新・山の雑記帳 12

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 1.最 新 の 雑 記 帳
 中2日で連続登頂の滝子山  2021.5 記

 大満足の中倉山  2021.5 記

 2年3ヶ月ぶりの権現山  2021.4 記

 低山ながら充実の仏果山・経ヶ岳・華厳山  2021.4 記

 お茶濁し  2020.6 記

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中2日で連続登頂の滝子山  2021.5 記

4月15日の中倉山に続いて、4月23日(金)、南大菩薩の滝子山に登ってきた。
先日の権現山・扇山・百蔵山登山の際に見た滝子山の姿がなかなか見事だったためなのだが、加えて、近年人気の寂敞(じゃくしょう)尾根を登るコースに興味をそそられたことも大きな理由となっている。

ところがである、これまで登山において数多くの失敗を経験してきているものの、今回の滝子山では未だかつてない大失敗をしてしまったのであった。 寂敞尾根を登って滝子山の頂上を踏んだ後、大谷ヶ丸へと縦走している途中、カメラのシャッターが切れなくなる現象が生じたのだが、その対応を間違えてしまい、 それまでの 4時間20分ほどの画像データを一瞬でパーにしてしまったのである。

小生のカメラには 2つの SDカードスロットがあり、第一スロットの SDカードが一杯になったら、 自動的に第二スロットの SDカードに記録されるよう設定しているのだが、シャッターが切れなくなったのは、その移行ができなくなってしまったからのようである。
当然、この時、液晶モニターに警告が出ていたのであるが、それをよく読みもせず、さらには疲れて頭が回らなくなっていたのであろう、第二スロットの SDカードに問題があると勝手に思い込み、 第二スロットの SDカードをフォーマットし直してしまったのである。

ところが、実際は どういう訳か、第二スロットの SDカードの方から記録が保存されるようになっていたのであり、 その第二スロットの SDカードが一杯になったため、シャッターが切れなくなってしまったのであった (第二スロットから記録を行った場合、容量が丸々残っている第一スロットの SDカードへの自動切り替えは行われない)。
それを、警告内容を見もせず、さらには SDカードの使われ方も確認せずに、ただ思い込みで第二スロットの SDカードをフォーマットしてしまったため、 ここまでの登山記録を一瞬でパーにしてしまったという次第である。

すぐに過ちに気づいたものの、もう後の祭り。自分の愚かさを罵るとともに、後悔することしきりであるが、データが元に戻るはずもなく、 空しい思いで大谷ヶ丸を経て下山したのであった。
加えて、大谷ヶ丸の山頂付近で富士山と白根三山を見ることはできたものの、後は展望のほとんど無い単調な道ばかりであったため、気落ちしていることも加わって、 大谷ヶ丸からは本当に辛い道のりであった。

とは言え、画像はなくとも一応 滝子山には登ったので、簡単に登山記録をアップして終わりにしようとも思ったのだが、 寂敞尾根で見た富士山や南アルプスのことを思い出すと悔しさが募り登山記録を書く気になれない。
そして、どうしようかと散々悩んだあげく、もう一度同じルートを辿ることが一番良かろうという結論に達したのであった。
心配は、同様の天候に恵まれ、同様の景色に出会えるかということであるが、幸い弥の明後日 (やのあさって) となる月曜日も天気が良さそうなので、早速出かけることにする。

4月26日(月)、5時半に横浜の自宅を出発する。
横浜ICより東名高速道下り線に乗り、海老名JCTからは圏央道へと入って、さらに八王子JCTから中央自動車道に入る。
この日も快晴で、高速道を進む途中、富士山を見てテンションが上がる。

大月ICで高速道を下り、国道20号線に入って笹子方面へと進む。
大月ICから10分程進むと、大鹿川を渡ったところで右手にアスファルト(瀝青)生成工場が見えてくるので、その先にて右折する。
すぐに JR中央本線のガード下を潜った後、その先で道が 2つに分かれるので、右側の道に入る。
暫く坂道を緩やかに昇っていくと、やがて右手に中央自動車道が平行に走るようになり、坂道を昇りきったところで右折して中央自動車道を橋にて越える。 後は道なりに昇っていけば、すぐに出発地点となる桜森林公園のゲートが見えてくる。

ゲート手前の駐車スペースが空いていたので、そこに車を駐める。時刻は 6時48分。
なお、ここが塞がっている場合は、ゲートを開けて中に入れば、空きスペースがいくつかある。
車内で朝食をとった後、身支度を調えて、6時55分に出発する。前回は 7時15分出発だったので、20分程早い。

まずは、ゲートを開けて公園内に入り、舗装道を緩やかに昇っていく。
大鹿川を渡り、さらに進んでいくと、これまでのアスファルト道が少し狭いコンクリート道に切り替わるところで、右手に寂敞尾根へのルートが現れる。時刻は 7時丁度。
ここには 『寂しょう尾根 危険! 注意!』 と書かれた大月警察署と大月市による注意書きが立っている。
3日前はこの注意書きを見て少し緊張したが、1回登っているので、今回は 『油断は禁物』 ということだと解釈する。

林道のような道を緩やかに登っていくと、2回ほどカーブした先に建物が現れる。時刻は 7時4分。
右手の建物には 『寂敞苑』 と書かれた立派な表札が架かっており、左手の建物には 『梁山泊 (漢字だったと思う)』 と書かれた建物もあったので、 かつてはここを登山基地として山を楽しんだ方々がおられたのであろう。
しかし、今やこれらの建物は廃屋への道を進んでいるような状態である。

この寂敞苑の先から足下は山道に変わり、やがてスギやヒノキの植林帯の中を進むようになる。
傾斜が緩やかな道が暫く続くが、右に大きく曲がって斜面を登り始めると、傾斜がかなりキツくなる。
息が上がってくるが、その急登も然程長くは続かず、樹林を抜けて朝日が当たって明るい場所に登り着くと、そこには送電線の鉄塔が立っていた。時刻は 7時18分。

鉄塔の下を潜り、土手のような尾根を緩やかに登っていく。左手を見れば形の良い山が見えるが、方角的にはお坊山東峰であろうか。
道は緩やかな登り、あるいは平らな道が続く。一旦下りに入った後、砂礫の斜面を登り始めると、斜面の先 右手にガードレールが見えてくる。市営林道大鹿線に到着である。時刻は 7時28分。

これより先の登山道は、すぐ右に見える林道法面の切れ目のところから始まる。法面の縁に沿って斜めに登って山に取り付く。
最初はお助けロープまで設置されている急斜面だが、すぐに緩やかな道に変わり、下草のほとんどない斜面を登っていく。
5分程で、陽の当たる明るい尾根に登り着き、そこからはほとんど平らといっても良い緩やかな上り勾配の道が続く。

この尾根は土手のような形状で陽が当たって明るく、新緑が鮮やかで気持ちが良い。
途中、小さな岩が時々現れるが、まだこの尾根の核心部ではなく、全く普通に登っていくことができる。
少し傾斜が出たと思ったら、それを過ぎるとまた穏やかな道が続く。本日は快晴、前回とほぼ同じコンディションなのが嬉しい。

そして、前回経験しているので、もうそろそろかな と思いながら振り返れば、案の定、 樹林の先に見える山の間から富士山の真っ白な頂上部分が顔を出している。
富士山を挟んでいる山は右が三ツ峠山、そして左は三ツ峠山の手前にある鶴ヶ鳥屋山 (つるがとやさん) である。
前回と同じ状況の富士山を見ることができたことでテンションが上がる。

道はこれまでと同様、少し高度を上げてはまた緩やかな道が続くというパターンの繰り返しである。
やがて、前方に滝子山を中心として東西に伸びていると思われる尾根が少しずつ姿を見せ始める。
土手のような形状をした平らな道が続く。ミツバツツジであろうか、周辺には紫色の花を咲かせた木々を多く見ることができる。
展望の方は樹林が邪魔をしてあまり得られないが、不意に樹林の間から笊ヶ岳と布引山が見える。
この先、南アルプスがよく見える場所があることを 3日前に確認済みなので、南アルプス方面もよく見えるであろうと楽しみが増す。

振り返れば、富士山が六合目付近より上の姿を見せており、その右手前に三ツ峠山、御巣鷹山が見え、 そのさらに手前を右の本社ヶ丸から左の鶴ヶ鳥屋山へと続く尾根が横切っているのが確認できる。
さらには、少し急斜面を登ると、左手樹林越しに北岳と間ノ岳が見えるようになる。

ミツバツツジが多く見られる中、かなり細い尾根道を通り過ぎると、その先から傾斜がやや急になり始める。
周囲には比較的大きな岩も見られるようになり、『鳥獣保護区』 の標識を過ぎた先からは岩場の道が始まる。
いよいよ寂敞尾根の核心部である。見上げれば、細い尾根に岩が積み重なるように並んでおり、岩の所々に赤ペンキの矢印が見えている。

さすがにこの先、三点支持は必須なので、手にしていたダブルストックをザックに括り付けたが、前回は括り付けたストックが木に引っかかり、 気がついたらストックのラバーキャップがなくなっていたのであった。

さて、この岩場であるが、山慣れた者には至って簡単なレベルで、登っていく楽しさの方が大きいと思われる。
とは言うものの、油断は禁物、バランスを崩せば、左右の斜面を転げ落ちる可能性もあるので、侮ってはいけない。
また、初心者は三点支持の基本技術を必ずマスターしておく必要がある。

最初の岩場は 5分程で通過し、一旦は土の斜面を登る。
今度は左手に赤石岳と聖岳が確認できるようになる。振り返れば、富士山もかなりせり上がってきており、左側の斜面がかなり下方まで見えている。
暫く緩やかな登りの土の道が続いた後、足下に岩が多くなるが、ここは難なく通り過ぎることができる。
左手には先ほどの聖岳、赤石岳に加え、悪沢岳の姿も確認できるようになる。

足下は再び岩場に変わり、途中には鎖場も現れるが、ここの鎖はよじ登るためのものではなく、 左側に落ちてしまわないように安全確保のためのものである。
この鎖場を過ぎて少し登ると、今までほとんど見ることができなかった右側(南東)の展望を得ることができるようになる。
下方手前には九鬼山と高川山が見え、九鬼山の後方には道志山塊が並び、そのさらに後方には大室山が大きい。大室山の右後方には檜洞丸、そして左後方には蛭ヶ岳が確認できる。
一方、左手を見れば、悪沢岳、赤石岳が見えるが、樹林に囲まれているため見える範囲は狭い。

一旦、足下は土の道へと変わるが、すぐに岩場の登りが現れる。
今までよりも難易度は低いものの、一箇所だけバランスを崩したら右下の斜面に落ちてしまうことが必至な場所があるので要注意である。
その岩場を抜け、岩と土の混じり合った斜面を登り、最後に大きな一枚岩の斜面を登り切ると、左側(西側)の展望が一気に開ける。
左手の青薙山から始まり、布引山、笊ヶ岳、聖岳 (少し雲がかかっている)、赤石岳、小赤石岳、悪沢岳、蝙蝠岳、塩見岳、農鳥岳までの山々がよく見え、 富士山もスッキリとした姿を見せてくれている。時刻は 9時16分。

この展望地から先も岩が足下に現れるが、既に核心部は終えており、難なく歩くことができる。
その後、小さなピークを乗り越える際、滝子山らしき山がハッキリと見通せるようになる。
一旦下った後、登り返して石畳のようになった岩場を進んでいくと、再び展望が大きく開ける。
先ほど見えた南アルプス南部の山に加え、目の前の浜立山の右手後方に間ノ岳の一部、そして北岳、鳳凰三山が見えている。
続いて、さらに岩場を通過するが、ここも全く通過に問題ない。振り返れば、富士山がさらにせり上がってきており、今や右側の斜面も見えるようになっていて、 下方に三ツ峠山、御巣鷹山を抱え込む格好となっている。

