私説江戸城物語

江戸城の秘められた戦略についての考察  




 一般に江戸城を築城したのは大田道潅といわれています。現在の本丸部分に限ればその通り

ですが、それより以前に、江戸氏の居館が東南側の桜田郷(霞ヶ関、虎ノ門付近)にあったと

されています。当時の江戸氏は秩父より荒川河口に進出して、多摩の有力武士団横山党の娘を

妻に迎え、背後を固めることにより江戸付近に勢力を築いていきました。もしも居城が危うく

なった場合には桜田郷から一気に南西に走り現在の田園調布付近で多摩川を越えれば、そこは

多摩丘陵を支配する横山党の勢力圏なので、頼みとする軍勢とすぐに連携できる位置にあった

というわけです。

 次に江戸城の主となった大田道潅は、相模の糟屋城(現伊勢原市)に本拠を置く扇谷上杉氏

の家宰で、対立する古河公方足利成氏の下総古河を見据えて江戸城を築きました。この時、江

戸氏と道潅は江戸の地と木田見の地(世田谷区喜多見)を交換したとされています。平安時代

からの父祖伝来の地を江戸氏が自ら手放すわけは無いので、強引に奪い取ったのでしょうが、

(或いは小競り合いもあったでしょう)喜多見は多摩にも隣接しているので江戸氏にとっては

もともと縁のある土地だったのかも知れません。

 道潅時代の江戸城は現在の北の丸から本丸にかけての台地上にありました。周囲には、その

後対立する事となる豊島氏が石神井城(練馬区)や平塚城(北区西ヶ原)などを支配していた

ので、稲付城(北区赤羽西)の丘など神田川より北の地には本拠となる城を築きずらかったも

のと思われます。それでも東側の隅田川と江戸川に囲まれた地域の当時の地形は、川と入り江

と中州の入り組んだ一大湿地帯だったので、江戸と古河は湿地帯を挟んで直接対峙するような

地形で、道灌にとっては最前線の城だったようです。

 ただそれだけならば豊島氏を滅ぼした後に居城を変更しても良さそうなのに、引き続き江戸

の地を本拠地としていたのは何故でしょうか。それは地形だけを考えていると気付かないので

すが、江戸城を築く前に品川館に拠っていた事を考えれば一目瞭然で、古くから開けていた江

戸湊を掌握するという重要な目的があったからです。入り江に恵まれた江戸湊には、西国から

の大船や関東内陸部からの川船などが集まって賑わっていました。豪族と略奪者が紙一重の戦

国時代にあっては、船だけが唯一安全な交通運搬手段であり、入間川や利根川沿岸地域を今風

に江戸湊の商業圏と考えれば、関東地方で最も賑わっていた交易港であることは容易に想像出

来ます。また道潅の優れた武勇もあって城下に敵兵が押し寄せることは一度も無かったので、

益々賑わいを見せ、関東の富が一手に江戸に集まっていたのでしょう。

 これに先立つ江戸氏が房総の兵三万を従えた源頼朝の軍勢を墨田河原(白髭橋東岸付近)で

立ち往生させたのも、江戸湊に出入りする船頭衆から成る強力な水軍を抱えていたと思われ、

義経紀で江戸氏のことを武士にも関わらず「東国一の大福長者」と述べているのも、繁栄する

江戸湊の商人や交易船を掌握していたからと思われます。

 その道潅を謀殺した後の扇ヶ谷上杉氏は小田原北条氏に相模の地を奪われてしまい 川越城

なども支配していたのですが、やはり江戸城を居城としていました。ところが北条氏がさらに

相模から江戸に迫ると、家臣の太田資高(道潅の孫)の裏切りもあって落城し、上杉氏は川越

城に敗走しています。

 話は変わりますが、この時の太田資高の心の内は微妙であったろうと思います。父の太田資

康(道潅の子)は道潅の死後山ノ内上杉に走り岩槻城に居たのですが、姻戚関係にあった三浦

氏救援の為に相模で北条方と戦い、敗れて戦死しています。孫の資高が祖父道潅を殺されても

扇谷上杉に属していたのは意外ですが、戦国の世にあっては主君の言い分に従うしかなかった

のかも知れません。いずれにしても資高にとっては祖父道潅を上杉に殺され、父資康は北条に

殺されているので、どちらにも恨みがあったのでしょうが、戦場で正々堂々と戦って死ぬのと

風呂場で謀殺されるのとでは、いくら権謀術数の渦巻く時代であっても恨みの深さが違ってい

たのでしょう。もっとも資高は北条氏綱の娘を妻に迎えて北条氏に従っていましたが、その子

康資は江戸城の主になれなかったのがよほど不満なのか、第二次国府台合戦の折りには、また

も主君に反旗を翻し里見方に寝返っています。但し、この時の企みは北条氏に事前に察知され

頓挫しましたが。

 さて、大分長い前置きになってしまいましたが、当時の江戸城付近の地形をもう少し詳しく

推測してみたいと思います。北の丸の台地に続いて九段の丘が四谷から伸びていて、北の丸の

北方は飯田橋から大曲付近に白鳥池と言われた大池がありました。文京区春日の牛天神には源

頼朝が東征の折りに風待ちをして船を繋いだという伝承があり、横の安藤坂はかつて網干し坂

と呼ばれていたそうで、現在も神田川の白鳥橋にその名が残っています。また水道橋付近にも

大沼と呼ばれた池があって、これらに神田川などが流れ込んだ一大湖沼地帯だったようです。

