第3部 死後の世界の実態と、その法則

第2章 天国とは、どんなところか?
第1節 死とは霊と肉体が分離すること
人間は、肉体と霊からなる。霊とは、原理であり、理性的な存在、知的な存在である。肉体とは、霊が、地上において使命を果たし、自らの向上に必要な仕事を遂行できるように、霊を一時的に包んでいる鞘(さや)にすぎない。
肉体が使い古され、破壊されたあとも、霊は生き続ける。肉体は、霊が入っていなければ動くことができない単なる物体にすぎない。

肉体を失えば、霊がすべてとなる。生命と知性こそが霊の本質である。肉体を脱ぎ捨てた霊は、霊界に戻るが、やがて、再び、そこから地上に生まれ変わってくる。
したがって、肉体に宿った霊達から構成される物質界と、肉体に宿らない霊達から構成される霊界とが、同時に存在することになる。

物質界の存在達は、肉体という鞘に入っているために、地球、ないしは、その他の惑星の表面に結びつけられて生活する。
霊界は、我々の周囲、空間、あらゆる場所に広がっている。霊界には、いかなる限界もない。肉体に宿っていない霊達は、地上を重々しく移動する必要がないので、思考と同じスピードで一瞬のうちに空間を移動することが出来る。
肉体の死とは、電子線が切れて、霊と肉体が分離することを意味しているのである。

第2節 霊は、進化することで、より大きな幸福を得る
霊は、創られた当初は、単純で無知であるが、自由意志を備えているので、すべてを獲得しつつ進化することが可能である。
進化することによって、霊は、新たな知識、新たな能力、新たな知覚を獲得するが、さらに、未熟なときには知らなかった新たな喜びも獲得する。進化してくると、それまで、見ることも、聞くことも、感じることも、理解することも出来なかったことを、見、聞き、感じ、理解することが出来るようになる。幸福は、獲得した能力に対応するのである。

したがって、二人の霊人のうち、一人のほうがより幸せであるとすれば、それは、その霊人のほうが、知的にも、精神的にも、より進化しているからなのである。一方が光り輝く世界にいるのに対し、もう一方は暗闇の中にいる。一方が光を見るのに対し、もう一方は何も感じることが出来ない。目が見えないのと同じである。

霊の幸福とは、その霊が獲得した能力に、本質的に属するものなのである。どこにいようとも、すなわち、肉体に宿って地上に生きていようとも、肉体に宿らず霊界で生活していようとも、その幸福を味わうことが可能なのである。

もう少し分かり易い例えを引いてみよう。

今、コンサート会場に二人の男がいるとする。一人は、訓練された繊細な耳を持っており、もう一人は、音楽の教養もなく、まともに音楽を聞いたこともない。素晴らしい演奏が始まると、前者は至福の喜びを感じるが、後者は何も感じない。前者が理解し、感じ取ることを、後者は、まったく、理解することも、感じることも出来ないのである。

霊と喜びの関係は、以上のようなものである。その霊が獲得した能力に応じた喜びしか得られないのである。

霊の進化とは、その霊自身の努力の成果である。
とはいえ、彼らには自由意志があるので、積極的に向上を図るのも、怠けるのも、彼らの自由である。ある者は、どんどん進化するが、ある者は、なかなか進化せず、したがって、なかなか幸福になれない。一方が、すばやく進化するのに対して、もう一方は、何世紀も何世紀も停滞の中にとどまることがあり得る。

彼らは、自らの幸福・不幸の、自由な作り手であるのだが、そのことを、キリストは次のように言った。すなわち、「自らのなしたことに応じて」と。
後れをとっている霊の場合、その全責任は自分にあると言わねばならない。同様に、高度に進化を遂げた霊は、その恩恵をあますところなく自ら受けることが可能となる。彼が得た幸福は、自分が成し遂げたことに対する褒美以外の何ものでもない。

至高の幸福は、完成の域に達した霊にしか、つまり、至純の霊にしか、味わうことが出来ない。知的にも精神的にも進化した果てに、ようやく至福を得ることが出来るのである。しかし、知的な進化と精神的な進化を同時に果たすことは、たいへん難しい。そこで、あるときは知性を発達させ、またあるときは精神性を発達させ、そうして、最終的には、両者を同じレベルにまで上げていくのである。

