後光厳院 ごこうごんのいん 建武五〜応安七(1338-1374) 諱:彌仁

光厳院の皇子。母は内大臣正親町公秀女、陽禄門院秀子。崇光院の同母弟。後円融天皇の父。
文和元年(1352)閏二月、京都を占拠した南朝方によって光厳院や崇光院が拉致されたため、同年八月、足利義詮の要請により祖母広義門院に擁立されて践祚(北朝第四代後光厳天皇)。時に十五歳。翌年六月、楠木正儀らの入京に際し、義詮に奉じられて美濃・近江へ遷幸。その後も度々南朝軍に京を攻められ、地方への遷幸を繰り返した。応安四年(1371)三月、緒仁親王(後円融天皇)に譲位して院政を行なう。同年閏三月、太上天皇の称号を贈られる。同七年(1374)正月二十九日、崩御直前に落飾し、法名は光融。宝算三十七。陵墓は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。
父や兄崇光院は京極為兼伏見院以来の持明院統の歌風(京極風)の保持に努めたが、後光厳院は尊円親王の進言もあって二条家の歌風を受け入れ、以後の和歌史における二条派優位を決定づけた。延文元年(1356)六月十一日、将軍足利尊氏の執奏により、二条為定を撰者として勅撰集撰進の綸旨を下す(武家執奏による勅撰集の初例)。これが延文四年(1359)に奏覧された新千載集である。次いで貞治二年(1363)二月二十九日、将軍足利義詮の執奏により新拾遺集撰進を二条為明に下命。翌三年四月、四季部が奏覧されたが、同年十月に為明は病没し、頓阿が跡を継いで完成させた。応安二年(1369)の内裏和歌、同六年の二十首歌など、歌会も盛んに催した。新千載集初出。勅撰入集四十六首。

応安六年仙洞にて二十首歌講ぜられしついでに

なほさゆる雪げの空のあさ緑わかでもやがてかすむ春かな(新後拾遺10)

【通釈】なお冷え冷えとしている雪模様の空は薄藍色に染まり、どこからとはっきり区別はできなくとも、やがて霞が立ちこめる春なのだ。

【補記】「あさ緑」は浅い緑色でなく、明け方や夕方の空の色、すなわち薄い藍色である。また、春霞の色も浅緑と言いなされることが多い(「あさみどり春はきぬとやみ吉野の山のかすみの色に見ゆらん」壬生忠見『続後撰集』)。

【参考歌】藤原雅経「明日香井集」
なほさゆるおなじ雪げの空の雲たたまくをしき春がすみかな

百首歌めされし次に、五月雨

五月雨はあやめの草のしづくより猶おちまさる軒の玉水(新後拾遺209)

【通釈】五月雨(さみだれ)は屋根に降って菖蒲草の雫となったのち、いっそう激しく軒から玉水となって滴り落ちることよ。

【補記】趣向としての、レトリックとしての細かい描写は、京極風と言うよりは二条風。「あやめの草」は、五月の節句の日、軒に挿して邪気を祓ったショウブ草であり、花の美しいアヤメではない。延文百首。

【参考歌】鴨長明「正治後度百首」
あやめ草ぬれぬれふきし雫よりたえせぬ軒の雨そそきかな


最終更新日:平成15年06月15日