![]() そのなかのひとり、すでにうっすらヒゲの生えている彼は、僕の質問に答える代りにトランプゲームをしている子どもたちに何かを言った。ひとりの子が1枚のカードを彼に差し出す。彼は子どもから受け取ったスペードのエースを見せると 「俺のことを子どもたちに訊ねるなら、エカードと言えばみんな分かるよ。いいかい、トランプのAカードだよ。」 幼いときからカトマンズのストリートで暮らしてきた彼は、以前、外国人に麻薬を売って生きていたときに覚えた英語でそういうと軽く手を振って去っていった。 ある日の夕方、ゴーサラで子どもたちのケガの手当てをしていると、モーニゲシが青ざめた顔でやってきた。 「エカードが対立するグループの若者たちに襲われてひどい怪我をした!」 モーニゲシはこの辺りのストリートを転々としながら暮らしている18歳の青年。ここゴーサラで過ごすこともあり、僕がゴーサラで最初に会ったストリートチルドレンのひとりだ。そしてエカードも同じように暮らす16歳の青年だ。 ふたりは共にゴーサラで暮らすストリートチルドレンたちの兄貴分として彼らの面倒を見ている。 ゴーサラのバス停を寝床に暮らす12人のストリートチルドレンの多くは11歳〜14歳の少年なのだが、その少年たちが昼間走り回って遊ぶ姿を眺めて、モーニゲシとエカードが「My BROTHER」といったときの優しい瞳は今も僕の心に深く残っている。 そのエカードがこの辺りのいわゆる不良グループにリンチを受け、大変なことになっているらしい。モーニゲシに事情を聞くと以下のようなことだった。 10時ころ、モーニゲシとエカードが仲間と4人でいつもの安い食堂でダルバートという定食を食べていると、対立するグループの青年が彼らを見つけエカードひとりを外へ呼び出した。黄色人種の多いカトマンズでは肌の色の濃いインド系のエカードは比較的目立つ存在だ。そのため以前の抗争で彼らの記憶に残ったエカードは集中的に狙われていた。食堂の外では13人の男がエカードを囲み、一気に殴りかかってきた。 あまりのことに周囲で見ているモーニゲシらは手も出せずにいた。たったひとりで一方的に暴行を加えられうつ伏せに倒れたエカードの後頭部へ、ひとりの男が鉄パイプを力一杯振り降ろした。 その瞬間、鮮血が飛び散り、慌てた男たちは散りじりに逃げていった。 我に返ったモーニゲシが駆け寄り、苦痛にうめくエカードを抱き抱えた。エカードは頭から血を流しながら、馴染みのプラスティック回収所まで連れていってくれるようモーニゲシに頼んだ。意識朦朧としたエカードは途中何度も貧血に倒れそうになり、そのたびにしばらく休み、またモーニゲシの肩を借り、時には背負ってもらいながら、1キロほどの道を歩きプラスティック回収所にたどり着いた。それはモーニゲシにとって限りなく長い時間に感じられた。 プラスティック回収所の主人はすぐエカードをタクシーに乗せて病院へ向かった。それを見送るモーニゲシにできることは、エカードの無事を祈ることだけだった。 モーニゲシの話はそこで終わった。僕はエカードの向かった病院を調べ、明日モーニゲシとともに行くことにした。 翌朝、約束の場所で待っているとモーニゲシは約束の時間に30分ほど遅れてやってきた。その隣にはエカードも一緒だ。頭に包帯を巻き、片足を引きずってゆっくり歩く姿が痛々しい。 ふたりは僕を見つけると軽く片手を挙げ、笑顔を見せた。 「そんなに歩いて大丈夫かい?」 訊ねてみると、エカードは頭はまだふらふらするが、足の打撲はたいしたことはないという。 彼は暴行を受けたときの話をしたが、その話からは一緒にいた仲間や周囲で見ていた大人が誰も助けてくれなかったことへの強いショックが感じられた。 ![]() 彼は以前、2年間施設で暮らしたことがあり、その施設の医療部門へプラスティック回収所の主人に連れて行ってもらった。しかしケガがひどくその施設では処置することができず、施設の負担で大きな病院へ行って、後頭部を7針縫ってもらったという。