允恭天皇 いんぎょうてんのう 別名:男浅津間若子宿禰命(おあさづまのわくごのすくねのみこと)

仁徳天皇の皇子。母は磐之媛。反正天皇の同母弟。忍坂大中姫を皇后とする。子に木梨軽皇子・安康天皇・雄略天皇がいる。
同母兄反正天皇崩後、郡卿により即位を請われるも、病弱などを理由に固辞したが、正室の大中姫の熱意により登極を決意した。允恭三年、新羅より医師を招き、病を治療させる。四年、探湯(くかたち)により氏姓の秩序を正す。十一年、大伴室屋に命じ、衣通郎姫のために藤原部を定めさせる。二十三年、木梨軽皇子を皇太子とするが、翌年、皇子が同母妹の軽大娘皇女と密通したことが漏れ、軽大娘皇女を伊予に配流する。西暦451年、倭王済、宋朝から使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓(辰韓)・暮韓(馬韓=百済)六国諸軍事を加号される。四十二年一月、崩御。河内長野原陵(藤井寺市の市ノ山古墳に比定される)に葬られる。
日本書紀に二首の歌を伝える。以下はその二首である。

 

ささらがた 錦の紐を 解き()けて 数多(あまた)は寝ずに 唯一夜のみ

【通釈】ささら模様の錦の紐をほどき、お前の衣を脱がして、幾晩も寝ることはできないけれど、今夜一晩だけ寝よう。

【語釈】◇ささらがた 細かい紋様。

【補記】日本書紀巻第十三。衣通郎姫の歌「わが夫子が…」への返し。

【他出】古今和歌六帖、和歌色葉、続古今集、代集、和歌用意条々、六華集
(初句を「をぐるまの」、第四句を「ときかけて」とする本もある。)

天皇、井のほとりの桜の華をみそなはして、歌よみしてのたまはく

(ぐは)し 桜の()で こと愛では 早くは愛でず 我が愛づる子ら

【通釈】なんと繊細な花の美しさ、桜の美事さよ。どうせ愛でるのだったら、もっと早く愛でればよかったのに、そうしなかったのが惜しいよ。愛しい姫よ。

【語釈】◇花細し 桜の繊細な美しさを讃える詞。桜の枕詞とも見られる。

【補記】日本書紀巻第十三。桜に寄せて衣通郎姫を讃えた歌。皇后大中姫がこの歌を聞いて嫉妬し、姉に遠慮した衣通郎姫は王宮を離れることを請うたため、天皇は河内に茅渟宮を造り、郎姫を住まわせた。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月16日