byやませみ


7 関東周辺の温泉

7-1-1 箱根温泉の歴史

中世の箱根

むかしは温泉地のことを湯場(ゆば)といっていました、いまでも湯治場という言葉に残っています。古くから箱根七湯といわれた湯場は、早川に沿った湯本・塔ノ沢・堂ヶ島・宮ノ下・底倉・木賀の各温泉地と、芦の湯を指したものです。それぞれ伝説的な温泉発祥年代は、湯本738年、塔ノ沢1605年、堂ヶ島1311年、宮ノ下1398年、木賀1180年と伝えられています。底倉は開湯伝承がありませんが、1590年の秀吉の小田原攻めのときに将兵の湯治場になったといわれています。芦の湯も開湯伝承はありませんが、鎌倉中期の記録があります。このように古くから知られた箱根の温泉ですが、江戸中期までは西日本の有馬や道後や、ほかの関東の草津や伊香保にくらべて、特に栄えたというわけではありません。

江戸期の箱根

江戸後期には庶民の間に湯治を兼ねた旅行が全国的大ブームとなり、各地の湯場は客寄せのために温泉の効能を盛んに宣伝し、温泉番付や案内書がさかんに出版されました。このころの温泉番付には東方の前頭上位に足(芦)の湯や宮ノ下の湯がランクインしています。ちなみに大関は常に草津で、関脇・小結を伊香保・那須・塩原などが争っていました。

箱根はとくに江戸の庶民に気軽な行楽地として人気があり、大山詣でを口実にした講中(ツアーグループ)が湯めぐりに訪れました。箱根の湯治は本来一回り七日を三回りするのが原則ですが、物見遊山が目的の江戸っ子はしだいに一回りですますようになり、ついには一夜泊まりが主流になってしまいました。とくに湯本は街道沿いで便利だったので、十数件の湯宿が立ち並んでいました。行楽温泉地という箱根の素地はこのころすでにあったのです。

姥子温泉の開湯は平安末期といわれ、坂田の金時(金太郎)の眼病を治したという伝説があるほど古くから知られていましたが、箱根七湯には含められていません。江戸期には仙石原に裏関所が設けられて通行が制限されていたために、遠方からの湯治客が訪問しにくく、近郷の農民が利用するいわゆるジモ専の湯治場だったようです。



図7-1-1 「箱根七湯の枝折」(文化八年,1811)にみる芦之湯の惣湯(共同浴場)

右から石敷きの底から源泉が湧き出すぬるめの「底なし湯」、やや熱めの「中の湯」、幕を張って借り切りができる「小風呂」、最も広い「大風呂」の四つの浴槽があった。原本は彩色で美しいもので、箱根町の重要文化財になっている。


明治・大正の箱根

本稿の冒頭に明治初期の箱根湯本を描いた図
(明治14年の箱根湯本)をのせておきました。まだ江戸期の素朴な様子がそのまま残っています。このころの話として、明治6年に福沢諭吉が塔ノ沢に湯治滞在したときの文章が残っています。このとき福沢は箱根の道路事情が著しく悪く、湯本と塔ノ沢の間の板橋が前年の洪水で流失したまま放置されているのに立腹したらしく。湯場の人々が掛け替え費用を出し渋るのに対して、「人生渡世の道は、眼前の欲を離れて後の日の利益を計ることが最も大切なり」と諭し、二十日間の逗留中に東南の山(湯坂山)の麓に新道を造ったなら金十両を寄付しようと持ちかけています。さらに後日、「塔ノ沢の道のみならず箱根山に人力車を通し、数年の後には山を砕きて鉄道を造るの企てをなさん」と将来を予見しています。

福沢の言葉に発憤してかどうか、こののち箱根には先駆的リーダーが多数輩出し、箱根の交通整備に尽力しました。まず湯本の福住氏が明治8年から5年がかりで小田原−湯本間の人力車道を開削しました。宮ノ下の山口氏は外国人専用の洋式ホテルとして富士屋を開業し、そのために明治20年までに湯本−宮ノ下間の人力車道路を開削しました。芦の湯の松坂氏は宮ノ下−芦の湯間の道路を整備し、これは現在の国道1号線になっています。

