(東京都交通局)



大都市東京。見渡せば建物ばかり。道路を見ればアスファルト上にところ狭しと車がひしめきあう。路線バスすら車に阻まれてしまうそんな車と建物ばかりの街。こんな東京にも、かつて路面電車が網の目のように走っていた時代がありました。路面電車は「ちんちん電車」と呼ばれ、都民に親しまれ、都民の足として、大都市東京を縦横無尽に走ってしました。その名は都電。東京が市であったころから東京に君臨し、最盛期には41系統にもなる路線網を誇っていました。そんな都電も、東京の街から姿を消し、都バスへと変わっていきました。でも、たった一つ廃止の波をのがれ、現在も元気よく走る都電があります。それが「都電荒川線」です。早稲田〜三ノ輪橋までの12キロの都電は、今では都民のかかせない足として、また、東京のシンボルとして、毎日走り続けています。



【都電の歴史】
都電の歴史は、明治15年6月新橋〜日本橋に開通した鉄道馬車(東京馬車鉄道会社)から始まります。名称が示す通り、この頃は電車ではなく、馬がレール上の車両を引いていました。電車が登場したのは、京都電気鉄道から遅れること8年、明治36年8月に、東京電車鉄道会社(東京馬車鉄道会社からの名称変更)が新橋〜品川八ツ山に開通させた路面電車が最初でした。以降、路線網も拡大され、東京市電時代を経て、都電全41系統の最盛期を迎えます。しかしながら、昭和30年代に入ると、道路上には車が多くなり、乗客は次第にはなれ、路線バス(現在の都営バス)へと移行していきました。そして、昭和47年11月、現在の都電荒川線を残し、都電は全廃しました。

都電の歴史に関しましては、別途詳細をご用意していますので、そちらもあわせてご覧ください。また、都電の歴史は3期に分けることができます。下記表には都電(鉄道馬車除く)の歴史をまとめてありますので、ご覧ください。

第一期
明治36年(1912年)〜明治44年(1911年)

市内電車の誕生(市電以前)
東京に民営三社による市内電車が誕生。 それぞれ異なる会社のため、乗り換え時に運賃が加算される(現在でいう、営団地下鉄と都営地下鉄の乗り換えのようなもの)など、発足時から運賃問題が生じていた。。また、日露戦争での増税と高物価下での運賃値上げがあり、市民への影響は大きく、電車が襲撃されるなど、市内は騒然とする。この様な状況から、市営交通となる。
第二期
大正期(1912年)〜昭和18年(1943年)

東京市電時代
民営会社からの買収等による路線拡大。この時の買収費が高額のため、市電発足時から財政難となる。しかし、懸命な努力により営業面・財政面ともに上向きになる。このような中、関東大震災による大打撃を受けるも、懸命な復旧作業により市電は復興する。しかしながら、今度は第二次世界大戦(太平洋戦争)で壊滅的な打撃を受ける。また、震災後、市電の代替輸送として路線バスが運行された。後の都営バスである。
第三期
昭和19年(1944年)〜昭和47年(1972年)

全盛期から撤去へ
東京都電時代
戦争により壊滅状態となる。しかしながら、市内有数の交通機関であった都電の復旧は、東京全体の復興にもつながるため、急ピッチで作業が行われた。その結果、戦災から5年程で復旧する。
都電復旧後、乗客も増え、最盛期を向かえる。しかし、都市構造の変化と自動車の増加が路面電車のシェアを下げ、結果的に自動車の増加による路面渋滞により都電は廃止された。

都電の歴史(詳細)はこちら



【都電荒川線】
荒川線は元々、明治44年8月20に開通した王子電気軌道という私鉄でした。昭和17年の陸上交通調整法により東京市に統合され市電となり、翌昭和18年の都制施行により都電となりました。荒川線の元となった系統は、27系統と32系統でした。路線の9割が専用軌道という、廃止された他の路線とはやや異なる路線ですが、唯一の都電として運行されています。ここでは、そんな荒川線について記載いたしましたのでご覧ください。



