大国隆正 おおくにたかまさ 寛政四〜明治四(1793-1871) 号:真爾園(まにぞの)・佐紀乃屋

寛政四年(1792)十一月二十九日、石見津和野藩士今井秀馨の子として江戸桜田の同藩邸に生まれる。姓は初め今井、のち野々口を称し、また大国と改めた。名は秀文、のち秀清。
少年期、平田篤胤の門に入り、古道学を学ぶ。のち本居宣長の学風を慕って宣長の弟子村田春門に入門し、音韻学などを学ぶ。文政元年(1818)から五年間、長崎に遊学し、蘭学を修める。文政十一年(1828)、藩の大納戸武具役となるが、翌年脱藩。天保二年(1831)父の死後、姓を野々口と改めた。同五年、家が火災に遭い、やがて妻子を人に託して大阪に出る。浪人生活の後、播磨小野藩に招かれて藩の子弟の教育に携わったり、京で私塾を開いたり、また姫路藩に請われて国書を講じたりした。嘉永六年(1853)、ペリー来航の際には『文武虚実論』などを著し国防を論じた。明治元年(1868)、七十七歳にして徴士に登用され、内国事務局権判事・神祇事務局権判事を歴任したが、間もなく老齢を理由に職を辞した。明治三年、東京に移り、翌年八月十七日(旧暦)、死去。没年八十。墓は赤坂霊南坂陽泉寺にある。門人に鈴木重胤・玉松操・福羽美静などがいる。
著書には上記のほか『古伝通解』『本教神理説』『本学挙要』などがあり、歌書としては『六句歌体弁』『歌日記』『歌学入門』『言葉の正道』『わか草』などがある。明治二十八年に門弟が成した家集『真爾園翁歌集』に千百余首の歌を残す(校注国歌大系二十、大国隆正全集七に収録)。以下には同書より五首を抄出した。

立春

ふる年の星のひかりは消えゆきて今年の朝日さし昇るなり

【通釈】旧年の星の光は消えていって、今年の朝日が輝いて昇るのである。

【語釈】◇ふる年 旧年。暮れる年。

【補記】立春の払暁、消えゆく星の光と昇り来る日の光に、旧年と新年の交替を見る。『真爾園翁歌集』の巻頭第二首。第一首は「すめらぎのたがはぬ国の春に逢ひて御祖(みおや)の朝日あふぐ尊さ」。

題しらず

追ひつぎて花もながれむ角田川(すみだがは)つつみの桜かげ青みゆく

【通釈】追っ付け桜の花びらも流れるだろう。隅田川の堤の桜の、水面に映る影が青くなってゆく。

【語釈】◇角田川 隅田川。武蔵国の歌枕。東岸の堤は古来桜の名所。

【補記】江戸の花の名所隅田川。その水面に映った桜に青葉が萌すのを見て、落花も遠くないことを感じている。

郭公(ほととぎす)

ひと声をききそめしより時鳥ただ大空のなつかしきかな

【通釈】一声を初めて聞いた時から、ほととぎすよ、ひたすら大空が慕わしく感じられることよ。

【補記】空を翔けながら鳴くほととぎす。その年最初の声を聞いて以来、空に心を惹かれ続けているという。まことに端的な時鳥憧憬の詠で、細工のない歌いぶりが清新の感を与える。

はかなしと月や見るらむ昔よりかはらぬ空にかはりゆく世を

【通釈】はかないものだと月は見ているだろうか。昔から変わらない空にあって、変転きわまりない人の世を。

【補記】正確に満ち欠けを繰り返す月は、永遠不滅の象徴であった。その月の視点から人間社会を見返しての感慨。同題の歌群中には「大君のかはらぬ国にうまれきて昔ながらの月を見るかな」という歌もあり、熱烈な皇道主義者であった作者が果敢ない人の世にあって「かはらぬ」ものを皇統に見い出していたことも知れる。

【参考歌】藤原道信「拾遺集」
朝顔をなにはかなしと思ひけむ人をも花はさこそ見るらめ

時雨

見えにけり見えずなりけり雲早くしぐるる方の松のむら立ち

【通釈】見えた。かと思うと見えなくなってしまった。雲が素速く動き、時雨が降る方に生えている松林は。

【語釈】◇時雨(しぐれ) ぱらぱらと降ってはやむ、晩秋から初冬にかけての通り雨。

【補記】素速い雨雲の動きによって見え隠れする松林。初二句の大胆な措辞が時雨の本意を捉えている。


公開日:平成21年05月10日
最終更新日:平成21年05月10日