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4月30日(日)
本来カレンダーどうりの休みに対し無理矢理1日2日を有休とし、9連休にする(^^)。
本日佐渡島へ旅行に行った後、実家に帰省します。しばらくネットはお休みです。
帰宅して調べました。五月11日(木)日テレ17時30分の様です。お土産は日本テレビのロゴが入った防災用懐中電灯付き置き時計と赤坂もちという和菓子でした。ありがとうございました。
まずは言い訳の方から(^^;(以下《》内はたけうちさんの批評分からの引用)
《70万年をどうやって待っていたのでしょうか。ずっと起きていたのか、眠っていたのか、どうやって退屈をしのいでいたのか》
正解は起きて待っていたのです。この描写は実は初期設定版には存在しました。しかし後述する理由により全面削除しました。まあ、機械なんで寝る必要ないのです(^^;;;。
《「トカゲ」か「蛇」のほうがデザイン的にキマルかも》
”爬虫類”という形容は、感情を喪失したものというイメージで付加しました。当初”トカゲ”というキーワードも検討しましたが、”トカゲ”という言葉の韻が気に入らなかったのと一般的に”爬虫類”という言葉から想起される生物は”トカゲ”だろうと思い、”爬虫類”に決定しました。私としては”爬虫類”というキーワードを使った事よりも、このキーワードを作中で使いすぎた事により印象を悪くしたのではないかと考えています。
《あれだけ科学的説明をしておきながら、最後に「異星人」という単語でリセットという感がありました》
あの設定状況において科学的な結論を出すならば、逆に”異星人”という単語が出ないのは不自然だと考えました。でもこれは意見が分かれるところですね。
《男性キャラに比べて、印象が薄い。女性週刊誌や少女漫画を立ち読みしてください》
初期設定版では、名無しの片割れの女性体が具体的なイメージで随所に出てきます。ですがこれは再構成段階で全て削除しました。理由は、この作品においては、ネット上では受けるであろう客寄せパンダ的な女性イメージを排除したかった。そして最大の理由は女性との絡みを強くする事によってテーマ的な歪みもしくは誤解を与えることを恐れたからです。でもまあ力量が足りないという証でもありますが(^^;;
さて肝心のテーマに関する部分です。
《メインフレームのずれ これが一番気になりました。命題は「サイボーグ」なのか「実験」なのか》
私の答えを先に述べます。命題は「サイボーグ」にも「実験」にもありません。「サイボーグ」も「実験」もSFとしての枠組みのために使用されており、命題には直接無関係です。命題は作中冒頭に挙げたニーチェの言葉に集約されます。『自己が存在する意味を追求する事に意味はあるのか?』です。
たけうちさんの批評が的外れなのではありません。このテーマをうまく構成できなかったのが、この作品の最大の問題点です。それが、私がこの作品をあえて破綻していると述べた点であり、たけうちさんが指摘したメインフレームのずれでもあります。
大学時代、SFと純文学を読みふけっていた時期がありました。純文学の深遠なテーマに魅了されていましたし、SFの持つ壮大さとエンターテイメント性も好きでした。しかし読みふけっていた大学時代においてすら、この二つのジャンルに対して私は危惧感がありました。純文学はそのテーマ性ゆえに読む楽しみというもが阻害されて行くだろうと。SFはその壮大さと新奇性を追及する傾向ゆえ文学が本来持つテーマ性を喪失していくだろうと。
私が考えたのはSFの枠組みの中で純文学のテーマを追求できないか? でした。SFのエンターテイメント性をそのままに純文学のテーマを描けないものだろうか。結果は火を見るよりも明らかで、大学時代は未完で終わらせ、20年たってもこのていたらく・・・。
《それが人間実存ならば、もっと前に出すほうがいいですね》
その場合、SFとしての枠組みは崩壊せざるおえません。安部公房、大江健三郎らがSF的味付けの純文学作品を数多く発表してはいますが、どれもSF的味付けで終始しており、かろうじてSF的枠組みを維持できているのは安部公房の『第4間氷期』だけだと思います。
なんにせよ力量不足は否めません。機会があれば3度目の正直でリライトに挑戦してみたいと思います。その時は舞台は未来でなく現代にして、構成もガラッと変えた方が新たな気分で書けるかもやしれないです。
たけうちさん。忙しい中、批評に時間を割いていただきありがとうございました。たけうちさんは、私がネットの中で知った限りにおいて、最上級の小説を書く、限りなくプロに近い作家です。ネット上では、たけうちさんの作品を読む事が出来なくなってしまい寂しい限りですが、今後のご活躍を期待してやみません。
『水と銀』は、おそらく作者の描きたいものを自由に描いた、私にとっては好感の持てる作品でした。
帰宅途中、駅前で津軽三味線の演奏を聞く。今時首都圏の駅前には必ずアマチュアの演奏家がたむろしているが、津軽三味線は初めてお目に掛かった。20代位の青年のようだが見事な演奏。足を止め何曲も聞きほれてしまった。
プロとアマの差って何だろう?
