衣通郎姫 そとおりのいらつめ(そとおし-,そとおりひめ)

西暦五世紀半ば頃の人。日本書紀によれば、応神天皇の子稚渟毛二岐皇子(わかぬけのふたまたのみこ)の姫で、允恭天皇の皇后忍坂大中姫の妹。応神記に見える藤原之琴節(ことふし)郎女と同一人であろうという(本居宣長『古事記伝』)。ところが古事記は、允恭天皇の皇女で、母は忍坂大中津比売命とし、軽大郎女と同一人物としている。なお、宣長『古事記伝』は衣通をソトオシと訓む。
日本書紀によれば、容姿絶妙で、その美しさは衣を透して輝いたという。允恭天皇に寵愛されたが、皇后の嫉妬を怖れた天皇により、河内の茅渟宮に移された。後世、紀伊国和歌の浦の玉津島神社に祭られる玉津島姫と同一視され、和歌三神の一として崇敬された。
「衣通郎姫」の詠んだ歌としては、日本書紀に二首が伝わる。

玉津島神社
玉津島神社 和歌山県和歌山市。稚日女尊(わかひるめのみこと)神功皇后・衣通姫を合祀する。山部赤人の歌で名高い和歌の浦に近い。

八年の春二月、藤原にいでます。しのびに衣通郎姫の消息あるかたちたまふ。是夕、衣通郎姫、天皇をしのびたてまつり独りはべり。其れ天皇のいでませることを知らずして、歌よみしてはく、

我が夫子せこが 来べきよひなり 小竹ささが根の 蜘蛛くもの行ひ 今宵しるしも

【通釈】今晩は、きっとあの人が来てくれるに違いない。笹の根元で蜘蛛が巣を張っている、今夜はそれがはっきり見えるもの。

【語釈】◇藤原 のち藤原京が営まれたあたりであろう。◇小竹が根の蜘蛛の行ひ 笹の根もとで蜘蛛が巣を張ること。「蜘蛛が来て人の衣に着くと、親客が来訪するという俗信が中国にあり、それで蜘蛛を喜母という」(岩波古典大系『日本書紀 上』)。

【補記】日本書紀巻第十三。允恭天皇八年二月、允恭天皇が密かに衣通郎姫のもとへ向かった時、それと知らずに天皇の来訪を予感して詠んだ歌。古今集墨滅歌には次のようにある。
  そとほり姫のひとりゐてみかどをこひたてまつりて
わがせこがくべきよひ也ささがにのくものふるまひかねてしるしも

【他出】古今集仮名序、古今和歌六帖、俊頼髄脳、奥義抄、和歌童蒙抄、万葉時代難事、和歌色葉、色葉和難集、代集、悦目抄、源平盛衰記

【主な派生歌】
ささがにの蜘蛛のいがきの絶えしより来べき宵とも君は知らじな(藤原実方)
別れにし人は来べくもあらなくにいかに振舞ふ細蟹ぞこは(源師房女[後拾遺])
ささがにの蜘蛛のふるまひ哀れなり是も心の条はみえつつ(後嵯峨院[玉葉])
今更に来べき宵とも頼まれず契り絶えにしささがにの糸(津守棟国[続千載])
頼めても来る宵かたきささがにの糸の乱れて物をこそ思へ(正親町実明女[新千載])
ささがにのくものはたての時鳥くべき宵とや空に待つらむ(三条実重[新後拾遺])
ささがにの蜘蛛のふるまひ兼ねてよりしるしも見えばなほや頼まん(後光厳院 〃)
ささがにの蜘蛛のいとすぢ代々かけてたえぬ言葉の玉津島姫(*二条為重[新続古今])
時鳥くべき宵なりささがにのくものけしきもむらさめの空(木下長嘯子)
かねてよりくもの振舞しるくして降り来る閨の夜半の雨かな(大国隆正)

十一年の春三月の癸卯みづのとう丙午ひのえうまのひに、茅渟ちぬの宮に幸す。衣通郎姫、歌よみして曰く、

とこしへに 君もへやも いさなとり 海の浜藻はまもの 寄る時々を

時に天皇、衣通郎姫にかたりてのたまはく、「是の歌、他人あたしひとになかせそ。皇后、聞きたまはば必ず大きに恨みたまはむ」とのたまふ。かれ、時の人、浜藻をなづけて「なのりそも」とへり。

【通釈】いつも、しょっちゅうあなたに逢いたいけれど、そんなことができるでしょうか。海の浜辺に藻が寄せるように、時々しかあなたは寄ってくれないのに。

【補記】日本書紀巻第十三。允恭天皇は衣通郎姫に夢中であったが、皇后の嫉妬を怖れ、姫を河内の茅渟宮に住まわせた。その後、しばしば狩をすると言っては茅渟宮に行幸したが、皇后から釘をさされ、足を遠のけざるを得なくなった。一年経ち、久しぶりに茅渟宮を訪れた天皇に対し、衣通郎姫が詠んだのが上の歌であるという。天皇はこの歌を聞き「皇后が聞けば恨むであろうから、誰にも聞かせてはならない」と姫に言い聞かせた。以来、時の人々は浜藻を「なのりそ藻」(「なのりそ」は「名告ってはならない」の意)と呼ぶようになったという。

【他出】新続古今集の神祇歌、左注に「この歌は、玉津島の御うたとなん」として載る。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月16日