道 潅 品 川 館 跡

品川区北品川、通称 御殿山 




 品川駅の南西、高層マンションの建つ御殿山の高台に大田道潅の城、品川館がありました。江

戸城の周囲にも道潅の城跡とされる地が多くあって、それらは江戸城の出城として築かれたもの

ですが、品川館は江戸城が築かれる以前に道潅が拠った城(注1)でした。さらに江戸築城後は

宇多川和泉守長清を配置したとされています。周囲の地形は台場造成の為の土取りや東海道線の

敷設などで削られていますが、八ツ山坂の切り通しから南東に伸びる舌状台地で海に臨む先端に

(注2)品川神社があります。北に続く台地は切り通しの辺りでくびれて馬の背になり、西から

南にかけては目黒川が城址の丘を回り込むように湾曲して流れています。そして東は品川の海と

目黒川河口部(注3)の砂州や湿地帯でした。


    御殿山遠望


 江戸時代にこの丘の上に将

軍家鷹狩場の仮御殿が建てら

れたので、御殿山と呼ばれて

います。西大井の品川氏館跡

と区別する為に、この城址は

道潅品川館跡と呼ぶことにし

ました。






   御殿山西側地区


 現在の御殿山地区は大使館

などもある高級住宅地で、駅

に近い東側に御殿山ヒルズ等

の高層マンションが建ってい

ます。写真手前の西側の方が

少し高くなっているので、本

来ならば本丸郭はこの辺りと

思われるのですが・・・





     八ツ山坂


 この坂道の辺りは浅い谷に

なっていて、坂の頂部は御殿

山の尾根の鞍部になっていま

す。地形的に見て、この頂部

の切り通し付近に城址北辺の

堀切があったのではないかと

推測されます。






     目 黒 川


 現在は御殿山の麓を西から

南に流れる目黒川は、以前は

河口の手前(荏原神社付近)

で北上し、北品川駅付近にま

で蛇行していました。現在の

八ツ山通りは目黒川を埋め立

てた跡で、品川浦船溜まりが

元の河口でした。


注1・・・・ 扇谷上杉氏の大田道潅は古河公方足利成氏の古河城に対抗するために、上杉氏の

      本拠地の相模から北東へと勢力を広げていきました。しかし、当時の扇谷上杉氏の

      居城は、まだ糟谷館(神奈川県伊勢原市上粕屋)だったように、多摩川の北岸の地

      では上杉氏の勢力も十分ではなかったようです。そこで道潅は、まず北岸地域の橋

      頭堡となる城をこの御殿山に築いたのではないでしょうか。この城にあって江戸氏

      など近隣の豪族を従えた後に本拠となる江戸城を築き、さらに北へと岩槻城などを

      築いて古河に迫っていったと考えられます。

注2・・・・ 品川館は上記のような江戸進出への橋頭堡という以外にも、古くから開かれて賑

      わっていた品川湊を掌握するという役割もありました。一般に本丸の位置は城地内

      の最高所になるのですが、品川館では港湾を眼下に臨める尾根の先端にあったかも

      知れません。

注3・・・・ 当時の江戸湾最奥部の港は浅草、江戸、品川などでしたが、これらの港は伊勢な

      ど西国から海原を越えてくる大船と、関東平野内陸部へと入間川や利根川を遡る小

      船との中継地として賑わっていました。この頃には浅草(橋場)の港は堆積する土

      砂で港としては適さなくなっていたようで、平河(神田川、外濠川)河口の江戸湊

      に賑わいが移っていたようです。品川湊も目黒川河口部の長く伸びた砂洲が天然の

      防波堤となって、多くの西国船の停泊地となっていたそうで、品川の寺社に残って

      いる奉納者名には伊勢商人の名が多く見られるそうです。太田道灌が品川に続いて

      江戸の地を掌握したのも、早くからこれら商人たちの財力に注目していたと思われ

      権威よりも実利を重視した新しい時代の武将だった事を覗わせます。



    アクセスガイド


  道潅品川館跡・・・山手線 品川駅より南西に徒歩約800m(御殿山)






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