おなじ明治20年には東海道線が国府津まで開通、明治33年には湯本まで小田原電気鉄道が敷かれました。大正8年には箱根登山鉄道が開通、同9年には強羅ー早雲山のケーブルカーが開通しています。この間には有名なベルツ博士も、箱根を近代的な温泉療養地にすべく政府に度々勧めましたがその提案はうまく活かされませんでした。

交通網の整備とともに政府高官や皇族、著名経済人が多く訪れるようになると、高級な温泉旅館が続々と整備されてかつての湯宿は駆逐されていきました。箱根の温泉旅館が全般に高いのはこの頃からだったたようです。なお、明治期まではどこの温泉地でも旅館に内湯はなく、湯治客は総湯(惣湯)とか大湯(王湯)とよばれる共同湯に通うのが普通でした。これは古い温泉地には今でも残っています。

昭和の箱根

昭和5年に書かれた新版日本温泉案内箱根十二湯には、以下のように書かれています。気合いのこもった文章なので引用してみます。

「最近の傾向として甚だ喜ばしいことは、一時ブルジョア的であるという怨嗟(えんさ)の的となった箱根諸温泉も、かの関東大震災以後の不景気と、時勢の流れとに目覚めて宿泊料も安くするし、客の待遇も非常に改善されて、一般人が遊んでもそれほどの負担が感じられず、快く、至極のんびりと俗塵を避けられるようになったことは、何よりも愉快なことである。一時は、特殊な金権階級に独占された箱根も、かくして、一般民衆的な箱根「我らの箱根」が出現しつつある」。昭和初期の庶民層の台頭がうががえる文章です。

ブルジョア的云々はさておいて、江戸期の箱根七湯がいつのまにか十二湯に増えています。これには以前からあった姥子に旅行客が入るようになったのと、仙石原(明治2年)、小湧谷(明治11〜16年)、強羅(明治27年)、湯ノ花沢(明治23年)の各温泉が開発されたからです。このうち仙石原、小湧谷、強羅はそれぞれ大湧谷、小湧谷、早雲山からの引湯ではじまりました。このような山岳地の温泉が開発されるようになったのは、箱根の大衆化とともに増加した旅行客を従来の七湯では収用しきれなくなったのと、未開発だった仙石原や強羅高原が避暑地として人気が高くなったためです。

昭和2年の小田急線新宿−小田原間の開業を見越して、大正末から一般大衆を対象とした温泉旅館が多数開業するようになりました。それまで箱根の温泉は自然湧出に頼っていましたが、湯量の確保のため大正14年に湯本ではじめて上総堀による孔井の掘削が許可されてから、各温泉地で新源泉の掘削が急激に進みました。むやみな開発を防ぐために温泉の戸籍をはっきりさせた温泉台帳の整理がおこなわれ、昭和2年の整理結果では88源泉が登録されました。大正5年の箱根の全源泉数は50あまりですから、10年で約2倍になったわけです。当時は温泉の開発を規制する法律がなく、掘った枯れたの抗争が絶えませんでした。温泉の管轄が県警察になっていたのもこのせいです。

第二次大戦後、小湧谷に開設した小湧園で温泉掘削が行われ、昭和24年に最初の火山性水蒸気の噴出に成功して地熱利用が始まりました。また、昭和27年には強羅でも環翠楼にはじめて源泉が掘られました。続く28年には二ノ平に共同浴場「亀の湯」の源泉が竣工し、二ノ平温泉が誕生しました。昭和29年には大湧谷の造成温泉が本格的に仙石原に供給されるようになりました。昭和38年にはそれまで宮ノ下からの引湯だった大平台にはじめて独自の源泉が掘られました。昭和40年にも同じく木賀や強羅からの引湯だった宮城野で源泉掘削が成功しました。また、昭和41年に芦ノ湖岸では湖尻にはじめて源泉が開発されました。

このころが箱根の泉源開発の絶頂で、年間登録数は20以上にもなりました。日本経済の高度成長ピークと全く同調しています。その後の新源泉の開発は急激に減少、その理由は現行の開発協定ではもはや経済的に掘削可能な余地が無くなってしまったのと、オイル・ショックによる不景気でした。昭和53年に芦ノ湖プリンスホテルが開業し蛸川温泉が登録されて以来、新源泉は開発されていません。


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