聖人ですし、最下等の人間はいつまでも最下等のままです。地上だから、霊界だからということで違いが生ずるのではありません。要は魂の進化の問題です。
――これからも無限に苦難の道が続くのでしょうか。
そうです。無限に続きます。何となれば、苦難の試練を経て初めて神性が開発されるからです。金塊がハンマーで砕かれ磨きをかけられて初めてあの輝きを見せるように、神性も苦難の試練を受けて初めて、強くたくましい輝きを見せるのです。
――そうなると死後に天国があるということが意味がないのではないでしょうか。
今日のあなたには天国のように思えることが、明日は天国とは思えなくなるものです。というのは、真の幸福というものは今より少しでも高いものを目指して努力するところにあるからです。
――再生する時は前世と同じ国に生まれるのでしょうか。例えばインディアンはインディアンに、イギリス人はイギリス人に、という具合に……
そうとは限りません。目指している目的のために最も適当と思われる国・民族を選びます。
――男性か女性かの選択も同じですか。
同じです。必ずしも前世と同じ性に生まれるとは限りません。
――死後、霊界で地上生活の償いをさせられますが、さらに地上に再生してから同じ罪の償いをさせられるというのは本当ですか。神は同じ罪に対して二度も罰を与えるのでしょうか。
償うとか罰するとかの問題ではなくて、要は進化の問題です。つまり学ぶべき教訓が残されているということであり、魂の教育と向上という一連の鎖の欠けている部分を補うということです。生まれ変わるということは必ずしも罪の償いのためとは限りません。欠けているギャップを埋める目的で再生する場合がよくあります。もちろん償いをする場合もあり、前世で学ぶべきでありながら果たせなかったものをもう一度学びに行くという場合もあります。罪の償いのためとばかり考えてはいけません。ましてや二度も三度も罰せられることは決してありません。大霊の摂理を知れば、その完璧さに驚かれるはずです。完璧なのです。大霊そのものが完全だからです。
――自分はこれまでに地上生活を何回経験しているということが明確に分かる霊がいますか。
います。それが分かる段階まで成長すれば自然に分かるようになります。その必要性が生じたからです。光に耐えられるようになるまでは光を見ることが出来ないのと同じです。名前を幾つか挙げても結構ですが、それでは何の証拠にもなりますまい。何度も言ってきましたように、再生の事実は「説く」だけで十分なはずです。
私は大霊の摂理について私なりに理解した事実を述べているだけです。知り得た通りを述べているのです。私の言うことに得心が行かない人がいても、それは一向に構いません。あるがままの事実を述べているだけですから…… 受け入れてもらえなくても構いません。私と同じだけの年数を生きられたら、その人もきっと考えが変わることでしょう。
――再生問題は異論が多いからこれを避けて、死後の存続ということだけに関心の的をしぼるという考えはいかがでしょう?
闇の中にいるよりは光の中にいる方がよろしい。無知のままでいるよりは摂理を少しでも多く知った方がよろしい。向上を目指して奮闘するのが良いに決まっています。死後存続の事実は真理探求の終着駅ではありません。そこから始まるのです。自分が大霊の分霊であること、それ故に何の苦もなく何の変身もなく死の関門を通過できるという事実を理解した時、それで全てがお終いになるのではありません。そこから本当の意味で「生きる」ということが始まるのです。
第20章 青年牧師との論争
ある時キリスト教メソジスト派の年次総会がウェストミンスター寺院のセントラルホールで開かれ、報告や活発な討論が為された。が、その合間での牧師たちの会話の中でスピリチュアリズムのことがしきりにささやかれた。
そのことで関心を抱いた一人の青年牧師がハンネン・スワッファーのもとを訪れ、交霊会というものに一度出席させてもらえないものだろうかと頼んだ。知的な風貌の、人徳を備えた好青年であることが一目でわかる。予備知識としてはコナン・ドイルの『遙かなるメッセージ』を読んだだけだという。
スワッファーは快く招待することにし、次のように述べた。
「明晩の交霊会にご出席ください。その会にはシルバーバーチと名乗る霊が、入神した霊媒の口を借りてしゃベります。その霊と存分に議論なさるがよろしい。納得の行かないところがあれば反論し、分からないところは遠慮なく質問なさることです。そのかわり後でよそへ行って、十分の議論がさせてもらえなかった、などと不平を言わないでいただきたい。質問したいことは何でも質問なさって結構です。その会の記録はいずれ活字になって発行されるでしょうが、お名前は出さないことにしましょう。そうすればケンカになる気遣いも要らないでしょう。もっとも、あなたの方からケンカを売られれば別ですが……」
翌日、約束通りその牧師が訪れた。そして、いつものようにシルバーバーチの祈りの言葉で交霊会が始まった。
「大霊のインスピレーションが皆さんの全てに宿り、その大霊の御心に応えて皆さんのお一人お一人が大霊の一部であることを感じ取っていただけますように。また、いずこに行かれる時もその御心を携えられ、接する人々にその威力を身をもってお示しになられますように」
