内田百閒 うちだ・ひゃっけん(1889—1971)


 

本名=内田榮造(うちだ・えいぞう)
明治22年5月29日—昭和46年4月20日 
享年81歳(覚絃院殿随翁栄道居士)❖木蓮忌 
東京都中野区上高田4丁目9–8 金剛寺(曹洞宗)
岡山県岡山市中区国富2-29 安住院(真言宗)



小説家・随筆家。岡山県生。東京帝国大学卒。明治44年夏目漱石の門下に入り、大正11年処女作品集『冥途』を刊行、注目された。その後はしばらく沈黙していたが、昭和8年随筆集『百鬼園随筆』、25年小説『特別阿房列車』を書く。独特な味わいの随筆を得意とした。『鶴』『贋作吾輩は猫である』などがある。



金剛寺の墓

 岡山県・安住院の墓


 

 「お父様」と私は泣きながら呼んだ。
 けれども私の聲は向うへ通じなかったらしい。みんなが静かに起ち上がって、外へ出て行った。
 「さうだ、矢っ張りさうだ」と思って、私はその後を追うはうとした。けれどもその一連れは、もうそのあたりに居なかった。
 そこいらを、うろうろ探してゐる内に、その連れの立つ時、「そろそろまた行かうか」と云った父らしい人の聲が、私の耳に浮いて出た。私は、その聲を、もうさっきに聞いてゐたのである。
 月も星も見えない、空明りさへない暗闇の中に、土手の上だけ、ぼうと薄白い明りが流れてゐる。さっきの一連れが、何時の間にか土手に上って、その白んだ中を、ぼんやりした尾を引く様に行くのが見えた。私は、その中の父を、今一目見ようとしたけれども、もう四五人の姿がうるんだ様に溶け合ってゐて、どれが父だか、解らなかった。
 私は涙のこぼれ落ちる目を伏せた。黒い土手の腹に、私の姿がカンテラの光りの影になって大きく映ってゐる。私はその影を眺めながら、長い間泣いてゐた。それから土手を後にして、暗い畑の道へ帰って来た。
                                                        
(冥 途)

 


 

 黒澤明監督の遺作映画『まあだだよ』は、内田百閒の大学時代の教え子たちとの交流を様々なエピソードとともにコミカルに描いた。門下生たちとの集い「摩阿陀会」での、なかなか死なない百閒との「まあだかい?」「まあだだよ」の応答がいい。
 わがままで偏屈ながらいたずらっ気とユーモアがあった百閒の文学には贅沢さもあった。それは目的よりその行程を楽しむことに本質をもとめる態度にあると云われているが、漱石の門下として、その作品は師の影響を最も強く受けていた。
 「百鬼園」の別号を持つ内田文学の真骨頂、夢幻と滑稽は、昭和46年4月20日午後5時20分、東京・麹町の自宅で老衰により逝去するまで、多くの作品群にちりばめられていったのだ。


 

 西武新宿線新井薬師駅と中井駅のちょうど中間、妙正寺川の段丘にある金剛寺。狭い領域に多くの寺が集まっており、道を挟んだ向かい側は林芙美子や吉良上野介の墓がある万昌院功運寺。丘の上にあるこの寺のなお端っこに位置する墓地には、郷里岡山市中区国富の墓とは別に、昭和48年三回忌の折りに、「摩阿陀会」によって建てられた「内田榮造之墓」があった。
 右手前にある句碑には、〈木蓮や塀の外吹く俄風〉と刻まれている。
 板塔婆のさきには高台の空が展がり、近くを走る西武電車の警笛が揚々と聞こえてきた。鉄道紀行『阿房列車』シリーズなどの代表作があり〈目の中に汽車を入れて走らせても痛くない〉〉ほど鉄道好きの百閒にとってはたまらない警笛音ではなかろうか。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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