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8月31日(金)
風邪引いて微熱があるのに酒を飲みにいく。酔い覚ましにオープンカフェで冷たいアイスコーヒーを飲みながら、ストリートミュージシャンのフォークをソングに耳を傾ける。ほてってけだるい体に夜風が心地よい。経済も会社もいたって調子は悪いがこんなちょっとしたことに幸福感を感じることは出来る。
秋葉原で太陽電池モジュールを買う。これでなんか商品できんかなぁ。
昼休み本屋で韓国で出版された日本語訳の漫画を3冊買う。「韓国キーセン物語」金童話著、「飛天舞」金恵りん(王+燐−火)著、「ホテル・アフリカ」朴姫貞。販売は日本を経由して文字も日本語だが、出版も印刷も韓国のよう。韓国の漫画家の本が出版されるのは珍しいことではないが、韓国の出版社が直接日本の市場に乗り出すのは珍しいことだと思う。今回8点ほど出版され、今後も出版が続くようである。漫画も国際化してきて非常に楽しみ。
電波測定(VCCIとかFCCI)はなんとかなりそうな気配。昨日部下からもうだめだぁと報告受けたときよりも格段に進展。少しだけ肩の荷がおりる。
明日は早出なので、寝ないで起きていようと思う。
夕方、静岡に戻る。
2万ヒット達成しました。皆様どうもありがとうございます。
国立に行っていつもの喫茶店で内山節の「自由論―自然と人間のゆらぎの中で」を読む。”樹の自由”、”循環系の社会と拡大系の社会”、刮目すべき言葉は多く語り尽くせぬほどあるが、下手な解説より著者の言葉を引用したい。
「近代的な商品経済とは、個人主義と結びついた商品経済として、つくられているのである。だから経済と自由の関係について考えようとすると、つい私たちは、経済と個人の自由の関係としてのみ、それをとらえようとする。その結果、一般論としては、これ以上の経済発展はひつようなのだろうかと疑問をもちながらも、我がこととしては、より自由な生活をつくるためには経済成長も必要だといった矛盾におちいる。一方では経済成長によって失われたものにつらさを感じながら、他方では自分の所得の向上を計る」
松下幸之助の水道哲学の蛇口を止めるものはいない。
「今日の商品を使い捨てていく社会のなかで暮らしていると、私たちは自分の問題として虚しさも感じてくる。なぜなら、すべてのものがつねに新しくつくり変えられ、すべてのものが古くなり、すべてのものが捨てられていく今日の経済社会のなかに身を置いていると、自分もまたこの社会のなかで古くなり、使い捨てられていくのかもしれないという不安を、感じないわけにはいかないからである」
今の世の中には工学書でもなければ経済学書でもなく、哲学書こそが必要なのかもしれない。しかしその道のりは”米百俵”より遠い。
晩、「千と千尋の神隠し」を観る。相変わらずの予定調和ではあるが、出来は非常に良いと思う。映像は涙が出るくらい美しいしね。
「フォーカス」8月8日最終前?号の”連合赤軍永田洋子の獄中手記”の記事を読む。あの事件の頃は小学生で何が起きたのか、さっぱり分からなかった。浅間山荘で銃撃戦があったということをテレビのニュースで知っただけのことだった。彼らが何に対して戦っていたのかも、小学生の身には理解できなかったし、リンチ殺人事件を知ったのもずいぶんと後のことだった。そして、30年経過しても知っていること理解していることはあまり多くはない。永田洋子の後悔が書き連なった手記を読めば、人は変転する、時代は変転する、という想いだけしか伝わらない。
連合赤軍へというのではなく、広く”あの時代”に関わって、戦っていた人々に問いたい。「あなた方は何を敵として戦っていたのか? その敵は今はもうどこにも居ないのか?」
人を殺めたことへの悔悟はもちろん必要だが、戦ってきたことや時代に対する決算も必要なのだと思ってしまうのは、遅れてきてしかも何も関わらなかった者の勝手な言い分なのだろうか。
時代は変わってしまったのか? 過去を振り返る必要も無いほどに今の時代は良い時代なのか? すべてはなし崩しに忘却されるまま。
休日出勤するも猛烈にけだるく、そうそうに帰宅。
会社の問題はなかなか解決策が見当たらない。100人のうちの50人の受け皿が見つかれば何とか上手い事たためるのだが。色々な事業所を併せて10人程度の受け皿では話にならない。個人的にいろいろと工作はしているのだが、今のところ成果はあがらない。
中央線の人身事故で電車が止まったので西国分寺から国立まで歩く。国立駅のホームの端の桜はなんでか知らねど桜餅の匂いを漂わせている。
小説の更新がなかなか出来ないので、江戸時代の艶本(平たく言えばアダルト本)の読み下し(正確な言い方ではないですが)文の作成をしている。まあ江戸時代のアダルトチックな文章がアドルト的な嗜好で好まれるとは思えないけど(^^;資料的な意味では面白いでしょ。ちょっと悩んでいるのは絵を同時に掲載するべきかどうかですね。出版界では最近無修正で出版されてはいるが公共性の高いインターネットで無修正はどんなもんかなとは思っています。その点ご意見募集中(^^)/。