以下はその牧師とシルバーバーチとの議論である。まずシルバーバーチの方から牧師にこう語りかける。
「この霊媒(バーバネル)にはあなた方のいう聖霊の力がみなぎっております。それがこうして言葉をしゃベらせてくれるのです。私はあなた方のいう復活せる霊の一人です」
牧師「死後の世界とはどういうところですか」
「あなた方の世界と実によく似ております。ただし、こちらは結果の世界で、そちらは原因の世界です」
牧師「死んだ時は恐怖感はありませんでしたか」
「ありません。私たちインディアンは霊覚が発達しており、死が恐ろしいものでないことを知っておりましたから…… あなたが属しておられる宗派の創立者ウェスレーも同じです。あの方も霊の力に動かされておりました。そのことはご存じですね?」
牧師「おっしゃる通りです」
「ところが現在の聖職者は霊の力に動かされておりません。宇宙は究極的には神とつながった一大連動装置によって動かされており、いちばん低い地上界もあなた方のおっしゃる天使の世界とつながっております。どんなに悪い人間もダメな人間も、あなた方のいう神、私のいう大霊と結ばれているのです」
牧師「死後の世界でも互いに認識し合えるのでしょうか」
「地上ではどうやって認識し合いますか」
牧師「目です。目で見ます」
「目玉さえあれば見えますか。結局は霊で見ていることになるでしょう?」
牧師「その通りです。私の精神で見ています。それは霊の一部だと思います」
「私も霊の力で見ています。私にはあなたの霊も見えるし肉体も見えます。しかし肉体は影に過ぎません。光源は霊です」
牧師「地上での最大の罪は何でしょうか」
「罪にもいろいろあります。が、最大の罪は神への反逆でしょう」
ここでメンバーの一人が「その点を具体的に述べてあげてください」と言うと
「神の存在を知りつつもなお、それを無視した生き方をしている人々、そういう人々が犯す罪がいちばん大きいでしょう」とシルバーバーチが付け加える。
さらに別のメンバーが「キリスト教ではそれを聖霊に対する罪と呼んでおります」と言うと
「例の本(バイブル)ではそう呼んでおります。が、要するに霊に対する罪です」
牧師「改訳聖書をどう思われますか。欽定訳聖書と比べてどちらが良いと思われますか」
「文字はどうでもよろしい。いいですか、大切なのはあなたの行いです。神の真理はバイブルだけでなく他のいろんな本に書かれています。それから、人のために尽くそうとする人々は、どんな地位の人であろうと誰であろうと、またどこの国の人であろうと、立派に神が宿っているのです。それこそがいちばん立派なバイブルです」
牧師「改心しないまま他界した人はどうなりますか」
「改心とはどういう意味ですか。もっと分かりやすい言葉でお願いします」
牧師「例えばある人は生涯を良くないことばかりしてそのまま他界し、ある人は死ぬ前に反省します。両者には死後の世界でどんな違いがあるのでしょうか」
「あなた方の本(バイブル)から引用しましょう。蒔いたタネは自分で刈り取るのです。これだけは変えることが出来ません。今のあなたがそのまま構えてこちらヘ参ります。こうだと信じているもの、人からこう見て貰いたいと思っているものではなく、内部のあなた、真実のあなただけがこちらへ参ります。あなたもこちらへお出でになれば分かります」
そう言ってからスワッファーの方を向いて「この人は心眼がありますね」と述べる。スワッファーが「霊能があるという意味ですか」と尋ねると「そうです。なぜ連れてきたのですか」と言う。「いや、彼の方から訪ねてきたものですから」と答えると、
「この人は着実に導かれている。少しずつ光明が見えてくることは間違いありません」と言ってからその牧師に向かって
「インディアンがあなた方のバイブルのことをよく知っていて驚かれたでしょう?」と言うと、「本当によくご存じのようです」と答えた。するとメンバーの一人が「三千年前に地上を去った方ですよ」と口添えする。牧師はすかさず年代を計算して「ダビデをご存知でしたか」と尋ねた。ダビデは紀元前1000年頃のイスラエルの王である。シルバーバーチが答える。
「私は白人ではありません。レッド・インディアンです。米国北西部の山脈の中で暮らしていました。あなた方のおっしゃる野蛮人というわけです。しかし、私はこれまで西洋人の世界に、三千年前のわれわれインディアンより遙かに多くの野蛮的行為と残忍さと無知とを見てきております。今なお物質的豊かさにおいて自分たちより劣る民族に対して行う残虐行為は、神に対する最大級の罪の一つといえます」
牧師「そちらへ行った人はどんな風に感じるのでしょう? 例えば後悔の念というものを強く感じるのでしょうか」
「いちばん残念に思うことは、やるべきことをやらずに終わったことです。あなたもこちらヘお出でになれば分かります。きちんと成し遂げたこと、やるべきだったのに怠ったこと、そうしたことが逐一わかります。逃してしまったチャンスが幾つもあったことを知って後悔するわけです」
牧師「キリストヘの信仰をどう思われますか。神はそれを嘉納(かのう)なさるでしょうか。キリストへの信仰はキリストの行いに倣うことになると思うのですが……」