小さなアップダウンを繰り返した後、南側の斜面を横切る道が続く。ここからも富士山がよく見える。
やがて、足下は少し滑りやすい落葉と土の道に変わり、見上げれば稜線が近いことが感じられる。
そして、すぐに落葉の多い斜面の先に赤と白で彩られた標識が確認できるようになる。滝子山と浜立山を結ぶ稜線に到着である。
時刻は 9時39分。
滝子山へは右へと進む。前方に高みが見えているが、これは滝子山本峰ではない。前回はこの高みが滝子山頂上と思い、登り着いてガッカリしたのであったが、今回は冷静に進む。
なお、滝子山は 3つのピークからなり、本峰はこの目の前の高みの先にあり、さらにその先に三角点のあるピークがある。

一旦大きく下った後、その高みに取り付く。途中、右手に富士山がよく見える。
小さな幅のジグザグを繰り返しながら高度を上げていく。無論、土の道であるが、所々に岩があって、少し砂礫が混ざっている。
さらには、少し崩れかけた岩場もあり、雨などが降った時は滑りやすいので要注意である。

途中、道が少し西側を巻くようになると、南アルプスの展望が一気に開ける。
先ほどまで浜立山に隠れ気味であった間ノ岳、農鳥岳などの山々も含め、ここでは全く遮るもの無く見ることができる。
雲に隠れ気味だった聖岳もハッキリと見えており、また嬉しいことに先ほどまで見えなかったアサヨ峰、甲斐駒ヶ岳まで見ることができたのであった。
実は、前回、この直登の道は通らず、途中から左へと巻いてしまい、一応 本峰手前の高みには登り着いたものの、このような南アルプスのほぼ全貌を見落としてしまったので、これは嬉しい。

9時54分、本峰手前の高みに到着。富士山が雲一つ無い空をバックによく見える。
また目の前には本峰が見えており、もう少しである。道は一旦下り、すぐに本峰への登りに入る。
この道も、少し荒れ気味な印象であるが、一冬越した後なので仕方ないのかもしれない。これから多くの登山者が通れば、もう少ししっかりとすることであろう。
最後の登りは短く、鞍部から 5分弱で頂上の一角に辿り着く。嬉しいことに今回も頂上には誰もいない。時刻は 10時丁度。
頂上は東西に細長く、東側にはやや斜めに傾いた山梨百名山の標柱、そしてほぼ中央南側に 『秀麗富嶽十二景 四番山頂』 の標柱が立っている。 ただ、ここからの富士山は確かに秀麗ではあるものの、右下手前の三ツ峠山・御巣鷹山が少々邪魔である。

この頂上からの展望は抜群で、富士山の左斜面が下った先には杓子山、鹿留山が大きく、 その左にはこの 2つの山と大きさを競うように御正体山が大きい。そして杓子山と御正体山の間の後方には箱根の神山がうっすらと見えている。
御正体山のさらに左には丹沢の山、そして道志の山が平行した形で現れる。目を引くのは、道志の山では今倉山であり、丹沢の山では菰釣山、檜洞丸、大室山、蛭ヶ岳といったところである。

富士山の右側に目を向ければ、富士山の右側斜面下方に三ツ峠山、御巣鷹山が見え、その前方に鶴ヶ鳥屋山から本社ヶ丸へと続く尾根が走っている。
本社ヶ丸の右後方には清八山、さらに右に御坂山、御坂黒岳が続いており、御坂黒岳の右には鬼ヶ岳、節刀ヶ岳が見えている。
また、御坂黒岳と鬼ヶ岳を結ぶ稜線の後方には毛無山がうっすらと見え、御坂黒岳から右手前に延びる尾根の先にはピラミッド型をした釈迦ヶ岳が見えている。
その釈迦ヶ岳の右後方からは南アルプスが始まり、青薙山、布引山、笊ヶ岳、聖岳、赤石岳、小赤石岳までは見えるのだが、その先は滝子山の樹林に隠れてしまう。

その樹林を過ぎてさらに右に目をやると、今度は八ヶ岳連峰が目に入る。左から編笠山、権現岳、阿弥陀岳、赤岳、横岳、硫黄岳、天狗岳が確認でき、 その八ヶ岳連峰の右には金峰山、朝日岳、北奥千丈岳、国師岳、黒金山が続く (必ずしも尾根続きではない)。
黒金山の右後方には東梓、富士見、水師といった山々が連なり、さらに甲武信ヶ岳、木賊山が続く。
この稜線は、すぐ手前に見えている大谷ヶ丸、ハマイバ丸、白谷ヶ丸、黒岳といった南大菩薩の山々に隠されてしまうが、大谷ヶ丸の右後方には木賊山からの続きである雁坂嶺、水晶山のみ見えている。

黒岳の右には黒岳と肩を並べるようにして雁ヶ腹摺山が存在感を示しており、この 2つを結ぶ稜線の後方には雲取山も確認できる。
雁ヶ腹摺山の右斜面後方には鷹ノ巣山が確認でき、さらに右には川苔山も見えている。
さらに目を右に向けると、三頭山、大岳山、そしてさらには先日登った権現山も見え、少し間を空けて南東には丹沢山塊が並んでいる。

前回に勝るとも劣らぬ素晴らしい景色に大満足し、満たされた気分で食事をした後、10時19分に下山する。
登ってきた方角とは反対の東側へと下る。少しザレた斜面を慎重に下り、大谷ヶ丸方面への分岐には 10時22分に到着。
すぐには大谷ヶ丸方面には下らずに、三角点を踏むべくまっすぐ進んで初狩駅方面を目指す。

小さなマウンドを 2つ程越せばすぐに二等三角点で、三角点を踏んですぐに引き返す。時刻は 10時24分。
なお、前回の中倉山でもそうであったが、国土地理院の電子国土基本図では、滝子山に関してこの三角点の高さ 1,590.3mの表記しかないため、 滝子山の実際の高さ (1,620m) とは 30m程違っている。この問題はやはり解決されるべきであろう。

大谷ヶ丸方面への分岐まで戻り、右に道をとって下りに入る。時刻は 10時25分。
先ほどまでの登りの道に比べて、道は格段に踏まれている。こちらを通る人の数がかなり多いことの証左である。
緩やかに下って行くと、やがて下方に祠が見えてくる。白縫神社である。時刻は 10時30分。
祠の傍らには小さな鎮西ヶ池がある。ここは源為朝 (鎮西八郎為朝) の妻である白縫姫と 2人の間の子供である為若丸が追っ手から逃れるためここに小屋を建てて隠れ住んだとの伝説が残っているようである。
1998年にこの山に登った時の写真を見ると、木の鳥居があり、また賽銭箱もしっかり置かれていたが、今や賽銭箱は封印されてしまっており、鳥居は残っていない。 ただ、鎮西ヶ池は当時とあまり変わっておらず、細々ながらも水が湧き出ているようである。

白縫神社を過ぎ、さらに緩やかに下っていくと、やがて笹子駅方面と大谷ヶ丸方面との分岐に出る。時刻は 10時34分。
前回はここから大谷ヶ丸を目指したのであるが、途中で画像データをパーにしてしまったショックもあり、また道自体も単調で、面白味がなく、ただただ苦行に感じたことから、 今回は笹子駅方面に進んで下山モードに入る。

左へと進んで防火帯と思しき草と土の広い斜面を下る。すぐに先の方に八ヶ岳が見え、それに続いて金峰山、朝日岳、国師ヶ岳、そして黒金山が見えてくる。 さらには八ヶ岳の左に金ヶ岳、茅ヶ岳も確認でき、気持ちの良い下り斜面である。
また、前方右手には大谷ヶ丸がなかなか美しいピラミッド型を見せてくれているが、かなり高く見えることに驚くとともに、よくもまあ前回あそこまで登ったものだと感心する。

道は緩やかに下りながら徐々に左へとカーブしていく。
やがて、防火帯も終わりとなって樹林帯に入ると、暫くはほぼ平らな道が続く。
その後、緩やかに下りに入れば、道は大きく右にカーブした後、今度は山襞に沿って左に大きく回り込むようになる。
この辺は谷底に近いのであろう、右下に川底が白い すみ沢の流れが見えてくる。川底が白いのは、恐らく風化した花崗岩が川に流れ込んでいるものと思われるが、

暫くは水の流れに沿って進む。道は緩やか、大変歩きやすい。大谷ヶ丸経由で下った前回とは違って、こちらの方が断然気持ちが良い。
丸木橋にて対岸に渡り、右岸を進む。徐々に川との高低差が出始めるが、道の方は平らのままで、川の方が谷を抉っている状態である。
順調に進んでいくと、やがて小さな支流を渡った先で道が二手に分かれる。時刻は 11時11分。
直進は 『迂回路』 とあるが、見たところ一般的な登山道で、左に下る道は標識に 『難路』 と書かれている。ここは躊躇なく左手の難路を選択したが、すぐ先で倒木に道が塞がれてしまい、 一旦 右に登って迂回路側へと戻ってからその先で再度下る。

この道は すみ沢の流れに沿っていくもので、景色はなかなかのものである。
ただ、難路というだけあって、途中、斜面が崩れて登山道が崩れかけているようなところが多々見られる。
また、倒木が道を塞いでいるところもあり、楽しい道ではあるが、少し注意が必要である。
一方で、左下を流れる すみ沢はなかなか美しく、ナメ滝を含む小さな滝群が目を楽しませてくれる。
そして、嬉しいことに、先の山間(やまあい)に時々富士山が姿を見せてくれる。

やがて、大鹿山からの道 (というより大谷ヶ丸方面からの下り) との合流点に到着。時刻は、11時31分。
3日前は、大谷ヶ丸、コンドウ丸を経て、曲り沢峠からここへと下ってきたのであった。
なお、先ほどの迂回路の方は、ここから大鹿山方面にかなり進んだところで合流している。

左に道をとって、落葉に覆われた道を下る。すぐに道はスギやヒノキの樹植林帯に入る。
木橋にて左岸に渡った後、一旦自然林に戻るが、すぐにまた植林帯の中を進む。
やや荒れ気味の小さな谷を経て、再び橋を渡って右岸に至る。そして、そこから一登りすれば、道証(みちあかし)地蔵が立つ県営林道大蔵沢大鹿線との合流点であった。時刻は 12時5分。
後は道なりに左に下っていけば、桜森林公園のゲートである。

途中、市営林道大鹿線の分岐を 12時14分に過ぎ、さらに 12時18分に田通乃姥神を通過する。
この田通乃姥神は石の棒であるが、赤い頭巾、赤い前掛をしているので、お地蔵様ということなのであろう。
さらに林道を下っていくと、ここまでのアスファルト道がコンクリート ? 道に変わって少し細くなる。
ということは、今朝ほどの寂敞苑への入口も近いということである。
その寂敞苑への入口を 12時23分に通過、そしてゲートを潜り、駐車スペースには 12時27分に戻り着いたのであった。

本日は、中2日での滝子山寂敞尾根連登であったが、ほぼ同じコンディションの下で登ることができ、 3日前に失った画像とほぼ同じ画像を得ることができ大満足であった。
それにしても、寂敞尾根は気持ちの良い、楽しいコースであった。
道もハッキリしており、岩場の通過さえ慎重にこなせば、間違いなく面白いコースである。
もっと早くチャレンジしなかったことを後悔した次第である。


大満足の中倉山  2021.5 記

コロナ禍によって家にいることが多くなると、どうも時間の観念がぼやけてしまい、気がついたらもう 4月である。
考えれば、この時期、長い間のブランクを考慮して低山中心に登っている我が身にとっては、暑すぎず、寒すぎずで、登山のベストシーズンということになる訳で、 もっと山へ行くべき季節なのである。
そこで、久々にヤマレコなどを覗いて行き先をいろいろ検討したところ、足尾山地の中倉山に俄然興味を惹かれる。

