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青石古墳 公智神社 御旅所 丸山城址 銭塚地蔵 戦没者慰霊碑

【プロフィール】
 公智神社の正面を東に向って「宮前通り」と呼ばれる参道が続いている。参道入口に当たる所の両側には石灯籠が建ち、その前には「式内 公智神社」の石碑が建っている。その南角に「御旅所」がある。昭和4年に公智神社が懸社に昇格したのを記念にこの地に御旅所として整備された。
 御旅所の敷地内には、「御旅所」と刻まれた石碑とともに、「孝徳天皇行在所址」と刻まれた石碑、「旌忠」と刻まれた見事な巨石碑が建てられている。この他、敷地の左右には1対の杉の巨木が立ち、市の保護樹木に指定されていたが、根が張り出し石垣を崩しそうになったため2011年3月に伐採された。
【御旅所とは】
 御旅所(おたびしょ)とは、神社の祭礼(神幸祭)で神(一般には神体を乗せた神輿)が、巡幸の途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。御旅所には神社や祭神にまつわる場所や地域にとって重要な場所が選ばれている。元宮や配偶神を祀る神社などのほか、元の鎮座地などに臨時の祭殿を設ける場合などがある。
 公智神社の御旅所は、かって孝徳天皇を奉祀した奉奠堂の跡地であり、これを偲んで御旅所となったのではないか。毎年10月の秋祭りには、公智神社の御神輿がここ御旅所まで巡幸が行われ、祭礼が執行される。
【孝徳天皇行在所址】
 この御旅所は、大化3年(647年)に有馬温泉に行幸された第36代・孝徳天皇の行幸の跡地とされている。山口村誌に収録されている資料編の「昭和三年公智神社昇格一件書類」の中に、以下の記録がある。
 『奉奠堂(褒帝地とも云う)。公智神社を巨る東方約三丁、神社馬場先に在り。旧検地帳に拠れば此地及び付近は字を「ほうてんどう」と呼ぶ。明治四拾一年迄は小祠を建て孝徳天皇を奉祀せり。抑此奉奠堂は往昔孝徳天皇有馬行幸の際に於ける行宮の遺址と云い伝え、之を遠久に伝えんが為め村民、孝徳天皇を奉祀し、奉奠堂又は褒帝地と称す。社は明治四拾一年公智神社境内末社天津社に合祀し、現今は御旅所となす』
旌忠碑
 旌忠碑は山口の戦没者慰霊碑で、明治43年(1905)3月10日に当時の山口小学校の校庭(現在の山口幼稚園東側)に建立された。その後、山口小学校の児童数増に伴う運動場拡張、校舎増築のため、旌忠碑は新運動場の奉安殿横に移転した。昭和18年の忠霊塔新設に伴い、忠霊塔の左脇に安置され、二度目の移転が行なわれた。敗戦による政経分離政策により、旌忠碑と忠霊塔の二つの慰霊碑は、国民学校の校庭から撤去しなければならなくなった。そのため昭和23年に、旌忠碑は公智神社御旅所内に移転された。