日本なら入院するようなケガだが、彼は昨夜のうちにプラスティック回収所まで戻り、そこの狭いスペースを借りて夜を過ごした。また今後の治療は施設でやってゆくことになり、5日後に再び施設へ行って消毒することになった。 エカードは心配して集まってきたゴーサラのストリートチルドレンにお金を渡してサモサを買いに行かせ、みんなで分けて食べ始めた。気が付くと、いつの間にかモーニゲシは姿を消していた。 翌日、僕はエカードが襲われた食堂へ行った。カトマンズではごく普通の安食堂だが、その中でもご飯が特に安い。主人に訊ねると毎日5〜6人の子どもが食事にやってくるという。僕は紅茶を頼んで、エカードの暴行事件のことを訊ねてみた。しかしこの食堂では誰ひとりとして事件のことは知らないという。こわばった表情でしっかりと口をつぐみ、調理場のほうへ引っ込んでゆく。明らかに関わりたくないのだ。 ![]() 貝のように口を閉ざす彼らに、僕は話題を変えてここへ来る子どもたちの好きな食べ物やどのくらい食べるのかといったことを聞いてみた。 すると彼らは急に多弁になって話しだし、そのうち3ヵ月前にここで起きた大乱闘の話をはじめた。その乱闘では30人ほどのストリートチルドレンと街の不良が闘い、ひとりの少年がナイフで指を切り落とされたという。乱闘の後、この辺りのストリートチルドレンはいつ敵に襲われるか判らない状態になり、それまで毎日30人ほど来ていた子どもたちもみんなどこか他の所へ散ってしまい、今では日に5人程度しか来なくなってしまった。そういえば、以前エカードから同じ話を聞いたことがある。指を切り落とされたのは彼の友人だったはずだ。 この食堂の主人も心を痛めているのかも知れない。しかし助けに行って自分や店が巻き添えになるのを恐れているようだ。 紅茶を飲み終えた僕は礼を言って引き返した。エカードのことは聞けなかったが、それでも主人は話せることは話してくれたのだろう。 事件から5日後、僕はエカードと待ち合わせて彼が消毒に行くのに同行した。施設へは、ここゴーサラからタクシーで20〜30分かかる。ちょうどカトマンズの北東端から南西端まで行くことになる。施設に着くとシスターが早速彼の頭の包帯を取り消毒を始めた。 「昔は彼女のことをマザーと呼んでいたんだ。」 エカードは施設にいたときシスターに可愛がられたらしく、すこし恥ずかしそうにそう言った。消毒するシスターの周りを精神障害を持った子どもたちが駆けまわり、手当ての手伝いをしようとする。しかしそれはかなり危なっかしく、他のシスターがその子の手を取って遊びに誘う。 ![]() 手当ては15分ほどで終わり、エカードは自分がまだ幼いころ暮らしていた宿舎へ案内するという。彼の頭のケガに響かないよう、菜の花畑のある小道をゆっくり彼について歩いていくと、まもなく周囲を畑に囲まれたコンクリート建築の男子宿舎にたどり着いた。宿舎に入るとエカードがひとりのスタッフに呼びかけた。そのスタッフはすっかり大人になったエカードを見ると懐かしそうに手を取って彼を歓迎した。 ストリートで暮らす彼にも帰ることのできる場所があり、彼のことを想ってくれる人がいる。それは普段の苛酷な暮らしのなかで、どれほど大きな心の支えになっていることだろう。エカードのくつろいだ表情がそのことを物語っている。 ストリートでは彼らを本当に大切に想う大人はいない。彼らは大きな愛情に包まれることもなく、寂しく渇いた心を癒す術も知らずに、未成熟な子ども同士で助け会いながら毎日を生きている。そんな彼らに追い討ちをかけるように、彼らの汚れた姿には容赦のない冷たい視線が浴びせられる。そんななかで自分を保って生きてゆくために、彼らは盗みや麻薬・暴力を覚えてゆく。 エカードが何故、ゴーサラのストリートチルドレンたちに優しいのか、僕にはずっと分からなかった・・・。 彼とともにここに来てよかった。 帰りのタクシーで僕は彼に聞いた。 「ねぇ、僕は君のことをAカードとしか知らない。本当の名前を教えてよ。」 彼はにっこりするとタクシーの振動に震える手で、僕の手帳にその名を記してくれた。 |