吉田健一 よしだ・けんいち(1912—1977)


 

本名=吉田健一(よしだ・けんいち)
明治45年4月1日—昭和52年8月3日 
享年65歳(文瑛院涼誉健雅信楽居士)
神奈川県横浜市西区元久保町3–24 久保山墓地K14区 



評論家・英文学者・小説家。東京府生。ケンブリッジ大学・キングズカレッジ中退。父は吉田茂。翻訳から出発、昭和14年中村光夫らと『批評』を創刊。ヨーロッパ文学の素養をもとに、評論や小説を著した。『瓦礫の中』で読売文学賞受賞。『シェイクスピア』『日本について』『ヨオロッパの世紀末』などがある。






  

 日差しが変って昼が午後になるのは眼に映る限りのものが昼から午後に移るのでその光を受けた一つの事件もその時間の経過によって人間の世界に起った一つの出来事と呼んで構わない性格を帯びる。もし時間が凡てを運び去るものならばそこに凡てがなくてはならない。そういうことを考えていて唐松は一般に陳腐の限りであるように思われて脇に寄せられていることがその初めの意味を取り戻して時間のうちにその手ごたえがある形を現すのを見た。それが例えば人生であって人間が生れて死ぬまでの経過はそれとともに時間が運び去つた一切があつてその人間の一生と呼ぶ他ないものになり、そういう無数の人間の一生がその何れもが人間の一生であるという印象を動かせなくしてそこに人生がその姿を現す。又一日は二十四時間でなくて朝から日が廻って、或は曇った空の光が変って午後の世界が生じ、これが暮れて夜が来てそれが再び白み始めるのが、又それを意識して精神が働くのが一日である。そのことを一括して言えばそれが生きるということだった。
 
(埋れ木)



 

 うねうねと限りなくつながる言葉と言葉、現れては消えていく時間、酩酊とも覚醒ともいえる独特の文体は、酒と共に成り立っていた作家の人生に合致する。
 昭和52年、欧州旅行の途中に体調を崩して肺炎を発病、緊急帰国して入院する。しかしその生活態度はまったくといっていいほど変えなかった。小康を得て退院したあとの8月3日夕刻、吉田健一のさっぱりとした死は、あるいは望むべくして到達した死であったかも知れない。〈少しでも人間であることの味を知ったものなら兎に角死ぬことが自分にとっての一切の成就である〉と銘した彼にとって、存分に人間味を享受した65年の歳月、その死に何ほどの苦痛があろうか。覚悟の末の、人生の集大成であっただろうと想像する。



 

 父吉田茂の養父であった横浜の豪商健三の寄進した光明寺の北側、広大かつ起伏に富んだ久保山墓地がある。雲間からはちらちらと蒼光も射し込み、風も清らかだ。遥かに横浜ランドマークタワーが霞んで見え、穏やかな梅雨前の平和な風景だが、眼下に目をやると、まるで大地震によって陥没した地形の中から沸き上がるがごとく、瞑目したはずの墓群の息吹が聞こえてくるようだ
 。黒々とした巨塊の健三墓とその両親の墓が並ぶ吉田家墓所。その傍らに中村光夫揮毫による「吉田健一墓」。「平成十年吉田健介・暁子建之」とある。異様とも見える石塊の蔭に、我、関せずと建つ白く頼りなげな碑は、秋と黄昏を愛したほろ酔い文人の遊ぶ、酒の海にたゆたう浮標にも見える。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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