また古くは目の前の日比谷あたりまで海が入り込んでいて、白鳥池とも平川(外濠川)でつな

がっていました。お茶の水付近の神田川は江戸時代に掘られたもので本郷湯島台地と駿河台と

は地続きで、その先端は江戸前島と呼ばれ東京駅付近まで陸地だったようです。そして平川の

河口は日比谷入り江で、日本橋付近の日本橋川は後に掘られたものだったようです。というの

も地下鉄銀座線工事の地質調査の結果、自然河川の地質ではないという説が出た為です。

 流路の変更では、石神井川も北区王子で王子神社と飛鳥山の間の谷を東に流れていますが、

本来の両側の丘は王子から上野まで続く尾根で、石神井川はその手前で南に進路を変え不忍ノ

池の辺りに流れ込んでいたという説もあります。この石神井川については資料はおろか伝承さ

えないのですが、飛鳥山付近の地形を見ると、王子神社とを隔てる谷はいくぶん不自然な地形

のように思われます。また道潅山(西日暮里)の関道閑館の下には豊島川(石神井川)から続

く新堀(日暮里は新堀が変化したもの)により諸国の船が入ってきたと伝えられているので、

この時期に流路の変更があったのかも知れません。

 隅田川以東が湿地帯だった事は既に述べたのですが、縄文時代の貝塚は、はるか上流の川越

や群馬県館林付近でも発見されていますし、平安時代の頃まではほとんどが海とそれに続く入

り江だったようです。埼玉の浦和という地名は「良い入り江」という意味で、川口は河口とも

読みとれ八潮も海に縁がありそうです。その入り江が徐々に陸地となっていったのは、四つの

大河がこのせまい地域に集まり洪水の度に多量の土砂を運んできたからでした。西から入間川

荒川、利根川、渡良瀬川が流れ、現在の隅田川は入間川で、荒川は入間川と合流することなく

行田から岩槻を流れ元荒川として越谷で中川に合流し、利根川も羽生から春日部へと流れ越谷

付近で古利根川から中川になっています。また渡良瀬川(太日川)も利根川と合流することな

く流れ、その跡には江戸川が流れています。ちなみに江戸時代の大工事で利根川が銚子に流れ

るようになるまでは、古利根川が武蔵と下総の国境で、その河口部(現中川、隅田川)は両国

付近に流れ込んでいました。この利根川の河口が変更されても相変わらず陸地化は進んでいま

すが、現代では多量のゴミが江戸の海を埋めているのは時代の皮肉なのかも知れません。

 話を江戸城に戻し、城のあった本丸及び北の丸の丘は、北に白鳥池から市谷の谷、東は平川

西側は千鳥が淵とそこから流れ出る谷(乾濠、蓮池濠)、南は日比谷の入り江と四方を水で囲

まれていましたが、唯一、西北の九段の丘だけは地続きでした。九段の丘の先端が本丸なので

これは当然の事なのですが、江戸城の一番の防衛上の問題点はこの丘伝いに迫る敵に対してど

のように対処するかという事でした。

 道灌は西方で敵対していた豊島氏の石神井城を真っ先に攻略し、この尾根に続く烏山の地な

世田谷を領していた吉良氏と同盟して西の守りを固めました。吉良氏との信頼関係は道灌が

遠征中は吉良氏に江戸城の留守を預けるほどでした。さらに遥か内陸部には川越城を築き、江

戸城とは入間川により結ばれていました。

 北條氏の時代には、北隣りの尾根に牛込城を築いて九段の丘の備えとしました。それ以前に

北方の平塚城に対峙して近くに築かれていた築土塁と牛込城との位置関係を見ると、築土塁と

牛込城は大久保通りの谷を隔てて僅か300米しか離れていません。早稲田を領していた牛込

氏をこの地に移し築土塁を放棄して(少なくともまだ土塁や空掘り等は残っていたでしょう)

新たに牛込城を築かせた理由は、この尾根伝いに江戸城に迫る敵への備えとしか考えられない

のです。また江戸城を追われ川越城に退いていた上杉氏が深大寺城を築いて江戸城奪還の構え

を見せると、世田谷北西部に牟礼砦とその南に烏山塁を築いてこれに対抗しました。牟礼砦は

神田川南岸の丘にあり烏山塁は烏山川(目黒川)の北東岸にあって、両城の間は4km程しか

離れてないのですが、この地は神田川と目黒川の間に広がる全ての尾根の「扇の要」の地にな

り、ここを抑えれば江戸城は大陸の城壁都市のように出城も城下町も全て含めて天然の大外濠

に囲まれる事となるので、この両城はまさに江戸城防衛の「扇の要」だったのです。

 徳川の時代になると江戸城と九段の丘を隔てる田安門付近の濠は強固な高石垣で固められま

した。「江戸城の南側の濠には石垣が少なくて、北側に高石垣が築かれているのは南西に位置

する京の朝廷に遠慮しているからだ。」などと呑気な説を唱える人もいますが、本当は上記の

ような江戸城の唯一の弱点を克服する為なのです。また本丸の南西には蓮池濠を隔てて西の丸

の台地があり、その外側には溜池の谷があって南西方向は二重の谷に守られていました。さら

にその南西に古川(渋谷川)、目黒川、そして多摩川と天然の外濠が幾重にもあって万全の備

えだったのです。

以下つづく 





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