山川登美子 やまかわ・とみこ(1879—1909)


 

本名=山川とみ(やまかわ・とみ)
明治12年7月19日—明治42年4月15日 
享年29歳(登照院妙美大姉)
福井県小浜市伏原45–3 発心寺(曹洞宗)



歌人。福井県生。梅花女学校(現・梅花女子大学)卒。明治33年与謝野鉄幹が創刊した雑誌『明星』に歌が掲載される。34年結婚するが、翌年死別。まもなく上京して日本女子大学予備科に入学。その間、鉄幹の新詩社社友となり、「白百合」と題して短歌131首を収載。38年晶子らと共著『恋衣』を刊行した。






  

髪ながき少女とうまれしろ百合に額は伏せつつ君をこそ思へ 

をみなにて又も来む世ぞ生まれまし花もなつかし月もなつかし

地にわが影空に愁の雲のかげ鳩よいづこへ秋の日往ぬる

山うづめ雪ぞ降りくるかがり火を百千執らせて御墓まもらむ

おつとせい氷に眠るさいはひを我も今知るおもしろきかな

いま残るこの半生はわれと我が葬る土ほる日かずなるかな

後世は猶今生だにも願はざるわがふところにさくら来てちる

わが柩まもる人なく行く野辺のさびしさ見えつ霞たなびく

父君に召されて去なむ永遠の夢あたたかき蓬莱のしま



 

 与謝野鉄幹への思慕や晶子とのもつれた感情も今は儚い。梅の老木と桜木のよく見える山川家の奥座敷、父貞蔵が病臥し、死んだその部屋で、菩提寺の山に続く父の長い葬列を門の前で見送った登美子もまた肺を病んで伏せっていた。明治42年4月15日、座敷からみる満開の庭の桜は散りはじめていた。〈後世は猶今生だにも願はざるわがふところにさくら来てちる〉。——なんと哀しい歌であることか。
 〈白百合の君〉、〈薄幸の歌人〉と冠され、『明星』初期以来の主要同人であった登美子はその日、昼過ぎに寂しくも逝ったのだった。29歳9か月、死の2日前、弟亮蔵に託した〈父君に召されて去なむ永遠の夢あたたかき蓬莱のしま〉の辞世を遺して。



 

 海のある奈良といわれる若狭の国小浜の駅舎裏、雨は降りやまないのに暗緑色の後瀬山襞に乳白色のもやが激しく立ちのぼって見える。修行僧の雪中寒修行が冬の風物詩として有名になったこの寺の裏手、古戦場のような墓群を縫い、のぼり詰めた先に山川家の墓所はあった。
 父貞蔵の墓の後ろに隠れるように建つ登美子の墓。「登照院妙美大姉」、側面に「明治四十二年四月十五日 行年三十一才 土葬」とある。当時としては一般的な埋葬の仕方ではあるが、「土葬」という文字に私は少なからずの動揺を覚えた。陰りは濃くなって〈山うづめ雪ぞ降りくるかがり火を百千執らせて御墓まもらむ〉と父の葬送に詠んだ山に雨はふりつづいていた。登美子の埋もれた山に雨は降りつづいていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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