最古の車両 6000形

東京に唯一残る都電荒川線。現在の主力車両は7000形、7500形、8500形となっていますが、このほかに、6000形車両(愛称は一球さん)が存在します。6000形は戦後壊滅状態になっていた都電に登場した、戦後初の新形式車両でした。昭和22年から6年間で290両も製造され、都電の代表形式となりました。都電最盛期には各路線で見ることができ、同スタイルには3000形(242両製造、6000形よりやや短い)、4000形(117両)も存在していたため、戦後の都電の新しいスタイルを築いたといっても過言ではありません。そんな6000形も昭和47年の都電廃止以降はほとんど姿を消してしまいました。一方、唯一残った荒川線の荒川車庫には10両ほどの6000形が在籍していましたが、昭和53年のワンマン化には姿を消してしまいました。しかしながら、6152号だけは応急車としてその後も荒川車庫に在籍し、現在では都電登場当時の塗装となり、毎月第一と第三日曜日の午後に「荒川車庫→早稲田→三ノ輪橋→王子駅→荒川車庫」といったルートで運行されています。このページでは、2000年11月19日・12月3日に撮影した6152号を掲載いたします。


交通量の多い明治通りを走る6152号。画像の右側には桜で有名な飛鳥山公園があり、6080号が静態保存されています。かつての同僚6080号が静かに眠る飛鳥山の麓を、今も現役の6152号は、その姿も誇らしげに併用軌道を快走します。
飛鳥山公園へ繋がる歩道橋の下を通過する6152号。荒川線に残されたわずかな併用軌道を行くその姿も、かつては東京の至る所で見ることができました。
荒川線の元となった32系統の系統番号を付け、飛鳥山電停に進入する6152号。秋の日差しを浴び、往年の車体が輝いています。都電を支えてきた6000形をたたえるかのように。屋根上のビューゲルがまた懐かしさをかもし出しています。
雑司ヶ谷霊園のある雑司ヶ谷電停へ向かい、専用軌道を走る6152号。正面窓の下には大きな前照灯があることから、「一球さん」という愛称で親しまれています。かつて都電の車両は前照灯は1灯でした。7500形は登場時から2灯でしたので、まさに都電の車両のイメージを変えた車両でした。6152号の1灯は今となってはとても貴重です。
6000形はツーマン車なので、車内には運転手の他、車掌が二人(乗車扉の開閉及び料金を徴収している車掌と、車内アナウンス及び降車扉の開閉、運転手への発車合図をしている車掌)乗務していました。扉は手動で、車掌が開閉していました。また、発車時には後部の車掌がひもを引いていましたが、このとき出発の合図として「チンチン」といったベルの音がしていました。
ここまでは、2000年11月19日撮影

6152号(6000形)車両の運転台です。とてもシンプルな構造になっています。また、車内は木製で、暖かみを感じました。
6152号は昭和24年7月30日に日本車輌で製造され、今日までに111万5600キロを走っています。登場から51年という歳月が過ぎました。
三ノ輪橋に到着した6152号です。大きな前照灯が輝いています。
荒川車庫→早稲田→三ノ輪橋→王子→荒川車庫といったルートで運行される6152号。王子に着いた頃には日が暮れていました。
王子で折り返し荒川車庫行となった6152号。1灯の尾灯がなんともいえませんね。
ここまでは、2000年12月3日撮影

6000形の車内は木製で、乗った瞬間油の臭いがしました。また、扉も木製で閉めても隙間がありました。そして、なによりもモーターの音が7000形や7500形とは異なり、とても重々しい音でした。車掌が運転手に出発の合図、「チンチン」とベルをならすと、重々しい音でゆっくり加速していき、ある程度スピードが乗ると荒川線の専用軌道を軽快に走る6000形。年期の入ったこの車両は忘れかけていた木のぬくもりを感じました。ゴトゴトと左右に揺れながら走るこの車両を、いつまでも「動態保存」といった形で残していってほしいと思います。

願いも届かず、6000形は残念ながら引退してしまいました。今後は荒川遊園に静態保存されるとのことです。線路上を走る6000形の勇姿はもう見ることができません。戦後の東京を支えてきた6000形は、過去のものとなりました。とても残念です。
後は、ただただ、荒川遊園に保存される6152号が、飛鳥山の6080号のようにならないよう、祈るだけです。いつの日か、復活できる日がくることを信じて・・・。



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