臼井吉見 うすい・よしみ(1905—1987)


 

本名=臼井吉見(うすい・よしみ)
明治38年6月17日—昭和62年7月12日 
享年82歳 
東京都八王子市上川町1520 上川霊園5区5番2号


 
評論家・小説家。長野県生。東京帝国大学卒。昭和15年筑摩書房創設に参画。戦後、総合雑誌『展望』の編集長を務めた。『近代文学論争』で芸術選奨文部大臣賞、『安曇野』で谷崎潤一郎賞を受賞。『一つの季節』、川端康成をモデルにした『事故の顛末』などがある。






 

 これら残雪の高い山々がうしろにひかえた、いまごろの安曇野ほど美しいところを良は知らなかった。見渡すかぎり、紫雲英の花で埋もれ、そこかしこに土藏の白壁がちらほらする。大地主もなく、貧農もない、多くは勤勉な自作農で、家のつくりにも、それらしいおちつきがある。どこの家でも蚕を飼い、収入も割がよかっただけに、たいていは母屋のほかに、蚕室の棟がならんでいる。川という川に水が溢れ、葦がしげり、よしきりが鳴きたてる。昼はねぶたげな山鳩が聞え、暮れがたになると、水鶏がたたく。れんげ田がまもなく鋤かれて、代かきがはじまり、たちまち水田に化してしまう。
 追っかけて田植がはじまる。どこの耕地にも、頓智のいいのがいて、植えている最中にも、おどけを言うと見え、どっと笑いがはじける。女衆のなかには、たまりかねて腰をのばし、のけぞって笑いこける者もある。夜は、蛍が家のなかまでゆらいでくる。更けてくると、蛙のこえで村中がいっぱいになる。
 「絵がお好きなのですね。いつも、こうして描いてらっしゃるの?」
 「忙しくって駄目さ。冬はひまにゃなるが、寒くなっちまって……」
 良は松本へ出かけるとかいうことであった。三枚橋で松本行きの乗合馬車を待ち合せるには、幅下から、矢原耕地をまわって、守衛の家の近くの田んぽ道をえらぶのが近道になる。いまからでは、今晩は松本泊りだろう。守衛は、そんなことを考え、パラソルが見えなくなるまで見送った。 

(安曇野)

 


 

 筑摩書房創立に参画し、『展望』編集長としても精力を傾け、文芸評論活動にも積極的に関わった臼井吉見の代表作は、新宿中村屋の創業者相馬愛蔵・良(黒光)夫妻の生涯を中心に、明治・大正・昭和に渡って安曇野に熱く絡まった人々の長編小説『安曇野』であるが、初めてそのペンを執ったのは59歳の時であった。以来、多くの病を得、中断を余儀なくされた時もあったが、68歳まで書き継ぎ、ようやく大作五巻を刊行することができた。この作品は昭和49年、谷崎潤一郎賞を受賞することになったのだが、生まれ故郷安曇野の田園風景に思いを馳せ、82年の生涯を閉じたのは昭和62年7月12日午前10時45分のことであった。



 

 自筆銘の「滾々汨々」を刻んだ臼井吉見の墓、吉見の没後わずか4か月足らずで後を追うように逝った妻あやも共に眠っている。墓石の大方はすり鉢状の斜面に沿って積み上がっているこの霊園の、のぼり切ったあたりのわずかな平地、墨彩色の山々が幾重にもズームアウトしていく遠景を前にして、芝生庭の塋域には、色とりどりの菫やベゴニアがいまこそ咲き時とばかりに咲き誇っている。
 故郷の南安曇野郡三田村(現・安曇野市)の田圃という田圃は紅紫色のれんげ草で埋め尽くされて、土筆やわらびなどの山菜も顔を出し、もう鬼つつじも咲いていることだろう。ピラミッドのように端正な、あの常念岳の残雪はもう消えてしまったろうか。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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