この中倉山は、前述のとおり栃木県日光市足尾町に位置しているのだが、足尾といえば足尾銅山を連想し、さらには銅山による公害被害、 山林荒廃を思い浮かべる方も多いことであろう。
荒廃要因としては、『銅精錬行程において発生する亜硫酸ガスの煙害』、そして『坑木、製錬の燃料にするための木の大量伐採・乱獲』、『山火事』 などが上げられるのだが、 中倉山はまさにこの山林荒廃のまっただ中にあった山なのである。

加えて、この地域は古生代にできた地層と酸性火成岩類によって形成されていて、至る所に断層が入り乱れており、 風化が進みやすいという特徴があることから、荒廃が加速されてきたとのことである。
40数年前に栃木県小山市にいた頃、足尾の町をドライブして岩肌がむき出しになった山々にビックリしたことがある。
しかし、近年、緑化に積極的に取り組んだお陰で、徐々に足尾の緑も蘇りつつあるようで、その状況も見たいところである。

また、登山の観点から言えば、この中倉山は昭文社の 『山と高原地図 日光』(2009年) に山名の記載はあるものの、 そこに至る登山道は書かれていないので (最新版の状況は不明)、少々登るのが躊躇われる。
しかし、今や中倉山のシンボルともなっている 『孤高のブナ』 を求めて多くの登山者が訪れていて登山道は明瞭のようなので、登ってみようという気持ちが強くなったのであった。

4月15日(木)、まだ暗い中、4時半過ぎに横浜の自宅を出発する。
横浜ICから東名高速道上り線に乗り、用賀にて首都高速3号渋谷線に連結した後、大橋JCTから首都高速中央環状線に入る。
その後、江北JCTにて首都高速川口線に至り、そのまま川口JCTから東北自動車道へと進む。
久々の首都高速道で緊張したが、東北自動車道に入ってホッと一息である。

しかし、ここからが長く単調である。天気は上々、さらに途中から日光連山が見えてくるものの、あまりに長いのでため息が出る。
それでも何とか行程を消化し、宇都宮ICから日光宇都宮道路に入る。
篠井ICを過ぎた頃から前方に男体山、大真名子山、小真名子山、女峰山が見えてきてテンションが上がる。
ただ、男体山は上方が雲に覆われているのが気になるところである。

日光宇都宮道路を終点の清滝ICで下り、そのまま国道120号線に入る。
続いて、細尾大谷橋の交差点を左折して、国道122号線へと進み、山の中へと入っていく。
山を越え、20分程で田元の交差点に至るので、そこを右折する。この道 (県道250号線) は 『 銅 (あかがね) 街道』 と呼ばれており、その名の通り、 足尾銅山でとれた銅を運んだ道である (但し、銅街道の起点は通洞駅前付近と書かれている本もある)。

わたらせ渓谷鐵道の高架橋を潜り、やや淋しい感じのする間藤の町並みを抜けていく。
町並みが終わると道が急に広くなり、やがて左手に 『銅親水 (あかがねしんすい) 公園』 への下り口が見えてくる。
なお、道路はそのまま先へと続いているが、すぐに一般車進入禁止となる。
公園の駐車場には 7時11分に到着、既に 5台ほど車が駐まっている。

車内で朝食をとり、身支度を調えて 7時20分に出発。
見上げれば、足尾ダムの後方にピラミッド型の山があり、そのさらに後方に岩肌がむき出しになった山が見える。
実はこの山が目指す中倉山で、手前のピラミッド型の山は横場山というらしい (無論、この時は知らなかった)。
駐車場から坂を昇って先ほどの車道へと戻り、車道をさらに先へと進む。すぐにゲートが現れ、ここからは工事専用車両のみ通行が許されることになる。
ゲートを越えると、すぐに道が 2つに分かれるが、先ほどのゲート脇にあった地図によれば、右の未舗装道は阿世潟峠へと至るようであり (阿世潟峠を越えれば中禅寺湖、 峠から左に尾根を進めば社山に至る)、中倉山は左の舗装道を進む。

続いて、鉄板が敷かれた橋にて久蔵川の流れを渡る。正面奥には中倉山が見えている (実際は、中倉山とは知らなかった)。
その後方には雲一つ無い青空が広がっており、テンションが上がる。
また、正面手前の山の斜面には等高線状に木柵が設置されている。これは山腹緑化の一方法で、山腹表面の土砂の動きを止めるとともに、木柵間に植樹を行うものである。
やがて道は河原へと下りて、松木川に架かる橋を渡るが、その手前で道がまた 2つに分かれる。厳密には、2回分岐が現れるのだが、どちらも左の道を選べば良い。 右の道は松木川に沿って松木渓谷へと至る道である。

橋を渡る際、右手を見ると、川の流れの先に大きな山が見える。日光の大平山かもしれない。
沢を渡った先で道は左にカーブするが、右手奥には建物が見える。実は、ここまで 2台の車に追い抜かれているのだが (1台は大型ダンプ)、皆そちらの建物の方へ進んでいるようで、 この後 車に追い抜かれることはなかった。
導水管の下を潜り、林道は仁田元川に沿って進む。足下には砂利道とコンクリート道が交互に現れる。
最初はあまり傾斜がなかった林道も少しずつ上り勾配となる。また、前方に山が見えてくるが、この辺の山は名前が全く分からない。

とは言え、井戸沢下流ダムの手前になると、先ほど最初の久蔵川を渡る時に見えた山が上方に見えてくる。
その位置、そして斜面のいたる所にガレ場が見られることから考えると、目指す中倉山ではないかと思う (実際そうであった)。
井戸沢下流ダムの上部にて小さな流れを渡り、ヘアピンカーブに至る前にショートカットを見つけて進む。
上り勾配であった林道は一旦平らになり、前方に形の良い山が見えてくるが無論名前は分からない。

林道は再び緩やかな上り勾配となり、やがて右手に法面が現れたかと思うと、そこから 5分程で林道右脇に 中倉山の登山口が現れる。
時刻は 8時12分。『 中倉山 』 と書かれた手製の標識がありがたい。
まだ全く芽吹いていない樹林帯へと入る。最初は緩やかな登りであったが、斜面をジグザグに登り始めると、傾斜が増してくる。
途中、登山道脇にロープが張られていたものの、これはお助けロープではなく、登山道を勝手に逸脱しないようにするための柵の代わりと思われる。 道は明瞭、足下に岩屑が見られるが、しっかり整備されている。
しかし、足が進むので楽勝かと思っていたら、とんでもなかった。周囲に岩が多く現れる頃から、急登が始まる。

さらには、岩が多い場所を抜けると土の滑りやすい斜面が続くようになる。ただでさえ滑りやすいのだから、雨の翌日などは大変である。
周囲に木々は多く見られるものの、全く芽吹いておらず、木の屍の中を登っているようである。
緑色は岩に生えている苔類のみで、下草もほとんど見られない、土と岩屑と落ち葉の混ざった斜面を登る。

一応ジグザグに道はつけられているのだが、それでも結構辛い。展望は全く得られず、救いは斜面の先に見えている青空だけである。
ただ、普通、斜面の先に青空が見えれば、終わりが近いはずであるが、もうそろそろかなと思うと、道はそこを逸れて右へと進むなど、終わりがなかなかやってこない。

標識は全くなく、テープもほとんど無い状態であるが、足下が明瞭なので迷うことなく登っていくことができる。
そんな中、登山道脇の三角形の平たい岩に、金釘でひっかいたような字で 『 55分 』 と書かれていた。ここから頂上まで 55分という意味だと判断すると、今は 8時51分なので、 頂上到着は 9時46分ということになるが、さて、どうであろうか。
足下に下草がほとんど見られない登りが続く中、やがて周囲に冬枯れ状態の草が見られるようになる。
傾斜も少し緩み始め、上方の青空も近づいてきているようである。

後方を振り返ると、樹林が切れて双耳峰の山が見える。恐らく備前楯山であろう。 この備前楯山は足尾銅山発見の地なのである。
1610年、2人の農夫がこの山で銅鉱を発見し、その後、江戸幕府直轄の鉱山として本格的に採掘が開始されたとのことで、 山の名は発見者の功績を称え、2人の出身地である 備前の名を取って付けられたとされている (『 楯 』 は銅鉱脈の露頭のこと)。

山の展望が得られたことで少し元気をもらう。上を見上げれば、稜線がかなり近くなってきており、もう少しである。
そして、9時7分、長い登りも漸く終わりとなり、稜線に登り着く。
と、思ったらそんなに甘くはなく、ここは支尾根であり、ここからも尾根の登りが続いていたのである。

しかし、傾斜はかなり緩やかなようであり、さらには展望が少し開けたのが嬉しい。
樹林越しではあるが、草付きの斜面、そしてその先に台形の山が見える。山名は分からないが、中倉山ではないようだ (中倉山の西方に位置するオロ山で、その先は庚申山へと続く)。
さらには、その右手前にピラミッド型の山も見えているが、こちらも名前が分からない。

疲れが出始めているが、そのまま休まず先へと進む。道は右に曲がり、支尾根を登っていく。
傾斜が緩やかなのがありがたいと思ったら、すぐに傾斜が増してくる。しかし、それも長くは続かず、また緩やかな登りとなる。
このまま中倉山に至るものだと思っていたところ、尾根は一旦ピークに至った後、下りに入り、その先に本峰が待っていた。
鞍部に下ると、左手に先ほどのピラミッド型の山がよく見えるようになる。そして、さらにその左後方にも別の山の頂上部が見えている。
この時は知らなかったのだが、手前のピラミッド型の山は、俗称 『 波平ピーク 』 で、その左後方の山が沢入(そうり)山である。
さらにはそれらの山の左後方に先ほど見えたオロ山も見えてくる。

道はいよいよ本峰への登りに入る。ここで道が 2つに分かれる。直進と左に曲がる道である。
事前に良く調べておけば、直進の道はローソク岩の近くを通り、中倉山の稜線が銅親水公園方面に下る縁に到達して展望を得られることが分かったのであるが、 そうとは知らず、さらには疲れていたためであろう、左に曲がる傾斜が楽そうな道を選んでしまう。
左に進み、斜面を斜め上に登っていくと、急に開けた場所に飛び出す。少し下方には岩場もあり、そこまで行って休憩する。
時刻は 9時36分。

この岩場からの展望は素晴らしく、波平ピーク、沢入山、オロ山へと続く稜線が見え (無論、この時は山名を知らない)、 オロ山の左後方には庚申山と思しき山もチラリと見えている。
そして、庚申山の左側を隠している手前の山の左斜面後方からは袈裟丸連峰も顔を出している。
その袈裟丸連峰が左に下っていくそのさらに左側に、何と富士山が確認できたのであった。春霞がかかったような状態の中、白い固まりがボーと浮かんでいるような感じではあるものの、 思いがけず見えた富士山にテンションが上がる。

9時41分に出発。ここでも道は 2つに分かれ、一つは斜面を登っていく道、もう一つは左にほぼ水平に続く道である。
さすがに、ここでは登りを避ける訳には行かず、斜面を登る。傾斜は割と緩やか、富士山を見ることができたお陰か、足が進む。
そして、9時47分、ついに稜線に飛び出す。
まず目に飛び込んでくるのが男体山である。残念ながら、手前の社山によって半分以上姿を隠されてはいるものの、頂上部分はしっかりと見えている。 社山の右には半月山も見えており、また社山の左には大平山が大きい。
なお、この尾根道は右にも続いていたので、先ほどの最初の分岐で右に道をとらなかったことを反省する。