【荒川線の路線】
ここでは、現在残っている都電「荒川線」の路線をご紹介します。都電荒川線は旧27系統(三ノ輪橋―赤羽駅)、 32系統(荒川電車前―早稲田)のうち、昭和47年11月に、27系統の王子駅〜赤羽駅間を廃止された区間を除き、両系統を一本化し、三ノ輪橋〜早稲田までの12.2kmの路線です。沿線には東京の名所が沢山あり、1日乗車券を使用すれば、ゆっくりと下町の人情を味わうことができます。まだ、荒川線は全線の9割が専用軌道なので、ほとんど車に妨げられることはなく、快適な路線といえます。しかしながら、途中に存在する併用区間は、都電らしさをかもし出しています。

都電荒川線路線図



【荒川線の料金】
都電荒川線は料金均一制なので、どこまでいっても160円です。都営バスの200円からすると、ずいぶんと安い交通機関です。また、都営バスや東京周辺の路線バスで使用できる「バス共通カード」でも乗車できる他、都電・都バス・都営地下鉄共通の1日乗車券、都電のみの1日乗車券もあります。詳しくは東京都交通局(リンクページにてリンクを張ってあります)のページをご参照ください。



【荒川線の歴史】
都電荒川線の歴史については、別途ページをご用意いたしました。明治44年8月20の王子電気軌道開通から今日までの歴史を表にまとめてありますので、是非ご覧ください。都電荒川線の歴史はこちら

【画像集】
画像集では、今昔物語として、唯一残った現役の都電「荒川線」と、都内に残る都電の痕跡を撮影した画像を掲載しています。都電は路面電車でしたので、道路との併用区間が大半をしめていました。併用区間については、道路の拡張や地下鉄工事等にて埋まっていた線路も撤去され、痕跡を探すことはほぼ不可能な状態です。しかしながら、専用軌道跡が緑道になっていたり、道路に転用(不自然な分岐があったりします)されていて、なんとか痕跡をたどることができます。

生き残った都電「荒川線」

都電荒川線に走る6000形

都電の痕跡を追う



【コラム】
コラム1:都電荒川線のステップ
都電荒川線で主力として使用されている7000形、7500形、8500形にはステップがありません(画像集参照)。路面電車はその用途から、道路上に歩道のような低い電停で乗降をしていました。今の路線バスと同じような感じです。このため、電車にはステップが設けられていました。ところが、今の都電荒川線にはステップはなく、山手線や地下鉄など、鉄道と同じ様な感覚で乗降ができます。都電荒川線では電停を嵩上げすることでステップをなくし、バリアフリー対策を施したようです。ちなみに、併用軌道上の電停となる宮ノ前についても嵩上げしているため、車から見ると壁のような電停になっています。バリアフリー対策として都電荒川線は電停を嵩上げすることでステップをなくしましたが、その半目、かつての都電らしさ(低い電停からステップを上がって電車に乗る)は損なわれてしまいました。

コラム2:バリアフリー
函館を訪れた際に乗車した函館市電は、今も昔と同じように、安全地帯のある歩道のような低い電停から電車に乗ります。ただ、電車のステップは高く、お年寄りはかなり辛そうでした。また、最近では都営バスをはじめ路線バスにノンステップ車が増えてきましたが、それでも高いステップのある車両が多く走っています。お年寄りやお体の不自由な方にとっては、2段のステップも大変な難関なんですね。都営バスがノンステップ車を導入してバリアフリー化を図るのに対し、都電荒川線は路線の9割が専用軌道なため、ホームを嵩上げすることでステップをなくし、バリアフリー化を果たしました。電停の高さまではスロープになっているため、お年寄りやお体の不自由な方でも安心して電車に乗ることができます。都電らしさは犠牲になりましたが、お年寄りやお体の不自由な方にとってはとても優しい乗り物だと思います。

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