「主よ、主よと、何かというと主を口にすることが信仰ではありません。大切なのは主の心にかなった行いです。それが全てです。口にする言葉や信じていることではありません。頭で考えていることでもありません。実際の行為です。何一つ信仰というものを持ち合わせなくても、落ち込んでいる人の心を元気づけ、飢えている人にパンを与え、暗闇の中にいる人の心に灯火を灯してあげる行為をすれば、その人こそ神の御心にかなった人と言えます」
ここで列席者の一人がイエスは神の一部なのかと尋ねると――
「イエスは地上に降誕した偉大な霊覚者だったということです。当時の民衆はイエスを理解せず、遂に十字架に架けました。いや、今なお架け続けております。イエスだけでなく人間のすべてに神の分霊が宿っております。ただ、その神性を多く発現している人と少ない人とがいるだけです」
牧師「キリストが地上最高の人物であったことは全世界が認めるところです。それほどの人物が嘘を言うはずがありません。キリストは言いました――“私と父とは一つである。私を見た者は父を見たのである”と。これはキリストが即ち神であることを述べたのではないでしょうか」
「もう一度バイブルを読み返してごらんなさい。“父は私よりも偉大である”とも言っておりませんか」
牧師「言っております」
「また“天にまします我らが父に祈れ”とも言っております。“私に祈れ”とは言っておりません。父に祈れと言ったキリスト自身が“天にまします我らが父”であるわけがないでしょう。私に祈れとは言っておりません。父に祈れと言ったのです」
牧師「キリストは“あなたたちの神”と“私の神”という言い方をしております。“私たちの神”とは決して言っておりません。ご自身を他の人間と同列に置いておりません」
「“あなたたちの神と私”とは言っておりません。“あなたたちは私より大きい仕事をするでしょう”とも言っております。
あなた方クリスチャンにお願いしたいのは、バイブルを読まれる際に何もかも神学的教義に合わせるような解釈をなさらぬことです。霊的実相に照らして解釈しなくてはいけません。存在の実相が霊であることが宇宙のすべての謎を解くカギなのです。イエスが譬え話を多用したのはそのためです」
牧師「神は地球人類を愛するがゆえに唯一の息子を授けたのです」
と述べて、イエスが神の子であるとするキリスト教の教義を弁護しようとする。
「イエスはそんなことは言っておりません。イエスの死後何年も経ってから、例のニケーア会議でそんなことがバイブルに書き加えられたのです」
牧師「ニケーア会議?」
「西暦三二五年に開かれております」
牧師「でも、私が今引用した言葉は、それ以前からある“ヨハネ福音書”に出ていました」
「どうしてそれが分かります?」
牧師「いや、歴史にそう書いてあります」
「どの歴史ですか」
牧師「どれだかは知りません」
「ご存じのはずがありません。一体バイブルというものが書かれる、その元になった書物はどこにあると思われますか」
牧師「“ヨハネ福音書”それ自体が原典です」
「いいえ、それよりもっと前の話です」
牧師「バイブルは西暦九十年に完成しました」
「その原典となったものは今どこにあると思いますか」
牧師「いろんな文書があります。例えば……」
と言って一つだけ挙げた。
「それは原典の写しです。原典はどこにありますか」
牧師がこれに答えられずにいるとシルバーバーチが
「バイブルの原典はご存じのバチカン宮殿に仕舞い込まれたまま一度も外に出されたことがないのです。あなた方がバイブルと呼んでいるものは、その原典のコピーのコピーの、そのまたコピーなのです。おまけに原典にないものまでいろいろと書き加えられております。
初期のキリスト教徒はイエスが遠からず再臨するものと信じて、イエスの地上生活のことは細かく記録しませんでした。ところが、いつになっても再臨しないので遂に締めて、記憶をたどりながらイエスの言ったことを記録に留めたのです。イエス曰く……と書いてあっても、実際にそう言ったかどうかは、書いた本人も確かでなかったのです」
牧師「でも、四つの福音書にはその基本となった、いわゆる“Q資料”(イエス語録)の証拠が見られることは事実ではないでしょうか。中心的事象はその四つの福音書に出ていると思うのですが……」
「別に私は、そうしたことがまったく起きなかったと言っているのではありません。ただ、バイブルに書いてあることの一語一句までイエスが本当に言ったとは限らないと言っているのです。バイブルに出てくる事象には、イエスが生まれる前から存在した書物からの引用がずいぶん入っていることを忘れてはいけません」
牧師「記録に残っていない口伝のイエス語録が出版されようとしていますが、どう思われますか」
「イエスの関心事はご自分がどんなことを言ったかといったことではありません。地上のすべての人間が神の摂理を実行してくれることです。人間は教説のことで騒ぎ立て、行いの方を疎かにしています。“福音書”なるものを講義する場に集まるのは、真理に飢えた人たちばかりです。イエスが何と言ったかはどうでもよいことです。大切なのは自分自身の人生をどう生きるかです。