道を左にとって尾根上を進む。緩やかに登っていくと、やがて左側に三等三角点が現れる。標高は 1499.6m。
ただ、ここは頂上ではなく、山頂はさらに先である。
周囲は灌木帯になっており、進むに連れて展望もドンドン開けてくる。前方右手、大平山の斜面が左に下る後方に稜線が見え、そのさらに後方にまだ雪を抱いている山が見える。 その山頂の形、また方角から錫ヶ岳と思われる。
ということは、錫ヶ岳の手前を横切る尾根はシゲト山から三俣山へと繋がる尾根であろう。
そして、左を見れば、ここからも富士山が確認できたのであった。

楽しい、尾根歩きが続く。やがて、周囲の灌木もなくなり、草の斜面が続くようになって、小さなマウンドを登り切ると、 前方にケルンの中に立つ十字架のような 中倉山の標識が見えてくる。
中倉山到着は 9時58分。先ほどの石に刻まれていた 『 55分 』 よりも 12分程時間がかかってしまったが、途中、写真を撮りまくり、休憩もしたので、まあまあであろう。 また、嬉しいことに頂上には誰もいない。

頂上の岩に腰掛けて軽く食事をした後、周囲にカメラを向ける。
まず、この中倉山の尾根の続きであるが、先ほど見えたピラミッド型の高みが見え、その左後方にも山がチラリと見えている。
ということで、ピラミッド型の高みは波平ピークで、その左後方の頂上部分が見えている山が沢入山であると知る。
そして沢入山から続く尾根は、気持ちの良さそうな草の斜面を経て台形の山へと続いており、その尾根の後方に皇海山が顔を出している。さらに、台形の山の左後方には庚申山が見えている。 ということは、台形の山はオロ山 (地図に名前の記載はない) ということになる。

庚申山の左手前に見える山 (名前は分からない) の左斜面後方には、後袈裟丸山、前袈裟丸山、そして小丸山が見えている。
袈裟丸連峰の左手後方には富士山も確認できるが、最早 ほとんど空の色にその存在を隠しつつある。
富士山の左側にも多くの山々が見られるものの、知識が無いため全く同定できない。
ただ、備前楯山はすぐ手前に見えており、その左後方に地蔵岳 (鹿沼市粕尾峠の近く) が見えている。
その後も見知らぬ山々が続くが、北東の方向にまで回ってくると、半月山が確認でき、その左に社山、大平山が続く。
男体山は社山の後方であるが、男体山の右斜面には雲が忍び寄ってきている。

山ばかりに目が行っていたので、少し中倉山の北側下方を覗き込んでみる。
下方には、この中倉山とその反対側の山との間に狭い谷底平野ができており、そこに松木渓谷に続くと思われる林道が走っている。
また、林道周辺には建物がパラパラと確認できるが、治山工事の現場事務所なのかもしれない。
凄まじいのは、谷底平野後方の斜面である。黒砂の斜面のように見え、さらにはそれが今にも崩れ落ちそうな急角度なのである。
しかし、帰宅後調べると、見えたのは旧松木村の跡地付近らしく、黒砂に見えたのはどうやら銅製錬過程にて排出されたスラグ (廃鉱石) で、 旧松木村はそのスラグの捨て場になっていたらしいのである (煙害により住民が立ち退いた跡地がスラグ捨て場となった)。
緑が徐々に回復しつつある足尾地区において、この地域が緑化への最後の難関であろう。

10時7分に出発、先へと進んで沢入山を目指す。
最初は草地の緩やかな尾根の下りが続く。この辺には木が生えていないが、これも煙害+木の乱獲+山火事のためなのであろうか。
緩やかに下って行くと、斜面には草に加えて岩屑と土が混ざるようになり、下り着いた鞍部には噂の 『孤高のブナ』 が立っていた。
時刻は 10時15分。
『孤高のブナ』 と言うが、確かに稜線上に立っているのはこの木だけで、他は左側斜面の 10m程下方にしか生えていない。
右側は急斜面の後、岩がむき出しになった断崖である。風が吹き抜ける稜線上に立つその姿が、皆の共感を呼ぶのも分かる気がする。

ここからは波平ピークに向かっての登りが始まる。まずは緩やかに登っていくと、狭い岩場が現れる。
左下の樹林帯に巻き道もあるようだが、これくらいなら進んで行けそうである。
左側斜面は木々が多いものの、右側は完全にガレている。慎重に岩場を進む。
その時、後方から若者がやってきた。かなり足が速そうなので、先に行ってもらう。
なお、この若者はかなりの健脚で、この後、沢入山からオロ山へと至った後、ピストンで銅親水公園に戻ってきている。
小生は沢入山の少し先までしか行かなかったのだが、彼には帰りの林道で再び追い抜かれてしまったのであった。

岩場を抜けると、小さなピークを越えて鞍部に下りた後、波平ピークに向けての急登が始まる。
道は基本的に稜線上を進むのだが、左側は草付きの斜面で木々も多く見られる一方で、右斜面は完全に土がなくなって岩がむき出しになったガラ場となっている。
ガラ場を覗き込むと、白や黒や灰色の岩肌が迫力を見せていて、火口跡を見ているような錯覚に陥る。

手前から見た時、この登りはかなりの急斜面で苦労するかと思ったのだが、意外とスンナリ足が進む。
高度はドンドン上がり、右手を見ると、先ほどのシゲト山と三俣山を結ぶ稜線の後方に奥白根山と白根隠山が顔を見せている。
急斜面が終わり、道が緩やかになった後は岩場の通過となる。
岩場の一番高いところは左側を巻き、草付きの斜面を緩やかに登っていくと、再び岩場が現れるが、通過はたやすい。
そして高みの一角に登り着けば、積み上げた岩に枯れ木が 1本立っているのが見えてくる。波平ピークに到着であるが、 この名の由来は サザエさんの父、波平さんの髪の毛のように 1本だけ木を立たせてあるからとのことである。時刻は 10時49分。

奥白根山、錫ヶ岳、そして皇海山など馴染みのある山を見ながらの楽しい空中散歩が続く。
波平ピークよりも少し高いと思われるところまで登った後、道は緩やかに下って行く。
沢入山と思しきピークが目の前だが、その右斜面後方に白き山が見えてくる。複数の山の集合であり、一瞬どこの山か分からなかったが、 じっくり考えて武尊山とその周辺の中ノ岳、家ノ串山、川場剣ヶ峰、前武尊といった山々だと気づく。これは嬉しい。
本日、一体いくつの百名山を目にしたことであろう。

沢入山への登りは比較的緩やか。草付きの斜面をゆっくりと登る。
少し斜面が急になってくるが、もう少しと思って頑張って登り切ると、そこは沢入山の頂上には非ず、さらに先にピークが見えている。
ガッカリするが、それ程距離があるわけではない。ここからの斜面も比較的緩やかでありがたい。
左手には袈裟丸連峰が完全に姿を現しており、前袈裟丸山、後袈裟丸山、中袈裟丸、奥袈裟丸といった連なりがよく見える。
傾斜は緩やかになり、前方にピラミダルな皇海山の姿が見えてくると、沢入(そうり)山の頂上はすぐで、木立に囲まれたピークを右から回り込めば、そこが頂上であった。 時刻は 11時9分。

頂上には手製の標識の他、柱石らしきものがあったが、これは三角点ではないようである。
なお、沢入山の標高は 1,704m、小生にとって今年の最高到達点である。
この頂上は狭く、木々が邪魔で展望を得られないので、さらに先の草地まで下る。時刻は 11時11分。
このやや広い尾根上に生えていた木々は皆枯れてしまったのであろう、屍 (しかばね) となった木の根元部分が周囲に点在している。

ここもなかなかの展望で、西方には真白き武尊山が見え、その左に美しいピラミッド型をした皇海山、そしてオロ山、庚申山、袈裟丸連峰が続く。 武尊山の右には、峰山が見え、その右手前に見えているのは大ナラキノ頭というピークらしい。
大ナラキノ頭の右に三俣山が続いた後、そこからシゲト山、黒桧山までの尾根が続く (但し、黒桧山は見えない)。
その尾根の後方には錫ヶ岳がほんの少しだけ頭を見せ、その右に奥白根山、白根隠山、そして前白根山が続く。
さらに右には大平山が大きく、その右に社山、半月山が続く。大平山と社山との鞍部後方には男体山が見えている。
また、半月山の右後方には夕日岳、地蔵岳 (先ほどとは別の山) も確認できる。

ゆっくり休んで、11時23分に出発、辿って来た道を戻る。
沢入山を 11時25分に通過、波平ピークには 11時39分に戻り着く。
その後も順調に足を進め、『孤高のブナ』 の前には 12時4分に戻ったのであった。
ここで道は 2つに分かれ、左の道は中倉山頂上へ、右の道は巻き道である。中倉山頂上に数人いたことを考慮し、頂上通過を止めて巻き道を進む。 男女 2人が巻き道をこちらにやってきたので、それを待ってから巻き道に入る。

緩やかな下り勾配の道を順調に進み、登りの時に休憩した岩場には 12時17分に戻り着く。
さらにまっすぐ進んで、ローソク岩方面への道と合流したところで、右折して下りに入る。
支尾根から下るポイントを 12時33分に通過、ここからはキツい下りが待っている。

滑りやすい斜面なので気をつけていたのだが、1度だけ滑ってしまい尻餅をつく。
後は順調に下り、中倉山登山口には 13時12分に到着。
林道を戻る途中、猿 2匹に遭遇したが、まだ山は寒いのであろう、2匹とも毛がフサフサであった。
また、先に述べたように、波平ピークへの手前で追い抜かれた若者に再度追い抜かれる。
そして、公園の駐車場には 13時59分に戻り着いたのであった。

本日は、初めての山となる中倉山に登ったが、低山とは言え、アルペンムード一杯の楽しい山旅であった。
しかし、そのアルペンムードは足尾銅山の煙害等によりもたらされたものだということを考えると、素直に喜べない。
一方、40数年前に見た足尾の山々に比べ、かなり植生が復活してきていることに驚く。
緑化事業に取り組んでいる国、自治体、そしてNPO、ボランティアの皆様に敬意を表したい。


2年3ヶ月ぶりの権現山  2021.4 記

1年5ヶ月ぶりに登山を再開して 2月に丹沢の大室山に登った後、同じ 2月に仏果山・経ヶ岳、 そして鐘ヶ嶽 (登山記録はアップしないつもり) と立て続けに山に登ったものの、3月に入るといろいろなことが重なってなかなか山に行けない状態が続くようになる。
そんな中、天候と時間がうまくマッチして、漸く山に行けるチャンスが巡ってきたのだが、体力的にあまり自信が持てない現状では山選びに少々苦労してしまう。

そこで、過去に登った山の中から候補の山を色々考えたところ、2018年12月に登りはしたものの登山記録をアップしていない山梨県の 権現山、扇山、百蔵山 (この 3つの山を北都留三山と呼ぶらしい) が頭に浮かぶ。
現状は、キツい斜面を登り続けるにはまだまだ体力不足であるものの、長い距離を歩く体力の方は残っていると感じているため、 先般の仏果山・経ヶ岳と同様に 『縦よりも横』 の登山を選択したという次第である。
また、3月21日に緊急事態宣言が解除となったため、神奈川県から患者数の少ない山梨県への山行も少しは気が楽というものである。

さて、辿るコースであるが、前回の時と同じく大月市の市営総合グラウンド (陸上競技場) の無料駐車場に車を駐めた後、 県道505号線沿いの市営グランド入口バス停まで歩き、そこから 7時の浅川行き富士急バスに乗って浅川まで行って 権現山、扇山、百蔵山と縦走を行い、 市営総合グラウンドへと下山してくるというものである。

