横瀬夜雨 よこせ・やう(1878—1934)


 

本名=横瀬虎寿(よこせ・とらひさ)
明治11年1月1日—昭和9年2月14日 
享年56歳(真如院文誉慈潤夜雨清居士)
茨城県下妻市大字横根 横瀬家墓地 



詩人・歌人。茨城県生。幼児期、くる病に冒され生涯苦しむ。河井酔茗、伊良子清白と並び称される「文庫派」の詩人。明治38年詩集『花守』を刊行。40年河井酔茗主宰の詩草社に参加。ほかに詩集『夕月』『二十八宿』『横瀬夜雨詩集』などがある。






  

女男(ふたり)居てさえ筑波の山に
霧がかかれば寂しいもの

佐渡の小島の夕浪千鳥
弥彦の風の寒からむ

越後出てから常陸まで
泣きにはるばる来はせねど

お月様さへ十三七つ
お父恋ふるが無理かえな

三国峠の岨路を
越えて帰るは何時じゃやら

やはり妹(おばま)と背負縄かけて
薪木拾うてあったもの

お才あれ見よ越後の国の
雁が来たにとだまされて

弥彦山から見た筑波根を
今は麓で泣こうとは

心細さに出て山見れば
雪のかからぬ山は無い

(お才) 



 

 横瀬夜雨は明治11年1月1日、茨城県真壁郡横根村(現・下妻市)に生まれ、昭和9年2月14日午前5時31分、残り雪の凍っている厳寒の朝に急性肺炎のため亡くなった。
 伊良子清白、河井酔茗とともに〈文庫派〉の三羽烏といわれた筑波根詩人横瀬夜雨は、幼児期に冒されたくる病で背骨が曲がり、足も萎え、重度の障害となって生活者としての始終を苦しめられ、歩行さえも困難にしたが、夜雨の気迫は生理的にいっても困難な生涯に奇跡をもたらしたようだった。
 私塾を開いては農民の教育に尽力したり、『女子文壇』の詩欄や新聞の歌欄を通じて若い人材の指導にあたったり、その闘いの中から生み出された生命の灯はいまも尽きることなく筑波の麓の「雪あかり」となっている。



 

 常陸野の冬木は北風に遊ばれて、畑中の墓地は銀色の庭。「横瀬夜雨墓」は少し後ろに傾きながら夕陽に煌めく残雪の返り陽をあびて黙立する。
 〈人間、各自の方寸に生き、けふを今日として正しく暮らす他に道はない。あの世があるなどとは毛頭思へないだけに、死がいつ不意にやってきようと、それは自分の知ったことでもなければ、驚くべきことでもない〉と悟った夜雨の死に際し、河井酔茗は冥悼した。〈夜雨は此村で生れて此村で死んだ。こんな淋しい所で、夜雨の人生があり、夜雨の芸術があり、夜雨の恋愛があった。われわれのように都会の風塵に埋れて雑音の裏に送る一生もあれば、夜雨のやうに生れた家で座ったまま五十七年を生きとほした一生もある〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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