地上世界は教説では救えません。いくら長い説教をしても、それだけでは救えません。神の子が神の御心を鎧として、暗黒と弾圧の勢力――魂を束縛するもの全てに立ち向かうことによって、初めて救われるのです。その方が記録に残っていないイエスの言葉よりも大切です」
牧師「この世にはなぜ多くの苦しみがあるのでしょうか」
「神の真理を悟るには苦を体験するしかないからです。苦しい体験の試練をへて初めて人間世界を支配している神の摂理が理解できるのです」
牧師「苦しみを知らずにいる人が大勢いるようですが……」
「あなたは神に仕える身です。大切なのは“霊”に関わることであり、“肉体”に関わることでないくらいのことは理解できなくてはいけません。霊の苦しみの方が肉体の痛みよりも耐え難いものです」
メンバーの一人が「現行の制度は不公平であるように思います」と言うとシルバーバーチが
「地上での出来事はいつの日か必ず埋め合わせがあります。いつかは自分で天秤を手にして、バランスを調節する日がまいります。自分で蒔いたものを刈り取るという自然法則から免れることは出来ません。罰が軽くて済んでいる人がいるかにお考えのようですが、そういうことはありません。あなたには魂の内部を見抜く力がないからそう思えるのです。
私が常に念頭においているのは、大霊の法則です。人間の法律は念頭にありません。人間がこしらえた法律は改めなければならなくなります。いつかは変えなければならなくなります。大霊の法則は決してその必要がありません。地上に苦難がなければ、人間は正していくべきものへ注意を向けることができません。痛みや苦しみや邪悪が存在するのは、大霊の分霊であるあなた方人間がそれを克服していく方法を学ぶためです。
もしもあなたがそれを怠っているとしたら、あなたをこの世に遣わした大霊の意図を実践していないことになります。宇宙の始まりから終わりまでを法則によって支配し続けている大霊を、一体あなたは何の資格をもって裁かれるのでしょう」
牧師「霊の世界ではどんなことをなさっているのですか」
「あなたはこの世でどんなことをなさっておられますか」
牧師「それは、その、アレコレと本を読んだり…… それに、説教もよくします」
「私もよく本を読みます。それに今は、こうして大変な説教をしております」
牧師「私は英国中を回らなくてはなりません」
「私は霊の世界中を回らなくてはなりません。さらに私の方は、天命をまっとうせずにこちらヘ送り込まれてきた人間がうろついている暗黒界へも下りて行かねばなりません。それにはずいぶん手間が掛かります。あなたに自覚していただきたいのは、あなた方はとても大切な立場に立っていらっしゃるということです。神に仕える身であることを自認しながら、その本来の責務を果たしていない方がいます。ただ教会の壇上から意味もない説教をしているだけです。
しかし、自ら神の手にゆだね、神の貯蔵庫からインスピレーションを頂戴すべく魂の扉を開けば、あなたは古(いにしえ)の預言者たちを鼓舞したのと同じ霊力によって魂が満たされるのです。そうなることで地上の片隅に、人生に疲れ果てた人々の心を明るく照らす光をもたらすことが出来るのです」
牧師「そうあってくれれば嬉しく思います」
「いえ、そうあってくれればではなくて、事実そうなのです。私はこちらの世界で後悔している牧師にたくさん会っておりますが、皆さん、地上での人生を振り返って、ご自分が本当の霊のメッセージを説いていなかったこと、バイブルや用語や教説にばかりこだわって実践を疎かにしたことを、如実に自覚します。そして、出来ればもう一度地上へ戻りたいと望みます。そこで私は、あなたのような牧師に働きかけることによって新しい時代の真理を地上にもたらす方法をお教えするのです。
あなたは、今まさに崩壊の一途をたどっている世界に身を置いていることを自覚しないといけません。新しい秩序の誕生、真の意味での天国が到来する時代の幕開けを見ていらっしゃるのです。産みの痛みと苦しみと涙が、少なからず伴うことでしょう。しかし最後は大霊の摂理が支配します。あなた方一人一人がその新しい世界を招来する手助けができるのです。なぜなら、人間の全てが大霊の分霊であり、その意味で大霊の仕事の一翼を担うことが出来るのです」
その牧師にとっての第一回目の交霊会も終わりに近づき、いよいよ霊媒から去るに当たってシルバーバーチがこう述べた。
「このあと私もあなたが説教をなさる教会へいっしょに参ります。あなたが本当に良い説教をなさった時、これが霊の力だと自覚なさるでしょう」
牧師「これまでも大いなる霊力を授かるよう祈って参りました」
「祈りはきっと叶えられるでしょう」
以上で第一回の議論が終わり、続いて第二回の議論の機会がもたれた。引き続いてそれを紹介する。
牧師「地上の人間にとって完璧な生活を送ることは可能でしょうか。全ての人間を愛することは可能なのでしょうか」
これが二回目の議論の最初の質問だった。
「それは不可能なことです。が、そう努力することは出来ます。努力すること、そのことが性格の形成に役立つのです。怒ることもなく、辛く当たることもなく、腹を立てることもないようでは、もはや人間ではないことになります。人間は霊的に成長することを目的としてこの世に生まれて来るのです。成長また成長と、いつまでたっても成長の連続です。それはこちらへ来てからでも同じです」
