島木赤彦 しまき・あかひこ(1876—1926)


 

本名=久保田俊彦(しまき・あかひこ)
明治9年12月16日—大正15年3月27日 
享年49歳(俊明院道誉浄行赤彦居士)❖赤彦忌 
長野県諏訪郡下諏訪町北高木 久保田家墓地
 



歌人。長野県生。長野県尋常師範学校(現・信州大学)卒。教職の傍ら短歌に励む。大正3年上京、斎藤茂吉に代わって『アララギ』の編集責任者となる。多くの門人を育成、写生短歌を広めた。歌集『馬鈴薯の花』『切火』『氷魚』『柿蔭集』などがある。







げんげんの花原めぐるいくすぢの水遠くあふ夕映も見ゆ       

妻も我も生きの心に疲れはてて朝けの床に眼ざめけるかも 

夕焼空焦げきはまれる下にして氷らんとする湖の静けさ       

わが家の池の底ひに冬久し沈める魚の動くことなし         

いくばくもあらぬ松葉を掃きにけり凍りて久しわが庭の土

土に落つる胡桃の皮はもろくしてあらはにまろぶ果さへ目に見つ

みずうみの氷は解けてなほ寒し三日月の影波にうつろふ 
                                 
山深く起き伏して思ふ口鬚の白くなるまで歌をよみにし 

みずうみの氷をわりて獲し魚を日ごとに食らふ命生きむため

魂はいづれの空に行くならん我に用なきことを思ひ居り

我が家の犬はいづこにゆきぬらむ今宵も思ひいでて眠れる 



 

 はじめは神経痛と思っていた病状もほどなくして胃がんであると知ることになったのだが、重症の床にあっても赤彦の強靱な真実の意志は作歌的生活を止めることもなく、大正15年3月27日午前9時45分、ついには遠い眠りについた。
 最期を看取った盟友斎藤茂吉は述懐する。〈五十一歳で歿するといふことは決して長命とは謂えない。人も私も赤彦の長命をのぞみ、赤彦の病歿をひどく悲しんだものである。然るに、歿後はやくも十年の歳月が流れた。そしてその間生き残るものが皆不断の努力をつづけてゐるにも拘はらず、彼の到達したこの歌境には到達し得ずに彷徨してゐる有様である。かく全体から見るならば赤彦の死はもはや平凡な悲しみではない。彼は歌人として菩薩位に至ってゐた〉。



 

 急坂にあえぎながら辿り着いた島木赤彦の旧宅・柿蔭山房。樹齢300年の赤松がゆったりと枝を伸ばしている。
 わら屋根の下、赤彦臨終の間は薄暗く閉ざされて人影もなく、諏訪湖から上ってくる朝風が汗ばむ肌に心地よい涼やかさを恵んでくれた。夏草に覆われて道とはいえぬ畑道を歩きのぼってきた山房裏の山際にある久保田家の墓地。杉の木立に囲まれて木々の間から垣間見る湖は波静かに、時折季節はずれの鶯が啼いている。曇り空とはいえ夏の盛りの木漏れ日も容易に受けつけぬ暗鬱とした「島木赤彦墓」(平福百穂の筆刻)は湖に向かって幽然と時を鎮めて、妻「久保田不二子墓」(土屋文明筆刻)と並び建っている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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