知性が非常に発達し、知識も豊富なのに、思いやりを欠いた人間を、しばしば見、また、その反対のケースも、しばしば見るのは、以上のような理由からである。

第3節 霊は、進化するために何度も転生する
知性及び精神性を発達させるために、霊は、繰り返し地上に転生輪廻する。
知性を発達させるためには、仕事に就く必要があるだろう。

思いやりを発達させるには、人間同士の相互関係が必要である。人間関係が試金石となって、よき人間、悪しき人間をつくり出す。善意と悪意、優しさと暴力、思いやりとエゴイズム、慈悲と貪欲、謙虚さと傲慢さ、誠実さと偽善、率直さとかたくなさ、忠誠と裏切り、などなど、要するに、善人と悪人を区別する、あらゆる性格が、同胞との関わりの中から生まれるのである。

たった一人で生きる人間には、悪も善もない。一人きりで生きている場合、悪を犯さずに済むが、また、善を行うことも不可能である。
自らに欠けている、善なる資質をすべて獲得し、厭(いと)うべき悪しき資質をすべて捨て去るには、一回の転生では、当然のことながら不充分であろう。

粗野で獰猛(どうもう)、かつ無知な人間が、たった一回の転生で、知的にも精神的にも最高に優れた人間になることは可能であろうか? どう考えても無理である。

では、彼は、永遠に、無知かつ粗野のままでいなければならないのだろうか? 諸々の高度な能力がもたらしてくれる喜びとは、永遠に無縁のままで生きねばならないのだろうか? ほんのちょっとでも良識を働かせてみるならば、それがあり得ない話だということが分かるはずだ。もし、そういうことがあり得るとしたら、それは、神の善意と正義、そして、自然が備えている進化の法則を、否定することになるからだ。
だからこそ、何度でも何度でも地上に転生することを許してくださっているのである。

新たな転生のたびごとに、霊は、前回までの転生で得た能力や知識、知性や精神性を携えて地上に降りるのである。それぞれの転生は、したがって、進化に向けての一歩一歩であるのだ。

輪廻転生は、まだ充分に発達していない霊のためにある。ある一定の限界を超えて高い悟りに達した霊達、あるいは、もはや粗雑な物質をまとったかたちでの修行を必要としない惑星に住む霊達にとって、もはや輪廻転生は必要ではなくなるのである。
しかし、それは、いわば強制的な輪廻転生を必要としなくなったということであって、そうした霊達であっても、高度な使命を遂行するために、人間達に、直接、影響を与えるべく、肉体をまとって地上に降りるということはある。人々に奉仕するために、あえて、地上の苦しみ、肉体に宿る辛さを引き受けるのである。

地上において肉体生活を営んでいる時期以外は、霊は、霊界で、ある一定の期間を過ごすが、その際の幸・不幸を決めるのは、自分が地上でなした善と悪である。

霊界での生活こそが、霊の本来の生活であり、最終的な生活であって、霊体は決して滅びることがない。肉体に宿った状態というのは、一時的な、仮の姿にすぎない。地上での仕事を通して実現された進化の成果は、霊界において刈り取られる。そして、霊界においては、次の転生において解決すべき課題のための準備をし、新たに遂行すべき努力目標を立てる。

勿論、霊界での生活を通じても、霊は向上できる。地上では獲得することのできない特別な知識を得ることが出来るからである。地上で身に付けた考え方を変える必要もある。
肉体に宿っての生活と、霊としての生活は、それぞれ関連しており、ともに進歩のために必要とされる。だからこそ、代わる代わる、その二種類の生活を繰り返すのである。

以上のようにして、最終的な至福に至る前であっても、その境涯に応じた幸福感を味わうことは可能である。それは、ちょうど、人間が、幼年期、少年期、青年期に、それなりの楽しみを感じ、最終的には成人としての確固たる楽しみを得るようになるのと同じである。