牧師「イエスは“天の父の完全であるが如くに汝らも完全であれ”と言っておりますが、これはどう解釈すべきでしょうか」
「ですから、完全であるように努力しなさいと言っているのです。それが地上で目指すべき最高の理想なのです。即ち、内部に宿る神性を開発することです」
牧師「先ほど引用した言葉はマタイ伝第五章の終わりに出ているのですが、普遍的な愛について述べた後でそう言っております。また“ある者は隣人を愛し、ある者は友人を愛するが、汝らは完全であれ。神の子なればなり”とも言っております。神は全人類を愛してくださるのだから、われわれも全ての人間を愛すべきであるということなのですが、イエスが人間に実行不可能なことを命じると思われますか」
この質問にシルバーバーチは呆れたような、あるいは感心したような口調でこう述べる。
「あなたは全世界の人間をイエスのような人物になさりたいのですね。お聞きしますが、イエス自身、完璧な人生を送ったと思いますか」
牧師「そう思います。完璧な人生を送られたと思います」
「一度も腹を立てたことがなかったとお考えですか」
牧師「当時行われていたことを不服に思われたことはあると思います」
「腹を立てたことは一度もなかったとお考えですか」
牧師「腹を立てることはいけないことであると言われている、それと同じ意味で腹を立てられたことはないと思います」
「そんなことを聞いているのではありません。イエスは絶対に腹を立てなかったかと聞いているのです。イエスが腹を立てたことが正当化できるかどうかを聞いているのではありません。正当化することなら、あなた方(クリスチャン)は何でも正当化なさるんですから……」
ここでメンバーの一人が割って入って、イエスが両替商人を教会堂から追い出した時の話を出した。するとシルバーバーチが続ける――
「私が言いたかったのはそのことです。あの時イエスは教会堂という神聖な場所を汚す者どもに腹を立てたのです。ムチをもって追い払ったのです。それは怒りそのものでした。それが良いとか悪いとかは別問題です。イエスは怒ったのです。怒るということは人間的感情です。私が言いたいのは、イエスも人間的感情を具えていたということです。イエスを人間の模範として仰ぐとき、イエスもまた一個の人間であった――ただ普通の人間よりは大霊の心を多く体現した人だった、という風に考えることが大切です。分かりましたか」
牧師「分かりました」
「私はあなたのためを思えばこそ、こんなことを申し上げるのです。誰の手も届かない所に祭り上げたらイエスが喜ばれると思うのは大間違いです。イエスもやはり我々と同じ人の子だったと見る方が、よほど喜ばれるはずです。自分だけが超然とした位に留まることは、イエスは喜ばれません。人類と共に喜び、共に苦しむことを望まれます。一つの生き方の模範を示しておられるのです。イエスがおこなったことは誰にでも実行できることばかりなのです。誰も付いて行けないような人物だったら、せっかく地上へ降りたことが無駄だったことになります」
話題が変わって――
牧師「人間には自由意志があるのでしょうか」
「あります。自由意志も大霊の摂理の一環です」
牧師「時として人間は抑えようのない衝動によって行為にでることがあるとは思われませんか。そう強いられているのでしょうか。それともやはり自由意志でおこなっているのでしょうか」
「あなたはどう思われますか」
牧師「私は人間はあくまでも自由意志を持った行為者だと考えます」
「人間には例外なく自由意志が与えられております。ただしそれは、大霊の定めた摂理の範囲内で行使しなければなりません。これは大霊の愛から生まれた法則で、大霊の子の全てに平等に定められており、それを変えることは誰にも出来ません。その規則の範囲内において自由であるということです」
牧師「もし自由だとすると、罪は恐ろしいものになります。悪いと知りつつ犯すことになりますから、強制的にやらされる場合よりも恐ろしいことに思えます」
「私に言えることは、いかなる過ちも必ず本人が正さなくてはならないということ、それだけです。地上で正さなかったら、こちらヘ来てから正さなくてはなりません」
牧師「とかく感心できないことをしがちな性癖が先天的に強い人がいるとは思われませんか。善いことをしやすい人間とそうでない人間とがいます」
「難しい問題です。と申しますのは、各自に自由意志があるからです。誰しも善くないことをすると、内心ではそうと気づいているものです。その道義心を無視するか否かは、それまでに身につけた性格によって違ってくることです。罪というものは、それが結果に及ぼす影響の度合に応じて重くも軽くもなります」
これを聞いて牧師がすかさず反論した。
牧師「それは罪が精神的なものであるという事実と矛盾しませんか。単に結果との関連においてのみ軽重が問われるとしたら、心の中の罪は問われないことになります」
「罪は罪です。身体で犯す罪、心で犯す罪、霊的に犯す罪、どれも罪は罪です。あなたはさっき衝動的に罪を犯すことがあるかと問われましたが、その衝動はどこから来ると思いますか」
牧師「思念です」
「思念はどこから来ますか」
少し躊躇してから
牧師「善なる思念は神から来ます」
「では、悪の思念はどこから来ますか」
