平成20年指定文化財

更新日 2013-03-03 | 作成日 2007-10-08

喚  鐘    1口

LinkIconhakumoji.jpgLinkIcon
有形文化財・工芸品
福岡市西区 白亳寺

概要

 近世の博多の鋳物師としては大田(太田)、柴藤、山鹿、礒野、深見の五家が知られている。元禄十二年(1699)、福岡藩は筑前国中の釜屋座・鉄問屋を博多九人、甘木一人の十人に定めた。しかしながら上記五家を始めとしたその鋳造品の現存例は数少ない。ことに寺院の梵鐘・殿鐘・喚鐘類は戦時下の金属供出のため二十数例をしか数えない。
 山鹿包茂は深見甚平興昌・山鹿儀平兼賢とともに寛政八年(1796)、長崎警護のための大砲を鋳造するなど(『新訂黒田家譜』)、この頃活発な活動をしている。
 品質 鋳銅製
 形態 和鐘と朝鮮鐘との混交型 
 法量 総高55.2㎝ 鐘身高44.2㎝ 底部外径33.3㎝ 底部内径26.6㎝ 
 時代 寛政十二年(1800)
 鋳工 鑄工 博多住 山鹿五次平包茂
 銘(陰刻) 原銘文の行割りは以下の配置とは異なる。
    「 西海路筑前州早良縣
      姪濱邑
      凉溪義夕信士 直峰玄指信士
      石橋氏娘常 石橋善助 石橋太郎次 石橋太七
      吉浦六右衛門 江嶋庄七 近藤利七 吉安六次母 大田助次 後藤与市郎 
      津田源三 石橋太三郎 田代甚助 津田半右衛門 西嶋権次 江藤与七 
      津田弥平丕推願轂募 求檀信新鑄鐘架 佛頂山白毫禪寺
        銘曰
      忠誠所成 浦空新成 以粛禪誦由闡幽明
      人天勸喜弥陀名聲  寳藏徳満佛頂光生
      梵音高撃願海功宏  白毫之相無量之榮
      寛政第十二龍 庚申 三月吉祥良辰
      現世安穏 諸檀信衆 後生善所
      海晏山興徳禪寺小比丘無外 紹海誌之
          鑄工 博多住 山鹿五次平包茂  」 

指定理由

 本喚鐘を製作した山鹿氏および芦屋釜に触れて『筑前国続風土記』(元禄十六年〔1703〕)は、「蘆屋釜 むかしより此國遠賀郡蘆屋里に鋳物師の良工あり。(中略)山鹿左近掾と稱せらる。本姓は大田なれ共、蘆屋の山鹿に居住せる故山鹿と稱す。(中略)かの左近掾か末、慶長年中 長政公入國の比迄は、蘆屋にありて、鋳工多かりしか、其後断絶す。遠孫共博多或姪濱等に來りて鋳る。其中に大田次兵衛と云者すくれて良工也。」と伝え、『筑前国続風土記附録』は、「蘆屋釜并冶工か事本編(六五五)に見へたり。今博多に蘆屋釜師か遠孫山鹿氏、本姓ハ大田、月俸三口を賜ハる、有。茶釜の製古へに劣らす。又霰間鍋・茶瓶等其外数品を鑄る。頗良工なり。」と伝える。
 元禄十二年(1699)十二月八日、博多九人、甘木一人の十人に国中の釜屋座・鉄問屋が定められたが、このうち九名は博多の釜屋町喜兵衛・与右衛門、土居町七兵衛・甚兵衛・小兵衛、西町釜(屋脱ヵ)番善右衛門、大乗寺前町藤兵衛・三郎右衛門、瓦堂圖師七兵衛であった(『博多津要録』)。釜屋町喜兵衛は大田氏、土居町七兵衛は礒野氏、土居町甚兵衛は深見氏、西町釜(屋脱ヵ)番善右衛門は柴藤氏に比定される。
 大田喜兵衛が居住したという釜屋町は近世博多の町名にはない。通称であったのだろうか。櫛田神社に所蔵される上記した同年同月日・同内容の釜屋座・鉄問屋の定めの史料は金屋町喜兵衛宛となっている。金屋町は現在の博多区下呉服町・中呉服町に当たる。
 芦屋鋳物師の出である大田氏は後に山鹿氏と名乗りを変える。加藤一純編『冶工山鹿氏系譜序』(天明三年〔1783〕)は、「兼藤五次兵衛と云、光之公(寛永五年・1628-宝永四年・1707)江戸営中に献じ給ふ茶釜を冶工せしめ給ふ、中比太田と呼しかども此時氏を山鹿と改め」たと記す。18世紀中頃のことと考えられる。
 本喚鐘を製作した山鹿五次平包茂は、同族山鹿儀平兼賢、同業深見甚平興昌とともに寛政八年(1796)、長崎警護のための大砲を鋳造している。即ち、「博多の鑄工深見甚平興昌・山鹿五次平包茂・山鹿儀平兼賢に鑄らしめ、福岡の砲工道元齊助信吉・道元慶次玉辰・一鬼彌左衛門直恆、一鬼藤八郎能遠、一鬼市之進直意に□□□□□□しめらる。又下司数人に命し、明九年八月に至て皆鑄成し」(『新訂黒田家譜』)いる。
 この他山鹿包茂の作には、寛政九年(1797)の本興寺(博多区中呉服町)喚鐘、供出で失われた享和二年(1802)の太宰府天満宮の手水鉢などがあり、このころの山鹿氏の盛んな活動を伝えている