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竹之下一里塚から馬喰坂・・・3
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硬化層か? 上の2点の写真、及び左の写真は、切通壁の崩れた地層を撮影したもので、ここには硬化層のような大変硬い地層が見られます。切通の坂を上から下りてきた左手の切通壁のものです。 簡易舗装された現道より一段高くなった古い道跡のようなところがこの場所に見られ、そこへ上がって壁を見ると写真の地層があったのです。下の赤茶色の土は地山層と思われます。そして上の灰色の土は指で押してみると石のように硬くなっています。 |
上部の灰色の硬い土と下部の地山層の境目には黄土色の筋が見られます。道路遺構としての硬化層には地山層との境目に酸化鉄などの層がよく見られるといわれます。写真の地層の黄土色の筋も、あるいは酸化鉄ではないかと思われます。(実際に成分を調べてみないとわかりませんが?) 右の写真は硬化層に似た地層が見られた切通部です。写真の右手側の一段高いところで、写真には写っていませんが崩れた壁があります。一方で写真の左側の切通壁も崩れているのがわかります。 |
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その左側の切通が崩れたところには、木が道側に張り出すように生えています。ホームページ作者は張り出した木の根本にもぐり込むようにして、そこの地層を見てみました。そしてそこに見られた地層が下の2点の写真です。ここの地層も下部は赤茶色の地山層で、上部は灰色の硬い土の層になっていました。
更に下の写真の右側のものには、地山層と灰色土層の境目が逆三角形をしていてピットを思わせるものがあります。 考古学のことを良く知らない人には、硬化層とかピットとか言われても何のことだろうと考えてしまうことでしょう。ホームページ作者も考古学は素人ですが近頃よく道の考古学の本とか読んでいて、ついそのような言葉を発してしまいます。すみません! 考古学の硬化層は遺跡を構成する地層の一部で、特に硬くなった地層のことをいいます。その硬くなった理由として考えられるのが一部は、人馬の通行で踏み固められた地層ということ柄から道路遺構ということになります。(道路遺構以外の硬化層もあります) |
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左の写真は馬頭観音三体がある付近の切通壁の裏側にある大変に大きな窪地です。藪がひどくて写真ではよくわかりませんが、この窪地はもしかして道跡? とにかく藪がひどくて窪地の全体像がつかみきれません。竹之下一里塚から下って来た浅間坂の切通道は、右に折れてから急坂で蛇行するように下りて行きますが、この大きな窪地は明らかに切通道とは別ものです。 |
大きな窪地の中を藪こぎで強引に下り、出たところは嶽之下神社の西側でした。右の写真がその辺りで、右手の森の中が嶽之下神社です。神社と左側の畑地との間には地割のような地形が続いています。この地割地形は或いは道跡ではないかと想像が膨らみますが真実はわかりません。 遠方に見える山は、山中湖の南の三国山辺りでしょうか。竹之下から甲斐国へ向かう官道は籠坂峠か綱坂峠を越えていたといいますが、写真の遠方の山がそれらの峠にあたるものと思われます。 |
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嶽之下神社(浅間神社) ホームページの取材中に小山町観光協会の「四季の旅人」の会長さんという方にお会いすることができました。嶽之下神社について尋ねてみると、以前は浅間神社であったそうですが、大曲の上り口のおくまんさま(熊野権現)と有闘坂の途中にあった天王寺を合祀して嶽之下神社となったことを教えて頂きました。 |
右の写真は嶽之下神社の鳥居です。鳥居の左脇には庚申塔が建っています。この嶽之下神社の社殿は最近不審火により焼けてしまったそうです。写真の鳥居をくぐり、石段を上ると現在では社殿が焼けた跡の平場があるのみです。しかしいずれは再建されることでしょう。神社と火災ということでこんな話を聞くことができました。明治の中頃で御殿場線(昔は東海道本線)が開通して間もない頃に線路を走る汽車の煙が原因で竹之下の集落が大火事になったそうです。そのときにおくまん様も浅間神社も焼けてしまい、茅葺きの民家28軒が焼けたことから、「億万千軒28軒が焼けた。」そんな言いならわしがあるといいます。 | ![]() |
『更級日記』では、 まだ暁より足柄をこゆ。まいて山の中のおそろしげなる事、言はむ方なし。雲は足の下にふまる。山の半らばかりの、木の下のわづかなるに、葵のただ三筋ばかりあるを、「世離れてかかる山中にしも生ひけむよ」と人々あはれがる。水はその山に三所ぞ流れたる。 からうじて越えいでて、関山にとどまりぬ。これよりは駿河也。・・・ とあります。 |
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更級日記の作者はまだ夜の明けないうちから足柄を越え、一行は恐ろしげな山中で三筋の葵を見つけていじらしく思い、三つの川が流れているところを過ぎると関山というところに着いたといいます。そしてその関山からは駿河国であるというのです。現在の地名から作者が言う「関山」は、それに該当するところはないようなのですが、横山・上横山遺跡付近とする説もあります。
左の写真は嶽之下神社から麓へ下る馬喰坂(ばくろうさか)で道端には道祖神や庚申塔などが点在しています。 |
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馬喰坂 先にも説明しましたが、竹之下一里塚からの切通の坂は「浅間坂」とか「自校坂」と呼ばれていますが、嶽之下神社辺りから麓までは「馬喰坂」と呼んでいます。説明版には「江戸時代竹之下は物資の荷継場で牛や馬の需要が栄でありその賣買や周旋する商人が住んでいた」とあります。馬喰とは市場などで運搬に使われる牛や馬を仲買いする商人のことで、この坂の付近には馬喰も住んでいたといわれています。 |
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足柄峠の古道探索 足柄峠西坂地図 |
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