牧師「分かりません」
「神はすべてのものに宿っております。間違ったことの中にも正しいことの中にも宿っております。日光の中にも嵐の中にも、美しいものの中にも醜いものの中にも宿っています。空にも海にも雷鳴にも稲妻にも宿っているのです。美なるもの善なるものだけではありません。罪の中にも悪の中にも宿っているのです。
お分かりになりますか。神とはコレとコレにだけ存在しますという風に一定の範囲内に限定できるものではないのです。全宇宙が神の創造物であり、その隅々まで神の霊が浸透しているのです。あるものを切り取って「コレは神のものではない」などとは言えないのです。日光は神の恵みで、作物を台無しにする嵐は悪魔の仕業だなどとは言えないのです。神はすべてのものに宿ります。
あなたという存在は思念を受けたり出したりする一個の器官です。が、どんな思念を発するかは、あなたの性格と霊格によって違ってきます。もしもあなたが、あなたのおっしゃる“完璧な人生”を送れば、あなたの発する思念も完全なものばかりでしょう。が、あなたも人の子である以上、あらゆる煩悩をお持ちです。私の言っていることがお分かりですか」
牧師「おっしゃる通りだと思います。では、そういう煩悩ばかりの人間が死に際になって自分の非を悟り“信ぜよ、さらば救われん”の一句で心に安らぎを覚えるという場合があるのをどう思われますか。キリスト教の“回心の教義”をどう思われますか」
「よくご存じのはずの文句をあなた方の本から引用しましょう。“たとえ全世界を得ようと己の魂を失わば何の益かあらん”“まず神の国とその義を求めよ。しからばこれらのもの全て汝らのものとならん”これらの文句は、あなた方はよくご存じですが、果たして理解していらっしゃるでしょうか。それが真実であること、本当にそうなること、それが神の摂理であることを悟っていらっしゃいますか。“神を侮るべからず。己の蒔きしものは己が刈り取るべし”――これもよくご存じでしょう。
神の摂理は絶対にごまかせません。傍若無人の人生を送った人間が死に際の回心でいっぺんに立派な霊になれると思いますか。無欲と滅私の奉仕的生活を送ってきた人間と、わがままで心の修養を一切しなかった人間とを同列に並べて論じられるとお考えですか。“すみませんでした”のひとことで全ての過ちが赦されるとしたら、果たして神は公正と言えるでしょうか。いかがですか」
牧師「私は、神はイエス・キリストに一つの心の避難所を設けられたのだと思うのです。イエスはこう言われ……」
「お待ちなさい。私はあなたの率直な意見をお聞きしているのです。率直にお答えいただきたい。本に書いてある言葉を引用しないでいただきたい。イエスが何と言ったか、私には分かっております。あなた自身はどう思うかと聞いているのです」
牧師「確かにそれでは公正とは言えないと思います。しかし、そこにこそ神の偉大なる愛の入る余地があると思うのです」
「ここの通りを行かれると人間の法律を運営している建物(役所)があります。もしその法律によって、生涯を善行に励んできた人間と罪ばかり犯してきた人間とを平等に扱ったら、あなたはその法律を公正と思われますか」
牧師「私は、生涯まっすぐな道を歩み、誰をも愛し、正直に生き、死ぬまでキリストを信じた人が…… 私は……」
ここでシルバーバーチが遮って言う――
「自分がタネを蒔き、蒔いたものは自分で刈り取る――この法則から逃れることは出来ません。神の法則はごまかすことが出来ないのです」
牧師「では、悪のかぎりを尽くした人間が今まさに死にかかっているとしたら、その償いをすべきであることを、その人間にどう説いてやれば良いのでしょうか」
「シルバーバーチがこう言っていたと、その人に伝えてください。もしもその人が真の人間、つまり幾ばくかでも神の心を宿していると自分で思うのなら、それまでの過ちを正したいという気持になれるはずです。自分の犯した過ちの報いから逃れたいという気持がどこかにあるとしたら、その人はもはや人間ではない、ただの臆病者だと。そう伝えてください」
牧師「しかし、罪を告白するということは、誰にでもはできない勇気ある行為だとは言えないでしょうか」
「それは正しい方向への第一歩でしかありません。告白したことで罪が拭われるものではありません。その人は善いことをする自由も悪いことをする自由もあったのを、敢えて悪い方を選んだ。自分で選んだのです。ならば、その結果に対して責任を取らなくてはなりません。元に戻す努力をしなくてはなりません。紋切り型の祈りの文句を述べて心が安らぎを得たとしても、それは自分をごまかしているに過ぎません。蒔いたタネは自分で刈り取らねばなりません。それが神の摂理です」
牧師「しかし、イエスは言っておられます――“労する者、重荷を背負える者、すべて我のもとに来たれ。汝らに安らぎを与えん”と」
「“文は殺し、霊は生かす”というのをご存じでしょう。あなた方(聖職者)がバイブルの言葉を引用して、これは文字通りに実行しなければならないと説いてみたところで無意味です。今日あなた方自身が実行していないことがバイブルの中に幾らでもあるからです。私の言っていることがお分かりでしょう?」
