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■丸山は、宝塚から生瀬、東久保の国道176号線を経て有馬温泉を結ぶ湯山街道と、三田方面へ向う丹波街道の分岐点に位置している。東の標高529mの畑山との間を南北に深い谷を形成する船坂川が流れている。
 標高375mの文字通り半円形の小山で、山口冨士とも呼ばれる。山口のどこにいても目に入るその親しみを覚える円形の山容は、山口のランドマークと呼ぶにふさわしい。
■丸山山頂に向うルートは3箇所ある。宝塚方面からの国道176号線左手の赤い鳥居から丸山浄水場脇を抜ける北参道。本社脇から向う参道。金仙寺湖側のふもとの金仙寺観音堂脇の登り口から向う南参道である。
■丸山山頂には、室町時代末期の武将・山口五郎左衛門時角の居城があったが、今は山口氏の鎮守として祀られた稲荷神社が鎮座する。稲荷神社の地籍は、「山口町字下山口山口五郎左衛門屋敷」である。
■稲荷神社社記は、以下の由緒伝説を伝えている。「当社は往古多田源氏の一族山口氏が、当地に城を構え、その鎮守として祀られたのがはじめといわれ、山口氏の没落後祭祀も絶えていた。ある時この地方に悪疫が流行し、霊夢を受けた者が当社に祈願したところ、たちまち病がなおった。これを聞いた人々の参拝が多く篤信の者が社殿を再建した。」
■以下は北参道の参拝案内である。
国道176号沿いの北参道登り口の大鳥居 丸山中腹の参道から阪神高速北神戸線の山口東ジャンクションを望む 丸山山頂付近からは金仙湖の素晴らしい展望が望める
丸山山頂近くの鳥居が立ち並ぶ参道 丸山山頂の稲荷神社奥社の境内入口 丸山山頂の稲荷神社奥社境内
■丸山の西側ふもとには稲荷神社の本社があり、その鳥居脇の石碑には以下の碑文が記されている。
 丸山稲荷神社は天保11年(1840年)、山頂の丸山城跡に伏見稲荷大社の分霊を勧請奉祀してきたが平成7年(1995年)1月17日の阪神大震災により倒壊す。再建に当たり山頂は本殿を修築し奥社と称号。当地に財団法人山口町徳風会の協賛を得て新神社を造営。之を本社と称号す。下山口自治会、神社総代とで再建。平成10年(1998年)3月竣工す。
■また、旧暦の八月一日前後の9月中旬には八朔大祭が行なわれ、祭礼、こども相撲大会、餅まきなどで賑わう。
丸山の西山麓の稲荷神社本社 稲荷神社本社の境内 稲荷神社本社の本殿
■金仙寺の創立年代は不詳。丸山に城を構えた山口氏が南麓の堂宇・金仙寺を菩提寺としたが山口氏滅亡の際、七堂伽藍のこの寺も兵火により灰燼に帰した。観世音の尊像は災厄を免れ、その後小堂を建て安置したのがはじまりといわれる。(有馬郡誌)
 古老の話しでは、明治の頃には境内に数多くの五輪塔があったという。
 現在の金仙寺遺跡としては観音堂東南の整然と地中に並ぶ礎石と竹薮の中の土塀の跡と蓮池のみである。(山口村誌)
 「有馬郡誌」の「古城址」の章には『丸山城』について以下の記述がある。
 山口村下山口にあり、城主は山口五郎左衛門時角という。多田源氏の一門にて山口の荘に居り、千足山金仙寺は菩提寺にして、館は金仙寺に在り、館の東丸山に保塁を築けり。此地は、生瀬口より東久保を経て、湯山と丹波道に至る分岐点にして要害の地たり。
 天正六年、織田信長、摂津に下るや、当州の諸豪、或いは下り或いは抗戦す。時に山口氏は、立岩の城主山崎左馬助と対戦中也氏より、山崎氏は早く織田氏に欽を通じ、織田氏の部下・中川清秀、丹羽長秀、塩川国満等の大軍、当郡に攻め入るや、山崎氏は此の軍の先鋒となり、先ず丸山城を襲い、一挙して城を屠り、山口氏戦死し滅亡す。
 時に山口氏の後室、遺狐を抱き民間に潜拠し、能く遺子を鞠育し遺子亦母の志を空しくせず、江戸に上り立身せり。賢母の墓あり、之を銭塚と呼び地蔵菩薩を安置せり。

 又、丸山城址に稲荷の社あり、土俗此の稲荷に詣するもの祈願成就の時は、絵馬を掲くるに、必ず佐久間玄蕃の絵を書くこととなれり。甚だ奇風なり、之れ城主山口氏の怨魂を慰むる同情祈願の好資料なるべきか。
 公智神社の境内に石の手水鉢あり、寛永年間、江戸の住人山口庄兵衛尉正信の寄附に係る、之れ銭塚の賢婦の遺裔にして故郷の氏神に報賽せる遺物なり。