3月24日(水)、朝の 5時過ぎに横浜の自宅を出発する。
ところが、途中で忘れ物に気づいて家に引き返したため、かなり時間をロスしてしまい、これが後々響いてくる。
横浜ICから東名高速道下り線に入り、海老名JCT−圏央道−八王子JCTと進んで、中央高速道へと進む。
途中、富士山を見ることができ、本日は快晴であることを確信してテンションが上がる。
上野原ICにて高速を下りた後は県道506号線を進み、上野原高校入口の交差点を左折して国道20号線に入って大月方面へと進む。
20分程進んでいくと、猿橋町に入った少し先で 『右 小菅』 の標識が見えてくるので、国道20号線と分かれて県道505号線に入る。
少々狭い道を暫く進み、中央高速道の高架下を潜った先の十字路を右折 (この十字路に県営グランド入口のバス停がある) すれば、後は道なりで大月市営総合グラウンドである。

ところがである、出発時の時間ロスに加え、国道20号線、県道505号線では非常にノロノロ走る車の後ろについてしまったため 時間を稼ぐことができず、駐車場に着いたのは何と 6時44分とギリギリの時間であった。
7時のバスに乗り遅れたら致命傷となるため、急いで登山靴に履き替え (但し、靴紐を結ぶ余裕無し)、カメラ、ストック、ザックを抱えて駆け足で坂道を下り県道505号線へと向かう。
朝方はまだ空気がヒンヤリとしているにも拘わらず、汗だくの状態でバス停に到着。何とか 7時のバスの乗ることができたのであった。
しかし、先日の仏果山の時と同じく、冷や汗ものであった。

ほぼ定刻通りやってきたバスには先客が 1人だけ。その人もすぐに下車したため、浅川までバス貸し切り状態となる。
浅川バス停には 7時26分に到着。登山靴の紐をしっかりと締めるなど身支度を調え、7時30分に出発する。
『 浅川峠 → 』 と書かれた標識に従って、右手の林道に入る。途中、左上に祠らしき建物を見てさらに林道を進んでいくのだが、前回登った時の記憶は結構曖昧になっており、 林道がかなり続くことに少々驚いてしまう。
それでも 15分ほど歩くと、林道は小さな広場にて終わりとなり、その先からは山道が始まる。

道はすぐに雑木林からスギの樹林帯へと変わり、斜面をジグザグに登っていくようになる。
展望のない、まだ少し暗い林の中を登っていく。傾斜は然程急ではないため、足が進む。
思えば、前回はここでも少しキツく感じたのであったが、今回はまあまあ順調である。
ただ、駐車場に到着したのがギリギリだったため朝食を食べ損ねており、空腹を感じ始める。立ち止まって朝食をとりたいところであるが、 日の当たらない斜面を登っている状況では休憩する気になれない。

やがて高度が上がってくると、樹林を通して周辺に朝日が当たるようになり、明るい中、気分良く登っていけるようになる。
ここで朝食にしても良かったのだが、折角順調なので、尾根に登り切るまでは休憩しないことにする。
左手樹林越しには、権現山から西へと延びている稜線が見えており、その後方には雲一つ無い青空が広がっていてテンションが上がる。
傾斜の方は徐々に緩やかになり、やがて道の先に浅川峠を示す標識が見えてくる。

浅川峠には 8時9分に到着。まずは左に道をとって権現山を目指す (扇山は左)。
ここから暫くはほぼ平らな道が続く。周囲は自然林に変わっており、足下には落ち葉、そして朝日が周囲を照らして明るい。
この先、また急斜面の登りが待っているのが分かっているので、明るく平らな尾根を進んでいる内に朝食をとることにする。
『 市坂分収造林地 』 と書かれた札が木に括られている場所で暫し休憩し、朝食とする。
なお、『 市坂 』 というのはここの住所らしい (大月市七保町市坂)。
コンビニで購入したおにぎり 2つで朝食を済ませ、7分程の休憩にて先へと進む。

右側がヒノキの樹林帯、左側が自然林といった道が続くようになり、その後、自然林、ヒノキ林が交互に現れる中を緩やかに登っていく。
少しずつ展望も開け、前方には権現山に連なると思われる尾根が時折見えるようになる。
また、振り返れば富士山が見えているものの、木々が邪魔をして見通すことができない。
さらには、左手に滝子山から右 (北) へと続く南大菩薩の山々も確認できるが、こちらも木の枝が邪魔で写真に収めることが難しい。

何回目かのヒノキの樹林帯を抜けると、緩やかな登りが続いていた道の傾斜がキツくなり、それがドンドン厳しくなってくる。
道の方もこれまでほぼ直線であったが、斜面をジグザグに登っていくようになり、それに呼応して息も上がってくる。
しかし一方で高度の方は確実に上がり、振り返れば富士山が樹林の間からほぼ見通せるようになる。
周囲は途中から自然林に変わり、コナラ属と思しき木々が目立つようになる。

喘ぎつつも登り続ける。前方を見ると、権現山を中心に東西に延びている尾根が見える。しかし、そこまではまだ距離があるようである。
このジグザグの登りはなかなか面白い構造で、右に登っていく距離は短く、左に登る距離が結構長い。
この長かったジグザグの道も漸く終わりとなり、傾斜は一旦緩やかになってホッとするが、すぐにまた急斜面の登りが続くようになる。
しかも登りはほぼ直線、息が上がる。
後方を振り返ると、登山者が 1人登ってくるのが見える。ここで追いつかれるのは面白くないと思い、少々無理をして登り続ける。

尾根は徐々に狭くなり、少し傾斜が緩み始めると、道の先に青空が見え、そこに案内表示が立っているのが見えてくる。
漸く権現山から西へと延びている稜線上に到着したようである。稜線到着は 9時22分。
左は麻生山、そして権現山は右である。ほぼ平らな尾根道は、少し先で一旦緩やかに下った後、権現山に向けての最後の登りが始まる。
ただ、傾斜は緩やか、息を切らすことはほとんどない。

そして、9時29分、誰も居ない権現山に到着。頂上には二等三角点の他、『 山梨百名山 』 の標柱が置かれている。
ここからの展望はなかなかのもので、所々樹林で遮られるものの、動き回ることで広い範囲の山々を見ることができる。
まずは大きく開けている南西の方向にある富士山に目が惹き付けられる。前回の仏果山では、丹沢表尾根などが富士山を隠してしまっていただけに、喜びも一入である。
富士山の左裾の下方には杓子山、鹿留山が見え、少し移動すれば鹿留山の左に御正体山も確認できる。
また、御正体山の手前には、この後に登る扇山も見えている。
富士山の右側に目を移せば、三ツ峠山、そして御坂黒岳などの御坂山塊が続いている。

そのさらに右側は樹林に遮られるが、頂上の反対側 (北側) に移動することで奥秩父、奥多摩の山々を見ることができる。
樹林にやや隠れ気味の大菩薩嶺から始まり、その右後方に北奥千丈岳、国師ヶ岳が確認できる。
さらに右には富士見、水師、木賊山、三宝山が見えており、木賊山の右には破風山、雁坂嶺、黒槐ノ頭、唐松尾山が続くが、そのさらに先は手前から現れる大きな山容の飛竜山に隠れてしまう。
飛竜山の右には三ツ山、そして雲取山が続き、雲取山からは石尾根が続いて高丸山へと至っている。
なお、石尾根の後方には芋ノ木ドッケ (芋木ノドッケ) も確認できる。

その石尾根も手前に見える三頭山に遮られてしまうものの、三頭山の右手後方に鷹ノ巣山が見えて、再び石尾根の続きが始まる。
そして、この石尾根が右へと下っていく後方には、天目山、蕎麦粒山、日向沢ノ峰、さらに右に川苔山 (かわのりやま) が確認できる。
川苔山の右手前には御前山が大きく、さらに目を右に向けると大岳山も見えている。大岳山の右には鶴脚山、馬頭刈山が続き、その後方には関東平野が広がっているが、 前回、関東平野の後方にうっすらと見えた筑波山は見ることができない。
山はまだまだ続き、臼杵山、刈寄山、熊倉山、連行峰、そして景信山も確認できる。

好展望にカメラのシャッターを切りまくっていると、やがて後続の登山者がやってきたので少し話をする。
今朝ほど、浅川からの林道脇に 1台車が駐まっており、そこで支度をしていた人がいたが、登ってきた方はその方だったようである。
素晴らしい景色を堪能した後、9時47分に出発。まずは大ムレ権現に向かうべく、頂上を突っ切って先へと進む。
滑りやすい急斜面を下り、ヒノキの林に入れば、すぐに神社の屋根が見えてくる。
その神社前には 9時51分に到着。お参りを済ませた後、頂上には戻らずに神社左手の巻き道を進む。

ほぼ水平な道を進み、9時58分に正規のルートに合流。
道を左にとって、浅川峠への下降点に至り (10時)、そこから先ほど登ってきた道を浅川峠に下る。
その浅川峠には 10時45分に到着。右に今朝ほど登ってきた浅川からの道を過ごして、まっすぐ進む。
暫くは緩やかな松林の道が続くものの、道が徐々に左にカーブし、松林が終わりになると、再び登りが始まる。
左手樹林越しに権現山がチラチラ見えるのだが、木々が邪魔をしてなかなか見通せないのが残念である。

やがて高みの一角に登り着くと、そこからは広く平らな頂上が続く。
途中、傍らの木に 『 曽倉山 』 と書かれた板が括られていたが (時刻は 11時1分)、感覚的には少し先の方が高いように思われる。
と思ったら、少し先でまた 『 曽倉山 940m』 と書かれた手製の標識が現れる。感覚的にはこちらの方が頂上らしく思われるのだが、 いずれにしても国土地理院地図には 『 曽倉山 』 の名は書かれていない。

道は下りに入り、前方には目指す扇山と思われる山容が樹林越しに見えてくる。
また、右手樹林越しには百蔵山と思しき山も見えおり、百蔵山の右手後方に滝子山も確認できる。その滝子山の左斜面後方に真白き山も見えているのだが、北岳と思われるものの、 木々が邪魔をして見通すことができず確信が持てない。
道は狭い鞍部に下りた後、再び登りが始まる。小さな高みに登り着くと道はほぼ平らになり、快調に足が進む。
しかし、一旦下ってすぐに登りが始まり、登り着くとさらに先に高みが見えてくる。疲れが出始めた身体にこのアップダウンは厳しい。

続いての登りは結構長く続く。少し休んで振り返れば、権現山が見えているが、ここからは尾根上の小さな高みにしか見えず、 大菩薩嶺から見たそれとは大分印象が違う。
喘ぎつつも登り続け、小さな振幅のジグザグにて斜面を登っていくと、やがて斜面の先に空間が広がり、そこに 2人の登山者が憩っているのが見えてくる。 扇山に到着である。時刻は 11時51分。

頂上は広く、その中央部は直径 15m程の土の窪地となっている。
その中央に三角点らしきものが置かれているのだが、『 らしきもの 』 と書いたのは柱石ではなく、 本来なら柱石の下に置かれるべき盤石 (正方形の敷石を思い浮かべれば良い) のようなものが露出しているのである。
なお、国土地理院の地図を見ると、扇山に三角点は無いことになっている。

また、頂上にはこの三角点らしきものの他、『 山梨百名山 』 の標識、そしてこの山が 『 秀麗富嶽十二景(六番)』 の 1つであることを示す標識と その説明書きが置かれている。
その富士山であるが、『 秀麗 』 というとおり、素晴らしい姿を見せてくれているものの、権現山と比べて手前部分が樹林に覆われていて見えないため、あまり雄大さを感じさせてくれない。 個人的には権現山から見た富士山の方がお勧めである。

丸太のベンチに腰掛けて暫し休憩する。
ここは、この後の行程も長いので十分に休養しておきたいところである。
なお、権現山から扇山間では 2人しか登山者に会わなかったのであるが、扇山では 5人ほど登山者が休んでいた (内 3名は外国人)。