牧師「イエスは“善き羊飼いは羊のために命すら捨つるものなり”と言いました。私は常に“赦し”の教えを説いています。キリストの赦しを受け入れ、キリストの心が自分を支配していることを暗黙のうちに認める者は、それだけでその人生が大きな愛の施しとなるという意味です」
「神は人間に理性という神性の一部を植え付けられました。あなた方もぜひその理性を使用していただきたい。大きな過ちを犯し、それを神妙に告白する――それは心の安らぎにはなるかも知れませんが、罪を犯したという事実そのものはいささかも変わりません。神の理法に照らしてその歪みを正すまでは、罪は罪として相変わらず残っております。いいですか、それが神、私の言う大霊の摂理なのです。イエスが言ったとおっしゃる言葉を幾らバイブルから引用しても、その摂理は絶対に変えることは出来ないのです。前にも言ったことですが、バイブルに書かれている言葉をイエスが実際に言ったとは限らないのです。そのうちの多くは後世の者が書き加えたものなのです。イエスがこうおっしゃったとあなた方が言う時、それは、そう言ったと思うといった程度のものでしかありません。そんないい加減なことをするよりも、あの二千年前のイエスを導き、あれほどの偉大な人物にしたのと同じ霊力、同じインスピレーション、同じエネルギーが、二千年後の今も働いていることを知って欲しいのです。
あなた自身も神の一部なのです。その神の温かき愛、深遠なる叡智、無限なる知識、崇高なる真理がいつもあなたを待ち受けているのです。何も、神を求めて二千年前まで遡ることはないのです。今ここに在(ましま)すのです。二千年前とまったく同じ大霊が今ここに在すのです。その大霊の真理とエネルギーの通路となるべき人物(霊媒・霊能者)は決して多いとは言えません。しかし、あなた方クリスチャンは何ゆえに二千年前のたった一人の霊能者にばかりすがるのです? なぜそんな昔のインスピレーションだけを大切になさるのです? なぜイエス一人の言ったことに戻ろうとなさるのです?」
牧師「私は、私の心の中にキリストがいて業を為しておられると説いております。インスピレーションを得ることは可能だと思います」
「何ゆえにあなた方は全知全能の神を一個の人間と一冊の書物に閉じ込めようとなさるのです? 宇宙の大霊が一個の人間あるいは一冊の書物で表現できるとでもお考えですか。私はクリスチャンではありません。イエスよりずっと前に地上に生を享けました。すると神は私に神の恩恵に浴することを許してくださらなかったということですか。
神のすべてが一冊の書物のわずかなページで表現できるとお思いですか。その一冊を書き終えた時を最後に神は、それ以上のインスピレーションを子等に授けることをストップされたとお考えですか。バイブルの最後のページを読み終えた時、神の真理のすべてを読み終えたことになるというのでしょうか」
牧師「そうであって欲しくないと思っています。時折、何かに鼓舞されるのを感じることがあります」
「あなたもいつの日か天に在す父のもとに帰り、今あなたが築きつつある真実のあなたに相応しい住処に住まわれます。神に仕える者としてあなたに分かっていただきたいのは、神を一つの枠の中に閉じ込めることは出来ないということです。神、私のいう大霊はすべての存在に宿るのです。悪徳の固まりのような人間も、神か仏かと仰がれるような人間と同じように神とつながっているのです。
あなた方一人一人に神が宿っているのです。あなたがその神の心をわが心とし、心を大きく開いて信者に接すれば、その心を通じて神の力と安らぎがあなたの教会を訪れる人々の心に伝わることでしょう」
牧師「今日まで残っている唯一のカレンダーがキリスト暦(西暦)であるという事実をどう思われますか」
「誰がそんなことを言ったのでしょう? 多くの国が今なおその国の宗教の発生とともにできたカレンダーを使用しております。
私にはイエスを過小評価するつもりは毛頭ありません。今この時点でなさっているイエスの仕事を知っておりますし、ご自身は神として崇(あが)められることを望んでおられないことも知っております。イエスの生涯の価値は人間が模範とすべき、その生き方にあります。イエスという一個の人間を崇拝することを止めない限り、キリスト教は神のインスピレーションに恵まれることはないでしょう」
牧師「キリストの誕生日を西洋暦の始まりと決めたのがいつのことか、よく分かっていないのです。ご存じでしょうか」
「(そんなことよりも)私の話を聞いてください。数日前のことですが、このサークルのメンバーの一人が(イングランド)北部の町へ行き、大勢の神の子と共に過ごしました。高い地位の人たちではありません。肉体労働で暮らしている人たちで、仕事が与えられると――大抵は道路を掘り起こす仕事ですが――一生懸命はたらき、終わると僅かばかりの賃金を貰っている人たちです。その人たちが住んでいるのは、いわゆる貧民収容施設です。これはキリスト教文明の恥辱ともいうベき産物です。
ところが、同じ町にあなた方が“神の館”と呼んでいる大聖堂があります。高くそびえていますから、太陽が照ると周りの家はその影に入ります。そんなものが無かった時よりも暗くなります。これで良いと思われますか」
牧師「私はそのダーラムにいたことがあります」
