矢山哲治 ややま・てつじ(1918—1943)


 

本名=矢山哲治(ややま・てつじ)
大正7年4月28日—昭和18年1月29日 
享年24歳(詩心院釈哲亮居士)
福岡県福岡市中央区天神3丁目12–3 光円寺(浄土真宗)



詩人。福岡県生。九州帝国大学卒。昭和14年第一詩集『くんしやう』を上梓。九州帝国大学在学中、同人雑誌『こをろ』を主宰。このころ長崎に旅行途上の立原道造と福岡で会う。17年久留米で入隊も病により除隊。情緒不安定になり、無人踏切で轢死する。詩集『友達』『柩』などがある。






  

 夜だ。すべてのものへ一様の運命せまる。闇だ。のがれるものは急げ。ゆくものは止らずあれ。さうして。ぼくだ残ったものはぼくだ。恐れないか。こはくはないか。何を。風がすぎる。地の声がする。ぼく一人だ。樹木がいっせいに揺れる。闇のなかで。大地が傾く。ぼくの足もとから。ふるへながら。しかし。そこに居るのは誰だ。お前は。まるで。ぼくの汚れと傷をみておびえたかに。おそれで近づけないかのやうに。何がお前をひきとめて奪へないの。すすんで美しいものが。お前のうちに在ると。知らないお前はかあいさうだね。夜がかくす音楽を。花やぐ祭のどよめきをお聴き。ぼくがお前を呼ぶ日まで。お前はぼくを数へ得ない。どんなに身悶えようと。残酷にしかお前をぼくは愛さない。だが。ぼくは。出立へかからう。お前を甘やかすのでなく。美しいひとは。自分で奪はれていったのだ。すべての日の終りに。始めに。やがて。眠りのいちばん深い眠りをねむる時。眼のそとを朝あけ。薔薇色の朝だ。

(詩人と死)



 

 精神不安から不眠に悩まされていた矢山哲治は、昭和18年1月18日の手紙で『こをろ』同人吉岡達一に〈いまは、自分を信じてゆくほか、そのほか何があらう。(略)死ぬとき死ぬばかりだ。ながい生でゆくほかないのであった。〉と、書き送った。
 その後2週間も過ぎぬ日の朝、自宅から1キロほど東にある住吉神社でのラジオ体操に参加したその帰り道、西鉄大牟田線薬院と平尾間の無人踏切で、上り電車に轢かれて死んだ。矢山の戸籍謄本には〈推定昭和拾八年壱月弐拾九日午前六時参拾分福岡市大字平尾不詳番地ニ於テ死亡〉とある。
 享年24、突然のその死は自殺であったか事故死であったか、憶測は憶測、誰も聞かず、誰も話さず、今もって判然としない。



 

 70年ほど前、『こをろ』同人の島尾敏雄が弔辞を読んだ矢山哲治の葬儀はこの光円寺で行われた。鍛冶町と呼ばれていた所在地名もいまは天神3丁目となり、寺も昭和20年6月の福岡大空襲によって焼失してしまった。
 その後再建された本堂も平成6年、超近代的かつ瀟洒な美術館か、はたまた音楽施設かと見違えるような建物に様変わりしてしまった。定期的にジャズライブが開かれるという本堂奥の納骨堂に、天窓から降り注ぐ陽光は矢山哲治の傷ついた心をはるかに安め、〈夜が明けるまで 羽が休まるときまで翔けてゐませう〉、と呼びかけた鳥はいまも福岡のこの空を、死んでしまった詩人を探しもとめて日が暮れるまで飛んでいるのだろうか。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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