都電荒川線の歴史

都電荒川線の歴史は、明治44年 8月20日に「大塚〜飛鳥山」間に開通した王子電気軌道から始まります。昭和17年には、陸上交通調整法により、市内路面交通事業(市内電車、路線バス)が東京市に統合され、市電となります。系統は27系統(三ノ輪橋〜赤羽)と32系統(荒川電車前〜早稲田)でした。昭和18年には都制が施行され、都電となります。昭和40年代になると、都電は次々と廃止されていきました。都電荒川線(当時の27・32系統)も廃止対象になっていましたが、路線の大部分が一般道路を通らない専用軌道であること、他に代替輸送機関がないこと、そして、なによりも沿線住民の存続へ対する強い希望があり、昭和47年11月に27系統の一部(王子〜赤羽間)が廃止されただけにとどまり、三ノ輪橋〜早稲田間が存続されました。昭和49年には27系統と32系統を一つにし、「荒川線」と改名し、今日に至っています。2000年11月11日には、都電として70年ぶり(最後に新設された停留所は昭和 5年 3月30日開設の早稲田停留場)に新停留所(荒川一中前)が誕生しました。ここでは、現存する唯一の都電、荒川線の歴史を振り返ってみます。

明治44年 8月20日 大塚〜飛鳥山間が開通。 (王子電気軌道)。
大正 2年 4月 1日 飛鳥山下〜三ノ輪橋間が開通。 (王子電気軌道)
大正14年 2月 7日 飛鳥山下〜王子駅前間が開通。 (王子電気軌道)
昭和 7年 1月 早稲田まで開通。 (王子電気軌道)
昭和 7年12月 王子〜赤羽間が開通。 (王子電気軌道)
昭和17年 陸上交通調整法により王子電気軌道は東京市に統合され、市電となる。
 <系統>
  27系統(三ノ輪橋〜赤羽)
  32系統(荒川車庫〜早稲田)
昭和18年 都制施行により都電となる。
昭和47年11月 多くの都電が廃止される中、27系統の一部(王子〜赤羽)を除く、三ノ輪橋〜早稲田間が都電として存続。
昭和49年10月 1日 27系統・32系統を統合し、都電荒川線となる。
昭和53年 4月 1日 ワンマン化完了。荒川線は全車ワンマン運転となる。また、ワンマン化に際し、7000形 3次車が車体を新造。現在の車体となる。
昭和58年〜61年 7500形の車体を新造し、冷房化が行われる。
昭和60年〜 7500形とあわせて7000形も冷房化される。
昭和62年 7月 集電機器が都電のシンボル、ビューゲルからパンタグラフに変更される。
平成 2年 昭和37年に登場した7500形以来28年ぶりに新形式車両が誕生する。Z型パンタグラフ、VVVFインバータ制御装置、冷房装置を搭載した8500形の登場。
平成12年11月11日 20世紀最後の年に、都電としては早稲田停留所以来70年ぶりに新停留所「荒川一中前(ジョイフル三ノ輪前)」が誕生する。

他の路線と同様、廃止の対象になりながらも、沿線住民の懸命な存続希望がかない、現在も唯一の都電として生き続けている荒川線。平成2年には8500形の登場。そして、20世紀最後の年となった2000年(平成12年)11月11日には、都電として70年ぶりに新停留所が誕生しました。利用客数も1日6万人を越え、都民になくてはならない交通機関となっています。これからも末永く、都民の足として活躍していくことを願っています。明治28年11月に登場した東京の路面電車の歴史は、現在も荒川線によって刻み続けられています。


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