「知っております。だからこそ、この話を出したのです」
牧師「あのような施設で暮らさねばならない人たちのことを気の毒に思います」
「あのようなことでイエスがお喜びになると思われますか。一方にはあのような施設、あのような労働を強いられる人々、僅かばかりの賃金しか貰えない人々が存在し、他方にはお金のことには無頓着でいられる人々が存在するというのに、イエスはカレンダーのことなどに関わっていられると思われますか。
あのような生活を余儀なくさせられている人が大勢いるというのに、大聖堂のための資金のことやカレンダーのことやバイブルのことなどに関わっていられると思いますか。イエスの名を使用し続け、キリスト教国と名のるこの国にそんな恥ずべき事態の発生を許しているキリスト教というものを、あなた方クリスチャンは一体何と心得ておられるのですか。
先ほど教典のことで(改訳版と欽定訳版のどっちが良いかと)質問されましたが、宗教にはそんなことよりもっと大切な、そしてもっと大きな仕事があるはずです。神はその恩寵をすべての子等に分け与えたいと望んでおられることが分かりませんか。飢え求めている生活物資を、世界のどこかでは捨て放題の暮らしをしている人たちがいます。他ならぬクリスチャンが同じようなことをしていて、果たしてキリスト教を語る資格があると言えるでしょうか。
私はあなたが想像なさる以上にイエスと親密な関係にあります。私は主イエスの目に涙を見たことがあります。クリスチャンをもって任ずる者、聖職にある者の多くが、その教会の陰で進行している恥ずべき事態に目を瞑(つむ)っているのをご覧になるからです。その日の糧にすら事欠く神の子が大勢いるというのに、神の館のつもりで建立した教会を宝石やステンドグラスで飾り、その大きさを誇っているのを見て、一体誰が涼しい顔をしていられるでしょうか。
その人たちの多くは一日の糧も満足に買えないほどの僅かな賃金を得るために一日中働き続け、時には夜更かしまでして、しかも気の毒に、その疲れた身体を横たえるまともな場所もない有様なのです。
あなたを非難しているのではありません。私はあなたに大きな愛着を覚えております。お役に立つことならどんなことでもして上げたいと思っております。が、私は霊界の人間です。そして、あなたのように社会へ足を踏み入れて間違いを改めて行くための一石を投じてくれる人物と、こうして語り合うチャンスが非常に少ないのです。
あなたに理解していただきたいことは、バイブルのテキストのことを云々するよりもっと大切なことが沢山あるということです。主よ、主よ、と叫ぶ者みんなが敬虔なのではありません。神の意志を実践する者こそが敬虔なのです。それをイエスは二千年前に述べているではありませんか。なのに今日なおあなた方は、それがいちばん大切であることを、なぜ信者に説けないのでしょうか。大切なのは何を信じるかではなく、何を為すかです。
戦争、不正行為、飢餓、貧困、失業――こうした現実に知らぬふりをしている限りキリスト教は失敗であり、イエスを模範としていないことになります。
あなたは(メソジスト派の)総会から抜け出てこられました。過去一年間、メソジスト教会の三派が合同して行事を進めて来られましたが、せっかく合同しても、そうした神の摂理への汚辱(おじょく)を拭うために一致協力しない限りそれは無意味です。私は率直に申し上げておきます。誤解を受けては困るからです」
牧師「数年前に私たちは派閥を超えて慈善事業を行い、その時の収益金を失業者のための救済資金として使用しました。大したことは出来ませんが、信者の数の割にはよくやっていると思われませんか」
「あなたが心掛けの立派な方であることは私も認めております。そうでなかったらこうしてあなたと二度も議論をしに地上へ戻ってくるようなことはいたしません。あなたが有能な人材であることを見て取っております。あなたの教会へ足を運ぶ人の数は確かに知れております。しかし、イエスは社会の隅々まで足を運べと言っていないでしょうか。人が来るのを待っているようではいけません。あなたの方から足を運ばなくてはなりません。
教会を光明の中心として、飢えた魂だけでなく飢えた肉体にも糧を与えてあげないといけません。叡智の言葉だけでなく、パンと日常の必需品を与えてあげられるようでないといけません。魂と身体の両方を養ってあげないといけません。霊を救うと同時に、その霊が働くための身体も救ってあげないといけません。教会がこぞってそのことに努力しなければ、養うものを得られない身体は死んでしまいます」
そう述べてから、最後にその牧師のために祈りを捧げた。
「あなたがどこにいても、何をされても、常に大霊の御力と愛が支えとなるように祈ります。常に人のためを思われるあなたの心が、大霊からのインスピレーションを受け入れることが出来ますよう祈ります。
願わくは大霊があなたに一層の奉仕ヘの力を吹き込まれ、あなたの仕事の場を光と安らぎと幸せの中心となし給い、そこへ訪れる人々がそこにこそ大霊が働いておられることを感得してくれるようになることを祈ります。
大霊が常にあなたを祝福し、支え、大霊の道に勤しませ給わんことを。願わくは大霊の意図と力と計画について、より一層明確な悟りを得られんことを。
では大霊の祝福を。ご機嫌よう」