12時6分に出発、西へと向かう道に入る。
暫くはほぼ平ら、あるいは緩やかな下りが続いた後、少し傾斜が急になった後、下り着いた所には JR中央線鳥沢駅への道が左に分かれている。 ここが 『 大久保ノコル 』 とのことで、駅まで 90分程らしい。
ここからは暫く緩やかな登りが続き、登り着いた所にあった木には 『 大久保山 』 と書かれた手作りの標識が括られていた。
時刻は 12時17分。
この大久保山の少し先からは下りがずっと続くようになる。道は乾いているものの、落ち葉が道を覆っていることが多く、滑りやすく注意が必要である。 加えて、ほぼ直線の下りが続くため、歩きにくい。

途中、右手を見れば、権現山と思しき高みが見えている。ここから見る権現山も、ほぼ平らに続く稜線上にポコッと飛び出した突起にしか見えない。
やがて左手前方樹林越しに百蔵山も見えてくる。
一方、下りはまだまだ続く。傾斜はかなり緩やかになってきてはいるものの、百蔵山から扇山へと今とは逆方向に進んだ場合、ここの登りはかなり手強かろう。

その長い下りに嫌気が差し始めた頃、下方に標識らしきものが見えてくる。
前回、この標識が見えた時には、この長い下りに何か変化があることを期待させてくれたのだが、実際は前方のカンバノ頭を巻くことを指示する標識でガッカリした記憶がある。
しかし、今回、再度このルートを辿ってみると、ここからはほぼ平らな道が続くようになっていることに気づく。
つまり、実際に長い下りから変化があったという訳であるが、前回はそれに気づかない程 長い下りに倦んでいたのかもしれない。

しかしその歩きやすい道も長くは続かず、また小さな高みへの登りが始まる。
息を切らせつつ高みに登り着くと、その先からは本当に斜面を横切る平らな道が続くようになる。これは本当にありがたい。
暫くはヒノキの林が続く。道がやがて下りに入ると、下り着いた所に標識が現れる。宮谷分岐である。時刻は 13時24分。
目指す百蔵山は直進で、左に下れば猿橋駅である。
標識の傍らにあるベンチで休憩していたところ、先ほど扇山頂上にいた外国人の若者 3名が追い抜いていった。

13時32分に出発。少し進むと登りが始まり、ヒノキ林の中を小さく蛇行しながら登っていく。
しかし、この登りも然程長くは続かず、その後、ヒノキ林の斜面を横切る道が続くようになって喜んだのだが、それも束の間、その先でまた登り斜面となる。
この辺は、少し登ると平らな道が続くといったパターンを繰り返しながら高度を上げていき、左側へと回り込んでいく。
やがて、正面樹林越しに百蔵山が見えてくる。
また、右手樹林越しに滝子山が見通せる場所に出たが、先ほどまでその左手後方に見えていた南アルプスは今や全く見えない。

やがて道に傾斜がつき始めるが、最初のうちは緩やかで楽に登っていくことができる。
しかし、やや古い標識を見た後は、傾斜がかなりキツくなり始める。太陽を正面に見ながらの厳しい登りが続く。
足下には落ち葉と混ざり合って岩や岩屑が現れ始める。
これが最後の登りということは前回辿ったので分かっているが、疲れた身体にはかなり応える。
少し登っては立ち止まって上を見上げるという動作を繰り返しながら進む。
また、途中、振り返れば権現山や扇山が見通せることが多くなったので、写真を撮ることを口実にしてさらに休みを追加する。

なかなか斜面の終わりが見えない中、それでも何とか登り続けていくと、漸く斜面が緩やかになってくる。しかし、まだまだ先は長い。
それでも、やがて斜面の先、樹林の向こうに空が見えてきたので、頂上かと期待させるが、それ程甘くは無く、そこには猿橋駅への下り道を示す標識が立っているのみであった。時刻は 14時21分。
とはいえ、ここはもう頂上の一角と思って良いのであろう、傾斜はさらに緩やかとなり、足が進むようになる。
そして 14時24分に百蔵山の頂上に到着。
ここには三等三角点の他、扇山と同じく 『 山梨百名山 』 の標識及び 『 秀麗富嶽十二景(七番)』 の標識と説明書きが置かれている。

この山頂は南側が開けており、展望が素晴らしい。
残念ながら逆光気味ではあるものの、右端 (南西) には富士山が見えており、富士山の左斜面下方には杓子山、鹿留山がシルエット状に見え、 さらに左には御正体山、そして今倉山、菜畑山、朝日山 (赤鞍ヶ岳) といった道志の山々が連なっている。
朝日山の左後方からは、加入道山、大室山、檜洞丸、蛭ヶ岳といった丹沢山塊が続き、黍殻山へと至っている。

頂上にあるテーブルに腰掛けて暫し休憩した後、14時38分に下山開始。さらに先へと進む。
ここからは下りがずっと続く。ただ、急斜面では無いので、疲れた身体には嬉しい。
14時48分、傾斜が緩やかになってきたところで、左に下る道が現れる。前回、ここには 『 直進 葛野部落 』 と書いてある標識が立っているだけであったが、 その後キチンと整備が為されたようで、今は 『 左 猿橋駅、直進 葛野方面 』 と書かれた標識が置かれていた。
斜面を横切る道を下る。日差しが暖かく、なかなか気分が良い。

順調に下って行くと、やがて展望の良い場所に飛び出す。
ここからは丹沢方面がよく見えており、また富士山も樹林の間から見ることができる。時刻は 14時57分。
この展望台を過ぎると、道はヒノキの林の中を下って行くようになるが、この辺は足下の砂利が少々五月蠅い。
ヒノキ林の中を黙々と下る。すると、嬉しいことに水場が現れる。前回、ここに水場があったという記憶はないのだが、兎に角 冷たい水で喉を潤せたのが嬉しい。時刻は 15時18分。

水場から少し進むと、道が上下 2つに分かれる (時刻は 15時21分)。前回はどちらに進むべきか分からなかったので上の道を進み、 大山祇神社、和田美術館、浄水場と進んで少し遠回りをしてしまったが、今回、ここには標識が置かれている。
どちらの道も 『 猿橋駅 』 に至るのであるが、下の道には 『 近道 』 とある。ここは迷うことなく下の道を進む。

道は和田美術館の裏手を進み、コンクリートの急坂をまっすぐに下る。
この下りでは、スピードが上がってしまうのを足で制御しなければならず、これが結構辛い。
道は住宅地に入り、ここでも急坂を下っていくと、やがて前回通った浄水場からの道と合流する。
右に道をとってさらに丁字路を左に曲がれば、すぐに前方に市営総合グラウンドが見えてくる。 駐車場到着は 15時38分であった。

本日は 3年ぶりに権現山、扇山、百蔵山を縦走したが、体力的には少々厳しいものがあったものの、前回とほぼ同じ時間で歩けたことは嬉しい。 天候にも恵まれ、富士山の姿もタップリと見ることができ、大変満足のいく登山であった。


低山ながら充実の仏果山・経ヶ岳・華厳山  2021.4 記

2019年の谷川岳を最後に (但し、この登山記録はアップしていない) 山とは無縁の日々が続いていたが、 現状の閉塞感に耐えかねて、この度 1年5ヶ月ぶりに山に登ってきた。
行き先は暫しのブランクと、この間の体力低下を考慮して 1,500m級の山にターゲットを絞り、丹沢の大室山にしたのだったが、思っていた以上に体力低下が激しく、 昔の調子を取り戻すためにはもう少し時間を要すると痛感した次第である (今回記録をアップしたので、そちらをご覧戴きたい)。

とは言え、体力的には厳しかったものの、山はやはり心身のリフレッシュに効果があると心から感じたことから、 その気持ちが冷めないうちに再度 山に行くことにする。
さて、今度の行き先であるが、大室山のように標高差が 900m近くある山はまだキツいと感じたため、低山に的を絞り、かねてから行きたいと考えていた同じ丹沢山塊の 仏果山 (747.2m) ならびに 経ヶ岳 (633.1m) に登ることにする。

仏果山はその北側にある高取山と併せて、子供がまだ小さかった頃に半原側から子連れ登山をしているのだが、 それは 25年以上前のことであまり記憶になく、さらに今回は仏果山から経ヶ岳、華厳山まで足を伸ばして、 低いながらも低山縦走するつもりなので新たな刺激を得られることを期待してのことである。

この縦走については、大室山に登った際、キツい斜面を登り続けるにはまだまだ体力不足であるが、 時間がかかりはするものの長い距離を歩く体力の方は残っていると感じたため、『縦よりも横』 の登山を選択したという次第である。
加えて、2019年に購入した登山靴 (AKUの YATUMINE。何と、既に YAKUMINE II が発売されてしまっている。) が未使用のまま棚に仕舞い込んだ状態になっているため、 その履き慣らしも兼ねてのコース選択である。

さて、辿るコースではあるが、まずは 大山三峰山登山の際に利用させてもらった道の駅 清川の駐車場に車を置き、 道の駅の向かい側にある清川村役場前バス停からバスで宮ヶ瀬湖畔の仏果山登山口まで行って、そこから高取山、仏果山、経ヶ岳、華厳山と縦走した後、 そのまま南に下って御門橋の方へ下ろうというものである。
但し、華厳山から御門橋へのルートは小生の持つ地図には載っておらず、ちょっとした冒険になるのが少々不安である。

2月10日(水)、6時45分に横浜の自宅を出発する。 宮ヶ瀬行きのバスは清川村役場前バス停を 8時14分に通過するので余裕と思っていたのだが、これが大失敗であった。
ナビでは東名高速道・新東名高速道を使って伊勢原大山ICへと進むルートを推奨していたものの、 高速代をケチって下の道を使うルートを選んだところ (ナビが示していた現地到着時間はほぼ同じであった)、国道246号線が断続的な渋滞で車がなかなか進まず、 一時は当初の計画を断念して道の駅 清川から大山三峰山に登ることを考えた程であった (次の宮ヶ瀬行きのバスは 9時14分と 1時間後なのである)。

246号線を離れてからは、何とか順調に進むことができるようになったものの、途中のコンビニで食料を購入したこともあって、 道の駅 清川に着いたのは 8時13分であった。
急いで登山靴に履き替え (但し、靴紐を結ぶ余裕無し)、カメラ、ストック、ザックを抱えて駆け足で向かい側のバス停へと向かう。
待つこと、約1分、8時15分に宮ヶ瀬行きのバスがやってきてどうにか乗ることができ、バスの座席に着いた時は心底ホッとしたのであった。

平日にも拘わらず、バス内には登山者が数人乗車していたのであったが、皆 土川峠で下車してしまい、 仏果山登山口でバスを降りたのは小生一人であった。
登山口は道路を挟んでバス停の斜め右向かいにあるが、まずは腹ごしらえということで、バス停で立ったまま朝食をとる。
その間、左手にある大棚澤広場の駐車場からは 3人の登山者が登っていった。

朝食を終え、道路を渡って登山口へと向かう。登山口出発は 8時40分。
階段を昇り、少し高度を上げると、道路の向こう側に宮ヶ瀬湖が良く見えるようになる。
杉林の斜面を横切りながら少し進むと、登山ポストが現れたので、用意してきた登山届を提出する。
暫くは杉林の斜面をジグザグに登る。道は良く踏まれており、懸念した霜柱による泥んこ道もない。
また、傾斜はそれ程キツくないので、息もあまり上がらない。

途中、『宮ヶ瀬越 仏果山 2.2km』 の標識を見る。
次いで、道端に祠を見た後、道が南側斜面を横切って進むようになると、右手前方には目指す稜線が見えるようになる。
さらに道は南側斜面を回って支尾根上に登り着くが、そこからは道が緩やかになり、左手樹林越しに奥秩父の山々が見えるようになる。 最初、同定に若干戸惑ってしまったが、黒岳、牛奥ノ雁ヶ腹摺山、小金沢山、熊沢山、大菩薩嶺と続く山並みであった。

