渋沢秀雄 しぶさわ・ひでお(1892—1984)


 

本名=渋沢秀雄(しぶさわ・ひでお)
明治25年110月5日—昭和59年2月15日 
享年91歳(随心院仙遊秀頴大居士)
東京都台東区谷中7丁目五−24 谷中霊園乙11号2側 



実業家・随筆家・俳人。東京都生。東京帝国大学卒。渋沢栄一の四男。田園都市(のち東京電鉄)取締役として田園調布を開発。のち東宝会長、東映取締役を歴任。久保田万太郎主宰の「いとう句会」同人になったほか、随筆、評論でも知られた。俳号は渋亭。随筆に『父渋沢栄一』『明治は遠く』などがある。








 三月十日の未明に、私の次男は駿河台の病院で死んだ。ちょうど臨終のときニコライ堂の鐘が鳴り出した。私は終生あの悲しい音を忘れることは出来ない。枯れ葉子供の頃から頻発していた十二指腸潰瘍を直すために手術を受けたが、腹膜炎をおこしてしまった。
 次男は死ぬ前年の夏、箱根の芦の湖で一人の少女N子と知り合った。N子は東京へ帰ってからもよく次男に手紙をよこしたらしい。そして彼は最後の潰瘍をおこしたとき、彼女が見舞いにくれた鉢植えの紅いチューリップを大事に抱えて入院した。
 彼の死んだ翌日、N子から電話がかかってきた。私が電話口に出ると、受話器の中に若い女性の声が聞こえて、心配そうに次男の容体をたずねた。私はまだN子に会ったことはなかったが、その噂は聞いていた。そこで私が、〝N子さんですか〟ときくと、物静かな声で〝そうでございます〟と答えた。
私はこの少女に直接次男の死を伝えるのが無漸ムザンだったので、〝お母さまは〟とたずねたが留守だとの返事。そこで思い切って悲しい事実を告げた。とたんに私は通話の相手が打ちのめされたような気配を感じた。そして暫く受話器がシインと静まりかえっていたが、やがて忍びやかなススリ泣きが伝わってきた。私は愛児のために、電話室で泣きくずれてくれる可憐な少女の姿を想像しながら、頰を流れる涙を片手で拭いつづけた。
 後日次男の日記を見たら、彼がある日芦の湖畔で釣りをしていると、岸に近づいてきた小舟の中に優しい少女が乗っていた、というような文章が書きのこしてあった。そして別のページにこんな詩が写してあった。

 〝おもかげをわすれかねつつ/こころかなしきときは/ ひとりあゆみて/おもひを野に捨てよ/おもかげをわすれかねつつ/ こころ くるしきときは/ 風とともにあゆみて/ おもかげを風にあたへよ〟

(私の履歴書)


 

 28歳で田園都市を造る基本計画を練るため、欧米の住宅事情視察に出かけ、田園調布などの近代的な宅地開発を発案実行した実業家であった。昭和16年、愛息秀二を病で喪って悲しみに暮れたこともあった。終戦程なく田園調布の自宅は米軍に接収され、パージを受けてしまってからは実業の世界からは手を引き、60歳を境に趣味の世界に生きた。新聞社や雑誌社から依頼された随筆を書き、絵を描き長唄、三味線、小唄などを楽しんでいた。晩年は4、5回の入退院を繰り返していたが、昭和59年2月15日夕刻、手洗い中に倒れるも家族の救出が手間取り、救急隊員の人工呼吸も空しく心筋梗塞のため午後4時50分、欅雨荘と名付けた田園調布の自宅で91歳の天寿を全うした。





 

 谷中霊園にある広大な渋沢家墓所は近年整地され、公園のような趣になっている。「青淵澁澤榮一墓」の背後東側に石柵で区画された渋沢一族の墓域があり、その北奥の緑陰の中に昭和59年5月に妻こと子が建てた墓、「澁澤秀雄/室こと子/墓」がある。生前、戯れに「回顧院殿過去反芻居士」なる戒名をつけたというが、ここには「随心院仙遊秀頴大居士」とある。右前には若くして亡くなった愛息秀二の墓。何十年ぶりかという寒さ格別の年の2月、粉雪の降りしきる夕刻、「老いといふものの静けさ夕月夜」の句を残して死んだ秀雄は、父と同じく遊蕩の血も受け継いだが、享年91歳、偶然にも畏父栄一と重なる享年だった。陰鬱な墓域、弱々しい斜光が射す墓碑の頭に、痩せ枯れて倒れた樹木が一本寄りかかっていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


    椎名麟三

    志賀直哉

    重兼芳子

    獅子文六

    柴木皎良

    芝木好子

    柴田錬三郎

    芝 不器男

    司馬遼太郎

    澁澤龍彦

    渋沢秀雄

    島尾敏雄

    島木赤彦

    島木健作

    島崎藤村

    島田清次郎

    島村抱月

    清水 昶

    清水澄子

    子母沢 寛

    下村湖人

    庄野潤三

    白井喬二

    素木しづ

    白洲正子

    白鳥省吾

    新村 出