第4節 霊格に応じて与えられる仕事と使命
至福の状態にある霊達は、伝統的なキリスト教において、しばしば言われてきたように、「何もせずに瞑想ばかりしている」というわけではない。霊界においては、それぞれの境涯に応じて、霊達は忙しく活動している。もっとも、いくら活動したからといって、地上におけるように疲れるわけではないが。

高級霊界においては、すべてが燦然(さんぜん)と輝いている。それは、いかなる人間的な言語によっても表現不可能であり、どれほど豊かな想像力をもってしても思い描くことは出来ない。

そこには、すべてを真に深く知ることの喜びがある。苦痛は一切存在せず、心は完全な安らぎに満たされ、何ものによっても、それが乱されることはない。至純の愛が、すべての存在を結びつけており、意地悪な者がいないので、嫌な思いをすることはあり得ない。すべてを神の視点から見ることができ、また、数々の神秘が明かされる。
さらに、様々な使命が与えられ、それを遂行する幸福を味わうことが出来る。

最高の霊域にいる霊達は、ある場合には、救世主として、または、神の意を体現する者として、神の意志を伝え、さらに、それを実現すべく働くのである。大いなる使命を果たし、惑星の創造に関わり、宇宙の調和のために、自らを捧げるが、そうした栄えある仕事は、完成の域に達した霊にしか任されない。最高の次元に達した霊達だけが、神の秘密に参入することを許されており、神の考えを直接受け取って、人間達に伝えることが出来るのである。

霊達が与えられる権限は、その進化の度合い、保持する光の量、能力、経験、そして、「至高の主から、どれだけ信頼されているか」による。能力に見合わない特権や待遇は、一切存在しない。すべてが、厳密な公正さによって測られるのであり、ごまかしは、一切通用しない。

最も重要な使命は、それを必ず遂行し得る霊に、神から委ねられる。神は、絶対に失敗しないと思われる霊にしか、そうした使命を任せない。また一方で、神の監督のもとに、最高大霊達が会議を開き、地球規模の問題を解決するために協議するのである。そうした中には、他の惑星に関わる霊達もいる。

さらに、それよりも下の段階の霊達に、霊格に応じて、順次、より容易な仕事が任されていく。それは、例えば、諸民族の進化にまつわる仕事、家族、あるいは個人を守護する仕事、大自然の作用への介入から、微細な生物の調査まで、様々なレベルにわたる。地球という広大な生活空間を調和あるものとするために、能力、適性、意志に応じて、無数とも言える仕事があるからである。

そして、そうした仕事は、熱心に願い出た霊に委ねられるが、全員が喜びをもって受け止める。というのも、常に自らを高めようとしている霊にとっては、そうした仕事こそが進化のよすがとなるからである。

高級霊達に委ねられる大いなる使命の他に、あらゆる段階の仕事があり、それは、難易度に応じて、様々な境涯の霊達に委ねられる。したがって、各人が、それなりの使命を与えられて、同胞達のために、それを遂行することになる。

例えば、一家の父親であれば、「子供達を向上させる」という使命を与えられるであろうし、天才的な人間であれば、「社会に新たな要素を投じて進化を促す」という使命が与えられるであろう。
たとえ失敗しても、個人のレベルにしか影響を与えないような使命において、しばしば、失敗、違反、放棄などが生じることがあるが、全体に影響を及ぼすような使命は、まず完遂されるのが普通である。

第5節 地上では味わえない天国での幸福感
すべての人間が、仕事を与えられる。どのレベルに属していようとも、そのレベルに応じた仕事が必ず与えられるのである。

そうした仕事は、霊界・地上界、両方にわたる。あらゆる階層が活動し、最も低い境涯から最も高い境涯に至るまで、全員が、学び合い、助け合い、支え合い、手を差し伸べ合って、頂上を目指すのである。