ほぼ平らな歩きやすい道もすぐに終わり、道は支尾根の斜面を直登するようになる。
足下は丸太横木の階段となって少々煩わしいが、傾斜は緩やかなのでドンドン進むことができる。
やがて傾斜が緩やかになったかと思うと、目の前に人工物が現れる。フェンスに囲まれた電波施設らしい。時刻は 9時19分。
施設の横にはベンチもあり、またフェンスの横からは丹沢山方面も見えたが、小枝が邪魔をして写真を撮ることができない。

その人工物を過ぎると、周囲は先程までのスギの樹林帯から自然林へと変わり、コメツガなどの木々が見られるようになる。
再び傾斜が出てくるが、総じて緩やか、気持ちよく登って行くことができる。
途中、右手が開け、大山や大山三峰山が見えるようになる。
道は支尾根を登っていくが、途中からは尾根をそのまま直登するのではなく、尾根の少し北側下方を進む。
やがて道の先に稜線が見えてくると、登り着いた所が宮ヶ瀬越。時刻は 9時39分。
ここは丁字路になっていて、右に進めば仏果山、左は高取山である。

まずは左に道をとって高取山を目指す。傍らの標識には 『高取山 0.5km』 とある。
暫く平らな尾根道を進んでいくと、やがて前方樹林越しに高取山らしき山容が見えてくる。
道の方は一旦下りに入り、その後暫く平らな道が続いた後、高取山の登りに入る。
右手下方には愛川町の町並み、そしてそこから東へと広がる関東平野が見えている。

少し傾斜がキツくなったかと思うと、すぐに緩やかになり、『高取山 0.05km』 の標識が現れれば、頂上はもうすぐである。
そして、9時53分、高取山頂上に到着。 バス停で食事中、先に登っていった 3人がいるかと思ったが、頂上には誰もいない。

この高取山には展望台が設置されており (高さは 13m)、そこに登れば 360度の大展望を得ることができる。 少し揺れる鉄階段を昇り、展望台の頂上に立つ。
やはり展望は抜群、西側下方には宮ヶ瀬湖が広がり、それを囲い込むようにして後方に丹沢の山々が広がっている。

まず目に付くのが、丹沢三峰北端に位置する本間ノ頭。鈍角三角形ながらも後方右に蛭ヶ岳、 後方左に不動ノ峰、丹沢山を従えるようにして大きく左右に裾を広げている。
丹沢山の左には竜ヶ馬場、日高 (ひったか)、塔ノ岳、木ノ又大日、新大日と稜線が続く (尤も、それらが一つの稜線で繋がっている訳ではない)。
徐々に下ってきた稜線は、三ノ塔、二ノ塔で一旦盛り上がり、二ノ塔から再び左に下った稜線は大山へと向かって昇っていく。
大山の左手前には大山三峰山がギザギザの山容を見せている。

一方、本間ノ頭の後方に見える蛭ヶ岳からは、右に姫次、八丁坂ノ頭、黍殻山、焼山と続くほぼ高さが同じに見える稜線が続いている。
焼山から右に下る斜面の後方には、滝子山から大谷ヶ丸、ハマイバ丸、大蔵高丸といった南大菩薩の稜線が続き、さらに右側に黒岳、牛奥ノ雁ヶ腹摺山、小金沢山、 熊沢山、大菩薩嶺といった山々が続く。
大菩薩嶺の右後方には、北奥千丈ヶ岳、国師ヶ岳が姿を見せており、手前に見える権現山を間に挟んで、さらに右に甲武信ヶ岳、雁坂嶺、飛龍山、雲取山、 芋木ノドッケ、鷹ノ巣山といった山々が続く。さらにはその右側には、御前山、大岳山も確認できる。

目をさらに右側、東の方に転ずれば、関東平野が大きく広がっており、スカイツリーや横浜のランドマークタワーも確認できる。
そうそう、南を見れば、これから向かう仏果山が見えており、頂上にある展望台も何とか確認できる。

360度の大展望に満足した後、展望台を下りて仏果山へと向かう。出発は 10時9分。
先程の宮ヶ瀬越まで戻り (時刻は 10時19分)、登ってきた仏果山登山口への道を右に過ごしてまっすぐ進む。
道は緩やかに登って小さなピークを越えた後、下りに入る。その後すぐに登りとなり、2つほど小ピークを越えると、道は左に曲がり、前方樹林越しに仏果山の姿が見えてくる。
さらに 2つほど小ピークを越えていけば、道は平らな尾根を通った後、仏果山への最後の登りが始まる。

途中ロープも設置されているが、あまり必要ではない。
この登りで、今朝ほど先行していった登山者と擦れ違う。どうやら高取山はスルーして宮ヶ瀬越から仏果山を目指したようである。
道は緩やかになり、最後に丸太の階段を昇っていくと、仏果山頂上稜線の一角に登り着く。
そして、少し左へ進めば、石仏が数体置かれている仏果山頂上であった。 時刻は 10時44分。

ここにも展望台 (高取山と同じ 13mの高さ) があるので、荷物を休憩用テーブルに置いて昇ってみる。
無論、先程の高取山展望台とほとんど展望は変わらないが、ここからは先程までその頂上にいた高取山が見えるのが嬉しい。
また、南東の方を見れば、すぐ先の方にピークが見えているが、あまりにも距離が近いので、この山はこれから目指す経ヶ岳ではないようである。 経ヶ岳は恐らくその山の後方に隠れているのであろう。

展望台から下りた後、ベンチに腰掛けて軽く食事をする。
前回の大室山では長きブランクのためかなりバテ気味であったが、今回は登りの距離も短く、身体が軽い。
足慣らしに履いてきた少しオーバースペック気味の登山靴も、なかなか良く足にフィットしてくれている。

10時55分、仏果山を後にして先へと進む。
先程登ってきた宮ヶ瀬越からの道を右に見てまっすぐ進む。傍らの道標には半原越までの距離が書いてあるものの (2.5km)、肝心の経ヶ岳の文字がない。 尤も、経ヶ岳は半原越を通過しなければ到達できないので、心配することはない。
ここからは細い尾根道が続く。道はすぐに下りに入り、両側に鎖が付けられた斜面を下る。

周囲は灌木帯に変わっているので、目の前の高みがよく見える。 小生の持っている山と高原地図 『丹沢』 には名前が出ていないが、後で調べると 『八州ヶ峰』 の名前があるようである。
少しザレて滑りやすい道を慎重に下って鞍部に至り、そこからはまた登りが始まる。小ピークを越えるとまた下りが待っている。
道は良く踏まれているが、左右が切れ落ちている上に道幅が狭いので、慎重に進む必要がある。
この辺では展望がグッと開け、右手には丹沢山塊の主要な山々がよく見えるようになる。

小さなアップダウンを繰り返しながら進んでいくと、やがて登りが続くようになり、 登り着いたところには馬渡分岐の標識が立っていて、ここから左に馬渡バス停への道が分かれている。時刻は 11時11分。
ここから少し下って登り返すと、立派な案内板があるピークに登り着く。ここが八州ヶ峰であろう。
時刻は 11時15分。案内板にはこの辺が 『山岳修験の霊場』 であったことが書かれている。

その八州ヶ峰から一旦下り、細い尾根道を通って登り返すと、今度はベンチが数基並ぶ小広いピークに到達する。 ここも小生の地図には記載がないが、熊古谷山 (くまごややま) の名前があるようである。時刻は 11時20分。
ここは休まず先へと進む。壊れかけた鹿避けゲートを潜り、スギの樹林帯を下る。足下には丸太の横木が埋め込まれているので、滑ることなく下ることができる。
下り着いてから小ピークを越えた後、緩やかに登り返せば、革籠石山 (かわごいしやま) の大きな標識が立つピークに登り着く。
時刻は 11時32分。

革籠石山を下った後は緩やかなアップダウンの道が続く。周囲はスギの樹林帯で展望は得られない。
11時42分に 『半原越 1.0km』 の標識を過ぎ、さらに下って行くと、やがて土山峠への分岐に到着する。時刻は 11時46分。 標識には 『半原越 0.9km』 とある。
ここからも緩やかなアップダウンが続く。歩きやすい道だが、足下には木の根がむき出しになっており、ボッーとしていると躓いてしまうので要注意である。

11時59分に リッチランドへの道を右に分け、道は左へとカーブしていく。
この辺からは右手樹林越しに経ヶ岳と思しき山の姿が見えてくるようになり、また、左手には恐らく仏果山と思しき山も見えている。
道は下りに入り、やがて下方樹林越しに道路が見えてくる。
そして、12時7分、車道に下り立つ。ここが半原越のようである。
道路を挟んだ先には観光案内図があり、その右手から経ヶ岳への道が斜面に続いている。

案内図の前で暫し休憩した後、12時15分に出発。
スギ林の中、丸太横木の階段を登っていく。この傾斜が結構急で、少々疲れが出てきた身体には応える。
やがて周囲に雑木が混ざり始めると、傾斜は緩やかになり、歩きやすいほぼ平坦な道が続くようになる。
再び登りが始まるが傾斜は緩やかで、登り着いたところにはベンチが置かれている。時刻は 12時27分。
ここからは暫くの間緩やかなアップダウンが続く。右手に華厳山と思しき高みが見えてくると、やがて傾斜がキツくなり始める。

丸太横木の階段をひたすら昇り続ける。周囲に岩が現れ始めたかなと思うと登りも終わりとなり、細い尾根の平らな道に変わる。
先の方には大きな岩が見えているが、これが 『経石』 のようである。経石の傍らには 『昔、弘法大師がこの岩 (南側にある穴) に経文を納めた・・・』 と書かれた案内板が立っている。 時刻は 12時39分。
経石の右側に回ってみると、確かに岩の上部に穴があったが、これが経文を納めた穴なのであろうか。
穴の中には小さな弘法大師と思しき石仏 ? が納められていた。

経石を過ぎて少し登ると、やがて前方にベンチが見えてくる。どうやら経ヶ岳に到着したようである。 時刻は 12時43分。
狭い頂上にはベンチの他、三角点、そして立派な標識が置かれている。ここからも大山、表尾根、塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳と続く丹沢山塊の主脈がよく見える。

暫し休憩した後、12時59分に出発。華厳山へと進む。
手元の地図ではここから破線になっているので少々不安であったが、少し進むと華厳山への立派な標識が現れたのでホッとする。
しかし、そんなに甘くはなかった。ここからはあまり踏まれていないのであろう、今までのしっかり踏まれていた道とは打って変わって、土の表面がザラザラしている滑りやすい道となる。 おまけに下り斜面が続くので苦労する。
そんな中、安心させてくれるのが 『西山を守る会』 が所々に付けてくれている 『← 華厳山』 と書かれた案内標識であった。

滑りやすい斜面を慎重に下る。ロープが張ってあるのがありがたい。
やがて、その 『西山を守る会』 が作成した 『モミの木地蔵』 に到着。これは大きなモミの木の洞 (うろ) に小さな石の地蔵が置かれているものである。時刻は 13時8分。
倒木が多くて邪魔な、少々荒れ気味の道を下る。斜面が急なので、滑らないように制御するのが結構辛い。
漸く滑りやすい斜面を下り終えると、小さなアップダウンが続いた後、このまま華厳山に通ずるであろうと思しき登りが始まる。
ここも傾斜がキツく、おまけに足下は少しザレ気味な上、倒木も多いので苦労する。

それでも、10分程黙々と登っていくと傾斜が緩やかになり、さらに少し登っていけば華厳山頂上であった。時刻は 13時41分。
この華厳山頂上は展望がほとんど得られない。
それ程広くない頂上には丸太を横にして作られたベンチがあり、そこに腰掛けて少し休む。
そして、13時45分に出発。ここから先の斜面は緩やか、広々とした尾根をゆっくりと下って行く。

