父は気長宿禰王(開化天皇の曾孫)、母は葛城高額媛(かずらきのたかぬかひめ)。応神天皇の母。
仲哀天皇の二年、皇后となる。八年、天皇の熊襲征討に従い筑紫に下った際、神がかりして新羅征討を訴えるが、天皇はこれを容れず、翌年崩御。皇后は四大夫(中臣烏賊津連・大三輪大友主君・物部胆咋連・大伴武以連)に命じ、百寮を率いて宮中を守らせる。同年冬、新羅に出兵し、新羅は戦わずして降服。翌年、皇太后を称し、政事を司る。摂政六十九年四月、磐余の稚桜宮で崩御。陵墓は佐紀古墳群中の五社神古墳(奈良市山陵町)に比定されている。
誉田別命(応神天皇)に盃を奉げる時の歌が古事記・日本書紀に載る。以下は古事記からの引用である。
ここに還り上ります時に、その御祖息長足日売の命、待酒を醸みて献りき。ここにその御祖、御歌よみたまひしく
この御酒は 我が御酒ならず 酒の司 常世にいます 石立たす 少名御神の 神祷ぎ 寿ぎ狂ほし 豊寿ぎ 寿ぎ廻し 献り来し 御酒ぞ 乾さずをせ ささ
【通釈】このお酒は、私のお酒じゃないのよ。お酒を管理されている、常世にいらっしゃる、岩のようにどっしりとした、少名彦名神(すくなびこなのかみ)が、お祝いして下さって、めちゃくちゃお祝いして下さって、たっぷりお祝いして下さって、お祝いし尽くして下さって、献上して来たお酒なのよ。盃を乾かさずに召し上がって下さいな、さあさあ。
【補記】古事記中巻。建内宿禰が禊ぎのために神功皇后の御子(のちの応神天皇)を連れて近江・若狭・高志などを経巡って帰還した際、神功皇后は酒を醸造し、御子に献上した。その時に詠んだ歌。建内宿禰が御子に代って返した歌と共に、酒楽(さかくら)の歌と名付けられる。日本書紀巻第九にもほぼ同内容の歌を伝える。
更新日:平成15年04月17日
最終更新日:平成21年04月14日