地上界と霊界の間、つまり、人間と霊の間、肉体にとらわれた霊と自由な霊の間に、こうして連帯が形成される。真の共感、健全な愛が、強化され、永続化されるのである。

あらゆる場所に生命と運動が見られる。無限の領域の、どのような片隅さえも、ないがしろにされることはない。いかなる場所であろうとも、輝かしい無数の存在達によって、絶えず踏査されているのである。
そうした存在は、地上の人間の粗雑な感覚器官をもってしては捉えられないが、物質から解放された魂達は、そのような姿を目にして、喜びと感嘆の情に満たされるのである。
したがって、あらゆる場所が、それぞれの階層に応じた幸福に満たされているといってよい。それぞれが、自らのうちに、進化の度合いに応じた幸福の要素を備えているのである。

幸福は、各人の置かれている物質的な環境に支配されるのではなく、各人に特有な能力に応じて獲得されるものである。ゆえに、どの境涯の霊であっても、それなりに幸福を得ることが出来る。

また、どのような場所にいようとも、高級霊であれば、神の威厳を感じ取ることができる。なぜなら、神は遍在するからである。
しかしながら、幸福とは、わたくしすべきものではない。幸福を自分だけのものにして、他者と分かち合わないとすれば、そのようなエゴイストは、やがて惨めな境涯に陥ることになるだろう。

幸福は、共鳴しやすい者同士が思いを共有することによっても得られる。幸福な霊同士は、考え、趣味、感情の同質性によって、お互いに惹かれ合い、一種の家族的なグループを形成する。そこでは、それぞれのメンバーが、自らの光を放つと同時に、グループ全体を包み込む、晴れやかで心地よい香気にひたされる。
グループのメンバーのうち、ある者達は、使命を果たすべく散っていき、ある者達は、成し遂げた仕事の成果を分かち合うべく会議を開き、ある者達は、より霊格の高い指導霊のまわりに集まって、その意見を聞き、指導を仰ぐ。

第6節 文明の進歩に応じて地上に降ろされる最新の霊界観
しかし、それにしても、なぜ霊実在論が真実だと分かるのか?
まずは、理性によって、次に、直観によって、さらには、発達した科学の知見との整合性によってである。

伝統的なキリスト教神学は神の属性を卑少にし、霊実在論は広大にする。一方は進歩の法則に反し、一方は進歩の法則と調和する。一方は歩みを止めて遅れており、一方は未来に向かって軽快に進む。良識から見て、どちらに真理があるかは歴然としているのではないだろうか?

この二つの考え方を前にして、各自が自らのうちに深く尋ねてみればよい。そうすれば、必ず、内なる声が応えてくれるはずである。それこそが、実は神の声であり、人間を過(あやま)たせることのない、確かな指針であるのだ。

だが、それならば、どうして、神は、そもそもの初めから、人間に真理をすべて明かさなかったのだろうか?
それは、おそらく、成熟した大人に教えることを子供には教えないのと同じことであろう。

人類が、ある程度、進化するまでは、それほど高度でない教えさえあれば充分だったのである。神は、人間の力に応じて啓示を降ろす。今日、より完璧なかたちで啓示を受け取っている人間達も、かつては、別の時代に、それらを部分的に受け取っていたにすぎない。ただ、それ以来、彼らは知的に進歩したわけである。

人間が、科学を通じて、自然の強大な力を理解し、惑星の配置を知り、地球の来歴と、その真の役割に気づく以前であったら、はたして、人間は、宇宙空間の広大さ、複雑さを理解し得たであろうか?

地質学が、地球の形成について明らかにしていなかったら、人間は、「創造の六日間」の本当の意味を知り得ただろうか?

天文学が、宇宙を統べている法則を発見しなかったら、人間は、宇宙空間には上も下もなく、天国が雲の上にあるわけでもなく、天国が星の下にあるわけでもないことを、理解できたであろうか?

心理学の進歩がなかったら、人間は、自分が霊的な生命体であるということを納得できたであろうか?

「人間は、死ぬと、境界のない、物質的な形態をとらない世界に赴き、幸福な生活、あるいは、不幸な生活を送る」ということが、はたして納得できたであろうか?

おそらく、そういうことはなかったであろう。
かつては、部分的な啓示で充分だった。だが、今日、それだけでは不充分である。人々の考え方が進化していることに気がつかず、子供に与えていた絵本を分別盛りの大人に与えて、よしとしているとしたら、これほどの時代錯誤はないと言わねばならない。