多摩丘陵・町田市相原の御殿峠古道その3 地図はこちら

鎌倉街道の跡の道を探すということは、あまり人が入らないような雑木林の中を探検することなのです。というよりも、今となってはそのようなところにしか街道跡は残っていないということがいえるわけなのです。
それにしても古道というものに理解がある方々が増えればここの遺構のようにゴミ捨て場になることもないだろうし、もう少し整備され、人が訪れやすくなるのではないかと考えてしまいます。

ただ、あまり整備されすぎて、史跡公園化してしまってもどのようなものかと考えるところが私にはあります。整備されれば良いというのに矛盾するようですが、山林の中に忽然と現れた街道跡に感動して鎌倉街道に惹かれていったものですから・・・。いやどうもこれは私自信の都合の良い勝手な思いこみでした。

上の写真の辺りはゴミが少ないようでした。その辺りは掘割道跡の土手が高くなっていて、現在の峠道からゴミが投げ込みずらくなっているのかも知れません。

左の写真は上の写真の付近の現在の峠道です。掘割道跡の土手が高くなっていると思ったのは間違いで、今の山道が切通し状に深くなっているのでした。

上の写真二つは現在歩かれている峠道のものです。同じ付近を北方面と南方面とで撮影しています。この道の西側に掘割状遺構はまだあるようです。普通は掘割状遺構は台地から低湿地に移行する斜面によく残っているものですが、要するに切通し道の成れの果てがそのような地形として現在に残っているものなので。それに対してここの掘割状遺構は緩い斜面の峠越えのようなところに残っているものです。現在見られる掘割状地形から、道としてはかなり古いもののように感じられます。確証するものは何もないのに素人の私がこのように言うのもなんですが、近世以前からあったもののように思えます。

左の写真のところで現在の峠道が幾分西に曲がっています。そしてここのところで西側にあった掘割状遺構は現在の峠道に吸収されるように終わっているようです。この長い直線の掘割状遺構は、ここまで大凡400メートル位ほども続いていたと思えます。この長い道の遺構がいつ頃から東の山道に移ったのかはわかりませんし、その理由もわかりません。

峠道の西側の掘割状遺構が使われなくなった理由として、この峠越えの古道が、何時しか人通りが少なくなり、やがて掘割道の底が雨水などで泥濘となり歩きずらくなったので一段高い東側に別に道が造られたと、まあこんな具合に素人の私は考えたりしています。
左の写真は掘割状遺構が終わったところから少し北へ進んだ付近で、この辺りは痩せ尾根状の道のようです。

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