昨夜、月さんから「アズ」の表紙絵を頂く。以前月さんのサイトで公開されていた絵ですが、リニューアルに際し削除されていました。個人的に非常に気に入っていた絵で、「アズ」の虚無性とマッチすると思い、無理を言っていただいたものです。近日中に公開致します。
今週は忙しい週でした。自分で始めたプロジェクトを自分で叩き潰すために画策し奔走する。感じるのは日本の会社組織におけるプロジェクト進行のイナーシャ(慣性)の大きさです。はっきり言って疲れました。
秋葉原でH"(エッジ)を物色。部下からそろそろ携帯電話を持ち歩いてくれと頼まれる。やれやれ。8年ほど前に私はPHSの開発に携わっていました。自分で携帯電話の類いを開発したくせに今まで所有した事が無かったのはひとえに開発者としての意地でした。あれほど一見役に立ちそうでいてそのじつ社会的に害にしかならない代物はないと思っています。まあ、電車の中でトラブル起こして刺されるのも電磁波で脳腫瘍を引き起こすのも個人の勝手では在りますが・・・。私としてはつまらんものの開発に手を染めてしまったという後悔だけです。
次の仕事の検討用にソニーのグラストロン(バイザー型のモニター)を購入。これもまたつまらん代物かとは思う。
この弁によるとわたしの悩みは「天下系」のようである(^^;。宮台いわく、成熟社会に適応できない鈍感さを持ち、等身大の人間関係が形成できないやつだという事らしい。なるほどかなり問題の本質をついた明確な弁ではある(^^)。
宮台の前作『終わりなき日常を生きろ』で主張された「まったり」は、本作において刺激志向型「アッパー系」、日常演劇化「エモーション系」、ごく小さなことでも楽しめる「ダウン系」へと分類された。「まったり」のグレードとしては「ダウン系」>「エモーション系」>「アッパー系」だそうである。
しかし「ダウン系」などと言うものは、「悟れ」と言うのと同義語であり、それに至る具体的な手段など見出せるはずもない。中間の「エモーション系」にしても、自覚を持って日常を演技化するなどと云う事は、自殺しろと言っているのに等しい。無意味を自覚しつつ無意味な状態に自己を定義し続けることなど普通の人間にはまず出来まい。「アッパー系」に至っては、宮台の主張する通りドラッグへまっしぐらである。
明確な主張を展開しながら、宮台自身が「まったり」出来ず、「自己のパースペクティブ」を見出せず、若い世代や現行の時代、局所的な場への迎合を見せながらさ迷うさまが見えてしまう。
この本は、解答書のようでいて、実は問題提起しか書かれていない。その意味で「エヴァンゲリオン」や「もののけ姫」と同じです。
それにも増して驚きなのは、この本が社会学の本であり得ることだと思う(本気で誉めてます(^^))。
『鉄道員(ぽっぽや)』(浅田次郎著集英社文庫)を読む。映画は見ていたが小説は未読だった。
この短編集には表題作「鉄道員」以外にも映画化された「ラブレター」が入っている。お買い得な短編集である。
巻末の解説に依ればこの短編集はリトマス試験紙のようだと言う事である。
廃線が決まった駅の駅長に乳児の頃に死んだ娘が成長した姿で現われる「鉄道員」。
書類上だけの偽装結婚した外国人妻から死んだ後に届く「ラブレター」
子供の頃父親に捨てられたトラウマを持つ中年サラリーマンが死んだ父親が会う「角筈にて」
係累の居ない女が夫の実家で舅達から離婚を迫られる窮地に死んだ祖父が現れる「うらぼんえ」
解説者はこの四篇の作品の支持者が、性別、世代、境遇によってくっきりと分かれるという。
私は「角筈にて」派である。作者の実体験がベースになったこの作品は、いろいろと複雑な思いが交錯していて深みがあり、気に入っている。でも単に主人公が中年サラリーマンなんで共感しているだけなのかもしれない(^^;;;
4月2日(日)
国立の桜はもう3分咲き。もうすっかり春です。
フラッシュカードの調子が悪くて、書き掛けの「アズ」の原稿を吹き飛ばす。とても悲しい(T_T)