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竹之下一里塚から馬喰坂・・・2
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竹之下一里塚から麓までは断続した下り坂です。この切通の坂道に名前はないのだろうかと調べてみました。資料によりますと麓から嶽之下神社辺りまでは「馬喰(ばくろう)坂」と呼ばれていますが、嶽之下神社から上の坂道は「浅間坂」と呼ばれているようです。嶽之下神社は合祀される以前は浅間神社であったことから、そこから上の坂道は浅間坂であったということなのでしょう。 |
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竹之下一里塚から麓へ下る切通道
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浅間坂は別名で「自校坂」とも呼ばれているそうです。足柄史跡を守る会の説明では、「昭和16年東京目黒の陸軍輜重兵学校の自動車隊が足柄峠越えを強行するため、急峻狭小の道路を拡張整備しながら、悪戦苦闘の末、25台の軍用トラックを四昼夜をかけて突破したことから、其の後地元の人々はその栄誉をたたえ、通称浅間坂を自校坂と云うようになった。」とありました。 |
そんなことがこの坂であったのかと、当時の状況を想像しながら歩いてみるのも楽しいものです。そういえば大正期以前の地形図には陸軍工兵隊が敷設した大沢伝いの道が峠を越えているのを見ていました。その道は車も通れたと聞いていますが、昭和16年には使用できなかったのでしょうか。工兵隊が敷設した道はそのほとんどが沢沿いの道であったことから自然災害などで昭和16年頃は通行不能となっていたのかも知れません。 | ![]() |
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やがて切通道は向方配水池という施設のところから右手に折れて坂を下って行きます。その付近から嶽之下神社辺りまでは坂の傾斜は一段ときつくなり、蛇行をしながら下って行きます。切通の両側の壁は高く、壁の傾斜も大変急になっていて、切通壁の上には簡単には上れないようです。(切通壁に上ろうと考えるのは私ぐらいか?) この辺りの切通は古道という雰囲気は全くありません。近年にこの付近の切通道は現在のように整備されたものと思われます。 |
延暦21年(802)、『日本紀略』に富士山が大噴火して足柄路が通行不能になったとあります。そのため新たに筥荷路が開設されることになりますが、翌年には足柄路が復活しています。『静岡県歴史の道調査報告書・東海道』には足柄路として、横走駅を通過した東海道は『倭名類聚抄』の駿河郡小松郷を過ぎ、足柄山の麓よりほぼ地蔵堂川に沿って上昇し、虎小志山を経て峠に向かっていたといわれ、鎌倉以降となると、昇り口は西に移り竹之下市場から峠へのコースが開かれたとあります。ここでいう竹之下市場からのルートとはここで紹介している浅間坂のルートであると思われます。 | ![]() |
鎌倉時代以降では東海道は箱根越えがメインルートに変わりますが、足柄路もまた傾斜が緩やかであるなどの自然条件から、かなりの往来があったと考えられます。承久3年(1221)、承久の乱では幕府方は当初は箱根で京方の軍を向かえ打つ策を考えますが、一転して京まで攻め入る策に変更します。箱根で向かい打つ策では、関を固め足柄と箱根両方の道路で相待つとあり、箱根と共に足柄も西からの交通路としてかなり重要であったことがうかがえます。
右の写真は切通壁中に建つ馬頭観音石塔です。この一基には天保の文字が見られました。 |
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急な切通の坂道
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しばらく古道の雰囲気が感じられない深い切通道を下って来きましたが、馬頭観音の石塔が現れた付近から、古道らしい雰囲気が漂いはじめました。上の写真と左の写真は同じところを別角度から撮影したものです。緩やかなカーブを描きながら下って行くところですが、道の両脇の切通の壁が崩れているのがわかります。また片側(坂を下って左手)には一段高い段差があり、この段差の上は古い道跡とも考えられそうです。左の写真は段差の上から撮影したものです。 |
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足柄峠の古道探索 足柄峠西坂地図 |
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