道が左に緩やかにカーブし始めたので、このままでは高取山 (こちら側にも高取山がある。 本日最初に登った高取山は、昔は高旗山と言ったらしい。) へと進んでしまうと思い、御門橋へと下るルートを探す。
バリエーションルートらしいが、結構登られているので取り付きが明瞭であろうと思っていたのだが、周囲に印などは見られない。
しかし、道を外れて南側の斜面を見ると、あまり踏まれていないため表面に土埃 (つちぼこり) 浮き上がっている状態の中に足跡が見つかる。方角的にも合っているようなので、 ルートを外れてその斜面を下る。
落葉と土の斜面に僅かに見られる踏み跡を辿る。少々不安だが、時々現れる明確な足跡に勇気づけられる。

周囲に赤テープなどは全く見られないので、足下のかすかな痕跡を見失わないように注意しながら下る。
やがて、今までにも増して急斜面となるが、そこにはロープが設置されていたので、道の確かさが確認できホッとする。
とは言え、この下り斜面は足下が滑りやすいのでかなり厳しい。
ロープと周囲の木々を頼りに何とか急斜面を下り終えると、道は緩やかになり、やがて所々にピンクテープが現れるようになる。
ただ、テープは林業など、登山とは違う目的で付けられている場合もあるので全面的に信頼する訳にはいかないのだが、その後も正しいと思しきルート上にピンクテープが続くので、 どうやら信頼しても良さそうだと判断する。

道は下りがずっと続いていたが、やがて前方に高みが見えてくる。どうやら下り一辺倒とは行かないようである。
そして思った通り、意外と大きなアップダウンが続くようになる。とは言え、先程の華厳山からの下りに比べれば道は歩きやすい。
頂上部分が長く平らなピークを越えた後、また少し登っていくと、やがて木々の伐採を済ませたばかりと思われる場所を通過する。

さらには、前方に鹿避けネットが見えてくると、左手に小さな石祠が見えてくる。時刻は 14時33分。
祠はこちらに背を向けていたので、前に回らずにそのまま通過してしまったのだが、後で調べると、表側には 『秋葉山』 の文字が刻まれていたらしい。 小生の地図に記載はないが、ここは 煤ヶ谷秋葉山 (すすがやあきばやま) と呼ばれる山らしい。
さらには、先程通過してきた頂上が平らで長いピークにも 煤ヶ谷高取山 (すすがやたかとりやま) の名前が付いているようである。

この 煤ヶ谷秋葉山からは暫く下りが続く。ただ、急斜面というわけではなく、途中に踊り場があるという感じなので、進みやすい。
緩やかな下りをドンドン進む。15時を過ぎた頃、樹林が切れて、右手下方に人家が見えるようになるが、まだ下界までは 150m程の高度を落とさねばならないようであり、少し気が滅入る。

長く続く下りに嫌気を感じながらも黙々と下っていくと、やがて鹿避けネットにぶつかる。 その向こう側には農地が見えており、地上はもうすぐである。
しかし、鹿避けネットを潜る場所が見つからない。ネットに沿って右に進むと、その先はどうやら崖になっていて川に落ち込んでいるようである。 それではと左に回っていくと、窪地の先にゲートが見えてきた。どうやら、最後の最後で、尾根を一本間違えたようである。

15時31分、ゲートを通過して農地に下り立つ。舗装道を進み、右に曲がって人家の中を進んで御門橋 ? にて小鮎川を渡ると、 その先で県道60号線に出る。
しかし、ここはゴールではない。道の駅 清川まで 2km強の車道歩きが待っている。
しかも、道は尾崎の丁字路を過ぎて県道64号線に入り、中里のバス停を過ぎると昇り勾配となり、疲れた身体には結構応える。
それでも何とか歩き続け、16時2分に道の駅に到着。先日の大室山に続いて、8時間近い歩きとなったのであった。

本日は、先日の大室山に懲りて低山に登ったのだが、低山とは言え、なかなか面白い山であった。
体力的なこともあり、暫くは低山歩きを楽しみたいと思う。
なお、新しい靴であるが、歩き続けて足の方に血が溜まってくると、少々きつく感じられるようになった。もう少し履き慣らす必要がありそうである。


お茶濁し  2020.6 記

山に長い間行っていないこともあり、この欄に書くことはほとんどない状況であるが、 かといってこのメインページに何も書かないで済ませるようにホームページのレイアウト変更を行う気力も湧かず、しかたなく 今回は取り留めのない話を書いてお茶を濁すことにしたい。

内容は、新型コロナウイルス感染症によって緊急事態宣言が出され、『ステイホーム』 を余儀なくされたこの約2ヶ月間、 小生が行った時間つぶしについての話で、それは所有している CDのちょっとした整理である。

散歩の時に ソニーのウォークマンにて音楽を聴いており、そのため所有している CDは ソニーの提供するソフト、 『Music Center For PC』 に全部入っていて アーティスト単位・CD単位に並んでいるので、今更手をつける必要はないのだが、今回行ったのは全く違う観点からの整理である。
小生の所有している CDは、昔 不覚にも全部売り払ってしまった LPレコードを CDの形で買い戻すことが多い一方、 過去のヒット曲を集めたオムニバス的な CDも多く所有しているので (無論、全部洋楽)、 1950〜1960年代のヒットチャートを賑わした曲をどれだけ自分が所有しているかを確かめてみようと思ったのである (米国と日本のチャートにて確認)。

まず、米国のチャートであるが、これはかの有名な ビルボード誌のホームページに、 『Billboard Top 100』 として 1940年から昨年の 2019年までの年間のヒットチャートが記載されているので、そこから 1950年 〜 1969年までのデータを引っ張り出し、 EXCELに落として 20年間のチャートを確保した次第である。
なお、トップ100とは言うものの、1950年〜55年までは トップ30までしか載っておらず、100位まで記録されているのは 1956年からである。

問題は当時ランキングなどの集計を行っていなかった日本のチャートの方である。
しかし、これには 『洋楽ヒットチャート大事典』(八木 誠 監修・著) というありがたい本があり、たまたま昨年この本を図書館で借りてその ランキング部分をコピーしておいたので、 これを使わせてもらうことにする。

ただ、現在、日本の音楽界において評価指標として用いられている オリコンチャートが正式にスタートしたのは 1967年であるから、 1950年からの 20年間の大部分のランキングについては八木氏もまとめるのに大分苦労されたようである。
ラジオのヒットチャートなどから引っ張ってきてはいるものの、1局のラジオ番組がずっと続いていた訳ではないため、複数のラジオ番組のチャートを継ぎ接ぎせざるを得ず、 そこに独自で収集したデータも加えてランキングを作り上げているので、少々 「アレッ」 と思うところもないではない。
しかし、このことによってこの本の価値を下げるものではなく、また当時の “洋楽” の概要を知る上では貴重なデータであり、何よりもこの労作をまとめ上げた 八木氏の功績に心から敬意を表し、 感謝申し上げる次第である。

さて、結果であるが、米国では 20年間にトップ 100にチャートインした 1,580曲のうち (上述のように、1950年 〜 55年まではトップ30)、小生は 593曲 (37.5%) を所有していることが分かり、上位30曲のみとすると、 全 600曲中 332曲 (55.3%) を持っていることになる。

だからどうしたという話になるのだが、これだけあれば当時の米国のヒットチャートの状況をある程度掴めるというもので、 ジャズの流れを引く大人の鑑賞に堪えうるスタンダード系シンガーによる曲から、ロックンロールの台頭、 そしてロックンロールからロックへの発展といった、音楽の変遷を興味深く楽しめるというものである。

それにしても、改めてこれらのチャートインした曲を聞き直してみると、個人的には 1950年代の曲に大いに興味を惹かれる。
ナット・キング・コールや パティ・ペイジ、レス・ポール&メリー・フォードなどはやはり素晴らしいし、ジョー・スタッフォードの 『ユー・ビロング・トゥ・ミー』 は何回も聴きたくなる程である (チャートインしていないが、彼女の 『霧のロンドン・ブリッジ』も素晴らしい)。

そうそう、忘れてはならないのが、1963年の年間第 13位に 坂本九の 『上を向いて歩こう(米国では Sukiyaki)』 がランクインされていることである。
調べると、ビルボード誌のチャートで 3週連続1位を獲得、当時ライバル誌であったキャッシュボックスでも 4週連続1位を獲得しており、 1964年には米国内でのレコード累計販売枚数が 100万枚を超えたことから日本人初の 「ゴールドディスク」 を受賞しているのである。
これは本当にすごいことで、しかも日本語の歌詞のままのヒットであるのだから、もう恐れ入るしかない。
作詞の 永六輔氏、作曲の 中村八大氏、そして歌った 坂本九氏の (六八九トリオ) に最敬礼である。
なお、この 3人は既に鬼籍に入ってしまっているが、坂本九氏が 1985年8月12日に起きた 日本航空123便墜落事故にて 43才の若さでお亡くなりになってしまったことは当時衝撃的であったし、 返す返す残念なことである。

さて、日本のランキングの方であるが、さすがに順位付けを明確にしているのは 1955年からであるものの、 順位はなくても当時流行った曲が列挙されていて大変に参考になる。
結果は、1,153曲中 619曲 (複数年に亘るヒットもあるため重複曲あり) と、こちらも 53.7%を所有しており、米国と同様に曲の傾向がそれなりに掴めるというものである。

特に、米国のヒットチャートと比べると、日本独自のヒットというものも数多くあり (『悲しき少年兵』、『ルイジアナ・ママ』、『恋の片道切符』 など)、 また米国の曲だけではなく イタリア (カンツォーネ:ジリオラ・チンクエッティの『夢みる想い』など)、フランス (シルヴィ・バルタンの『アイドルを探せ』など) の曲などもチャートを賑わせており、 日本人の多岐に亘る受容の心が感じられる (というよりも、歌詞よりもメロディから入らざるを得ない日本人の特性かもしれない)。

また、日本では映画音楽の影響が大きいようで、パーシー・フェイス楽団の 『ムーランルージュの歌』、『夏の日の恋』 や ヴィクター・ヤング楽団の 『エデンの東』、ナルシソ・イエペスの 『禁じられた遊び (愛のロマンス)』 やフィルム・シンフォニック楽団の 『太陽がいっぱい』 などは何回もチャートに登場してきている。

そして、もう一つ面白いのは、この時代は洋楽を日本の歌手がカバーしてヒットさせていたことである。
1950年代は江利チエミ (『テネシー・ワルツ』、『家へおいでよ』、『トゥー・ヤング』など)、雪村いづみ (『想い出のワルツ』、『青いカナリア』、『マンボ・イタリアーノ』など) が活躍し、 1960年代になると伊東ゆかり (『ポケット・トランジスター』、『恋の売り込み』、『夢みる想い』など)、中尾ミエ (『可愛いベイビー』、『バイ・バイ・バーディー』など)、 弘田三枝子 (『子供ぢゃないの』、『悲しき片想い』、『バケーション』など)、飯田久彦 (『悲しき街角』、『ルイジアナ・ママ』など)、 ダニー飯田とパラダイス・キング (『ビキニスタイルのお嬢さん』、『ステキなタイミング』など)、ザ・ピーナッツ (『情熱の花』、『悲しき16才』、『月影のナポリ』など) が競うようにして外国の曲をカバーしていて枚挙にいとまがない。
特に 1960年代に入ってテレビの時代になると、『ザ・ヒットパレード』 や 『シャボン玉ホリデー』 といった番組が放映され、カバー曲のヒットに大いに貢献したことは間違いなく、 日本人のカバー曲のヒットにつられて、元歌がヒットしたということも珍しくなかったようである。

と、自己満足に過ぎない地道な作業を続けてきたが、ネットで調べると、小生のようにオールディーズの曲に当時を懐かしみ、 さらにはそこに詳しい解説を加えている方がかなりいることに驚かされた。
大いに参考にさせて戴くとともに、小生も何らかの形でこの財産 ? を活かす方法を考えていきたいものである (実は少し手がけ始めているので、また機会があればご報告したい)。


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